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出雲大社 〈大社〉


 八雲立つ出雲…。なにかしら呪文のような神秘的な響きがあります。
 旧暦10月は、全国の八百万(やおよろず)の神々が出雲の国に集まる月。他の土地では神様が留守になるので神無月といいますが、出雲の地では神在月と呼びます。神々が集う出雲の各神社では「神迎祭」に始まり、「神在祭」そして、全国に神々をお見送りする「神等去出祭(からさでさい)」が行われるようです。
 その神在月に合わせたわけではありませんが、10月17日に出雲を訪れました。ちょっと出雲に集う神々の気分になってみようということですが、「神在祭」には若干早すぎたようです。
 前日は鳥取砂丘にある砂の美術館で砂の芸術を観賞、夕方に鳥取から出雲市に移動して大社の近くの旅館で一泊しました。17日は朝から大社に参拝、午後の出雲市発の特急やくもで岡山へ、そこから新幹線で帰阪する予定にしています。
 17日の朝、宿の朝食が8時からということなので、食事までの時間を利用して、近くにある「出雲の阿国」の墓を訪れました。大社の駐車場から更に西に進むと、左手の小高い丘が墓地になっており、そこに阿国の墓が祀られおりました。


阿国の墓への登り口

出雲阿国公園記念碑

 出雲阿国は、安土桃山時代に歌舞伎踊りの一座を率いて、京都の四条河原や北野天満宮の社頭で興行を繰り広げた歌舞伎の始祖といわれていますが、その生涯は謎に包まれています。「やや子跳」から始まり、念仏踊りに歌を交えたかぶき躍りを考案して、やがて「天下一」との評判をとるようになったようです。以下は後ほど訪れた街中に立つ「阿国像」の説明書きです。

 歌舞伎の始祖出雲阿国は、出雲大社の鍛冶職中村三右衛門の娘と言われ、出雲大社の巫女として大人たちと共に、出雲大社修理費勧進の旅に出かけ、天賦の才能を発揮して、喝采を浴びました。
 子どもの頃の阿国は、すでに「ややこ躍り」の名手として、京都の宮廷や公家の間で名声を博していたことが記録に遺されています。長ずるに及んで、当寺京都の若者の間で流行していたかぶき者の風俗を躍りや寸劇で表現するようになりました。
 その芸風も流行の小歌に合せて男装で躍ったり、さらに観客を楽しませる進行役(猿若)を置くなど、きわめて斬新なものでした。かぶき踊りは、京都の人々の間で大評判となり、阿国は「天下一」と称されるようになりました。
 やがて徳川幕府は「女かぶき」は世の風紀を乱すものとして禁止令を出したので、その後は男性ののみで演ずることとなりました。これが、わが国を代表する演劇である「歌舞伎」として、今日に至っています。
 阿国は、晩年ふるさと大社に帰り、尼となり智月尼と称し、連歌庵で連歌と読経三昧の生活を送り、静かに余生を送ったと伝えられています。


出雲阿国の墓 


 この道を西にたどれば稻佐の浜に続いており、その途中に阿国ゆかりの安養寺や連歌庵、そして奉納山には出雲阿国終焉地之碑や男装の阿国を描いたレリーフの於國塔が建てられているようですが、時間の関係で宿に戻りました。



出雲大社境内案内図 (出雲観光協会「まちあるきマップ」より)
①千家尊福公銅像 ②下り参道 ③祓社 ④浄の池 ⑤祓橋 ⑥松の参道
⑦ムスビの神像 ⑧御慈愛の神像 ⑨皇后陛下歌碑 ⑩手水舎 ⑪銅の鳥居
⑫拝殿 ⑬御本殿 ⑭楼門 ⑮八足門 ⑯十九社 ⑰素鵞社 ⑱神楽殿 ⑲四脚門


《出雲大社》  島根県出雲市大社町杵築東195

 9時前に宿を出発、大社参拝に出かけました。正面の鳥居の前には参拝客の姿がパラパラと見受けられます。鳥居をくぐり第一歩を踏み出しました。


まだ人影もまばらな大社正面の二の鳥居

 この鳥居は二の鳥居で、勢溜の大鳥居と呼ぶそうです。勢溜の正面鳥居の回りは昔、大きな芝居小屋などが建ち非常に賑わっていたようで、人の勢いが溜まるところから勢溜という名が付いたとされています。
 ここから松の参道まで下りの参道が続いています。この下りになっている参道は全国でも珍しいようです。ふと右手の丘を眺めると銅像がありました。千家尊福(せんげたかとみ)卿の像とのこと、尊福公は明治5年(1872)28歳で出雲大社第80代宮司に就任、明治天皇の信任も厚く、元老院議員、貴族院議員を経て、埼玉・静岡・東京の各知事および司法大臣を務めています。「年の初めの…」で始まる「一月一日」の歌の作詞者でもあるのです。


千家尊福卿の像

下り参道

 下り参道の中ほどの右手に「祓社(はらえのやしろ)」の小祠があり、皆さんここでお参りをしてから参道に戻っています。祀られているのは、瀬織津比賣神、速秋津比賣神、気吹戸主神、速佐須良比賣神で、この4柱の神を総して「祓戸の神」と称します。我々が知らぬうちに犯した心身の罪汚を祓い清めて、清々しい神の御心を戴けるようにしてくださる神々であるとのことです。
 祓社を更に下ると右手にあるのが「浄(きよめ)の池」。池の畔にはあずまやもあり、水面を眺めていると落ち着いた気分になってきます。ここ出雲大社は知る人ぞ知るバードウォッチングのスポットになっているようです。


祓社

浄の池

 松の参道の手前には小川が流れており、ここに架かる橋が「祓橋(はらえのはし)」です。この小川は、出雲大社後背の八雲山から流れてくる「素鵞川」です。八雲山は古来から禁足の地とされているようです。
 松の参道の入口に立つのが三の鳥居、別名松の参道の鳥居です。この参道は3つの路に分かれています。参道の中央は神の道であり、以前は皇族や殿様だけが通行を許されていましたが、今は松を保護するために通行が禁止され、両脇を歩くように注意書きの看板が立っています。


祓橋

三の鳥居と松の参道

 松の参道が終るところには記念撮影用のベンチが備え付けられています。その左手には社務所があり、その前にイナバの白ウサギとダイコク樣の像がありました。これは「御慈愛の御神像」と呼ばれているようです。
 その横には皇后陛下の歌碑があります。説明によれば、この歌は平成15年10月3日に皇后陛下が参拝された折「出雲大社に詣でて」と題されて、大国主大神が皇室の先祖に国土を奉還された「国譲り神話」を讃えて詠まれたものです。


   國譲り祀られましゝ大神の奇しき御業を偲びて止まず


だいこく様と白兎

皇后陛下歌碑

 参道の反対側には「ムスビの御神像」があります。以下はその説明書きです。


    幸魂さきみたま 奇魂くしみたま
   時に海を照して依り来る神あり
   吾在るに由りての故に汝その國
   造りの大業を建つるを得たり
   吾は汝が幸魂奇魂なり
   けりと知りぬ
 古事記また日本書紀に述べるところであります。出雲大社の御祭神大國主大神はこの幸魂奇魂の“おかげ”をいただいて神性を養われ「ムスビの大神」となられました。生きとし生けるものすべてが幸福になる「縁」を結ぶ“えんむすびの神”と慕われるゆえんであります。
 およそ人が人であるということは幸魂奇魂というムスビの“みたま”をわが身にいただいて霊止すなわち人として生かされているからであります。大神からいただいたこの“いのち”を感謝して大切に正しくこれを生かしきりましょう。
 出雲大社ではこの御神教にちなんで
   さきみたま くしみたま
   まもりたまひ さきはへたまへ
と唱して御神縁を祈念いたします。
 この「ムスビの御神像」は大國主大神が有難く「幸魂奇魂」を拝戴される由縁を象徴しております。


ムスビの御神像

四の鳥居(銅の鳥居)


 手水舎で手を清め四の鳥居をくぐり拝殿、本殿のエリアへと足を運びます。この四の鳥居は天正8年(1580)に毛利輝元によって寄進されたもので、銅の鳥居とも呼れています。寛文6年(1666)に損傷部分が多かったため、輝元の孫の毛利綱広が現在の鳥居に造り直したものです。銅製の鳥居としては、わが国で最も古いものとのことです。


神馬・神牛

ずらりと掛けられた絵馬


 四の鳥居の正面には拝殿が、左手には神馬と神牛の小舎があり、銅製の神馬と神牛が祀られています。その先には、びっしりと絵馬が掛けられていました。
 重厚な注連縄の掛かる拝殿にお参りします。旧拝殿は永正16年(1519)尼子経久の寄進によるものですが、昭和28年(1953)の火災で全焼、現在の拝殿は昭和34年に再建されたものです。大注連縄は、太さ3メートル、長さ8メートルで、重量は1.5トンとのこと、何ともでかい注連縄であることよと感心したのですが、後ほど神楽殿の注連縄に接して、またまた驚いたことでありました。なお参拝は通常、二礼二拍手一礼なのですが、当社の場合は、二礼四拍手一礼となっています。



出雲大社拝殿

御朱印


 それではここで、謡曲『大社』について考察してみましょう。出雲大社の正規の呼称が「いずもおおやしろ」であるように、謡曲でも「おおやしろ」と読みます。


 謡曲「大社」梗概

 作者は観世弥次郎長俊。脇能・楽物であるが、やや複雑で賑やかな構成となっているのが特徴である。観世、金剛、喜多三流の現行曲。典拠は不詳である。
 10月を神有月と称して諸神が集い、さまざまの神事が行われる出雲に、当今の臣下が参詣し、宮人に当社の縁起を尋ねる。その中の老人が、当社は三十八社勧請の地であり、毎年十月一日の寅の刻には、諸神がことごとくこの地に影向して神遊をされると語り、これは神の告げであると云い捨てて社壇の内に入った。
 アイの末社の神が現れ、神有月のめでたい謂れを語り〈三段の舞〉を舞う。続いて後ツレの十羅刹女が〈天女の舞〉を奏で、やがて諸神残らず現れ舞楽を奏するところへ、後シテの大己貴命も社壇から姿を現し〈楽〉を舞う。夜も次第に更けて行くと海上から龍神が出現し、黄金の箱に入った小竜を取り出し神前に捧げ〈働〉を舞い、一同、治まれる世を讃えるのであった。
 本曲は、過去60年(昭和25年~平成12年)間で演じられたのは僅かに16回を数えるのみで、ほとんど人気のない曲である。


 出雲では10月に八百万の神々が参集し神有月と呼ばれますが、謡曲ではその諸神影向の有様を拝もうと都から臣下が参向します。私もその臣下に倣って大社の本殿へとやって参りました。以下は謡曲『大社』の開始である、ワキの登場です。


次第 ワキ・ワキツレ「誓ひ數多あまたの神祭。誓ひ數多の神祭。出雲の國を尋ねん
名ノリ ワキ「これは當今たうぎんに仕へ奉る臣下なり。さても出雲の國に於いて。今月は神有月かみありづきとて諸神しよじん影向えふがうなり。神事さまざまの由承り及び候程に。この度参詣仕り候
道行 ワキ・ワキツレ「朝立つや。旅の衣の遥々と。旅の衣の遥々と。行方ゆくへしぐるゝ雲霧の。山また山を越え過ぎて。神有月かみありづきも名にし負ふ。出雲の國に.着きにけり出雲の國に着きにけり


 謡曲では、宮人が現れワキに大社の来歴を語りますが、宮人に代って『神社紀行』(学習研究社)などにより、出雲大社の来歴を眺めてみましょう。

 当社は、大社の総称社として知られる旧官幣大社で、『日本書紀』に天日隅宮(あめのひすみのみや)、『出雲国風土記』には天日栖宮(あめのひすみのみや)、所造天下大神之宮(あめのしたつくらししおおかみのみや)として登場している。『延喜式』神名帳には杵築大社(きづきのおおやしろ)とみえ、長くこの名で呼ばれてきたが、明治4年(1871)に出雲大社(いづもおおやしろ)と改称された。祭神は大国主大神である。
 創始は『古事記』『日本書紀』などによると、大国主大神は素戔鳴尊(すさのおのみこと)の子(6世の孫とも)で、葦原中国(あしはらのなかつくに)の国造りにあたり、やがて天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の降臨のとき、国土を譲って出雲国多芸志(たぎし)の浜に身を隠した。大国主大神の国譲りを喜んだ天照大神は、天日隅宮を築き、その子の天穗日命(あまつほひのみこと)を奉仕させたのが起りという。今も天穗日命を祖とする出雲国造家(こくぞうけ)が、連綿として祭祀を継承している。

 祭神は大国主大神です。大国主命は素戔鳴尊の6世の孫とされ、素戔鳴尊の娘である須世理比売を妻として、素戔鳴の後に葦原中国を経営するものの、高天原から国譲りを要請され、「富足る天の御巣の如き」大きな宮殿を建てることを条件に、国譲りに応じたとされています。その宮殿がここ出雲大社とのことです。大国主命が天孫系に国を譲ったということは、見方をかえれば天孫系に破れたと言えるのではないでしょうか。それにもかかわらず、10月になると各地の神々(当然勝者側の神が多いと思います)がこの地に集積するのは何故なのでしょう。不思議に思われてなりません。
 それはさておき、大国主命ですぐに思い浮かぶのは「因幡の白ウサギ」の話です。また兄神たちによる迫害。そして素戔鳴尊から与えられた試練を乗り切って、娘の須世理比売との結婚。これらの物語は子どものころからよく聞かされたものです。大国主命と素戔鳴尊について私が思い浮かべるのは、芥川龍之介の『老いたる素戔嗚尊』の物語です。

 葦原醜男(大国主命)は須世理姫の協力を得て、素戔鳴尊が与えた難題を解決します。そして素戔鳴が眠っている隙に、その髪を天井の垂木にくくりつけ、丸木舟に乗って、須世理姫とともに逃れてゆきます。目覚めた素戔鳴は舟上のふたりを見て、弓で射ようとしますが…、

 彼は肩を聳やかせた後、無造作に弓矢を抛り出した。それから、――さも堪へ兼ねたやうに、瀑(たき)よりも大きい笑ひ声を放つた。
 「おれはお前たちを祝(ことほ)ぐぞ!」
 素戔嗚は高い切り岸の上から、遙かに二人をさし招いだ。
 「おれよりももつと手力(たぢから)を養へ。おれよりももつと智慧を磨け。おれよりももつと、……」
 素戔嗚はちよいとためらつた後、底力のある声に祝ぎ続けた。  「おれよりももつと仕合せになれ!」
 彼の言葉は風と共に、海原の上へ響き渡つた。この時わが素戔嗚は、大日孁貴(おほひるめむち)と争つた時より、高天原の国を逐はれた時より、高志の大蛇を斬つた時より、ずつと天上の神々に近い、悠々たる威厳に充ち満ちてゐた。

 社務所にて御朱印を頂戴し、拝殿の周りを廻って拝殿の後方に鎮座する本殿に参ります。八足門(やつあしもん)の前に来ると、いつの間にか参拝者が増えて、かなりの人出になっております。


八足門

東十九社


 八足門の奥には楼門がそびえ、その奥に本殿が鎮座しています。正月5日までに限り八足門が開かれて、一般参詣者も楼門の前で進入することができるそうです。
 本殿の東西には十九社があります。一棟に19の扉がついている横長の建物で、神在月に全国から参集した八百万の神々の宿舎となります。
 本殿を取り巻く瑞垣(みずがき)に沿って、本殿の周りをぐるりと一周いたしました。


本殿棟上の千木

本殿復元模型(吉兆館展示)


 本殿は延享元年(1744)の造営で国宝に指定されています。伊勢神宮の神明造りと並ぶ古式の建築様式で大社造りと呼ばれています。
 社伝によれば本殿の高さは、上古32丈(96メートル)、中古16丈(48メートル)であったといわれています。江戸時代中期に造営された現在の本殿は8丈(24メートル)なので、32丈の社殿は建築学上からも不可能といわれ、16丈説にも疑問が持たれていました。ところが平成12年に行われた境内の発掘調査で、3本の巨大な杉を鉄の輪でひき締めた巨大な柱が発見された。これは出雲国造千家(せんげ)家に伝わる「金輪御造営差図(さしず)」にある宇豆柱(うずばしら)であることが判明し、これにより16丈の巨大神殿の存在が現実味を帯びてきました。
 右上の写真は吉兆館に展示されている本殿の復元模型です。
 本殿の内部は、平面にすると、ちょうど「田」の字のようになっており、九本の柱によって支えられています。その中心には、心御柱(しんのみはしら)とよぶ太い柱があり、正面と背面の中の柱を、宇豆柱と呼んでいます。心御柱と向かって右側の側柱との間は板壁となって殿内が仕切られ、この壁の奥に御内殿(ごないでん)があります。そこに祭神の大国主大神が鎮まっています。この御内殿は、正面に向かっておらず、横向き(西側)に向かって鎮座されています。それ故、本殿の西側の瑞垣には遥拝所が設けられています。


後ろ正面から見た本殿

素鵞社


 素鵞社(そがのやしろ)は本殿の真後ろに鎮座しています。祭神は素戔鳴尊(すさのおのみこと)。すぐ裏が八雲山なので、奥社的な存在なのでしょうか。以下その説明書きです。

 素戔鳴尊は三貴子(天照大御神、月読尊、素戔鳴尊)中の一柱であられ、天照大御神の弟神にあたります。
 出雲国に天降りされ、肥河上に於いて八岐大蛇を退治されて人々をお助けになり、奇稲田姫を御妻として大國主命をお生になられました。


 彰古館を見学し、本殿を一周して八足門に戻ってきますと、わずか30分程度の間に凄まじい人混みになっていました。松江市や近くの温泉地などから観光バスが到着したのでしょう。
 これはたまらぬ、と神楽殿に向いましたが、こちらも本殿前に劣らぬ人混みです。神在月ならぬ人在月です。


再び本殿前


 西の門から出て小川を渡ったところに神楽殿があります。全国にある出雲大社教の教会や講社に所属する人々が、揃ってお参りされおまつりを受けられる「おくにがえり」は、ここ神楽殿で行われます。
 神楽殿はもともと明治12年出雲大社教が組織化された当時、その教化のために大国主大神を本殿とは別におまつりしたことに由来します。現在の建築は昭和56年に新築されました。ここに掛かる注連縄は長さ13メートル、重さ5トンの巨大なものです。


神楽殿


 当社の謂れに関して、謡曲では宮人が以下のように語っているのですが、この意味がよく理解できず悩んでおります。


クリ 地「そもそも出雲の國大社おほやしろは。三十八社を。勧請くわんじやうの地なり
サシ シテ「然るに五人の王子おはします  地「第一は阿受枳あじかの大明神と現れ給ふ。三王権現さんわうごんげんこれなり  シテ「第二にはみなとの大明神  地「九州宗像むなかたの明神と現れ給ふ。第三は伊那佐いなさの。速玉はやたましん。常陸鹿島の。明神とかや
クセ「第四には。鳥屋とやの大明神。信濃の諏訪の明神と。即ち現じおはします。第五には。出雲路の大明神。伊豫の三島の明神と。現れ給ふ御誓おんちかひ。げに曇りなき長月や。月の晦日みそかに取り別きて
シテ住吉すみよし一所いつしよ影向やうがうなる  地「殘りの神々は。十月じふぐわち一日ひといの寅の刻に悉く影向なり。樣々の神遊かみあそび。今も絶えせぬこの宮居。語るもなかなかおろかなる.誓ひなるべし


 まず、当社は三十八社を勧請しているということ。『出雲国風土記』には、三十九社の阿受伎神社が記されているようですが、このことを指すのでしょうか
 次いで、五人の王子が紹介されています。これは大国主命の子ということになるでしょう。
 その第一は、阿受枳の大明神。辞解によれば簸川郡遙堪村の阿受伎(あずき)神社で祭神は味耟高彦根神。味耟高彦根神は阿遅須伎高日子根命(あじすきたかひこねのみこと)のことで、大国主命の長男神。ただし山王権現との関連が解っておりません。
 第二は、湊の大明神。辞解では島根県三保関の三保神社をいうようで、祭神は大国主の子の事代主命(ことしろぬしのみこ)。宗像の明神との関係がよく解りません。
 第三は、伊那佐の速玉の神。辞解では島根県杵築の海浜にある因佐神社で、祭神は建御雷神(たけみかづち)。この社は、天神の使いとして建御雷神、稲佐浜に降臨し大国主神と国譲りの交渉をした場所といわれています。しかしながら建御雷神と大国主神は親子の関係はないでしょう。また常陸の鹿島神社の祭神は建御雷神なのですが、因佐神社との関係はどうなのでしょうか。
 第四は、鳥屋の大明神。辞解では島根県出雲郡伊波野村の鳥屋神社で、建御名方神(たけみなかた)を祀るとあります。建御名方神は大国主神の子で、国譲りに抵抗し建御雷神と力比べをしたといわれています。信濃の諏訪神社も建御名方神を祀るようです。
 第五は、出雲路の大明神。辞解では島根県神門郡の出雲神社で、祭神は八束水臣都奴命(やつかみづおみづぬのみこと)。八束水臣都奴命は国引き神話で、新羅の大地を引きよせたという神で、『古事記』では大国主神の祖父といわれています。伊予の三島の明神は大山祇神社で祭神は大山積神です。

 謡曲では以上のように五柱の神について述べられているのですが、その内容がよく理解できません。神社関係に詳しい方に伺ってみる必要がありそうです。
 もう一点の疑問は、全国の神々は十月一日の寅の刻に影向になるのに、住吉明神のみはに長月の晦日に影向になる、とされていることです。住吉明神に関して特別な扱いがあったのでしょうか。
 この部分は、謡曲の“クリ”から“ロンギ”に至る部分なのですが、その内容が理解できずに大いに困惑しています。



 わずか1時間足らずの間に、拝殿、神楽殿の周囲は喧噪の坩堝と化しておりました。これはたまらぬと、大社を後にして町中の見物にとでかけた次第です。

 勢溜前の茶店でコーヒータイムとし、ひと息入れましたが、この辺りも結構な人出です。さらに神門通りは車がせめぎ合っている状態です。この通りはきれいに石畳みが敷き詰められています。以前訪れた時(平成9年)は舗装されていなかったと思うのですが、ここ数年の間に整備されたのでしょう。以前に立ち寄れなかった大社荒木郵便局で貯金の預け入れと風景印の押印を行い、町並の見物に出かけました。
 大社局と大社荒木局の風景印には出雲大社本殿が描かれています。


出雲大社本殿と出雲
阿国の像を描いた
大社局風景印

出雲大社本殿と小槌を
描き、鷺浦つる島を配す
大社荒木局風景印

 神門通を南下します。宇迦橋の手前に石の大鳥居が辺りを睥睨するように立っています。橋を渡ったところに、一の鳥居の中に二の鳥居が見える撮影ポイントがありましたが、車が一杯で、あまりよいアングルにはなりませんでした。


一の鳥居


 宇迦橋を過ぎて少し先の交差点に、出雲阿国像と国引きのレリーフがありました。
 『出雲国風土記』の頭書、意宇郡(おうのこおり)のくだりに、この国引き神話が記されています。それによれば、(萩原千鶴『出雲国風土記』講談社学術文庫)

 八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと)が「八雲立つ出雲の国は、幅の狭い布のような幼い国だなあ。初めの国を小さく作ったな。それでは作って縫いつけることにしよう」とおっしゃって「新羅の三埼を、国の余りがあるかと思って見ると、国の余りがある」とおっしゃって、童女の胸のような鋤を手に取れられ、大肴のえらを突くように土地を突き刺し、大魚の肉を屠り分けるように、土地を切り離し、三本縒りの太綱を打ち掛けて、霜つづらを久留に、たぐり寄せ、河船を曳き上げるようにそろりそろりと、「国よ来い、国よ来い」と引いて来て縫いつけた国は、去豆の断崖から杵築の御崎(現在の日御崎)までだ。こうして引いてきた国を、固定するために立てた杭は、石見の国と出雲の国との境にある、名を佐比売山(現在の三瓶山)というのが、まさにこれだ。また手に持って引いた綱は、薗の長浜(現在の長浜海岸)がまさにこれだ。

 国引き神話によれば、同様にして北陸から佐太、松江、三保関を引き寄せて国引きは完成しています。この神話は『古事記』『日本書紀』には記載されず、大国主命の「国譲り」のみが語られています。


国引きりレリーフ

出雲阿国像


 神門通をさらに進むと旧JR大社駅があります。平成2年に大社線が廃止になるまでの間、出雲大社参拝の玄関口として賑わっていました。以下は駅舎前の説明書きです。

 国鉄大社線は山陰線の支線として、明治45年(1912)に開通しましたが、そのときの駅舎は今の半分ほどの大きさでした。大正2年(1913)、出雲大社神苑から神門通が貫通し、出雲大社から駅までを直結するルートができました。一方国鉄山陰線は大正12年に京都から益田までが全通し、出雲大社への参拝者も爆発的に増え、駅舎も手狭になりましたそこで出雲大社の表玄関としてふさわしい建物へ改築しようと、同年9月に起工、12月に上棟式を行い、大正13年(1924)2月13日に竣工したのがこの駅舎です。
 建物は駅舎全体に入母屋の大屋根を架けるなど、調和のとれた和風表現に特徴が見られます。中央待合室は屋根を高くし、高窓を設け、左右対称の美しい建物です。和風の外観に対し、構造は西洋風で、屋根裏の骨組には、部材を三角形に組み合わせたトラス構造を採用しています。
 駅舎は木造平屋瓦葺きで、柱などには台湾産の桧が使われています。壁は漆喰仕上げですが、腰から下は縦板張りです。中央は、高い天井の三等待合室があり、照明器具や料金表、時刻表は趣があります。一・二等待合室の天井に抜けている部分があるのは、ストーブの煙突の痕跡です。左手には事務所、その前面には皇族等の貴賓室としても使用された応接室が設けられています。大待合室中央に出札室があって、昔の切符販売機、電話機なども置いてあります。その両側に木製の改札口があり、駅舎の南側には後に付設された石製の団体改札口があります。
 駅舎には所々に造作の遊び心が見え、屋根には亀の瓦がいくつか載っていますし、線路へ降りる鉄板にはウサギを見ることができます。
 この大社駅開業により、出雲大社への参拝客は増え続け、昭和35年(1960)には、1日2000人を超える人が利用していました。しかしその後は自動車の発達により乗降客が減少し、平成2年(1990)の大社線廃止により大社駅はその使命を終えることとなりました。


旧JR大社駅


 構内にはD51型機関車が展示されていました。以下はその説明書きです。

 日本の代表的蒸気機関車「デゴイチ」は我が国の機関車発展史上の最盛期にふさわしく、国鉄の総合技術の粋を結集し、D50型の近代化改良型として昭和11年に1号機が生れました。
 以来輸送量の増加に対応するため、D51の新製車が全国の工場で製作され、昭和21年1月までに実に1115輌の最大輌数を記録しています。
 山陰線開通以来雨の日も風の日も一日も休むことなく、力強く走り続けた蒸気機関車が姿を消すこととなり、昭和49年11月30日に本州を最後に走ったのが、この“D51型774号機”です。
 大社町では、多くの参詣者を運んだ蒸気機関車を後世に残し、青少年の教育に役立たせるため、由緒ある機関車を西日本旅客鉄道株式会社(旧日本国有鉄道)から無償貸与を受け、出雲大社のご協力により出雲大社神苑に展示していました。
 この度、旧JR大社駅整備施策の一つとして、大社町合併50周年を機に出雲大社の特別なご高配により、旧JR大社駅に移設展示していただきました。
                       平成13年7月 設置


D51機関車

駅舎


 説明を読んでいますと、この駅舎にはかつての面影がのこっており、内部の見学を楽しみにしていました。ところが、駅舎内部の展示物入れ替えのため、入場不可とのこと。いささかがっかりでしたが、展示されているD51に乗り込み、少し気分を取り戻した次第です。

 帰りは吉兆館に立ち寄り、勢溜前の出雲そばで昼食とし、バスで出雲市へ、そこから「特急やくも」で岡山へ、新幹線にて帰阪の途につきました。
 今回の訪問では神社や神々の知識に乏しかったため、不明な部分が多くありました。さらに記紀の神話にも精通していなければいけない、というのが、参拝を終えた率直な感想です。特に前述の謡曲における神々についての詞章は、その意味も、意図するところも不明でした。ご存知の方からのお教えを請う次第です。




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  (平成25年10月17日・探訪)
(平成26年 1月29日・記述)


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