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 気まぐれ紀行の先頭
能鄕の里紀行


京都御所・二条城を訪ねて 2012.4.13(金)
 ≪僻地の伝統芸能を訪ねて≫

 新大阪駅 8:50(新幹線)→ 米原 9:54(在来線)→ 大垣 10:43(樽見鉄道)→
 樽見 11:51(本巣市営バス)→ 能鄕 12:22  (能・狂言観賞
 能鄕 15:44(本巣市営バス)→ 樽見 16:28(樽見鉄道)→ 大垣 17:32



 今年に入ってから、2月には山形の黒川能の里を訪ね、4月初めには播州室津に小五月祭を訪ね、「棹の歌」を聞くことができました。その2週間後に、岐阜県のはるか山奥にある能鄕の里に伝わる能・狂言に接する機会を得ました。なにかしらこのところ、僻地に伝えられた伝統芸能にとりつかれた感があります。この「能鄕の能・狂言」は当地に鎮座する白山神社に奉納上演されるもので、国の重要無形民俗文化財に指定されているものです。
 4月13日、謠友のMさんと新大阪駅で待ち合わせ、新幹線で米原へ、米原駅で弁当を買いこみ、そこから在来線に乗り換えて大垣へと参ります。大垣駅の6番線から出発する樽見鉄道に乗り込んで終点の樽見を目指しました。


大垣駅で樽見鉄道に乗り換え

沿線の桜(その1)


 樽見鉄道は、国鉄の赤字路線として廃止対象になった樽見線(大垣~神海間)が、昭和59年、西濃鉄道・住友大阪セメントおよび沿線自治体などが出資する第三セクターにより引き継がれた鉄道で、大垣から本巣市樽見に至る34.5キロを走っています。
 この路線は、もともと「大垣~福井県大野~金沢」を結ぶ鉄道として計画されていたようですが、国鉄時代は神海駅までの開業にとどまり、以北の建設は凍結されていました。けれども樽見駅までは7割ほど完成していたことから転換後に工事を再開し、平成元年に延伸開業したとのことです。
 沿線に住友大阪セメント岐阜工場があり、樽見鉄道は、セメント輸送路線としての重要な役割を負っており、このセメント輸送は営業収入の約4割を占めていたそうです。しかしながら住友大阪セメントは2006年3月でセメント輸送貨物列車の運行を終了した。終了後の経営は非常に厳しく、2005年度より沿線5市町から年間1億円前後の財政支援を受け、収支改善計画に取り組んでいるものの最終赤字が続き、財政支援の打ち切りも検討されているなど、路線の廃止が危惧される状況になっているようです。その一方で「薬草列車」や「しし鍋列車」などのイベント列車を運行したり、ショッピングセンターの最寄駅となるモレラ岐阜駅を開設するなど、収入増を図っているとのこと。また「樽見鉄道を守る会」が市民の立場で事業者・行政・利用者とともに、存続活動を進めています。ただ心配なのは、地元の自治体が次年度の資金援助を中止する懸念もあるようで、そうなると樽見鉄道の存続が危ぶまれます。和歌山電鉄の貴志川線のように、地元と一体となって存続してくれることを願ってやみません。


沿線の桜(その2)

根尾川の峡谷


 鉄道の沿線では桜が満開です。桜のトンネルを抜けるように電車は走ります。本巣駅を過ぎてからは次第に上りとなります。電車はトンネルを抜け、蛇行して流れる根尾川を何度も跨ぐように進んで行きます。
 本巣市は、平成16年に真正町・糸貫町・本巣町・根尾村の4町村が合併して生れた、人口約3万5千人の南北に細長い市です。我々が向かっている能鄕の里は旧根尾村に属し、北西に能鄕白山がそびえて、福井県と隣接しています。明治22年(1889)に旧能鄕村は近隣の6村と合併して西根尾村となり、さらに明治37年(1904)に東根尾村、中根尾村、西根尾村が合併して根尾村となったものです。後述する「ノウゴウイチゴ」の発見・命名の歴史から推して、この地は古くから「能鄕」と称していたようですが、「能」を伝えている「鄕」という意味で「能鄕」の名がついたのでしょうか? 「能鄕」の能・狂言とは、いささか出来過ぎの感があります。


鉄橋

樽見駅


 大垣から1時間あまりで樽見に到着しました。乗客の大半は淡墨桜の観桜が目的のようでした。
 ここ樽見の淡墨公園にある淡墨桜(うすずみざくら)は、樹齢1500年以上のエドヒガンザクラの古木として有名です。蕾のときは薄いピンク、満開に至っては白色、散りぎわには特異の淡い墨色になり、淡墨桜の名はこの散りぎわの花びらの色にちなむとのことです。日本五大桜または三大巨桜の一つで、大正11年(1922)に国の天然記念物に指定されています。
 ちなみに「日本五大桜」とは、淡墨桜の外に、
  ●三春の滝桜(福島県田村郡三春町)
  ●山高神代桜(山梨県北杜市)
  ●石戸蒲桜(埼玉県北本市)
  ●狩宿の下馬桜(駒止めの桜とも)(静岡県富士宮市)
をいい、三春の滝桜、山高神代桜と淡墨桜を「三大巨桜」と呼ぶそうです。
 淡墨桜に関して「継体天皇御手植え桜」の伝説があります。(以下は本巣市ホームページより)


 今から1550余年の昔、17代履中天皇の第一皇子市邊押盤皇子(いちのへのおしはのみこ)が皇位継承をめぐって大泊瀬皇子(おおはつせのみこ・21代雄略天皇)に殺害された。
 市邊押盤皇子の長男億計王(おけのみこ・24代仁賢天皇)、二男弘計王(おけのみこ・23代顕宗天皇)、三男橘王(たちばなのみこ)並びに母親の荑媛(はえひめ)は、大泊瀬皇子の迫害から身を守るため、倭(やまと)から丹波へ市川大臣等に護られて避難した。しかし、更に追っ手急なるを知り、億計王と弘計王は、母親の実兄吾田彦(われたひこ)と共に尾張一宮へと落ち延びた。吾田彦というのは応神天皇5世の彦主人王(ひこうしのおおきみ)のことで、彼も大泊瀬の迫害を受け一族離散の悲運に陥り、名前を変えていたのである。夫人や娘の豊媛(とよひめ)とは離れ離れになってしまったが、後に豊媛とは再会し、ここ一宮で一緒に暮らすようになった。また、億計王と弘計王は市川大臣と彦主人王等に護られながら別々の家で暮らすことになった。
 歳月が流れ、弘計王(史実では彦主人王)と豊媛(史実では振姫)も成長し、二人の間に男大迹王(おおどのおおきみ・26代継体天皇)が生まれた。彦主人王は男大迹王を安全な所に隠して養育しようと思い、最近嬰児を亡くした草平(そうへい)夫婦と、同じく女児を出産したばかりの兼平(かねへい)夫婦に、生後僅か50日の男大迹王を託し、人里離れた土地へ出発させた。二夫婦はそれぞれ嬰児を背負い、苦難の末美濃の山奥へ辿り着いた。
 その後は言語に絶する生活を強いられたが、王は立派に成長し、乳兄弟の目子姫(めのこひめ)と結婚された。そして勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ・27代安閑天皇)と檜隈高田皇子(ひのくまのたかたのみこ・28代宣化天皇)が誕生された。
 その頃、男大迹王等は都からの招きで根尾谷を去ることになった。そこで王は、住民との別れを惜しみ檜隈高田皇子の産殿を焼き払った跡に1本の桜の苗木をお手植えになり、次の詠歌一首を遺された。
   身の代と遺す桜は薄墨よ千代に其の名を栄盛(さか)へ止むる
 ずっと後日、男大迹王は丹波の押盤(おしば)邸に入られた。王の御父弘計王は、23代の顕宗天皇であったが在位3年で崩御され、続いて億計王が24代仁賢天皇として即位された。仁賢天皇は在位11年で崩御、次いで即位した25代武烈天皇は、皇継者が無いまま若くして亡くなられた。その後を受けて男大迹王が即位され、ここに26代継体天皇が誕生したのである。継体天皇は82歳で崩御されるまでの25年間が在位であった。その後、長男の勾大兄皇子が27代安閑天皇に、二男の檜隈高田皇子が28代宣化天皇に即位されたという。

 樽見駅のバスターミナルで待つことしばし、能鄕行きのバスが到着しました。後から知ったことですが、このバスは本巣市の運営で無料で運行しています。バスの中で持ち込んだ弁当をあわただしく平らげます。周りの風物を愛でるゆとりもないまま、30分ほどで能鄕に到着しました。


雪を戴く能鄕白山の山なみ

ノウゴウイチゴ発見の地の碑


 ここ能鄕の里は、前述したように福井県との県境にあり、北には雪を戴く能鄕白山がそびえています。能郷白山は、岐阜県と福井県にまたがり、両白山地に属する標高1617メートルの山で、太平洋と日本海の分水嶺となっています。山の上部にはニッコウキスゲなどの花が多い山であり、ノウゴウイチゴは日本で最初にこの山で発見されたのでその名があります。
 境内に「ノウゴウイチゴ発見の地」の碑がありました。よくよく見ると「弘化二乙巳年」の年号が刻されているようです。弘化二年と言えば1845年、徳川12代将軍家慶の時代です。この時に「ノウゴウイチゴ」と命名されたのであれば、当地は少なくとも江戸時代には「能鄕」と称していたということになりそうです。


白山神社の大鳥居


 能鄕白山神社について、Wikipedia 等で調査してみました。
 能鄕白山神社は、養老2年(718)に泰澄が加賀国白山比咩(しらやまひめ)神社より勧請し創建したと伝えられ「北陸七白山」の一つという(北陸七白山の他の神社の一つは大山白山神社という)。創建時は「白山妙理(みょうり)権現」といい、虚空蔵菩薩、十一面観世音菩薩、聖観世音菩薩が祀られていたという。奥宮は能郷白山の山頂にある。元々は奥宮が本宮であったが、地元の人々のために現在の本宮が築かれたという。
 祭神は菊理媛神(白山比咩神・白山権現)、伊弉諾尊、伊弉冉尊。明治6年(1873)郷社に列し、同30年(1897)に現在の社殿が再建され、平成19年(2007)本宮の修復が行なわれた。


白山神社

白山神社社殿


 白山神社は山裾の小高いところに鎮座しています。参道の登り口のところに「能鄕の能・狂言」として、国指定重要無形文化財に指定された碑が建てられています。その右手には「白山神社の指定文化財」の碑が立っていましす。碑文に曰く、


 ●国指定重要無形文化財
   能鄕の能・狂言  昭和51年5月4日指定
 ●県指定有形民俗文化財
   和   鏡    昭和36年3月6日指定
   梵   鐘       仝    右
   能   面       仝    右
   供 物 器       仝    右
   能 狂言 本    昭和36年6月19日指定
   能狂言装束類      仝    右
 ●村指定有形民俗文化財
   鰐   口    昭和31年9月8日指定
   能   管       仝    右
   紺地金泥法華経     仝    右
   紺地金泥金光明経    仝    右
   仏   像    昭和57年6月14日指定
            根尾村教育委員会


能鄕の能・狂言の碑

指定文化財の碑


 本巣市教育委員会などのパンフレットを参考にして「能鄕の能・狂言」について調べてみました。

 「能鄕の能・狂言」は、毎年4月13日の白山神社の祭礼に国土安穏、五穀豊穣、家内安全を祈って奉納するためだけに保存・継承されてきた神事芸能である。この能・狂言の起源については、慶長3年(1598)に白山神社の神官溝尻孫太夫が書き残した「間狂言間語(あいがたり)」があるが、宝物庫が前後2回の炎焼で消失して古い資料が失われているため、それより以前に遡ることが不可能である。
 「能鄕の能・狂言」には独自の特徴があり、現在の能の演じ方とは趣きが異なる。すなわち、シテ方やワキ方は装束をつけて時折身振りをするのみで、詞章は地謠が担当している。また現行五流にはない曲目が伝えられており、14世紀に観阿弥や世阿弥によって集大成された現在の能よりも古い歴史があると考えられる。
 「能鄕の能・狂言」は、能鄕地区の猿楽衆16戸にのみ伝えられてきた。その継承は世襲制であり、演目はすべて口伝のみで厳格な規律を持っていた。しかし時代の流れとともに後継者不足という課題は避けられず、現在では地域全体で協力して保存に努めている。
 明治以降、衰退の一途をたどっていた「能鄕の能・狂言」は、昭和30年に京都大学の猪熊(いのくま)教授にその価値を見出され、昭和33年、岐阜県重要無形文化財に指定された。また能・狂言に関連する能面や装束類なども順次、岐阜県有形民俗文化財の指定を受け保護されてきた。そして昭和51年(1976)「能鄕の能・狂言」は、国から重要無形民俗文化財に指定された。

 神社の拝殿の横っ腹には、大きな「猿楽」の額が架けられていました。舞台の前にはビニールシートが敷かれ、ここが観客席ですが坐ると尻が痛そうです。観客席の後方にはかなりの数の写真家が、今や遅しと待機しております。舞台の左手に受付のようなところがありました。本日の番組やパンフレットを頂戴かたがた、Mさんとふたりで若干の寄進をいたしました。


拝殿に掲げられた「猿楽」の額と能舞台


 パンフレットによれば、以下に挙げる16面の能面と4面の狂言面が現存しているそうです。

 ≪能面≫ 16面
  ●式三番面 …… 白式尉・3面、黒式尉・1面
  ●尉系の面 …… 石王尉・1面、子牛尉・1面
  ●鬼神系または鬼畜系の面 …… 顰(しかみ)・1面、獅子口・1面
  ●怨霊系の面 …… 泥顔(でいがん)・2面、蛇・2面、般若・1面
  ●男女面 …… 中将・1面、小面・1面、童子・1面

 ≪狂言面≫ 4面
  ●擬動植物の面 …… 空吹(うそぶき)、賢徳・1面
  ●人間の面 …… 乙御前(おとごぜ)
  ●鬼類の面 …… 武悪・1面

 また、現在奉納される演目として挙げられているのはは以下のようです。

 ≪
  式三番、高砂、難波、田村、八島、羅生門

 ≪狂言
  百姓狂言、夷毘沙門、塩売山伏、二人大名、謎狂言、烏帽子折、粟田口、鐘引、鎮西八郎為朝

 能の演目が以外と少ないのは、いささか奇異に感じられます。パンフレットに記載されているもの以外の曲も奉納されるのでしょうか。ただ能面と対比してみると、女面や鬼畜系の面ががほとんどないことから、これらに関連する能は上演が困難でしょうし、装束の保存状況との関連もあって上記のような演目になっているのかもしれません。

 能・狂言保存会の会長(だと思われます)の御挨拶で本日の奉納が開演されました。



開演を待つ舞台

保存会のご挨拶


 本日の演目は以下のようです。

   式三番
   (狂言)「百姓狂言」丹波淡路
   高砂
   (狂言)烏帽子折
   田村
   (狂言)鎮西八郎為朝
   羅生門


●式三番
 『式三番』は通常『翁』といわれ、神前で最初に行う儀式の舞です。現行の能では新年の初めによく演じられるものです。
 「露払い・翁・三番叟」と続けて演じられます。「露払い」は「千歳(「せんざい」ではなく「ちとせ」と呼ぶようです)の舞」です。文字通り露払いをしていよいよ能を始めるということで、場を清める儀式のようです。この舞は子どもが演じることになっており、今回の千歳はなかなかの美少年で、観客から拍手大喝采でした。恐らく彼は、何年か先には、この伝統芸能を背負っていく中心人物となっていることでしょう。
 「翁」は、国土安穏、家内安全、五穀豊穣を祈って舞われるものです。面白いことに、途中で保存会の会長と思しき方が登場して、寄付をいただいた方の名を挙げて感謝の意を表されていました。
 「三番叟」は、いよいよ神のご出座を願い、冬の間眠っていた地霊を目覚めさせ地固めをするための舞で、荒々しく舞台の隅々を踏み鳴らす動作を繰り返します。


式三番


露払い(千歳の舞)


翁の面をつける


翁の舞


寄付の御礼


三番叟


千歳が鈴を手渡す

黒色尉をつけた三番叟

 式三番に続いて、百姓狂言「丹波淡路」です。通常の演能では『翁(式三番)』の後には『高砂』などのような「神祇物」が続くのですが、能鄕の場合は狂言が間に挿入されています。古態ではこのような形式だったのでしょうか。黒川能の場合は『式三番』に続いて『高砂』や『難波』などの「神祇物」が演じられていました。
 一般に「百姓狂言」といえば、年貢を納める百姓の話なのですが、ことさら「百姓狂言」と銘打っているのには、なにかしら理由があるのでしょうか。よく解っておりません。
 また、ここ能鄕の狂言の装束は、特別な役柄以外は裃のみで演じるようです。

●丹波淡路
 京の代官所へ正月の祝賀に向かう丹波と淡路の百姓が途中で出会います。京に着いて先に代官に挨拶を済ませた丹波の百姓が、淡路の百姓にうそを教えます。それを信じた淡路の百姓と代官との会話があり、代官も百姓の苦労を慰め、祝い歌と舞でもてなすという結末になっています。


丹波と淡路の百姓が京の代官所へ

お代官も百姓と共に舞い祝う


●高砂
 阿蘇の宮の神主友成が都への途次に播州高砂の浦へ立ち寄ると、人品卑しからぬ老夫婦が松の樹陰を掃き清めています。友成の問いに対し老人は「相生の松」の謂れを語り、自分たちはその松の精であると告げて、小舟に乗って沖の方へ消えて行きます。住吉に着いた友成の前に住吉明神がご神体を現し、神舞を舞って御代万歳、国土安穏を祝います。
 通常、現行の能では前後二場から構成されているのですが、能鄕の能では始めから後シテの住吉明神が登場するという、半能のような形式をとります。シテは舞台中央で両手を曲げて仁王立ちのように構え、ときたま足を屈めて体を傾ける外は、ほとんど動きらしい動きがありません。もちろん謡はすべて地謠が担当しています。
 また、囃子方は笛方が2名で、地謠座のあたりに坐り、逆に地謠は太鼓座のあたり、大小の向かって左手に位置していました。なお全曲を通じて、太鼓は登場しない様子でした。


高砂(その1)


高砂(その2)


高砂(その3)

観能風景


●烏帽子折
 有徳人が召使の京六に烏帽子を買いに行かせましたところ、その帰りが遅いので同僚の東六を迎えにやりました。東六は京六と出会いますが、二人とも旦那の宿を忘れてしまい、探してもみつかりません。そこで旦那の好きな歌を歌い踊っていくうちに、宿から覗いた旦那を見つけるというものです。


東六が京六を捜しに行く


歌を歌いながら宿を捜す

●田村
 坂上田村麻呂が清水寺の観音菩薩のご加護によって鈴鹿山の鬼を退治するというストーリーです。『高砂』と同様、始めから後シテが登場し、舞台中央で仁王立ち、時おり膝を屈めた所作をしますが、あまり動きはありません。ただ後半は刀を抜いて、鈴鹿山の鬼と闘う所作が入っています。能1番の所要時間は20分程度でしょう。


田村(その1)


田村(その2)


田村(その3)

田村(その4)


●鎮西八郎為朝
 近頃では釈迦が善人を極楽にやってしまうので、地獄に来る者が少なくなり、地獄では窮乏してしまいました。そこで地獄の閻魔大王は六道の辻に立ち待ち構えているところに、鎮西八郎為朝がやってきました。
 為朝が強力無双ということなので、大王は力持ちの娘と力比べをさせ、負けると地獄に落そうとしますが、為朝も後には引きません。ついには、大王をはじめ地獄の眷族大勢との力比べとなりました。


閻魔大王の登場


為朝がやってきた


大王の娘と力比べ

皆で応援しても為朝に勝てない


●羅生門
 源頼光の家臣の渡辺綱が羅生門で鬼を退治した物語です。渡辺綱が羅生門に来たとき、鬼が現れて争いとなりますが、綱は太刀を抜き斬りかかり、奮闘の末に鬼の片腕を切り落としました。渡辺綱と鬼との立ち廻りがあり、前の2番に比べると賑やかな舞台となっています。ワキの渡辺綱は『式三番』の千歳に扮した美少年で、恐らく将来を嘱望されているのではないでしょうか。なお、この曲の笛方は一人だけでした。
 この『羅生門』は、ワキ方では非常に重い曲なのですが、現行5流ではあまり上演されていません。しかし能鄕ではよく演じられているようですし、本年の黒川能でも拝見しました。観客受けをする解りやすい曲なのでしょうか。ここ能鄕での奉納曲には切能としてはこの『羅生門』しか残っていないからかも知れません。ちなみに、昨年(平成23年)の演能曲目は、式三番、難波、八島、羅生門となっていました。


羅生門(その1) 渡辺綱登場


羅生門(その2) 鬼の登場


羅生門(その3) 綱と鬼の立ち廻り

羅生門(その4) 鬼を退治して凱旋する綱


 『羅生門』が終り、保存会の会長を中心に出演者一同のご挨拶がありました。これで今年の奉納能は終了、地元の皆さんは後片付けに大童の態です。
 このような山奥の僻地に、能・狂言という古典芸能が脈々と伝えられてきたことに、驚きを禁じ得ません。かつては全国各地に土着の神楽や猿楽が、神事として伝承されてきたものと思われます。残念ながら現存するのは僅かになっていますが、そのうちの、黒川能、室津小五月祭の棹の歌、そして能鄕の能・狂言と、本年の4ヶ月の中に3ヶ所までを観ることができるとは思ってもいませんでした。
 ここ能鄕で感じたことの一つに、写真家のマナーの悪さがあります。能舞台の周囲には玉砂利を敷き詰めた白洲がありますが、数人の写真家がその白洲の中に入り、舞台に乗り出すようにして撮影していました。白洲から中は神聖な場所ですし、演能の妨げにもなりかねません。主催者側も厳重に注意すべきでしょう。


フィナーレ

岐阜テレビのインタビュー

 3時44分の市営バスの到着まで時間があります。境内でブラブラとしておりますと、突然マイクを持ったかわいいお嬢さんが近付いてきました。聞くと岐阜テレビのインタビューとのことで、この能の感想を求められました。私は声が出にくいのでMさんにバトンタッチしましたが、折角のテレビ出演のチャンスだったのに惜しいことをしました。

 時間通りバスが到着、能鄕の里を後にしました。樽見で「墨染桜」を見ようかとの計画もあったのですが、電車から沿線の桜をイヤというほど眺めることができましたので、寄り道は中止して、往路の逆をたどり樽見鉄道にて大垣へ、米原経由で新幹線にて帰阪しました。

 なお、樽見駅のすぐ近くには根尾郵便局がありましたが、時間の関係で立ち寄ることができませんでした。この局の風景印には、能鄕の里の猿楽と樹齢1400年の薄墨桜が描かれています。後日印影を入手しましたので掲載します。


根尾郵便局風景印



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 気まぐれ紀行の先頭

  (2012.5.15 記録)



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