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 気まぐれ紀行の先頭
赤目四十八滝めぐり
室生寺・長谷寺参拝記


赤目四十八滝探勝記  2018.5.15~5.16
室生寺・長谷寺参拝記≫


 以前から赤目四十八滝へ行ってみたいと、かみさんと話題にしておりましたが、ひょんなことから急遽赤目行きが実現する運びとなりました。
 ただ、せっかく行くのであれば、赤目だけではもったいない。5月15日に近くにある室生寺に参拝して赤目で一泊し、翌16日に四十八滝を散策、帰路、長谷寺に参拝かたがた『玉鬘』の謡蹟を尋ねようというもので、古寺巡礼で赤目四十八滝をサンドウィッチにしたような計画を作り上げました。当然のことながら、室生・初瀬・赤目での郵便局訪問もきっちりと計画には組み込まれております。


 5月15日、難波駅から近鉄に乗車、上本町駅で五十鈴川行きの急行に乗り換え、室生口大野駅に11時36分の到着です。駅前の案内所で足の便を尋ねたところ、バスがさっき出たところで、次は13時までないとのこと、やむを得ずタクシーに乗車、室生寺を目指しました。
 室生口大野駅より数百メートル南下したところに大野寺があります。宇陀川の対岸にそそり立った岩肌が見え、そこに弥勒菩薩像が刻まれ、大野寺弥勒磨崖仏と呼ばれています。この磨崖仏は有名な笠置の石仏を写したもので、後鳥羽上皇の御願によるものだそうです。


大野寺弥勒磨崖仏

磨崖仏(拡大)


 十数分で車は室生寺に到着、室生郵便局に立ち寄り、ちょうど昼どき、門前の中村屋で食事を摂り、室生の寺に参拝いたします。




宀一山(べんいちさん)  室生寺   奈良県宇陀市室生78


室生寺境内案内図


 室生寺は、真言宗室生寺派大本山の寺院。本尊は如意輪観世音菩薩。女人禁制だった高野山に対し、女性の参詣が許されていたことから「女人高野」の別名があります。山号は宀一山(べんいちさん)、これは「室」のうかんむりと「生」の最後の一画をとったということです。
 以下は当寺案内書の縁起です。


拝観券

 奥深い大和渓谷に囲まれた室生の地は、太古の火山活動によって形成された室生火山帯の中心部で、こうした幽邃(ゆうすい)な場所は古くから神々の坐ます聖地とあおがれていた。
 やがて奈良時代の末期、この聖なる地で皇太子山部親王〈のちの桓武天皇〉のご病気平癒の祈願が興福寺の高僧賢環など五人の高徳な僧によって行われ、これに卓効があったことから、勅命により国家のために創建されたのが室生寺である。だが建立の実務にあたったのは賢環の高弟修円であった。修円は最澄や空海と並んで当時の仏教界を指導する高名な学僧であった。
 以来室生寺は、山林修行の道場として、また法相・真言・天台など、各宗兼学の寺院として独特の仏教文化を形成するとともに、平安前期を中心とした数多くの優れた仏教美術を継承する一方、清冽な渓流は竜神の信仰を生み、雨ごいの祈願も度々行われて来た。そのほか厳しく女人を禁制してきた高野山に対し、女人の済度をもはかる真言道場として女性の参詣を許したことから「女人高野」と親しまれている。




太鼓橋

表門


 門前に連なる旅館や茶店を過ぎると、室生川の清流に「太鼓橋」と呼ばれる朱塗りの反り橋が架かっています。この橋を渡ると正面に表門があります。今回の参拝時には表門から仁王門に至る閑、一部工事中でありました。600円也の拝観料を支払い、入山いたします。


仁王門


 表門を入り、90度右に曲がり川に沿って進むと仁王門があります。江戸時代元禄期に焼失したものを、昭和40年に再建されたもので、仁王像も昭和の再興像です。


鎧坂

バン字池


弁財天社


 仁王門をくぐると左手にバン字池があります。ここにはモリアオガエルの生息地として知られています。池ののすこし上には 室町時代の春日造りの小さな祠の弁才天社があります。
 左手の自然石積みの幅広い急な石段は鎧坂(よろいざか)と呼ばれ、その両側には石楠花などの木々の枝が迫っています。ここ室生寺は石楠花の名所として知られ、季節ともなれば全山ピンクに染まることでしょう。


金堂


 鎧坂を登りきると、正面の一段高い石積み壇上に南面して金堂が建てられています。正面5間、側面5間の童であるが、奥の4間の正堂の前面に、江戸時代に1間通りの庇(礼堂)を縋破風(すがるはふ)にして加えたもので、この部分は高い床柱を一段下の石積壇上まで延ばして懸造にしています。したがって奥の正堂部分が平安時代初期以来の建物です。金堂は当寺の五重塔とともに、わが国における平安初期の山寺の仏堂としては唯一のもので、高く評価され、国宝に指定されています。
 金堂の内陣には、本尊釈迦如来立像(国宝)を中心に、向かって右に薬師如来立像・地蔵菩薩立像(いずれも重文)、左に文殊菩薩立像(重文)・十一面観音菩薩立像(国宝)が安置されています。なお本尊の背後の板壁には、有名な帝釈天曼荼羅の板絵(国宝)があります。


弥勒堂(パンフレットより)


 金堂の前の平地のに東面して弥勒堂が建てられています。もとは伝法院と呼ばれ、修円が創建時に興福寺の伝法院を移したと伝えられています。本尊の弥勒菩薩立像(重文)は、わが国の檀像風彫刻の代表的作例で、8世紀から9世紀にかけての造像とみられています。また堂内に客仏として安置されている釈迦如来座像(国宝)は平安前期の白眉ともいえる仏像です。


灌頂堂(本堂)


 金堂からさらに石段を上ると、やや広い灌頂堂があります。灌頂堂は本堂と呼ばれています。
 江戸時代、五代将軍「徳川綱吉」の母桂昌院の力添えで、室生寺は興福寺の法相宗から離れて真言宗の寺院となりました。真言密教のお寺になると、一山の中心堂宇は“金堂”から“本堂”に変わります。ここでは真言宗の重要な法儀である“灌頂”が行われます。
 本堂正面の須弥壇の上の厨子には、本尊の如意輪観音菩薩像(重文)が安置されています。本仏は、西宮市の神呪寺(かんのうじ)、河内長野市の観心寺のそれとともに日本三如意輪観音として知られています。

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胎蔵界曼荼羅(パンフレットより)

 

 

 室生寺のご朱印は13種類あり、仁王門前の授与所、本堂(灌頂堂)、奥之院納経所の三ヶ所でいただくことができます。
 室生寺の正式名称は室生山悉地院(しっちいん)で、かつて鐘楼のあたりに旧悉地院があり、如意輪観音像が祀られていました。灌頂堂には「悉地院」の扁額が掲げられています。


 灌頂堂では「本尊如意輪観音像の修復完了記念特別拝観」期間中で、特別拝観料を支払って入堂いたしました。堂内には観音像以外にも金剛・胎蔵両界の曼荼羅や八祖大師の肖像画が展示されておりました。


 灌頂堂の左手の石段を上ると、朱塗りの五重塔が姿を現してきます。高さが16m強、平面が方2.45mで、屋外に立つ五重塔としてはわが国最小のものだそうです。
 昭和63年9月26日発行の国宝シリーズ第5集記念切手に、この五重塔が描かれています。初日カバーを以下に。


 

 平成10年9月22日、台風7号により五重塔は大きな損壊を受け、全壊は免れたものの、塔の西北部の庇は初層から五層まですべて破壊されました。平成11年2月から保存修理工事が始まり、翌12年9月に修復工事は完了しました。


石楠花と五重塔(パンフレットより)

五重塔を見下ろして…


ミニ四国八十八ヶ所


 五重塔からさらに奥へ、石段を上ると「奥之院」の標識があります。かなり厳しそうな参道なので若干躊躇しましたが、せっかくの機会であり、参拝することといたしました。
 朱塗りの無明橋を過ぎると、石段の勾配は急となり、45度くらいの傾きがあるのではないかと感じられます。四国二十七番札所の神峯寺の参道が“真っ縦”と呼ばれているのを思い出しました。
 正面に懸崖造の建物が見えてきました。奥之院位牌堂です。手摺に縋りながら400段近い石段をやっとの思いで登り切り、下を見下ろすと、高所恐怖症の私にとっては、身震いがするような景色が眼下に広がっておりました。下山が大変そうです。


無明橋を越えて奥之院へ

奥之院の懸崖造の建物が望まれる


 登りきった奥之院には、弘法大師を祀る御影堂と位牌堂があります。御影堂には弘法大師42歳像という木造が安置されています。本山の御影堂は、真言宗の寺院に多い大師堂とは異なり、高野山御影堂の形式を伝える唯一の建物であるそうです。


奥之院御影堂

奥之院ご朱印

 御影堂にお参りをして、ご朱印をいただき、しばし足を休めます。御影堂の傍らに、諸仏出現岩といわれる溶岩の凝縮した岩場があり、その頂上に七重石塔が立っています。
 一休みして、恐怖の下山にかかります。手摺にすがりつつ一足ずつ下りましたが、なんでこんなところにお大師さんをお祀りせなあかんのやと、心中ぼやくことしきりでありました。

 無事、下界に下り立ち一息つきます。
 帰路はバスで室生口大野駅に出て、近鉄で二駅先の赤目口まで。今宵の宿は滝本屋にお願いしており、駅に着いたら連絡するようにとのことでしたので、迎えを依頼します。迎えを待つ間を利用して、忘れてならぬ近くの滝本郵便局で郵貯の預け入れを行います。
 迎えの車中で伺うと、今宵の宿りは我々だけの貸し切り状態で、週末までの宿泊の依頼は断っているとのこと。紅葉の時期などはかなりの人出になるのでしょうが、季節外れのウイークディは観光客もあまり寄り付かないのかも知れません。また関西圏など近くの観光客は、車でやってきて宿泊はしないのかも知れません。




赤目四十八滝   名張市赤目町長坂861−1


 贅沢な貸し切りの一夜を過ごし、マイナスイオンに満ち溢れる朝を迎えました。昨日の夕刻、窓から外を眺めていたかみさんが大騒ぎするものですから、そちらに目をやると、驚いたことに1頭の鹿が宿の周りを悠然とうろついておりました。夕食時に宿のおかみさんにその旨話しますと、鹿のみならず、猿や猪なども出没するとのこと。大自然と共に明け暮らす生活を、一瞬うらやましく感じた次第です。
 朝食を済ませ8時半ころ、宿に手荷物を預けて、いよいよ赤目四十八滝の散策に出発しました。渓谷に沿って少し進むと赤目四十八滝の入口に到着、渓谷の入口は日本オオサンショウウオセンターになっており、水槽にオオサンショウウオが展示されています。


赤目四十八滝入口


入山TICKET

オオサンショウウオ


 日本サンショウウオセンターでは、赤目生まれのオオサンショウウオを含む国内産を中心に、9種約50余匹が展示されています。オオサンショウウオは「生きている化石」と呼ばれる稀少動物で、特別天然記念物に指定されています。


 地元の名張郵便局、滝川郵便局および赤目滝簡易郵便局の風景印の意匠には、赤目四十八滝とオオサンショウウオが描かれています。


名張郵便局

滝川郵便局

赤目滝簡易郵便局


 以下は「護摩の窟」付近にある赤目四十八滝に関する、赤目観光協会による説明書きです。。

 「赤目」の由来は、役の小角(おづぬ)が滝に向かって行を修めていると、不動明王が赤い目の牛に乗って出現したという伝説から来ています。
 赤目四十八滝の「四十八」は数が多いことを意味します。また阿弥陀仏が法蔵菩薩の時代、四十八願をたて五劫の思惟(しゆい)をこらし修行を成就したことからこの名がつけられたとも言われています。
 滝の名前には、仏名に因んだものがたくさんみられます。それは、赤目の自然景観を一大曼荼羅図に見立て、大日如来を中心として千手観音、不動明王、吉祥天、役の行者などが並び、妙法山の阿弥陀如来を配していることから名付けられたもので、四十八滝を全周することで所願が達成されることに通じると考えられているためです。
 また、ここから3キロメートル西に今も屋敷が現存する伊賀流忍者の祖「百地三太夫」が、この地を修行の場として多くの忍者を輩出したことも伝えられています。
 古来より赤目四十八滝は、霊地として修業し、あるいは参拝する滝だったのです。
 入山口にある滝寺「延壽院(えんじゅいん)」に安置されている霊験あらたかな赤目不動尊は、目黒不動尊、目白不動尊と共に、日本不動三体仏の一つに数えられています。

赤目四十八滝探勝案内図



 オオサンショウウオの展示館を抜けると、爽やかな水音が私たちを迎えてくれます。ここから赤目四十八滝の渓谷が広がっています。
 行者滝は修験者の祖と言われる役の行者が修行したという滝なのでしょう。


これより赤目四十八滝の景観

行者滝


 霊蛇滝は、滝そのものの美しさもさることながら碧く澄んだ滝壺も滝に劣らぬ美しさです。滝の名は白蛇が岩をよじ登る趣があり、滝の流れの中に顔を出す岩が竜の爪痕を思わせるので付けられたということです。


霊蛇滝


 霊蛇滝の横手の登り口に、当地の名の由来となった「赤目牛」が横たわっています。


赤目牛

 古くから伝えられている赤目の由来は、役の小角がこの地に来た折りに、滝に向って行を修めると、不動明王が牛に乗って出現。その牛の目が赤かったので、この地を「赤目」と名付けた。そして小堂を建て、不動明王を祀ったのが今の不動院と伝えられる。また、この不動院の本尊である不動明王の目が赤く輝いているところから「赤目」の名が付けられたとも言われる。
 藤堂藩二代目藩主・高次の治り難い眼病が、赤目不動尊の宝剣で完治し、以来、藤堂藩の祈願寺として保護され、延壽院は目の神様として親しまれ、この赤目牛を撫でることにより御利益があると伝えられています。


 霊蛇滝の真上を渡る橋上から前方に不動滝が見渡せます。赤目五滝の第一。
 不動明王にちなんでこの名が付けられたものでしょう。かつて滝参りとは、この滝にお参りすることをいい、明治の中頃まではここより奥は原生林で、入ることができませんでした。渓谷にかけられた不動橋からの眺めは壮観です。


不動滝


不動滝を登る

上流から不動滝を眺める


 不動滝の左手をよじ登ると、やや平坦な流れとなります。滝も渕も小さくやさしく、清純な乙女のような滝なるがゆえに、乙女滝と名付けられたものでしょうか。
 大日滝の標識があり、山中に眼をやると何となく滝らしい感があります。水量が少ないのでちょっと気が付きませんすが、雨が降ると滝となるのでしょう。修験者が信仰する大日如来から名付けられたものでしょうが、その名から想像するに、きっと壮大な景観なのでしょう。


乙女滝

大日滝


 八畳岩は、渓流の中のひときわ大きな岩のこというのでしょう。前方に千手滝の標識が見えてきました。ここには千手茶屋の休憩所があります。


八畳岩

まもなく千手茶屋


 時間が早いので茶屋は閉まっているかと思っていましたが、幸い開いておりました。飲み物をいただき、店のおばさんとひとしきり話に興じます。
 登り口にある弘法大師護摩の窟は、弘法大師が護摩を修したとことと伝えられ、現在は大師の像を安置しています。


千手茶屋

護摩の窟


 茶屋の奥から千手滝が眺められますk赤目五滝の第二。周囲の景観と調和して絵のような美しさです。岩を伝って千手のように落水するところから名付けられたとも、千手観音にちなんで名付けられたとも言われているようですが、恐らく後者の方が説得力がありそうです。


千手滝


 千手滝の右手を吉瀬登ると、赤目五滝の第三、布曳滝に到着します。30メートルの高さから一条の布をかけたように落ちる滝は、赤目五瀑のひとつにふさわしい美しさです。


布曳滝

 

上流から布曳滝を望む


 布曳滝を左手に見ながらさらに登ると竜ヶ壺です。水の力が一面の岩盤を石臼のように掘り抜いて、深い壺となっています。竜が潜んでいるという言い伝えから名付けられたものでしょう。
 斧ヶ淵は、渕の形が斧に似ているところから名付けられています。渕は鏡のように澄み、両側の崖から楓の枝が張りだして美しい景観を醸し出しています。


竜ヶ壺

斧ヶ淵


 縋藤(すがりふじ)滝は、水が枯れており滝の風情はありませんでした。昔このあたりは鬼でも通ることができないと言われるほど険しい場所で、藤の古木にすがって渡ったので、この名前が付いたそうです。
 陰陽滝の陽とは滝の流れを指し、岩石を浸して斜めに流れています。一方、滝壺は陰をあらわしています。滝壺の真ん中に岩の頭が突き出ているのも奇観です。


縋藤滝

陰陽滝


 釜ヶ淵に沿って進むと百畳岩に到着します。ここには茶店があるようですが、時間の関係か店は開いていませんでした。


釜ヶ淵

百畳岩近し


 茶店の前から、ゆるやかな傾斜をえがいて、一枚岩の大きな岩盤が広がっています。百畳敷ほどもあるので、百畳岩と呼ばれます。


百畳岩


 渓流の中に大きな転石が七色岩です。岩の上には、あかざ・うめもどき・松・桜・つつじ・楓・樅、七種類の植物が自生しています。これらの植物は一年を通じて四季折々の花をつけ、紅葉し、その姿を七色に変化させます。


百畳岩の広場

七色岩


 さてここで、いつものことながら大失敗をやらかしました。
 ここまでの1時間半ほどの行程に、昨日の室生寺奥之院への石段上りに挑戦した疲労が積り、かみさんは結構足にきている様子です。かつ私もそこそこ疲れが溜まっておりました。ここまで来れば当初の目的はほぼ達成したようなものなので、引き返すことに衆議一決、すたこら引き返したまではよかったのですが、千手茶屋のおばさんに「もうちょっと頑張って荷担滝まで行けばよかったのに…」と言われました。確かに案内書を見ると、荷担滝と琵琶滝が赤目五滝の第四・五になっており、これは少々早とちりであったと、大いに後悔した次第です。

 失敗は失敗でありましたが、新緑につつまれた清流をたどった今回の探索は、それなりに楽しく、成果はあったと申せましょう。
 赤目口に向かうバスが、うろ覚えですが、11時ころであったと思い、大急ぎで宿に帰り、預けた荷物を受け取ってバス乗り場へ。乗車するや否やバスは出発します。ギリギリ間に合いましたが乗客は我々以外におばさんがただ一人。途中での乗降客もなく、10分ほどで赤目口駅に到着。これでは三重交通も儲からんわな~。
 11時43分の近鉄電車に乗車、午後の目的地である長谷寺参拝に向かいました。




豊山  長谷寺   桜井市初瀬731-1

 三重県からひと山越えて奈良県に入り、長谷寺駅にはお昼頃の到着となりました。長谷寺駅はかなりの高所に位置していおり、眼下に街並みが広がっています。坂を下り街並みを抜けると初瀬川、川を越えて右方面にだらだらと登ってゆくと長谷寺に到着するようです。往路もしんどそうですが、帰路はかなりの登り坂になりそうです。やれやれ。
 途中、初瀬郵便局に立ち寄り、近くで昼食を済ませて、長谷寺門前に到着いたしました。(本稿は、本サイトの「謡曲の統計学・謡蹟めぐり〈和州・長谷寺『玉鬘』〉」の記述と一部重複しています。)

長谷寺境内案内図


 長谷寺は真言宗豊山派の総本山。山号を豊山、院号を神楽院と、本尊は十一面観音。開基は僧の道明とされています。西国三十三所観音霊場の第八番札所であり、日本でも有数の観音霊場として知られています。
 『枕草子』『源氏物語』『更級日記』など多くの古典文学にも登場しており、中でも『源氏物語』にある玉鬘の巻のエピソード中に登場する「二本(ふたもと)の杉」は現在も境内に残っています。
 以下、寺伝による本山の縁起です。


 「隠国(こもりく)の泊瀬(はつせ)」と万葉集にうたわれていますように、この地を昔は豊初瀬(とよはつせ)、泊瀬など美しい名でよばれていたので、初瀬寺、泊瀬寺、豊山寺とも言われていました。
 朱鳥元年(686)道明上人は、天武天皇の銅板法華説相図(千仏多宝仏塔)を西の岡に安置、のち神亀4年(727)徳道上人は、聖武天皇の勅を奉じて、衆生のために東の岡に近江高島から流れ出でた霊木を使い、十一面観世音菩薩をお造りになられました。
 徳道上人は観音信仰にあつく、西国三十三所観音霊場巡拝の開祖となられた大徳(だいとく)であり、それ故に当山は三十三所の根本霊場と呼ばれてきました。
 現在の長谷寺は、真言宗豊山派の総本山として、 また西国三十三観音霊場第八番札所として、 全国に末寺三千余ヶ寺、 檀信徒はおよそ三百万人といわれ、 四季を通じ「花の御寺」として多くの人々の信仰をあつめています。


拝観券


参拝客でにぎわう長谷寺門前

 平日であるにもかかわらず、仁王門に続く参道はかなりの参拝客で賑わっておりました。


 参道の右手、不動堂の近くに阿波野青畝の句碑があります。平成12年6月11日に建立されたもの。

  今日の月長いすすきを生けにけり  青畝


阿波野青畝句碑

万葉歌碑


 また仁王門前の券売所近くに、万葉仮名で書かれた歌碑があります。

 隠國乃泊瀬之山丹照月者盈昃為焉人之常無
 (隱口(こもりく)の泊瀬山に照る月は盈昃(みちかけ)しけり人の常無き)

 『万葉集』巻七1270、書は林武。

 500円也の拝観券を購入して、入山いたしました。以下、各堂宇の説明は当寺のパンフレット等によります。


仁王門


 仁王門は、長谷寺の総門で、三間一戸入母屋造本瓦葺の楼門である。両脇には仁王像、楼上に釈迦三尊十六羅漢像を安置する。現在の建物は明治27年(1894)の再建。
 扁額の「長谷寺」額字は、後陽成天皇の御宸筆。


登廊

道明上人御廟塔


 仁王門をくぐると前方には延々と連なる登廊(のぼりろう)が続いています。両側の柱に「諸佛徑行所」「諸天神祇在」の文字が。神と仏のいます御山、神仏習合の名残でしょうか。以下、パンフレットより。

 平安時代の長歴3年(1039)に春日大社の社司中臣信清が子の病気平癒の御礼に造ったもので、108間、399段、上中下の三廊に分かれてる。下、中廊は明治27年(1894)再建で、風雅な長谷型の灯籠を吊るしている。

 登廊を三分の一ほど登ったところ、月輪院の手前に右に折れる小道があります。ここに「二本(ふたもと)の杉」「藤原定家塚、藤原俊成碑」の案内標が示されており、この道を下って行くとお目当ての『玉鬘』ゆかりの「二もとの杉」と、さらにその奥には藤原俊成、定家父子を供養する「藤原俊成碑・定家塚」があります。
 謡曲『玉鬘』については、別項の「謡曲の統計学・謡蹟めぐり〈和州・長谷寺『玉鬘』〉」をご覧ください。


二本の杉

藤原俊成碑・定家塚


 登廊は繋屋の手水舎のところで90度右折し蔵王堂に着きます。
 蔵王堂の脇に、一茶の紀貫之の歌碑と句碑があります。
 貫之歌碑。

  紀貫之 古里の梅
 人はいさ心も知らず故里は花ぞ昔の香ににほひける

 続いて一茶の句碑。

  此裡(このうち)に春をむかへて
  我もけさ清僧の部也梅の花  一茶
寛政10年(1798)元旦、登嶺の際詠まれし俳句。
荘厳な雰囲気の山中で迎えた今朝、身も心も清浄。自分もまた清僧の仲間入りした感あり。一山に響く読経の声を耳に、新しい人生の首途の決意もみなぎる。
この心境を言えば、寒気の中に凛として香り咲く、まさに梅の花のごとし



貫之歌碑

一茶句碑


 蔵王堂より左に90度、最後の上登廊を登ると本堂のエリアにたどり着きましたが、今朝方から歩き続けており、かみさんも結構足に来ている模様です。
 本堂は、本尊を安置する正堂(しょうどう)、相の間、礼堂(らいどう)から成る巨大な建築で、前面は京都の清水寺本堂と同じく懸造(かけづくり、舞台造とも)になっています。上登廊からは懸造の脚の部分が眺められます。瓦屋根の上に脚が乗っかっており、奇異な感を否めませんでした。


本堂礼堂の懸造

本堂相の間

 本堂に関して、以下 Wikipedia を参照しています。

 本堂は奈良時代の創建後、室町時代の天文5年(1536)までに計7回焼失している。7回目の焼失後、本尊十一面観音像は天正7年(1538)に再興(現存・8代目)。本堂は豊臣秀長の援助で再建に着手し、天正16年(1588)に新しい堂が竣工した。ただし、現存する本堂はこの天正再興時のものではなく、その後さらに徳川家光の寄進を得て、慶安3年(1650)に落慶したものである。


本堂礼堂(舞台)を望む(パンフレットより)

ご朱印


 本堂は傾斜地に南を正面として建つ。平面構成・屋根構成とも複雑だが、おおまかには本尊を安置する正堂(奥)、参詣者のための空間である礼堂(手前)、これら両者をつなぐ相の間の3部分からなる。礼堂の前半部分は床下に柱を組み、崖面に迫り出した懸造とし、前方に舞台を張り出す。


開山堂より本堂を望む

 相の間を通り本堂の反対側(西側)に抜けますと大黒天を祀る大黒堂があります。ここから参拝経路がふた手に岐れ、大黒堂の右手を進むと弘法大師御影堂から奥之院へのルート。真っすぐ進むと開山堂に至ります。
 開山堂は徳道上人と西国三十三霊場の本尊を祀っています。私たちは結構疲れておりましたので、奥之院ルートはあきらめ、短絡ルートで仁王門に向かいました。


大黒堂

開山堂


 今回は参拝しませんでしたが、奥之院ルートには御影堂と五重塔があります。
 御影堂は弘法大師1150年遠忌を記念して昭和59年に建立されたものです。五重塔は、昭和29年に戦後日本に初めて建てられた五重塔で「昭和の名塔」と呼ばれているそうです。これらの写真はパンフレットから転載しております。



御影堂

五重塔


 長谷寺の参拝を終え帰路につきましたが、初瀬川を過ぎると近鉄長谷寺駅までは結構厳しい登り坂となっております。疲れた足で登る階段のつらかったこと。花の時節にはまたお参りしたいとは思うものの、この坂道を考えると、ちょっと二の足を踏みそうです。
 今回の、赤目四十八滝散策を中心に、室生寺と長谷寺両古刹の参拝という、ちょっと欲張った二日間は、疲れ切って幕を閉じた次第であります。




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 気まぐれ紀行の先頭

  (2018.7.4 記録)



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