初めてのお遍路 |
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≪苦しみの焼山寺みち出会い道≫ | ||
十一番札所藤井寺から十二番札所焼山寺に至る |
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(JR利用)徳島駅→鴨島駅 (タクシー利用)鴨島駅→藤井寺 (焼山寺遍路道)藤井寺→長戸庵→柳水庵→一本杉庵→焼山寺 (乗用車)焼山寺→寄井 (バス利用)寄井→徳島駅前 |
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≪長戸庵を目指して≫ |
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遍路標識 | 八十八箇所ミニ版 | 道端に並ぶ札所の祠 |
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十二番奥之院 | 最初の遍路ころがし | またまたポスト発見 |
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端山休憩所 | 休憩所からの眺め | 道端の水飲み場 |
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番外霊場 長戸庵 (ちょうどあん) |
「長戸庵」は、弘法大師が焼山寺の山に登るときに、ここで休息されたところだという。 |
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長戸庵 |
長戸庵から柳水庵へ向かう |
吉野川の眺望 |
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番外霊場 柳水庵 (りゅうすいあん) | |
本尊 弘法大師(伝弘法大師作) 開基 弘法大師 所在 名西郡神山町阿野字松尾 |
弘法大師がこの地で休息されたとき、付近に水がないので、柳の枝を採って加持されると清水が湧き出してきたので、一宇を建立し尊像を刻まれ安置されたという。山中三里間の難所に欠くことのできない恵水の霊地である。 |
本堂 | 御朱印 |
「柳水庵」では『武闘派氏』『若衆君』『パソコン君』の三人が休憩中であった。 |
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柳水庵の六地蔵 |
柳水庵の遍路標識 |
一本杉庵へ続く杉の木立 |
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番外霊場 一本杉一宿山 浄蓮庵 (いっぽんすぎ いっしゅくざん じょうれんあん) |
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本尊 阿弥陀如来 開基 所在 名西郡神山町下分字左右内 |
弘法大師がこの地を通過されるとき、木の根を枕に仮眠された。夢の中に阿弥陀如来が現れたので、誓願をこめて尊像を刻み、堂宇を建立し安置された。そのときお手植えになった杉は、崇高霊気あふれる老大木となり、今もって通過する遍路に感動を与えている。大正15年、京都市の篤志家河地幾太郎氏が施主となり、42段の石階段をつくり、厄除大師大銅像を建立安置した。 |
一本杉と厄除大師像 | 御朱印 |
「一本杉庵」では地元の方であろう、三人で大師像や堂宇のまわりの清掃をされていた。本堂の左手には宿坊らしき建物があり、お話を伺うと、以前はここにも管理される方が住まわれていたそうである。 |
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石段下から見上げた大師像 |
本堂 |
天然記念物 |
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左右内集落の眺望 |
きつい標識 |
やっとここまで |
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第十二番札所 摩盧山 焼山寺 (まろざん しょうさんじ) | |
本尊 虚空蔵菩薩(弘法大師) 開基 役の行者小角 宗派 真言宗高野派 所在 名西郡神山町下分字地中318 御詠歌 のちのよを おもへばくぎゃう しょうさんじ しでやさんづの なんじょありとも (のちの世を思えばくぎょう焼山寺死出や三途の難所ありとも) |
境内にある当寺の縁起には以下のように述べられている。 |
仁王門 | 御朱印 |
山門に続く石段を登りきると、何と『若衆君』と『パソコン君』に遭遇、私と入れ替わりに寺を出て行った。『やんちゃ坊や君』と『一期一会君』の姿は見えなかった。そういえば「鍋岩」に泊まると言っていたから、もう宿舎に向かったのかも知れない。 |
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本堂 |
大師堂(仮?) |
鐘楼 |
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番外霊場 杖杉庵 (じょうさんあん) |
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本尊 弘法大師 右衛門三郎霊跡 所在 名西郡神山町下分字地中 御詠歌 にんにくのしもとのちからつよくして やしゃもらせつもとりひしぐなり (忍辱のしもとの力つよくして夜叉も羅刹もとりひしぐなり) |
杖杉庵は四国遍路の祖といわれる(右)衛門三郎の終焉の地として知られる。 |
杖杉庵 | 御朱印 |
衛門三郎の遺骸は手厚く葬られ、三郎の通が墓標に立てられた。その杖から芽が出て大杉となり、杖杉と呼ばれるようになった。この杉は享保年間(1716〜35)に火を発して焼けてしまい、現在の杉はその後芽生えたものである。 |
弘法大師と衛門三郎 |
杖杉庵の物語を聞くにつけて、弘法大師が冷たいというか、意地悪というか、恐い存在に思われる。宗教家として本当に庶民から慕われていたのか、私には疑問に思えてならない。彼はむしろ宗教化の仮面をつけた政治家であったのではないか。司馬遼太郎の『空海の風景』を読むにつけても、何となく〈空海の冷たさ〉を感じてしまう。衛門三郎に対してでも、なぜ子どもを8人までも犠牲にする必要があるのか。これではまるで殺人鬼ではないか。また三郎を何故そこまで許そうとしないのか。親鸞のいう、善人ですら極楽往生する、いわんや悪人においてをや、という思想が空海には無かったのか。彼は自分に敵対する者を決して許さず、完膚なきまで叩きのめす、そんなところがあったのではないか。 |