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なんでも紀行の先頭

宮島紀行


宮島紀行 2009.1.11(木)
 ≪安芸の宮島1泊小旅行≫


 新年早々に家内の実家である岡山県の笠岡に行くこととなりました。それならばついでに、ちょっと足を延ばして宮島に行こうではないか、ということで、若干季節はずれの感は否めませんが、冬の最中に安芸の宮島を訪れることといたしました。
 宮島は私にとっては初めての地、家内も修学旅行で一度行ったきりといいますから、まあ初めてのようなもの。日本三景の「天の橋立」「松島」へはそれぞれ二度ずつ行ったことがありますので、「宮島」だけが、おいてけ堀になっておりました。
 前日、笠岡から家内の妹夫婦の住む福山に移動し一泊、11日の朝新幹線で広島へ、在来線に乗り継いで宮島口へとやって参りました。



宮島周辺の図(「神社紀行3・厳島神社」より)


 宮島口で、ちょっと寄り道になりますが「もみじ郵便局」と「宮島口郵便局」に立ち寄り、渡船乗り場である宮島口桟橋へやってきます。
 桟橋から宮島までは、JRと松大観光フェリー2社の連絡船があります。当初、何が何やらさっぱり分からず、なんとなく右側の乗り場にふらふらと誘い込まれました。切符売り場で「右の乗り場と左の乗り場とはどう違うの?」と聞くと「会社が違うだけです」との返事。われわれの乗り込んだのはJRの船着場でありました。(ちゃんと看板が出ているでしょ!)
 連絡船が着き乗船しますが、冬場のこととて乗客はあまりおりません。われわれはバカと何とかはの譬えの如く迷わず最上階まで登り、盛んにシャッターを切っております。この甲板上には外人のカップル2組と年配の男性だけ、寒風吹きすさぶ中、ご苦労なことであります。


山陽本線「宮島口」駅

蘭陵王のお出迎え

渡船のりば


 やがて連絡船は出港します。まもなく正面の海上に、背後にある「弥山(みせん)」の緑に溶け込むような、朱の大鳥居がぼんやりと見えてきました。船上からは逆光になり、写真がいいように撮れないのが残念です(どうせ芸術的な写真は撮れないのですから、あまり変わりませんが)。
 先ほど訪問した「もみじ郵便局」と「宮島口郵便局」の風景印に、この鳥居が描かれていますので、一緒にご紹介します。


もみじ郵便局風景印

宮島のシンボル朱の大鳥居

宮島口郵便局風景印


《表参道をゆく》

 船が宮島桟橋に到着、船着場前の広場には無数の鹿が出迎えてくれる。単に「鹿」などと小馬鹿にしていると神罰が下されるかも知れません、神聖な「神鹿」なのですから。広場では、日本三景の碑、厳島合戦の説明板などが目を惹きます。


歓迎、神鹿

人力車と神鹿

厳島合戦説明書き


 ここ宮島で興味を惹かれるのはやはり「厳島合戦」です。この戦いに勝利した毛利元就は中国地方に覇を唱えることとなります。説明板によりますと、

 天文20年(1551)中国・九州地方に権勢を誇っていた大内義隆は、その家臣陶晴賢の突然の謀反により滅亡した。義隆と盟友関係にあった毛利元就は、天文22年(1553)晴賢に対し挙兵したが、戦力的に陶軍の方がはるかに優勢であったため、一計を案じた。
 平地での戦いを不利と見た元就は、厳島に戦場を求め弘治元年(1555)5月、島の宮尾に城を築き、陶の2万余の大軍をおびき寄せた。
 同年9月30日、元就は3千5百の兵とともに、折からの暴風雨と夜陰に乗じ、厳島神社の背後にある包ヶ浦に上陸、翌10月1日早朝、山を越え塔の岡にある陶軍の本陣を急襲した。これに加え大鳥居側の海から、元就の三男小早川隆景の軍と宮尾城の軍が呼応し、厳島神社周辺で大激戦となり、不意をつかれた陶軍は壊滅した。晴賢はわずかな兵とともに島の西部へ敗走するが、なすすべもなく山中で自刃した。これが世に言う厳島合戦である。
 この合戦に勝利した元就は、戦いで荒れた厳島神社の再建・修復に努め、中国地方統一の第一歩を踏み出したのである。

 戦国時代の武将で、誰でもその名は知っているにもかかわらず、詳しいことはあまり知られていない…、毛利元就はそんなタイプではないでしょうか(私が知らないだけかも知れません)。確か山岡荘八の作品に、毛利元就を主題にしたものがあったかと思いますが、残念ながら読んでいません。大河ドラマにでも取り上げられれば有名になるのでしょうが…。
 戦国の武将といえば、上杉謙信、武田信玄と肩を並べる名将北条氏康を取り上げた作品も少ないのではないでしょうか。北条早雲に関しては、司馬遼太郎「箱根の坂」や早乙女貢「北条早雲」などがあるのですが、氏綱以後の後北条を書いたものがあまりないのが残念です。ただしこれは私の好みだけのことかも知れません。

 昼近くなってきましたので、参拝は後回しにして昼食にしようと、表参道の商店街に入りました。船を降りたときにはさほどでもなかったのですが、商店街に入るとさすがにかなりの人ごみで、一体どこから現れたのかと不思議に思えるほどでありました。牡蠣が有名ですがかみさんは牡蠣アレルギー、私も跳びつくほど好きでなし、何となく牡蠣は敬遠されて、あなごめしもどうも今ひとつ。という訳で、昼食は私がビーフカレーにかみさんが天麩羅そば。宮島までやってきて何とも愛想のない食事ではありました。


日本三景の碑

かわいいお地蔵さん

宮島名物大杓子


 商店街の中にある「宮島郵便局」にも立ち寄り、厳島神社目指してぶらぶら歩いていますと、道端にずらりとかわいい地蔵さんが並んでいました。「幸せだと思ったときから、幸せが始まる」「ポエムハウス」というお店の前、それぞれ何かメッセージを胸の前に掲げています。「すべての過去は未来のための準備です」「その時はその時です、その時もその時です」などなど。ちょっと哲学的過ぎてなかなか理解できませんが、ともかくかわいいお地蔵さんでした。
 街角に大きな杓子が飾られておりました。杓子発祥の地宮島のシンボルとして制作された世界一の大杓子だそうです。併せて、杓子の由来の説明書きがありました。以下はこの由来書きによります。

 江戸時代半ば寛永年間(1789〜1800)に宮島の「時寺」にいた誓真(せいしん)という僧が、ある夜弁才天を夢に見、その手にされた琵琶の形の美しさを杓子に写し、それを作ることを島民に教えたことに始まるという。
 その後、技法の巧妙さ、形の優雅さ、使い易さで日本全国に宣伝され、「宮島杓子」として広められた。現在では実用品としてだけではなく、めし取る、すくい取ることから、幸運福運勝運をすくい取る祈願杓子としても、縁起のよいものとされている。
 また誓真は、水飢饉に苦しむ島民のために数多くの井戸を掘り、「誓真井戸」と呼ばれるこれらの井戸のうち、4つの井戸は現在でも水が涸れることはないという。誓真は寛政12年(1800)に60歳で没したが、今なお島民に「宮島の恩人」と呼ばれ、その遺徳が讃えられている。



《厳島神社》


厳島神社境内見取り図(「神社紀行3・厳島神社」より)


 商店街から海岸に出て石の鳥居を眺めながら神社の参道を歩きます。灯篭と松の木越しに朱の大鳥居が鮮やかに海面に浮かびあがっております。今は引き潮のようで、完全に潮がひくと鳥居の近くまで歩いて行けるようです。鳥居を背景に記念撮影を行うなどと、まるで修学旅行の生徒かおのぼりさんかと疑われる感があります。


 

大鳥居三態

 


 300円の昇殿参拝料(初穂料というようですが)を払っていよいよ東の回廊から入場です。
 厳島神社の主祭神は「宗像三女神」と呼ばれる、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、田心姫命(たごりひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)の3体の女神、天照大神と須佐之男神が天の安河原で誓約(うけい)をしたときに、天照大神の息から化生した神といわれています。古くから海上交通の安全を守る海の神として信仰されてきたとのことです。
 主祭神とされている「市杵島姫命」は本地垂迹思想では、七福神のひとつで仏教の天部の神である弁財天が本地仏とされ、滋賀県の竹生島、神奈川県の江ノ島の弁財天とともに「日本三大弁才天」として信仰されています。明治の神仏分離令により全国の弁財天社の多くが厳島神社と改名し、当社がその総本社とみなされるようになったとのことであります。
 社伝によると、推古天皇の593年に、佐伯郡の豪族でのちに神主となって勢力を拡大した佐伯氏の祖である佐伯鞍職(くらもと)が、宗像三女神の神託によって社殿を造営したのがそのはじまりとされています。
 久安2年(1146)に安芸守に任じられた平清盛は、厳島神社をその本拠地として、瀬戸内に確固たる勢力基盤を築きました。平家の繁栄につれ清盛の厳島信仰は熱烈になり、一門を挙げてたびたび参詣しています。長寛2年(1164)には贅を尽くした『平家納経』を奉納し、その4年後には、神主佐伯景弘と結んで、海に浮かぶ壮麗な寝殿造りの社殿を造営しています。かくして平家の守護神として篤い庇護を受けた厳島神社は、安芸国一の宮へと発展してゆきました。



厳島神社御朱印

大鳥居と舞楽『陵王』(神社紀行より)



厳島神社の平舞台に舞楽を
配し遠景に大鳥居を描いた
宮島郵便局の風景印


 昇殿受付を過ぎると、すぐ左手が「客(まろうど)神社」の本殿、ここには、天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)、天穂日命(あめのほひのみこと)、活津彦根命(いくつひこねのみこと)、天津彦根命(あまつひこねのみこと)、熊野楠日命(くまのくすひのみこと)の5体の神々が祀られています。
 その奥には「鏡の池」が広がっていますが、あいにくの引き潮にて、わずかな水溜りを残すのみ。白鷺が1羽、水溜りのなかを魚を求めてヒョコヒョコと歩いており、池越しに五重塔があざやかに映えています。
 東の回廊の奥には、平家物語で知られている平康頼の卒塔婆流しにちなんだ「卒塔婆石」「康頼灯籠」があります。卒塔婆流しの言い伝えは以下のようです。

 治承元年(1177)平康頼らは、京都東山の鹿ケ谷で平家転覆の謀議を行ったが発覚し、藤原成経、僧俊寛とともに鬼界ヶ島に流された。康頼は成経とともに島内に熊野三所権現を祀り、帰洛を祈った。また卒塔婆を作り、自分の名と2首の歌を刻んで「せめて1本なりとも都へ伝えて給え」と念じつつ海に流した。
   薩摩潟沖の小島に我ありと親には告げよ八重の潮風
   思ひやればしばしと思ふ旅だにもなほふるさとは恋しきものを
 卒塔婆の数が千本に達したとき、康頼の望郷の念が神仏に通じたか、1本の卒塔婆が厳島神社に流れ着き(流れ着いたのが卒塔婆石のところという)、やがて平清盛の耳にも伝えられた。
 翌年、清盛の娘の中宮徳子が懐妊、その恩赦により康頼、成経二人は赦され帰洛するが、俊寛ひとり島に残されることとなる。
 帰洛を赦された康頼は、厳島神社を訪れお礼の石灯籠を奉納したという。


昇殿受付

卒塔婆石

康頼灯籠


 卒塔婆石から眼を転じて振り返ると、まだ引き終わらぬ波の中に朱の大鳥居が見事な姿を見せておりました。


東の回廊から大鳥居を望む


 拝殿でお詣りをし、ご朱印を頂戴し、祓殿から高舞台を通して朱の大鳥居を眺めながら、ここで奉納される舞楽のことなどに思い、平舞台の先からも大鳥居を眺め、清盛の夢の世界にしばし遊んでおりました。
 説明書きによると、大鳥居は明治8年(1875)に再建された8代目にあたるとのこと。鳥居の大柱の下は松丸太の千本杭が打ち込んであるだけで、その上に大鳥居は自分の重さで立っている、と書かれていましたが、素人にはちょっと信じかねることではありました。


祓殿から大鳥居を望む

客神社越しに五重塔を望む

能舞台


 西の回廊に廻ると、北側に能舞台があります。満潮時ならば海中に立つ舞台を見ることができましたが、潮の引いた状況では、いささか興醒めの感を否めません。毛利元就の時代に新築されたが、現存の建物は延宝8年(1680)広島藩主浅野綱長により寄進されたものといいます。
 平安朝の夢の回廊を過ぎると出口となり、大願寺へと自然に足が向いておりました。



《大願寺から塔の岡へ》

 「大願寺」は「亀居山方光院大願寺」。延暦年間(782〜806)に空海によって開創され、13世紀初めの建仁年間(1201〜1233)に僧了海によって中興されたといいます。高野山真言宗の古刹で、「日本三大弁才天」のひとつ厳島弁才天を祀っています。

 
大願寺山門

御朱印
 


 「厳島弁才天」は江ノ島、竹生島と並ぶ日本三大弁財天のひとつで、唐よりの帰途、宮島に立ち寄られた弘法大師が弁財天を厳島大明神として勧請し、厳島神社に祀ったと伝えられています。
 山門に入ると厳島龍神社があります。厳島弁才天のお使いとして、本堂に祀られている龍神は弁才天と同じく秘仏のため、昭和63年に分祀として外宮に祀られた由。石畳に沿って突き当たりに、新しい普請の護摩堂があります。平成18年に140年ぶりに再建されたもので、本尊の不動明王が祀られています。石畳に沿って護摩堂を左に折れると本堂です。
 


厳島龍神

真新しい護摩堂

本堂


 本堂の鴨居の上には、岩国の錦帯橋の模型が飾られています。明治29年(1896)岩田三郎左門によって寄贈されたもの。25分の1の模型で、19世紀末にヨーロッパ各地で開催された万国博覧会に出品されたと伝えられています。
 本堂正面には2体の賓頭盧(びんずる)尊者の坐像が置かれています。賓頭盧尊者にお参りし、体の悪いところをさするとよくなるというのでしょう、参詣者はそれぞれに坐像を撫でておりました。
 


錦帯橋模型

賓頭盧尊

賓頭盧尊に願い事


 幕末に、長州征伐の決着をつけるために行われた、勝海舟と長州藩の使者との休戦会談は、この大願寺の一室においてであった。子母澤寛「勝海舟」(新潮社)の一節…。

 慶応二年九月二日。晴れ晴れとした陽が、大願寺大書院の東の縁から、ぐっと障子の此方に展がって、庭の隅には燃ゆるような雁来紅(はけいとう)が一ぱいだ。左側の広い畳廊下は、陽かげのためか、流石に今朝は少し秋を感じる。
 勝は、小坊主に案内されて、ここへ通ると、真ん中に、きちんと置いてあるどんすの大座布団へ、無造作に坐った。色が少し浅黒くて、ちらりちらりとその辺を見廻す眼は、島田虎之助浅草新堀の道場以来の持前で、なかなか鋭いが、これを微かに笑いに包んで、ひどく呑ん気そうに構えていた。植田も西本も別室で、勝は刀を二人へ渡して来た。
 長州の使者は、すでに着いていたが、別室に控えて、物音一つなく、静かに、勝到来の知らせを待っているようであった。
 寺の中はしーんとした。水を打ったようだとは、こうした時を云うのであろう。植田も西本も次第に呼吸(いき)の詰まるのを感ずるようであった。とにかく薩摩と連衡なった長州の今日、この応接如何によっては日本国が幾つにも別れて蜂の巣をついたようになるだろうということは、長州の人達も知り、勝も知り、植田も西本も知りぬいている。ましてや、外夷頻りに爪を磨いで、わが神国の間隙を狙う──。
 その危機を孕んで、やがて五つ(はちじ)きっかり。植田、西本に先導されて長州の使者達は勝の端座する大書院廊下へ出てきた。
 真っ先が広沢兵助。
 続いて高田春太郎、青木強四郎、長松文輔、それから少し遅れて、河瀬安四郎外の四人が従った。しかしこの人達は云わば書役聞役というようなもので、広沢が全権、高田、青木、長松が応接(だんぱん)附添だ。


 山門の隣に「小松内大臣平重盛お手植えの松」がありました。重盛が厳島弁才天の神徳霊験に感服し、国家安泰、家門隆盛祈願のため参籠の際、境内に植えた老松だそうですが、今は枯れはてその残骸を残すのみでありました。


平重盛お手植えの松

反橋

後白河法皇ご御幸の松


 大願寺を出て、厳島神社の裏手を通り塔の岡に向います。
 西の回廊の裏側に、錦帯橋のように反り返った反橋があります。これは高欄の擬宝珠に「弘治3年(1557)3月4日」の銘があり、毛利元就・隆元父子が再建したものです。
 敷砂道に沿って進むと「後白河法皇御御幸松」がありました。承安4年(1174)の御幸の際、お手植えになったもののようですが、重盛の松同様枯れはてた遺木でありました。
 厳島神社の裏側をぐるりと廻り、神社の東側の小高い岡に登ると、五重塔、千畳閣があります。


千畳閣

龍髯の松

塔の岡、五重塔


 千畳閣は、豊臣秀吉が毎月一度『千部経』の転読供養をするための経堂として、天正15年(1587)に安国寺恵瓊に命じて着工されたもので、857畳敷きという大建築ですが、秀吉の死によって未完のままに終わったようです。明治の神仏分離令により、釈迦像などは大願寺に移され、秀吉を祭神とする「豊国神社」となりました。
 五重塔は、応永14年(1407)に建立、高さ30メートル弱。屋根軒先のそりが大きい禅宗様に、入口が板扉となっている和様を加えたところに特徴が見られるようです。
 五重塔から東に下ると、龍髯の松が長々としたその身を横たえています。2本のクロマツで総長30メートル、寛政11年(1800)ころ「遠翠楼」という旅亭の庭の塀に沿うように植えられたもので、樹齢は200年になるとのことであります。
 五重塔があるところから、このあたりを「塔の岡」と呼んでいるようです。厳島合戦において毛利元就が陶晴賢をこの地で破り、中国地方統一の足がかりとしたことは有名であります。
 一応厳島神社界隈の主だったところは一見いたしました。とりあえず一度チェックインを済ませてから、再度探訪に出かけることにしようと談合がまとまります。龍髯の松の前にある塔の岡茶屋で足を休め、今宵の宿所はホテル「まこと」、その場所を尋ね、15分ほどの歩行にてホテルに到着いたしました。フロントに手荷物を預け、紅葉谷からロープウェイで弥山(みせん)に登ろうということに相成りました。



《紅葉谷から弥山へ》

 ホテル「まこと」から再び道を塔の岡に取って返し、厳島神社の社務所横を通り、紅葉谷へと向いました。
 紅葉谷公園は、弥山から流れ出る紅葉谷川に沿って、山麓の谷間に広がる公園で、特にイロハモミジが真紅に染まる紅葉の頃が最高である、というものの、今は冬のまっ最中、やはり宮島は秋に限るようです
 人かげもない公園のなか、スタコラ登ってやっとロープウェイ乗り場に到着、山頂までロープウェイで揺られて行くことになりました。


紅葉谷公園入口の碑

紅葉谷公園の碑

ロープウェイ地上駅


 自慢じゃないが私は高いところは大の苦手。まして地に付いていないロープウェイなんて代物は、見るだけで総身鳥肌がたちそうな感触になります。無軌道なものは、ほんに向いていないようです。それでも仕方なくゴンドラに乗り込みました。
 ゴンドラは8人乗りの小型のもの、まるで吊り下げられた籠です。それがリフトのように、数メートル間隔で次つぎと廻っています。当然のことながら我々2人だけで出発です。



ロープウェイからの眺望


 家内は周りの景色を眺めて大いに満足のようですが、当方、少々オーバーではありますが正直生きた心地もいたしません。窓から写真を少し撮って、あとは眼をつぶって早く着けと、心中につぶやいております。
 やっとの思いで山頂に到着、やれ嬉やと思いきや、それは途中の「榧谷駅」で、山頂の「獅子岩駅」までもう一回ロープウェイに乗らねばなりません。まるで詐欺やないか!
 今度のゴンドラは大勢乗れる普通のタイプ。それでも乗客は我々2人だけ、乗務員もいない自動運転です。ぶつぶつと言う私に、家内は何故こんなものが恐いのかと、冷やかし半分に申します。このロープが絶対に切れないと誰が保障しているのだ、形のあるロープは切れると考えるのが普通ではないか。単にその確率が極めて小さいというだけのものだ。1万年生きるという亀でさえ、買って帰った晩に死んでしまう、それが丁度1万年目だったという落語があるではないか。腹のなかでブツブツ言っているうち、今度は本当に山頂駅に着きました。ヤレヤレ。


弥山山頂Map

野生の鹿

弥山原始林の碑


 弥山は標高530メートル、天然記念物に指定された原生林に覆われた宮島の主峰です。もともと神体山として信仰の対象となっていましたが、大同元年(801)に弘法大師が草庵を結び、仏教世界の中心「須弥山」になぞらえて「弥山」と名づけられたものです。
 弥山には「弥山の七不思議」と呼ばれる言い伝えがあります。
 @不消霊火(消えずの火)…頂上近くの霊火堂には、空海が焚いた護摩の火が1200年わたり燃え続けている。
 A錫杖の梅…空海が立てかけた錫杖が根付いて、八重の紅梅となった。
 B曼荼羅岩…弥山本堂の崖下に、空海が刻んだ文字が残る大岩がある。
 C干満岩…大岩にある穴から、満潮時には塩分を含んだ水があふれ、干潮時には乾く。
 D時雨桜…晴天でも樹下は露で濡れていたという桜の木。枯れて今はない。
 E龍灯の杉…山頂の龍のような枝ぶりの杉のあたりから、厳島神社の沖に現れる謎の火(龍灯)が見えたというが、この杉も枯れてしまった。
 F拍子木の音…深夜に天狗の打つ拍子木の音が聞こえるという。

 ロープウェイの獅子岩駅には、それでも3、4人の人かげがチラホラとしていました。案内地図を見ると、弥山頂上付近に弥山神社やら弥山本堂などが描かれています。2、30分程度の距離らしいので行ってみるか、ということになりました。丁度山頂の方から二人連れのカップルが降りてきます。よく見れば島に渡るフェリーに乗っていた外人の女の子でした。家内が「どうでした」と尋ねると、「とてもきれい、でも、ちょっと大変」という返事が返ってきて、周りにいた2、3人も思わず釣り込まれて笑っておりました。
 では我々も参りましょうと、しばらく坂道を下って行きます。道際に弥山原生林の説明板がありましたので、以下に…。


 大正2年(1913)にベルリン大学教授のアドルフ・エングラー博士が宮島を訪れ弥山に登山した際、ヤマグルマやマツブサなど植物系統学上の貴重な植物を見て、大いに感激した。この世界的な植物学者は「私は、できるならば一生ここに住んでここに死にたい」とまで弥山の植物を激賞したと伝えられている。彼の強いすすめで、三好学博士が天然記念物の指定を進言、昭和4年に国指定、昭和32年には特別保護区になった。面積は158.7ヘクタールに及び、弥山の北斜面を占める。ツガ林とアカガシクロジロガシ・ツクバネガシなどを伴うアカマツ林から構成され、西南日本の暖帯から中間帯を代表する森林で、瀬戸内海の島に残る極相林として貴重な存在である。

 10分ほど下ると、山頂への登り道にさしかかります。右下への岐れ道があり、これを下ると紅葉谷に降りられるようです。あんなロープウェイに乗るくらいなら、この道を下って降りた方が、よほどましでしょう。
 この地点まで来たとき、家内が急に靴の具合が悪いので帰りたい、などと、のたまいだしました。えーっ、あと少しで弘法大師の遺蹟なども(あればの話ですが)拝めるものを。ここで帰ったら、死ぬような思いをして登ってきたのが無駄になると、思ったものの、そこはそれ、かみさんにやさしい私のこと、ムスッとした顔でロープウェイの駅まで引き返しました。
 再び、死の恐怖渦巻くゴンドラに。ただ今度は同乗者も全部で6人と、一緒に死ぬ道連れが多いといくらか安心であります。乗り継ぎの榧谷駅に着くと、登りの乗り場が外人の若者でいっぱいです。もうかなり遅い時間なのに、ご苦労なことですが、一体これだけの人数どこにいたものやら。さすがに宮島は世界文化遺蹟だなー、と変に感心した次第です。

 まあ何とか無事にホテルに帰りつき、宿泊客の状況を尋ねると数組だけとのこと。これはついていると、さっそく大浴場に行き、誰もいない一番風呂をゆっくり楽しませてもらいました。
 初めての宮島旅行を、なにがしかの不満はあったものの、ぼちぼちの線で終了。翌日は広島市内の郵便局を廻り帰阪いたしました。



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