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 気まぐれ紀行の先頭
佐渡・能の里紀行


おのぼりさん紀行 2009.6.20 ~ 6.22
 ≪世阿弥の故地を訪ねて≫ 1日目

第1日  伊丹空港⇒新潟空港⇒新潟港
 新潟港⇒佐渡・両津港
 トキ資料展示館、佐渡博物館
 民宿花の木(夕食)
 春日神社薪能
第2日  椎崎・諏訪神社(奉納謡)
 本間家能舞台、二宮神社、正法寺
 民宿花の木(夕食)
 熊野神社薪能
第3日  大膳神社、妙宣寺、長谷寺
 両津港⇒新潟港


 謡友のM氏から佐渡に薪能を観に行かへんかとのお誘いがあったのが、確か昨年のことだったでしょうか。あゝ、そりゃええなーと賛同したきり、あとはM氏に任せっぱなしにしていましたところ、今年の1月に会った際には、6月20日出発の3日間の計画がほゞでき上がったようで、交通機関、宿所、佐渡の観光ルートなど、一切の手当てを済ませてくれておりました。こんな旅はほんまに楽です、当方はといえばその間何もせずに、M氏より指示のあった瀬戸内寂聴の『秘花』を図書館から借りてきて読んだだけという、まことに結構な旅行の始まりではありました。
 今回の旅行の参加者は、男6名、女8名の総勢14名。M氏を中心とした加古川市の謡のメンバー12名とM氏と私の同学同好の後輩であるKY氏、というちょっと変わった組み合わせのメンバーでありました。
 今回の「佐渡・能の里紀行」をまとめるにあたって、一部同行メンバーの撮影された写真を使用させていただいております。この場を借りてお礼申し上げます。



 ☆ 第1日目《2009.6.20(土)》☆

  伊丹空港 →(ANA513便)新潟空港→(タクシー)新潟港《昼食》→(ジェットフォイル)両津港→
  (レンタカー)トキの森公園→佐渡博物館→民宿・花の木《夕食》→
  春日神社《薪能観能》→おぎの湯《入浴》→民宿・花の木

 伊丹空港10時10分発のANA513便に搭乗すべく、なんばから空港バスで伊丹空港に向かいます。空港には9時10分に到着、ちょっと時間があるので登場手続きの窓口の対面でコーヒーを飲んでいるとKY氏がふらりと現れました。おーい、と声をかけ今度は二人でダベリながらM氏を待つことしばし、9時半ころにM氏が登場、空港2階の搭乗口へと向かいました。
 M氏と加古川より同行のメンバーはすでに手荷物検査を済ませて入場している様子で、2階の喫茶店などを覗いてもそれらしい姿はなし、我々も搭乗口へと向かうことといたしました。手荷物検査の入口は長蛇の列、ようように検査を終え搭乗待合所にて加古川勢と合流しました。メンバーのうちNA氏のみは新潟港にて合流するとのことで、ここに総勢13名が無事に揃いました。


混雑する手荷物検査場

搭乗を待つANA513便


 新潟行きANA513便は定刻の10時10分を少し遅れて出発、私は元来飛行機という代物が苦手で、特に上昇時と着陸時が大嫌い。ところがこの便の機長の腕がよいのか、さほど厭な思いもせずに新潟空港に若干の遅れで無事到着することができました。
 新潟空港からタクシー3台に分乗して佐渡渡船乗り場の新潟港へ、ここでNA氏が合流して全メンバーが揃います。昼食を終え13時発のジェットフォイルに乗り込みました。


 Wikipediaによれば、ジェットフォイル(Jetfoil)の正式名称はボーイング929(Boeing 929)で、ジェットフォイルはその愛称、米国ボーイング社によって開発された水中翼船である。
 停止時および低速では通常の船と同様、船体の浮力で浮いて航行し「艇走」と呼ばれる。速度が上がると翼に揚力が発生し次第に船体が浮上し離水、最終的には翼だけで航行する「翼走」という状態になる。
 日本国内の定期航路に本格的に投入されたのは佐渡汽船の新潟港~両津港間航路で、1977年のこと。運航開始当初、新潟港が河口部にあるという構造上、水と共にごみなどの異物・浮遊物を吸入して運航不能となるトラブルが頻発した。またクジラと見られる生物に衝突、前部水中翼が破損して高速航行が不能になる事故が数回発生しており、航行中はシートベルトを着用するよう乗客に促している。


記念押印(実は帰りの便でした)


ジェットフォイル

島影見ゆ! 両津のあたりか?


 新潟港~両津港間は、通常のカーフェリーだと2時間半を要するところを、ジェットフォイルを利用すれば1時間の航行ですが、運賃が6220円と結構お高い。私がよく利用はていた南海フェリーの和歌山港~徳島港の高速船(1時間で航行。ただし現在は利用者減少で廃止となってしまったが)が確か4000円程度だっと記憶しているので、若干ボリ過ぎではないかとの感が否めません。ま、そんなくだらぬことを考えているうちに、あっという間に1時間が経過、両津港のあたりになるのでしょうか、佐渡の島影が見えて参りました。


 両津の港には、能面を貼り付けたような「能の里、佐渡島」の歓迎塔が我々一行を迎えてくれます。さらに下船口には、これまたおけさの衣装を綺麗に着飾った娘さん(?、残念ながら顔はよく見えなかった)がお出迎え、「ひばりの佐渡情話」が聞こえてくるような雰囲気になって参りした。

   佐渡の荒磯の 岩かげに
   咲くは鹿の子の 百合の花
   花を摘み摘み なじょして泣いた
   島の娘は なじょして泣いた
   恋はつらいと
   いうて泣いた


佐渡おけさとジェットフォイル
を描いた両津郵便局風景印


 佐渡島は、相川町・両津市・金井町・佐和田町・新穂村・畑野町・小木町・羽茂町・真野町・赤泊村の1市7町2村が、平成16年の合併により1島1市となっています(実は佐渡に来るまで知りませんでした)。人口は約6万5千人。市の花は「カンゾウ」、市の木は「アテビ(ヒノキアスナロ)」、市の鳥は当然「トキ」、市の魚は「ブリ」ということのようです。



能の里の歓迎タワー


おけさ装束のお姐さん

佐渡汽船のりば


おけさの人形


 ここからはレンタカーによる旅となります。運転担当のM氏、OM氏、TY氏の3名が車を借りに行く間、残りの連中は船着き場にてしばしの休憩とあいなりました。



佐渡島訪問地図




《トキの森公園》

 3台のレンタカーに分乗してスタートです。車に乗り込むのはクジ引きで決定されます。運転は、1号車M氏、2号車OM氏、3号車はTY氏、私は3号車の助手席でもっぱらナビのチェック係。号車順に国道350号線を南下します。
 後部座席の3人のご婦人は、もっぱら謡の節回しの話に熱中、「中の下」に落とすところがなかなかうまくいかない、などと話が盛り上がっています。カーナビによれば左手の道へと曲がらねばならぬところがあります。そろそろ左折と言ったときには、前を行く2号車はゆうゆうと直進しており、われらの3号車もそれにつられてか左折せずに直進。あらら、行き過ぎたと気づいたときは後の祭りでありました。運転手のTY氏からは、2号車だけにつらい思いをさせるわけにはいかんと、思いやりのお言葉。そのうち左へ行く道もあろうと進めども、目的地とは離れるばかり。やっぱり引き返すしかないかなーと、道端に車を止めて思案をしていると、リーダーのM氏よりの電話がかかりました。うん、道を間違えた、引き返すわ、と返事をしていると、前に行った2号車が猛然と引き返して参りました。我々も後に続けと元の道を引き返し、本来の左折地点を曲がり正しい道にと戻った次第。紆余曲折はあったものの無事「トキの森公園」に到着いたしました。


トキの森公園


 公園のパンフレットによれば、トキの森公園は、佐渡島の中央部、国仲平野の穀倉地帯、土と緑の織りなす新穂地区にあります。4ヘクタールの敷地内には、さまざまな野鳥が訪れます。春から夏にかけてはウグイス・ホトトギスのさえずりが聞こえ、秋から冬にかけてはミヤマホオジロ・キクイタダキの姿もみられるとのこと。駐車場に車を止め、さっそく公園内の散策です。


トキの森公園入口付近

「朱鷺幻想」歌碑


 歌人宮柊二による「朱鷺幻想」の歌碑が建てられてありました。

    朱鷺幻想

    しづかなる年の旦にはるかなる空想をなす

 国の秀(ほ)を離れし島に、人の香を恐れて遠く、茂山のまほらの真木に、巣をなして産める卵。蒼緑の殻の地肌に、黒褐のしるき斑紋、ひつそりと転がれる二個。よるべなく此(こ)は孤独、トキの此は寂しき思想。

 嘴伸(はしの)して白く羽根張り、脚ひきて高く翔びゆく。洋(わた)の日の差し明かりつつ、しき波の寄せ崩れ敷く、寂しかる島の荒磯(ありそ)を、見おろしに沖を指すトキ。運命の島にはあれど、たまきはる命かなしみ、青渦の上も一瞬(ひととき)。

 さわさわと羽搏(はばた)く翼、しわしわと真白き総身(そうみ)。ただ腋羽風切羽、虹のごと光靡けり。わだつみの最中の島に、絶えゆかむ命をつなぎ、種の持続僅かに残す、Nipponia nippon、幻の島ぞその悲しみのごと。

 しづかなる年の旦(あした)に、うつくしき島を憶へり。しづかなる年の旦は、古き日の智識の如し。また、若き日の勤(いそ)しみにも似る。跡無くもなりし智識の、ほの光り甦るごと、傾けし恋の心の、疼きつつ立ち返るごと、変若(おち)かへれ、白き島智慧の島、幻の島、トキの命も。

   反歌

 あきらけく島山明けて空に鳴く声こそはすれ朱鷺渡るらし
 たちかへる年のあしたに島のごと甦りくる智識に遊ぶ

 「朱鷺幻想」の歌碑の横には、コスモス短歌会による説明の碑があります。以下にその“「朱鷺幻想」歌碑について”を再現します。

 歌人宮柊二(1912~1986年)は、新潟県堀之内町に生まれ、若くして北原白秋のもとで学び、白秋死去の後、1953(昭和28)年「コスモス短歌会を創設し、これを昭和歌壇最大の結社に育てあげました。
 宮柊二にとって「佐渡」は、長岡中学校(現長岡高等学校)時代の修学旅行で、はじめて歌作をしたゆかりの地でありました。
 「朱鷺」(学名 Nipponia nippon )は、明治以来その生息の地をしだいに狭められ、数も激減し、特別天然記念物指定・国際保護鳥選定等の保護対策のかいもなく、絶滅への道を辿りはじめました。
 宮柊二は、この朱鷺衰亡の実情を哀しみ、1963(昭和38)年1月1日の新潟日報紙上に、朱鷺への賛美と哀惜の思いをこめ、さらにその生命の再生・復活を願って、長歌「朱鷺幻想」(反歌2首を含む)を発表しました。
 以後、日本産の朱鷺は、高齢の「キン」1羽を残すのみとなりましたが、佐渡の地元の方々の熱意や、県・国の支援もあり、中国からの種の保存のための友好的協力も加わり、人口飼育・人口増殖等の保護事業も、関係者のお力により大きな成果が見られるようになりました。
 このたび、創設50周年を迎えるコスモス短歌会は、創設者宮柊二が朱鷺に寄せた篤い遺志を体し、佐渡の新穂村の御厚意によるこの地に「朱鷺幻想」歌碑を建立し、野生の朱鷺が、再びこの美しい佐渡の大空に舞う日の来ることを祈りながら、自然敬慕の象徴として、永く後世に残したいと思います。


 宮柊二については全く何も知らず、恥ずかしながら初めて聞く名でありました。この「朱鷺幻想」の歌は何となく万葉集の歌を思い起こさせる感がありますが、その良しあしについてはまるで分かりません。けれども最近では、反歌を併せた長歌などというものにお目にかかったことはなく、何となく懐かしいような感があります(長歌・反歌なんてヤクザの世界みたいではありませんか?!)。


「キン」の碑

トキ展示資料館


 「朱鷺幻想」の歌碑を過ぎ行くと「朱鷺よキンよ永遠なれ」の碑がありました。金色に輝くトキの像は、平成15年に死亡した最後の日本産「キン」を記念したものでしょう。
 環境保全協力費として200円を支払い、トキ展示資料館に入場します。館内にはそこそこの入場者があり展示されたトキの資料を観察しておりました。


資料館のトキの剥製

観察回廊から繁殖ケージのトキを望む


 トキはコウノトリ目トキ科に属する一属一種の鳥で、学名は Nipponia nippon。属名と種小名に「日本」の名がつけられているわが国を代表する鳥です(ただし国鳥はキジ)。トキが世界に初めて紹介されたのは、江戸時代後半オランダの医師シーボルトが持ち帰った標本により、1885年オランダの博物学者テミングにより Ibis nippon と命名されて学会に発表されました。(展示資料館の説明による)
 明治以降、乱穫と環境破壊によりその数は激減、1934年天然記念物に、1952年には特別天然記念物として保護されています。1999年中国から贈呈されたつがいのトキにより、佐渡トキ保護センターで毎年ヒナが誕生しており、自然へと放鳥されているとのことであります(後ほど聞いたところによれば、常陸宮殿下も下向されて放鳥されたよし、ただ県知事が放鳥したトキはすべて行方が知れないとか。以前は儀式ばって仰々しく放鳥をおこなっていたが、トキが驚き恐れるのを避けるため、最近ではハードリリースからソフトリリースに切り替えているとか)。要は人類の業がここにも現れたというべきでしょう。自然を破壊し他の種を絶滅に追い込み、やがて自らも滅びてゆく、人類がそんな運命を背負っていないことを祈りたいものです。
 トキの観察は観察回廊から、繁殖ケージが遠いのとフラッシュ禁止のため、手持ちのカメラでは十分な撮影は不可能でありました。


公園内の散策

長谷川金北の碑


 展示資料館を出て公園入口へと裏道を通って帰りました。草花が美しく咲く公園内には、もうひとつ、長谷川利平次翁の碑が建てられてありました。

    夕陽さす新穂の森にカアと啼く朱鷺の声憐れなり


公園入口の売店

新穂郵便局出張所


 公園の入口まで帰ってくると売店がずらりと並び、中に新穂郵便局の出張所がありました。郵便局ということなので、もの欲しげに覗いていると、ここでしか販売していない記念切手ですよ、の声につられて、ついつい記念切手を購入させられる破目に、風景印を置いているとのことなので記念押印をいたしました。




佐渡の空に舞うトキを描く
新穂郵便局風景印



 公園入口の店で買ったソフトクリームで口をうるおした後、再び車に乗り込み、本日二つ目の訪問地「佐渡博物館」へと向かいました。



《佐渡博物館》

 初めての道だけにカーナビ任せの道中なので、どこをどう通ったのか記憶が定かではありませんが、恐らく県道81号線を南下し、途中から65号線に入り、さらに195号線へと移行したのではなかろうかと思います。国府川を渡ってカーナビも知らない新道ができたとみえて、国道に出るわずかの間ナビ上では道なき道を進むことになったのには大笑いでありました(以前カーナビに従って運転しているとコンビニの中に突入したコマーシャルがありましたが…)。
 道なき道を国道350号線にぶつかった、その右手が佐渡博物館でありました。
 佐渡には多くの郷土資料館や博物館があるが、その中でも規模が大きく中心的な存在なのが佐渡博物館で、自然、歴史、民俗文化、芸術といった幅広い分野の資料を展示してあり、佐渡についてより深く知ることができるようです。


佐渡博物館


 博物館の写真を撮り右手のスロープを上って玄関に向かっていくと、石碑が建てられてありました。立ち寄りよく見ると「世阿弥佐渡状」と刻まれてあります、これは見逃すわけには参りません。


「世阿弥佐渡状」の碑


 この碑について、佐渡博物館の山本仁館長が『観世』誌(平成18年5月号)の巻頭随筆に寄稿されていましたので、若干長文になりますが以下に転載します。

 佐渡博物館玄関脇に一基の石碑が建っている。能の大成者世阿弥が佐渡から都の娘婿金春大夫禅竹に宛てた手紙文を石碑に写したもので、平成9年に博物館開館40周年記念事業の一環として完成したもの。地元産出の山形をした安山岩の中央部に長方形の赤褐色インド産御影石に手紙全文を彫り込んでいる。
 奈良「宝山寺」蔵の「金春家旧伝文書」中より発見された一通の手紙は6月8日の日付で、一般に「世阿弥佐渡状」と呼ばれている。世阿弥佐渡配流の翌年(永享7年・1435)のものとみられており、「至翁」の自署がある。手紙の主な内容は、①都に残した老妻寿椿や佐渡の自分に対する扶持への礼、佐渡での暮らしは安心してほしいこと。②禅竹より「鬼の能」についての質問に対する意見(これがこの手紙の中心内容とみられる)。③佐渡は思いのほか田舎で紙不足で困ること…などが書かれている。おねしろいのは③の内容で、事実手紙の用紙は楮紙(こうぞ)の粗末な薄いものを2枚つないだものであるが、最後の部分で「ありがたい妙法諸経でさえ、藁筆で書かれたものがある例もあり、この手紙も『金紙』に書かれたものと受けとめて読んでほしい」と結んでいる。かつて佐渡に流された日蓮も「佐渡御書」の中で「佐渡の国に紙候はぬ上、面々に申せば煩あり、一人ももるれば恨あるべし」と紙不足を嘆いている。日蓮・世阿弥などの思想家・行動家にとって、周囲の人々に自分を伝える手段としての手紙の用紙が不足しているということは、食の不足と同じようにたいへんなことであっただろう。
 世阿弥の生涯については謎の面が多い。佐渡での生活についても多くの謎がある。当時佐渡の人たちは、世阿弥なる者が佐渡へ流されて来ていたということを知らない者がほとんどであったようである。幕末になっての記録さえ、例えば「佐渡国寺社境内案内帳」(宝暦年間・1751~64)は「正法寺、当寺境内に観世大夫の腰掛石と云ふがこれあり」と伝えるくらいで、また「佐渡誌」(文化年間・1804~18)の中では「嘉吉年中(1441~44)、観世大夫入道世阿弥、故ありて流罪今の正法寺と云へる禅院にこもり…たしかに記せしものなし」といった具合である。世阿弥は「金島書」を書いた(永享8年・1436)後の行動が全く不明である。赦免、帰郷したとか、佐渡で没したとかいう伝承も遺跡もない。
 作家瀬戸内寂聴さんは今、「佐渡の世阿弥」の小説化に取りくんでいる。その取材のため何度か佐渡を訪れている。そうした中で、とくに世阿弥に関心を持たれたのはその晩年についてであったようである。佐渡の人々の人柄から言って、世阿弥は佐渡にとどまったかもしれない、とほほえみながら語ってくれる。
 戦後、奈良の「補巌寺」(禅宗、世阿弥の菩提寺か)から「納帳」が発見され、その中に「至翁」8月8日の記事がある。また妻の「寿椿」の名も載る。共に一反歩ずつの田を寺に寄進している。世阿弥はきっと晩年を故郷で安らかに過ごしたのではないだろうか。

 上記にもあるように、世阿弥の晩年についてはよく知られていないようです。瀬戸内寂聴の『秘花』では佐渡で亡くなったようになっているが、小説のこととて定かなことではないでしょう。世阿弥に関しては明日の「正法寺」の項にて調べてみたいと思います。


義民太郎右衛門の供養塔

金丸の人斬り石


 さらに「世阿弥佐渡状」の碑の右手には、「南無阿弥陀仏」と刻まれた碑や「金丸の人斬り石」がありました。
 「南無阿弥陀仏」の碑は、地域の農業発展のために尽くした名主太郎右衛門の供養塔とのこと、また「金丸の人斬り石」については以下の説明書きがありました。

 真野町大字金丸のもと谷地(やち)橋の近くにあったもので、正面に「天神宮」と刻まれている。
 金丸では「人斬石」と言いならわして来たが、一方「人斬り石の人斬らず」という言葉が伝えられている。これは、実際に人を斬る時に用いた石ではなく、後世、動かしてはならない大事な石をあらわすための、おどしであろう。
 もともとは村境や水田の区画整理の時の基準の石(条里石)で「天神宮」は天から降臨してくる神々であり、雷神であり、水の神をあらわしている。

 博物館の1階正面ホールには、佐渡の象徴であるトキの複製を展示、2階に上がり自然・考古の展示室入口には、なぜか阿弥陀三尊像が安置されてありました。三尊は左から勢至菩薩、阿弥陀如来、聖観音菩薩。それぞれの仏の御光の上に仏を表わす種子があったので容易に判明しました。四国のお遍路で仏の種子を調べた甲斐があったというものですが、はたしてこの知識が何に役立つかは極めて疑問です。


1階正面のトキの複製


2階ロビーの阿弥陀三尊


信仰のコーナー


芸能のコーナー


 佐渡の民俗紹介の一画に薪能のコーナーがあります。佐渡と能とのかかわりは、永享6年(1434)に世阿弥が佐渡配流となったときに始まったといえましょう。けれども佐渡が能の里となる直接のきっかけは、佐渡金山奉行として慶長9年(1604)に赴任した大久保長安でありました。長安が奈良から二人の能楽師を伴い、神社に能を奉納した記録が伝わっているそうです。


能楽のコーナー

野山の動物のコーナー


 博物館の一画では「佐渡の金銀山展」が開催されておりました。以下、同館パンフレットの説明です。

 「金の島」と世阿弥が『金島書』のなかで記した佐渡には、平安時代後期に編纂された『今昔物語集』に登場する西三川砂金山をはじめ、鶴子銀山や新穂銀山などの金銀山が数多く分布しています。また、日本最大の相川金銀山が本格的に開発された17世紀初めから平成元年までの400年間の長期にわたり、佐渡金銀山は日本の中心的鉱山として各時代の政権を財政的に支えるとともに、各地に鉱山技術を広めるなど、国内外に大きな影響を与え続けました。
 現在も、中世から近世にかけての鉱山遺跡群や明治以降の近代高山施設などが極めて良好に残っており、佐渡は人類が獲得したすべての鉱山技術の変遷を目の当たりにできる島として、世界的にも稀な存在といえます。


佐渡金銀山展

土田麦僊素描展示室


 土田麦僊素描展示室は、佐渡博物館の開館記念に未亡人より寄贈された麦僊の素描作品500点を収蔵、展示しています。土田麦僊(明治20年・1887~昭和11年・1936)は佐渡島の新穂村井内の生まれ、竹内栖鳳の門下。代表作に舞妓林泉、大原女、湯女図(ゆなず・重要文化財)、海女、罰など。

 1階のホールから裏庭にでますと、左手に佐渡の代表的な民家が移築復元されています。右手の林を抜けると弥生時代の住居が復元されてありました。


裏庭の民家

民家の内部


 佐和田町の八幡宮鬼瓦は、本殿に明治21年の棟札があり、その時の改築に葺かれたもの。八幡人形の製作者として知られる村岡文慶の窯で焼かれたもののようです。この八幡宮は世阿弥がここに参詣し「時鳥」の曲を作った社として知られているとのことでした。
 以下は「弥生時代の家と倉庫」についての説明書きです。

 弥生時代の終わりごろ(およそ1600~1700年前)の遺跡として佐渡には千種遺跡(金井町)などがあるが、ここに示したものはこの時代の家と倉庫を復元したものである。
 家は四隅をまるめた方形の竪穴の中に奥まって炉をもうけ、四本柱を建て梁、桁を渡したうえ、さす棟木、たるきを組み上げて茅葺きとした。
 またこの時代に水田耕作がはじまり作物を収める倉庫が建てられた。防湿のために床を高く張り、ねずみ返しをつけ、はしごを登って穀物を出し入れするようになっていた。


佐和田八幡宮の鬼瓦

高床式倉庫と住居


 今夜は7時から相川にある春日神社で薪能を観ることになっています。時間も迫ってきたので博物館に別れ、今宵の宿のある小木を目指すことになりました。



《民宿・花の木》

 国道350号線をひた走り、民宿「花の木」に到着したのが夕方の5時半ころ、なかなか情緒のある宿で、女将は美人、お手伝いは3人のかわいいお嬢さんとくれば、文句のつけようもありません。ただ宿の裏手に大きな地蔵像が立っているのは、よく分からない景色ではありました。


民宿「花の木」


 「花の木」は古民家風の建物、玄関を入った土間には焼き物などが飾られています。宿のご主人は陶芸家で、正面には秋篠宮ご夫妻が陶芸館を見学されたときの写真が飾られてあります。男性6名は民家の中にある2室に、女性軍は離れの3室にそれぞれ別れます。


「花の木」玄関

ちょっぴり不可解な巨大地蔵


 観能の時間が迫っているため、ゆっくりするのは後廻し、すぐに夕食をお願いします。食事は土間を上がったところにある食堂。これもなかなか風情があります。食事の準備ができたとの知らせに、食堂に入り驚き、桃の木、山椒の木、ずらり並んだカニ蟹かに。これはすごい御馳走だけれども、ゆっくりと味わう時間がない。薪能をとるか、カニをとるか。大変な難問を突きつけられた次第でありました。


夕食風景

山海の珍味


 薪能も薪能だがこの御馳走を前にして空しく去らんはさらに無念。出発時間を若干遅らせて、ある程度満足のゆくまで食事をとることといたします。けれどもゆっくりとカニを平らげるには時間が足らない、カニはラップに包んでもらっておいて明日の朝食に食べることにしようという発案があり、多数はそれに従ったようです。
 何とか夕食を終わり、さてまた相川までのドライブです。カーナビの目的地に神社の入力ができなかったため、能舞台の略地図から春日神社の住所を探し、相川下戸村をセット、近くまで行けば何とかなるわいと、いささか心もとない出発ではありました。



《春日神社薪能》

 「花の木」に来るときに走った国道350号線を今度は逆に進みます。なぜか今回は我々の3号車が先陣を承っているようです。暮れなずむ海岸線を北上して真野の街並を過ぎ、国府川を渡った右手に佐渡博物館を発見、博物館はここにあったのかと、改めて認識いたします。やがて国道は大きく右にカーブして去り、我々は海岸線を通る県道45号線にと誘われて行きます。やがて45号線を右折して山越えの31号線へと入ります。ここまで来れば目的地は間近、トンネルを抜け坂を下ったところに下戸郵便局の案内を発見、その道を左折してしばらく進むと前方より楽の音が響いてきます。車を止め、春日神社に到着したときは「佐渡おけさ」が演じられておりました。
 春日神社能舞台は、平成17年に羽茂地区の滝平から移築・再建したもので、春日神社は佐渡の能の発祥の地といわれています。このことについて、春日神社薪能のパンフレットには「相川の能」として以下のように述べられています。

 この町の能の初見は、大久保長安が慶長9年(1604)に、和州(奈良)からつれてきた「常太夫」と「杢太夫」の二人の能師に始まる。
 「岩見陣屋ニテ能アリ」(『佐渡相川志』)とあるから、佐渡奉行所が能のできる造りを、創設当時から持っていたことをうかがわせる。
 「上相川大山祇ニモ(能)アリ」とあって、翌慶長10年に大久保長安が建てる大山祇や、春日神社でも能が催されたらしく、春日社で正保2年(1645)に佐渡で初めて能舞台ができる以前から、能はにぎわっていた。
 常太夫・杢太夫の死後、貞享年間(1684~87)に越前福井から中島可久という人が、また宝永6年(1709)に京都から仏師の左近という者がきて、春日神社の能師を勤めたという。
 佐渡へ赴任の歴代奉行には能好きの人が多かったが、正徳3年(1713)から在勤した河野勘右衛門が、たいそう仕舞を好んだので侍一般にも広がったとされ、岡崎から大久保平右衛門という人がきて、これも仕舞の師範をしたと伝えている。
 こうした能の盛行の陰に、潟上本間家(宝生)や矢馳村に住んでいた遠藤家(のち観世流の佐渡の祖となる)による出張指導の影響も大きかった。
 遠藤家三代の可頭が、正徳3年に相川へ移ったのは、神保五左衛門奉行の指図であり、十代目可啓の時代に、潟上本間家と並んで能太夫を許され、潟上とともに神事能のシテ役を代々勤め、かつ相川に観世流が広まることになる。
 明治以降は、謡曲愛好家であった佐渡鉱山御料局長、渡辺渡などが赴任し、官邸で各課長などを招いて稽古につとめ、維新以降おとろえていた能の復興が始まる。
 三菱金属に移管されたのちも鉱山長の原田鎮治らを迎えて謡曲素謡月並会などが常時開かれた。
 遠藤可啓と可清(十一代)による、幕末・明治の相川の門弟数は、百数十人を数えるという盛況ぶりで、能太夫可啓は越後水原や高田にも出張指導して、観世流を広めている。


春日神社能舞台

舞台遠望


 お囃子にあわせて佐渡おけさが終わると、舞台の下で何やら賑やかな舞楽「つぶろさし」が始まったようです。私はかなり後方にいましたので、細かなところまでよく見えなかったのですが、前方でご覧になったご婦人がたに後からお聞きすると、大変な舞であったようです。

 「つぶろ」はひょうたんのことで男根を暗示しており、「さし」はさすり。羽茂村の神社に奉納する大神楽系の伝統芸能で、棒状の物を股間でさすり、二人の女神を追い掛けるユーモラスな五穀豊鰻の舞いだそうです。羽茂地区では「つぶろさし」ですが、小木地区では「ちとちんとん」と呼ばれているそうです。
 「にいがた観光ナビ」のサイトによりますと、「小木地区のちとちんとん(羽茂地区ではつぶろさしとよびます)、大々神楽は伎楽(ぎがく)に類するものです。古代の伎楽に、性的要素が、誇示されて繰り込まれたものです。戦後著しい性風俗観の変化に応じて、文化遺産として評価されてきたものです。ちとちん、つぶろ(金精棒)を中心の伎楽類似のおどりですが、「成心なしに素朴に演ずればおおらかな、コミカルな、芸能の一つの明るい特色を備えたものになる。」という人もいます。ともあれ佐渡にだけ、しかも佐渡の南部、小木地区、羽茂地区にのみ残った珍らしい民俗資料です。」




佐渡おけさ

つぶろさし


 仕舞の「松風」が終わり、羽茂(はもち)昭諷会による能「百万」が演じられました。能は時間の関係でしょうか前半を省略した半能のような形式で演じせれましたが、地謡、お囃子、後見にいたるまですべて素人の女性によるものです(ワキのみ男性)。


能「百万」


 すべて素人による演能ということであり、技術的には問題もあろうかとは思われますが、これだけのものをやり遂げる総合力には頭が下がるものがあります。毎日、朝から晩まで能の稽古に励んでいるわけでもないでしょう。生活の糧を得ながらその片手間として能の稽古をされているものと思われます。
 佐渡には三十数か所の能舞台があり、それを維持管理するだけでも大変なことであると思いますが、その上に各地で演能の催しがある、これは経済的にもかなりの余裕がないとできないことと考えられます。愚考するに、佐渡が江戸時代において金銀山を擁した天領であったことが、領民にとって経済的な豊かさをもたらしたのではないでしょうか。一般に大名領が六公四民以上であっても、天領においては四公六民というように、領民にとってゆるやかな年貢であったと聞いたことがあります。このことが佐渡において「能」という非生産的な活動を支えることができた大きな要因であったのではないでしょうか。


 能が終わったのが9時ころ、再び車中のひととなり、小木までのドライブとあいなりました。民宿「花の木」には内湯がないので、先方に連絡しておくので宿の近くにある「おぎの湯」で風呂を浴びて帰ってくれと、宿の女将さんから言われておりました。「おぎの湯」に到着したのが10時過ぎ、ずいぶん遅い客ですが「おぎの湯」では表を閉めずに待ってくれていました。聞けば何とこのお湯の管理をされているのが「花の木」のご主人、このお湯が経営不振に陥ったとき、他の有志の方と一緒に経営に参画したとのことであり、「花の木」と話がツーカーで繋がっているのもむべなるかなと感心した次第であります。
 ゆっくりと風呂につかり、宿に帰ってひと息ついて、あわただしかった佐渡の初日を終えました。



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