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気まぐれ紀行の先頭
おのぼりさん紀行


おのぼりさん紀行 (都電荒川線の2日間) 第1日

第1日
 伊丹空港⇒羽田空港
 芝・増上寺、東京タワー
 都電荒川線(三ノ輪橋、飛鳥山公園)

第2日
 矢切の渡し、柴又帝釈天
 都電荒川線(とげ抜き地蔵、鬼子母神、早稲田)



 東京(正確には千葉県の西船橋)に嫁いでいる娘には、今年4歳の男児と1歳半の女児のふたりの子供がいます。その子供たちが通っている保育園の「お楽しみ会(小学校でいえば学芸会のようなもの)」があるので、ぜひ東京に来て孫の姿を見てほしい、との依頼(一種の脅迫)がありました。12月9日に開催されるということです。まあ、魂胆は見え見えなのですが、家内は行く気満々、断るわけにもいかず、お供をする次第と相成りました。
 8日に行って東京見物をして、9日に保育園のお楽しみ会を見学。10日の日曜日には、高知に居た友人が西船橋の近くに引っ越して行ったばかりなので、そちらを表敬訪問。家内はその後1週間ほど滞在する予定らしいので、11日には私だけ千葉市内の郵便局廻りをして、帰阪しよう、ということと致しました。
 以前、東京では単身赴任で3年ほど過ごしたことがありますが、10年以上も昔のこと、久しぶりの東京見物になります。交通手段を何にしようかと考えましたが、幸いJALの半額サービスの特典が利用できるので、往路は飛行機とし、関西空港からの適切な便がなかったため、伊丹空港10時30分のフライトといたしました。
 さて、東京でどこへ行くのがよいか迷ったのですが、唯一残っている「都電荒川線」に乗り、その沿線を散策しよういうことにしました。そうすれば、適宜郵便局も廻れますから、一石二鳥とでもいうべき good idea であると、自画自賛した次第です。


 ☆ 第1日目《2008.12.8(金)》☆

  伊丹空港 → 羽田空港(モノレール)→浜松町→《芝増上寺》→《東京タワー》→
  (地下鉄日比谷線)神谷町→三ノ輪→
  (都電荒川線)三ノ輪橋→飛鳥山《飛鳥山公園》→東池袋4《サンシャイン60》→
  (地下鉄有楽町線)東池袋→飯田橋(地下鉄東西線)→西船橋→船橋法典

 伊丹空港10時30分発のJAL1508便に搭乗します。ジャンボ旅客機(と言うのでしょうか)にも拘わらず満席状態です。私は相変わらずの飛行機嫌い(恐い)ですが、今回のフライトは機体がデカイからなのでしょうか、あまり揺れもなく着地もスムーズで、安心な空の旅でありました。
 羽田に降りて当然のことながら、空港内の郵便局で貯金と風景印の押印をします。ちょうど昼食時となりましたのでカレー屋さんで東京のカレーライスを食します。それからおもむろにモノレールで浜松町へと向いました。途中であたり構わずシャッターを切っていますと、家内曰く、まるでおのぼりさんやね。おのぼりさん大いに結構ではないか。今回の東京の旅は、おのぼりさん気分を満喫することといたしましょう。
 「都電荒川線に乗る前に東京タワーに登るか」と家内に聞くと大賛成、東京の第一歩は、おのぼりさんらしく東京タワー見物に決定しました。


伊丹空港 JAL1508便

羽田空港をデザインした
羽田空港郵便局風景印

モノレールで浜松町へ

 モノレールは浜松町に到着、おのぼりさんらしく、駅員に「東京タワーはどちらですか」と尋ねます。「その出口を出れば左手に見えますよ」と親切に応対され恐縮してしまいました。貿易センタービルの北側の通りを西に行けばよい、くらいのことは先刻承知、おのぼりさん気分を出すには、東京タワーの所在を聞くのが一番でしょう。
 東京タワーの手前に「増上寺」があるのを思い出し、ついでやから、先ず増上寺にお参りしてから東京タワーへ行こか、ということにいたしました。
 貿易センタービル内に郵便局がありますが、ここは十数年前に訪問していますので通過。通りを渡り、港浜松町局、芝大門局、芝公園局と立て続けに立ち寄り貯金をします。芝大門局でちょっと不吉な予感があったのですが、後で調べると、貿易センタービル内局と同じ日に訪問しておりました。


《芝・増上寺》

 当寺の縁起書によると、
 芝増上寺の正規の名称は『三縁山広度院増上寺』で、浄土宗の大本山(本尊:阿弥陀如来)である。
 増上寺は関東での正統念仏道場として、明徳4年(1393)酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人により当初、江戸貝塚(千代田区紀尾井町)に創建された。
 徳川家康公の入府を受け江戸城拡張とともに、慶長3年(1598)現在の港区芝に移転された。江戸時代に入り徳川家の菩提寺、浄土宗の学制の総録所として常時3000名の僧侶が修学に励む寺院となった。当時の木造伽藍は、勇壮を誇る荘厳であった。
 明治時代に行われた廃仏毀釈、大火による本堂の焼失、大正期にその復興も試みられたが、まもなく一部を残し昭和の戦災によって焼失された。
 しかし戦後の復興に伴い、昭和46年より本格的な復旧が始まり、同49年に大殿、平成元年に開山堂、同13年、新たに光摂殿が建立され、現在も宗教、文化花道の拠点として親しまれている。

 浜松町から進むと、先ず「大門」続いて「三門(三解脱門)」を通り、境内に入ることになります。

 「大門」は「芝大門」の地名の由来になっている門で、増上寺の表門にあたります。旧大門は慶長3年(1598)の移転の際、それまで江戸城の大手門だった高麗門を寺の表門として譲られたものという。現在のものは国道の通行整備のため、昭和12年(1937)にコンクリート製に作り直されたものである。

 「三門(三解脱門)」は、ちょっと圧倒されそうな威風があります。この門は元和8年(1622)に建立され、江戸初期の面影を残す唯一の建造物で、国の重要文化財に指定されています。「三解脱門」とは三つの煩悩(むさぼり・いかり・おろかさ)を解脱する門ということだそうであります。

 境内の正面には、東京タワーを背景に「大殿(だいでん)」がどっしりと鎮座しています。本尊の阿弥陀如来は室町時代の作といわれ、東京都の重要文化財に指定されており、両の脇壇には高祖善導大師と元祖法然上人の像が祀られています。


東京タワーを背景にした「大殿」

ご朱印


地名のいわれとなった「大門」

「三解脱門(三門)」

 境内は広大ですべてを拝見する時間的な余裕がありません。こんなことならたっぷりと時間をとっておけばよかったと反省しきり。これもまた後悔先に立たず、いつものことですが…。
 その中で印象に残ったものだけ何点かピックアップしてみましょう。

 「大梵鐘」 延宝元年(1673)品川御殿山で椎名伊予守によって鋳造されたもので、高さ1丈(約3メートル)、重さ4千貫(約15トン)の大梵鐘。時の4代将軍家綱の命により、奥方のかんざしなど多くの寄付を集めて、江戸で始めて造られた鐘である。『今鳴るは 芝か上野か 浅草か』『江戸七分 ほどは聞こえる 芝の鐘』 この大梵鐘は、木更津まで響いたといわれ、江戸庶民に親しまれ、多くの川柳を生んでいる。

 「徳川将軍家墓所」 安国殿の裏にある。徳川家康により徳川家の菩提寺となり手厚く保護された。江戸城拡張とともに大造営が開始され、以後増上寺は日本有数の寺院として知られるようになる。現在6人の将軍と皇女和宮をはじめ、各公の正室、側室、子女の墓があり、かつての栄華を偲ばせている。

 「西向観音」 大殿の右にあり、子供の無事成長、健康などの子育てや安産に霊験あらたかとされている。


鐘楼

徳川将軍家墓所

西向観音

 「千躰子育地蔵」 子育て安産に霊験あらたかとされる西向観音にちなみ、子供の無事成長、健康を願い昭和50年より順次奉安されているという。毎年4月に大祭、7月には盆踊り大会が開催されるそうである。
 千躰地蔵が西向観音を中央にして、赤い帽子をかぶり、風車を持ち、ずらりと並んださまは、壮観というより、なにかしら肌寒いものを感じます。時代劇のラストシーンのバックに映っていたような記憶がかすかにありますが、どうでしょうか。
 この地蔵尊は水子供養でもあるのではないかと想像しています。絵馬がかけられていたのですが、それには「産んであげられなくてごめんね」という文言がありましたから。そんな後だけに余計に不気味に思えたのかも知れません。




赤い帽子に風車、ずらりと並んだ千躰地蔵、かわいいようだが何やら不気味

 増上寺はいつまでいてもキリがないという感じなので、ここいらで別れを告げました。少し歩いて1時30分にお目当ての「東京タワー」に到着です。


《東京タワー》


東京タワー
 東京タワーは以前(20年ほど前)に一度だけ登った記憶がありますが、完全に忘れてしまっています。私は高いところはともかく苦手。にもかかわらず今回の見学では、何をとち狂ったのか、特別展望台までの入場券を買ってしまいました。
 先ず150メートルの大展望台に登ります。エレベータに乗り込んだまではよかったが、途中からは、周りの鉄塔だけで他に何も見えない状態になるに及んで、正直なところ足がすくんでしまい、立っているのがやっとという、全くだらしのない格好になってしまいました。
 やっとの思いで大展望台に到着、広々とした床に、いくらか気持ちも落ち着いてきました。四方の景色を眺めますが、あいにくの曇り空、景色もかすんでいまひとつ。天気が良ければ富士山まで見えるのでしょうに、いささか残念です。先ほど参拝した増上寺の境内が、箱庭のように眼下に拡がっておりました。
 ルックダウン・ウインドゥと称して、床がガラス張りになっている部分があり、そこから145メートル真下の様子が見えるようです(悪趣味な!)。家内にカメラを渡し撮影してもらいました。
 さて、これから問題の特別展望台です。もう降りようや、と言っても、家内は聞き入れる様子もなく、これも仕方なくエレベータに乗り込みました。一切外部を見ないようにして、100メートルほどの上昇に耐えます。特別展望台といっても、景色が極端に変わるわけでもなし、こんなものなんでつくったんや、と毒づきながら、真下の方はあまり見ないようにしながら写真撮影。下界は曇っていて折角の見晴らしもいま一つです。しばらく我慢して、早々に大展望台まで降りてきました。
 いまからだったら3時までには荒川線に乗れるで、と先を急がせて、ほうほうの体で東京タワーを後にした次第。もうこんなところは二度とご免被りたいものす。


ルックダウン・ウインドゥ


増上寺俯瞰
特別展望台からの眺望

南 レインボゥブリッジ


南西 三田国際ビル


西北 六本木ヒルズ


北西 新宿副都心方面

北東 皇居・上野方面

東南 浜離宮方面

 東京タワーを出たところに「機械振興会館」があり、その地下に機械振興会館内郵便局があり、当然のことながら貯金を済ませます。桜田通りの地下鉄日比谷線「神谷駅」まで歩き、そこから「三ノ輪」に向います。


《都電荒川線》


都電荒川線路線図
一日乗車券

 私の知っている頃の地下鉄は「営団地下鉄」「都営地下鉄」と呼んでいたと思うが、知らぬ間に「東京メトロ」と呼ぶようで、これはまったく本物のおのぼりさんになってしまったようです。
 日比谷線の三ノ輪駅で降車し、都電の荒川線を目指します。このへんは昔の吉原の近くになりますから、お女郎さんが葬られているという浄閑寺や回向院にも参詣したかったのですが、時間はすでに午後3時になっています。残念ながらあきらめざるを得ませんでした。
 都電荒川線の駅は、小さいながら何ともいえない風情があります。その上数分間隔で走っていますから、便利なことこの上ないといったところ。これであれば途中で降りて郵便局へも寄れるというものです。1回の乗車が160円なので、400円の一日乗車券を買うことにしました。
 電車が到着し、乗り降りが始まります。1輌編成のワンマンカー。ガラガラの車内を想像していましたが、乗客はかなりいます。車内で一日乗車券を購入し、電車は発車。路面電車ですが専用の軌道があり、他の乗り物と路面を共有するのは交差点の部分だけのようでした。
 路面電車の風情を味わう隙もなく、二つ目の停留所である荒川区役所前で降り、ここで「荒川郵便局」と「荒川南千住郵便局」に寄ります。両局とも風景印を使用しており押印を済ませました。どちらも都電荒川線の電車をデザインしたものです。荒川局の風景印は、局員が「印影の状態が悪くて申し訳ありませんが…」と断っただけのことはあって、いい状態とは言えぬ代物ではありました。
 荒川南千住局では、前におばあちゃんが二人もおり、これがまた時間のかかること、15分以上待たされてしまい、都電の乗り場に帰ってきたときには、3時45分頃になってしまいました。これで今日の郵便局めぐりは最後となります。
 荒川区役所前から再び乗車、早くも時刻は4時に近づいており、世の中も何となく薄暗くなりつつあります。どうしようかと迷ったあげく、飛鳥山公園でも見るか、ということにいたしました。



荒川局、南千住局の風景印
いずれも都電を描く


都電三ノ輪橋駅の入口

三ノ輪橋駅

電車


《飛鳥山公園》

 都電荒川線は王子駅のところで、飛鳥山公園に沿って西向きから南向きに大きく方向転換をします。飛鳥山の停留所で電車を降り公園に向います。まだ4時過ぎだというのにもう薄暗い。大阪に比べると東京の日の入りは2、30分ほど早いのではないだかろうか。
 私もこの公園は今回が始めての訪問です。司馬遼太郎の『坂の上の雲』で、入学試験の漢文の問題で「遊飛鳥山」という題の作文が出題されたのを、地方から来た受験生は「アスカヤマ」の地名が解らず「飛鳥、山ニ遊ブ」とした作文を書いた、という件を思い出し、思わず笑ってしまった。


 

夕暮れの飛鳥山公園

 

 もうちょっと早い時間に来ればよかったなーと話しながら、夕闇の迫る飛鳥山公園の散策です。春、桜の景観は素晴らしいものがあるでしょう。もっとも人山でゆっくりと見物することは難しいかも知れませんね。
 ぶらぶらと歩いてゆくと「飛鳥山の碑」がありました。碑文に曰く…、
 八代将軍吉宗は、鷹狩りの際にしばしば飛鳥山を訪れ、享保5年(1720)から翌年にかけて、1270本の山桜の苗木を植栽した。元文2年(1737)にはこの地を王子権現社に寄進し、別当金輪寺にその管理を任せた。このころから江戸庶民にも開放されるようになり、花見の季節には行楽客で賑わうようになった。
 この碑文は、吉宗が公共園地として整備したことを記念して、幕府の儒臣成島道筑(なるしまどうちく)によつて作成されたもので、篆額は尾張の医者山田宗純の書である。(中略)
 異体字や古字を用い石材の傷を避けて文字を斜めにするなど難解な碑文であり、『飛鳥山何と読んだか拝むなり』と川柳にも詠まれたほど、江戸時代から難解な碑文としてよく知られている。

 碑の前を通り過ぎると、子供用の遊園地に出ます。昔の都電の車輌や蒸気機関車が置かれ、子供には人気の場所ではないでしょうか。
 ぐるりと廻ると「船津翁の碑」があります。これは近世日本の農事を刷新した船津傳次平翁を讃えたもので、碑文によれば、翁は駒場農学校農場監督となり、後に農商務省に入り、かねて唱えていた農事試験場が西ヶ原に設けられたのでここに転じ、在職20年各地に播いた農道農魂農学そしてあくまで土に立つ崇高なものは農業であることを説いた。翁は近世三老農の随一といわれているとのことです。


飛鳥山の碑

公園と都電の車輌

船津翁の碑

 飛鳥山公園には、紙の博物館、北区飛鳥山博物館、渋沢史料館の三つの博物館があります。紙の博物館へ行ってみようと歩いていますと、ぽつんと1本の木があり花をつけていますが、どうも桜らしい。こんな時期に桜とは、狂い咲きかなぁなどと言いながら行過ぎましたが、桜の名所だけにいろんな種類があるのかも知れません。
 「紙の博物館」は入場料300円のところ、都電の1日乗車券を提示すると、2割安くなりました。午後5時に閉館ですのであと30分、急いで見学しなければなりません。
 王子は王子製紙発祥の地、もとは王子製紙により運営されていたのだと思いますが、現在は多くの紙関連の企業の支援により運営されているようです。紙の製造工程を見ていますと、何やら織物の染色行程を思い出してしまいました。


迷い桜か?

紙の博物館

夕闇の飛鳥山公園

 5時少し前に博物館を出ましたが、周りにはもうドップリと夜の闇が押し寄せています。まだ5時やでーと言いながら、再び都電に乗り込みます。もう遅いので名所見物はひとまず終了、サンシャイン60ででも食事をして、娘のところへ行くか、ということになりました。

 東池袋四丁目で都電とお別れをし(十分に活用しました)、シルエットが浮かぶサンシャイン60を目指します。ただ、サンシャインの手前にある、東京福祉大学の建物とネオンが画面の中に入り込んでくるのが、何とも目障りであります。
 ちょっと贅沢をと、アルパ3Fのビッグ・シェフでサイコロステーキを平らげ、満腹感を味わいながら、夜の池袋を地下鉄の東池袋駅までブラクリ、有楽町線で飯田橋へ出て東西線に乗り換えることにいたします。
 ただここからがおのぼりさんの哀しさ、飯田橋での乗換えのための歩行距離が、あんなに長かったとは。それなら、JRの池袋駅から高田馬場乗換えの方が楽だったのでは、などと後から思った次第であります。まあ、これもおのぼりさんらしくて、いいではないかと自らを慰めておりました。
 西船橋から武蔵野線でひと駅の船橋法典駅から、てくてくと孫の顔を見るべく歩いた次第でありました。
 今日の歩行距離はおそらく数キロにはなっていると思われ、四国のお遍路で鍛えている私はともかく、家内はいくぶん疲れた様子でありました。



夜空に浮かぶサンシャイン60

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