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初めての遍路の先頭

初めてのお遍路
≪第2回≫
12〜17番札所



  初めてのお遍路 第2回 〈 2006.8.29 〜 8.31 〉 (その3)
8.29  第12番 焼山寺
8.30  第13番 大日寺
8.31  第14番 常楽寺  第15番 国分寺  第16番 観音寺
 第17番 井戸寺


  ≪五寺巡る秋の阿波路になみだ雨≫

 今日の予定としては、十三番からスタートし十七番までの阿波路をのんびりと旅し、番外の地蔵院から眉山を越える、いわゆる「地蔵越え」のルートで小松島市へ入る。うまく行けば十八番恩山寺に参り、徳島港から和歌山港を経て帰阪したいと考えている。
 天気予報は、晴れたり曇ったり、所により一時雨。降水確率は午前10%、午後20%。
 出発にあたり、きのう買ったビニール傘をどうしようかと迷った。荷物になるのでこのまま置き去りにしようか。何となく勿体ない。背中にくくりつけて歩こうか。番傘一本背負わされた、まるで破戒僧のようではないか。仕方ないから、手に持ってぶらぶらと行くことにした。右手に金剛杖、左手にビニール傘、歌の文句にもなりゃしない。


十三番札所大日寺から十七番札所井戸寺に至る

    (バス利用)徳島駅前→大日寺 大日寺→常楽寺→国分寺→観音寺→井戸寺→
    (バス利用)和田東→徳島駅前



≪十三番から十七番へ≫

 朝8時過ぎの市営バスに乗車、眉山の南側の八万町を回るというコースで、9時前に十三番大日寺に到着、いよいよ三日目のスタートである。この二日間は、山越えと雨中の長丁場と少々しんどい思いをしたが、今日は楽勝コースだろう。最後の眉山を越えれば、あとは無理をしないで行けるところまで行くこととしよう。

 大日寺の門前にある一宮神社に参拝しようとしていると、『やんちゃ坊や君』が出てきたのには驚かされた。連れの『一期一会君』とは別れたそうで、何か寂しそうである。昨日からの足取りなどしばらく話し合ったが、彼は十四番に向かって先に出発した。

 一宮神社の参拝を済ませ、十四番へは大日寺から遍路コースに沿って一宮橋を渡るのだが、手前に「一宮郵便局」があるので、まずここで郵便貯金をする。
 一宮橋を渡ってぶらぶらと遍路道を歩く。電柱にかわいい遍路標識があるのを発見する。道なりに行くと十四番常楽寺の創設になる「常楽園」があった。ここを左折すると常楽寺に到着する。
 この寺にはいわゆる仁王門はないようで、石柱のところを入ると、左手に石の階段が続く。石段をあがりきるとそこが境内になっていた。


鮎喰川に架かる一宮橋

かわいい標識


 第十四番札所 盛寿山 常楽寺 (せいじゅざん じょうらくじ)
  本尊   弥勒菩薩(伝弘法大師作)
  開基   弘法大師
  宗派   高野山真言宗
  所在   徳島市国府町延命606

  御詠歌  じゃうらくの きしにはいつか いたらまし
       くぜいのふねに のりおくれずば
       (常楽の岸にはいつか到らまし弘誓の船に乗りおくれずば)

 弘仁6年(815)、弘法大師がこの地で修行されているとき、弥勒菩薩を感得され、ただちに尊像を刻み堂宇を建立して安置した。そして「私が目をとじたならば必ず弥勒菩薩のおられる理想の世界に往生して、56億余年後に弥勒菩薩に従ってこの地に参り、私の歩いた跡をたどりたい」といわれたという。大師が弥勒菩薩を信仰されいてることは、高野山麓にある九度山慈尊院に本尊として安置されていることからもうかがい知れる。
 弥勒菩薩は56億7千万年後に、兜率天からこの世に下られ、釈迦の救いが得られなかった人々を救済するといわれている。なお、四国霊場で弥勒菩薩を祀っているのは唯一この寺だけである。
 後に、大師の弟子真然僧正は、常楽寺に金堂を建立し、祈親法師は講堂・三重塔・仁王門などを増築したが、天正の兵火で焼失し、万治2年(1659)に再建、文化15年(1818)に当地へ移建された。
  



常楽寺門柱

御朱印

 この寺には山門はないようだ。石段を登ると境内が広がっている。境内の特徴は「流水岩の庭園」と呼ばれる、歩きにくいほどの断層がある自然の大岩盤でできた庭園である。これはこの地に境内を移転する際に、山を切り崩し埋め立て、岩盤の奥に堂宇を建てたためにできたとされている。
 本堂に覆い被さるように枝を広げている「櫟(いちい)」の大木がある。大師が病に苦しむ一人の老人に持っていた霊木を削って飲ませたところ、たちまち病が治ったとので、同じ病に苦しむ人のためにと残った木を植えられたのが根付き、この大木になったといわれている。この木の枝別れしている所には小さい大師の石像が祀られている。櫟の木は別名「あららぎ」呼ばれるので、「あららぎ大師」として親しまれている。


 

 

 

本堂(上)と大師堂(下)

流水岩の庭園

あららぎ大師


 納経を終えて一休み、若者のお遍路さんが休んでいたが、入れ替わりに出発される。石段を下りたところを左手に行くと、奥の院「慈眼寺」への近道となっている。



 番外霊場 妙霊山 慈眼寺 (みょうれいざん じがんじ)
      (十四番奥之院)
  本尊   十一面観世音菩薩
  所在   徳島市国府町延命


 奥の院のご本尊は十一面観世音菩薩、別名子安観音といい安産祈願に訪れる人も多いらしい。
 ここには「生木地蔵」が祀られており、由来書きによると、

 当地蔵菩薩は、むかし越中国高岡の住人田中喜八が四国順拝当時に、通夜の砌大師が顕われ「本堂前の檜に地蔵尊を勧進せよ、祈願するものは必ず一願をかなへしめん」との夢告があり、即時斎戒沐浴してこれを彫刻して安置し、爾来祈願成就するもの跡を絶たなんだのである。
 然るに不幸にして昭和29年9月の台風の被害を受け、古檜は裂け倒れてしまったが、尊像のみは少しの瑕も無く原存して霊験は益々あらたかである。当時倒木片付けの際、霊威に触れて熱病におかされた者さえあったほどの霊験不思議な仏様である。



本堂

御朱印

 慈眼寺を出て十五番国分寺に向かう。日差しもきびしくなく、絶好の遍路日和というべきか。阿波路遍路の旅はのどかに、きのう、おとといとは大違い。
 国分寺への道すがら、何かよく分らないけれど興味をそそられるものがあった。
 ひとつは「八祖大師」のお堂。岩船地蔵尊がご本尊なのだろうか。道端に何ともきんきらきんの建物があり人目を惹く。「八祖大師」について調べてみると、密教を伝えた八人の祖師をいうとのこと。
 インドの龍猛菩薩は三世紀の初めバラモン教の教えと修行をとり入れて密教を成立したので第一の祖師。龍猛菩薩は、それを龍智菩薩に伝え、次に金剛智三蔵に伝えたのだが三蔵は自ら金剛頂経の密教を中国に伝え、不空三蔵とともに唐に伝播する。一方、善無畏三蔵は大日経を唐に伝え、これを一行阿闍梨に伝授。この二系統の密教を一身に受けついだのが長安青龍寺の恵果であり、これを授かったのが弘法大師である。以上のように三国、八人の正統なる祖師によって伝えられた故に、これを密教の八祖大師と称して真言宗の寺院にお祀りされている。正しくは「伝持の八祖」というそうである。
 もう一つは、国分寺の近くにある禅寺の「金龍山興禅寺」の門前の道端にあった「六地蔵板碑」。この板碑は青色の供養塔で、鎌倉時代から戦国時代にかけて造立されたものであるとのこと。興禅寺は国分寺のすぐ近くにありながら、立派な門構えで広い境内を持ちながら、札所ではない故かひっそりとたたずんでいるのが印象的であった。


八祖大師堂

金龍山興禅寺

六地蔵板碑


 第十五番札所 薬王山 国分寺 (やくおうざん こくあぶんじ)
  本尊   薬師菩薩(伝行基菩薩作)
  開基   行基菩薩
  宗派   曹洞宗
  所在   徳島市国府町矢野718−1

  御詠歌  うすくこく わけわけいろを そめぬれば
       るてんしゃうしの あきのもみじは
       (薄く濃くわけわけ色を染めぬれば流転生死の秋のもみじ葉)

 天平13年(741)聖武天皇の勅旨により国ごとに金光明四天王護国之寺(国分寺)と法華滅罪之尼寺(国分尼寺)の二寺が建立された。阿波は粟の国と長の国が合して阿波の国となり、国府は現在のJR国府(こう)駅附近に置かれ、国分寺は政治の中心から南へ1キロほどの矢野に建てられた。いまの本堂のあるところは、もと講堂であったという。
 ご本尊は行基菩薩作の薬師如来。建立当初は法相宗であったが、弘法大師が留錫して真言宗になり、その後寛保元年(1741)に吼山養師(くざんようし)和尚が堂宇を再建し、曹洞宗に改宗している。弘法大師が参籠して刻んだ烏瑟沙摩(うすさま)明王は一切の穢れをを清浄にすることから、寺で授けるお札は雪隠にまつるとよいそうである。
  



仁王門

御朱印


 山門を入ると正面に重厚な二層の本堂がある。境内右手には本堂跡の遺蹟があり、左手には創建当時の塔の心礎がある。
 阿波国分寺跡は徳島県の指定文化財となっており、その説明書きによると以下のようである。
 阿波国分寺跡は、昭和53年以降の発掘調査で、金堂から延びると想定される回廊跡や築地跡、寺域を画する溝などが確認されたことから、かつては西に塔を配し、金堂・講堂などが一直線に並ぶ東大寺式伽藍配置を有し、現国分寺を中心とした方2町(約218メートル四方)に及ぶ範囲に存在していたと考えられている。
 現在境内の隅に残る塔の心礎は、寺の南西側の「塔ノ本」の字名が残る水田の中から出たと伝えられるものであり、また周辺地域は、東門・西門・北門・坊などの字名が現在も残っている。


本堂

大師堂

創建時の塔の心礎


 国分寺から十六番観音寺までは2キロ弱。国分寺の裏側の長い白塀に沿った遍路道を進む。しばらく行き東向きに方向転換をし国道192号線に出る。ここで国道を越え、国道の東側の田んぼの中の小道を国道に沿って北上したのだが、国道の西側を歩いたほうが良かったのかも知れない。というのが、途中国道の西側(現在地の反対側)に「いのちのさと無料休憩所」を発見するが、少し引き返さねばならないので無視した。ということは、今歩いているのは正規の遍路道ではないのかも知れない。無料休憩所まで国道の東側を進み、休憩所のところで国道を渡るのがよいのかも。いずれにしても国分寺で十分休憩を取っているし、あと1キロほどの距離なので大勢には影響はない。
 東西に走る狭い道に突き当たるとすぐ右手に観音寺がある。道の両側には商店や民家が並ぶ。鄙びた町中のお寺との感がある。境内も広くない。道際に寄進額を彫り込んだ石柱が並び、境内と外界の境目としているのには始めてお目にかかった。


いのちのさと無料休憩所
案内板


 第十六番札所 光耀山 観音寺 (こうようざん かんのんじ)
  本尊   千手観世音菩薩(伝弘法大師作)
  開基   弘法大師
  宗派   高野山真言宗
  所在   徳島市国府町観音寺49−2

  御詠歌  わすれずも みちびきたまへ かんのんじ
       さいほうせかい みだのじゃうどへ
       (忘れずも導き給え観音寺西方世界弥陀の浄土へ)

 観音寺は天平13年(741)に聖武天皇の勅願道場として創建されたと伝えられている。弘仁7年(816)弘法大師が留錫し、ご本尊の千手観世音と脇士の不動明王・毘沙門天を刻まれ、それぞれ安置された。天正年間の兵火を被り寺は荒廃したが、万治2年(1659)に僧宥応が再興して旧観に復した。領主の蜂須賀氏は信仰が厚く、現在の堂宇はそのころ再建された。
 なお、第六十九番札所も観音寺である。(香川県観音寺市)




仁王門

御朱印


 山門を入ると、正面に本堂、右手が太子堂、右手奥に八幡神社、本堂左手が納経所になっているが、ともかく狭い。車で来られた数名の方と一緒になるが、それだけで境内が一杯になったような錯覚に陥る。
 本堂は最近建て替えたようで、ここだけがきらきらとして、周りの風情に馴染まない感がある。
 納経所へ行くとご夫婦の方が、白衣の襟のところに経文のようなものを刷りこんで貰っていた。あとで伺うと、お経の光明真言の梵字の木製の印版が二つあり、遍路の白衣の襟に押すことができるようだ。この印版は四国八十八箇所ではここだけにしかないとのこと。
 またこの寺には、赤ちゃんが夜泣きして困る時に、夜泣きを封じてもらう祈願をする「夜泣き地蔵」があったらしいのだが、よく判らず写真に収め損なってしまった。


本堂

大師堂

仏足跡


 観音寺と別れて十七番井戸寺に向かうのだが、寺の西方1キロばかりのところに「日開(ひがい)郵便局」がある。それほど遠回りでもないので、郵便貯金をしてから井戸寺に廻ることとする。そろそろ昼近くになってきたので、国道192号線のローソンでおにぎりを購入する。井戸寺でゆっくりといただくことにしよう。
 JR徳島線を越え県道206号線を北上して日開郵便局、そこから県道30号線を東行、井戸寺に到着した。寺の東隣りに「八幡神社」が鎮座している。かなり格式の高そうな社で境内も広い。井戸寺の正面に廻る、山門は寺院というよりはなにやら武家屋敷を連想させる造りであった。



 第十七番札所 瑠璃山 井戸寺 (るりざん いどじ)
  本尊   七仏薬師如来
  開基   天武天皇勅願
  宗派   真言宗善通寺派
  所在   徳島市国府町井戸北屋敷80−1

  御詠歌  おもかげを うつしてみれば いどのみず
       むすべばむねの あかやおちなむ
       (おもかげを映してみれば井戸の水むすべば胸の垢やおちなむ)

 井戸寺は、天武天皇の勅願により白鳳2年(674)に開基された。当時は妙照寺と呼ばれ8町四方の広大な境内と12坊を有する大寺であったという。本尊の七仏薬師如来坐像は聖徳太子の作、脇仏の日光・月光菩薩は行基菩薩の作と伝えられている。
 弘仁6年(815)弘法大師はこの地にとどまり、ご本尊を拝して修行され十一面観世音立像を刻まれて安置した。そしてこの地方の水が悪いのを憂いて、錫杖で井戸を掘られたら、清水がこんこんと湧いて大師のお姿を映された。そこでご自身の姿を石に刻まれた。「面影の井戸」というのも、井戸寺のいわれもここに由来するとのことである。
 貞治元年(1362)の細川頼之の兵乱で堂宇は焼失し、その子詮春が再建したものの、天正11年(1583)三好存保・長宗我部元親の戦いで焼かれ、万治4年(1661)蜂須賀家五代の光隆が建立したのが近年焼失した本堂である。




仁王門

御朱印



本堂

大師堂

日限大師堂


 本堂の内陣中央に3メートル近い薬師瑠璃光如来が安置され、その左右に3体ずつの薬師如来がならんでおり、都合7体の薬師如来が安坐している。いずれも元禄年間(1688〜1703)に京都で制作されたといわれている。


 本堂の手前左側にある日限(ひかぎり)大師堂の中に「面影の井戸」がある。大師が自分の杖で一夜にして掘ったといい、寺号の由来となっている伝説の井戸である。覗き込んで自分の姿が映れば無病息災、もし映らなかった場合は不幸が訪れるといわれている。そんな井戸を覗き込むのはごめんだ。「日限大師」とは、大師の刻まれた石の大師像に、1週間とか、3日とか日を限りその間毎日欠かさずお参りすると、その願いが必ずかなえられるといわれるところからその名が生まれたとのことである。
 納経所の左手に、土蔵造りの六角堂「大悲殿」には弘法大師作と伝えられる十一面観世音菩薩が奉安されている。十一面観世音は身の丈約190センチの榧の木の一本造りで、国宝に指定されている。


大悲殿


 納経を済ませ(じつはここで輪袈裟を購入した)、ベンチで一休みしながら少し遅めの昼食にとりかかろうとすると、パラパラと雨が落ちてきた。なんと午後の降水確率は20%なのに! まあそれでも一時雨には該当するのか…。少し物陰で雨宿りをしていたが、雨は止むどころかますます大粒になってくる。仕方なく山門の蔭でコンビにで調達したおにぎりをいただくことにした。
 さて今からどうしたものか。予定では国道192号線に出て鮎喰川を渡り、名東町にある地蔵院にお参りし、眉山を越えて八万町から小松島市へと抜けることにしていたのだが…。まあ、急ぐ旅でもなしもう少し様子をみよう。
 しばらく待っていたが、雨は依然として降り続き、雨脚も弱まりそうにはない。仕方なく出発することとした。朝、置き去りにしようかと思っていた傘が役に立ってくれて、ありがたい。田んぼの中の遍路道を黙々と歩き、JRの線路を越え国道に出る。国道沿いにしばらく行き、上鮎喰橋に出た。雨は結構烈しくなっており止む気配はない。橋の手前にバス停があり、15分ほどの待ち時間でバスがある。迷った末、一番安易な結論に到達する。今回はこれにて打ち止め。次回、地蔵院から参拝かることとしよう。バスで徳島駅から徳島港に出て、和歌山港を経て帰宅。けれども徳島だけでこんなに時間をかけていると、本当にいつになったら結願できるのだろう? その前に高知までゆけるのだろうか? 次回以降よほど気合を入れなくてはいけないなー!




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