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 気まぐれ紀行の先頭
新緑のトロッコ列車


嵯峨野トロッコ列車の旅  2016.5.29
≪新緑の岩倉実相院と嵯峨野トロッコ列車≫

 南海泉佐野駅出発 7:00
          8:05 ~ 8:20 京田辺PA
          9:15 ~ 9:45 岩倉実相院
          10:25 ~ 12:00 八ッ橋かけはし(昼食)
          12:30 ~ 13:00 大安本店
          14:00 ~ 14:30 祇王寺
          15:10 ~ 15:50 トロッコ嵐山~亀岡
          16:10 ~ 16:25 京田辺PA
 南海泉佐野駅帰着 17:30



 前回に引き続き、読売旅行の企画による一日バス旅行です。今回のメインテーマはトロッコ列車。その時間調整のため、岩倉実相院や嵯峨野祇王寺の拝観がくっついています。
 今回の旅はバス3台で、私たちが乗車したのは1号車、47名が乗車しています。午前7時に南海泉佐野駅を出発、いつもは泉佐野駅を起点として、熊取⇒貝塚⇒岸和田と廻り湾岸高速道に上るため、右往左往してかなり効率が悪いのですが、この度は、阪南市を起点に泉佐野⇒熊取と廻り阪和道に上るという、効率の良いコースを進むようです。
 熊取駅で最後の参加者を拾い、貝塚ICから阪和道へ。近畿道・第二京阪道・阪神高速と進み、京都に入り鴨川西出口で地上に降り立ちました。

洛北・実相院周辺図



《実相院門跡》

 実相院(じっそういん)は、元は天台宗寺門派でしたが現在は単立寺院。開基は静基(じょうき)、本尊は不動明王。門跡寺院のひとつで、岩倉実相院門跡とも呼ばれています。
 我々が到着したとき、山門は固く閉ざされており、横手から院内に案内されました。後ほど聞いたところでは、本日当所にてコンサートが催されることになっており、本来は拝観を断っているのだが、読売旅行にゴリ押しされ特別に許可をした、とのことで、拝観も10時までという厳しい制限付きでした。


実相院山門

御朱印

 鎌倉時代の寛喜元年(1229年)、静基僧正により開基された。当初は現在の京都市北区紫野にあったが、応仁の乱を逃れるため現在地に移転したとされる。門跡寺院であり、代々の住職は皇室と繋がりのある人物が務めた。本堂は東山天皇の中宮、承秋門院の女院御所を移築したものであり、四脚門・車寄せも御所より移築されたものである。老朽化が進み主な建物は多数のつっかい棒が施されてようやく倒壊を免れているのが現状であり、修理のための資金集めが課題となっている。幕末には岩倉具視も一時ここに住んでおり、当時の密談の記録などが残されている。


比叡の山並みを借景にした枯山水の石庭


 庭園は池泉回遊式庭園と枯山水の石庭の二つがあります。前者の池にはモリアオガエルが生息しているとのこと。新緑、紅葉の頃とも見所となっており、特に部屋の黒い床に木々が反射する光景は「床緑」「床紅葉」と呼ばれ知られています。


床緑(当院パンフレットより)


書院と客殿の間の池泉回遊式庭園



 当院には数多くの文化財が伝えられています。後陽成天皇の宸筆『仮名文字遣い』、後水尾天皇宸筆『忍』、明正天皇『三十六歌仙画帖』、東福門院作押絵『馬郎婦観音』などの拝領品は、皇室とのゆかりの深さを物語っています。
 さらに江戸時代を通じて、歴代の住職らが綴った門外不出の日記である『実相院日記』は、260年間に亙る歴史の記録として貴重なもので、多方面の研究者から注目を浴びています。


《八ッ橋かけはしと大安本店》

 さて、ここから京都市中の右往左往が始まります。
 実相院を立ち出でて、北山通から北大路を通り金閣寺前から西大路通を南下、西院で四条通を西に行き、八橋かけはしに到着しました。ここでお土産の購入と昼食タイムとなります。昼食はバイキングスタイル。


八橋かけはし

大安本店


 昼食を終え再びバスに乗り込みました。ここまで来れば嵯峨野に直行かと思いきや、バスは東を向けて走り出しました。再び鴨川を渡り平安神宮に近い大安本店にやって参りました。
 東へ西へとロスの多い行程なので、添乗員のお姐さんにお聞きしたところ、トロッコ列車の乗車時間が決まっており、それを見据えての時間つぶしのようでした。
 ここでもお土産購入かたがた、休憩しながら店の中をブラブラとうろついていました。30分ほど休憩の後、丸太町通を西にまっしぐら、嵯峨野に向かいました。



《嵯峨野祇王寺》

祇王寺境内地図



 清凉寺の駐車場で下車、15分ほど祇王寺への道をたどります。
 祇王寺は真言宗大覚寺派の仏教寺院で寺自体は尼寺ですが、寺というよりは草庵といった感があります。山号は高松山、院号は往生院。本尊は大日如来です。


参拝口より草庵を望む

御朱印


 以下は入り口に立つ京都市による説明書きです。

 往生院祇王寺と号する真言宗の寺である。
 寺伝によれば、この地は、平安時代に法然上人の弟子・念仏房良鎮(りょうちん)が往生院を開創し、後に祇王寺と呼ばれるようになったと伝えられる。
 平家物語によれば、祇王は平清盛に仕えた白拍子であったが、仏御前の出現により清盛の心が離れてしまったので、母刀自(とじ)・妹妓女(ぎじょ)と共に出家し、当地に移り住んだ。後には仏御前も加わり、念仏三昧の余生を送ったと伝えられている。
 現在の本堂は、明治28年(1895)に再建されたもので、堂内には本尊大日如来像をはじめ、平清盛と祇王ら四人の尼僧像を安置している。
 境内には、祇王姉妹等の墓と伝える宝篋印塔(ほうきょういんとう)及び平清盛の供養塔などがある。



苔に蔽われた庭園

いろいろな苔


祇王寺は竹林と楓に囲まれたつつましやかな草庵です。参拝入口から、苔むした庭園を一周して草庵にたどりつきます。当寺には様々な種類の苔が棲息しており、ひとつひとつの違いを見るのも、またひとつの楽しみとのことです。


草庵の吉野窓

仏間

 
 草庵の中の控えの間にある大きな窓は「吉野窓」というそうです。窓の格子と外の竹やぶが交差し、影が色づいてみることから「虹の窓」とも呼ばれています。
 かやぶき屋根の草庵にある仏間の仏壇には、左から母刀自、祇王、平清盛、本尊大日如来、祇女、仏御前の木像が安置されています。祇王、祇女の像は鎌倉末期の作で、その時代に特徴的な手法であった水晶の眼が印象的です。


墓地の入り口に立つ碑

祇王・妓女の墓所

 
 墓地の入口にある碑には「妓王妓女佛刀自の旧跡 明和八年辛卯正当六百年忌 往生院現住尼 法専建之」とあって、この碑の右側に「性如禅尼承安二(1172)年壬辰八月十五日寂」と刻まれているのは祇王のことと思われます。正面向かって左の宝筐印塔が祇王、祇女、刀自の墓。右の五輪塔は清盛公の供養塔で、いづれも鎌倉時代に作られたものです。
 祇王寺は明治初年に廃寺となりましたが、残された墓と仏像は旧地頭の大覚寺によって保管されました。大覚寺門跡の楠玉諦師はこれを惜しみ、再建を計画していた時に、元京都府知事北垣国道氏が祇王の話を聞き、明治二十八年に嵯峨にあった別荘一棟を寄付されました。これが現在の祇王寺の建物です。これらの関係から祇王寺は真言宗大覚寺派の寺院で、旧嵯峨御所大覚寺の塔頭寺院ともなっています。
 嵯峨野の奥にひっそりと余生を送った祇王・妓女に想いを馳せながら、緑の苔に蔽われた草庵に別れを告げ、トロッコ嵐山駅へと向かいました。


嵯峨野 祇王寺・トロッコ嵐山駅周辺地図



《トロッコ列車》
 祇王寺から十数分でトロッコ嵐山駅に到着します。
 トロッコ嵐山駅には、老若男女、かなりの数がたむろしています。この路線の人気を物語っているようです。私たちの今回のツアーの目的も、一度トロッコ列車なるものに乗ってみたいというものでしたから。
 トロッコ列車は、トロッコ嵯峨駅から亀岡市のトロッコ亀岡駅までを結ぶ嵯峨野観光鉄道の鉄道路線です。平成元年3月にJR山陰本線(嵯峨野線)の嵯峨(現在の嵯峨嵐山駅)~馬堀駅間が電化・複線化のため新線に切替えられたが、景勝地である保津峡に沿って走るこの旧線を観光鉄道として活用する目的で同3年からトロッコ列車を運行しています。当初はスタッフわずか9名で発足したそうで、沿線整備や営業活動など、開業までの苦労は並大抵なものではなかったでしょう。




トロッコ嵐山駅



 当初、年間利用者数は23万人程度で、それほど乗客はいないか、あっても物珍しさのある開業後数年間だけで、早晩今日のローカル線のような状況になると考えられていたようです。ところが開業初年度の利用者は予想の3倍となる69万人超という好成績を記録し、その後も順調に乗客数を伸ばしています。風光明媚な山陰本線旧線を走るということや、嵐山・嵯峨野といった有名観光地がそばにあったこと、保津川下りと周遊できることや、さらに観光客を魅せる沿線作り、何よりユニークな車内放送や案内などを駆使した嵯峨野観光鉄道従業員の努力も相俟って、いつの間にか「嵐山の観光といえばトロッコ列車」といわれるほどメジャーなものに成長してきました。 

トロッコ列車沿線Map


 トロッコ嵐山駅は山陰本線の高架の部分にあり、眼下を列車が通過して行きます。
 嵯峨方面行きの列車が到着しますと、大勢の乗客が降りてきました。ここ嵐山駅は観光客にとってのの中心駅ででもあるのでしょう。


眼下を山陰線の列車が通過

トロッコ列車が到着


 列車の乗車券(座席指定になっています)が渡されます。我々が乗車するのは、15時10分発の列車。時間が近づき、入場して階下のホームで列車を待つことしばし、やがて朱塗りの列車が入線してきました。皆さん、身を乗り出して撮影に余念がありません。


列車到着


 私たちの席は、進行方向に向かって右側になっていました。保津川は、列車の左手を流れており、左側の車窓から保津川下りの船が見渡せます。このあたりは流れもゆるやかで、のんびりとした船旅の様相でした。(左側の座席がよかったのに、ついてないな…)


保津峡駅

ずらり並んだ狸たち


 保津川を渡りトンネルを抜けたところにあるのがトロッコ保津峡駅。ずらりと並んだタヌキが迎えてくれます。このあたりは景色と空気の良いハイキングコースとしても知られ、桜や新緑、紅葉の時期には多くのハイキング客でにぎわっているそうです。












 先ほどまでは「ついてない」とぼやいていましたが、保津峡駅を過ぎると保津川の流れは車窓の右側に変わります。保津川下りの舟にも出会い、これはシメたと喜んでシャッターを切りますが、列車のスピードと舟の流れについて行けず駄作ばかり。タイミングがまるで合っていませんでした。


列車内部

突如鬼が登場


 終点の亀岡駅が近づいたとき、列車中に悲鳴が…。驚いて眺めると、毛むくじゃらの頭、いかつい目つきの「鬼」が、車内をのっしのっしと徘徊しております。
 この鬼の由来は、保津峡と山をはさんだ老ノ坂峠にある首塚大明神。祀られているのは、あの酒呑童子の首だそうで、この伝説をヒントに考え出されたのが「鬼」の旅の案内役。いまやトロッコ列車を代表する人気者となったそうです。

 わずか20分の乗車時間でしたが、そこそこ楽しめたひとときではありました。

 嵯峨野観光鉄道のサイトには、トロッコ列車誕生までの苦労話などが紹介されています。
 以下は、私の個人的な偏見と独断による想像の世界なのですが…。
 山陰本線の嵯峨~馬堀駅間が電化・複線化のため新線に切替えられた際、廃線の利用については、国または京都府からの要請(または打診)があったのではないでしょうか。恐らくJR西日本の積極的な意思ではなかったと思われます。そして親会社のJR西日本からは僅かな資金と人員のみで、成功も期待されずに切り捨てるように放り出されます。恐らく数年で廃業してもかまわないという親会社の意図が感じられます。
 そして、JR西日本が直接この事業を手掛けていたならば、恐らく現在の成功はあり得なかったであろうと思うのです。この成功は、分離された長谷川 一彦社長以下9人の、血の出るような努力の結果であると想像します。


 5時40分、亀岡を出発、篠ICから京都縦貫道に乗り第二京阪へ、京田辺PAで休憩を取り、7時半ころ、泉佐野に帰着しました。
 今日は一日京都の街を右往左往した感がありましたが、一度乗ってみたいと思っていたトロッコ列車を体験できましたので、満足できる結果となりました。7月には、ミシガン号での琵琶湖ミニクルーズの予定があり、これも参加してみようかと、かみさんと話し合った次第です。




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 気まぐれ紀行の先頭

  (2016.7.27 記録)



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