メインホールへ戻る
 気まぐれ紀行の先頭
天河神社参拝記


天河神社参拝記 2012.7.16 ~ 17
 ≪修験の道場を訪ねて≫

 7月16日 近鉄あべの橋 10:20(吉野行き急行)→ 下市口 11:34
       (タクシー)→ 釣瓶寿司(昼食)
       下市本町 13:20(奈良交通バス・中庵住行き)→ 天河大辨財天社 14:20
       天河大辨財天社宵宮祭 19:00
 7月17日 天河大辨財天社例大祭 10:00、能『花月』奉納 13:00
       天河大辨財天社 15:26(奈良交通バス・下市口行き)→ 下市口 16:15頃
       近鉄下市口 16:25 (あべの橋行き急行)→ あべの橋 17:42



 謡友のMさんから「天河社の奉納能を観に行かないか」との誘いのメールが入ったのは、7月3日の夜。久し振りに、北の新地の安物のスナック(お店のママさんごめん)でグラスを傾けているときでした。「多分空いているはずやから仲間に入れて欲しい」旨を返信して、とんとん拍子に話が具体化して行きました。奉納能は7月17日の午後に催行されます。前日から天川に入り民宿で一泊し、観能の後帰途に就こうという計画です。参加はMさん、N女史と私の3人。いずれも大学のOB謠会のメンバーで、N女史は我々より8年ほど後輩になります。今回の企画の言い出しっぺはN女史で、当日の行程策定から宿の手配、奉納能や天川村の資料集めなど、すべて一手に引き受けてやってくれました。


電車を降りると

下市口駅


 7月16日、この日は月曜ですが海の日の祭日。人出でごった返す近鉄の阿倍野橋駅で待ち合わせて、10時20分発の吉野行の急行に乗りこみました。電車の中でMさんが紹介してくれたのが、中村保雄『天河と能楽』(1989)。なかなか面白そうでしたので、私も帰宅してから Amazon にて購入しました。
 橿原神宮駅を過ぎると電車は各駅停車となり、目的地の下市口には11時40分の到着、ここでN女史が予約してくれている「釣瓶寿司」で昼食をとることになっています。
 下市口駅からタクシーで数分、「釣瓶寿司」は閑静な裏通りにひっそりとたたずんでおりました。この店は創業800年を越え、歌舞伎の「義経千本桜」に登場する老舗なのです。
 さて肝心の「義経千本桜」なのですが、その名は幾度となく耳にしてはおりますものの、歌舞伎など観たこともなく、そのストーリーすら知りません。さっそくネット等でその概略を調べてみました。


弥助寿司


 壇の浦で入水したと思われた平知盛が、実は生きていて義経に復讐を企てる、通称「渡海屋(とかいや)」・「大物の浦(だいもつのうら)」、平維盛親子を守るため命を落とした、いがみの権太(ごんた)を描く通称「すし屋」、佐藤忠信に化けた源九郎狐が、義経から両親にゆかりの初音の鼓を授かる「河連法眼館(かわつらほうげんやかた)」などの場面を中心に上演される。『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』と並び、「義太夫狂言」の三大名作のひとつとされている。
 ここ釣瓶寿司が舞台となるのは「三の切」。すし屋「釣瓶鮓」には、主人の弥左衛門・女房のお米、娘のお里、美男の手代弥助が暮らしている。そこに一夜の宿を借りに来た若葉の内侍と六代君。弥助との思わぬ出会いに、彼の正体が三位中将維盛と知れる。寄合いで平家探索の手が下市村まで伸びてきていることを知って戻ってきた弥左衛門。そんな中、勘当されている息子の「いがみの権太」が父親の目を盗んで訪れ、母に無心をして出て行く。いよいよ詮議役の梶原景時がやってきて、弥左衛門は維盛一家を別の場所に移すが、そこに権太が一家を捕らえたと言ってやってくる。絶望する弥左衛門。しかしそれは、権太命がけの親孝行だった。一家は救われ、維盛は出家し高野山へと向かうが、弥左衛門家の権太は絶命しお里は婚約者を失う。

 非道な行動をする悪人として登場した人物が、後に実は善人であったことを明らかにする演出を「もどり」というそうです。「すし屋」では、ならず者の権太が、実家にかくまっていた維盛の首を切り落とし、その首と維盛妻子の身柄を梶原平三に渡し、それを怒った父弥左衛門は権太を刺します。ここで初めて権太は、首は実は偽物で、維盛妻子の身代わりとして自分の妻子を差し出したことを明らかにします。余談ながら、子供のころの悪ガキを「ごんた」とよんでいましたが、それはこの「いがみの権太」が原典であるらしい。
 下市郵便局の風景印には「いがみの権太」が描かれています。後日印影を入手しましたので掲載します。


いがみの権太と吉野川の鮎
を描いた下市郵便局風景印



玄関の待合所

二階の客間


 「弥助」と書かれた門をくぐり、二階の間へと案内されました。この時間、客は我々3人だけの貸し切り状態ようで、ゆったりとした和室で優雅な昼食と相成りました。
 料理は「鮎定食」とでもいうのでしょうか、ともかく鮎、鮎、鮎…。鮎料理を満喫してから、天川行きのバスの時間まで、屋内でのんびりと寛がせてもらいました。
 以下は、当店の由緒書きです。


大和吉野川の鮎を鮨となし、釣瓶形曲桶に漬けて釣瓶鮨をつくる。其の形釣瓶に似たるを以てその名あり遡る千余年前に始まる。文治年間(1185~89)三位中将維盛卿八島敗軍の後逃れて遂に熊野に潜行せらるゝの途次、父平重盛公の旧臣宅田弥左衛門の家に久しく潜匿せらるゝに際し名を弥助と改む。
世俗伝うる処の「院本義経千本桜」其の三段中託する処の釣瓶鮨屋弥左衛門は即ち宅田弥助の祖先なり。其の頃今の庭園を築き維盛塚、お里黒髪塚お里姿見の池等此の内に存在せり。爾来系統連綿相継ぎ釣瓶鮨商を業となし以て今日に達す。
慶長年間(1596~1615)後水尾天皇の朝に当り仙洞御所へ鮎鮨献上せしむるの命あり。それより「御上り鮨処鮨屋弥助」と格式御許容相成り自今屋上に揚ぐる処の招牌は御所より賜ふ所なり。



庭園

吉川英治句碑


 座敷に面して裏山があり、二階から散策できるようになっていました。食後の散歩を兼ねて、もの珍しげにぶらついていますと、吉川英治の句碑がありました。

   浴衣着てごんたに似たるおとこかな

 当店の説明書きによれば「昭和30年に吉川英治夫妻と杉本健吉画伯の吉野探訪のみぎり当地での一句」ということなので、『新平家物語』執筆中の取材であったのでしょう。
 当家の庭園には、平維盛の遺骨を埋めたという「維盛塚」や、『義経千本桜』に登場するお里の黒髪を埋めたという「お里黒髪塚」などがあったようなのですが、それを知ったのは当家に別れを告げた後のこと、店の係の方がその旨を教えてくださっていたらと、残念でなりません。
 『義経千本桜』では、平維盛が当家に匿われていたことになっていますが、史実は如何であったのか。維盛は吉野の山中に逃れ、一説には熊野で自害するということですので、当地にしばらく潜んでいても不思議ではないかも知れませんね。


 バスの時間が近付いて、表通りのバス停に移動します。外は燦々と照りつける真夏の太陽のもと、如何に山奥の地といえどもさすがに暑い。折ふし通りに面して菓子餔があり、店内にて暫時休憩させていただきました。
 13時20分、定刻通りに天河神社方面へのバスが到着し、勇躍乗り込みました。車内はほぼ満席で、意外なことにうら若い女性の姿もちらほら。まさか全員が観能の目的で天河神社に向かうわけではないでしょうが、いささか意外の感がありました。

 さて、これから訪れようとする天川村について、お恥ずかしいことに私はほとんど無知に近い状態です。一般によく知られているのも、内田康夫の『浅見光彦シリーズ・天河伝説殺人事件』によるものではないかと想像します。榎木孝明主演で映画化され、さらに辰巳琢郎および中村俊介の主演で二度テレビドラマ化されています。『道成寺』を舞っていた能の水上流家元の継嗣が変死するというショッキングなストーリーが、能楽に縁遠い一般の視聴者の興味を惹いたものではないでしょうか。私はこれらの映画・テレビも一度も見たことがなく、小説も読んだことがありませんでした。


内田康夫『天河伝説殺人事件』

 せっかく天川村を訪れるからにはと、急遽角川文庫版を購入、当日の車中で読み始めていたところでした。たまたま天川村から帰宅したとき、テレビで辰巳琢郎の『天河伝説殺人事件』が再放送され、はじめて観る機会を得た次第です(小説もドラマもちょっと期待外れでしたが…)。

 閑話休題。再び天川村について…。(以下、天川村のパンフレット等による)
 奈良県吉野郡天川村。高山深谷によって形成された当地は一種の聖域だったとも考えられ、このことが修行者たちの「行場」を開くきっかけとなり、約1300年前に役小角(えんのおづぬ・役の行者)により大峯開山がなされて以来、山岳修験道の根本道場として栄えてきました。時代が下ると弘法大師空海との関わりも深く、大峯山で修行した後、高野山へ至ったその道程には、空海にまつわる多くの史跡・伝承が残されており、空海が庵を結んだ地が「庵住」であるとのことです(天河神社へは「庵住」行きのバスに乗車します)。
 また、大峯連山の一つの弥山に祠られた弥山大神の歴史も極めて古く、天川神社の創建とその隆盛とともに聖域化され、これらに前後して「天ノ川」という河川名が生まれたと考えられます。
 さらに、皇室とのつながりも深く、大海人皇子は壬申の乱に勝利して即位した後、吉野総社として天河社の神殿を造営しています。その後南北朝時代には、南朝方の重要な拠点として後醍醐天皇、護良親王、後村上天皇、長慶天皇、後亀山天皇などを擁護しつづけています。天川村は、天河弁財天社の信仰を核にして繁栄し、ことに南朝天皇による課役免除の綸旨による恩典もあって、経済的にも安定していたようです。


天川村MAP(天川村発行パンフレットより)


 バスは国道309号線を次第に高度を上げながら進んで行きます。緑に囲まれた山間を過ぎて長いトンネルを抜けたところが天川村で、川合の停留所で数人の客が降りました。ここから左手の方に分岐すると、洞川(どろがわ)温泉から大峯山寺を経て奥駆路へと続くようです。
 下市口から1時間10分ほどで、天河大弁財天の停留所に到着しました。バス停の所には喫茶店風の建物がありましたが、無人の様子。山裾に「在原業平朝臣之墓」の案内板がありますが160メートルほど先とのこと、後ほどゆっくりと見学しようと思っていましたが、案の定、結果としてすっかり忘れてしまっていました。とりあえず、今宵の宿である民宿「今西」に向かうことといたします。喫茶店風の建物の横で作業中のおじいさんに民宿の所在を尋ねたところ、思案することしばし、送ってあげるからと車に乗せられ、走らせることものの1、2分でしょうか、あっという間に民宿に到着します。ほんの2、300メートルほどの距離、これには我々一同恐縮することしきり、なんともお礼の言いようもなかった次第でした。


「在原業平朝臣之墓」の案内板

山腹の土砂崩れの跡


 目をあげると前方の山腹の山崩れの跡が目に入りました。昨年9月3日に関西地区を襲った台風12号は、和歌山県を中心として大きな傷跡を残しました。天河神社のあるここ天川村の坪内地域も、山腹が崩壊し土砂が天の川を閉塞、死者1名、人家2棟全壊、58棟床上浸水という大きな被害を受けています。後ほど聞いたところでは、天河神社の社務所も水没、宿泊をお願いした民宿も(やや小高い位置にあるのですが)、床上1メートル以上も水に浸かったとのことでした。


民宿「今西」

民宿の玄関とおかみさん


 民宿「今西」に到着して小休止といたしました。部屋は新しくて気持ちのよい宿です。聞けば昨年の水害で水浸しになったため、内装はすべて新しくしたとのこと、大変な被害だったことでょう。おかみさんは話し出したら止まらないような話好きタイプのおばあちゃん。なかなか楽しそうな宿です。
 ひと息入れて神社へ参拝に参りました。


天河大弁財天社
 

 天河大弁財天社、通称天河神社は日本三大弁財天の一とされています。日本三大弁財天とは、竹生島・宝厳寺、宮島・大願寺と当社をいうようですが、当社の替りに江ノ島の江島神社とする説もあるようです。


天河大弁財天社


 当社のサイトによれば主祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)。市杵島姫命は天照大神が須佐之男命と誓約された時に生まれた神で、三人姉妹の女神の一人。後に仏教の弁才天と習合し、本地垂迹において同神とされています。
 以下、中村保雄『天河と能楽』によりますと、弁財天はインドで仏教成立以前から知られていた神話に登場する、サラスバティー河の神格化であるといわれ、その後水に縁が深いことから水神あるいは龍神として祀られることが多い。さらに、よく流れる河の水はさざ波をたてささやくような音をたてることから、音楽を司る神といわれるようになったということのようです。
 役小角が大峯開山の折、山上ヶ岳で国家鎮守の神を祈誓されると、第一に出現したのが弁財天であったといわれています。しかし弁財天が女性の神である故に、これを麓の天川に祀り、第二に出現した蔵王権現を山上ヶ岳の本尊として祀ったということです。天河社の創始が明確になるのは、時代は下って弘法大師空海が高野山開山直前の3年間、天川を根拠地として大峯修行をした時、ここに琵琶山妙音院と称される七堂伽藍を建立された頃であったといいます。
 その後、京都の公卿や僧侶たちがこの大峯連峰を、仏の国でもありまた浄土でもあるという憧れの地にするようになり、さらに山上ヶ岳の西南にあたる弥山(みせん)の神が弁財天であるという信仰が一般化するにともなって、平安末期頃からは弥山が天河弁財天の奥宮と称される中で、とくに天川にとっては新しい発展があったようです。
 以上『天河と能楽』を参照しました。後述しますが、当社の境内には「南無神変大菩薩」の幟が高々と掲げられ、神事においても多数の修験者が参列して、般若心経が唱和されました。これらのことから推量するに、当社は明治以前は神社というよりは、弁財天を祀る修験道の根本道場であったものが、明治の神仏分離や修験道禁止令などによって市杵島姫命を主祭神とする神社へと変貌したのではないでしょうか。


前鬼鬼童

社殿への階段


 これはN女史から教わったことです。神社の入り口に「大峯本宮 天河大弁財天社」なる石柱が建てられているのですが、石柱の裏には「昭和十七年七月吉日 前鬼鬼童 建之」と刻まれています。前鬼は妻である後鬼とともに、役小角に仕えたとされる夫婦の鬼で、役小角を表した彫像や絵画には、しばしば前鬼と後鬼が左右に従う形で表されているようです。前鬼は善童鬼(ぜんどうき)、後鬼は妙童鬼(みょうどうき)とも称したとのことです。
 前鬼と後鬼には5人の子供があり、五鬼(ごき)または五坊(ごぼう)と呼ばれ、下北山村に修行者のための宿坊を開き、五鬼継(ごきつぐ)、五鬼熊(ごきくま)、五鬼上(ごきじょう)、五鬼助(ごきじょ)、五鬼童(ごきどう)の5家の祖となった。明治初めの廃仏毀釈、特に1872年の修験道禁止令により修験道が衰退すると、五鬼熊、五鬼上、五鬼童の3家は廃業し里を出、その後、五鬼継家も廃業した。小仲坊の五鬼助家のみが今も宿坊を開き、61代目の五鬼助義之が当主となっているとのことで、現在も下北山村には「鬼童」の地名が残されています。



拝殿

御朱印

 朱塗の鳥居をくぐり、太鼓橋を渡ると石造りの鳥居があり、そこから拝殿への階段が続きます。拝殿からは社殿へと上る階段が連なり、階段の上にかすかに社殿が望まれます。拝殿の正面には神楽殿とでもいうのでしょうか能舞台があり、今宵の演奏会に備えて、音響関係の機器が並べられ、調整に余念がありません。


拝殿の鈴

神楽殿では演奏会に備えて…


 当社の拝殿に掲げられている鈴は一風変わった形状をしています。神宝として「五十鈴(いすず)」が伝えられており、拝殿の鈴はその形を模しているそうです。
 以下は、当社の掲示物およびサイトによる「五十鈴」の説明です。

 五十鈴は正式には神代鈴と申し、数千年前から当社のみに残されている青銅製でつくられたものです。歴史的には、天照大御神が天の岩屋にお隠れになった時に、天之宇受売命がこの五十鈴をつけられた矛をその手に持たれ、大地を踏みしめて聖なる舞を舞い、大神を外にお連れし、再び生きるに値する光の世に戻ったとされ、この鈴の音霊の働きは、非常に大切なものであることがうかがえます。
 この五十鈴の特徴的な三つの球形の鈴は、それぞれ「いくむすび(生魂)」「たるむすび(足魂)」「たまめむすび(玉留魂)」という魂の進化にとって重要な三つの魂の状態(みむすびの精神)をあらわしています。


土産に買った五十鈴

五社殿


 参道の階段の中間点に踊り場のようになったスペースがあります。5座の小祠が並んで祀られており、五社殿と呼ばれているようです。ちなみに五社殿とは、石段の方から、龍神大神、大将軍大神、天照大神、天神大神、大地主大神の五体の神々をお祀りしているとのことでした。
 その前方に柵で囲われた巨石が安置されています。「天石」と呼ばれるようで、参道の反対側にも同様の巨石が柵に囲まれて置かれていました。「天石のいわれ」とした説明書きによりますと、

 大峯弥山を源流とする清流は、天の川にそそがれ坪内(壺中天)で蛇行し、その形は龍をしのばせる。鎮守の社、琵琶山の磐座に辦財天が鎮まり、古より多くの歴史を有す。
 この地は「四石三水八ツの社」と言われ、
   四つの天から降った石
   三つの湧き出る清水
   八つの社
に囲まれし処とされ、神域をあらわす。その内三つの天石(一つ石階段右、二つ五社殿前、三つ裏参道下行者堂左)を境内に祀る。

 拝殿を通り抜けると裏参道に続いているのではないかと思います。そこに行者堂があり、その横に三つ目の天石が安置されているのでしょう。四つ目の天石は、天の川の流れの中にあるとのことでした。


五社殿前の天石

石階段右の天石


 社務所で御朱印をいただき、みやげに「五十鈴」を購入いたしました。この「五十鈴」はかなり有名らしいのですが、おそらく映画化されたりテレビで放送された内田康夫の『天河伝説殺人事件』の影響が大きいのではないかと思われます。


 参道と社務所の間にはかりのスペースがあり、奥まったところに小祠が祀られています。「神変大菩薩」の幟が盛んに立てられていますので、役行者をお祀りしているのではないでしょうか。その横には「採燈大護摩厳修 聖護院門跡」の立て看板、広場の中心には杉か檜の葉に覆われた護摩壇が設けられていました。「採燈大護摩厳修 聖護院門跡」といわれてもチンプンカンプン。「聖護院」といえば「八ツ橋」を連想する程度ですから(近年、固いのより柔らかい生八ツ橋のほうが食べやすくなってきました)、お話にもなにもなりません。困ったときの Wikipedia 頼み、ちょっと調べてみました。


準備された護摩壇


 修験道で野外において修される伝統的な護摩法要を、柴燈・採燈(さいとう)護摩という。日本の伝統的な二大修験道流派である真言系当山派では、山中で正式な密具の荘厳もままならず、柴や薪で檀を築いたために「柴燈」と称する一方、同じく伝統流派である天台系本山派では、真言系当山派の柴燈から採火して護摩を修するようになったため「採燈」と称する。

ということのようです。「厳修(ごんしゅ)」とは、仏教で厳かに執り行うこと。
 「聖護院門跡(しょうごいんもんせき)」についても、八ッ橋でお茶を濁すわけにはまいりません。ちょっぴり調べてみました。

 聖護院は京都府京都市左京区聖護院中町にある本山修験宗総本山の寺院。同宗派設立以前は天台寺門宗に属した。山号はなし。開基(創立者)は増誉、本尊は不動明王である。
 日本の修験道の中心寺院の一つ。近世以降、修験道は江戸幕府の政策もあって「本山派」「当山派」の二つに分かれたが、聖護院はこのうちの本山派の中心寺院であった。また、代々法親王(皇族男子で、出家後に親王宣下を受けた者)が入寺する門跡寺院として高い格式を誇った。江戸時代後期には2度にわたり仮皇居となったこともある。


角川春樹の句碑

歌碑


 境内を散策していますと、句碑と歌碑が目に入りました。
 句碑は角川春樹のもので、

   能の地の血脈くらき天の川    春樹

というもの。おそらく「天河伝説殺人事件」の映画化に際し、その撮影時にでも詠んだものではないでしょうか。
 歌碑は、

   雲跳り水鼓をうてり天の川宮さだまりて龍神昇る    保雄

作者の「保雄(であろうと想像しているのですが)」がよく判読できず、またそれが誰であるのか特定できず悩んでおりました。ふと思いついたのが、神社の縁起で参照した『天河と能楽』の著者である中村保雄。この歌の作者は、この中村保雄先生であろうと勝手に決め込んでいます。


 宵宮祭は19時からですので、ひとまず宿に帰ります。すぐ近くに「天の川温泉」があります。Mさんとふたり、夕食までの間を利用して湯につかりに行きました。


 温泉は宿から5分程度の、少し小高いところにあります。村営の温泉場ということで、600円也の入湯料を支払って入場しますと、目につくのがデンと構えた大木の柱。楓の木だそうです。内風呂と露天風呂があって大層結構なのですが、湯船が2メートル四方くらいで、いささか狭い。そこへ宵宮祭の参詣者なのでしょうか、どこから湧いたかと思われるほどの客が入りこんでおり、芋の子を洗う状態です。落ち着いて湯につかっていられる気分ではありません。カラスの行水よろしく、早々に退散いたしました。


天の川温泉

 食べきれぬほどのご馳走の夕食をいただき、宵宮祭にでかけました。


 打ち鳴らされる太鼓の音に引き込まれるように参道の石段を昇ります。拝殿では神官が階段を上り下りして、厳かななかにもあわただしい雰囲気が漂っております。階段を一段ずつ足を揃えて上り下りされるので、必要以上に早足で動いているように見えるのかもしれません。


拝殿では神官の動きもあわただしくなってきた


復興祈願の燈明

 拝殿の階段中央の復興祈願の燈明に灯りが入り、神事が始まりました。気が付くと階段の中段あたりが踊り場のようになっているのですが、そこに山伏姿の修験者が着座されています。聖護院門跡の修験者なのでしょう。驚いたことに、神事が進行してイの一番に玉串を奉奠されたのは、この修験者でありました。
 引き続いて神楽が奉納されます。なかなかしっかりとした華麗な舞でした。
 最後に参拝者全員による般若心経。太鼓に合わせて「観自在菩薩、行深般若波羅蜜多……」を全員で唱えます。まさか神社で般若心経とは…。当社がかつて修験道の道場であった所以なのでしょうか。神仏習合の名残なのでしょうか。肝を潰さんばかりに驚いた次第です。


神楽舞(その1・稲穂を掲げて)


神楽舞(その2・鈴と扇)

 宵宮祭りの最後を彩るのは音霊奉納です。神社での前衛音楽の演奏は珍しいことと思います。当社が芸事の神である弁財天をお祀りしているからでしょう。今宵は Swing MASA Osaka Jazz Womyns の演奏が行われます。
 このグループは、サックスとヴォーカルの Swing MASA を中心とした女性5人で構成されています。彼女は日本と米国とを股にかけて演奏活動を続けているとのこと、私はこの方面に関しては全く無知に等しいのですが、その道の通には有名な奏者なのでしょう。本日の若者の参拝者の大半は、この演奏が目当てなのかも知れません。
 それにしても、その音量の凄まじいこと。歌うというより絶叫していると言う方が適切な表現ではないでしょうか。音量が怨霊に通じそうです。この程度の空間であれば、機器による増幅など不要ではないかと思うのですが、そうもいかないのでしょう。我々3人は演奏が一段落したところで退散いたしました。


Swing MASA Osaka Jazz Womyns(その1)

Swing MASA Osaka Jazz Womyns(その2)


 民宿は神社のすぐ前にありますので、音霊奉納の大音量がガンガンと響いてきます。怨霊退散を心に念じ、ようやく終わったのは夜も更けた頃でしょうか、どうもああいうのにはついて行けんわいと、時代遅れの3人は歎きつつ眠りに就いた次第です。




 天川村での二日目の朝を迎えました。例大祭の神事は10時から行われ、午後1時よりお目当ての能『花月』が奉納されます。
 境内はすでにかなりの人出になっていました。広場では山伏姿の修験者により護摩厳修の準備が進められおり、祈願の受付がありましたので、申し込みを済ませました。社務所の前方は大広場となっており、出店がありテント小屋も設置されていました。大広場の入口付近には天の川郵便局の出張所があり、いろんな郵趣品などの販売に余念がありません。


護摩祈願受付

天の川郵便局出張所


 テント小屋の右手奥に「南朝黒木御所跡」の碑が立てられています。N女史に誘われて石段を上って参りますと、宝篋印塔が建てられてありました。
 当地と南朝の関わりについて、以下天川村のサイトによります。

 南北朝時代は後醍醐天皇による建武の中興(1333年)の3年間と、吉野に都を構えて以降3代の天皇による57年の歴史を数えます。その3分の2以上の期間は、奥吉野の各地に拠点がおかれました。天川の郷でも川合地区の河合寺が黒木の御所として、また沢原地区の光遍寺、坪内地区の天河大辨財天社についても南朝に組しそれぞれ行宮とされました。なかでも天河大辨財天社の行宮では、宮中さながらの栄華を極めたといわれています。嘉喜門院集に「天授三年七月七日吉野行宮御楽あり、嘉喜門院琵琶を弾じ天皇和歌を詠ず」としるされています。
 天川郷の人々も積極的に加担し、村内の地区ごとに傳御組(おとな組)を組織して忠勤を果たしました。天河郷には十三通の綸旨、令旨が下賜され現存しています。そのなかには天河郷の忠誠を賞でられたものや、その加賞として天河辨財天へ賜った地行地配分のお墨付きなどが含まれています。

 嘉喜門院(かきもんいん)は南北朝時代の女院で歌人。南朝後村上天皇の女御で、長慶天皇の生母と推定されています。天授三年は1377年、南朝は長慶天皇の御代。「天皇和歌を詠ず」の和歌は、天河社の社伝に記されている、

   あさからぬちぎりもしるき天の川はしはもみぢの枝を交はして

てあろうと思われます。


南朝黒木御所跡

南北朝和解供養宝篋印塔


 宝篋印塔は昭和55年に建てられたもので、建立の趣旨が以下のように刻まれていました。

日の本は国土的にも民俗的にも世界の中枢であり日本の皇統はその中軸にして世界は皇統を独楽の辛棒さながらに転回しています
その皇統に霊的不和がある時は世界は平和を保持し能わず 依って皇統最後の確執たる南朝北朝皇統の霊的和解の御供養を敢行し 世界の平和と人類の幸せを祈念する目的を以ってこの宝篋印塔を建立した次第であります

 建立委員長は賀陽邦壽。賀陽宮家は明治33年に設立された宮家で、所出は崇光天皇。戦後の昭和22年に皇籍を離脱されています。


 10時から例大祭の神事が催されました。
 驚いたことには玉串の奉奠の後、30人近い山伏姿の修験者が入場して拝殿の最前列に整列されました。参列者全員による般若心経の唱和にはじまり、よく分らない真言(でしょうか?)の読誦、最後には「なーむじんべんだーいぼさーつ」の大合唱。完全に度肝を抜かれてしまいました。
 神事の後には、華麗な巫女による神楽舞が奉奏され、御神体のご開帳があり、大祭は無事終了しました。


神楽(その1)


神楽(その2)


 神事に引き続き、境内で大護摩の修法が行われます。広場の護摩壇の周囲は人垣でいっぱいになっていましたので、五社殿の前にある天石の横から眺めておりました。
 採燈護摩は初めての経験であったのと、少し離れた位置から見物していましたので、詳しくはよく分りませんでした。ただちょっと興味があったのが山伏の問答です。到着した山伏に対して、当地の山伏が諸知識を尋ね、正しく回答した者を中に入れる、ということのようでした。この問答を洩れ聞いておりましたが、謡曲『安宅』の一節によく似ておりました。以下は『安宅』の山伏問答から。

「それ山伏と云つぱ。役の優婆塞の行儀を受け 「その身は不動明王の尊容を象り 「兜巾と云つぱ五智の寶冠なり 「十二因縁の襞をすゑて戴き 「九會曼荼羅の柿の篠懸 「胎蔵黒色の脛巾を履き 「さてまた八目藁鞋は 「八葉の蓮華を踏まへたり 「出で入る息に阿吽の二字をとなへ ……

 実際の問答は、総本山聖護院宮門跡配下の先達であるが、当道場の採燈大護摩に参画すべく馳せ参じた。列座に加えられんことを請う。というもので、本物か否かを試す問いが続きます。
  山伏、修験の儀は如何に。
  修験道の開祖は如何に。
  頭に戴く頭巾のいわれは如何に。
  身につけたる鈴掛けの儀は如何に。
  肩にかけたる結袈裟は如何に。
  手に持ちたる錫杖の儀は如何に。
  八つ目草履とは。
などなど…。やって来た山伏は見事に問いに答えて、一同の輪の中へと請じ入れられました。


護摩厳修(その1)


護摩厳修(その2・山伏の問答)


護摩厳修(その3・四方に矢を放つ)


護摩厳修(その4)


護摩厳修(その5・火が放たれる)


護摩厳修(その6)

 四方へ矢を放ったり、種々の祈祷の後、護摩壇に火が放たれ、我々の祈願した護摩木が投じられました。このような護摩の修法を拝見したのは今回が初めて、立ち昇る白煙に修験道の凄まじさを垣間見た気分でした。


 午後1時より、お目当ての能『花月』が奉納されました。シテ・片山九郎右衛門、ワキ・平木豊男。
 京都片山家による能の奉納は、昭和45年に片山博太郎師(現・幽雪)が『弱法師』を奉納して以来、毎年例大祭には能が演じられているそうです。
 以下、天河神社のサイトの「天河社と能」からの抜粋です。


 夙に平和の神、芸道の神として知られていた天河社に後南朝初期、観世三代の嫡男十郎元雅が心中に期することを願って能『唐船』を奉納し尉の面を寄進しました。
 平和の神、芸能の神に寄せる期待が如何に大きかったかをしのばせます。以来天河社では社家座の成立や、喜多六平太による謡曲喜多流の創設など芸能とのかかわりを深め全国各地の祭祀にかかわってきました。
 しかし時代の推移と共に盛衰を繰返し、明治の中頃以降は永く廃絶の憂目にさらされていました。しかし、幸いにも戦後昭和23年社家有志によって復興を見るに至り以来能楽や狂言の奉納が行われるようになりました。


みたらい峡谷と天河神社能面
を描いた天の川郵便局風景印


 当地の天の川郵便局の風景印には、天河神社保有の尉面が描かれています。
 十郎元雅は世阿弥の息男。元雅が尉面を寄進したのは永享2年(1430)で、父世阿弥とともに将軍義教に疎まれており、この前年には仙洞御所での演能を差し止められ、以後次々と将軍に疎んぜられるという苦境の時期にありました。天河社に鎮座する弁財天が芸能の神であるだけに、元雅にとっての「所願成就円満」とは、再起を期しての尉面の寄進であったものでしょう。元雅は願いもむなしく翌々年の永享4年に、巡業中の伊勢の津で没しました。元雅の死により世阿弥の正統は途絶えますが、観世流は世阿弥の弟四郎の子である観世三郎元重(音阿弥)に引き継がれ今日に至ります。また世阿弥の娘が金春禅竹に嫁いでいますので、世阿弥の血は金春流に受け継がれているともいえましょう。
 サイトにある喜多流創設と当社との関係についてはよく分らないのですが、喜多流の流祖といわれる喜多(旧姓は北)七太夫長能は豊臣秀吉に仕え、六平太と呼ばれました。大阪夏の陣には豊臣方として戦い、敗戦後は身を隠していたのですが、後に徳川秀忠に召し出だされて喜多流を興すことになります。大坂落城後に身を隠していた場所が、ここ天河社ではなかったかと想像しています。



 奉納能『花月』は、幼な子を失ったことから出家した男が諸国を行脚し、都の清水寺で花月と名のる少年と出会う。花月は小歌を歌い門前の者と楽しんだり、弓で鶯を狙ったり、清水寺の縁起の曲舞を舞ったりして興じているが、僧がよく見ると失った我が子であった。名のって対面を喜び、父子ともに修行の旅に出立する、というストーリーなのですが、片山九郎右衛門師演ずるシテの花月には、少年らしい華やかさに欠け、柔らか味が乏しかったように思われてなりませんでした(素人の眼ですので、間違っている可能性が大であり、大家の芸を批判するのはおこがましい限りなのですが…)。
 後見には片山博太郎(幽雪)師が当られていました。お元気そうでしたが、お歳のせいでしょうか、いくぶん小さくなられた感があります。

 京都の片山家は、代々九郎右衛門を襲名されており、現在は10世九郎右衛門、前名は清司。片山家と京舞の井上家、さらに観世宗家との関係はかなり複雑ですので、下図にまとめてみました。



 片山家は観世流の京都探題ともいわれ、関西の観世流総支配人的な地位にあります。明治になってから、22世観世清孝の三男元義が、6世片山九郎右衛門晋三の養嗣子となり晋三の娘の光子と結婚して片山九郎三郎を名乗ります(7世九郎右衛門)。しかし観世宗家では兄の23世清簾には実子がなかったので、元義の長男清久を養子とします。これが後の24世観世左近です。
 一方京舞の井上家との関係は、6世晋三が吉住春子と結婚したことにはじまります。春子は晩年3世八千代を名乗り、その高弟である愛子が春子の孫である片山博通と結婚、のち4世八千代を名乗ります。その孫の三千代が5世八千代を継承しています。
 片山博通師で忘れられないのは、昭和38年3月の神戸観世会で『求塚』の舞台で倒れられたことです。急遽代役を藤井久雄師が務められ無事終演したようですが、いかにプロとはいえ、このようなとっさの代役は大変なことであったと想像します。なお博通師の三男の杉浦元三郎師は現行曲二百曲全てを舞ったことでも知られています。
 前述のとおり片山家では代々九郎右衛門を襲名されています。この片山九郎右衛門をはじめとして観世銕之丞、梅若六郎、梅若万三郎などのような、歴史のある芸名の踏襲はまだ理解できるのですが、なんでもかんでも襲名というのは如何なものかと思いますね。これは能楽界より歌舞伎や落語の世界にその傾向が強いのですが、我々素人にとって(私ひとりかも知れませんが)この襲名が分りにくい。観世銕之丞といってもどの銕之丞師なのか分りません。そういえば観世寿夫師は銕之丞を襲名されませんでしたね。53歳という若さで早世された故かもしれませんが、ご自分の芸に自信があったからではないでしょうか。そういえば観世宗家に襲名制度がないのは何故なのでしょうか。


 観能を終え、民宿に戻り休憩させてもらい、15時26分発の下市口行きのバスに乗車しました。ここでちょっとした失敗、来る時に「在原業平の墓」を帰りには訪れようと思っていましたが、すっかり忘れてしまっていました。時間はたっぷりあっただけに残念です。
 先に引用した、中村保雄『天河と能楽』によれば、下懸(金春・金剛・喜多流)に『天川』という曲があったそうなのです。その内容は、天河弁財天の縁起と、在原業平と天川の里の女性との恋の物語です。復曲について中村保雄氏から喜多六平太宗家に依頼されたとのことですが、近年の喜多流の内紛を考えれば上演されるのは難しいかも知れません。それはともかくとして、この『天川』という曲によれば、業平の霊跡がここ天の川にあると記されていますので、「在原業平の墓」を一見しなかったことが悔やまれてなりませんでした。

 帰路のバスは往路ほどかからず、かなり早く下市口に到着、昨日の逆ルートにてあべの橋へ、JR天王寺駅で播州に帰るお二方とは別れ泉州路への帰路につきました。




 メインホールへ戻る
 気まぐれ紀行の先頭

  (2012.10.2 記録)



inserted by FC2 system