メインホールへ戻る
 気まぐれ紀行の先頭
人丸謡曲ツアー


明石・柿本神社参拝記  2017.9.6
≪人丸謡曲ツアー≫

 10:00      山陽電鉄・人丸前駅集合
 10:10      柿本神社到着
 10:30 ~ 11:00 神社参拝
 11:45 ~ 12:10 創作曲『人丸』奉納
 12:10 ~ 12:50 昼食休憩
 12:50 ~ 13:20 『俊成忠度』奉納
 13:20 ~ 14:00 『草子洗小町』奉納
 14:00 ~ 14:10 『岩船』奉納
 14:30 ~     月照寺・亀の水散策・解散



 徒然謡倶楽部を主宰するМさんは、以前より明石の柿本神社に参拝、奉納謡会を開催したいという企画を温めておられました。本年3月に実施した、竹生島から湖西の謡蹟を廻る“湖西謡曲ツアー”は一泊の行程であったため、参加者は若干少なめでありました。そこで多数の参加が見込まれる日帰りのツアーを、明石の柿本神社で実施しては如何との企画がMさんより提案され、さっそく3月9日に現地の検分を実施いたしました。幸いなことに、当社の宮司のお姉さまに当たるTさんは、Mさんの中学時代の同窓生で、そのご縁で宮司さんを紹介していただき、細部にわたる打ち合わせを行うことができました。
 5月になって、Мさんから一大朗報がもたらされました。徒然謡倶楽部のツアーに同行されているNさんのご紹介で、氏が所属されている明石市の衣川コミュニティセンター(以下、衣川コミセン)のメンバーである池田幸司さんが、このたび柿本人麻呂を主人公とした新曲『人丸』を創作され、我々の柿本神社参拝に合流して奉納したいとのこと。これを受けて今回の謡曲ツアーは、衣川コミセンと徒然謡倶楽部の合同謡会となった次第です。

 さて、明石にちなんだ謡曲といえば、すぐに思い出すのが『忠度』です。山陽電車の人丸前駅の周辺には平忠度を祀る「腕塚神社」や「忠度塚」、あるいは「両馬川の碑」などがあり、現在の天文町はかつて「忠度町」「右手塚〈うでづか〉町」と呼ばれていたようです。
 また柿本人麻呂やその詠歌が登場する謡曲といえば、
 ◎草子洗小町 「かくて人丸赤人の御影を懸け…」「ほのぼのと。明石の浦の。朝霧に。」
 ◎俊成忠度  「…旅寝して眺めやる。明石の浦の朝霧と。… 「人丸世に亡くなりて…
 ◎通小町   「歌人の家の木の實には  「人丸の垣ほの柿。山の辺の笹栗
 ◎采女    「吾妹子が。寝ぐたれ髪を猿澤の。池の玉藻と。見るぞ悲しきと… (謡曲では帝の歌とされているが、典拠である『大和物語』では人麻呂の歌)
などがあります。上記以外にもありそうですが、よく分かっていません。
また「明石」という地名が含まれる曲としては『弱法師』『住吉詣』など、多くありそうです。

柿本神社、『忠度』謡蹟探訪地図



 さて、9月6日を迎えました。今回の参加は、徒然謡倶楽部では、いなみ野学園関係者21名、大学能楽部OB9名、その他4名。衣川コミセンからは15名の参加を得て、合計49名という、過去に例を見ない大人数となりました。さらにこれ以外にもかなりの見学希望者が見込まれるとのことで、果たして会場に入りきれるであろうかと、Mさんは朝から心配顔でありました。地元の方に伺いますと産経新聞や神戸新聞の地方版で、池田さんの新曲奉納の記事が大きく報道され、それを見た愛好者の参加が予想されるとのことでした。

 予定では10時に山陽電車の人丸前駅に集合です。このところ、ややぐずついた天候が続いており、空模様が気掛かりでしたが、幸いなことにお日さまが顔を出す好天に恵まれました。ところがその蒸し暑いこと。早めに到着した面々は、日陰を求めて高架の蔭に待避するありさまです。駅で本日の資料等をいただき、三々五々神社への坂道を登りました。


柿本神社東の鳥居と社号標


 人丸前駅から坂道をだらだらと200メートルほど上ると天文科学館があります。その裏側(山の手)に柿本神社が鎮座しております。ちょうど神社への階段の前に観光バスが停車しており、鳥居を正面から撮影することが叶いませんでした。
 この東鳥居から神門へ続く階段はなかなか厳しく、老骨にはとても応えます。階段を登りきったときには暑さも相まって疲労困憊の体でありました。



厳しい階段を上る

神門



《柿本人麻呂》

 柿本神社に参拝するにあたり、まず祭神である柿本人麻呂について考察してみましょう。以下 Wikipedia 等を参照しています。

 人麻呂の経歴は定かではないが『万葉集』の詠歌とそれに附随する題詞・左注などによれば、持統3年(689)から文武4年(700)まで作歌活動を行っている。賀茂真淵によれば草壁皇子に舎人として仕えたとされているが、決定的な根拠があるわけではなく、複数の皇子・皇女(弓削皇子・舎人親王・新田部親王など)に歌を奉っているので、特定の皇子に仕えていたのではないだろうとも思われる。近時は宮廷歌人であったと目されることが多いが、宮廷歌人という職掌が持統朝にあったわけではなく、結局は不明というほかない。ただし、確実に年代の判明している人麻呂の歌は持統天皇の即位からその崩御にほぼ重なっており、この女帝の存在が人麻呂の活動の原動力であったとみるのは不当ではないと思われる。

 『万葉集』巻二に讃岐で死人を嘆く歌が残り、また石見国は鴨山での辞世歌と、彼の死を哀悼する挽歌が残されているため、官人となって各地を転々とし最後に石見国で亡くなったとみられることも多いが、この辞世歌については、人麻呂が自身の死を演じた歌謡劇であるとの理解や、後人の仮託であるとの見解も有力である。また、文武天皇4年に薨去した明日香皇女への挽歌が残されていることからみて、草壁皇子の薨去後も都にとどまっていたことは間違いない。藤原京時代の後半や、平城京遷都後の確実な作品が残らないことから、平城京遷都前には死去したものと思われる。
 『古今和歌集』仮名序には「柿本人麻呂なむ、歌の聖なりける」と述べられているように、人麻呂は『万葉集』第一の歌人といわれ、長歌19首・短歌75首が掲載されている。さらに『柿本朝臣人麻呂歌集』から採録した歌373首があり,このなかにも人麻呂の作があると考えられている。その歌風は枕詞、序詞、押韻などを駆使して格調高い歌風である。百人一首では、人麻呂が天智天皇・持統天皇に次いで臣下として筆頭に位置しているのは、彼が“歌聖” とされている所以であろうか。


 『万葉集』巻三(249~256)に人麻呂の“羇旅の歌”8首が収められており、ここ明石の地に関連した歌があります。(高木市之助他・校注『万葉集』日本古典文学大系・岩波書店、1957)

       柿本朝臣人麿の羇旅たびの歌八首
(三・249)三津の﨑波をかしここもり江の舟公宣奴嶋尓舟公
(三・250)珠藻刈る敏馬みぬめを過ぎて夏草の野島のしまの崎に舟近づきぬ
      一本に云ふ、處女をとめを過ぎて夏草の野島が崎にいほりすわれは
(三・251)淡路あはぢの野島が崎の濱風に妹が結びし紐吹きかへす
(三・252)荒𣑥あらたへの藤江の浦にすずき釣る泉郎あまとか見らむ旅行くわれを
      一本に云ふ、白𣑥しろたへの藤江の浦にいざりする
(三・253)稲野日いなびのも行き過ぎかてに思へれば心こほしき可古かこの島見ゆ
      一に云ふ、みなと見ゆ
(三・254)留火ともしび明石あかし大門おほとに入る日にか漕ぎ別れなむ家のあたり見ず
(三・255)天離あまざかひな長道ながぢゆ戀ひ來れば明石のより大和島見ゆ
      一本に云ふ、家門やどのあたり見ゆ
(三・255)飼飯けひの海のには好くあらし刈薦かりこもの亂れ出づ見ゆ海人の釣船
      一本に云ふ、武庫むこの海の庭よくあらしいざりする海人の釣船波の上ゆ見ゆ


 (254)と(255)は“明石の門”すなわち明石海峡を通過したときの詠歌でしょう。今であれば明石海峡大橋を詠んだかも知れません。(254)は難波の三津の崎を離れて海上を西に向かうときのものであり、(255)は逆に、都への帰途の海路での作品です。
 『万葉集』には採録されていませんが、古来人麻呂随一の秀歌とみなされたのは次の一首です。

  ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れゆく舟をしぞ思ふ

 これは『古今和歌集』巻九(409)に「よみ人しらず」として載せ、左注で人麿の歌であるとの伝承があったことを記しています。
 さて、この歌は今回の池田幸司さん作の新曲『人丸』とも大いに関係があるようです。柿本神社の神宮寺である月照寺では「ほのぼのと」の歌の各々の句に、
  初生(ほのぼのと)       発心大円鏡智(生)
  娑婆世界(あかしがうらの)   修行平等性智(老)
  朝立霧(あさきりに)      菩提妙観察智(死)
  四魔滅(しまかくれゆく)    涅槃成所作智(病)
  念仏(ふねをしぞおもふ)    法界体性智(苦)
という「初生」以下の字を充て、各句を右のカッコ内に示した「生老死病」という四つの「苦」であるという仏教的摂理で解釈している。……とのことですが、よく分かっていません。
 この「発心大円鏡智~」について思い出したことがあります。私は以前四国八十八カ所を廻ったことがあります。この遍路の世界では阿波・土佐・伊予・讃岐の4ヶ国を、それぞれ発心の道場・修行の道場・菩提の道場・涅槃の道場に割り当てています。これは密教の曼荼羅では四方を「四門」といい、東西南北をそれぞれ、発心門(東)・修行門(南)・菩提門(西)・涅槃門(北)とすることによります。そしてこの四方それぞれを、
  東方、発心門、大円鏡智(だいえんきょうち)
   (すべてのものを鏡のようにありのままに映す智慧)
  南方、修行門、平等性智(びょうどうしょうち)
   (すべてのものが平等であることを知る智慧)
  西方、菩提門、妙観察智(みょうかんさつち)
   (すべてのものを正しく認識する智慧)
  北方、涅槃門、成所作智(じょうしょさち)
   (すべてのものを完成させる智慧)
として仏の四つの智慧を表しています。そして密教では上記の「四智」のほかに大日如来の智である「法界体性智」を合わせて五智とするのです。
  中央、法界体性智(ほうかいたいしょうち)
   (物事の本質を明らかにする絶対的な智慧)
 これら五つの智慧を五体の仏にあてはめたものが「五智如来」です。すなわち、
  東方 阿閦(あしゅく)如来
  南方 宝生(ほうしょう)如来
  西方 阿弥陀(あみだ)如来
  北方 不空成就(ふくうじょうじゅ)如来
  中央 大日(だいにち)如来。

 池田さんは『人丸』の制作にあたって、当初はこの点を重視されたのではないかと想像しております。
 なお『乱曲』の『五輪碎(ごりんくだき)』には、

 「初生(ほのぼのと)娑婆世界(あかしのうらの)朝霧(あさきり)に。四魔滅(しまがく)れ行く舟をしぞ思ふ。……

とあり、上述の歌の解釈が述べられています。『五輪碎』の別名は『明石浦』。完曲では紀貫之が和歌の徳により霊夢を蒙り、宇佐八幡宮に参詣し、神霊から和歌の奥儀を聴聞するというもののようです。

 また翌朝早起きしなければならない女性が、夜寝るときに、この「ほのぼのと明石の浦の朝霧に」と、歌の上の句を唱えておくと早起きできると信じられていたようで、古川柳に次のように詠まれています。

  人麻呂は枕時計を世にのこし
  人麻呂は花や芝居の起し番
  明石から起し手のくる花の朝

 女性が仕事以外で早起きするのは、花見か芝居見物です。
 そして首尾よく早起きできたら、お礼に下の句を唱えたそうです。

  白粉ときながら舟をしぞ思ふ




《柿本神社》

 社伝によれば、仁和3年(887)に明石の岡(現・県立明石公園)にあった楊柳寺(後の月照寺)の覚証という住僧が、夢中に柿本人麻呂の神霊がこの地に留まっているのを感得し、寺の裏の古塚がその塚であることが判明したために塚上に人麻呂を祀る祠を建てて寺の鎮守としたことに創まるといいます。江戸時代に入り元和3年(1617)小笠原忠真が信濃国松本から明石に転封となって明石城が築城されることとなり、元和5年に現在の地に移されました。明治維新以前は柿本神社と月照寺は一体でしたが、明治維新の神仏分離令により、月照寺とは別の宗教法人となりました。


柿本神社拝殿

御朱印



柿本神社境内案内図(当社サイトより)


 下図は、享和3年(1803)刊行の『播磨名所巡覧図絵』の「人丸」です。
 右半分の社殿の前方、境内参道の右に“盲杖桜”が描かれており、左側上部分に盲杖桜に関するエピソードが記されています。右下の鳥居の奥、石段の傍らに芭蕉の句碑が描かれ、左右の図の下部に芭蕉塚の記事や「蛸壷や…」の句が記されています。


『播磨名所巡覧図絵』より


 参拝に先立ち境内の名所を散策いたしましょう。
 神門を入ってすぐ左手には末社の一である五社稲荷社が鎮座しています。
 また神門の右手には“御筆柿”と刻された石柱があり、この筆柿は拝殿前の神木・筆柿から分れて移植されたものでしょう。


五社稲荷社
<
御筆柿


 稲荷社の隣には大小2基の人麻呂の歌碑が並びます。いづれも『万葉集』所収の歌。左の歌碑より、

  天ざかるひなのながちゆ戀ひくれば明石の門よりやまとしま見ゆ (三・255)

 書は尾上柴舟。明治・大正期の歌人、国文学者。金子薫園とともに『明星』の浪漫主義に対抗して「叙景詩運動」を推し進めました。

  大君は神にしませばあまくもの雷の上にいほりせるかも (三・235)

 書は金子薫園(くんえん)の筆になります。薫園は明治・大正期の歌人。上記の尾上柴舟と『叙景詩』を発刊しています。

 その右隣には、歌人で能書家としても知られる遠山英一の歌碑。

  冬の夜のくらき入江に大空の星かげ見えて千鳥なくなり  遠山英一


人麻呂ほか歌碑

亀の碑


 3基の歌碑に続いて境内参道の左手に“亀の碑”が建てられています。
 “亀の碑”は台座の亀の背に建つ林鵞峰(がほう)による人麻呂の顕彰碑です。人麻呂を敬仰し、歌道の隆盛を願ったとされる明石藩主・松平信之(のぶゆき)によって、寛文4年(1661)に建てられたものです。人麻呂の伝記が1712文字の漢文で記されており、この碑文を一息で読むと、台座の亀が動くと伝えられています。ちなみに台座の亀は“贔屓(ひいき)”と呼ばれる中国の伝説上の生物であり、石碑の台になっている場合は“亀趺(きふ)”と呼ばれるそうです。
 林鵞峰(元和4年・1618~延宝8年・1680)は、林羅山の三男で号は春斎。その著書『日本國事跡考』のなかで、松島・天橋立・嚴島を「松島、此島之外有小島若干、殆如盆池月波之景、境致之佳、與丹後天橋立、安藝嚴島爲三處奇觀」(松島、この島の外に小島若干あり、ほとんど盆池月波の景の如し、境致の佳なる、丹後天橋立・安芸厳島と三処の奇観となす)とし、これが現在の「日本三景」の由来となっています。


御神木(筆柿)と石造狛犬

盲杖桜


 拝殿の左手に植わるご神木の筆柿は、人麻呂が石見国より都に上る途次、その実を持ち来り「敷島の道とともに栄えよ」と植えられたと伝えられています。筆の穂先ほどの実が成ることからその名があります。妊める婦人が懐中にすれば難産の憂いなしと伝えられているそうです。なお神門の右手にも“御筆柿”があります。

  めでましゝ神のかたみの筆柿のいつくゆ庭に代々になりつく  桜谷喜久麿

 献歌の作者の桜谷喜久麿は、大阪市住吉区の大依羅(おおよさみ)神社の宮司。拝殿の両側の石造りの狛犬は、明石市内の石造り狛犬の中では最も古いもので、宝暦4年(1754)の銘があり、市の文化財に指定されています。
 拝殿の右手には「盲杖桜(もうじょうざくら)」が植えられています。以下はその説明書きです。

 昔ひとりの盲人が九州からこの社に詣でて、

  ほのぼのとまことあかしの神ならばわれにも見せよ人丸の塚

と詠じると、たちどころに両眼が開いて物を見ることができるようになった。その人は光明を得たよろこびのあまり、社前の庭に桜の杖を献じて去って行った。やがてその杖に枝が生じ葉が茂って、春になると花を咲かせたので、これを盲杖桜と名づけて後の世に伝えたものである。

 前述の『播磨巡覧名所図絵』に、この「ほのぼのとまことあかしの~」の歌が記載されています。この伝承はかなり著名だったようで、古川柳に次のような句があります。

  百人の中に目明し一人居る

 ここでいう目明しは、銭形平次のような町奉行所の下働きをする目明しではありません。盲杖桜の伝承にあるように、当社に詣でて歌を詠んで祈ると目が明いた。明石を“目を明かす”にかけ、百人一首の中の人麻呂のことを詠んだものです。

 盲杖桜と通路を挟んで社務所の北端に「八房(やつふさ)の梅」があります。一つの花に八つの実がなることから名付けられています。元禄年間(1688~1704)赤穂浪士の間瀬九太夫が主君の仇討ち成就を祈願して手植えしたものです。


八房の梅

天神社・荒神社


 八房の梅には、大阪出身の歌人、伊藤秀一の歌が添えられています。

  (ま)ごころを神もよみして武士乃以(い)の里(り)はむすぶ八つ房の梅  伊藤秀一

 八房梅の奥に、末社の天神社と三宝荒神社が鎮座しています。
 三宝荒神は、仏・法・僧の三宝の守護神とされています。近世になると竈(tjs@)の神とされ、各戸で台所の竈の所で祀られるようになりました。


野崎英夫歌碑

西南戦争の大砲か


 天神社の左手に野崎英夫の歌碑が建てられています。

  ともすれば迷ひがちなる敷島のみちをあかしの神に学ばむ  野崎英夫

 野崎英夫は九州出身の歌人。この碑文は氏のご内室の筆になるものだそうです。
 歌碑の隣、茶店の前に何故か古びた大砲が据えられていました。これは茶店の元明石藩士・梶本氏所有の大砲であり西南戦争で使用されたそうです。


パオホール

亀の手水舎


 参道の右手には手水舎と社務所・パオホールがあります。
 手水舎では亀が水を吐き出しています。先ほどの“亀の碑”といい、また午後に訪れる“亀の水”といい、“亀”に縁のある社ですね。
 パオホールは結婚式場などに利用される施設ですが、今日は我々の謡会の会場になっています。“パオ”の謂れをお尋ねしたところ、ここ人丸山の“丸”をモンゴル語で“パオ”というところから名付けた由、人麻呂が源義経なみに蒙古まで飛んで行ったかのような不可思議な気分に、一瞬陥りました。





《参拝》

 境内をひと通り拝観いたしました。そろそろ参拝の刻限が近づいています。本日のメンバーは全員ご老体でありますが、それをばものともせず、神社の長い石段を上り三々五々境内に到着、受付を済ませます。10時30分頃、拝殿に案内されめいめい着座いたしました。
 お祓いの様子を撮影させていただきましたので、以下に。







修 祓 の 儀


 厳かな祝詞の奏上に続いて、衣川コミセンを代表して新曲『人丸』作者である池田幸司さん、徒然謡倶楽部代表のМさん、お二人による玉串の奉奠があり、30分ほどでお祓いは終了、撤饌(てつせん)の品として人丸の瓦せんべいを頂戴いたしました。




《奉納謡会》

 参拝が終わり、みなさん社務所二階のパオホールに入場します。会場には円型テーブルが6卓準備されており、くじ引きにより所定の位置に着座しました。これから昼食休憩を挟んで奉納謡会が開催されますが、驚いたことには、我々メンバー以外に十数名のビジターの方が来場されています。おそらくは衣川コミセン関係の方や、新曲『人丸』の奉納を新聞でご覧になった方々ではないでしょうか。急遽、椅子を準備して観客席を急造し、その場を凌いだ次第です。
 開会に先立ちMさんの挨拶で、衣川コミセンとの合同謡会開催の経緯の説明、創作曲『人丸』と作者の池田幸司さん、節付けをされた岩瀬忠晴さん、および今回の合同謡会の仲介役をされたNさんの紹介があり、併せてビジターのみなさんへの謝辞が述べられました。

 本日の謡会の番組は、新作曲『人丸に続き、明石に縁のある平忠度を描いた『俊成忠度』、人麻呂の詠歌が織り込まれた『草子洗小町』、最後に祝言曲の『岩船』がそれぞれ奉納されます。


 合同謡会は大勢の聴衆の見守るなか、創作曲『人丸』の奉納から始まりました。
 『人丸』について、作者の池田幸司さんは次のように述べられています。

 「この曲は平成26年度秋学期関西大学文学部国文学専修研究Ⅱの課題として、世阿弥の『三道』に沿った形で作られたものである。
 従って複式幽玄能の形をとっている。
 天武、持統、文武朝の歌人である歌聖柿本人麻呂の終焉については諸説あり、詳らかではない。
 「ほのぼのと明石大門にいる日にや」の歌で知られる明石の地には人麻呂を祀った「人丸神社」があることから、終焉の地を明石とし、数多くの羇旅の歌からして、帰任の途中病を得て、はるか大和の地を拝みながら空しく逝ったとした。
 その人麻呂の神霊が人丸大明神として、和歌の道の霊験を説くものとした。


   創作曲「人丸」のあらすじ

 大和の国の僧がある夜、観世音菩薩の霊夢を見、柿本人麻呂を祀るため播磨国明石に赴く。
 そこで一人の漁翁に一夜の宿を乞う。その老翁は僧に人麻呂所縁の地について語り、塚の中に消える。
 所の男が現われ、人麻呂が帰任の途中、この地で空しくなったことを語る。僧は先ほどの老翁こそが人麻呂の霊であると感じ、塚に向い経を手向ける。
 その経に感応した人麻呂の神霊が、神として現われ、霊験あらたかなることを説く。
 頃しも時は三月十七日、人麻呂の命日であった。



8月30日付 神戸新聞

 上図は8月30日付神戸新聞の紙面です。以下に同紙の報道を転載します。

 明石市職員だった池田さんは2011年に定年退職。その後、言葉の響きの美しさに引かれ謡曲を始めようと同サークル(衣川コミセン)に通うようになった。能楽師にも師事し、謡曲を深く知るうち、古典文学をもっとまなびたいとの思いで15年、母校の関西大学に編入。文学部で能や狂言などの中世日本文学を学んだ。
 長く仕事をした明石に愛着もあった池田さんは、大学の授業の宿題として能の創作が出されると「明石が舞台の作品を作ろう」と決断。明石ゆかりの歌聖、柿本人麻呂の霊験を主題とする文語調、五七調の本格的な作品に仕上げた。柿本神社にも取材に行き、縁起などを調べたほか、和歌も作品に織り込んだ。
 謡曲の仲間の間でも話題になり、いつかは同神社に作品を奉納したいと考えていた。そこに別の謡曲グループが9月、同神社で開く謡会で「人丸」を取り上げることに。池田さんもシテとして謡に参加し、奉納することになった。
 池田さんは「最後に神になる人麻呂の姿を聞いてもらえれば」と話している。


 この記事をご覧になって鑑賞に来られた方も多かったのではないでしょうか。

 今回の謡会で使用された『人丸』の稽古本は、表紙画も製本もすべて岩瀬さんの手作りになるもので、1冊ずつ丁寧に制作されていました。
 新作『人丸』は上述のように、池田さんが世阿弥の能楽論書を研究され、就中その『三道』に沿って制作された自信作です。我々ではこのような作品を作るという発想すら浮かびませんのに、よくこれだけのものをお作りになったものと、感服いたします。
 そのような作品に対して失礼をもかえりみませず、感じた点を二、三申し述べます。なお『人丸』の全文は末尾に掲載いたしました。

① 柿本神社に奉納することを思えば「所」は柿本神社、「前シテ」は『蟻通』のように神社の社人とするのが望ましい。曲のキリにある「しほん、おおやしろ」が現実味を帯びてこよう。場合によっては「ワキ」を紀貫之とすることも考えられる。
② キリで「ほのぼのと…」の歌の心は、として「発心大円鏡智、…」以下が述べられ、「初生娑婆世界。朝立霧。四魔滅。念仏」が登場するが、唐突で理解し難い。この部分を本曲の中心に置き、「語り」もしくは「クセ」で、その歌の心を詳述してはどうであろうか。乱曲の『五輪砕』も参考になると思う。この場合、ワキが貫之であることが望ましいと思う。
 現行では、曲の主題となるべきものが希薄で、全体に軽い感が否めない。
③ アイの「語り」は「中入」後に挿入すべきではないか。

 『人丸』が終わり、一般の聴取者の方には退場いただきます。
 お昼の弁当が配られ、40分ほどの昼食休憩に入ります。午後は徒然謡倶楽部のメンバーによる謡会が実施されます。


会場風景

昼食の様子


 本日の番組は、明石や人丸に関係の深い曲が選出しています。
 明石に関連の深い曲としては『忠度』があります。今回は平忠度関連で、人麻呂やその歌などが登場し、なおかつ余り謡われない曲なのでたまには謡わねば、という次第で『俊成忠度』が選ばれました。


   謡曲「俊成忠度」のあらすじ
 和歌に心を残しつつ戦場に散った平忠度の霊が、藤原俊成と言葉を交わし、修羅道のありさまを見せる。本曲とは別に『忠度』があり『俊成忠度』はその後日譚ともいえる。『忠度』で後シテの忠度の霊が携える短冊を付けた矢を、本曲では岡部六弥太が持って出て、俊成に渡すという設定になっている。

 西海の合戦で平忠度を討った岡部六弥太忠澄が忠度の遺品である短冊を届けに藤原俊成を訪れる。俊成はその短冊の歌を読み、忠度をしのぶ。やがて忠度の霊が現われ「故郷の花」という題で詠んだ歌を、俊成が『千載集』に「読み人しらず」として入れたことに対する怨みを述べ、俊成はやむを得なかった事情を語って慰める。それから互いに和歌の事を語り合っているうちに、忠度の様子がにわかに変わり、修羅道の責の責めのすさまじさを示し、明け方とともに去って行く。


 本曲と同様、忠度と俊成の関連をテーマとした曲には『忠度』があります。この両者の違いは、『忠度』が完全な夢幻能であるのに、本曲では事件の直接の関係者であるワキやツレが劇の進行に入り込んでいる点であります。そしてワキが名ノリで現れて、そのまま本論に入るという幕開きは、『忠度』のキリに続く事件の展開として位置づけられています。すなわち『忠度』の後日譚として本曲が存在していると言えましょう。
 また本曲のキリは、修羅王が梵天に攻め上って帝釈天としのぎを削る一騎打ちのありさまを表現したものです。修羅物の能とは主人公が修羅道に堕ちてその苦患を受けるとことによるものですが、修羅道とは阿修羅の棲む世界であり、その意味では本来の修羅のイメージを遺した珍しいキリと言えるのではないでしょうか。
 そういえば思い出しました。遙かむかしのことですが、光瀬龍に『百億の昼と千億の夜』というSF小説あり、その主人公が“あしゅらおう”。“おりおなえ”や“シッタータ”と共に活躍をするというものですが、よく分からないが面白かったという記憶があります。
 閑話休題。前付の〈曲種〉にも述べられていますが、サシ・クセで歌物語となります。語るのは忠度で、歌道の大家である俊成に対して「およそ歌には六義あり」などと講釈を垂れており、これは如何なものかと言わざるを得ないでしょう。

 『俊成忠度』に次いで『草子洗小町』が奉納されました。


   謡曲「草子洗小町」のあらすじ
 以下、「野上豊一郎『能二百四十番』能楽書林、1951」による。
 王朝時代の御歌合に場面を取り、小町の相手として黒主を立てる。黒主は前夜小町の詠吟を盗み聞きして『万葉集』の草子に書き入れ、翌日の御歌合の席で小町を剽窃者として誣告し、小町は背徳者として陥れられたが、小町の自信は悲哀の中からも黒主の奸計を見破り、草子を洗ってみたいち訴えて許され、洗ってみると、もとより入筆したものであるから、墨は小町の汚名と共に洗い去られた。局面は一転して背徳者は黒主であったことが証明され、黒主は慙愧のあまり自決しようとしたのを、却って小町の取りなしで救われ、双方遺恨なく納まって、小町は歓びの舞を舞うのである。
 この構想の上で、同時代人でない小町と黒主を競争者として立てたり、貫之・忠岑・躬恒までを列席させたりすることは歴史を無視した行き方ではあるが、それは創作者の自由に任せても差し支えない。主題は小町の苦衷から歓喜への心情の表現にあり、それが中之舞で美しく表されるが、ロンギで草子を洗う場面もそれを助けている。一体に写実的工作が強く目立つが、詞章曲節の幽玄味がそれを飾り立てて散文的にならぬように用意されている。


 本曲に関しては、2016年の「淡路・国生みの島紀行」で、大角征矢氏の『能謡ひとくちメモ』の「『草子洗小町』の雑学」を引いて詳述いたしました。重複しますがそのうちの〈ツヨ吟〉に関する点を再録いたします。

 次に、謡の本文や節付でうならざるを得ない事の一つは、ツヨ吟とヨワ吟の適切な配置であります。
「その歌人の名所も。皆庭上に竝み居つゝ…」や、「さらば證歌を出せとの。宣旨度々…」や、「げにありがたき砌かな。小町黒主遺恨なく…」など、それまできれいなヨワ吟で謡ってきたのに、こゝへきてなぜ、突然〈無骨な〉ツヨ吟に変わるのでしょうか?
 上にあげた三ヶ所は、いずれもそこから〈帝〉もしくはその言動にかゝわる部分を謡うことになってくるからで、凛として侵すべからざる様態を謡うにはツヨ吟に限る、しかもネバネバせずスパッと謡う、という事だと思います。
 この、変わる前後の部分を、それを念頭において謡うか、そんな事に頓着せず謡うかで『草子洗小町』一曲を謡う楽しさが、ずいぶん違ってくるのではないでしょうか…。
 『小袖曽我』の「とりどり時致と共に祝言の…」などは息継ぎの間もなく変わっていく所ですが、悲しみから嬉しさに変わっていく祝言の心になるのは、必ずツヨ吟で謡うことになるわけで、ツヨ吟は単に易しいと見くびれません。ツヨ吟を規矩正しく謡うのは、とてもむづかしいです…。

 以上、大角征矢氏の『能謡ひとくちメモ』を参照しました。
 さて、この『草子洗小町』ですが、見方によってはこれくらい出鱈目な作品はないと言ってもよろしいのではないでしょうか。
 まず、貫之や黒主、躬恒など年代の異なる著名人を一堂に会させている点。
 その二、歌合せの前日に、相手の私宅に忍び入り、盗み聞きした歌を草子に書き込み万葉の盗作だと訴える。六歌仙の一人といわれる黒主ともあろうものが、そんなみえすいた企みをする筈がないでしょう。
 第三に、黒主所有の万葉集にのみ小町の詠歌が存在していることを、貫之をはじめとする名だたる歌人たちが、気が付かない筈がないでしょう。
 こうして考えると本曲は、不自然で辻褄の合わない、いい加減さが目立つ駄作だということになりかねませんが、ストーリーの馬鹿らしさはさて置いて、本曲の見どころである〈地次第〉から〈ロンギ〉に到る、草子を洗うという発想がどこからきたものでしょうか。この曲は、まさにこの場面のために構想されたものではないかと思われるほど、最高の謡いどころ、見どころが、このシーンに集中しています。そして最後は小町の舞う〈中之舞〉で幕を閉じるのですが、この時の舞いが中之舞であるのは、複雑に浪立った小町の心境を現すには、緩やかな〈序之舞〉では無理があるからだと思われます。
 (この項は「里井睦郎『謡曲百選』笠間書院、1979」を参照しました。)

 最後の奉納曲は『岩船』です。


   謡曲「岩船」のあらすじ
 観世流では、現在『金札』とともに後場のみの祝言能専用の曲となっているが、他流ではいづれも前場を保存している。

 時の帝が摂津国住吉の浦に、新たに市を立てて、高麗・唐土の宝を買い取れとの宣旨を下す。命を受けた勅使が住吉に下向すると、その市に宝珠を載せた銀板を持った唐人姿の童子が現われる。唐人姿ながら日本語を話す童子に不審を抱いた勅使が声を掛けると、童子はめでたい御代を寿ぎ、帝に宝珠を捧げるためにやって来たと言い、喜見城の宝物を捧げるための岩船が、沖より漕ぎ寄せてくる、と語る。そして自らはその岩船を漕ぎ寄せた天の探女であると称して立ち去る。

 やがて龍神が宝を乗せた岩船に棹さして現われ、八大龍王を呼び集め、力を合わせて船のともづなを手繰り寄せれば、船はめでたく岸に着き、金銀珠玉は山のように積まれ、栄える御代をたたえる。
 観世流では前場が省略され、ワキ登場の次第、名ノリのあと待謡となり、ワキが座に着くと〈早笛〉となって、シテが登場する。


 観世流の『岩船』には登場しませんが、隠れた主人公ともいえる「天の探女(さくめ)とはいかなる人物であったのでしょうか。謡曲の詞章を見ていますと、後シテが天の探女でツレが龍神という演出があってもよいのではないかと思うのですが…。
 さて、天の探女については『古事記』の「葦原中国の平定」において、天若日子(あめのわかひこ)の従者のような形で描かれています。以下この部分を要約いたしますと、

 天照大神は天菩比神(あめのほひのかみ)を葦原の中つ国に派遣したが役目を果たさなかったので、次いで天若日子を派遣した。しかし天若日子は国主神の娘の下照比賣を妻にして、八年の間復命しなかったため、鳴女(なきめ)という雉を送り、天若日子の真意を糺す事にした。雉は天若日子の家の門の楓に止まり、「おまえはなぜ、いまだに復命しない。」と天照大御神の言葉を伝えた。天探女はこれを聞いて、天若日子に「この鳥の鳴き声は不吉だ」と伝えた。そこで天若日子は弓矢で鳴女を射殺したが、その矢は鳴女の胸を貫き天照大御神と高木神のもとに届いた。これを拾った高木神は「悪神を射た矢なら天若日子には当たらぬが、天若日子に悪い心があるなら当たる」と言挙げし、矢を投げ返すと、その矢は天若日子命の胸を貫いた

 このように天孫降臨に先立って葦原の中つ国に遣わされた天若日子を、決定的な反逆者に追い込んだのは天の探女です。しかし天つ神の印としての弓矢を携えた聖なる特使天若日子が、何故に天の探女のようなものの進言に絶対服従したのでしょうか。おそらく天の探女は、神託を受けて吉凶を判断する巫女を神格化した存在とも考えられますが、その正体は判然としないようです。
 天の磐船に乗った天の探女が停泊した場所は、大阪の上町台地にある高津であるとされる場合があります。『摂津国風土記』(逸文)には

 難波高津は、天稚彦天下りし時、天稚彦に属(つき)て下れる神、天の探女、磐舟に乗て爰(ここ)に至る。天磐船の泊(はつ)る故を以て、高津と號す

とあり、また『万葉集』(巻三・292番)には

  ひさかたの天の探女が岩船の泊(は)てし高津は淺(あ)せにけるかも

という、角麿(つののまろ)の歌が記されています。


 『岩船』をめでたく謡い終り、奉納謡会は無事終了いたしました。
 このあと、地元のガイドさんの案内で、月照院から亀の水への旧蹟探訪を兼ねた散策が予定されています。全員神門前に集合いたしました。




《人丸山界隈そぞろ歩き》

 神門の前の広場に日時計が設置されています。すぐ下にある明石市立天文科学館の出口がこの広場につながっているようです。
 ひと口に日時計といってもいろいろあるようで、コマ形、赤道式、垂直式、水平式などなど。この日時計は“水平日時計”で、通常“庭日時計”とも呼ばれ、最も一般的なもののようです。

 本日の案内役は、ボランティアガイドの松浦さん。なかなか愉快な方で、面白おかしく名所旧跡を案内してくださいました。
 日時計の右手に、芭蕉の句碑が建てられています。“蛸壷塚”と呼ばれています。以下は明石俳句会による解説です。

  蛸壷やはかなき夢を夏の月  芭蕉
 旅を栖とした芭蕉にとって明石は西の果てであった。この句碑は芭蕉の75回忌にあたる明和5年(1768)青蘿が創建、崩壊のため玉屑が復興、更に魯十が再建した。


神門前の水平日時計

芭蕉句碑

 
 青蘿(せいら)は江戸中期の俳人で、のちに加古川に庵を結び栗之本と号した。明石に蛸壺塚、淡路島に扇塚を建てるなど、芭蕉顕彰に尽力しています。玉屑(ぎょくせつ)は俳諧を青蘿に学びました。僧名は観応、号は無夜庵・栗本二世。その著『東貝』は近代における『奥の細道』として著名です。魯人(ろじん)は明治時代の俳人。義仲寺無名庵14世庵主となり無名庵復興に尽くしました。魯人の逸話として、無名庵にある「木曽殿と背なか合せの寒さ哉」の句碑を抜いた話が残されています。
 前述の享和3年(1803)刊行の『播磨名所巡覧図絵』には「芭蕉塚、石檀の傍にあり。俳諧宗匠はせを翁、桃青の墳なり」と記されており、この句碑は当初参道の石段のところにあったようです。その後文化12年(1815)に青蘿の門人玉屑によって再建されました。現在の地に移されたのは阪神淡路大震災の後になるのでしょうか。

 
  蛸壷塚の右手に立つのは「トンボの標識」の愛称で知られる「日本標準時子午線標示柱」です。以下は明石観光協会の説明です。

 この子午線標示柱は、日本標準時の基準である東経135度子午線の位置を示しています。東経135度子午線は、昭和3年に京都大学観測班が天体観測を行って人丸山上を通過していることが分かりました。この結果、昭和5年(1930)1月、月照寺山門前にこの標示柱が建設され「トンボの標識」の愛称で呼ばれるようになりました。そして、昭和26年(1951)の再観測で現在の位置(11.1m移動)に設置されています。
 標示柱は、高さ約7m、鉄柱の直径約15cmで、上部のカゴ状の球は地球を表し、球の上には「あきつ島」(日本の異名)を象徴したトンボ(あきつ)がのっています。


明石市立天文科学館

子午線標示柱




   (上) 日本標準時制定100年記念切手初日カバー
   (右上)天文科学館と明石海峡大橋を描く明石局風景印
   (右下)天文科学館と135度線を描く明石子午線局風景印

 
 明治17年(1884)ワシントンにおいて、25ヶ国が出席し、世界標準時についての国際会議が開催され、イギリスのグリニッジ天文台を通る子午線を基準とし、これが0度とされました。この会議の結果に基づき、我が国では明治19年7月12日に、この0度から9時間の時差を持つ東経135度子午線が日本標準時として適切であるとされ、勅令第51号をもって日本標準時が制定されました。
 昭和61年7月11日に日本標準時制定100年を記念した60円郵便切手が発行されています。切手の意匠は、明石市立天文科学館の外壁に取り付けられた時計と東経135度子午線を描いたものです。
 明石郵便局と明石子午線郵便局の風景印には市立天文科学館が描かれています。明石子午線郵便局は旧明石大蔵郵便局が現在の天文町に移転するに際して改称したもの。なお天文町はかつての右手塚(うでづか)町や忠度町が居住標示の変更により誕生したもので、謡曲愛好者にとっては、すこぶる付きの残念な出来事でありました。
 風景印の意匠にもなっている明石市立天文科学館は、昭和35年(1960)に開館、現存する天文科学館の中では、日本で最初に竣工された科学館として知られています。一番館の玄関横を通る子午線上に漏刻が設置され、また「JSTM」(Japan Standard Time Meridian=日本標準時子午線)と表示された時計塔があります。館の南側をJR山陽本線と山陽電鉄が通っており、これらの鉄道路線や車窓からもタワーがよく見えることから、明石市のランドマークにもなっています。


 柿本神社の西に位置するのが月照寺です。以下は門前の当山の由緒書きです。

 当山は弘仁2年(811)弘法大師空海が現明石城本丸の地に湖南山楊柳寺を建立したに始まる。
 仁和3年(887)住僧覚証和尚が大和國柿本寺より船乗十一面観世音菩薩を勧請し同時に柿本人麿の祠を建て鎮守とし、寺号を月照寺と改める。
 天正3年(1575)三木雲龍寺より安室春泰禅師来る。坐禅に入るとき人麿の神霊が現われ禅定を讃せらること7日に及ぶ。依りて曹洞宗に改宗し改宗開山となる。
 元和5年(1618)明石城の築城に際し此の地に移された。享保8年(1723)人麿に神位神号が贈られ各天皇より宸筆短籍外多くの品を賜つた。
 延享元年(1744)前宝鏡寺本覚院宮より「人麿山」額の奉納があり、此の時より山号を人麿山と改めた。
 明和6年(1769)永代長日勅願寺の沙汰を蒙つた。


月照寺

 
 上記の寺伝にも述べられていますが、本山は空海がかつて明石城のあった赤松山に創建した湖南山楊柳寺にはじまり、覚証が鎮守社として人丸社を建て、寺号を月照寺に改めました。この人丸社が現在の柿本神社の前身となります。その後明石城の築城に伴い現在の地に移転、明治維新の神仏分離令により、それまで月照寺と柿本神社は一体の存在であったものが、別の宗教法人となり現在に至っています。
 本堂の前に「八ツ房の梅」がありますが、柿本神社と同じ由緒でしょうか。以下はその説明書きです。

 元禄15年(1702)赤穂浪士大石良雄、間瀬久太夫の両人、当山へ参拝して、素願の成就を祈り大石氏は墨絵鍾馗の図を描きて奉納。
 間瀬氏は持参の梅の鉢植え八ツ房を移植して祈願の印しとなした。この梅は紅梅で一つの花から7、8個の実を結ぶので八ツ房の梅と称せられ多くの人々に親しまれている。現在は三代目である。


八ツ房の梅

ふれ愛観音と洗心長寿観音

 
 境内西側の山門を入ったところに、ふれ愛観世音像と洗心長寿の観世音像が祀られています。
 ふれ愛観音は目を閉じて触れると、身体に痛みのある者、特に視力の弱い者に効力があるようです。北側に立つ洗心長寿の観音は、一切の苦悩を洗い浄めてくださるとのことで、お供えの水は亀の井戸の名水だそうです。また水琴窟があり、耳を傾けると妙なる音色を聞くことができます。


月照寺山門

人麻呂歌碑

 
 本山の重厚な山門は、豊臣秀吉が伏見城の薬医門として建てたのが始まりで、元和4年(1618)小笠原忠政が徳川秀忠から賜り、明石城の切手門となり、明治16年に本山の山門として移築されました。明石の指定文化財になっています。
 墓地の入口付近に人麻呂の歌碑が建てられています。『万葉集』(巻三・254)の歌。

  留火(ともしび)の明石大門(おほと)に入る日にか漕ぎ別れなむ家のあたり見ず


松平直韶墓所

明石城主松平家菩提寺/FONT>

 
 月照寺から亀の水に下る途中に立派な五輪塔がありました。この五輪塔から見下ろす位置に、明石藩主越前松平家の菩提寺である長寿院があります。
 明石藩は元和3年(1617)に信濃国松本より小笠原忠政(晩年忠真(たださね)を名のる)が10万石で入封したことに始まります。忠政は明石城を築城し、このとき月照寺は現在地に移転することとなります。忠政が豊前国小倉藩に転封となった後は、譜代と御家門の大名が頻繁に入れ替わりました。天和2年(1682)、越前国大野藩より松平直明が6万石にて入封し、越前松平家の支配が廃藩置県まで続くことになります。越前松平家7代の斉韶(なりつぐ)は、嫡男がいたにもかかわらず将軍家斉の25男・斉宣(なりこと)を養子として押し込まれた上に隠居させられます。けれども幸いなことに(?)斉宣は4年後に病気で急逝し、嗣子がなかったために先代斉韶の嫡子・慶憲(よしのり)が相続しました。この五輪塔には斉韶が祀られており、この高所から斉宣を見下ろしていることでしょう。
 斉宣には次のような伝承が遺されています。以下 Wikipedia によります。

 斉宣が参勤交代で尾張藩領を通過中、3歳の幼児が行列を横切った。幼児は捕らえて処刑された。この処置に激怒した尾張藩は、御三家筆頭の面子にかけて今後は明石藩主の尾張領内通行を認めないと通告するに至る。このため以降明石藩は尾張領内においては行列を立てず、藩士たちは脇差し一本のみ帯び、農民や町人に変装して通行したという。これは松浦静山が随筆『甲子夜話』で記すところによるものだが、尾張、明石両藩、街道沿いの地域の歴史記録や公文書でこの事件に関するものが現在に至るまで発見されておらず、真偽のほどは不明である。この巷談はのちに映画『十三人の刺客』として翻案された。映画での明石藩主は「将軍家の弟の松平斉韶(斉宣の先代藩主と同名)」とされたが、後に発表された小説化作品では斉宣となっている。

 『十三人の刺客』では暴君として描かれ非常にイメージの悪い斉宣ですが、将軍の息子と言うことで出費がかさみ明石藩の財政が火の車になったことは確かなようです。


柿本神社西の鳥居と亀の水


名水が湧出る亀の口

亀の水に集う/FONT>

 
 階段を下り柿本神社の西の鳥居をくぐると「亀の水」があります。この水は人丸山から湧き出る霊水です。播磨三名水の一つで(他の二つはどこなのでしょう?)、かつて「長寿の水」とも言われていました。人気の高い水汲み場のようで、多くの方が水を汲みに訪れるようです。
 以下は水汲み場の掲示物です。


 この清泉は元和7年(1621)山上の月照寺や人丸社にお詣りする人々のために湧き出る清水を竹の筒で引き、石亀の口より大きな甕に受けて、諸人の利用に任せたので頗る喜ばれ「名水 亀の水」と称せられました。
 只今の手水鉢(盥漱盤(かんそうばん))は、享保4年(1719)常陸國の人飯塚宣政(のぶまさ)氏の寄贈によるものです。
 上に續く石段は人丸山西坂といひ、江戸時代勅願所月照寺へ参向せられた勅使の正式参道でした。(月照寺傳)
 只今でも名水を愛し、日々汲みに来る人々が絶えません。

 我々の仲間も、何人かはこの名水をペットボトルに汲み入れ、家路の土産とされたようです。
 ここ亀の水にてガイドの松浦さんの案内は終了し、我々の短いツアーも幕を閉じました。人丸前駅へ、あるいは明石駅へと、思い思いの帰路についた次第です。

 今回は衣川コミセンから多数の参加をいただき総勢50人近い大人数による謡会となりました。また昨年の淡路島おのころ神社に続く奉納謡会を開催できたことは大きな喜びと申せましょう。そして何よりも特筆すべきは、衣川コミセンの池田さん制作の新曲『人丸』が奉納できたことです。このことは徒然謡倶楽部にとって、大きな刺激でもあり、また喜びでもありました。今後もこのような試みがつづけられることを期待してやみません。
 また来年の楽しい企画でお目にかかることを楽しみに、この小文を閉じることといたします。



 以下に池田幸司氏作『人丸』を掲載します。


    人 丸  (前附・本文)

 曲柄    初番目
 季節    春(三月)
 所     播磨国 明石
 前シテ    老翁
 後シテ    柿本人麻呂
 ワキ     僧
 間狂言    所の者
 能の小書  無し
 太鼓    有り
 作物    塚


後見が塚の作り物を大小前に置く
【次第】 ワキが登場、正先に立つ

《次第》
ワキ

「霞たなびく春なれや。霞たなびく春なれや。播磨の道を急がん

《名ノリ》

「これは大和の国広安寺の僧にて候。我或夜不思議の夢を見る。金色(こんじき)の観世音菩薩。夢枕に立ちて。敷島の道をはげむなれば。柿本の朝臣(あそみ)。播磨の国にて祀れよと御告げ残して。船にて飛び去りぬ。これありがたき御霊言(ごれいげん)にて。急ぎ播磨の国へと旅たちぬ

《道行》
 

「あおによし。古き都を今朝出でて。まだ月残る三笠山。春の日かかやく大社(おほやしろ)。大き御寺に経手向け。暗き峠を越え行けば。身を尽くしなる難波潟。淀の川波茅渟(ちぬ)の海。行方敏馬(みぬめ)の浦の波。生田の川をうち渡り。藻塩(もしほ)の煙須磨の風。大蔵谷も越え行かば。菅公涙し駅過ぎて。明石の浦に.着きにけり。明石の浦に着きにけり
「急ぎ候程に。これははや播磨の国は明石の浦に着きて候。見れば何やらゆかしき塚のあり。謂れは何か知らねども。御参り致さうずるにて候

ワキ 塚に向かい数珠を持ち合掌
【真ノ一声】でシテの登場。杖をつき常座に立つ

《一セイ》
シテ

「島隠れ。淡路絵島にいる月や。しば鳴く千鳥。音(ね)ぞ遠き

《サシ》
 

「げに世を渡る慣(な)らひとて。いさなを採りて身をあかす。この憂き業にて世を渡る。身にも情(こころ)の残るやらん

《下歌》
 

「げにや漁(いさ)りの海士小舟。海士の呼び声暇なきに。潮(うしほ)の騒ぎも遠なりし

《上歌》
 

「明石大門(おほと)に入る日にや。明石おほとに入る日にや。入りつるかたも白波の。磯の波音松の声。絶えてとばりも下りにけり

シテ 常座に座る。ワキ 塚より立ちシテに向かい


ワキ

「いかにこれなる老人。おことはこの浦の海士にて候か


シテ

「さん候。この浦の海士にて候。わかのうらわの藻塩草


ワキ

「藻塩焚くなり夕煙


ワキ

「いかに尉殿。はや日の暮れて候へば。一夜の宿を御貸し候へ


シテ

「うたてやなこの賤が家をお宿の候べきか


ワキ

「さん候。いかな苫屋も花の宿。日の暮れて候えば。平に一夜と重ねて願い候


シテ

「げに傷はしき御ことかな。さらばお宿を貸し申さん


ワキ

「かたじけなく候

ワキ座に着座


シテ

「春の夜にかぎろへる朧月。しくものはなき苫の宿


「明石の浦の磯枕。苔の筵(むしろ)は傷はしや


ワキ

「いかに申し候。これなる地はかの歌聖。柿本のまうちきみ縁(ゆかり)の地とや。そもそもその謂(いは)れ詳しく語つて聞かせ候べし


シテ

「さらば語つて聞かせ候べし

《語》
 

「そもそも浄御原(きよみはら)の帝の御時。柿本の朝臣(あそん)。西の方の国に赴きしに。この明石の浦に沈む夕日に故郷を偲び。また任(にん)終え。この浦にまで帰りきたりし時は。昇ゆく朝の霧を愛(め)で。あまたの歌を詠めり。故にこの地を歌聖柿本朝臣のゆかりの地となせり

《クセ》

「明石潟。名にも高き沖つ波。名にも高き沖つ波。千重(ちへ)に隠れぬ。大和島根や。すべらきの。遠つ朝廷(みかど)とあり通ふ。明)石大門をながむれば。心恋しき。大和島みゆ


シテ

「ともしびの。明石大門に入る日にや。漕ぎわかれなむ。家のわたりや


「我妹子(わぎもこ)を。夢に見え来(こ)と大和路の。渡る瀬ごとに。手向けして。雲居に見ゆる妹が家(や)に。はやも至らむ飼飯(けひ)の海


シテ

「天離(あまざか)る。鄙(ひな)の長道(ながぢ)を漕ぎ来れば。明石の門より大和島みゆ

《ロンギ》

「天離る。鄙の長道を漕ぎ来れば。明石の門より大和島みゆ。たよりなき。あまの小舟のいかり縄(なは)。思ひこがれて身を沈めぬるつゆも涙もほしあへぬ。夜も明石の浦にこがれぬる。草の枕の我が身か


シテ

「ほととぎす。なくやさ月の短夜も。ひとりしぬれば明しかねつも


アイ 狂言座に着し


アイ

「そもそも播州明石の地と申すは。宮つ人西国の方に向かふに難波の津より船出して。この地にて船泊まりせし。宮つ人この浦より。遙か大和の国を仰ぎて別れを惜しむ。また任終りて西の国から帰りし時も。この浦にて船泊りしなり。宮つ人。おなじく大和の国を拝み帰心矢のごとくなり。ざれど柿本の朝臣。病篤くして空しくなりぬ。土地のひとこれを憐れみて。土築込めてかの君を祀りぬ


ワキ

「さらばこそ。あの塚こそ。人麻呂の朝臣の奥津城(おくつき)なれや

ワキ 塚の前に行き座す。数珠を持って祈る
シテ 常座に回り正面を向き、消え失せた体で塚に入る


ワキ

「さらばにや。大和の国を御前にして。空しくなりし朝臣の心。いかばかりなん。我厚く弔はん


ワキ

「南無去来現在一切(いっさい)。三宝和歌先霊往生(わうじゃう)仏国  〈中入〉

《待謡》
ワキ

「古き塚に額(ぬか)づきて。古き塚に額づきて。ふくるもしらで明石浦。有明の月と見るよりも。立待(たちまち)にいづる春の月。月に詠じて夜もすがら。敷島のみちを祈るなり。敷島のみちを祈るなり


「ああら不思議や。舞歌の声こそあらたなり

【出端】 シテ 塚の中より謡う

《サシ》
後シテ

「明石大門に入る日にや。ほの隠れ行く。大和島見ゆ


ワキ

「不思議やな舞歌あらたにして塚鳴動せり。さては人麻呂朝臣の神霊この塚にとどまれり

塚の中よりシテ 巻物を持って現れ、正面を向き


シテ

「我こそ柿本朝臣。人麻呂の神霊なり。敷島の道願う心に感得(かんとく)して。これまで現れたり。それ和歌の力とは。天地(あめつち)を動かし鬼神(きしん)をも感得せしめん。また人の倫(みち)を明らかにするねりなり


「それ。これ神威(しんゐ)はかりがたきものなり。ただひとにあらず。まことに知るべし。知るべしや


シテ

「われ。播磨なる明石の浦の浪の光のあきらけきをながめてうたふ。ほのぼのと。明石がうらのあさぎりに。しまがくれゆく。ふねをしぞおもふ


「ほのぼのと。あかしがうらの朝霧に。島かくれゆく。船をしぞ思ふ。さてその歌の心には


シテ

「心大円鏡智(だいえんきゃうち)。修行平等性智(びゃうどうせいち)。菩薩。如観音智(じょくわんのんち)。涅槃成行作智(じゃうがうさくち)。法界体性智(ほっかいたいしゃうち)。人(ひと)(せい)を受けしその時より。生老死病苦の悩み有り。我が霊前にてこの歌をとなへなば。我が霊力にてこの悩みより解き放たん


「今この歌の徳用にて。初生娑婆(しゃば)世界。朝立霧(てうりふむ)。四魔滅(しまめつ)。念仏。しほん(柿本)おほやしろ。歌道隆盛。火伏(ひぶせ)り。安産の霊地となるも。

脇正面を向いて袖を返し留拍子


 

 この明神の。恩徳と。うけたまはる





 メインホールへ戻る
 気まぐれ紀行の先頭

  (2017.10.21 記録)


inserted by FC2 system