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京都御室・仁和寺 〈経正〉


 2014年4月3日、洛北に花を訪ねました。原谷苑に咲き乱れる花々を満喫し、その足で御室の仁和寺に「御室桜」を訪ねたのですが、残念ながら時期尚早、まだ蕾の状態でした。おまけに境内の諸堂のうち、御影堂、阿弥陀堂などが改修工事中で、期待はずれの訪問となってしまいました。
 ここ仁和寺は『経正』の舞台となっていますので『経正』について調べてみまたいと思います。また主人公の平経正は、琵琶の上手として知られています。神戸市兵庫区に、清盛塚と並んで「琵琶塚」が建てられています。こちらも少し前に訪れましたのて、併せて探訪記にしたいと思います。



《仁和寺》  京都市右京区御室大内33

 仁和寺は真言宗御室派の総本山で山号を大内山。本尊は阿弥陀如来、開基は宇多天皇。「古都京都の文化財」として、世界遺産に登録されています。
 皇室とゆかりが深く、皇族が門跡となる門跡寺院で、出家後の宇多法皇が住したことから「御室御所」と称されていました。明治維新以降は、仁和寺の門跡に皇族が就かなくなったこともあり、「旧御室御所」と称するようになりました。
 また御室は桜の名所としても知られ、春の桜と秋の紅葉の時期は多くの参拝者でにぎわっています。徒然草に登場する、八幡の石清水八幡宮に参詣した「仁和寺にある法師」の話は有名ですが、仁和寺にとってはあまり名誉なこととは言えませんね。


仁和寺仁王門


 仁和2年(886)、第58代光孝天皇が「西山御願寺」と称する一寺の建立を発願されましたが、翌年に天皇が崩御され、宇多天皇が先帝の遺志を継がれ仁和4年に完成。寺号も元号から仁和寺となったものです。
 宇多天皇は寛平9年(897)に譲位、後に出家し仁和寺第1世 宇多(寛平)法皇となってから、皇室出身者が仁和寺の門跡を代々務め、平安~鎌倉期には門跡寺院として最高の格式を保ちました。
 応仁元年(1467)に始まった応仁の乱の兵火で、仁和寺は一山のほとんどを焼失し、近世になって、寛永年間(1624~1644)に徳川幕府によりようやく伽藍が整備されました。また寛永年間の皇居建て替えに伴い、旧皇居の紫宸殿、清涼殿、常御殿などが仁和寺に下賜され境内に移築されており、旧紫宸殿が現在の金堂となっています。


仁王像・吽形

仁王門(境内より)

仁王像・阿形


 寺院正面の仁王門は極めて巨大なもので、通りを隔てないと撮影できませんでした(門前の通りは車の通行が激しく、いい構図になりませんでした)。仁王門は高さ18.7メートルの重層構造で重要文化財に査定されています。同時期に建造された知恩院三門、南禅寺三門が禅宗様であったのに対し、平安時代の伝統を継ぐ和様で統一されています。


西方天

中門

東方天


 仁王門と金堂の中間に位置する中門は重要文化財に指定されており、向って左側に西方天(広目天)、右側に東方天(持国天)を安置しています。五重塔や観音堂などの伽藍の中心部への入口といえましょう。


 
御室桜

 中門をくぐりますと、左手一帯が御室桜で埋め尽くされています。ところが残念なことに、御室桜は遅咲きで若干時期が早くまだ蕾の状態でした。以下は「御室桜」説明の碑文です。

史蹟名勝天然記念物保護法によって指定されている仁和寺境内の桜は、灌木状であるのが特徴で、花は最も優美にして白桜である。現在の種類は太白・有明(単辦と八重とあり)・車返し・御衣黄・稚子桜・桐ヶ谷・普賢像・乙女桜・胡蝶桜・大内山桜・浅黄桜の外差桜に属するもの十三種ある。

 桜の木は約200本で、江戸時代にはすでに現在の場所に植えられていたようです。御室桜を愛でる様子が安永9年(1780)刊行の『都名所図会』に紹介されています。大正13年(1924)に国の名勝にしていされました。


五重塔

咲き誇る染井吉野

 境内左手の観音堂は改修工事中で、すっぽりと覆いに隠れています。右手の五重塔は寛永21年(1644)の建立で、重要文化財に指定されています。東寺の五重塔と同じく上層から下層にかけて各層の幅にあまり差がないのが特徴であるとのこと。初重西側には大日如来の種子「バン」の額が懸けられています。


 境内の諸堂を眺めてまいりましょう。堂宇の説明は当寺のサイトを参考にしています。
 一段高くなった参道の正面には、当時の本尊である阿弥陀三尊を安置した金堂(本堂)のたたずまいがあります。


仁和寺金堂

御朱印


 この金堂は慶長年間に造営された御所の内裏紫宸殿を寛永年間に移築したものです。現存する最古の紫宸殿であり、当時の宮殿建築を伝えるの建築物として、国宝に指定されています。堂内は四天王像や梵天像も安置され、壁面には浄土図や観音図などが極彩色で描かれます。



経蔵

鐘楼


 金堂の右手にある経蔵は、寛永~正保年間の建立で禅宗様で統一され、重要文化財にしていされています。内部は釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩など六躯を安置し、壁面には八大菩薩や十六羅漢が描かれます。内部中央には八面体の回転式書架(輪蔵)を設け、各面に96箱、総計768の経箱が備えられており、その中には天海版の『一切経』が収められています。
 金堂と御影堂(大師堂)の間にある鐘楼は、階上は朱塗で高欄を周囲に廻らせ、下部は袴腰式と呼ばれる袴のような板張りの覆いが特徴的です。また、通常吊られた鐘は外から見ることが出来ますが、この鐘は周囲を板で覆われており見ることが出来ません。重要文化財。


水掛不動尊

工事中の御影堂


 鐘楼の奥には水掛不動尊を祀る小祠があります。近畿三十六不動霊場の第十四番札所。石造の不動明王を安置します。不動明王に水を掛けて祈願する事から、水掛不動とも呼ばれています。
 御影堂は鐘楼の西に位置し重要文化財に指定されています。弘法大師像、宇多法皇像、仁和寺第2世性信親王像を安置しています。慶長年間造営の内裏の清涼殿の一部を賜り、寛永年間に再建されたもので、蔀戸の金具なども清涼殿のものを利用しています。約10メートル四方の小堂ですが、檜皮葺を用いた外観は、弘法大師が住まう落ち着いた仏堂といえます。


 それでは、ここ仁和寺を舞台とする謡曲『経正』について。


   謡曲「経正」梗概
 世阿弥とも伝えられているが作者未詳。『平家物語』や『源平盛衰記』に典拠する。宝生・金春・喜多流は『経政』と書く。
 仁和寺の守覚法親王は、平経正の討死を哀れと思し召し、僧都行慶に命じて、経正が生前に手慣れていた青山の琵琶をたむけ、管弦講を催して弔う。夜更け、かすかな灯火の陰に、経正の霊が夢幻のように現れ、行慶と詞を交わし琵琶を弾じて楽しんでいたが、やがて修羅の時がくると、その苦患の様を示し、みずからの姿を見られることを恥じて、灯火を吹き消し、闇に消えて行った。
 一場物で上演時間の短い小品でありながら、詞・曲・型ともに洗練された作品で、琵琶をテーマの中心にしてまとまりを見せている。三番目物を思わせる優雅さは修羅物随一であり、詩情あふれる作品である。
 シテもワキも、その登場の際に〈次第〉ないし〈一セイ〉のいずれをも持たない点は異色である。


 仁和寺の守覚法親王(しゅかくほっしんのう)は、経正を深く寵愛しており、経正が源平合戦で討ち死にしたことを憐れみ、行慶僧都に命じて追善の管弦講を催します。その楽の音に惹かれるように、経正の亡霊が登場するのです。


名宣 ワキ「これは仁和寺御室おむろに仕え申す。僧都行慶にて候。さても平家の一門但馬の守經正は。いまだどうぎやうの時より。君御寵愛なのめならず候。然るに今度西海のせんに討たれ給ひて候。また青山と申す御琵琶は。經正ぞんしやうの時より預けくだされて候。かの御琵琶を佛前に据え置き。くわげんかうにて弔ひ申せとの御事にて候程に。役者を集め候。
サシ「げにや一樹いちじゆの蔭に宿り。一河いちがの流れを汲む事も。みなこれしやうの縁ぞかし。ましてや多年のおんぐう。惠みを深くかけまくも。かたじけなくも宮中にて。法事を為して夜もすがら。平の經正じやうとうしやうがくと。弔ひ給ふありがたさよ
上歌 地「殊に又。かの青山せいざんと云ふ琵琶を。かの青山と云ふ琵琶を。亡者の為にけつゝ。同じく糸竹の聲も佛事を.爲し添へて。日々夜々の法のかど貴賎の道も.あまねしや貴賎の もあまねしや



 経正と仁和寺の守覚法親王の関わりについては、『平家物語』や『源平盛衰記』に詳しい。以下『平家物語』「巻第七・經正の都落の事」より。


修理大夫だいぶ經盛の嫡子、皇后宮すけ經正は、幼少の時より、仁和寺のむろの御所に、どうぎやうにてさぶらはれしかば、かゝるそうげきの中にも、君の御名殘きつと思ひ出で參らせ、侍五六騎召し具して、仁和寺殿へせ參り、急ぎ馬より飛んで下り、門をたゝかせ、申し入れられけるは、「君已に帝都ていとを出でさせ候ひぬ。一門の運命今已に盡きはて候ひぬ。浮世に思ひ置く事とては、たゞ君の御名殘ばかりなり。八歳の年このしよへ參り始め候うて、十三で元服仕り候ひしまでは、いさゝかあひいたはる事の候はんより外は、あからさまにぜんを立ち去る事も候はず。已に西海千里のなみに赴き候へば、又いづれの日いづれの時、必ず立ち歸るべしとも覺えぬ事こそ、くちをしう候へ。今一度ぜんへ參つて、君をも見參らせたう存じ候へども、かつちうを鎧ひきうせんを帶して、あらぬさまなるよそほひにまかりなつて候へば、はゞかり存じ候」と申されければ、むろ、あはれに思し召して、「たゞその姿を改めずして參れ」とこそ、おほせけれ。


(中略。経正は従者に琵琶を持たせてきたが、)
經正、これを取次いで御前にさし置き、申されれるは、「先年下し預つて候ひしせいざん、持たせて參つて候。ごりは盡きず存じ候へども、さしもの我が朝のちようはうを、でんしやの塵になさん事の口惜しう候へば、參らせ置く候。し不思議に運命開けて、都へ立ち歸る事も候はば、その時こそ、重ねて下し預り候はめ」と申されたりければ、むろ、あはれに思し召して、一首のぎよえいを遊ばいてぞ下されける、
  あかずして別るゝ君が名残をば後のかたにつゝみてぞおく
經正、おんすずり下されて、
  くれたけかけひの水はかはれどもなほすみあかぬ宮の内かな



 仁和寺の裏山には、ミニ四国八十八ヶ所が整備されています。御室八十八ヶ所霊場と呼ばれる巡拝コースで、文政10年(1827)当時は本四国(四国八十八ヶ所)への巡拝が困難であったため、時の仁和寺29世門跡済仁法親王の御本願により四国八十八ヶ所霊場のお砂を持ち帰り、仁和寺の裏山に埋め、その上にお堂を建てたのが御室八十八ヶ所霊場の始まりとのことでした。


山中の七十番札所

結願の八十八番札所


 約3キロにわたる山道に、札所のお堂が点在し、それぞれのご本尊と弘法大師が祀られています。原谷苑から南下してきますと、山中の小高いところに五十三番札所の小堂があり、そこから結願の八十八番札所まで順を追ってお参りしながら仁和寺にたどり着きました。一番札所から巡拝すると2時間程度のコースだそうです。私は過去3回、四国の霊場を歩きましたが、久し振りにお遍路の感覚を味わい、ご満悦でありました。(白衣に菅笠、金剛杖で歩きたかったなー)



 すこし日時は遡りますが、3月27日に神戸市兵庫区の郵便局を廻っていた際、偶然「琵琶塚」に遭遇しました。謡曲『経正』の舞台とは異なりますが、青山の琵琶を埋めた所とも、一説には経正の墓所ともいわれているようです。


《琵琶塚》  神戸市兵庫区切戸町1-3

 琵琶塚はJR兵庫駅方面から神戸市中央卸売市場に向う国道489号線の北側の、一段小高くなった玉垣の内に清盛塚と並んで建てられています。以下は神戸市教育委員会による琵琶塚の説明です。

 清盛塚と小道を挟んで北西に平面形が琵琶の形をした塚があり、琵琶塚と呼ばれ、江戸時代から琵琶の名手・平経正の墓と信じられていました。平経正は清盛の弟経盛の長男で敦盛の兄にあたります。
 明治35年(1902)有志により琵琶塚の碑が建てられましたが、大正時代の道路拡張の際に、清盛塚とともに現在地に移設されました。


琵琶塚


 琵琶塚の碑の隣には平清盛の銅像と清盛塚と呼ばれる十三重の石塔が建っています。以下は神戸市教育委員会による「清盛塚石造十三重塔」の説明書きです。

 この石塔は古くから清盛塚と呼ばれ、北条貞時の建立とも伝えられています。当初は現在地より南西11メートルにあり、平清盛の墳墓とも言われていましたが、大正時代の道路拡張に伴う移設の際の調査で、墳墓ではないことが確認され、現在地に移設されました。
 石塔は、高さが8.5メートル、初層は一辺145センチメートル、最上層は一辺88センチメートルを測り、基礎部台石東面の両脇に「弘安九」「二月日」の銘があり、弘安9年(1286)に造立されたことがわかります。
 石塔の隣には、神戸出身の彫刻家である楊原義達の作になる平清盛像が建てられています。今なお清盛塚は、地域の人々によって敬われ、大切に守られています。

 弘安9年における鎌倉の執権は北条貞時ですから、貞時の建立とも伝えられているのでしょう。平清盛は戦前は悪の権化のように言われていたようですが、吉川英治が『新平家物語』を著わしてからその評価が180度変化したのではないかと思います。山本周五郎の『樅の木は残った』により原田甲斐の評価が逆転したこともありました。作家の主観により歴史上の人物像を違った観点で見ることができるのも、歴史小説を読む楽しみかも知れません。


琵琶塚と清盛像


十三重の石塔


福原懐古の句碑

八棟寺無縁如来塔


 塚の前方に「福原懐古」とした碑が建てられていました。風化が激しくほとんど読み取れませんでしたが、後ほど調べてみますと、神戸大学電子図書館システムのサイトで、神戸又新日報の記事に、太田陸郎「コウベ新風土記」があり、そこでこの碑が紹介されていました。この碑は子日庵一草(ねのひあん・いっそう)の句碑であるとのことでした。子日庵一草は文化文政の俳人で、岩手県和賀郡黒沢尻の人。諸国の神社仏閣名所旧跡を遍歴行脚し、終焉の地を摂津兵庫に求めて、文政2年(1819)11月18日、兵庫の津、鶴路亭において89歳で没しています。生田神社の「箙の梅」の横にも句碑がありました。

  かやの御所  此ほどは鈴虫鳴をかやの御所
  和田の御崎  夕波の大輪田めくる時雨かな
  遠矢の浜   矢叫はむかしのことよ雁霞む
  笠松     笠松にきょうも覆うや雲の峰
  魚の御堂   築□や踊は魚の霊まつり
  須佐の入江  洲砂に咲て昔しのふや社若
  楠寺の会式  五月雨や二十五日のみなと川
  琵琶塚    琵琶塚や草のかげより霜の声

 また入口近くに「平相国菩提所 八棟寺無縁如来塔」と刻された碑があります。八棟寺は近くにある能福寺の寺領内にあったといわれているようです。
 平清盛の墳墓がどこにあるのか、諸説があるようです。後日訪れた京都の六波羅蜜寺にも「清盛塚」がありましたし…。

 この地は、福原に拠点をおいた清盛の別荘があったところともいわれているようです。この塚の隣には住吉神社が祀られていました。兵庫の津は清盛の時代から貿易港として栄えておりましたので、由緒は古いのかと思いましたが、明治11年に住吉大社より勧請したとのことでした。

 この日は中央市場から和田岬をまわり、帰路につきました。




《『経正』と白氏文集》

 先般、『和漢朗詠集』と謡曲の関係を調査しましたが、白居易(楽天)の詩句を引用した謡曲の詞章が多く、改めて白居易の影響の大きさに驚いた次第です。この『経正』にも白居易の詩から引用した詞章が4ヶ所(うち、3ヶ所は『和漢朗詠集』からの引用)あり、それ以外に『和漢朗詠集』所収の公乗億の詩句から1ヶ所の引用があります。ちなみに、『白氏文集』からの引用が3首ある曲は、『右近』『采女』『西行桜』『善知鳥』『松虫』の5曲にのぼりました。
 白居易の詩を4首引用しているのは、この曲のみではないでしょうか。そこで、白居易の詩との関係を探ってみました。
 ≪参考文献≫
  高木正一『白居易』(中国詩人選集・岩波書店)
  碇豐長の詩詞世界(http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/)


ぼくを吹けばはれてんの雨。へいを照らせば夏の夜の。霜のおきも安からで


 「江楼夕望招客」は『白氏文集』巻二十に所収。第5句と6句(頸聯)は『和漢朗詠集』に所収。謡曲は『朗詠集』からの引用であろう。白居易が杭州刺史として赴任していた時代の作品。



   江楼夕望招客   江楼の夕望せきぼう 客を招く

  海天東望夕茫茫   海天 東望すれば 夕べばう
  山勢川形闊復長   山勢 川形 ひろた長し
  燈火萬家城四畔   灯火 万家 城のはん
  星河一道水中央   星河せいが 一道 水の中央
  風吹古木晴天雨   風 古木こぼくを吹けば 晴天せいてんの雨
  月照平沙夏夜霜   月 平沙へいさを照らせば 夏の夜の霜
  能就江樓銷暑否   能く江楼にきて 暑をすや否や
  比君茅舎校清涼   君の茅舎ぼうしやに比して 清涼をくらべん


 暮れ方の山も川も広々としてどこまでも続く。
 家々の明かりは城の周りまで照らし、銀河はひとすじに川面に映る。
 風が枯木を吹きわたって枝をならすと、晴れた日でも雨かと思われ、
 月が砂原を照らすと、夏の夜なのに霜が降りたかと怪しまれる。
 この江楼で避暑ができないものか、君の住まいに比べて涼しくはなかろうか。




たいけんさう々として。むらさめの如しさて。しやうけんは切々として.ささめごとに異ならず


 「琵琶行」からの引用。「琵琶行」は「長恨歌」と並ぶ長詩。元和十年(815)、白居易45歳、九江郡の司馬に左遷されたときの作。序には612字と記しているが、実際には88句、626字である。長詩のため、適宜区切って注釈を挿入した。



   琵琶行      琵琶びわこう

  潯陽江頭夜送客   潯陽じんよう江頭こうとう 夜 客を送れば
  楓葉荻花秋索索   楓葉ふうよう 荻花てきか 秋 索索たり
  主人下馬客在船   主人は馬よりり 客は船に在り
  舉酒欲飮無管絃   酒を挙げて飮まんと欲するに 管絃かんげん無し
  醉不成歡慘將別   酔うて歓を成さず 慘としてまさに別れんとす
  別時茫茫江浸月   別るる時 茫茫ぼうぼうとして 江は月を浸せり


 潯陽江のほとりで、旅立つ人を見送った。尽きぬ名残りに盃を挙げるが、興を添える音楽もない。酔っても楽しくない。そのまま別れを告げる。
 (「潯陽の江のほとり」といえば、“猩々”が登場しそうですね!?)

  忽聞水上琵琶聲   たちまち聞く 水上 琵琶の声
  主人忘歸客不發   主人は帰りを忘れ 客ははつせず
  尋聲暗問彈者誰   声を尋ねてひそかに問う く者は誰ぞと
  琵琶聲停欲語遲   琵琶の声はみ 語らんと欲して遲し
  移船相近邀相見   船を移して相い近づけ むかえて相い見る
  添酒迴燈重開宴   酒を添へ ともしびを迴らし 重ねて宴を開く
  千呼萬喚始出來   千呼せんこ 万喚ばんかん 始めて出で来たるも
  猶抱琵琶半遮面   猶お琵琶を抱きて 半ば面をさえぎ


 その時、水上を伝わる琵琶の音。舟を漕ぎ寄せて声をかける。やっと舟からでてきたが、琵琶を抱え、袖で顔をかくしている。

  轉軸撥絃三兩聲   軸を め 絃をはらいて 三両声
  未成曲調先有情   未だ曲調きよくちようを成さざるに 先ず 情有り
  絃絃掩抑聲聲思   絃絃に掩抑えんよくして 声声せいせいに思い
  似訴平生不得志   平生へいせい 志を得ざるを訴うるに似たり
  低眉信手續續彈   眉を低れ 手にまか信せて 続続と弾き
  説盡心中無限事   き尽くす 心中無限の事


 やがて女は演奏を始める。常ひごろの心のなやみを訴えるかのように。

  輕攏慢撚抹復挑   軽攏けいろう 慢撚まんねん まつ ちよう
  初爲霓裳後綠腰   初めは霓裳げいしようを為し 後は綠腰ろくよう
  大絃嘈嘈如急雨   大絃は嘈嘈そうそうとして 急雨の如く
  小絃切切如私語   小絃は切切せつせつとして 私語の如し
  嘈嘈切切錯雜彈   嘈嘈と切切と 錯雑さくざつして弾き
  大珠小珠落玉盤   大珠 小珠 玉盤ぎよくばんに落つ
  間關鶯語花底滑   間関かんかんたる鴬語おうご 花底に滑かに
  幽咽泉流氷下難   幽咽ゆういんする泉流は 氷下になやめり
  氷泉冷澀絃凝絶   氷泉ひようせん冷渋れいじゆうして 絃は凝絶し
  凝絶不通聲暫歇   凝絶ぎようぜつして通ぜず 声暫らく
  別有幽愁暗恨生   別に幽愁と暗恨あんこんの生ずる有り
  此時無聲勝有聲   の時 声無きは 声有るに勝る
  銀瓶乍破水漿迸   銀瓶ぎんぺい乍ち破れて 水漿すいしようほとばし
  鐵騎突出刀槍鳴   鉄騎てつき突出して 刀槍鳴る
  曲終收撥當心畫   曲終わり ばちを收めて 心に当たりてえが
  四絃一聲如裂帛   四絃の一声 裂帛れつぱくの如し
  東船西舫悄無言   東の船も 西のふねも ひそまりてことば無く
  唯見江心秋月白   唯だ見る 江心こうしんに秋月の白きを


 初めに弾かれたのは霓裳羽衣の曲、次いで緑腰のメロディ。
 大絃はせわしく夕立のように、小絃は耳元でささやく言葉のように。
 時には、花の下の鴬のようにのびやかに、また氷の下の泉流のようにつかえがちに。一曲が終るとバチをひきよせ、四つの絃を同時に払う。周りの舟の人々は感動のあまり声もない。
 (謡曲は、「大絃嘈嘈如急雨 大珠小珠落玉盤」を引用したもの。)

  沈吟放撥插絃中   沈吟ちんぎんしつつ撥をきて 絃中にはさ
  整頓衣裳起斂容   衣裳を整頓して 起ちてかたちおさ
  自言本是京城女   ずから言う 本は是れ京城けいじようの女
  家在蝦蟆陵下住   家は蝦蟆陵がまりよう下に在りて住む
  十三學得琵琶成   十三にして琵琶を学び
  名屬教坊第一部   名は教坊きようぼうの第一部に屬す
  曲罷曾教善才伏   曲わりては かつて善才をして伏せしめ
  妝成毎被秋娘妬   よそおい成りては つね秋娘しゆうじように妬まる
  五陵年少爭纏頭   五陵ごりようの年少 争って纏頭てんとう
  一曲紅綃不知數   一曲にあかきぬは 数を知らず


 弾き終っていずまいを改め、身の上はなしを語りはじめた。
 わたしはもと都の女、十三のときに琵琶を習って、第一級のメンバーとして名を連ね、五陵の貴公子の人気者でありました。

  鈿頭雲篦撃節碎   鈿頭でんとう雲篦うんぺいは せつを撃ちて碎け
  血色羅裙翻酒汙   血色けつしよく羅裙らくんは 酒を翻してけが
  今年歡笑復明年   今年こんねんの歓笑 た明年
  秋月春風等閒度   秋月 春風 等閒とうかん
  弟走從軍阿姨死   弟は走りて軍に從ひ 阿姨あいは死し
  暮去朝來顏色故   暮去りあした来たりて 顏色ふるびぬ
  門前冷落鞍馬稀   門前冷落れいらくして 鞍馬あんばは稀に
  老大嫁作商人婦   老大ろうたい 嫁して 商人のつま
  商人重利輕別離   商人は利を重んじて 別離べつりを軽んじ
  前月浮梁買茶去   前月 浮梁ふりように茶を買いて去る
  去來江口守空船   去りてよりこのかた 江口に空しき船を守れば
  遶船月明江水寒   船をめぐる月明に 江水寒し
  夜深忽夢少年事   夜深けてたちまち夢みるは 少年の事
  夢啼粧涙紅闌干   夢に啼けば 粧涙しようるいは 紅くして闌干らんかんたり


 秋の月と春の風、うかうかと眺め暮すうちに、弟は兵隊になり母親は亡くなりました。時が容赦なく過ぎるうちに、姥ざくらとなり商人の妻となりました。夫は商いのため旅立ち、ひとり寝の舟を守っていますと、ふと夢に見るのは若かった頃のことでございます。

  我聞琵琶已歎息   我は琵琶を聞きて すでに歎息せるに
  又聞此語重喞喞   又た此の語を聞きて 重ねて喞喞そくそくたり
  同是天涯淪落人   同じく是れ 天涯淪落りんらくの人
  相逢何必曾相識   相い逢う 何ぞ必ずしもかつての相識そうしきなるべき


 この女の話を聞き、大いに嘆息した。自分も女も、ともに世界のはてにうらぶれた人間だ。同じ境遇の人間のみが持つ感傷が湧いてくる。

  我從去年辭帝京   我 去年 帝京ていけいを 辭して
  謫居臥病潯陽城   謫居たくきよして病に臥す 潯陽城じんようじよう
  潯陽地僻無音樂   潯陽しんようは地かたよりて 音楽無く
  終歳不聞絲竹聲   終歳しゆうさい 糸竹の声を聞かず
  住近湓江地低濕   住いは湓江ぼんこうに近くして 地は低湿
  黄蘆苦竹繞宅生   黄蘆こうろ 苦竹くちく 宅をめぐりて生う
  其間旦暮聞何物   其の間 旦暮たんぼ 何物をか聞く
  杜鵑啼血猿哀鳴   杜鵑とけんは血に啼き 猿は哀しく鳴く
  春江花朝秋月夜   春江しゆんこうの花の朝 秋月の夜
  往往取酒還獨傾   往往おうおう 酒を取りて た独り傾く
  豈無山歌與村笛   あにに山歌と村笛そんてきとの無からんや
  嘔唖嘲唽難爲聽   嘔唖おうあく 嘲唽ちょうせつ 聴くを為し難し
  今夜聞君琵琶語   今夜 君が琵琶のを聞く
  如聽仙樂耳暫明   仙楽せんがくを聴くが如く 耳暫く
  莫辭更坐彈一曲   辞することなかれ 更に坐して一曲を弾くことを
  爲君翻作琵琶行   君が為にひるがえして琵琶のうたを作らん


 自分は去年、左遷されて都を離れここ潯陽にいる。この土地はへんぴなところで、心を慰めるものとて何もない。しかるに今夜、思いを込めた琵琶の音を聞いたのは、まるで天上の音楽を耳にしたようなものだ。辞退せずにもう一曲弾いておくれ、さすればあなたのために、琵琶の歌につくりかえてさしあげよう。

  感我此言良久立   我が此の言に感じて しばらく立ち
  却坐促絃絃轉急   座にかえり 絃をむれば いといよいよ急なり
  淒淒不似向前聲   淒淒せいせとして向前こうぜんの声に似ず
  滿座重聞皆掩泣   滿座 重ねて聞きて 皆なみだおお
  座中泣下誰最多   座中 なみだつること 誰か最も多き
  江州司馬青衫濕   江州の司馬 青衫せいさん湿う


 このことばに感動した女は、もとの坐にかえると、絃を締め直し演奏をはじめる。さきほどより一段と悲しい音色であった。
 満座の人々は、この音を聴くうちに、あふれる涙を手で覆い隠した。中でも最も多く涙を流したのは、江州の司馬である私自身だ。青い上着はぐっしょりと湿ったのである。




第一第二のけんさく々として秋の風。松を拂つてゐん落つ。第三第四の絃は。れい々として夜の鶴の。子をおもうての中に鳴く


 「五絃彈」は『白氏文集』巻三に所収。「第一第二絃索索~隴水凍咽流不得」は『和漢朗詠集』(463)に所収。謡曲は『朗詠集』からの引用であろう。
 五絃琵琶は、中央アジアから伝来した楽器で、正倉院御物中のものは、現在見得る唯一の唐式五絃琵琶であるという。副題に「鄭の雅を奪うをにくむ」とあるように、五絃のようなみだらな楽器が、高尚な雅楽にとってかわって流行するのを憎んだ詩。これも比較的長いため、適宜区切って注釈を挿入した。



   五絃彈       げんだん

  五絃彈        五絃をばだん
  五絃彈        五絃をばだん
  聽者傾耳心寥寥    聴く者耳を傾けて 心 寥寥りようりようたり
  趙璧知君入骨愛    趙璧ちようへきは君が骨に入りて愛するを知り
  五絃一一爲君調    五絃 一一いちいち 君が為に調ととの
  第一第二絃索索    第一第二の絃は索索さくさく
  秋風拂松疎韻落    秋風 松を払うて疎韻そいん落つ
  第三第四絃泠泠    第三第四の絃は泠泠れいれい
  夜鶴憶子籠中鳴    夜鶴やかく 子をおもうて籠中ろうちゆうに鳴く
  第五絃聲最掩抑    第五の絃声は 最も掩抑えんよく
  隴水凍咽流不得    隴水ろうすい 凍咽とうえつして流れ得ず


 五絃の琵琶が弾かれると、聴く人の心はうつろ。この道の名手趙璧は、一つ一つ五絃の調子を整える。
 第一絃、第二絃が弾かれると、絃から発する音は、松の枝をなでる秋風のそぼろなひびきが吹きおとされるようだ。第三間、第四の絃の音は、子を憶うて籠に鳴く夜の鶴の声にも似る。第五絃の音はとりわけおもいふたぎ、隴頭の山水がこおりむせんで、流れもあえぬようなひびきだ。

  五絃並奏君試聽    五絃 並び奏す 君 こころみに聴け
  淒淒切切復錚錚    淒淒せいせい 切切 錚錚そうそう
  鐡撃珊瑚一兩曲    鉄は珊瑚をつ 一両曲
  氷寫玉盤千萬聲    氷は玉盤ぎよくばんを写す 千万声
  鐡聲殺        鉄声てつせいは殺
  氷聲寒        氷声ひようせいは寒
  殺聲入耳膚血慘    殺声 耳に入りて膚血ふけつ慘に
  寒気中人肌骨酸    寒気 人に中りて肌骨きこつ酸なり
  曲終聲盡欲半日    曲終わり声尽きて 半日はんにちならんと欲す
  四座相對愁無言    四座しざ 相対し 愁いて言無し


 五つの絃がいっせいに弾かれるとき、鉄で珊瑚を砕くように一二曲、氷を玉の皿に移すように千万声。鉄の音は殺気だち、氷の音は寒気をさそう。まわりの面々はかなしい顔で一言もしゃべれない。

  座中有一遠方士    座中にひとりの遠方の士有り
  喞喞咨咨聲不已    喞喞しよくしよく 咨咨しし 声已まず
  自歎今朝初得聞    ずから歎ず 今朝こんちよう初めて聞くを得たり
  始知孤負平生耳    始めて知る 平生の耳に孤負こふせしを
  唯憂趙璧白髪生    唯だ憂う 趙璧ちようへきの白髪生じ
  老死人間無此聲    老死ろうしせば 人間にんげん 此の声無からんことを


 一座の中に遠方から来たひとりの人。感嘆して申すよう、こんなすばらしい音を掃いたのは初めて。日頃はくだらぬ音楽ばかり聴いていました。趙璧さんが亡くなったら、この妙音が絶えるのが心配だ。

  遠方士        遠方えんぽうの士
  爾聽五絃信爲美    なんじ 五絃を聴きて 信に美なりと為すも
  吾聞正始之音不如是  吾聞く 正始せいしの音はくの如くならずと
  正始之音其若何    正始の音は其れ若何いかん
  朱絃踈越清廟歌    朱絃しゆげん踈越そかつなり 清廟せいびようの歌
  一彈一唱再三歎    一弾 一唱いつしよう 再三歎ず
  曲淡節稀聲不多    曲は淡く せつは稀に 声多からず
  融融曳曳召元氣    融融ゆうゆう 曳曳えいえい 元気を召く
  聽之不覺心平和    これを聴けば 覚えず心平和なり


 遠来の客よ、あなたは五絃の音がすばらしいと申されるが、私はそうは思わない。しからば正しい音とは如何なるものか。
 清廟の歌がそれなのだ。絃は朱のねり糸、一人が歌い始めると、続く人々は繰り返し、嘆じながら歌う。なごやかでのびのびして、天然自然の元気を招き寄せる。聴くもののこころがなごやかになるというものだ。

  人情重今多賤古    人情は今を重んじて 多くいにしえを賤しむ
  古瑟有絃人不撫    古瑟こしつは絃有るも 人撫せず
  更從趙璧藝成來    更に趙璧の芸成りてこのかた
  二十五絃不如五    二十五絃は 五にかず


 ところが人情はいにしえをいやしみ、古めかしい瑟なんか誰も撫でさするものもいない。おまけに趙璧の芸ができあがってからというもの、五絃がおおはやり、二十五絃の瑟など、たった五絃のものにかなわなくなってしまった。




燈火ともしびそむけては。燈火を背けては。共にあはれむ深夜の月をも


 「春中與盧四周諒華陽觀同居」は『白氏文集』巻十三に所収。第3句と4句(頷聯)は『和漢朗詠集』に所収。謡曲は『朗詠集』からの引用であろう。若かりし日に友人の盧周諒と華陽觀で過ごした時のことを詠じたもの。



   春中與盧四周諒華陽觀同居  春中 盧四ろし周諒しゆうりようようかんに同じく

  性情懶慢好相親   性情 懶慢らんまんにして く相い親しむ
  門巷蕭條稱作鄰   門巷もんこう 蕭條しようじようとして となりすにかな
  背燭共憐深夜月   しよくそむけては 共に憐れむ 深夜の月
  蹋花同惜少年春   花をみては 同じく惜む 少年の春
  杏壇住僻雖宜病   杏壇きようだんは じゆう へきにして 病に宜しと雖も
  芸閣官微不救貧   芸閣うんかくは 官 にして 貧を救はず
  文行如君尚憔悴   文行ぶんこう 君の如くにして 尚お憔悴す
  不知霄漢待何人   知らず 霄漢しようかんは 何人をか待つ


 性格が怠けものなので親しくするのにちょうどよく、住まいもものさみしくて付き合うのにぴったりだ。
 灯火を背にして深夜の月を愛で、落花を踏んで青春の時を惜しもう。
 この学問所は僻地なので病気療養には良いが、官位は低くて貧乏からは脱しきれない。
 君のように文学と徳行が優れているのに貧しいがためやつれ果てているとは、朝廷はいったいどんな人材に期待しているのだろうか。




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  (平成26年 3月27日、 4月 8日・探訪)
(平成26年 5月20日・記述)


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