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 気まぐれ紀行の先頭
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八重山紀行 2006. 4. 8 〜 4.10
     ≪与那国・西表3日間の旅 第一日≫

第一日
 関西空港⇒那覇空港⇒与那国空港
 与那国島観光(西地区、海底遺蹟)

第二日
 与那国島観光(東地区)
 与那国空港⇒石垣空港
 石垣島観光(鍾乳洞、川平湾)

第三日
 石垣港⇒西表島大原港
 西表島観光(仲間川クルーズ、由布島)
 西表島大原港⇒石垣港⇒石垣空港⇒那覇空港⇒関西空港



 「読売旅行からこんな案内が来てるわ」と家内が今回の「与那国・西表3日間の旅」の案内を見せてくれたのが、確か2月に入ってからだったと思います。3年ばかり前にも同じ読売旅行の企画で「チャーター便で行く利尻・礼文」に参加し、二人とも結構気に入っていましたので、今回も参加してもいいかな、との思いが家内にはあったのかも知れません。ただ、日程が合うかどうか。「3月一杯は仕事の関係であかんけど、4月になったらサンデー毎日やから行けると思うで」ということで、4月以降の日程を捜して、4月上旬のツアーの申し込みをいたしました。

 実は、与那国と聞いて最初に思い浮かんだのが「日本最西端の郵便局」。最初「日本最南端」の波照間島とごっちゃになり、与那国島と波照間島を取り違えて頭の中で西と南が揉み合う状態がしばらく続きました。ともかく「日本最西端の郵便局」で郵便貯金をし、風景印も押印してもらい…、そんなことが私にとっての最重要事項でありました。したがってできるだけウィークデーの多い日程を選んで申し込むよう、家内に依頼しておきました。
 3月下旬の職場での会話。
 「4月に沖縄へ行くねん」
 職場の若い女性「へぇーいいなー、沖縄のどのあたりですか」

 「確か与那国島だったかな。日本最西端の郵便局で貯金するねん」
 「何いうてはるんですか。与那国いうたら海底遺蹟が発見されたとこでしょう?」
 「……。」〈なんじゃ、それは!〉
 「いつだったかな、わりあい最近発見されて、一部にはムー大陸説もあるらしいんですよ」
 「与那国いうたら、そんなえらいとこだったん?」
 「そうですよ。みやげに海底遺蹟の写真を撮ってきてくださいね」
 知らぬこととはいえ、えらいところへ行くことになっていました。3月末に旅行社からツアーの詳細が到着。旅行日は8日〜10日の3日間。なんと、土曜から月曜にかけての日程です。おまけに与那国滞在は土日の二日。これでは折角の「日本最西端の郵便局」で郵便貯金をすることは不可能、最悪の日程です。どうも最初からついてないようです。3月末で退職。43年間の職場勤めからやっと開放され、一抹の寂しさとともに日を送ること1週間。4月8日の出発を迎えました。


 ☆ 第1日目《4月8日(土)》☆

《関西空港 → 那覇空港(経由)→ 与那国空港》


先島諸島(日本トランスオーシャン航空機内誌より)

 4月8日、朝9時40分の集合にあわせて出発、なんと娘が勤めを休んで空港まで車で送ってくれました(なんか高いものにつきそうです)。空港の出発ロビーで添乗員さんにお目にかかります。まだ若いお嬢さん、何となくツアーが楽しげに思えるのが不思議です。35名のツアー参加者全員が点呼が終り、搭乗券が配布されます。さすがに4月上旬の企画だけに、若者の姿はほとんどなく、むかし男、昔女といった有様です。出発は10時45分、若干の自由時間に昼食の弁当を購入し、搭乗口へと向います。
 10時45分のJAL2573便で那覇空港に飛び、そこからチャーター機で与那国空港に向かう予定ですが、機体整備の関係で15分ほど遅れての出発となってしまいました。
 私はどうも飛行機が苦手で、常にいつ落ちるのかという不安との戦いです。機内で食事をしたり、書物を読んだりで気を紛らわせながらの2時間少し、20分弱の遅れで那覇空港に無事到着しました。


関西空港 JAL2573便

那覇空港 琉球エアコミュータ便

与那国空港

 那覇空港から与那国空港へは琉球エアコミューターのチャーター便に乗換えです。那覇空港出発が13時15分となっていましたが、那覇空港到着が20分ほど遅れたため、乗り継ぎの時間がほとんどなく、添乗員嬢から搭乗券を貰いあわただしく与那国行きに乗換えます。年配者の多いツアーだけに、添乗員さん少しはらはらどきどきだったのではないでしょうか。
 チャーター便は30数名乗りの小型のプロペラ機(今回のツアーの人数は、このチャーター便の搭乗人数から割り出したものではないでしょうか)。落ちたときはプロペラの方がジェット機より安心だよ、とかなんとか、説明かたがた自分自身を落ち着かせます。那覇から与那国まで、すぐに着くのかと思っていると、なんと1時間15分ばかりのフライトでありました。風がかなり強いので機体が多少揺れますが、飛行の安全には影響ありませんとの機内の案内に、どうせ影響があっても無い言うだろうなどと毒づきます。飛行機嫌いは足が地に着いてないと、どうにも落ち着きがないようです。ともかく心配したほどの揺れもなく無事に南国情緒にあふれた与那国空港に到着。天気は上々ですが、確かに風はかなり強い。帽子が吹き飛ばされそうな状態でした。


《与那国島観光−その1》

 与那国島は日本の最西端に位置し、台湾まで111q、石垣島からは西へ127q。南北約5q、東西約10q、周囲約28qの島で、島内には海岸沿いに、祖納(そない)、九部良(くぶら)、比川(ひがわ)と三つの集落がある。人口は18年3月現在で、777世帯、1677人。絶海の孤島であるところから、古くは「ドナン」と呼ばれていた。「ドナン」は漢字で「渡難」、容易に船で渡れないとの意であろう。

 島の産業としては、観光以外に、農業(さとうぎび、水稲、畜産、製塩)、水産があるが、水産業は近年漁獲高が減少かつ漁業従事者の高齢化が進み、きびしい模様である。また、世界最大級の蛾として有名なヨナグニサン(アヤミハビル)が棲息している。

≪クブラバリ≫
 与那国空港からは、島一番の大型バス(せいぜい32、3人乗り)に乗り込み島内の観光です。バスの席はすでに割り振られており、日によって移動するようになっているようです。私たちは最後部の席、和歌山から来られた4人組みのご婦人御一行とご一緒させていただくこととなりました。お年には似合わずなかなか活発で、箸がころげても可笑しいといった感じで、一日が楽しく?過ごせそうです。

 歓迎のタテカンに見送られて空港を出発、計画では島の東方の「東崎(あがりざき)」方面に向うことになっていましたが、予定を変更し逆方向の「西崎(いりざき)」に向うこととなりました。ガイドを兼ねた運転手さんの話が結構面白く車内は大うけ。特に和歌山4人組みの皆様は大はしゃぎでいらっしゃいました。
 最初に到着したのが、「クブラバリ」。「久部良割り」と書くのではないかと思います。県指定史蹟の説明碑があり、多くのユリが自生している草原を通って海岸近くに出ると、巨大な岩の割れ目が口を開いています。

 説明の碑によると、『琉球王府は従来の貢納制度を改め過酷な人頭税制度を導入した。この島では人口抑制のため、村々の妊婦をクブラバリに集め、岩の割れ目を跳ばせたという。妊婦の多くは転落死し、助かった場合も流産した』と語り伝えられているそうです。
 与那国島が琉球王府の支配下となるのは16世紀当初。その後17世紀初に薩摩の島津氏が琉球に入り、王府を支配下に置き、大いに搾取を行ったはずですから、その影響による人頭税であり、この状態が明治時代まで続いたものと想像されます。あたり一面に花開いているユリは、もしかすると死んでいった妊婦たちの恨みを今に伝えているのでしょうか。
 クブラバリの西の方に「日本最後の夕日が見える丘」の碑がありました。なにしろ、ここ与那国島では何でも「日本最西端の…」を冠詞としてくっつければよいのです。やれ「日本最西端の郵便局」、やれ「日本最西端の燈台」、やれ「日本最西端の酒屋」……。


「クブラバリ」説明の碑

クブラバリ

「日本最後の夕日が見える丘」

 クブラバリを後に久部良港に向かいます。海底遺蹟探索は本来のスケジュールでは明日になっていましたが、明日の与那国島滞在時間が短いこと、風が強く明日になると遊覧船の運航が難しくなる可能性が高いこと、などにより今から海底遺蹟の探索に予定を切り替えることとなりました。

≪西崎(いりざき)燈台≫
 バスが久部良港に近づいた信号(日本最西端の)の隅っこに、郵便局がありました。これこそ正真正銘日本最西端の郵便局・与那国郵便局久部良分室です。もしかすると日本で一番小さな規模の分室かも知れません。ただし本日は土曜日のすでに3時過ぎ、局は扉を冷たく閉ざしたまま遠来の客をひややかに見ているだけです。こんな観光地の局は休日に無関係に営業をしてくださいよ…。
 久部良港では小型の漁船が数艘繋留されていましたが、すべて「日の丸」を付けています。さすがに国境の港であるとの感を覚えます。この久部良港は、戦後1940年代末から50年代初にかけて、密貿易の基地として大いに栄えた(?)ようで、これも国境の港としての特異性の故かも知れません。海底遺蹟の遊覧船の乗船定員の関係で、海底遺蹟探訪組と西崎方面探訪組の二組に分かれ、我々は後者になりました。海底遺蹟探訪組の船を送り出し、西崎の燈台へと向かいます。沖縄の方言で「西」は日が入る(沈む)ので「イリ」、逆に「東」は日が上がる(昇る)ので「アガリ」となります。したがって「西崎」は「イリザキ」と呼ぶそうです。
 港のすぐ横に日本最西端の店と銘打った雑貨屋がありそこでお茶を購入、結構のどが渇きます。日本最西端の岬に向かう道端に、パイナップルによく似た「アダン」の実がありました。展望台に到着、日本最西端の公衆便所で小用を済ませ、燈台に向けて坂を登りますが、なにしろ風が強い。息をはずませて燈台近くに着きますと眼下に雄大な黒潮の流れ。ここから台湾が見えるのかなと運転手さんに尋ねますと、運がよけりゃ見えることもあるとのこと。今日は運がよくないようです。北方には久部良港が一望のもとに見渡せます。「日本最西端之地」と刻まれた碑の前で記念撮影をして、展望台を降りました。


与那国郵便局久部良分室

日本最西端の店

アダンの実

西崎燈台(逆光でした)

西崎より久部良港を望む

「日本最西端之地」の碑

 再びバスに乗り久部良港に向かいます。港で待つこと15分ばかり、海底遺蹟探索の先発隊の遊覧船が帰港しました。強風のため揺れが烈しく、船に弱い方はやめたほうがよい、との忠告がありましたが、残りの全員が乗船します。船体に「もすらのたまご」と書かれていましたが何の意味やらさっぱりわからぬまま乗り込みました。後で調べてみると遊覧船の会社(?)の名称のようです。おそらく世界最大の蛾の「ヨナグニサン」からつけた名前ではないかと想像しています。遊覧船は中央船底にガラスがはめ込まれ、そこから海中が覗ける仕組みになっています。ツアーのメンバーがその周りを取り囲み着席、出航です。

 新川鼻と呼ばれる岬の沖合いまで数キロ、およそ30分程度の船旅ですが、港から沖に出ますと猛烈な揺れというより、空中に跳び上がった船が海上に叩きつけられるような状態で、そのショックがものすごい。「船に弱い方は後方か、船の上にあがったほうがよいですよ」との案内にほとんど全員室内から姿をけしましたが、私は頑固に船内にとどまり、ガラス越しに見える海中の様子(あぶくばかり)を眺めながら、上下運動の衝撃に耐えておりました。船が海面に叩きつけられると、キャーキャーと壮絶な悲鳴が後方から湧きあがります。その声のすさまじさに船の乗務員さん(まだ若いお嬢さんかな?)が何度か様子を見に来たという状況でありました。


遊覧船

 私も酔いはしませんが、船がこの衝撃に耐えうるのかどうかが心配で、ほんまに大丈夫かいなと、つい本気で乗務員に尋ねてしまいました。正直、かなりこわかった。気の毒にもメンバーの何人かの方はかなり気分が悪くなった様子で、中でも参加メンバー中最年少の唯一のお嬢さんが、完全に船酔い状態となってしまった様子でした。本当にやっとの思いで遺蹟のポイントに着きましたが、船の速度が落ちると今度は横揺れが結構きつい。それでも眼下に広がる遺蹟とやらに必死の思いで眼をこらします。


≪海底遺跡≫
 新川鼻(あらかわばな)の沖合いおよそ100mのポイントに、高さ26m、東西270m、南北120mにおよぶ巨大な階段状になった地形がそそり立っている。自然にできたものか、人造の古代遺跡なのか、各界から注目を浴び研究が進められている。この海底の地形は、半世紀以上前から島の漁師によって目撃されていたようであるが、1986年にマリンクラブ・サーウェスヨナグニを経営する新嵩喜八郎(あらたけきはちろう)氏によって「遺蹟ポイント」として名付けられ、脚光を浴びるようになった。
 かつて与那国島のある琉球列島は中国大陸と陸のようにながっており、遺蹟ポイントのあるこの付近も今の水深30〜40mくらいまでは陸地で、およそ1万年前の地殻変動によって海中に沈んだと考えられている。



海底遺蹟

 遺蹟の規模(面積)はピラミッドに相当するといわれ、太陽の光が差し込むと神殿のような姿が浮かびあがってくる。巨大な岩が直角に削られたような構造であること、階段状や回廊状らしい部分があることなどから、人造の建造物ではないかと考えられ、現在研究が進められている。
 琉球大学の木村政昭教授は、これが古代遺跡であるとし、その根拠としてさまざまな事実を明らかにされている。



遺蹟全体図

 まず周囲はループ道路のようになっていて、縁には巨石の石組みができている。道の南側では外側が一段低くなり、水はけまで意識された精巧なものだという。また階段と思われる上方には広いテラス状の場所が広がっていて、規則的な間隔でクサビの跡のようなものが発見されている。ほかにも、儀式に使用されてとも思われる亀の形のレリーフや、線が刻まれた石版なども出土されている。
 遺蹟ポイントから2qほど離れた「サンニヌ台」にも10q以上に及ぶ直線的なテラス状の地形があり、木村教授の調査によればここにも自然の摂理に逆らって加工されたと思われる、鳥や亀をかたどったレリーフや、2m四方の炉の跡があるそうで、これらも海底遺蹟と関連して調査されている。

 また、近くの海底には陸上でしか形成されない鍾乳洞があり、これもこのあたり一帯がかつて陸地であった根拠のひとつとされている。(この項については、ブルーガイド『てくてく歩き21』の記事を参考にしています)



《与那国島観光−その2》

≪ティンダバナ≫
 半ばグロッキー状態になりながら、海底遺蹟の探索を終え久部良港に帰港しました。待って呉れているバスに再び乗り込み、郵便局を未練たらしく横目でにらみながら、本日最後の地「ティンダバナ」へと向かいます。5時を過ぎているのにまだ充分に明るい。
 ティンダバナは祖納地区の南西に屏風のようにそそり立つ標高100mの台形状の岩山で、眼下に祖納集落の家並みが展開し、東にウラブ岳、西には雄大な東シナ海が一望される。展望台近くの岩陰には豊富な湧き水があり、岩壁には八重山の生んだ詩人伊波南哲の詩も刻まれていて「歴史の丘」として島人の憩いの場所にもなっているようです。東崎の方角に空に溶けこむように風車が2基、かすかに望まれます。島の電力は火力発電とこの風車による風力発電でまかなっているとのことでした。登り口に「サンアイ・イソバ」について記した碑があります。以下それによりますと…  テインダバナに続く南の傾斜面には、与那国の英雄の一人サンアイ・イソバの出生地である古邑サンアイ村があり、彼女にまつわる旧跡も多く残されているといのこと。
 サンアイ・イソバは16世紀に与那国に君臨した女の酋長で、とほうもない大女で強力の持ち主であったといわれ、収奪者としての酋長ではなく、政治をよくし島人から尊崇を集めたと語り伝えられているそうであります。
 右下の写真はは、頭上から大きな岩が垂れ下がり、まるで岩でが口を開いているような場所ですが、サンアイ・イソバはこの岩場に横になり、下界を見下ろしていたといわれています。
 


ティンダバナ遠望



ティンダバナの岩山

 さすがの日本最後の日の入りの地にも夕方が迫ってきました。テインダバナに別れを告げ、本日の宿舎に向かいます。人数の関係で「ホワイトハウス」と「はいどなん」の二つの民宿に分宿することとなりました。我々は後者の「はいどなん」。久部良港に面しており、涙を呑んだ郵便局の隣にあるとは皮肉なものです。「どなん」は与那国、「はい」は南、したがって「はいどなん」は「南渡難」となるのでしょうか。宿舎に向かうバスの正面に、今やまさに、日本で一番最後に沈まんとする夕陽が西の空を染めておりました。
 


テインダバナから祖納地区を望む

沈む夕陽

民宿「はいどなん」



⇒二日目の記録


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