今年に入ってから、2月には山形の黒川能の里を訪ね、4月初めには播州室津に小五月祭を訪ね、「棹の歌」を聞くことができました。その2週間後に、岐阜県のはるか山奥にある能鄕の里に伝わる能・狂言に接する機会を得ました。なにかしらこのところ、僻地に伝えられた伝統芸能にとりつかれた感があります。この「能鄕の能・狂言」は当地に鎮座する白山神社に奉納上演されるもので、国の重要無形民俗文化財に指定されているものです。
4月13日、謠友のMさんと新大阪駅で待ち合わせ、新幹線で米原へ、米原駅で弁当を買いこみ、そこから在来線に乗り換えて大垣へと参ります。大垣駅の6番線から出発する樽見鉄道に乗り込んで終点の樽見を目指しました。
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大垣駅で樽見鉄道に乗り換え
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沿線の桜(その1)
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樽見鉄道は、国鉄の赤字路線として廃止対象になった樽見線(大垣~神海間)が、昭和59年、西濃鉄道・住友大阪セメントおよび沿線自治体などが出資する第三セクターにより引き継がれた鉄道で、大垣から本巣市樽見に至る34.5キロを走っています。
この路線は、もともと「大垣~福井県大野~金沢」を結ぶ鉄道として計画されていたようですが、国鉄時代は神海駅までの開業にとどまり、以北の建設は凍結されていました。けれども樽見駅までは7割ほど完成していたことから転換後に工事を再開し、平成元年に延伸開業したとのことです。
沿線に住友大阪セメント岐阜工場があり、樽見鉄道は、セメント輸送路線としての重要な役割を負っており、このセメント輸送は営業収入の約4割を占めていたそうです。しかしながら住友大阪セメントは2006年3月でセメント輸送貨物列車の運行を終了した。終了後の経営は非常に厳しく、2005年度より沿線5市町から年間1億円前後の財政支援を受け、収支改善計画に取り組んでいるものの最終赤字が続き、財政支援の打ち切りも検討されているなど、路線の廃止が危惧される状況になっているようです。その一方で「薬草列車」や「しし鍋列車」などのイベント列車を運行したり、ショッピングセンターの最寄駅となるモレラ岐阜駅を開設するなど、収入増を図っているとのこと。また「樽見鉄道を守る会」が市民の立場で事業者・行政・利用者とともに、存続活動を進めています。ただ心配なのは、地元の自治体が次年度の資金援助を中止する懸念もあるようで、そうなると樽見鉄道の存続が危ぶまれます。和歌山電鉄の貴志川線のように、地元と一体となって存続してくれることを願ってやみません。
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沿線の桜(その2)
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根尾川の峡谷
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鉄道の沿線では桜が満開です。桜のトンネルを抜けるように電車は走ります。本巣駅を過ぎてからは次第に上りとなります。電車はトンネルを抜け、蛇行して流れる根尾川を何度も跨ぐように進んで行きます。
本巣市は、平成16年に真正町・糸貫町・本巣町・根尾村の4町村が合併して生れた、人口約3万5千人の南北に細長い市です。我々が向かっている能鄕の里は旧根尾村に属し、北西に能鄕白山がそびえて、福井県と隣接しています。明治22年(1889)に旧能鄕村は近隣の6村と合併して西根尾村となり、さらに明治37年(1904)に東根尾村、中根尾村、西根尾村が合併して根尾村となったものです。後述する「ノウゴウイチゴ」の発見・命名の歴史から推して、この地は古くから「能鄕」と称していたようですが、「能」を伝えている「鄕」という意味で「能鄕」の名がついたのでしょうか? 「能鄕」の能・狂言とは、いささか出来過ぎの感があります。
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鉄橋
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樽見駅
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大垣から1時間あまりで樽見に到着しました。乗客の大半は淡墨桜の観桜が目的のようでした。
ここ樽見の淡墨公園にある淡墨桜(うすずみざくら)は、樹齢1500年以上のエドヒガンザクラの古木として有名です。蕾のときは薄いピンク、満開に至っては白色、散りぎわには特異の淡い墨色になり、淡墨桜の名はこの散りぎわの花びらの色にちなむとのことです。日本五大桜または三大巨桜の一つで、大正11年(1922)に国の天然記念物に指定されています。
ちなみに「日本五大桜」とは、淡墨桜の外に、
●三春の滝桜(福島県田村郡三春町)
●山高神代桜(山梨県北杜市)
●石戸蒲桜(埼玉県北本市)
●狩宿の下馬桜(駒止めの桜とも)(静岡県富士宮市)
をいい、三春の滝桜、山高神代桜と淡墨桜を「三大巨桜」と呼ぶそうです。
淡墨桜に関して「継体天皇御手植え桜」の伝説があります。(以下は本巣市ホームページより)
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今から1550余年の昔、17代履中天皇の第一皇子市邊押盤皇子(いちのへのおしはのみこ)が皇位継承をめぐって大泊瀬皇子(おおはつせのみこ・21代雄略天皇)に殺害された。
市邊押盤皇子の長男億計王(おけのみこ・24代仁賢天皇)、二男弘計王(おけのみこ・23代顕宗天皇)、三男橘王(たちばなのみこ)並びに母親の荑媛(はえひめ)は、大泊瀬皇子の迫害から身を守るため、倭(やまと)から丹波へ市川大臣等に護られて避難した。しかし、更に追っ手急なるを知り、億計王と弘計王は、母親の実兄吾田彦(われたひこ)と共に尾張一宮へと落ち延びた。吾田彦というのは応神天皇5世の彦主人王(ひこうしのおおきみ)のことで、彼も大泊瀬の迫害を受け一族離散の悲運に陥り、名前を変えていたのである。夫人や娘の豊媛(とよひめ)とは離れ離れになってしまったが、後に豊媛とは再会し、ここ一宮で一緒に暮らすようになった。また、億計王と弘計王は市川大臣と彦主人王等に護られながら別々の家で暮らすことになった。
歳月が流れ、弘計王(史実では彦主人王)と豊媛(史実では振姫)も成長し、二人の間に男大迹王(おおどのおおきみ・26代継体天皇)が生まれた。彦主人王は男大迹王を安全な所に隠して養育しようと思い、最近嬰児を亡くした草平(そうへい)夫婦と、同じく女児を出産したばかりの兼平(かねへい)夫婦に、生後僅か50日の男大迹王を託し、人里離れた土地へ出発させた。二夫婦はそれぞれ嬰児を背負い、苦難の末美濃の山奥へ辿り着いた。
その後は言語に絶する生活を強いられたが、王は立派に成長し、乳兄弟の目子姫(めのこひめ)と結婚された。そして勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ・27代安閑天皇)と檜隈高田皇子(ひのくまのたかたのみこ・28代宣化天皇)が誕生された。
その頃、男大迹王等は都からの招きで根尾谷を去ることになった。そこで王は、住民との別れを惜しみ檜隈高田皇子の産殿を焼き払った跡に1本の桜の苗木をお手植えになり、次の詠歌一首を遺された。
身の代と遺す桜は薄墨よ千代に其の名を栄盛(さか)へ止むる
ずっと後日、男大迹王は丹波の押盤(おしば)邸に入られた。王の御父弘計王は、23代の顕宗天皇であったが在位3年で崩御され、続いて億計王が24代仁賢天皇として即位された。仁賢天皇は在位11年で崩御、次いで即位した25代武烈天皇は、皇継者が無いまま若くして亡くなられた。その後を受けて男大迹王が即位され、ここに26代継体天皇が誕生したのである。継体天皇は82歳で崩御されるまでの25年間が在位であった。その後、長男の勾大兄皇子が27代安閑天皇に、二男の檜隈高田皇子が28代宣化天皇に即位されたという。
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樽見駅のバスターミナルで待つことしばし、能鄕行きのバスが到着しました。後から知ったことですが、このバスは本巣市の運営で無料で運行しています。バスの中で持ち込んだ弁当をあわただしく平らげます。周りの風物を愛でるゆとりもないまま、30分ほどで能鄕に到着しました。
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雪を戴く能鄕白山の山なみ
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ノウゴウイチゴ発見の地の碑
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ここ能鄕の里は、前述したように福井県との県境にあり、北には雪を戴く能鄕白山がそびえています。能郷白山は、岐阜県と福井県にまたがり、両白山地に属する標高1617メートルの山で、太平洋と日本海の分水嶺となっています。山の上部にはニッコウキスゲなどの花が多い山であり、ノウゴウイチゴは日本で最初にこの山で発見されたのでその名があります。
境内に「ノウゴウイチゴ発見の地」の碑がありました。よくよく見ると「弘化二乙巳年」の年号が刻されているようです。弘化二年と言えば1845年、徳川12代将軍家慶の時代です。この時に「ノウゴウイチゴ」と命名されたのであれば、当地は少なくとも江戸時代には「能鄕」と称していたということになりそうです。
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白山神社の大鳥居
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能鄕白山神社について、Wikipedia 等で調査してみました。
能鄕白山神社は、養老2年(718)に泰澄が加賀国白山比咩(しらやまひめ)神社より勧請し創建したと伝えられ「北陸七白山」の一つという(北陸七白山の他の神社の一つは大山白山神社という)。創建時は「白山妙理(みょうり)権現」といい、虚空蔵菩薩、十一面観世音菩薩、聖観世音菩薩が祀られていたという。奥宮は能郷白山の山頂にある。元々は奥宮が本宮であったが、地元の人々のために現在の本宮が築かれたという。
祭神は菊理媛神(白山比咩神・白山権現)、伊弉諾尊、伊弉冉尊。明治6年(1873)郷社に列し、同30年(1897)に現在の社殿が再建され、平成19年(2007)本宮の修復が行なわれた。
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白山神社
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白山神社社殿
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白山神社は山裾の小高いところに鎮座しています。参道の登り口のところに「能鄕の能・狂言」として、国指定重要無形文化財に指定された碑が建てられています。その右手には「白山神社の指定文化財」の碑が立っていましす。碑文に曰く、
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●国指定重要無形文化財
能鄕の能・狂言 昭和51年5月4日指定
●県指定有形民俗文化財
和 鏡 昭和36年3月6日指定
梵 鐘 仝 右
能 面 仝 右
供 物 器 仝 右
能 狂言 本 昭和36年6月19日指定
能狂言装束類 仝 右
●村指定有形民俗文化財
鰐 口 昭和31年9月8日指定
能 管 仝 右
紺地金泥法華経 仝 右
紺地金泥金光明経 仝 右
仏 像 昭和57年6月14日指定
根尾村教育委員会
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能鄕の能・狂言の碑
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指定文化財の碑
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本巣市教育委員会などのパンフレットを参考にして「能鄕の能・狂言」について調べてみました。
「能鄕の能・狂言」は、毎年4月13日の白山神社の祭礼に国土安穏、五穀豊穣、家内安全を祈って奉納するためだけに保存・継承されてきた神事芸能である。この能・狂言の起源については、慶長3年(1598)に白山神社の神官溝尻孫太夫が書き残した「間狂言間語(あいがたり)」があるが、宝物庫が前後2回の炎焼で消失して古い資料が失われているため、それより以前に遡ることが不可能である。
「能鄕の能・狂言」には独自の特徴があり、現在の能の演じ方とは趣きが異なる。すなわち、シテ方やワキ方は装束をつけて時折身振りをするのみで、詞章は地謠が担当している。また現行五流にはない曲目が伝えられており、14世紀に観阿弥や世阿弥によって集大成された現在の能よりも古い歴史があると考えられる。
「能鄕の能・狂言」は、能鄕地区の猿楽衆16戸にのみ伝えられてきた。その継承は世襲制であり、演目はすべて口伝のみで厳格な規律を持っていた。しかし時代の流れとともに後継者不足という課題は避けられず、現在では地域全体で協力して保存に努めている。
明治以降、衰退の一途をたどっていた「能鄕の能・狂言」は、昭和30年に京都大学の猪熊(いのくま)教授にその価値を見出され、昭和33年、岐阜県重要無形文化財に指定された。また能・狂言に関連する能面や装束類なども順次、岐阜県有形民俗文化財の指定を受け保護されてきた。そして昭和51年(1976)「能鄕の能・狂言」は、国から重要無形民俗文化財に指定された。
神社の拝殿の横っ腹には、大きな「猿楽」の額が架けられていました。舞台の前にはビニールシートが敷かれ、ここが観客席ですが坐ると尻が痛そうです。観客席の後方にはかなりの数の写真家が、今や遅しと待機しております。舞台の左手に受付のようなところがありました。本日の番組やパンフレットを頂戴かたがた、Mさんとふたりで若干の寄進をいたしました。
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拝殿に掲げられた「猿楽」の額と能舞台
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パンフレットによれば、以下に挙げる16面の能面と4面の狂言面が現存しているそうです。
≪能面≫ 16面
●式三番面 …… 白式尉・3面、黒式尉・1面
●尉系の面 …… 石王尉・1面、子牛尉・1面
●鬼神系または鬼畜系の面 …… 顰(しかみ)・1面、獅子口・1面
●怨霊系の面 …… 泥顔(でいがん)・2面、蛇・2面、般若・1面
●男女面 …… 中将・1面、小面・1面、童子・1面
≪狂言面≫ 4面
●擬動植物の面 …… 空吹(うそぶき)、賢徳・1面
●人間の面 …… 乙御前(おとごぜ)
●鬼類の面 …… 武悪・1面
また、現在奉納される演目として挙げられているのはは以下のようです。
≪能≫
式三番、高砂、難波、田村、八島、羅生門
≪狂言≫
百姓狂言、夷毘沙門、塩売山伏、二人大名、謎狂言、烏帽子折、粟田口、鐘引、鎮西八郎為朝
能の演目が以外と少ないのは、いささか奇異に感じられます。パンフレットに記載されているもの以外の曲も奉納されるのでしょうか。ただ能面と対比してみると、女面や鬼畜系の面ががほとんどないことから、これらに関連する能は上演が困難でしょうし、装束の保存状況との関連もあって上記のような演目になっているのかもしれません。
能・狂言保存会の会長(だと思われます)の御挨拶で本日の奉納が開演されました。
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