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 気まぐれ紀行の先頭
「奥の細道」紀行


 2012.1.31 〜 2.5
 ≪豪雪の奥の細道を行く≫ 1日目

1日目・1月31日(火)  『安達原』謡蹟探訪、かみのやま温泉へ
 (宿泊) 日本の宿 古窯
2日目・2月1日(水)  山形から黒川へ、下座での王祇祭に参加
 (宿泊) 王祇会館
3日目・2月2日(木)  春日神社での王祇祭、 鶴岡・酒田を経て象潟へ
 (宿泊) たつみ寛洋ホテル
4日目・2月3日(金)  秋田を経て角館へ、武家屋敷観光、謡会開催
 (宿泊) 田町武家屋敷ホテル
5日目・2月4日(土)  盛岡から一関へ、平泉・中尊寺観光、仙台・作並温泉へ
 (宿泊) 岩松旅館
6日目・2月5日(日)  仙台・津波被災地慰霊訪問、新幹線で帰阪
 


 昨年の1月、大学OBの謡会に参加した際、謡友のMさんから「黒川能を観に行きたいな」との誘いがありました。Mさんを始めとする加古川の謡会の皆さんとは、2009年に佐渡島に薪能の観能にご一緒し、その翌年にも播州赤穂で開催された、新作能『河勝』の観能を共にして、すっかり加古川ファンとなってしまった私にとっては、またとないお誘いでした。
 さて、黒川能観能の具体化ですが、二人ともその詳細については分っておりません。ちょうどこの謡会に参加していたKさん──彼も佐渡島・赤穂ともにご一緒した仲間でした──を焚きつけて、この計画を具体化してくれるよう依頼した(正確にいえば、押しつけた)ところ、二つ返事で快諾してくれました。かくして、3人による(正しくは、Mさん・Kさん両氏による)調査、検討が始まりました。
 ひとくちで黒川能と言っても、2月に行われる王祇祭、3月の祈年祭、5月の例大祭、11月の新嘗祭があり、それ以外にも蝋燭能などが開催されているようですが、我々はメインである2月1日、2日両日に行われる王祇祭に参加することにいたしました。Kさんの調査によれ王祇祭の観能の申し込みは、4月1日から受け付けられ、11月末で締め切り、その後抽選により12月下旬に参加者が決定する。ちなみに昨年は100人の定員に対し約200人の申し込みがあったとのことでした。
 4月になり、Mさん・Kさんと私の3人の名でKさんが申し込みをしてくれました。申込者1名につき5名の参加が可能となるようで、3名で申し込めばうまくいくと15名、最悪でも5名は参加できるのではないかとの期待を込めておりました。その後もKさんは現地の黒川能保存会の窓口担当である長谷川氏と、メール・電話で連絡を取りあいながら、12月の抽選を待った次第です。
 ここからが企画・立案力に富んだMさんの活躍の場となります。黒川能の観能だけではいささか物足りない、オプショナル・ツァーとして何か適切な企画はないか、それぞれ考えろ、との命が下されます。ちょうど8月28日に行われる加古川薪能の観能かたがた、Mさん邸にて鳩首会談と相成りました。私が思いつくことと言えば、近くの謡蹟を訪ねることくらいです。『殺生石』の那須野、『安達原』の二本松の観世寺、『摂待』の米沢・常信庵などがありますが、『安達原』あたりが無難な線かも知れません。謡蹟の探訪を含めて近くの名勝を訪ねる行程にしようということで取り敢えずの結論となった次第です。
 その後計画は次第に具体化し、12月末にはMさん・Kさんふたりに黒川能保存会から当選通知があり(残念ながら私ひとりだけが落選。コンチクショー!)、10名の参加が決定、かつ、旅の行程も最終的に確定しました。黒川能の観能を中心として、『安達原』の謡蹟探訪、角館・平泉等の観光、仙台では郊外の津波被災地の慰霊訪問をも加え、また途中の角館では謡会も開催されるという、申し分のない5泊6日の日程となっております。

「奥の細道」探訪図


 参加者は、Mさんを中心とした加古川にある高齢者大学「いなみ野学園」謡曲部のみなさんと、前述のKさん、それに私の10名、「みちのくひとり旅」ならぬ「みちのく10人旅」と相成りました。
 出発までに幹事長のMさんよりの指示で、参加者が手分けしてそれぞれの訪問先の見どころなどの解説書を作成することになりました。準備にぬかりはありません。
 1月31日、いよいよ出発の当日です。新大阪駅から最終日の仙台駅まで、順を追って旅の記録を振りかえってみましょう。
 なお、この行程は、芭蕉の『奥の細道』のコースともいくぶん重複していますので、該当の地では『奥の細道』をひも解いてみたいと思います。(『奥の細道』は、富山 奏 校注『芭蕉文集』新潮日本古典集成による)



1日目・1月31日(火) 『安達原』の謡蹟探訪、山形新幹線でかみのやま温泉へ
新大阪 8:13(東海道新幹線・ひかり462)→ 東京 10:40(東北新幹線・やまびこ59)→ 郡山(マイクロバス)→
二本松(観世寺『安達原』謡蹟探訪)→ 福島 15:48(山形新幹線・つばさ141)→ かみのやま温泉 → (古窯)

 出発の日を迎えました。集合は新大阪駅の改札口に7時55分。加古川の皆さんは在来線で合流されます。7時半ころ新大阪駅に到着、加古川勢は在来線で来られるから、改札を入った所がよろしかろうと入場し、しばらくうろうろとしているとKさんと出会います。二人で待つことしばし、ひと列車早く来たというTさんも合流しました。やがて在来線の到着時刻となり、Mさんと携帯で連絡をとりホームに上がます。発車ホームで加古川からの7人と合流し、到着した「ひかり」に乗車、定刻どおり東京に向かって発車いたしました。車内では配布された資料に目を通す者、今後の行程に備えて英気を養うべく睡眠をとる者、様々な思いを乗せて、列車は一路東京へと向かいます。ただ車内のテロップで日本海側一帯の豪雪のニュースが流れており、長野・新潟では死者5人、積雪70センチにはいささか肝を潰しておりました。


新大阪駅のホームにて

富士川からの霊峰富士


 10時過ぎに静岡駅を通過。好天に恵まれ、車窓からは雪を戴く富士の姿を拝むことができました。この分で行けば本日は天候の心配は無用かも知れません。
 定刻に東京駅に到着、それぞれ駅弁を手当てして、東北新幹線へと乗り替えます。上野、大宮、宇都宮と過ぎて、やがて那須塩原駅です。那須郡那須町芦野には『遊行柳』にちなんだ、何代も植え継がれてきた柳があり、西行の歌碑、芭蕉の句碑なども建てられています。また那須町湯本には『殺生石』の謡蹟がありますが、ちょっと交通の便が悪い。今回の旅では割愛せざるを得ないでしょう。


 奥の細道
 これより殺生石に行く。館代(くわんだい)より馬にて送らる。この口付(くちづき)の男「短冊(たんじやく)得させよ」と乞ふ。やさしきことを望みはべるものかなと、

   野を横に馬引き向けよほととぎす

 殺生石は、温泉(いでゆ)の出づる山かげにあり。石の毒気いまだほろびず、蜂・蝶のたぐひ、真砂(まさご)の色の見えぬほど、かさなり死す。
 また清水流るるの柳は、芦野の里にありて、田の畔(くろ)に残る。この所の郡守戸部某(こほうなにがし)の「この柳見せばやな」と、をりをりにのたまひ聞こえたまふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日(けふ)この柳のかげにこそ立ち寄りはべりつれ。

   田一枚植ゑて立ち去る柳かな


 いくつかのトンネルを抜けて、関東地方からいよいよ東北地方へ突入です。トンネルを抜けると、それまでの関東平野では見られなかった積雪により、沿線の田畑はすっぽりと白一色に覆い尽くされています。川端康成ならずとも「国境のトンネルを抜けると雪国」になるようです。
 さてここからいよいよ「みちのく」ですが、謡曲では東北地方は「陸奥」とか単に「奥」となっていて、現在の県ほど明確な区分はありません。太平洋に面している、青森、岩手、宮城、福島の四県を一括して「陸奥(みちのく)または(むつ)」とし、日本海に面する秋田、山形の二県が「出羽(でわ)」となっていて、特に「都」から遠いこれらの地区は単に「奥」とか「陸奥」「出羽」で片づけていたのですね。謡曲に出てくる「奥」の具体例としては、

隅田川  ワキ「この幼き者をばそのまゝ路次に捨てゝ。商人はへ下って候。
善知鳥  地謠「遙々と客僧はへ下れば。
安宅   ワキ「判官殿十二人の作り山伏となつて。へ御下向の由頼朝聞こし召し及ばれ。
     ワキ「判官殿は秀衡を頼み給ひ。
遊行柳  ワキ「これよりへと志し候

などがあります。
 またワキの「出羽の羽黒山より出でたる山伏」は、『葛城』と『野守』に登場しています。

 とやかう申すうちに、これははや郡山(こほりやま)に着いて候。


郡山駅

バスに乗り込む


 郡山駅ではそれほど激しくはありませんが、雪が乱れ舞っておりました。一同待機してくれていたバスに乗車、一路『安達原』の謡蹟である二本松の観世寺へと向かいます。行くほどに降る雪は激しくなり、折角の謡蹟探訪が台無しになるのではないかと心配しておりましたところ、あーら不思議や、二本松市内に入り観世寺が近付くにつれて、雪は止み青空すら覗いています。一同の日ごろの行いに天も心を動かしたものでありましょうか。


観世寺山門

鬼女を埋めたという黒塚


 『安達原』の謡蹟である観世寺は、境内に巨岩が折り重なり、かつてここに鬼女が棲んでいたかと思わせるに十分の雰囲気でした。これについては、別項の「
能のふるさと・謡蹟めぐり『安達原』」で詳述していますので、そちらをご参照ください。

 観世寺から再びバスで福島駅に向かいました。


 奥の細道
 等窮(とうきゆう)宅を出でて五里ばかり、檜皮(ひはだ)の宿を離れて、安積山(あさかやま)あり。道より近し。このあたり沼多し。かつみ刈るころも、やや近うなれば、「いづれの草を、花がつみとはいふぞ」と、人々に尋ねはべれども、更に知る人なし。沼を尋ね、人に問ひ「かつみかつみ」と尋ねありきて、日は山の端(は)にかかりぬ。二本松より右に切れて、黒塚(くろづか)の岩屋一見し、福島に宿る。


  ちょっとより道

 ここ二本松の地は、『智恵子抄』で有名な高村光太郎の妻智恵子のふるさとであり、智恵子記念館、智恵子の杜公園がある。以下、智恵子記念館のパンフレットより。

 智恵子が愛してやまなかった
 「ふるさと……阿多多羅」
 その純朴さを残す町なみの中に
 智恵子を育んだ「生家」が
 当時の面影をそのままに甦りました。
 明治の初期に建てられた生家には、
 造り酒屋として新酒の醸成を伝える
 杉玉が下がります。
 屋号は「米屋」、酒銘「花霞」
 二階にある智恵子の部屋からは
 今にも 智恵子が降りて来そうな
 気配が漂います。




 芭蕉は福島で宿り、翌日信夫の里を訪ねており、そこは福島市内の阿武隈川の右岸のあたりらしい。そこから謡曲とも縁の深い佐藤継信・忠信の父親である佐藤庄司の旧跡を尋ねています。
  陸奥(みちのく)の忍ぶもぢ摺り誰故に乱れ初めにし我れならなくに
とは、古今集に収められた河原の左大臣すなわち源融(みなもとのとおる)の歌で、百人一首にも取り入れられています。源融を主人公とした曲は、その名のとおり『』があります。では上記の歌を章句に取り込んだ曲にはどんなものがあるでしょうか、ちょっと拾ってみました。

花筐
シテ「陸奥の安積(あさか)の沼の花がつみ  地「かつ見し人を恋種(こひぐさ)の。忍捩摺(しのぶもぢずり)誰故ぞ乱れ心は君の為。

采女
クセ「葛城(かづらき)の王(おほきみ)。勅に従ひ陸奥の。忍捩摺誰も皆。事も疎(おろそ)かなりとて設けなどしたりけれど。

錦木
サシ シテ「陸奥の忍捩摺誰ゆゑに。乱れ初(そ)めにし我からと  シテ・ツレ「藻に棲む虫の音に泣きて。壁生草(いつまでぐさ)の何時かさて。

小塩
クセ「春日野(かすがの)の。若紫(わかむらさき)の摺衣(すりごろも)。忍ぶの乱れ。限り知らずもと詠ぜしに。陸奥の忍捩摺誰ゆゑ乱れんと思ふ。我ならなくにと。詠みしも紫の色に染(そ)み香にめでしなり。


 奥の細道
 明くれば、しのぶもぢ摺(ずり)の石を尋ねて、信夫(しのぶ)の里に行く。はるか山かげの小里に、石なかば土に埋れてあり。里の童来たりて教へける「昔はこの山の上にはべりしを、往来(ゆきき)の人の麦草をあらしてこの石を試みはべるをにくみて、この谷に突き落せば、石の面(おもて)下ざまに伏したり」と言ふ。さもあるべきことにや。

   早苗(さなへ)とる手もとや昔しのぶ摺(ずり)




福島駅

「やまびこ」と「こまち」を連結


 福島駅からは東北新幹線とは別れ、山形新幹線の「つばさ」に乗車します。
 山形新幹線は、ミニ新幹線方式により平成4年に開業した福島県の福島駅から山形県の新庄駅までを結ぶ路線ですが、早い話、従来の奥羽本線を走る特急列車に毛の生えたものといったらJR東日本に叱られそうですね。福島〜新庄間は「つばさ」のみの運行ですが、福島〜東京間は「やまびこ」と連結して運行しているようです。これは秋田新幹線についても同様で、ちょうど福島駅の反対側のホームに、秋田新幹線の「こまち」を接続した「やまびこ」が停車しておりました。ただ連結部分に何か違和感があります。


車窓からの雪景色

民家の屋根の積雪


 新幹線「つばさ」から眺める沿線の雪景色は、日ごろ豪雪を見なれていない者にとっては、すさまじいの一言に尽きます。特にトンネルを抜け米沢駅を過ぎたあたりでは、野山も民家もすっぽりと雪に埋もれておりました。この吹雪の中を遅延もせず、よく走れるものだと感心いたします。これが東海道新幹線であれば、関ヶ原のあたりで徐行、徐行の繰り返しでしょう。

 車窓から雪景色を眺めていると、ふと柳宗元の詩「江雪」が頭をよぎりました。

   江雪   柳宗元
  千山鳥飛絶   千山 鳥飛ぶこと絶え
  萬徑人蹤滅   万径 人蹤滅す
  孤舟簑笠翁   孤舟 蓑笠の翁
  獨釣寒江雪   独り釣る 寒江の雪


  ゆきに埋もれた山なかは
  人の往ききも絶えはてて
  ちいさな舟にみのとかさ
  独り釣りするおじいさん


 17時前に目的のかみのやま温泉駅に到着、ここから旅館の送迎バスで今宵の宿りである「日本の宿 古窯(こよう)」にたどり着きました。


薄暮のかみのやま温泉駅

日本の宿「古窯」(翌朝の撮影)


 ここ山形県上山(かみのやま)市は、山形市の南方約10キロの地点、蔵王の麓に位置し、人口3万3千人という小規模な都市です。今宵の宿「古窯」をはじめとする温泉旅館が軒を連ね、上山城、斎藤茂吉記念館などの観光地があり「蔵王と城と茂吉のふるさと」がキャッチフレーズのようですが、今回は宿泊のみで、観光はまた次の機会に、ということになりました。

 今宵の宿「古窯」の自慢のひとつが温泉です。「憂きことを忘る至福の湯」と称して、8階の湯からは、雄大な蔵王の山並みや、茂吉のふるさと湯の町が一望のもとに見渡せるということでしたが、我々が入浴した時は日の暮れた後、下界の街灯らしきものがちらほらと見えただけでした。また1階には紅花風呂とて、「京の都と北前船で結ばれた歴史に、思いを馳せてゆったりと」湯に浸かるのがよろしいようでありました。
 さらに館内の壁際いたるところに「楽焼ギャラリー」と称して、各界の著名人による皿絵が展示されています。これは素焼きの皿に絵付けをすると、翌日にはその作品を持ち帰ることができるとのこと、夕食の箸袋には遺された作品の一部が印刷されていました。下の絵がそれで、小さくて判りにくいのですが、皿絵の作者のみ紹介しますと、左上から順に、石原裕次郎、阿刀田高、君島一郎、中条きよし、市川昭介、道場六三郎の各氏の作品です。
 我々の部屋の担当となったお嬢さんは、中国から来たという“小徐(シャオシュー・徐ちゃん)”。なかなか達者な日本語をしゃべります。中国籍は彼女だけですが、韓国からのお嬢さんもひとり勤務しているようでした。東京の銀座にもチェーン店があるようで、当館との人事交流もあるのでしょうか。あるいは、当地で修行して銀座に配転になるのかな?


「古窯」の箸袋


 ゆったりと湯に浸かり、美味なる夕食を頂戴して、豪雪に肝を潰した初日の旅が終わりました。明日はいよいよ山形から、この旅の本命である「黒川能」の里を目指します。期待に胸を膨らませながら就寝。

 

(2012.3.4 記録)


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