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 気まぐれ紀行の先頭
二条城と京都御所


京都御所・二条城を訪ねて 2012.4.5(木)
 ≪菊と葵の和合と相克の跡をゆく≫

 南海泉佐野駅 7:10 ⇒ 京田辺PA 8:45 ⇒ 京つけもの西利本店 9:20〜9:50 ⇒
 二条城 10:00〜11:30 ⇒ 智積院会館 12:10〜13:10 ⇒ 京都御所 13:30〜15:00 ⇒
 嵐山 15:50〜17:10 ⇒ 京田辺PA 18:15 ⇒ 南海泉佐野駅 19:40



 3月も下旬に入った頃、読売新聞泉州営業所企画の「京都御所春季一般公開と世界遺産二条城・桜の嵐山」なるツアーの折込広告を、かみさんが見つけました。「京都御所なんて行ったことないなー、いっぺん行ってみたいな」とのたまいます。当方、この2月には東北地方を豪遊したばかりのこととて、これに逆らえる勇気などは持ち合わせておりません。京都御所、大いに結構、参りましょう、と話はとんとん拍子に決まり、かみさんは申し込み手続きをさっさと済ませた次第です。
 旅行の日取りは4月5日(木)、京都御所の一般公開が4月4日から始まりますので、それに合わせた日程なのでしょう。

 4月5日を迎えました。予報ではまずまずの天気ですが、京都あたりではにわか雨の可能性もあるとか。7時前に家を出て南海泉佐野駅に参ります。駅前のターミナルにはいろんなツアーがあるようで、すでにバスが3台ばかり停車しておりました。7時頃に我々の乗るバスが到着、ここからは5人ほどのメンバーが乗車しました。我々のバスは1号車となっており、この企画でもう一台のバスが出ているようでした。
 ここから参加者を拾いながら、熊取、貝塚を経由して阪和道、近畿道、第二京阪道を経由して京都に向かいます。途中8時45分ころ京田辺PAでトイレ休憩をとりますが、出発時はそこそこよい天気だったものが、空一面に暗雲が立ち込め、若干厭なムードが漂い始めておりました。


南海泉佐野駅からバスに乗り込む

京田辺パーキングエリア


 京都に到着して、最初に降り立ったところは、堀川通、西本願寺の前にある京つけものの店「西利本店」。店内は清潔感あふれる状態で、トイレなどは大理石で作られているとか。漬物とワインのサービスがありましたがこれが結構美味しい。かみさんならずとも私でも土産に買って帰ろうと思ったくらいです。立て続けにバスが到着し、店内はあっという間に芋の子を洗う状態になりました。その中で御婦人がたは必至のお買い物です。漬物といえばぬかみそ臭さをイメージしますが、店内内からは「ぬかみそ」の「ぬ」の字も感じられません。古い体質の漬物屋さんが近代的に脱皮したという感がありました。
 30分ほどの買い物タイムが終り、いよいよ二条城です。


京つけもの「西利本店」





店内での買い物




二  条  城

 10時過ぎに二条城に到着しました。平日というのに入場口である東大手門は、観光客でごった返しておりました。我々のバスの隣にはフランスからの一行のバスが停まり、金髪やら碧眼の一行を吐き出しています。国際色豊かな光景で、世界遺産の面目躍如たるものがあります。


二条城東南隅櫓(絵葉書より)


 慶長6年(1601)徳川家康の命により、奉行板倉重勝が差配、市中の多数の労役者の力により着工され、翌年3月に完成した。
 京都の守護と上洛の際の宿所がその目的で、二条城新御所などと呼ばれ、はじめは小規模なものであった。家康の征夷大将軍の拝賀および二代秀忠の将軍宣下は、この二条城で行われた。
 その後も造営は続けられ、伏見城の遺構をここに移し、寛永3年(1626)三代将軍家光が、ここに後水尾天皇を迎えた頃、その規模は最も拡大され、五層の天守閣もそなえていた。しかし寛延3年(1750)に落雷のため天守閣を焼失、また天明8年(1788)には市中の大火にあい、本丸御殿、櫓の多くを焼失した。
 文久3年(1863)、十四代将軍家茂が入城、攘夷の実行を誓い、また慶応3年(1867)には十五代将軍慶喜が、この城中で大政奉還を決意し、上表の使者を出している。
 明治4年(1871)、二の丸内に京都府庁が設置され、明治17年宮内省に属し二条離宮と改称、明治26年には本丸御殿跡に京都御所にあった桂宮御殿が移築され、本丸御殿と呼称されている。昭和14年(1939)京都市の所有に移り史蹟に指定された。
 城構は平城で、本丸・二の丸の二部よりなり、周囲には幅13ないし17メートルの濠をめぐらし、東西約480メートル、南北約360メートルあり、国宝二の丸御殿をはじめ、台所、御清所、東南・西南両隅櫓、東・北大手門、土蔵、本丸御殿などの重要文化財がある。
          (城内説明書きより)




二条城入口の東大手門付近

東大手門


 人ごみに流されるように城内に入ります。周りからは声高にしゃべる中国語とハングルが耳に飛び込んできます。入城した正面の築地塀を左に廻ると唐門があり、その奥が国宝の二の丸御殿です。
 桃山時代の武家風書院造りの代表的なもので、車寄(くるまよせ)に続いて遠侍(とおざむらい)、式台(しきだい)、大広間(おおひろま)、蘇鉄の間(そてつのま)、黒書院(くろしょいん)、白書院(しろしょいん)の6棟が、東南から北西にかけて少しずつ後ずさりする雁行の形で立ち並んでいます。
 建物面積3,300平方メートル、部屋数33、畳は800畳あまり敷かれているそうです。
 御殿のそれぞれの間に施された狩野派による小壁画は、近世初頭の美術の精華とされるもののようです。以下、京都新聞出版センター発行のパンフレットからの転載です。

 近世初頭の武家建築の遺構を伝える二の丸御殿書院群は、その端正な佇まいと趣向を凝らした内部構造の見事さで、国宝の名に恥じない。加えて、各室に施された絢爛たる障壁画の魅力も強い印象を与えてくれる。
 障壁画とは、襖、壁貼付、杉戸などに描かれた装飾画で、桃山時代の大規模な城郭建築の発達と結びついて盛んになった。創建当時の二条城二の丸御殿にも、桃山美術の精粋を極めた障壁画が描かれていたのは確実だ。しかし、寛永の改修で全て取り払われ、作者・画題ともに明らかでない。
 二の丸御殿に現存する障壁画は、その寛永の改修時に新たに描かれたもので、白書院を除くと、全て金箔と濃い彩色を用いた華麗な金碧画である。いずれも幕府の御用絵師を務めた狩野派一門の手になる。二条城古図に張られた付箋によると、遠侍は道味、真設の二人が手がけ、式台・大広間・蘇鉄の間は探幽、黒書院は尚信が担当した。白書院は興以作と伝えられている。寛永期初頭の日本美術の精華であるとともに、桃山時代の様式の遺風を伝えている。


唐門(絵葉書より)

二の丸御殿

 二の丸御殿内部の見学です。遠侍(とおざむらい)から始まり、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院そして白書院と順に回廊を進んで行きます。ここも金魚のうんこ状態、ぞろぞろと牛の歩みの如くでありました。
 それぞれの部屋の障壁画は、前述のようにすばらしいもののようですが、本物はすべて収蔵庫に深く蔵され、我々の目に触れているのは真っ赤な偽物とのことなのです。

●遠侍(とおざむらい)
 二の丸御殿最大の建物。一の間・二の間・三の間・若松の間・勅使の間等に分かれていて、城へ参上した大名の控えの間に当てられていた。一の間から三の間は虎の間とも呼ばれ、襖には竹に虎と豹が描かれている。将軍が朝廷からの使者を迎えた対面所が勅使の間である。
●式台(しきだい)
 式台は挨拶を意味する色代とも書いた。将軍に従って上京した老中が詰めており、参内した諸大名が老中職と挨拶を交わしたところである。
●大広間(おおひろま)
 将軍が諸大名と対面した部屋で二の丸御殿の中で最も公的な意味を持つ格式の高い部屋である。主室である一の間から、二の間、三の間、四の間が矩形に続いている。四の間は警護の武士が控えていたことから槍の間ともいう。
●黒書院(くろしょいん)
 小広間とも呼ばれ、大広間より一回り規模が小さい。将軍の内向きの対面所で、私的な応接室の役割を担った。
●白書院(しろしょいん)
 御座の間と呼ばれ、将軍の居間寝所として使われた。他の御殿に比べ落ち着いた雰囲気で、障壁画も淡彩の山水図や花鳥図になっている。




黒書院外観

白書院外観


 二の丸御殿をひと巡りして、庭園に向かいました。二の丸庭園の入口に、二つの梵鐘が置かれています。韓国人らしい男女数名が鐘を背景に写真撮影に余念がありません。彼らが立ち去ってから写真をパチリ。その説明書きによれば、


 この鐘は、幕末の政変の時期、二条城と北側の所司代との連絡に使われたものです。鐘は二条城と所司代に設置され、二条城では東北隅の艮(うしとら)櫓跡に、所司代の千本屋敷から火の見櫓を移築し、鐘楼も建て鐘が設置された。明治時代二条城に京都府が置かれた時も、非常時に備え使用されていた。幕府の政務の場であった二条城と所司代は幕末の混乱の中、朝廷側との政争で緊迫していた。薩摩・長州など朝廷側の動向に備え、鳥羽伏見の開戦など非常時の連絡を告げ、住民にも知らせるため鳴らされたものです。


釣鐘

二の丸庭園入り口


 塀の内には特別名勝「二の丸庭園」が拡がっています。小堀遠州が作庭した池泉回遊式庭園ということのようです。以下、説明書きによります。


 池を中心とした書院造り庭園であり、庭には三つの島を置き、四つの橋を架け、西北隅には滝を落し、池の汀に多くの岩石を配した景観は、変化に富んで秀麗であり、豪壮な趣がある。
 庭園は大広間の西、黒書院の南に位置し、主として大広間からの観賞を想定として造られているが、寛永三年の後水尾天皇行幸の際、行幸御殿が庭園の南側に建造されたことから、南方からの観賞も配慮して、庭園南部の石組に変更を加えた形跡が見られる。
 作庭年代については、記録や作風から推察して、慶長8年(1603)の二条城築城の際に、その建築に調和させて造営されたもので、後水尾天皇の行幸の際に、数多くの名園を手がけた小堀遠州によって一部改修が加えられ、今日に至ったものと考えられる。
 桃山末期から江戸初期に大成された書院造の大建築に伴う庭園の特徴をよく示しており、現存する歴史的庭園の中でも最も優れた作品の一つに数えられている。



大広間側からの二の丸庭園の眺望


 二の丸庭園から本丸へ向かいます。内堀に架かる東橋の手前に奇妙なオブジェが展示されていました。「孔雀」と「一歩」はなんとなく理解できるのですが、「脈脈」というのがよく分りませんでした。
 本丸の入口である本丸櫓門をくぐると本丸庭園が拡がっており、右手に本丸御殿があります。


「孔雀」


「一歩」


「脈脈」

本丸櫓門

 寛永3年(1626)に徳川家光により造営された本丸は、五層の天守閣と4棟の御殿で構成されていということですが、落雷や大火によっていづれも焼失しました。現在の本丸御殿は、明治の半ばに京都御所今出川門内にあった元桂宮の御殿を移築したものです。玄関・御書院、御常(おつね)御殿・台所/雁の間などから構成されており、公家住宅の貴重な遺構として重要文化財に指定されています。


天守閣跡

天守跡より西橋を望む


 創建時の二条城の天守は、城の北西部分(現在の清流園の辺り)にあったようです。この天守は、三代将軍家光の時に行われた寛永の大改修にで、淀城に移築され、新たに本丸の南西隅に伏見城の天守が移築されました。この二つ目の天守は、取付矢倉と小天守が付属する複合式の層塔型5重5階の天守でしたが、寛延3年(1750)の落雷により焼失し、以後再建されることはありませんでした。


本丸・御常御殿

車寄


 御常御殿は、本丸御殿の移築に合わせて造られた平坦な本丸庭園に面しています。緩やかな屋根で、その上の東奥に数寄屋造りの三層の楼を重ねています。
 車寄と玄関は、正面を西に向けて建っています。唐破風の車寄を入ると、玄関の広間と取次の間、南側に使者の間があるとのことです。


加茂七石

内堀・清流園より東橋を望む


 西橋を渡り、城の最西端にある休憩所に出ました。その向こうには西門がありますが、現在は使用されていない模様です。かつては通常の城への出入りはこの門に限られていたようで、聞くところによると最後の将軍慶喜もこの門から退出したとのことで、二条城と将軍家の決別を観た門でもあるようです。そう思って見ると、ちらほら咲きの桜がなにかしら寂しげです。
 内堀の北側をぶらぶらと進んで北中仕切門をくぐると、清流園が拡がっています。表千家にある残月亭を模したという和楽庵の前に、加茂七石との説明がある石庭があります。畚下(ふぐろ)石、紫貴船石、紅加茂石、糸掛石、畑石、鞍馬石そして八瀬真黒石、これらを加茂七石というようですが、門外漢の私にとってはチンプンカンプンでありました。


 

 


ちょっぴり早めだった清流園の桜


 内堀を隔てて本丸の北側に拡がる清流園は、昭和40年に完成したとのことです。以下その説明書きです。

 清流園は、面積約5千坪で池泉廻遊式山水園と、芝生の広場からなっている。
 この庭園は、高瀬川一之船入のところにあった約300年の歴史を持つ旧角倉了以の屋敷の一部と、名園であった庭園の池石約800個をもとに、全国から集めた名石約300個をそれに加え、昭和40年に完成したものである。
 園内にはお茶室和楽庵や香雲亭がある。

 清流園とその右にある緑の園には、ソメイヨシノ、シダレザクラ、ヤマザクラなどが植えられており、3月下旬から4月中旬にかけて見事な花を咲かせるとのことでしたが、訪れたときにはまだチラホラ咲き、花見には若干早すぎたようでした。
 また園内にはシダレエンジュという珍しい木が植えられているようです。以下、その説明です。


 えんじゅ(槐)の変種でまめ科に属する落葉喬木である。花期は7〜8月で蝶形の小さい白い花をつける。
 原産地は中国にて、中国では古来より出世の木として中庭等に植える風習があり、又縁起木として豪族の屋敷内に多数植えられ、その一族の繁栄の象徴とされたといわれる。


土産物売り場

城内からの東大手門と番所


 清流園から二の丸御殿の東側にある休憩所の近くまで帰ってきますと、土産物のブースがずらりと並び、結構な人だかりです。隣近所へのお土産を見つくろい、休憩所でひと息入れてバスへと帰りました。




智  積  院

 二条城の見学を終えて、東大路の智積院会館で昼食を取ることになっています。12時過ぎに智積院会館に到着、大広間で精進料理の昼食を済ませて、境内を散策しました。はじめ、ここが智積院であることが分っておらず、でっかいお寺やなー、と思いながらそぞろ歩き。けれども何かしら記憶の片隅に引っかかるものがあります。正面の門柱にある「智積院」の文字を見て、かつて訪れたことを思い出しました。5年ばかり以前、この界隈の郵便局を廻った際に、この寺に参拝したことがありました。


智積院本堂

御朱印

 智積院の正式名称は、五百佛山智積院根来寺(いおぶざん ちしゃくいん ねごろじ)で、本尊は金剛界大日如来。真言宗智山派の総本山です。以下 Wikipedia によります。


 智積院は、もともと紀州根来山大伝法院の塔頭であった。大伝法院は真言宗の僧覚鑁(かくばん)が大治5年(1130)、高野山に創建した寺院だが、教義上の対立から覚鑁は高野山を去り、保延6年(1140)、大伝法院を根来山に移して新義真言宗を打ち立てた。智積院は南北朝時代、この大伝法院の塔頭として、真憲坊長盛という僧が建立したもので、根来山内の学問所であった。
 近世に入って、根来山大伝法院は豊臣秀吉と対立し、天正13年(1585)の根来攻めで、全山炎上した。当時の根来山には2千もの堂舎があったという。当時、智積院の住職であった玄宥(1529〜1605)は、根来攻めの始まる前に弟子たちを引きつれて寺を出、高野山に逃れた。玄宥は、新義真言宗の法灯を守るため智積院の再興を志したが、念願がかなわないまま十数年が過ぎた。
 関ヶ原の戦いで徳川家康方が勝利した翌年の慶長6年(1601)、家康は東山の豊国神社(豊臣秀吉が死後「豊国大明神」として祀られた神社)の付属寺院の土地建物を玄宥に与え、智積院はようやく復興した。さらに、三代目住職日誉の代、元和元年(1615)に豊臣氏が滅び、隣接地にあった豊臣家ゆかりの禅寺・祥雲寺の寺地を与えられてさらに規模を拡大し、山号を現在も根来に名を残す山「五百佛山」、復興後の智積院の寺号を「根来寺」とした。


智積院正面の門柱

玄宥僧正像


 智山派大本山として有名なものは、「成田山」として知られる千葉県成田市の成田山新勝寺、「川崎大師」の通称で知られる神奈川県川崎市の川崎大師平間寺(初詣の人出で例年日本一を争う)及び東京都八王子市の高尾山薬王院などがあり、智積院会館の係の方に聞いたところ、関東からの関係者の来館が多いとのことでした。
 余談ですが、四国八十八ヶ所を廻った際、高知県の札所は臨済宗の雪蹊寺を除いてすべて新義真言宗でした(豊山派10ヶ寺、智山派5ヶ寺)。さらに余談ですが、当寺の本尊は金剛界大日如来です(朱印の種子が「バン」である)。四国八十八ヶ所の大日如来もすべて金剛界でした。ところが高野山の根本大塔で頂戴した大日如来の種子は、胎蔵界の「ア」になっていました。なぜ高野山が胎蔵大日如来で四国の諸寺が金剛界なのか、京都の智積院も金剛界大日とすれば、下界はすべて金剛界であるということなのでしょうか。そもそも胎蔵・金剛とは何なのか、またどう違うのか、この基本が解っていないのですから、如何とも仕様がないでしょう。

 昼食休憩が終り、再び車中の人と相成り、本日のメインである京都御所に向かいました。御所に入るには交通規制でもあるのでしょうか、智積院のある東大路から南下し、九条通を西行、京都駅のあたりで北に上り、七条通(?)あたりをまた東へ、鴨川を越えて川端通を北へ、今出川通から烏丸通へという、ぐるぐる廻りのルートを経て、やっと西側の門から京都御苑に進入いたしました。
 御苑の駐車場は大型バスがぎっしりと入場して、各地のナンバーが入り乱れています。観光客相手の出店も多く、オーバーに言えば喧騒の坩堝です。おまけに、悲しいことに御所に到着したときには、じっと我慢していたような空からパラパラと小粒の雨が落ちて来ておりました。




京 都 御 所


 「鳴くよ(794)うぐいす平安京」。かつて日本史の年代を記憶した語呂合わせです。平城京は「なんと(710)大きな平城京」でしたか。大化の改新は「蒸し殺(645)された蘇我入鹿」。受験勉強の名残が50数年を経た今でもまだ息づいているとは、いささか驚きではありますが…。
 京都御所は『草子洗小町』『鵺』などの謠蹟として、以前から訪れてみたい所でした。ただ、お恥ずかしいことに、私は平安遷都以来以下、内裏がずっと現在の地にあったとばかり思っていましたが、説明をみるとどうもそうではなかったようです。以下は京都御所について、菊葉文化協会発行のガイドブックからの転載です。


 延暦13年(794)桓武天皇による平安遷都から明治2年(1869)まで、1075年の長い間、京都は皇城の地であった。平安京の大内裏に、紫宸殿を正殿とする内裏があり、焼亡と再建を繰り返しつつ、造営が成るまでの一時的な皇居として里内裏が幾つかできてきた。
 現在の京都御所は里内裏の一つであった土御門東洞院殿が、これも焼失と再建の間に発展的に拡張されてきたもので、平安京の内裏よりは東に2キロ近く離れた所に位置する。元弘元年(1331)、光厳天皇が土御門東洞院殿で即位され、以来この里内裏は皇居として定着したとみてよい。おおまかな言い方をすれば、平安京の後半五百数十年は現在の京都御所が皇居であった。


京都御所平面図、参観巡路(宮内庁京都事務所発行パンフレットより)


 我々一般公開の参観者は,宜秋門(ぎしゅうもん)から参入し,清所門(せいしょもん)から退出することになっています。通常の参観の場合は清所門から入退場するようです。入場に際して皇宮警察の警察官による持ち物のチェックがあります。特に御婦人のハンドバックは中味までチェックされるということでしたが、実際にはちらっと見るだけで、ほとんどフリーパス。誰かの、あんなチェックだったら、せんでもいっしょやろ、と言う声が聞こえてきましたが、見ていないように見えても、見るべきものはちゃんと見ていると思いますよ。
 余談はさて置き、入場してすぐにある建物が御車寄。続いて諸大夫の間、新御車寄。以下、ガイドブックによる説明を併記します。


宣秋門(ガイドブックより)


御車寄


桜図


鶴図


虎図

新御車寄


●御車寄(おくるまよせ)
 宣秋門を入る公家達は、門で履物を浅香に履き替え、ここから参殿した。毎日午前10時に出勤し、午後3時に退出したという。「牛車(ぎっしゃ)の宣旨」を賜わった貴顕に限り、宣秋門を乗り物で通過して御車寄まで乗りつけることができた。
●諸大夫の間(しょだいぶのま)
 正式参殿のとき、まず諸大夫の間で控えた。西から東へ「諸大夫の間(桜の間)」「殿上人の間(鶴の間)」「公卿の間(虎の間)」と三室が連なっている。参殿者の身分によって控室も別々になっていた。一般公開においては、諸大夫の間の障壁画も公開されている。
  ○原在照(はらざいしょう)筆・桜図(桜の間)
  ○狩野永岳(かのうえいがく)筆・鶴図(鶴の間)
  ○岸岱(がんたい)筆・虎図(虎の間)
●新御車寄(しんみくるまよせ)
 天皇陛下は紫宸殿の南階(十八級階段)で鳳輦(ほうれん)などに乗られ、承明門、建礼門をお出入りになった。明治になって馬車や自動車をお召しになるようになるが、大正4年の即位礼に際して、自動車が利用できるように新築されたのが新御車寄である。新御車寄(しんみくるまよせ)は天皇陛下の玄関であり、その他の者の玄関である御車寄(おくるまよせ)とは言い方が異なる。


建礼門(ガイドブックより)

承明門


 新御車寄の右手には、朱色の柱と白壁の回廊が紫宸殿の南庭を取り巻いています。回廊の西側に月華門、南側に承明門、東側に日華門があり、承明門の南の築地には建礼門があります。承明門を通して正面には左近の桜と右近の橘を従えた紫宸殿が望まれますが、右近の橘は霜除けのため囲いがされて見ることはできません。回廊をぐるりと廻って、日華門より紫宸殿南庭へと入場しました。


●建礼門(けんれいもん)
 京都御所は六つの御門を持っている。南側の築地(ついじ)にあるのが建礼門で御所の正門である。天皇陛下のみが用いられるが、外国の元首もここをお入りになる。
 東側の築地の南寄りにあるのが建春門。唐破風の屋根で勅使等の出入りに用いられたが、明治以降は皇后陛下や皇太子殿下の御門とされ、また外国の首相にも用いられる。ちなみに我々が入場した宣秋門は、公家門、唐門とも呼ばれ、摂家、親王、門跡、公家等が用いた。
●承明門(じょうめいもん)
 承明門は回廊南面の中央、建礼門の内にある。三戸からなり、中央は天皇陛下のご専用である。日華門、月華門と同じく厳儀に扉を開き、門外東西に左右兵衛が陣を整えた。


承明門から紫宸殿を望む


日華門よりの眺め


正面から見た紫宸殿(絵葉書より)


「紫宸殿」扁額


高御座と御帳台(絵葉書より)

●紫宸殿(ししんでん)
 紫宸殿は京都御所の正殿で、即位礼や節会等の厳儀を行うところである。即位礼は本来は大極殿で行うのであるが、安元3年(1177)に炎上の後は再建されることがなく、その後は長く太政官で行われてきた。その太政官も土御門天皇(在位1198〜10)の即位礼を最後に、再建されることもなく応仁の乱(応仁元年・1467〜文明9年・1477)となる。次の後柏原天皇は踐祚後22年目(1521)に当時の里内裏であった土御門東洞院殿の紫宸殿で即位礼をあげられたが、以来、即位礼は土御門東洞院内裏の紫宸殿で行われるようになった。この内裏こそ、数次の焼失・再建を経て拡張されてきたのが現在の京都御所である。京都御所は安政2年(1855)の御造営で、紫宸殿は檜皮葺き屋根の木造高床式純和風宮殿建築─寝殿造り。母屋とその四方に廂(こさし)をつけ、内部は拭板(ぬぐいいた)敷きで化粧屋根裏、外周は柱間ごとに一枚あての蔀を嵌め、四囲に低い高欄を持つ簀子縁(すのこえん)をめぐらす。南面し、正面中央に「紫宸殿」の扁額を掲げ、簀子縁から南庭(だんてい)に南階(十八級階段)を架ける。棟までの高さ二十メートル。前面には白砂の南庭が広がり、東側に「左近の桜」、西側に「右近の橘」が植えられている。
●高御座、御帳台(たかみくら、みちょうだい)
 紫宸殿の母屋中央に高御座が、その東側に御帳台が置かれている。明治天皇、大正天皇、昭和天皇の即位礼はこの紫宸殿で行われ、今上陛下の即位礼は高御座と御帳台を東京に搬送して宮殿で行われた。

 紫宸殿の南庭にある、右近の橘、左近の桜が有名ですが、この日桜はまだ花開いておらず、橘は霜除けの囲いにすっぽりと囲い込まれています。雨の中をしょぼしょぼと、紫宸殿を通り過ぎましたが、お目当ての一つを見ることができず、いささかがっかりでありました。


東庭より清涼殿を望む(ガイドブックより)


清涼殿東廂

母屋(ガイドブックより)


●清涼殿(せいりょうでん)
 紫宸殿を過ぎ、参観順路に従って露台を潜り白砂敷きの東庭に入ると、南側に漢竹(からたけ)、ほぼ中央に呉竹(くれたけ)が籬で囲んで植えてある御殿が清涼殿である。古来よく紫清両殿と呼び慣わされたように紫宸殿とともに由緒ある建物で、枕草子など王朝女流文学と密着した親しみがある。当初は日常のお住まいとして紫宸殿の背後に仁寿殿(しじゅうでん)があったが、宇多天皇のころから清涼殿が日常の御殿になったといわれる。さらに時代がさかせり御常御殿が別に構えられるようになって、清涼殿も儀式用の御殿となる。しかし形式的には日常の御殿たる性格は保持されて現在にいたっている。母屋の四方にも廂をもち、東廂にはさらに弘廂がつく。紫宸殿と同様に寝殿造りであるが、日常の御殿であるため内部は襖などでの間仕切りが多くなっている。
 清涼殿の南廂を「殿上の間」といい、ここに蔵人、公卿などが伺候し、御用を奉仕した。殿上人(てんじょうびと)というのは、ここに昇殿できる者のことである。
●母屋、東廂、弘廂(もや、ひがしびさし、ひろびさし)
 清涼殿は南北に九間(柱間)ある。北四間は蔀が下ろされているが、中央額の間から五間は内部を見ることができる。奥は母屋で、御帳台があり、内部は御倚子(ごいし)を立て、左右に劔璽案(けんじあん)を置いている。御帳台の南に大床子(だいしょうじ)二脚、台盤(だいばん)一脚を置くが、昔はここで晴の御膳(おもの)をお召しあがりになった。
 母屋の手前が東廂で、御帳台の前、厚疊二枚を並べて上に褥を載せた平敷きの御座を昼御座という。右手の屏風前の漆喰で固めたところは石灰壇(いしばいだん)といい、地面になぞらえてここから神宮や賢所を遥拝された。屏風が内側を向いているのは、もとより奥の方、母屋が重要であったからで、延喜(醍醐天皇)天暦(村上天皇)寛平(宇多天皇)三代の日記を納めた厨子その他楽器などが置かれていた。


小御所

童女人形の展示


 清涼殿の東庭を通り、宜陽殿から小御所に向かいます。小御所にはこの一般公開のため、板輿(いたごし)と、小袿長袴(こうちきながばかま)1体,小袿(こうちき)2体,童女(わらわめ)2体,駕輿丁(かよちょう)2体、合計7体の女童の人形が展示されていました。これは内親王のお成りの一部をイメージしており、輿は腰のあたりに添えて運ぶ腰輿(ようよ)で,春慶塗りの塗輿(ぬりごし)です。


●小御所(こごしょ)
 小御所は紫宸殿の東北、清涼殿に背面して立っている。昭陽舎代(昭陽舎は平安内裏で皇太子の御殿)とも呼ばれ、小御所の名称は鎌倉幕府の制度が宮廷に入ったものともいわれる。主に皇太子の元服や立太子礼に用いられたが、幕府の使者や大名の拝謁などにも使われた。特に慶応3年(1867)12月9日の王政復古の大号令が発せられた夜の小御所会議は、明治維新史上画期的なできごとであった。
 昭和29年に鴨川で打ち上げられた花火の落下によって小御所だけ焼失し、昭和33年に復元された。


東庭の蹴鞠(ガイドブックより)

御庭池


●蹴鞠の庭(けまりのにわ)
 小御所と御学問所の間の四角の庭を鞠懸(まりがかり)または蹴鞠の庭という。現在でも国賓などが御所をご覧のときに、ここで蹴鞠が行われることがある。
●御池庭(おいけにわ)
 御池庭は文字どおり大きい池を中心にした回遊式庭園で、前面に洲浜を控え、その中に飛石を配して船着に導いている。右手にゆったりと弧を描いた欅橋(けやきばし)がかかり、対岸の樹間を縫う苑路を廻って様々な景色を楽しむことができる。


御内庭

御常御殿(南庭より)


●御内庭(ごないてい)
 御常御殿の東の庭を「御内庭」といい「御池庭」との境は塀で区切られている。御内庭は曲折した遣り水を流し、所々に土橋、石橋、木の橋を架け、燈籠や庭石を配し、植栽に工夫を凝らしたお庭で、奥に茶室「錦台(きんたい)」を構えている。
●御常御殿(おつねごてん)
 平安内裏では天皇のお住まいとして仁寿殿があったが、以後長く清涼殿がそれに当てられた。御常御殿が別棟で設けられるようになったのは室町時代とされる。現在の御常御殿は紫宸殿よりも大きく、「劔璽の間」を初め、格式のある「上段の間」「中段の間」「下段の間」や「御寝の間」、居住性のよい「御小座敷」など、大小15間からなる。床、違棚をもち、畳を敷き詰めた書院造である。

 一般公開に際しては、各御殿の障壁画が参観できるよう公開されている。ここ御常御殿では、以下のように多くの障壁画が公開されていたのだが、写真の写りが悪く観賞に耐えうるものがほとんどなかったのが残念でした。

 ○中島来章(なかじまらいしょう)筆・和歌ノ意(御小座敷上の間)
 ○塩川文麟(しおかわぶんりん)筆・和耕作図(御小座敷下の間)
 ○狩野永岳(かのうえいがく)筆・朗詠ノ意(一の間)
 ○鶴沢探真(つるさわたんしん)筆・四季花鳥図(二の間)
 ○狩野永岳筆・桐竹鳳凰図(上段の間)
 ○狩野永岳筆・尭任賢図治図(ぎょうにんけんとちず)(上段の間)
 ○鶴沢探真筆・大禹戒酒防微図(だいうかいしゅぼうびず)(中段の間)
 ○座田重就(さいだしげなり)筆・高宗夢賚良弼図(こうそうむらいりょうひつず)(下段の間)

 御常御殿に限らず、公開されている障壁画の作者は、すべて江戸時代末期に活躍しています。もう少し古い時代の作品かと思っていたのですが、わりあい新しかったのでちょっと意外の感がありました。


大禹戒酒防微図

御三間


●御三間(おみま)
 御常御殿の西に「御三間」がある。御常御殿の中にあって日常の御座所としての御居間であった時期もあったが、寛永の御造営に別棟になったという。三つの間は同時に用いられ、涅槃会(ねはんえ)、茅輪(ちのわ・夏越祓え)、七夕、御目出度事御盃(おめでたごとおさかずき・盂蘭盆)などがここで行われた。



休憩所近くの桜が美しい


 御常御殿から御三間にかかるあたりから、雨はようやく上がった様子です。御三間を過ぎて休憩所がありますが、この界隈には桜がちらほらと花開いておりました。
 清所門から退出して、コーヒーで喉を潤し、京都御所を後にしました。




嵯 峨 野 散 策


 京都御所を後にして、バスは本日最後の行楽地である嵐山へと向かいます。正直なところ、嵐山には『小督』『野宮』の謠蹟探訪に4年ばかり以前に訪れていますので、敢えて行くこともないのですが、京の観桜と銘打ったこのツアーでとしては、やはり花の嵐山を割愛するわけにはいかなかったのでしょう。嵐山の渡月橋の近くにあるレストラン嵐山に到着したのが午後4時に少し前、1時間15分ばかりの自由時間となりました。
 小糠雨のような、降っているのかいないのか、はっきりしない空模様ですが、傘はなくても大丈夫のようです。かみさんは「野宮に行きたい」と申します。4、50年ほど前に訪れてから来ていないので、是非とも行きたいとのこと、1時間もあれば落柿舎から二尊院あたりまで行けそうです。それでは参ろうと野宮を目指しました。


野宮に続く竹林

野宮・黒木の鳥居


 野宮への道すがら、京福電鉄「嵐山駅」界隈は、相も変わらず大層な人出です。「美空ひばり座」がありますが、果たして繁昌しているのでしょうか。山陰本線の手前を左折して竹林の中の小径に入りますが、そこそこの人出です。おまけに自動車や人力車が行き交っており、閑静な風情はまるでありません。この雰囲気には、かみさんもいささかがっかりとした様子で、前に来たときはこんなんじゃなかったと、盛んにこぼしております。確かに、私も5年前に訪れた際には、あまりにも俗化している様にがっかりした記憶があります。
 さらに驚いたことには、ウエディング・ドレスをまとったカップルと、それを取り巻く一群の外国人の若者が、記念撮影に余念がありません。装束が白色なので韓国ではないかとおもわれますが、本物の新郎新婦ではなく、雑誌か何かの撮影ではないでしょうか。野宮神社は縁結びや安産祈願の効能もあるようなので、ここにお参りするのはよいのかも知れませんが、源氏物語や謡曲の世界を求めて来た者にとっては、たまったものではありませんでした。


人力車に乗って

意味不明(?)の撮影風景


 雑踏の巷と化した野宮を後に、山陰本線を越えて嵯峨野の散策へと歩を進めました。こちら方面までやって来ると人影もまばらで、やっと落ち着いた気分になれました。
 落柿舎の隣に「有智子(うちこ)内親王の墓」がありました。有智子内親王は嵯峨天皇の皇女で豊かな文才に恵まれており、史上数少ない女性漢詩人の一人です。弘仁元年(810)の薬子の変をきっかけに、初代賀茂斎院に定められたと言われています。


有智子内親王の墓

落柿舎


 落柿舎は向井去来の住居の跡です。以下、同所の説明書きによります。


 ここは、蕉門十哲の一人として名高い向井去来(慶安4年・1651〜宝永元年・1704)の閑居の跡として知られている。当時、庭にあった40本の柿の実が一夜のうちにほとんど落ちつくし、かねて売約中の商人を気の毒に思って価を返してやった。これが落柿舎の名の由来である。
 芭蕉も晩年、三度当庵を訪れ、名作『嵯峨日記』を著わした。
 庭には去来のよんだ
   柿主(かきぬし)や梢(こずえ)はちかきあらし山
の句碑がある。
 去来は長崎の生まれ、芭蕉に師事して俳諧を学び、その芭蕉をして「洛陽に去来ありて、鎮西に俳諧奉行なり」といわしめた。かつて武人であった去来は極めて徳実真摯な人柄で、芭蕉に仕えるさまは、ちょうど親に対するようであった。
 その句
   鴫なくや弓矢を捨てて十余年
はよく知られている。

 ここから二尊院あたりまで行けそうですが、帰りの時間があわただしくなりそうなのと、またもやポツポツと細かい雨が落ちています。そろそろバスへ戻ったほうが賢明であろうと、もと来た道を引き返して行きました。


 5時過ぎに嵐山を離れ、途中、京田辺PAでトイレ休憩、近畿道、阪和道を経て、貝塚・熊取に立ち寄り、最後の地泉佐野駅前に到着したのは7時40分ころとなっていました。
 京都御所見学は、一度は行ってみたいと思っていましたので、ちょうどよい機会でした。ただ、もう少しよい天気で人出が少なければ最高だったのですが、それは欲と言うものでしょう。またこの企画の趣旨の一つが、二条城、御所、嵐山での花見を楽しもう、というものでしたが、雨にたたられたことと開花が少し遅れていたようで、花を愛でるには若干早かったようでした。私の反省点としては、もっと下調べをして行くべきでした。特に京都御所の一般公開時の特別展示物、障壁画などについて、事前の知識があるか否かで、随分対応が異なったと思います。今回は人ごみに流されるままに漫然と見学したに過ぎませんでした。折角の機会を十分に生かせず、心残りの結果となったのはいささか残念でした。




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  (2012.5.6 記録)



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