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初めての遍路の先頭

初めてのお遍路
≪第2回≫
12〜17番札所



  初めてのお遍路 第2回 〈 2006.8.29 〜 8.31 〉 (その1)
8.29  第12番 焼山寺
8.30  第13番 大日寺
8.31  第14番 常楽寺  第15番 国分寺  第16番 観音寺
 第17番 井戸寺


  ≪苦しみの焼山寺みち出会い道≫

 今回の旅は吉野川に別れを告げ、最初の難所といわれる〈焼山寺みち〉に挑戦する。どこまで体力が維持できるか、いささか心配ではあるが…。


十一番札所藤井寺から十二番札所焼山寺に至る

     (JR利用)徳島駅→鴨島駅 (タクシー利用)鴨島駅→藤井寺
     (焼山寺遍路道)藤井寺→長戸庵→柳水庵→一本杉庵→焼山寺
     (乗用車)焼山寺→寄井 (バス利用)寄井→徳島駅前



≪長戸庵を目指して≫

 昨日、例によって和歌山港からフェリーで徳島に入り一泊、今朝の徳島発6時過ぎの列車でJR鴨島駅に到着、少しもったいないが体力を消耗しないために、十二番藤井寺までタクシーに乗車する。
 藤井寺の境内をもう一度のんびりと散策し、気合を入れ直し、いよいよ「焼山寺みち」に分け入ることとする。時刻は7時15分。
 「焼山寺みち」の入口に遍路標識があり、それによると『健脚5時間、平均6時間、弱足8時間』となっている。健脚の5時間はまず無理としても、せめて平均6時間台でクリアしたいものだ。


遍路標識

八十八箇所ミニ版

道端に並ぶ札所の祠


 藤井寺には四国八十八箇所霊場のミニセットがある。「焼山寺みち」を登り始めると、右側に霊場に擬した祠が続いている。時間があればこのミニセットを廻ってみるのも面白いかも知れない。まだ坂はゆるやかだ。けれども蚊が多い。油断するとすぐ手首のまわりに吸い付いてくる(このドラキュラ野郎め!)。
 少し行くと道端に十二番奥の院があり、大日如来像が祀られている。なんとなくありがたみに欠ける感じがする。
 さらに進み、いよいよ最初の「遍路ころがし」に差しかかる。このコースは、山を二つ越え、三つ目の山に焼山寺がある。山の登り下りが結構きつい様子だ。最初だけに少しペースを抑えて登り始めるが、こは如何に。ものの2、30メートルも登ると息がはずむ。これしきの坂でそんな馬鹿なと思っても、はずむ息は止まらない。仕方なく、腰をおろして小休止、息を整えて再出発。こんな事をやっていると日が暮れそう。オリエンテーリングなどで山の中を歩きまくっていたのだが、よくよく考えればすでに30年以上以前のこと。身の衰えを痛感する。〈さのみ年経ぬ身なれども。衰えは老蘇の森を過ぐるや美濃尾張〉などと『盛久』の一節をもごもごと口ずさむ。
 何とか最初の「遍路ころがし」を過ぎると林道に出る。遍路道は林道を横切って次の山へと入るのだが、林道の手前に簡易休憩所(木製のベンチ)がある。やれやれとリュックを下ろし、ふと見ると道端にオリエンテーリングのポストが立っている。一息入れて出発する。


十二番奥之院

最初の遍路ころがし

またまたポスト発見


 林道から少し登ると眺望の開けた場所に出た。立ち止まって眺めていると、後ろからおばあさんがひとり登って来られた。話を伺うと、この上にある「端山(はばやま)休憩所」までウォーキングをされるそうだ。四方山話をしながら「端山休憩所」までご一緒する。この後「柳水庵」まではそんなにキツいところはありませんからね、と引き返して行かれた。
 「端山休憩所」はビューポイントとなっており、いくぶん靄がかかっているが、みはるかす吉野川中流の眺めはなかなかのものがある。


端山休憩所

休憩所からの眺め

道端の水飲み場


 「端山休憩所」での小休止を終えて再び山中に分け入る。登り道にさしかかりひと息入れていると、後ろから登ってくる人に追い付かれた。まだ若い。二十歳代後半かな、時代劇の前髪を結うと似合いそうな好青年である。内緒で『若衆君』と呼ぶことにした。挨拶をして先に行ってもらう。
 なだらかなアップダウンの山道が続き、道のほとりに「水飲み場」があった。本当に飲めるのかどうか。心配だったので口を潤すにとどめる。しばらく行くとまた後ろから、空手か拳法か、稽古着の三十台くらいの方に追い付かれる。「若いのが上がって行きましたか」「つい今しがた先に行かれましたよ」と、これも先へ行ってもらう。『武闘派氏』と名付ける。
 追い抜かれ、追い抜かれして、何とか番外霊場「長戸庵」にたどり着いたのは9時過ぎ。藤井寺から3.4キロの距離、ちょっと時間をくったなぁ。



 番外霊場 長戸庵 (ちょうどあん)

 「長戸庵」は、弘法大師が焼山寺の山に登るときに、ここで休息されたところだという。
 大師を祀るお堂があり、一息入れるのに「ちょうど塩」梅(あんばい)良きところ、との意という。


長戸庵

長戸庵から柳水庵へ向かう

吉野川の眺望


 「長戸庵」には先ほど追い抜いていった『武闘派氏』と『若衆君』の両名が休憩していた。「お待たせしました」とリュックを下ろし大休止に突入する。
 『武闘派氏』はこのあたりに詳しい様子で、どうも時間がかかりそうだと私が歎くと、このペースでここまで来れれば、7時間もかからずに焼山寺に着きますよと慰めてくれた。敬老精神の旺盛な方である。お二人は相前後して「お先に」と出発された。
 お堂にお参りし写真撮影を行い、ベンチで足を延ばしていると、またひとり到着された。「リュックが重くて大変」とのこと、何故かと尋ねるとパソコンをしょって来ており、自身のブログの更新などを毎日行っているそうだ。実はわたしも自分のサイトを作ってましてとURLをご紹介。どこかで追い抜いてくださいとお先に出発する。彼は『パソコン君』と命名しよう(このサイトをご覧の節はお許しください)。


≪柳水庵から一本杉庵、そして焼山寺へ≫

 「長戸庵」からは少し下り坂が続く。しばらく行くと北に向かって山が開けたビューポイントがある。先ほどの「端山休憩所」と同様、靄がかっておりよくわからないが、四国三郎の流れの北岸に、十番札所などが望めるのだろうか。
 馬琴の名調子を借りて『南総里見八犬伝』調で記述すれば「足下(あしもと)遠く、雲近く、照る日烈しく堪へがたき、ころは葉月廿九日、きのふもけふも乾蒸(からむし)の、炎熱(ほてり)をわたる遍路道は、凹凸(うねり)隙なく波濤(なみ)に似て下には大河滔々(たうたう)たる、ここに生死の海にいる、溯(ながれ)は名に負ふ四国三郎」といったところか。
 ビューポイントを過ぎるとまた登りの急坂になる。登りになると息があがる。子どものころ読んだ高垣眸の「まぼろし城」で、主人公の幕府隠密が助けた少年に歩き方を手ほどきするのだが、吸った息を二度に分けて吐くと息切れをせず速く歩けると、言っていたシーンがあったな、という記憶が、何の脈絡もなくふっと湧き上がってきた。本当かどうか判らぬがやってみるかと、スーと吸ってハッハッと吐く、どうもあまり効果は期待できそうにない。まあ焦らずにと休み休み歩いていると、後ろから『パソコン君』が追い着き、追い抜いて行った。
 第二の「遍路ころがし」を何とかしのぐと、ゆるやかな下りから急な下り坂。滑って転びそうな坂を一歩一歩足を踏みしめて下る。下方に家の屋根が見える。「柳水庵」に着いたのだ。



 番外霊場 柳水庵 (りゅうすいあん)
  本尊   弘法大師(伝弘法大師作)
  開基   弘法大師
  所在   名西郡神山町阿野字松尾

 弘法大師がこの地で休息されたとき、付近に水がないので、柳の枝を採って加持されると清水が湧き出してきたので、一宇を建立し尊像を刻まれ安置されたという。山中三里間の難所に欠くことのできない恵水の霊地である。
 宿舎もあり以前は宿泊もできたが、現在は無人となっている。納経は焼山寺で受付けている。



本堂

御朱印

 「柳水庵」では『武闘派氏』『若衆君』『パソコン君』の三人が休憩中であった。
 『武闘派氏』『若衆君』はしばらくしてスタート、『パソコン君』もややあって出発する。ここで空になったペットボトルに水を補給する。あと焼山寺まで水の補給場所はない。11時過ぎだったが、汽車の中で朝食にパン1個しか食べていなかったので、パンを1個昼食として補給する。あとは「一本杉庵」で食べることとする。
 大休止を終えてスタート、「一本杉庵」までは2キロ強、「遍路ころがし」の急坂もあるようだが1時間ちょっとで着けるだろう。この地点が十二番藤井寺と十三番焼山寺の中間ポイントのようだ。


柳水庵の六地蔵

柳水庵の遍路標識

一本杉庵へ続く杉の木立


 「柳水庵」から舗装された坂道を下り県道245号線に出る。「長戸庵」「柳水庵」「一本杉庵」は吉野川市と神山町との境界の山頂にあり、これらを繋ぐ道は山の尾根づたいに通っているようだ。県道からまた登りの遍路道に分け入った。やや広いでこぼこ道の林道を登っていると、前方から逆打ちのお遍路さんと遭遇、ちょっと一枚記念にと写真を撮られた。
 さらに進むと林道と交差する。「一本杉庵」まで0.9キロの遍路標識がある。ここからまたまた「遍路ころがし」の急坂となる。標高差約250メートル、つづら折りの登り道が続いている。馴れてきたせいか最初のころのような息切れはあまりなくなったが、今度は足が上がらない。息があがらなくなると足も上がらないなんて、洒落にもならぬ。杉の木立をぬって例によって休み休み登る。誰もいないはずの前方の山中から、何となくざわめきが漏れ聞こえてくる。「空山人を見ず、ただ人語の響きを聞く」、そんな心境ではないのだが…。
 急坂を少し登ると、ざわめきの正体が判明した。20人ほどの方々が、道のほとりに腰をおろして食事をしておられた。遍路道の補修をされているようだ。皆さんボランティアの団体らしい。お礼を言いながら通り過ぎる。もうちょっと行くと、でっかいお大師さんが迎えてくれますよ、の励ましに送られながら…。
 登れど登れどなかなか「一本杉庵」は見えてこない。0.9キロの標識はほんまかいなと、心の中でぶつぶつ言っていると、石柱が見えてきた。石段がある。やっと「一本杉庵」にたどり着いたらしい。けれど、この1キロ弱は本当にきつかった。



 番外霊場 一本杉一宿山 浄蓮庵
         (いっぽんすぎ いっしゅくざん じょうれんあん)
  本尊   阿弥陀如来
  開基   
  所在   名西郡神山町下分字左右内

 弘法大師がこの地を通過されるとき、木の根を枕に仮眠された。夢の中に阿弥陀如来が現れたので、誓願をこめて尊像を刻み、堂宇を建立し安置された。そのときお手植えになった杉は、崇高霊気あふれる老大木となり、今もって通過する遍路に感動を与えている。大正15年、京都市の篤志家河地幾太郎氏が施主となり、42段の石階段をつくり、厄除大師大銅像を建立安置した。
 「柳水庵」同様、現在は無人となっており、納経は焼山寺で受付けている。
 この杉の大木は「左右内の一本杉」として、徳島県の天然記念物に指定されている。



一本杉と厄除大師像

御朱印

 「一本杉庵」では地元の方であろう、三人で大師像や堂宇のまわりの清掃をされていた。本堂の左手には宿坊らしき建物があり、お話を伺うと、以前はここにも管理される方が住まわれていたそうである。
 「柳水庵」を先発した三人はすでに発ったのだろう、姿が見えない。ここで会えるかと期待していたが少しがっかりした。時間は12時半、昼食の残りのパンを流しこむ。


石段下から見上げた大師像

本堂

天然記念物


 大休止を終えて出発。ここから焼山寺まで4.3キロ、最後のひとふんばりである。出発してしばらくはかなり険しい下り坂が続く。足にまかせてどんどん下るが結構足にこたえそうだ。民家の屋根が近づき、スダチ畑の横を通り、広い舗装道が見えてくる。左右内(そうち)の集落だ。
 舗装道路に出ると、うれしいことに『武闘派氏』と『パソコン君』がいる。それと初めて出会った若者二人。わいわいがやがや、にぎやかに休憩されていた。若者二人組のひとりは、北海道から来たという二十歳の青年、人見知りをせずよく話してくれるのはよいのだが、私のことを「おとうさん」と呼ぶのにはいささか参った。彼は『やんちゃ坊や君』と呼ぼう。もう一人は比較的無口な二十台後半の青年、こういう他人との出会いが楽しいらしく盛んに「一期一会」をくり返す。それならば『一期一会君』がよいだろう。
 『武闘派氏』は修行のため藤井寺からこの地点までを何度も往復しているそうで、「焼山寺までゆっくり歩いても2時間あれば充分行けますよ」と、もとの道を引き返して行った。『パソコン君』もしばらくして先に出発していった。あとの二人は、共通語表現で表記すると「君たち先に行って呉れ給え、僕は後からゆっくり行くからね」と言っても(クイズ:私は実際にはどう言ったのでしょうか?)、一緒に行こうと待っていてくれる。そんならしゃーないなと一緒にスタートした。


左右内集落の眺望

きつい標識

やっとここまで


 左右内谷川を渡ると最後の「遍路ころがし」だ。この地点の標高は400メートル、長戸庵とあまり変わらない。焼山寺の標高は700メートル、300メートルをかけ上がるのか…。「これからが一番苦しい頑張ろう」の遍路標識を後にして、遍路道を登りはじめる。盛んに一緒にという若者二人には悪いが先に行ってもらい(何かあったら電話して、必ず帰ってくるから、と『やんちゃ坊や君』。いい青年だ。それとも当方があまりに頼りなさげなのだろうか?)、後ろからゆっくり進むこととする。ちょっとリュックや菅笠を直していると、もう二人の姿は見えなくなっていた。しばらく登ると前方からご夫婦だろう、二人連れが下りてくる。どちらから来られました? 大阪から。私たちもこの前まで大阪に住んでました。一休みしながら話を伺うと、定年を迎えたのと家のあとを継がねばならぬので、今年徳島へ帰ってきたとのこと。大阪ですか、なつかしいですねぇ、とお別れした。

 この山に分け入ってからずっとそうだったのだが、よく虻にまとわりつかれる。顔のまわりをブーンブンと煩わしい。最初は蚊に吸われ次には虻に噛まれるとは。「蚊と虻にさいなまれいる遍路かな」(何となく子規のいう写実の精神に則っている感じがするが、まだ俳句にはほど遠いかな)。さて虻だが、虻退治の超ウルトラ技を考案した。右手に持った金剛杖を矢車のように前後左右に振り回すのである。これではわからんと申される御仁は、映画『ハリー・ポッター4』におけるダームストラング校の入場行進を思い出していただきたい。名付けて『風車の弥七流』虻退治の秘技。そういえば「水戸黄門」の常連、中谷一郎は亡くなり風車の弥七もいなくなって久しいなー。それに比べて由美かおるの「かげろうお銀」の生命の長いこと。いつまでもあでやかな姿を見せてほしいものだ(最近では入浴シーンはなくなったのかな?)。疲労が高じてくると、何かしら妄想のようなものが頭を過ぎるようだ。

 挙がらぬ足をどうにかひっぱりあげて、遍路道から広い林道に出る。あと1キロの標識、もう少しだ。石と木材でできたベンチがあり、ここで小休止とする。標識としては「頑張れ」などの励ましの言葉より、距離とか坂の勾配などの具体的な情報のほうがありがたい。うれしいことにここからはなだらかな道が続き、500メートルほどで焼山寺の駐車場、参道へたどり着く。一本杉庵から焼山寺へは最後の約1.5キロほどの「遍路ころがし」が勝負のようだ。なおこの「遍路ころがし」の途中に水飲み場があるように地図には描かれているが、発見できなかった。焼山寺近くの水飲み場は参道の右手にある。ともかく焼山寺に到着、3時半ころであった(ちょっとかかり過ぎたな…)。



 第十二番札所 摩盧山 焼山寺 (まろざん しょうさんじ)
  本尊   虚空蔵菩薩(弘法大師)
  開基   役の行者小角
  宗派   真言宗高野派
  所在   名西郡神山町下分字地中318

  御詠歌  のちのよを おもへばくぎゃう しょうさんじ
       しでやさんづの なんじょありとも
       (のちの世を思えばくぎょう焼山寺死出や三途の難所ありとも)

 境内にある当寺の縁起には以下のように述べられている。

 その昔、この山一帯は毒蛇の棲む魔域で、しばしば大雨を降らし、或いは大風を起こし、また諸作物を害するなど災いをなし、附近の人民を虐げていた。大師はかかる魔境こそ仏法鎮護の霊域とすべきであると山を登られた。大師の開創を恐れた魔性共は全山を火炎として聖者の行を阻み妨げたが、大師は恐れず印を契んで敢然と登られるや、不思議と劫火は見る見る消え衰え、大師の法力により天変地異あとを絶ち、楽土と甦った。
 そこで山中に一宇を建立して、焼け山の寺と名づけ給うた。故に山号を摩盧山と呼んだ。摩盧とは梵語で水輪の意、すなわち火伏せに因んだ山号である。
 今もなお、山上に毒蛇を封じたと称せられる岩窟があり、その岩頭に三面大黒天を刻んで建立したと伝えられ、三面大黒天は現在、寺内に安置せられている。

 鐘についてもその由来として以下の記述がある。

 本寺の鐘は松平阿波守忠英公(ただてる・蜂須賀三代目藩主)が大檀那となられ、慶安2年(1649)に寄進されたものである。
 当時蜂須賀公は二つの鐘を造り、一つを本寺に、いま一つを現徳島市内の某寺に寄進された。本寺の鐘は撞けば殷々たる響きは徳島市内にまで届いたという。あと一つの市内の鐘は少しもよい音を出さず、公は人を遣わして本寺の鐘と替えたいともうされたという。然し鐘は「いなーん、いなーん」と鳴ってそれは果たされなかったという。
 昭和16年大東亜戦争の供出の命くだり、青年多数によって山麓まで運ばれ馬車に積んだが、馬にわかに腹痛を訴えもだえ苦しんだ。馬子は遂にを鐘を運ぶことを断念して他の器物を運んだ。
 かくして戦争は終り、県文化財として指定を受け、別の場所に保存し、今は二代目の鐘が響いている。




仁王門

御朱印

 山門に続く石段を登りきると、何と『若衆君』と『パソコン君』に遭遇、私と入れ替わりに寺を出て行った。『やんちゃ坊や君』と『一期一会君』の姿は見えなかった。そういえば「鍋岩」に泊まると言っていたから、もう宿舎に向かったのかも知れない。
 例によって、本堂、太子堂とお参りをする。太子堂は本来本堂の右手にあったようだが、現在そこは工事中で、納経所の隣になっていた。
 納経所でご朱印を頂戴する。この時ちょっとしたトラブルがあった。私は八十八箇所の納経帳(各札所の挿絵、御詠歌入りのもの)と、すべての参詣した寺での納経ができるようにと白地のフリーのご朱印帳の2冊に納経をお願いしている。それと「霊場会用」と呼ばれている1枚ものの半紙大の紙に朱印を押印したものを頂戴している。今まですべての札所でこの3通りの朱印をいただいていたのだが、焼山寺では同一の種類のものは1通しか納経できないと、1枚ものの「霊場会用」の朱印の交付を拒否された。今までどの札所でも頂戴したと言うと、担当では分からないのでと、事務所の奥へ伺いをたててくださったが、奥から若いお坊さんが現れ交付できないと再度拒否される。その御坊は何やら喧嘩腰のようなもの言いで、何に使うのか、何のためかなどとひつこく尋ねてくる。当方、駄目であれば無理にとは言いません、ただ今までどの札所でもいただけたので、と言ってもそれには答えず、何やらややこしい理屈をこねだした。こちとら、坊主と議論するほど馬鹿じゃない、というより、この旅では口論に類することは一切避けたいと思っている。そうですか、それでは仕方ありませんねと引き下がった。駄目なら駄目でも構わないが、1ヶ寺だけでなく、全札所で統一してほしいものだ。
 納経所の方はご希望に添えたらとよいのにと言ってくださっていたのだが、寺の方針とあれば仕方がない。いささか不愉快ではあったが、あきらめた。納経所の方に徳島市内への帰路などをお聞きしていると、ちょうどそこへ来られた三人組のご婦人(高知の土佐市から来られたとのこと)方が、車で参っているのでご一緒に、と誘ってくださった。本来の予定では、寄井まで出てそこからバスに乗ろうと考えていたが、そこはそれ、融通無碍というかチャランポランというか、一期一会の精神を大切にと思い、寄井のバス停までご一緒させていただくこととした。 with glad だぜー、Baby!


本堂

大師堂(仮?)

鐘楼


 ただ焼山寺から2キロほど下ったところに「杖杉庵」がある。これはぜひ参りたいので、明朝もう一度「杖杉庵」へ来て、寄井まで出ることとしよう。
 最初に掲げた地図では、焼山寺からのルートが鍋岩地区を経て阿野へ行くようになっているが、私の通ったのは鍋岩から南下して、寄井→鬼籠野→広野と進むルートである。
 したがって「杖杉庵」の記録は明日の記事となるべきだが、便宜上ここにまとめることとした。



 番外霊場 杖杉庵 (じょうさんあん)
  本尊   弘法大師
       右衛門三郎霊跡
  所在   名西郡神山町下分字地中

  御詠歌  にんにくのしもとのちからつよくして
       やしゃもらせつもとりひしぐなり
       (忍辱のしもとの力つよくして夜叉も羅刹もとりひしぐなり)

 杖杉庵は四国遍路の祖といわれる(右)衛門三郎の終焉の地として知られる。
 伊予国荏原の長者衛門三郎は強欲で信仰心のない男だった。ある日追い返しても門前に立ち続ける托鉢僧に暴力を振い、鉄鉢を割ってしまう。翌日から僧は現れなくなったが、八人の子どもが立て続けに亡くなる。托鉢僧は弘法大師であった。三郎は過ちを認めて謝罪の旅に出る。これが遍路の起源といわれる。
 しかし、大師には会えない。逆にまわれば、と21回目の旅に出るが寿命は尽き十二番焼山寺の途上で倒れる。すると大師が現れ罪を許す。領主の世継ぎに生まれ変わり善政を成したいという三郎の望みを聞いた大師は小石に「鉢塚右衛門三郎」と書き、三郎に握らせて看取る。翌年、国主河野左衛門介息利の子に小石を握った男児が生まれたという。
 三郎の墓標が杖杉庵、屋敷跡が番外札所文殊院、握った小石が五十一番石手寺にある。



杖杉庵

御朱印

 衛門三郎の遺骸は手厚く葬られ、三郎の通が墓標に立てられた。その杖から芽が出て大杉となり、杖杉と呼ばれるようになった。この杉は享保年間(1716〜35)に火を発して焼けてしまい、現在の杉はその後芽生えたものである。




弘法大師と衛門三郎

 杖杉庵の物語を聞くにつけて、弘法大師が冷たいというか、意地悪というか、恐い存在に思われる。宗教家として本当に庶民から慕われていたのか、私には疑問に思えてならない。彼はむしろ宗教化の仮面をつけた政治家であったのではないか。司馬遼太郎の『空海の風景』を読むにつけても、何となく〈空海の冷たさ〉を感じてしまう。衛門三郎に対してでも、なぜ子どもを8人までも犠牲にする必要があるのか。これではまるで殺人鬼ではないか。また三郎を何故そこまで許そうとしないのか。親鸞のいう、善人ですら極楽往生する、いわんや悪人においてをや、という思想が空海には無かったのか。彼は自分に敵対する者を決して許さず、完膚なきまで叩きのめす、そんなところがあったのではないか。

 さて話を当日に戻すと、高知のご婦人方に国道438号線の寄井にある徳島バスのバス停まで送っていただき、待つ間ほどなく徳島駅行きのバスに乗車する。すると次の「寄井中」停留所から、焼山寺で別れた『パソコン君』と『若衆君』が乗り込んできた。お互い、まさかと再会に驚く。一同仲良く徳島駅まで行きそこで別れる。経済的な理由により宿は全て徳島駅前にした。したがって毎朝ポイント地点まで出かけてそこからスタートすることとなる。区切り打ちの、さらにミニ区切り打ちという、何とも奇妙なスタイルになってしまった。
 今日一日、いろんな人と出会いかつ別れた。かつてテレビゲームで一世を風靡した「ドラゴンクエスト」は出会いの旅、「ファイナルファンタジー」は別れの旅だといわれていたが…。はたして遍路は出会いの旅なのか、別れの旅なのか。いずれであろうか。
 明日はもう一度寄井まで行き、そこから再出発だ。今日は結構足にきたが、明日は平地だからまず大丈夫だろう。



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