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 気まぐれ紀行の先頭
気まぐれ紀行 京都丹後鉄道の旅


京都丹後鉄道の旅 2015.9.10 ~ 11
 ≪天橋立とくろまつ列車≫

9月10日(木) 大阪駅 9:10(こうのとり3号)→ 福知山駅 10:49(はしだて1号)→
         大江 11:01 →(酒呑童子の里探訪)→ 大江山口内宮 12:47 → 宮津 13:05
         (タクシー)→ 智恩寺参拝・天橋立観光 →(タクシー)→ 茶六本館・宿泊
9月11日(金) (タクシー)→ 天橋立・渡船場 → (遊覧船)→ 籠神社 → 成相寺参拝 →
         (遊覧船)→ 天橋立駅 → 12:07(くろまつ号)→ 西舞鶴駅 14:27
         西舞鶴駅 15:30 → 綾部駅 15:56(はしだて6号)→ 京都駅 17:06 → 大阪駅



 このところテレビでは旅番組が盛んに放映されている感があります。「ぶらり途中下車の旅」「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」などなど…。いつ頃の放映であったか、はっきりとは覚えていないのですが、北近畿タンゴ鉄道(この4月より京都丹後鉄道と改称されたようです)の、あかまつ号・あおまつ号・くろまつ号によるグルメの旅の紹介があり、かみさんと、いっぺん行ってみたいな~と話し合った記憶がありました。
 それがどのような風の吹き回しか、この列車の旅を調べてみると、ディナーコース・ランチコース・スイーツコースの三コースがあり、結構楽しそうな気配が漂っております。ディナーコースは西舞鶴駅~豊岡駅、ランチコースは天橋立駅~西舞鶴駅、スイーツコースは福知山駅~天橋立駅を運行しています。私はまだ天橋立を訪れたことがありません。そのうえ天橋立の智恩寺といえば、謡曲の『九世戸』や最近復曲上演された『丹後物狂』の舞台でもあります。おまけに、福知山から宮津へ抜ける途中にある大江山は、これまた謡曲『大江山』の舞台となっています。さらに、さらにそのうえ、大江・天橋立・西舞鶴では、オプションとして郵便局廻りもできるではありませんか! これを見逃す手はないでしょう。
 わが家における旅行は、大抵かみさんの主導、いわゆる“婦唱夫随”で決まるのですが、今回は“夫唱婦随”という珍しい計画となりました。

 まず、くろまつ号乗車区間をネットで予約します。ところが私たちの旅行はジパング倶楽部を利用するため、200キロを超える走行距離が必要となります。くろまつ号に乗る「宮津~西舞鶴」を除外すると距離が不足します。そこで、あれやこれやと思案して、宮津~西舞鶴間を重複して切符を購入することとし、下図の行程をひねり出しました。
 まず、大阪から福知山を経由して京都丹後鉄道に入り、大江で下車、『大江山』の謡蹟である酒呑童子の里を訪れます。大江山口内宮より宮津に出て、市内の郵便局を回り、宿泊。翌日は早朝より天橋立に行き智恩寺に参拝、橋立の松並木を経て対岸に渡り傘松公園から“股覗き”。時間があれば西国札所の成相寺に参拝して、観光船で帰り、天橋立駅12時7分発のくろまつ号に乗車、西舞鶴までのランチを楽しむ。西舞鶴では郵便局を巡り、綾部から京都経由で帰阪。という、一泊二日の行程です。


行程図

大阪発・大阪着の切符


 この計画に基づいて、みどりの窓口にて切符を購入したところ、上のような“大阪発・大阪着”になっていました。こんな切符もあるんやね~と、かみさんとも大いに驚いた次第です。
 さて、9月10日が近づくにつれ、始めは晴天であった当日の天気予報は次第に悪化してきます。そのうち台風18号が発生、その予測進路が丹後地方を示しております。どうもついておりませんが、例えどうなろうとままよ、と半ばあきらめの境地でありました。

《大江山━酒呑童子の里》
 9月10日を迎えました。恐れていた台風18号はすでに日本海に抜けており、予報では10日は曇りや小雨のぐずついた天気ですが、翌11日は好天に恵まれるとのことで、やれやれと胸を撫で下ろした次第です。


大阪駅、入線する“こうのとり3号”

大江駅、出発する“はしだて1号” 


 大阪駅発9時10分の“こうのとり3号”に乗車します。福知山線の特急に乗車するのは初めての経験ですが、この列車は意外と客が多く、満席に近い状態でした。尼崎から福知山線に入り、三田を過ぎるとのどかな田園風景が車窓に広がります。1時間半ばかりで福知山駅に到着、ここでホームの反対側に停車している“はしだて1号”に乗り換え、ここから京都丹後鉄道の旅と相成りました。
 乗車すること10分ばかりで大江駅に到着しましたが、降車したのは私たち2人とおばあさんの3人だけ。駅の売店のおばさんが駅員を兼務しており、乗車券をチェックしています。大江山の“鬼の博物館”への交通機関を尋ねると、バスは行ってしまったし、タクシーになるね、とのこと。そのタクシーも福知山から呼ぶことになるので20分ほどかかるよ、早めに電話しておいた方がいいよ、と忠告してくれました。
 (大江山に関する記述は、本サイトの「謡曲の統計学・謡蹟めぐり・〈酒呑童子の里〉」と一部重複しています。)


大江山鬼瓦公園─ずらり並んだ鬼瓦


 タクシー会社に連絡をすませ、駅前にある大江郵便局に立ち寄るべく駅舎を出ますと、そこには鬼瓦を戴いた柱がずらりと立ち並んでいます。ここが“大江山鬼瓦公園”です。福知山市のサイトでは、以下のように紹介されていました。

 この公園は、全国の鬼を愛する人たちの手で作られました。中でも「屋根付き鬼の回廊」は、全国の鬼師(鬼瓦製作者)の集大成ともいえる鬼瓦が72個、三州・淡路・石州の屋根瓦に囲まれて鬼伝説のまちを見守っています。周りにはまた「鬼面柱の回廊」「鬼の酒噴水」「鬼門厄除け六面鬼」、鬼のプロムナード、鬼のマンホールの蓋、鬼の街灯などがあり、すべて鬼一色で統一されています。


大江山鬼瓦公園の碑

大江山の雲海を描き、
酒呑童子の鬼面と盃を
配した、大江局風景印


 大江郵便局で貯金の預入を済ませて待つこと暫し、タクシーが到着しました。運転手さんに、鬼ヶ茶屋・鬼の足跡・頼光腰掛岩などを見物したい旨お願いし、大江山の鬼退治に出発いたしました。大江郵便局の風景印には鬼の面等が描かれています。丹後鉄道の大江山口内宮駅を過ぎると、車は次第に山中へと導かれて行きます。


鬼の茶屋

道際に立つ鬼の像


 「鬼の茶屋ですよ」と運転手さん。何の変哲もない家屋ですが、ここは酒呑童子が都への往復に休んだ所だそうで、鬼退治を描いた襖絵が見もののようです。残念ながら戸は固く閉ざされ無人の様子です。車から出ると細かい雨が降るともなく降り注いでおり、長居は無用と早々に出発しました。
 車は二瀬川に沿って進んでいるようです。道際には、時おり赤や青の鬼さんが、鉄棒を片手に我々を出迎えてくれています。


ここから酒呑童子の里



 大江山登山口の碑の横には、金棒を持った赤鬼のお出迎えです。ここからが“酒呑童子の里”になっているようです。


酒呑童子の里案内図


 福知山市の観光サイトによれば、ここ酒呑童子の里は、昭和44年に休山した河守鉱山の社宅や寮などの跡地を利用して開発された観光・レクリエーションゾーンです。大江山の家、童子荘、大江山グリーンロッジ、日本の鬼の交流博物館を始め、バンガロー、キャンプ場、バーベキューハウスなどの野外活動施設、グラウンド、体育館、全天候型テニスコートなどスポーツ施設が整備されています。


鬼の博物館と青海浪唐破風門


 登山口から少し上ると右手に木造の建物やコンクリート造りの“鬼の交流博物館”が見えてきました。ここが酒呑童子の里の中心らしいのですが、人っ子一人見当たりません。まさか鬼に喰われたわけではないのでしょうが…。
 日本の鬼の交流博物館とは一風変わった呼称ですが、鬼伝説をテーマとする博物館で、鬼との交流を目的としたものではありません。大江山には3つの鬼伝説が残されており、この伝説を"町おこし"の起爆剤として活用すべく、廃坑となった銅鉱山の跡地に平成5年4月に開館しました。
 博物館の入り口に建てられている門は“青海浪唐破風門”というそうで、波と雲と龍をアレンジした青海波瓦を屋根に装飾した門のことで、現在豊後地方(大分県下)に約40ヶ所の存在が確認され、主に神社の向拝寺院の玄関に使用されているとのことです。


平成の大鬼

鬼の博物館前の小鬼


 門の後方には、でっかい鬼瓦が周囲を睥睨しています。高さ5メートル、重さ10トンの大瓦で、「世界一の鬼瓦を造ろう」を合言葉に、“日本鬼師の会”が中心となって、130のパーツに分けて制作したものです。“鬼師”というのは鬼瓦づくり専門の職人のことですが、ここに来るまで知りませんでした。
 博物館の入り口では、かわいい小鬼がお出迎えをしてくれましたが、タクシーを待たせているので、博物館への入場はパスいたしました。


青鬼の呑鬼

赤鬼の遊鬼


 さて、大江山にまつわる3つの鬼退治伝説ですが、その一は、『古事記』に記された、崇神天皇の弟の日子坐王(ひこいますのきみ)が陸耳御笠(くぐみみのみかさ)を退治したという話。その二は、聖徳太子の弟の麻呂子親王(当麻皇子)が英胡、軽足、土熊を討ったという話。その三が、源頼光と頼光四天王が活躍したことで知られる、有名な酒呑童子伝説です。
 時は平安朝、一条天皇の頃。世の中は乱れに乱れ民衆は社会不安におののいていました。そんな世の中で、酒呑童子は王権に叛き、京の都から姫君たちを次々にさらっていきました。姫君たちを奪い返し酒呑童子を退治するため大江山へ差し向けられたのが、源頼光(みなものとのよりみつ)を頭に藤原保昌(ふじわらのやすまさ)並びに四天王の面々、坂田公時(さかたのきんとき)、渡辺綱(わたなべのつな)、ト部季武(うらべのすえたけ)、碓井貞光(うすいのさだみつ)ら6名です。
 頼光ら一行は山伏姿に身をやつし、道中、翁に化けた住吉・八幡・熊野の神々から「神便鬼毒酒(じんべんきどくしゅ)」を与えられて道案内をしてもらい、途中、川のほとりで血のついた着物を洗う姫君に出会います。一行は、姫君より鬼の住処を詳しく聞き、酒呑童子の屋敷にたどり着きました。
 酒呑童子は頼光一行を血の酒と人肉で手厚く歓待しますが、頼光たちは例の酒を童子と手下の鬼たちに飲ませて酔い潰し、童子を返り討ち、手下の鬼共も討ち果たします。捕らえられている姫君たちを救い出し、頼光たち一行は都へ上がりました。討ち取られた酒呑童子の首は、王権に叛いたものの見せしめとして川原にさらすため、都に持ち帰られますが、途中、丹波、山城の国境にある老の坂で急に重くなって持ち上がらなくなり、そこで葬られたといわれています。
 この伝説は、古くは『大江山絵詞』に見え、謡曲『大江山』や『御伽草子』の「酒呑童子」などに伝えられています。ただ頼光の一行は、もてなしてくれた鬼をだまし討ちにするわけですが、頼光ともあろうものが、いささか卑怯な手段ではなかろうかかと、変に鬼に同情してしまいました。


鬼退治に向かう頼光の一行

大江山グリーンロッジ


 大江山グリーンロッジは酒呑童子の里の玄関口にある研修宿泊施設です。以下、同所のサイトによれば「山間に囲まれた自然豊かなロケーションに、ツインの洋室(4部屋)、定員6名の和室(5部屋)、定員10名の大広間(4部屋)をご用意し、最大78名まで宿泊可能。ファミリーでも、グループでも利用できます」とのこと。
 そのグリーンロッジの前の道際に立てられていたのが、大江山に鬼退治に向かう頼光の一行の像がです。頼光以下、保昌、公時、綱、季武、貞光の面々ですが、謡曲で活躍する独武者(ひとりむしゃ)がいないのは、ちょっと寂しい気分でした。

 あまりタクシーを待たせるわけには参りません。酒呑童子の里の見物も早々に切り上げ、丹後鉄道の大江山口内宮駅まで送ってもらったのですが、酒呑童子の里の奥まったあたりに“鬼のモニュメント”なるものが建てられてあったようなのです。車で少し足を延ばせばよかったのにと、悔やまれてなりません。それに失敗がもう一点。最初に希望していた“鬼の足跡”と“頼光腰掛岩”が見当たりません。どうやら旧道があり、そちらにあったようなのですが、運転手さんが地理にあまり詳しくなく発見できませんでした。折角訪れた謡蹟だけに、悔いの残る結果となり残念至極でありました。


大江山口内宮駅

電車到着


 実は、当初の計画では、こんなに足の便が悪いとは思わなかったものですから、酒呑童子の里で昼食を摂り、もっとゆっくりと過ごして、大江山口内宮駅発14時46分の電車に乗車する予定でした。急遽計画を変更し、大江山口内宮駅に到着したのが12時15分ころ、宮津行きの列車は12時47分と半時間ばかりの待ち時間となりました。


宮津駅

今夜宿泊の茶六本館


  二度と行こまい丹後の宮津
  縞の財布が空となる
  丹後の宮津でピンと出した


 午後1時過ぎに宮津に到着。駅前で遅めの昼食を済ませて、郵便局を廻りながら宿泊予定の茶六本館まで参りました。この旅館は享保年間(1716年頃)に創業、運送業にはじまり、後に旅館として今日まで営業しているとのことで、建物は一見古そうですが、時代の重みを感じさせるものがあります。
 予定ではこのまま投宿という段取りでしたが、大江山の鬼に逢えなかったため、2時間ばかりのゆとりが生じました。それでは、という次第にて予定を繰り上げ、タクシーを呼んでもらって、天橋立見物に参ることといたしました。



《智恩寺参拝》
 タクシーですぐに天橋立駅に到着、駅前郵便局に立ち寄って郵貯の預入をした後、少し引き返して左折、土産物屋に挟まれた石畳の道の突き当りに智恩寺の山門が、どっとりとして姿を現しました。山門を入らず右手に進むと、松並木に続く回旋橋があり、その奥が連絡船の乗り場になっています。
 (智恩寺・天橋立の記述は、本サイトの「謡曲の統計学・謡蹟めぐり・〈天橋立・智恩寺〉」と一部重複しています。)

《智恩寺》  宮津市字文珠466


智恩寺山門


 以下は宮津市教育委員会による智恩寺の来歴です。

 ここ智恩寺は「知恵の文殊」とよばれ、またこのところの名から「切戸(きれと)の文殊」・「九世戸(くせと)の文殊」とよばれて古くからの信仰の厚いところであった。寺伝によれば、その開創は千余年の昔、延喜年間という。世に三文殊と称するのは、ここ智恩寺に加えて、奈良県桜井市の阿部院・京都市左京区金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)(あるいは、これに代えて山形県高畠町大聖寺)の三寺の文殊のことである。
 國指定の特別名勝「天橋立」というのは、海中に3.6キロメートルにわたって連なる砂嘴(さし)の部分だけでなく、それを展望できる成相寺山麓の「笠松」の地、そしてここ智恩寺の境内地をも含めているのである。
 寺に伝わる古縁起にも、
 そもそも、九世戸あまのはしたてと申すは、本尊は一字文殊、鎮守ははしたての明神と申す、本地は同じ文殊にておわします 云々
と記し、橋立も一体の信仰の地と考えられてきたのである。
 本尊は善財童子・優闐王(うてんおう)を従えた文殊騎獅象である。境内には、本堂をはじめ、山門・多宝塔ほか諸堂が並び、寺だけでなく地方の歴史を語る多数の遺物に接することができる。



本堂(文殊堂)

御朱印


 黄金閣を正面に宝形造りの銅板葺き屋根の御堂が当寺の本堂である文殊堂です。智恵を授かる文殊さんとして有名で、受験生が多数お参りに訪れます。
 日本の国土創生の時、この地で暴れていた悪龍を鎮めるため中国から智恵第一の仏様で、龍神の導師である文殊菩薩を招請され、悪龍を教化されたと伝えられています。この伝承は「龍燈・天燈」の神事として伝えられており、現在も「出船祭」として行なわれています。これを典拠として作られたのが、謡曲『九世戸(くせのと)』です。“九世戸”は天橋立と智恩寺のある半島との海峡をいいますが、中世には智恩寺の異称でもあったようです。
 本堂にお参りし、御朱印を頂戴して、境内を散策いたしました。




多宝塔

無相堂


 山門を入って左手に多宝塔があります。室町時代の建造物で国の重要文化財に指定されています。以下は宮津市教育委員会による説明書です。

 上重は円形で亀腹を付け宝形の屋根を載せて相輪を付し、下重は周囲に方形の裳階を付けた形式の塔を多宝塔という。
 本寺多宝塔は、上重の柱等に記される墨書銘によって、丹後国守護代で府中城主延永修理進晴信によって建立され、明応10年(1501)に落成したことが知られる。
 下重には来迎柱が立ち、前方に須弥壇をつくって大日如来が安置されている。来迎壁の背面には造塔の奉行も務めた丹後一宮大聖院の住僧智海により片足を上げた不動明王が描かれており、「八十余歳書之・智海」の署名がある。
 本塔は市内で唯一の中世建築遺構であり、かつ唯一の国指定重要文化財建築物である。丹後地方には残存する古建築が極めて少ないなかで、創建の事情、年代が明らかな本塔は貴重な存在である。

 無相堂は本堂の向かって左手にある建物で、寛永年間の再建になるとのことです。


力石

石造地蔵菩薩立像


 本堂への参道の右手の囲いの中に、丸い石が3つ並んで置かれています。文殊に伝わる“力石”と呼ばれており、かつては青年たちがこの石を持ち上げ力自慢を競ったとのこと。この石に障ると力と知恵を授かると伝えられています。
 その並びに立つのお地蔵さまは、市の有形文化財に指定されている“石造地蔵菩薩立像”です。以下は宮津市教育委員会による説明書です。

 ここには、南に並んで2躯、その北に離れて1躯の、等身の地蔵菩薩像が立っている。いずれも右手を握って錫杖を執る形を示し、左手には宝珠を捧げている。
 2躯が並ぶ内の向かって右側のものは、最も保存状態が良く作風的にも優れている。背面の銘文によると、応永34年(1427)に、三重郷(現中郡大宮町)の、大江越中守(法名永松)の発願により造立された一千体地蔵の内のひとつとなるが、他に同類の作は知られていない。
 離れて立つ北の1躯は、斜めに流れる体部衣文の的確に彫法などに、優れた技法を見せるが、頭部を失い現在は後補のものと替わっている。背面銘文から、三上因幡守(因州太守沙弥祐長)の発願により、永享4年(1432)に造立されたことがわかる。
 また南のもう1躯についても、両手先ほかに欠損を受けているが、他2躯と制作年代が隔たるものではないであろう。これらの地蔵像については、雪舟筆の国宝「天橋立図」にそれらしい姿が描かれており、智恩寺の歴史とも関わりが深い。とくに、願主、造立年代を記す先の2躯については、資料的価値も高く、平成5年に宮津市指定文化財に指定されている。


鉄湯船

稲富一夢斎の墓


 参道の反対側に手水舎があります。これは国の重要文化財に指定されている“鉄湯船”というそうで、宮津市教育委員会の説明書によれば以下のようです。

 現在手水鉢(ちょうずばち)として使用されているこの鉄盤(てつばん)は、本来湯船として製作されたものである。湯船は寺院の大湯屋において寺僧の施浴に用いられたものである。
 この鉄湯船には内側に銘文が鋳出されており、そこからこの湯船は、もとは興法寺(現竹野郡弥栄町)のために鋳造されたことがわかる。同様の湯船は成相寺にも遺されており、ともに銘文から正応3年(1290)、河内国の鋳物師(いもじ)、山川貞清により制作されたことが知られる。
 いずれにしても、このような古式の湯船が、現在二つも宮津市に遺されていることは、珍重すべきことであり、また中世鋳物資料として、全国的にも極めて貴重な遺品である。

 この鉄湯船の横の松の木には、小さな扇子が、まるでおみくじのように吊るされていました。鉄湯船のならびに弁財天社があり、つづいて墓石とおぼしきものが数点並んでいます。その一角の宝篋印塔が稲富一夢斎の墓と伝えられているそうです。
 稲富一夢斎は近世初期における鉄砲の盟主として有名で、代々一色家の家臣として弓ノ木城主でしが、後に細川忠興の家来となり、さらに徳川家康の知遇を得て、鉄砲の名手としての名を謳われています。


和泉式部の歌塚といわれる宝篋印塔

鐘楼


 その向かいに立っているのが、和泉式部の歌塚ともいわれる宝篋印塔です。以下は宮津市教育委員会による説明書です。

 この石塔はいつのころからか和泉式部の歌塚と伝えられている。『丹哥府志(たんかふし)』によれば、丹後守藤原公基が日置金剛心院において、和泉式部が書捨てた和歌を持ち帰り、なみだの磯(涙が磯)に埋めて鶏塚と呼んだという。その反古の一首が、
  いつしかと待ちける人に一声も
   聞せる鶏のうき別れかな

 その後明応(1492~1501)のころ、砂に埋まった塚を掘り出して文殊堂の傍らに建てたのが今の歌塚であるという。
 彼女が丹後に下って詠んだ歌のいくつかは知られているが、前記の歌が丹後において詠まれたものかは分からない。丹後において各処の和泉式部伝説のあるなかで、これもそのひとつとしてうけとればよい。
 塔は堂々として基礎の格狭間(こうざま)や、塔身の薬研彫(やげんぼり)の四方仏の種子(しゅじ・仏を表わす梵字)、笠石四隅の突起等に時代的な特徴が見える。

 本堂の右手に建つ鐘楼は、明治14年の建立。東西、南北ともに3メートル60センチ。本堂東側の暁雲閣に天文年間鋳造の梵鐘が吊在してあったが、嘉永年間にさらに大口径の物を改鋳したもので現所に移転されました。なお、現梵鐘は昭和48年再改鋳されています。


文樹

鎮守堂


 本堂より鐘楼の前を通り、連絡船乗り場へと参りました。途中、霊木“文樹(もんじゅ)”なる古木がありました。寺の説明によれば、

 智恩寺の霊木「文樹」は文殊に通う名称で「文」を「かざる」と読む。人生を知恵で飾る者に幸いが訪れる。
 天も地も、海も山も、野も川も、人も作り主に生かされている。生かされている恩を知る者を最高の尊者(そんじゃ)という。
 ちなみに「文樹」はタモ又はタブの木と称し、その樹液は霊気を発し、上質の線香作成に用いられるものである。

 何やら、分かったような分からぬようなことが記されています。お坊さまの暇つぶしのコンニャク問答には、ちょうどよろしいかと…。(妄言多謝!)
 境内の出口近くにあるのが鎮守堂です。当寺のサイトによれば、弁財天を祀っており、嘉永二年再建されたものです。もとは弁財天女堂と称し文殊堂東側の海中の嶋にありましたが、入り江の埋め立てによって明治12年陸上に移転されました。


知恵の輪

九世戸の回旋橋


 境内を抜けると、そこは遊覧船の乗り場になっています。明日はここから対面の笠松公園に赴く予定にしていますので、係のお姐さんに、船の所要時間や、笠松公園から成相寺への足の便などをお聞きしました。朝の第一便は8時30分とのことですので、この便に乘ることといたしました。
 船着き場のすぐ右手、海に突き出して立つのが有名な“知恵の輪”です。知恵の輪についての教育委員会の説明は以下のようです。

 この石造りの輪を「知恵の輪」と言う。古来、舟航の安全にそなえた輪灯籠で、享保11年(1726)、貝原益軒の著わした『扶桑名勝図』の一冊として刊行された「丹後与謝海天橋立之図」中、「天橋山智恩寺」海岸に、すでにこの輪灯籠が見られるから、その由来は甚だ古いと言わねばならない。
 この輪灯籠をなぜ「知恵の輪」と言うかは、いろいろ説があって明らかではないけれども、遠い昔から知恵の文殊さまの境内にあって、その「九世の渡」の安全を守ってきた輪灯籠が、そのまま文殊さまの慈悲の光を海上に放つものと見る昔の人々が、これを文殊さまの「知恵の輪灯籠」と呼び馴れるのは、きわめて自然のことであった。
 したがって、この「知恵の輪灯籠」の輪をくぐり抜けた者には、文殊さまの知恵を授かるご利益があるという話など、これまたきわめて自然な、しかもほほえましい諸人のユーモアではなかろうか。誠に「知恵の輪」とは、文殊さまの境内に建つこの輪灯籠にのみふさわしい呼び名である。

  知恵の輪も文殊汀に時雨居り  浩一露

 前方に目をやると、ちょうど回旋橋が開いて、砂利船が通過していました。正式名称は“小天橋”というのでしょうか。船が通るたびに90度旋回する珍しい橋で、天橋立と文殊堂のある陸地をつないでいます。大正12年に手動でまわる廻旋橋ができましたが、橋の下を通る大型船舶が多くなり、昭和35年5月から電動式となりました。
 この狭い海峡を“九世戸”と呼ぶとのことで、謡曲『九世戸』の謡蹟の地はここであると考えたのですが、後ほど天橋立に渡ると、大天橋のたもとに「小天橋(回旋橋)と大天橋の間を“九世戸”と呼ぶ」との説明がありました。ということは、この海峡は“九世戸の渡し”と呼ぶのが正しいのでしょうか。



《天橋立散策》
 回旋橋を渡り、天橋立の松並木に入りました。できれば対岸まで散策したいのですが、ちょっと無理かも知れません。まあ、行けるところまで行ってみましょう。


天橋立図


   大江山いく野の道の遠ければ
    まだふみも見ず天の橋立


 百人一首にある小式部内侍の歌です。小式部内侍の父は和泉守橘道貞、母は和泉式部です。母の和泉式部は夫の守名により“和泉式部”と呼ばれました。道貞と死別した後、丹後守藤原保昌(やすまさ)と再婚し、丹後に下りました。

 この歌は、都で歌合に呼ばれた小式部内侍に、藤原貞頼が「歌はいかがせさせ給ふ、丹後へは人遣しけんや使はまうで来ずや」と、母親の力を借りて歌を詠んでいるのではないか、と言わんばかりに尋ねられて、応えたものです。
 「母の住む丹後国へ下るには、大江山・幾野などというところがあり、その名さえ大きな山や幾ばくとも知れぬ野というような所です。道の程も遠く、まだ便りも文も見ていません。かの天橋立を踏みても見たことがないように。」
  (『百人一首一夕話』による)


和泉式部と小式部内侍


昭和天皇歌碑

日本三景の碑


 松並木に入り少し行くと、右手に昭和天皇の歌碑が建てられています。
 昭和26年11月13日、昭和天皇が戦後の民情ご視察のため山陰地方をご巡幸になり、当地にご宿泊の際に詠まれたもので、石碑の書は、元侍従長故入江相政氏のものです。

  めずらしく晴わたりたる朝なぎの
   浦わに浮かぶ天の橋立


 その先には林春斎の文を刻した「日本三景」の碑が建てられています。

  丹後天橋立 陸奥松島 安藝嚴嶋 爲三處奇觀

 林春斎は本名又三郎、号は春斎・鵞峰・向陽軒など。林羅山の三男で江戸幕府に仕えました。上記の文は、寛永20年(1643)の著書『日本國事跡考』のなかに「松島、此島之外有小島若干、殆如盆池月波之景、境致之佳、與丹後天橋立、安藝嚴島爲三處奇觀」(松島、この島の外に小島若干あり、ほとんど盆池月波の景の如し、境致の佳なる、丹後天橋立・安芸厳島と三処の奇観となす)と記されたもので、これが現在の「日本三景」の由来となったものです。平成16年、林春斎の誕生日にちなみ7月21日が「日本三景の日」に制定されました。


九世戸の松

大天橋


 この地にある説明では、小天橋と大天橋の間を“九世戸”といい、大天橋の手前の松を“九世戸の松”と呼ぶそうです。


天橋立の碑と日本の道100選顕彰碑

松並木の府道


 大天橋の手前に“特別名勝 天橋立”の碑と、その並びに“日本の道100選”の顕彰碑が建てられています。以下は“日本の道100選”顕彰碑の説明です。

 府道「天の橋立線」は、昭和62年8月10日の「道の日」に、建設大臣から日本の特色ある優れた道路と認められ「日本の道100選」の一つとして顕彰されました。
 この府道「天の橋立線」は、日本三景の一つ天橋立の中を通る道路であり、周囲の景観との調和を図るため砂利道のまま管理しています。道路の幅員は3.5メートルから5.5メートルで、沿道には大小約7000本の黒松が続き、白砂にふちどられた天恵の景観を有するとともに、数多くの史跡や物語を秘め、美しい風光を保ち、地元の人々はもとより、全国的にも多くの人々から愛され親しまれています。

 この道が府道であったとは、いささか驚きでありました。大天橋を渡って、天橋立の中核地帯に進入いたします。


与謝野寛・晶子歌碑

恩賜の碑


 与謝野寛・晶子夫妻の歌碑は、夫妻が昭和5年5月に天橋立で詠んだ歌の自筆を拡大して刻したもので、平成18年7月7日に建立されたものです。

  小雨はれみどりとあけの虹ながら与謝の細江の朝のさざ波  寛
  人おして回旋橋のひらく時くろ雲うごく天の橋立      晶子

 与謝野寛・晶子夫妻は、寛の父礼厳が加悦出身ということもあり、天橋立にたびたび足を運ばれました。
 昭和5年5月、丹後に8泊のうち天橋立に2泊して、寛 45首、晶子60首の短歌を遺されています。
 昭和10年、寛逝去後、傷心の晶子が天橋立を訪れたのが昭和15年でして、帰京後、発病し、以後旅をすることもなく昭和17年逝去されました。
 最後の吟遊の旅が当地、天橋立でした。夫妻が多くの歌を遺されたこの天橋立に歌碑を建立することが私たちの責務ではないかと考え、多くの天橋立を愛する人、与謝野夫妻に思いを寄せる人たちのご協力の下に、ここに歌碑を建立する運びとなりました。
 寛・晶子の歌をよみ、お二人を偲んでいただければ嬉しく存じます。

 「恩賜の記念碑」は、昭和25年のジェーン台風による災害からの復興に向け、天皇陛下から励ましのお言葉をいただいたことを記念する碑です。


岩見重太郎試切りの石

岩見重太郎仇討ちの碑


 突然ながら、岩見重太郎の登場です。一説では岩見重太郎は、大阪冬の陣・夏の陣で、大阪方として戦った薄田兼相(すすきだ・かねすけ)と同一人物であるといわれています。私たちが子供のころは岩見重太郎や荒木又右エ門の仇討ちや、もっと遡って義経の八艘跳びの話、あるいは神代の物語などを、寝物語によく聞かされたものです。最近ではテレビなどの発達により、このように昔話が親から子へ、祖父母から孫へと語り伝えられる風習がほとんどなくなりつつあると思うのですが、何となく淋しい気がいたします。
 さて岩見重太郎ですが、ここ天橋立での仇討ちが有名で、その古跡が遺されています。“岩見重太郎仇討ちの碑”に記された説明は以下のようです。

 岩見重太郎は、講談などで有名な伝説上の剣豪で、江戸時代のはじめころに活躍したと伝えられる。
 重太郎は、父の仇の広瀬軍蔵・鳴尾権蔵・大川八左衛門を追って宮津にやってきたが、仇の三人は藩主京極家にかくまわれていた。やがて藩主の許可を得て、ここ天橋立の濃松の地で、三人を打ち取り本懐を遂げたという。また重太郎には、毎夜、天橋立で通行人を襲っていた元伊勢籠神社の狛犬の足首を切り、その夜行を止めたという伝説も残されている。

 その重太郎が仇討ちをするに際し、刀の切れ味を試したとされるのが“岩見重太郎試切りの石”です。


与謝蕪村句碑

アームストロング砲


 このあたりの松には、いろんな名の付けられています。知恵の松、雲井の松、式部の松、蕪村の松…。蕪村の松の近くに与謝蕪村の句碑がありました。蕪村は39歳のとき、京都から宮津見性寺の住職・竹渓を訪ね、3年ばかり宮津に滞在したようです。

  はし立てや松は月日のこぼれ種

 その先には天橋立神社が鎮座していますが、その手前に赤銅色の砲身が横たえられていました。この大砲は、軍艦春日に搭載されていたものを海軍思想の普及のため、大正12年に海軍大臣より下付されたとのことです。舞鶴には明治以降海軍の鎮守府が設置され、以来半世紀にわたり日本海に臨む唯一の軍港として栄えました。その関係であろうと思われますが、日本三景の景観にはあまり馴染まない感がありました。


天橋立神社

磯清水


 天橋立神社が鎮座しているのは回旋橋から1キロほどの地点になるようです。以下、教育委員会による説明です。

 天橋立神社の所在する場所は天橋立の濃松(あつまつ)と呼ぶ地点に当たる。近くに真水がわくことから磯清水と呼ばれる井戸があり、磯清水神社しみいわれて来た。
 当社の祭神は、明治時代の京都府神社明細帳では伊弉諾冊(いざなぎ)命とされ、江戸時代の地誌類では、かつて本殿の左右に祠があり、本殿の祭神を豐受大神、向かって左は大川大明神、右は八大龍王(海神)とする。
 当社は智恩寺境内にあったものを天橋立内のこの地に移したという説がある。確かに江戸時代前期の天橋立図屏風には、当地に社殿風の建物が描かれるとともに智恩寺境内に鳥居が描かれていて社殿が存在する。一方、南北朝期の゜慕帰絵詞(ぼきえことば)」に描かれた天橋立の図や、雪舟筆「天橋立図」には、すでに当地に社殿が描かれており、江戸時代中期の「与謝之大江図」(享保9年・1727)や「丹後国天橋立之図」(享保11年・1729)には当地に「橋立明神」の文字も記されているため、中世半ば以降は当地に鎮座すると考えられる。
 いずれにしても、天橋立は江戸時代は智恩寺の境内地(寺領)であり、天橋立神社も智恩寺に属する神社であった。現在の社殿は明治45年(1907)の再建である。
 当社の参道は社殿から南西方向に進み、阿蘇海に達する地点に石造の鳥居が立つ。鳥居の石材は花崗岩で形態は明神型、『吉津村誌』によると慶安4年(1651)の造立、願主は智恩寺住持南宋ほかの銘が記されているが、鳥居表面の風化が著しく、現在これを詠むことはできない。

 天橋立神社から南西の内海の方に少し行ったところに「磯清水」の井戸があります。

 この井戸「磯清水」は、四面海水の中にありながら、少しも塩味を含んでいないところから、古来不思議な名水として喧伝されている。
 そのむかし、和泉式部も
  橋立の松の下なる磯清水 都なりせば君も汲ままし
と詠ったことが伝えられているし、俳句にも
  一口はげに千金の磯清水
などともあることから、橋立に遊ぶ人びとには永く珍重されてきたことが明らかである。
 延宝6年(1678)、時の宮津城主永井尚長は、弘文院学士林春斎の撰文を得たのでここに「磯清水記」を刻んで建碑した。
 湧き出る清水は今も絶えることなく、橋立を訪れる多くの人々に親しまれ、昭和60年には環境庁認定「日本の水百選」の一つとして、認定を受けている。

 井戸の右手に建つ「磯清水記」の刻文は以下のようです。

丹後國天橋立磯邊有井池清水湧出 蓋在海中而別有一派之源乎 古来以爲勝區呼曰磯清水 郷談有言和泉式部和歌曰 橋立農松農下奈留磯清水都奈利勢波君毛汲末志云々 式部從藤原保昌来當國則其所傳稱非無縁也 今應清水混海鹹而尋其水路新構幹欄以成界限永使勝區之名垂於不朽而考古之人無辨尋之疑
  永寶六戊午年        當國宮津城主 大江姓尚永 建

丹後国天橋立ノ磯辺ニ井池有リテ清水湧キ出ヅ。蓋シ海中ニ在リテ別二一派ノ源有ル乎。古来オモヘラク勝区ヲ呼ンデ磯清水ト曰フ。郷談ニ言有リ和泉式部ノ和歌ニ曰ク、橋立ノ松ノ下ナル磯清水都ナリセバ君モ汲マシ云々。式部ハ藤原保昌ニ従ヒテ当国ニ来タル、則チ其ノ傳称スル所縁無キニ非ザル也。今応ニ清水海鹹ニ混ザリテ、其水路ヲ尋ネ新タニ幹欄ヲ構ヘ、以テ界限ト成シ、永ク勝区ノ名ヲシテ、不朽ニ垂レ考古ノ人ノ弁尋ノ疑ヒ無カラシメントス。

 説明にもありましたが、四方を海に囲まれて、海際からわずかに離れたところに清水が湧き出しているのは奇妙なことと思われます。同時に、天橋立のような狭い陸地に、松が生い茂っているのも不思議に思われてなりません。海水が地下に浸み込まないのでしょうか。素人にはあまり理解のできないところでありました。
 できれば、向こう岸までと思っていましたが、時間も4時に近づいています。それに結構暑い。かみさんもかなり参っている感があります。このあたりで引き返そうかとUターンをし、途中にあった茶店でコーヒータイムといたしました。

 4時半ころに宿に帰着。古い旅館だけに、造りは最新式ではありませんが、歴史を感じさせるものがあります。部屋の扁額に「平八郎」の署名のある書が掲げられていました。うっかり写真を撮り忘れ、揮毫の中身も忘れましたが、この地で“平八郎”といえば、日露戦争における連合艦隊司令長官・東郷平八郎以外には考えられません。舞鶴鎮守府の司令長官であったころ、この地をを訪れ、この旅館に投宿したものでしょう。
 宮津節でも聞こえてくるのかな、などと思っていましたが、意外に静かな宮津の夜でありました。(行くところへ行けば、それなりに賑やかなのでしょうね…。)

 



《傘松公園から成相寺参拝》
 宮津での二日目の朝を迎えました。小雨に悩まされたぐずついた昨日とは違って好天に恵まれるとの予報です。
 タクシーで智恩寺横の船着き場にやってきたのが8時過ぎ、8時半に連絡船の第1便が出航します。今日のメインは12時過ぎに天橋立駅を出発する“くろまつ号”に乗車することです。それまでに対岸に渡り傘松公園で“股のぞき”を体験し、できれば西国札所の成相寺に参拝し、11時半ころにはこちらに帰着しなければなりません。券売所で時間に余裕があるかを尋ねたところ、まず大丈夫とのこと。下に示すような、観光船の乗船券、成相寺へのバス乗車券、寺の拝観券のセットを購入いたしました。


観光船乗船券、ケーブルカー・リフト利用券



天橋立観光マップ

成相寺バス乗車券


成相寺参拝券


 連絡船は15分ほどで対岸の一宮渡船場に到着します。渡船場をでますと、そこには丹後国の一ノ宮籠(この)神社が鎮座していました。傘松公園へのケーブル乗り場へは籠神社の境内を通り抜けて行けるようです。形ばかりの参拝をして、境内を通過させていただきました。



籠神社

御朱印


 当社の主祭神は彦火明命(ひこほあかりのみこと)。社伝には以下のように記されています。

 神代の昔より奥宮眞名井原に豐受大神をお祀りして来ましたが、そのご縁故によって崇神天皇の御代に天照大神が大和国笠縫邑からおうつりになり、これを吉佐宮(よさのみや)と申し、豐受大神と共に4年間お祀り致しました。
 その後、天照大神は垂仁天皇の御代に、また豐受大神は雄略天皇の御代に、それぞれ伊勢にお移りになりました。それによって当社は元伊勢(もといせ)といわれております。
 両大神がお移りの後、天孫彦火明命を主祭神とし、社名を籠宮と改め、元伊勢の社、また丹後国一之宮として朝野の崇敬を集めてきました。

 元伊勢は、伊勢市に鎮座する伊勢神宮(皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮))が、現在地へ遷る以前に一時的にせよ祀られたという伝承を持つ神社・場所をいうようです。昨日訪問した大江山の内宮駅近くにも“元伊勢三社”の表示がありました。



笠松公園へのケーブルとリフト

ケーブル乗り場


 神社の境内を通り、軒を並べる土産物屋の前を抜けるとケーブルカーの乗り場になっています。リフトも並行して運航していますが、高所恐怖症の私は当然のことながらリフトなど見向きもせず、さっさとケーブルカーに乗り込みます。
 眼下に天橋立の絶景を楽しみながら(実を申せばあまり良い気分ではなく、足の裏がもぞもぞとしていましたが)、数分で傘松公園に到着いたしました。


成相寺案内Map


 ここ傘松公園から成相寺へは、20分間隔でバスが運行しています。以前はすぐに乗車できたようなのですが、目下、道路が工事中とのことで、165段の階段を上ったところが乗車場になっていました。とりあえず成相寺に参拝しようと、えっちらおっちらと会談を上りました(ちょっとしゃくだったので、実際に段数をかぞえたところ、ピッタリ165段ありました)。
 バスの発着場まで登ると、にわかに視界が明るくなり、眼下に天橋立の景観が広がっています。ものの本によれば、天橋立の眺望を「飛龍観」というとばかり思っていましたが、「飛龍観」は天橋立ビューランドから見る南側からの眺めで、こちらの笠松公園側からの眺めは「斜め一文字」と呼ぶとのことでした。


“斜め一文字”の眺望


 天橋立に来たからには、やはり“股のぞき”をせねばと頑張ったのですが、いささか出っ張ったお腹が邪魔になり、十分に撮影をすることができませんでした。ふーふー言いながら撮影しておりますと、かみさん曰く「股のぞきの写真なら、カメラだけひっくり返せばいいのに!」
 言われてみればその通りですが…。でも、そういうものではないんですよね。


股のぞきの図

天橋立逆さまの図

 宮津郵便局・天橋立郵便局・天橋立駅前郵便局の風景印には、天橋立が描かれています。


天橋立を描く
宮津郵便局風景印


天橋立を描く
天橋立郵便局風景印


飛龍観と回旋橋に
知恵の輪灯籠を描く
天橋立駅前郵便局風景印


 天橋立の眺望を楽しむことしばし、登山バスが到着しました。このバスは20分間隔で運行しており、専用の狭い簡易舗装道路を走ります。途中、内海の阿蘇海や宮津湾が見渡せますが、ガードレールも何もない道のこととて、カーブを切るとちょっぴりヒヤリとするものがあります。走ること10分足らずで本堂の石段下に到着いたしました。



《成相寺》  宮津市成相寺339

 成相山成相寺(なりあいじ)、“願うこと必ず成り合う寺”の意。パンフレットや当寺のサイトでは、山号が“成相山”となっているのですが、山門の横にある説明書きでは“世屋山”となっています。経緯はく分かりませんが近年へんこうになったようです。真言宗単立の寺院で、西国三十三観音霊場の第28番札所。本尊は聖観世音菩薩。ご詠歌は、

  波の音松のひゝきも成相のかぜふきわたす天の橋立


成相寺仁王門

 寺伝によれば慶雲元年(704)、真応上人の開基で、文武天皇の勅願寺となったということですが、真応上人については詳らかでなく、中世以前の寺史は判然としないようです。ただ、天橋立、対岸の文殊堂と併せて、三位一体的な存在であったようです。平成19年、高野山真言宗から独立して、真言宗単立寺院となっています。以下は当寺のパンフレットに記されている由来書きです。

 一人の僧が雪深い山の草案に籠って修行中、深雪のため里人の来往もなく、食糧も絶え、何一つ食べるものもなくなり、餓死寸前となった。
 死を予期した僧は「今日一日生きる食物をお恵みください」と本尊に祈った。すると夢とも現とも判らぬ中で、堂の外に狼のため傷ついた猪(鹿)が倒れているのに気付いた。僧として肉食の禁戒を破ることに思い悩んだが、命には替えられず決心して猪(鹿)の左右の腿をそいで鍋に入れて煮て食べた。
 やがて雪も消え里人たちが登ってきて堂内を見ると、本尊の左右の腿が切り取られ、鍋の中に木屑が散っていた。それを知らされた僧は、観音様が身代わりとなって助けてくれたことを悟り、木屑を拾って腿につけると元通りになった。これよりこの寺を成合(相)と名付けた。


本堂への階段

真向きの龍(パンフレットより)


 長い石段を上り本堂にたどりつきました。本堂は安永3年(1774)の再建で、京都府の重要文化財に指定されています。堂内には、中央の厨子内に本尊の聖観音像、向かって左に地蔵菩薩坐像(重要文化財)、右に千手観音立像が安置されています。本尊は33年に一度開扉の秘仏で、近年では平成17年に開扉されています。地蔵菩薩坐像は平安時代の作。元来成相寺に伝わった像ではなく、20世紀末頃に近畿地方の別寺院から移されたとのことです。
 また、本堂の正面右上には、左甚五郎の作とわれる“真向(まむ)きの龍”があります。


成相寺本堂

御朱印

 本堂の前にある手水舎は、鉄湯船(てつゆぶね)と呼ばれ重要文化財に指定されています。

 当山の湯屋にて湯船として使用されていたもので、直接入るのではなく湯釜で沸かした湯を入れ、かゝり湯をするために用いられたと思われる。後に薬湯を沸かして怪我や病気の人を治療したとも伝えられています。

 智恩寺の鉄湯船と同じものであり、銘文から正応3年(1290)の鋳造とのことでした。
 本堂から石段を下る途中の巡礼堂の前に“一願一言(ひとこと)のお地蔵さん”があります。約620年前に造られたもので、唯一つの願いを一言でお願いすると必ずかなえて下さると伝えられており、安楽ポックリ往生もかなえて下さるそうです。こればかりはお願いする気にはなれませんでしたが…。


鉄湯船

一願一言の地蔵さま


 石段を下りると鐘楼があり“撞かずの鐘”と呼ばれているそうです。その謂れは、

 慶弔14年(1609)山主賢長は、古い梵鐘にかえ新しい鐘を鋳造するため、近郷に浄財を求め喜捨を募った。一回、二回と鋳造に失敗し、三回目の寄進を募った時、裕福そうな家の女房が「子供は沢山居るがお寺へ寄附する金はない」と険しい目の色で断った。
 やがて鐘鋳造の日、大勢の人の中に例の女房も乳吞児を抱えて見物していた。そして銅湯となったルツボの中に誤って乳吞児を落としてしまった。このような悲劇を秘めて出来上がった鐘を撞くと山々に美しい音色を響かせていた。しかし耳をすますと子供の泣声、母親を呼ぶ悲しい声、聴いている人々はあまりの哀れさに子供の成仏を願って一切みの鐘を撞くことをやめ、撞かずの鐘となった。

 五重塔は、山門から本堂に向かう参道の左側のやや小高いところに建てられています。“平成の五重塔”と呼ばれているようで、平成12年に開基1300年を迎えるにあたり復元されたものです。


撞かずの鐘

平成の五重塔


 帰りは仁王門のところからもバスに乗車できるということなので、本堂下から仁王門まで歩きます。
 「くろまつ号」の乗車時間が気になります。下界に下りると、来るときは素通りした籠神社にも参拝し、そのうえ近くにある天橋立郵便局にも立ち寄りたいと考えています。山門から帰りのバスに乗ったところ、来るときに乗り合わせた皆さんが、だいたい乗車していました。
 傘松公園まで帰着しますと、ちょうどケーブルが出発したばかり。次の便を待とうかとも考えましたが、遊覧船の時間なども気になります。高所恐怖症の渡しはリフトなどという乗り物には、生まれてこの方、2度ほどしか乗ったことがありません。清水の舞台から飛び降りる気持ちでリフトに乗り込み、ポールにしがみつき、しばらくは目をつむって揺れるゴンドラに身を任せます。
 恐怖の数分が経ち、やっと地上に降り立ちました。改めて籠神社に参拝し、近くの天橋立郵便局に立ち寄り貯金と風景印の押印を済ませて、連絡船にて智恩寺側の桟橋に到着したのは11時過ぎ、結果としてはあんまり慌てることはなかったようでした。



《丹後鉄道“くろまつ号”の旅》
 天橋立駅は観光地だけあって、なかなかきれいに整備された駅舎です。窓口で乗車予約券を提示して乗車券を交付してもらいます。
 前述しましたように、私たちはJRの“ジパング倶楽部”の会員割引を利用して乗車券を購入しており、乗車距離の制約のため“くろまつ号”に乗車する天橋立~西舞鶴間も含めて切符を購入せざるを得ませんでした。“くろまつ号”乗車区間の料金は二重払いとなってしまったのですが、“くろまつ号”の料金に比べれば些細なことかも知れません。


切符を 天橋立駅


“くろまつ号”乗車認証票


“くろまつ号”乗車券


 乗車時間となり、大いに勇んで陸橋を渡り、隣のホームに停車中のくろまつ号を目指します。車体は名前の如く黒色で統一され、なかなか重厚な感じを醸し出しております。早速記念撮影です。他の乗客も、前から後からと、パチリパチリと写真撮影に余念がありません。まるで小学生の遠足そのものでした。


くろまつ号


 他の乗客に先んじて、私たちは乗車しました。車内は木材をベースとした座席で、窓には簾がブラインドになっており、しっとりと落ち着いたムードです。
 少し遅れて他のお客さんも乗車してきましたが、全部で10名少し。空席が目立ちます。係りのお嬢さんに聞きますと、先週は満席だったとのこと。私はネットで申し込んだのですが、空席があまり残っていませんでした。何故だろうと尋ねると、ネット対象の座席は制限されているとのことで、実際の空席は結構あったようでした。
 12時7分、定刻に発車、車内前方からは案内係のお嬢さんによる車内の設備や窓を流れる景色の説明が聞こえてきます。


くろまつ号の車内

車内案内


 宮津駅にて小停車。その後栗田駅で30分近く停車します。
 ここでランチがテーブルに配られ、昼食が始まりました。宮津市にある料亭ふみやの“焼き鯖すし”を中心とした料理で、松花堂のような器(玉手箱というそうです)に入れられています。料理の献立は以下のようでありました。


ランチメニュー


 なかなかの美味であります。普段は飲まないアルコールの誘惑に抗しきれず、つい、グラスワインを注文する始末、それもお代わりまで。


ランチ

キッチン


 列車に揺られ、車窓に移り行く景色を眺めながらのランチタイムもまた風情があります。奈具海岸で30分ほど停車。ここが沿線一番のビューポイントだとか。海岸の美景をしばし鑑賞します。
 ここ奈具海岸は曲折の変化に富んでおり磯釣に最適。1年を通じて釣り人でにぎわっているそうです。


海岸風景(その1)

海岸風景(その2)


 「由良川橋梁に差しかかります」のアナウンスに、あわてて最後尾に急ぎ、シャッターを切りました。以前観たテレビでは、この橋梁を走る列車の絵が大そう印象的でした。ただし、撮影するのであれば、車内からではなく、車外からの方が迫力がありそうですねね。
 由良川橋梁は大正13年に竣工、橋長は552メートルで、鉄道橋梁として現在に至るまで京都府最長を誇っています。


由良川橋梁


 由良川を渡りしばらくすると東雲駅に到着、ここで30分程度停車しました。駅には“安寿そば”など地元の特産品が並び、いわゆる“道の駅”のような風情となっていました。
 “安寿そば”で気が付いたのですが、駅行内には“マルシェ安寿の里駅”の幟がはためいており、当駅は“安寿の里駅”とも呼ばれているようです。今まで気が付かなかったのもどうにかしていますが、森鴎外に描かれた山椒大夫は由良の豪族でした。この近くには「安寿姫塚」が祀られているそうです。

 定刻の2時27分に西舞鶴駅に到着、これにて“くろまつ号”とはお別れです。西舞鶴駅周辺の郵便局を数局訪ね、綾部から京都経由で帰阪。大江山経由、天橋立観光と“くろまつ号”の旅を終えました。
 ただ、帰宅して驚いたことには、出発時に万札を数枚入れて置いた財布の中身が、宿代、汽車賃などは別途支払い済みで、大した土産もかっていないにも拘わらず、きれいになくなっておりました。げにも…

  二度と行こまい丹後の宮津
  縞の財布が空となる
  丹後の宮津でピンと出した




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 気まぐれ紀行の先頭

  (2015.11.8 記録)



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