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大津・石山寺 〈源氏供養〉


 2014年12月24日、『源氏供養』の謡蹟探訪で石山寺に参拝しました。JR石山駅でレンタサイクルを借用、石山寺経由で草津市の郵便局廻りを兼ねた謡蹟訪問ではあります。石山寺は花の寺としても有名ですが、さすがに12月ともなると、あまり花を愛でるという訳には参りません。やはり梅や桜の頃がよろしいようでした。

 私はこの『源氏供養』なる曲をあまり詳しくは知りませんでした。習ったこともなく、謡ったことといえば、謡会で地謡を勤めたくらいで、紫式部がシテの鬘物で二段グセの曲、という程度の知識でした。お恥ずかしい限りですが、私は『源氏物語』を読んだことがないのです。受験勉強の一環として、書き出しの「いづれの御時にか、女御更衣あまたさぶらひたまひけるなかに…」という桐壷の一節を読んだ程度でした。そんなことがこの曲に対してあまり積極的になれなかった一因であったかも知れません。
 いわゆる“源氏供養”とは、仏教において、架空の物語を作ることは「嘘をついてはいけない」という五戒の一つである「不妄語戒」に反する、とする当時の思想であり、紫式部が『源氏物語』という人々を惑わす絵空事を描いたため、死後地獄に落ちてしまった、とする伝承をもとに、紫式部を供養しようとした法会です。この供養の場で唱えられる表白文として造られたのが『源氏物語表白(ひょうびゃく)』であります。謡曲『源氏供養』は、この『源氏物語表白』などを素材としており、『源氏物語表白』の作者である安居院(あごい)法印がワキとして登場しています。
 では先ず、謡曲『源氏供養』について。


   謡曲「源氏供養」梗概
 世阿弥の作とも伝えられるが金春禅竹説もあり、作者未詳。『源氏物語』『源氏物語表白』『源氏物語草子』による。
 紫式部は石山寺に籠って『源氏物語』を書いたが、仏教の見地からすると、作り物語は妄語戒を犯したことになるので成仏できない。成仏するためには、物語の主人公である光源氏のために供養をしなければならない。本曲はこの種の話に、安居印法印の『源氏物語表白』を採り合わせて作ったものである。しかしながら、作者は堕地獄説には不賛成のようで、紫式部は観世音の化現であるとしているところに、本曲の特徴がある。

 石山寺の観世音を信仰する安居印法印が、都を出て石山に向う。途中、里女が法印を呼び止め、『源氏物語』を書いたが、光源氏を供養せぬため成仏できない由を述べ、法印に弔いを願い、夕闇にまぎれて消え失せる。
 法印は石山寺に行き、紫式部の菩提を弔うと、夜ふけに式部の霊が影のごとく現われ、勧めに応じて『源氏物語』の各巻の名を詠み込んだ舞を舞い、浮き世のはかなさを説くのである。
 『源氏物語』の巻名を折り込んだ長大な二段グセの舞が本曲の中心となっており、54帖中26帖が詠み込まれている。

 本曲は「舞入」の小書の場合以外は、序之舞あるいは中之舞を舞わず、舞台を一巡するイロエのみとなる。これは三番目物としては異例であり、三番目物では『大原御幸』と本曲の2曲のみである。
『源氏物語』に典拠した曲で、紫式部を主人公にした曲は、現行曲では本曲のみで、他の曲はいわば架空の物語といえる。その“源氏物語物”は、『浮舟』『玉鬘』『野宮』『半蔀』『夕顔』(以上三番目物)、『葵上』『住吉詣』(以上四番目物)、『須磨源氏』(五番目物)で、他に金剛流のみに『落葉』『碁』(以上三番目物)がある。なお『松風』は『源氏物語』の須磨の巻の影響が大きく、光源氏を通して行平像を造型したとされているので、広義の源氏物語物と見てもよいであろう。



《石山寺》  大津市石山寺1-1-1

 石山寺について、以下 Wikipedia によりますと、大津市東郊の石山寺1丁目にある東寺真言宗の寺で、良弁の開基。本尊は如意輪観音。京都の清水寺や奈良県の長谷寺と並ぶ、日本でも有数の観音霊場であり、西国三十三所観音霊場第十三番札所となっています。また当寺は『蜻蛉日記』『更級日記』『枕草子』などの文学作品にも登場し、『源氏物語』の作者紫式部は石山寺参篭の折に物語の着想を得たとする伝承があります。「近江八景」の一つである「石山秋月」でも知られています。
 『石山寺縁起絵巻』によれば、聖武天皇の発願により、天平19年(747)、東大寺別当の良弁(689~774)が、聖徳太子の念持仏であった如意輪観音をこの地に祀ったのがはじまりとされ、巨大な岩の上に6寸の金銅如意輪観音像を安置し草庵を建てたところ、如意輪観音像がどうしたことか岩山から離れなくなってしまい、やむなく如意輪観音像を覆うように堂を建てたのが石山寺の草創といわれています。

 それでは、三井寺の参拝です。下の「石山寺境内案内図」をクリックすると、寺の地図が別窓で開きます。

石山寺境内案内図



仁王像(吽形)

石山寺仁王門

仁王像(阿形)


 ここ石山寺には、今年の4月にこの近辺の郵便局を廻った折に参拝しています。その際は時間の関係で境内をゆっくりと鑑賞出来なかったものですから、再度訪問いたしました。そのとき撮影した写真も一部使用いたしました。
 当寺の仁王門は、さすがに古刹だけあって、どっしりと文字どおり仁王立ちの感があります。昨年訪れた三井寺の仁王門も立派でしたが、当寺も負けず劣らす立派なものです。西国の札所同士、琵琶湖を挟んで威を競い合っているのでしょうか。



参道

法性院の門には“おおつ光ルくん”が

 仁王門からまっすぐに参道が伸びており、突きあたりに入場受付があります。参道の両側には霧島つつじが植えられ、毎年4月下旬に見頃を迎え、また春は桜、秋は紅葉で美しく彩られるとのことです。(参道の写真は4月に撮影したもの)

 門を入ったすぐ右手にある法性院は寺の事務所となっており、その入口には、かわいいゆるキャラが3体並んでいました。“おおつ光ルくん”と呼ぶそうです。
 “おおつ光ルくん”は21世紀版光源氏で、御年は推定12歳。平成21年2月18日に大津市観光キャラクターに任命され、特別住民登録をして大津市民になりました。びわ湖大津PRのため、日夜がんばっているそうです。
 ローラスケートや和歌を詠む特技があり、趣味は草花鑑賞やかるた。好きな食べ物はしじみ飯ですが、衣食住すべて足り過ぎて運動不足が悩みである、とのことでした。


おおつ光ルくん

 法性院の左隣には拾翠園があります。“お休み処”の看板が掲げられており、茶菓の摂待があるようなのですが、なんとなく高そうな感じがありパスいたします。


拾翠園

大国堂BR>


 その並びに大国堂があります。石山寺大黒天は像は万寿元年(1024)に3人の僧の夢のお告げにて湖水より出現しました。福招きの大国天として古来より有名とのことです。お堂は鎌倉時代に再建されています。堂前の立て札には「弘法大師の御作、万寿元年に湖水より出現した」と記されているのですが、つじつまがあわないようなのですが…。


くぐり岩

比良明神影向石


 500円也の 入場料を払って入関いたしますと、右手に池があり、その向こうには複雑に入り組んだ岩が織りなす「くぐり岩」があります。説明によれば、

 このあたりの岩は全部大理石である。奇岩怪岩の幽遂の境中天然自然に体内くぐり状態をなす。この池は天平時代のものである。

 胎内くぐりをやってみようかと、岩の中を覗いてみましたが、四国の慈眼寺の胎内くぐりを拒否された、わがデブ腹では到底無理と思い、あきらめた次第です。
 くぐり岩の反対側、明王院の前方に、石燈籠と古井戸のようなものがあります。説明板には「比良明神影向石」とあり、以下のように記されておりました。

 東大寺の僧良弁(りょうべん)僧正(689~773)は、聖武天皇に東大寺の大仏建立に必要な黄金の調達を命じられ、金峯山(きんぷせん)に籠って金剛蔵王の夢告を受け、この石山の地を訪れました。すると岩の上で老人が釣をしており、お告げの場所がまさにこの地であった事を良弁僧正に告げました。この老人こそが近江の地主である比良明神で、比良明神が座っていた石は「比良明神影向石」として今もなお大切に守られています


藤村ゆかりの密蔵院

御影堂エリアへの階段


 奥まったところに、東池坊密蔵院があります。ここは島崎藤村ゆかりの地ということで、門前に説明がありました。

 石山寺東大門前左手駐在所の前方に当る道路に面した公園内に藤村の詩碑があり、この辺りがもと茶丈の跡地で東池坊密蔵院の旧地である。
 藤村は22歳、明治26年5月末のことである。藤村文学を確立するうえで重要な意味を持つ関西漂白。
 その時石山寺に参詣し、ハムレット一冊を献じる。そして二ケ月に近い寄宿生活を、この茶丈の奥にて始める。
 又石山寺を囲んで<源氏物語><芭蕉の幻住庵跡><瀬田の清流><石山の源氏蛍>等の詩情あふれる世界が傷心の藤村の心を和ませた。
 関西旅立は教え子との愛の苦悩が直接の動機になっているとはいえ、敬愛する西行や芭蕉の如く旅をし足を休めたところが、この近江石山寺の「茶丈庵」である。そこに青春時代の生き生きとした藤村の姿をみることができる。
  ─ことしほととぎす鳴く卯月の末っかたより旅の心やすめんと、しばらく石山寺の茶丈を借りて日頃このめるところを擬す。(茶丈記)─

 ここから右手の石段を上ると、御影堂、蓮如堂などが建ち並び、さらに本堂に続いています。



石山寺硅灰石三態


 

 


 石段を登りきると、先ず眼を奪われるのが正面の「硅灰石(けいかいせき)」です。硅灰石とは、ちょっと聞き慣れない名前です。天然記念物に指定されているとのことですが、剛快そのもので、岩の上には多宝塔が顔を覗かせています。何となく『山姥』の「巖峨々たり。山また山。何れの工か。青巌の形を。削りなせる。」という詞章が頭を過ぎります。
 以下、硅灰石についての大津市教育委員会による説明書きです。

 硅灰石は、石灰岩が地中から突出した花崗岩と接触し、その熱作用のために変質したものです。この作用によって通常は大理石となりますが、この石山寺のように雄大な硅灰石となっているのは珍しいものです。
 石山寺の硅灰石は、20ミリメートル大の短い柱状の結晶となったものや、5ミリメートル大のものが50ミリメートル大に集合したものがあって、表面は淡黄色あるいは淡褐色をしています。しかし、新鮮なものは純白色をしています。
 また、この硅灰石のほか大理石、ベープ石、石灰石からなる大岩塊は褶曲(しゅうきょく)のありさまが明らかに分かるものとして貴重なものであり、石山寺の「石山」の起りとなったものです。
 大正11年3月に国の天然記念物に指定されました。


観音堂

西国三十三観音


 石段を登りきったすぐ右手にあるのは観音堂。堂内には西国三十三霊場のご本尊を安置してあります。
 観音堂の左手にあるのが毘沙門堂です。滋賀県の文化財に指定されており、堂内の毘沙門天像は重要文化財に指定されています。以下は滋賀県教育委員会による説明書きです。

 毘沙門堂は、安永2年(1773)の建立。堂内に兜跋(とばつ)毘沙門天(重要文化財)・吉祥天・善膩師(ぜんにし)童子の三体を祀っています。
 この建物は兜跋毘沙門天への信仰が厚かった和歌山の藤原正勝が施主となり建てたこと、大棟梁は大津の高橋六右衛門、治郎兵衛が、大工は大阪の大西清兵衛が担当し、大阪で木材の加工や彫刻を行い、現地で組み立てたことなど造営方式がわかる点でも貴重です。
 毘沙門堂は近世後期らしい華やかな建物で、実際は正方形の平面でありながら、間口3間に対して、奥行き2間とし、方3間にはしない点や、須弥壇(しゅみだん)前の柱筋の中央間は組物(くみもの)上の通肘木(とおしひじき)を虹梁(こうりょう)型に加工しその中央に笈形(おいがた)付きの大瓶束(だいへいづか)を載せ天井を受ける特殊な架構・意匠を用いもなど、特色にあふれた優れた建築です。


毘沙門堂

御影堂(大師堂)


 毘沙門堂の奥にあるのが重要文化財に指定されている御影堂(大師堂)です。
 以下は大津市教育委員会による説明書きです。

 本堂の東、鐘楼の下にあるこの御影堂は、室町時代の建立で、正面3間、側面3間、宝形造(ほうぎょうづくり)、檜皮葺(こわだぶき)で、背面に1間の張り出しを設けます。堂内は中央間後方1間を板壁で囲って内陣とし、内部の須弥壇には、弘法大師・良弁・淳祐(じゅんにゅう)の遺影(御影)を安置しています。
 建立当初は、中央1間に須弥壇を置く形式でしたが、慶長期に堂全体の修理が行われ、江戸中期に虹梁を加え後方を内陣とする改造がなされました。柱は全て円柱とし、外観は正面及び両側面の中央を板塀とし、半蔀(はじとみ)を吊って、障子をたてます。
 室町時代の軸部を残し、慶長期の洗練された外観を持つ建築として、平成20年(2008)12月、国の重要文化財に指定されました。


蓮如堂

本堂への階段


 御影堂から硅灰石の岩屋の前を通り本堂へと向います。左手の観音堂の前に蓮如堂があります。真言のお寺に蓮如堂とは、何となく馴染まない感があります。以下は滋賀県教育委員会による説明書きです。

 蓮如堂は、寺蔵文書から淀殿による慶長期の境内復興の際に、三十八所権現社本殿の拝殿として建築された建物です。
 明治以降、蓮如上人六歳の御影や遺品を祀る堂として使用されていることから蓮如堂と呼ばれています。
 建物は、寺蔵文書や東妻破風板(はふいた)の墨書などから、慶長7年の建築で、その後、文化8年(1811)に桟瓦葺きに改造されています。
 この建物は、文書から神事のほか、仏事にも使用されていた非常にまれな建物です。
 懸造(かけづくり)で妻入りとし、入口に対抗する妻面を閉鎖的に扱い、さらに鎮守側の北側一間通を広縁とする礼拝空間を構成するなど、独特の平面構成を持つ建築として、寺院における鎮守拝殿の一類型として、建築史上からも極めて貴重な建築です。

 蓮如堂右手の石段を上ると本堂がどっしりと控えています。後ほど境内を一周して、本堂を下から見上げましたが、京都の清水寺と同じような舞台造りになっていました。以下石段の下に立つ、大津市教育委員会による説明書きです。

 石山寺本堂は、桁行7間、梁間4間、寄棟造(よせむねづくり)の本堂と、桁行9間、梁間4間、寄棟造で懸造(舞台造)の礼堂(らいどう)と、その両棟を結ぶ相(あい)の間によって構成される総檜皮葺(ひわだぶき)の建物です。
 石山寺の建立は古く、本堂は天平宝字5~6(761~2)にかけて造東大寺司(ぞうとうだいじし)によって拡張されたことが正倉院文書に見えます。その後、承暦2年(1078)に焼失し、永長元年(1096)に再建されたのが現在の本堂で、天平宝字頃のものとはほぼ同じ規模を持つ、滋賀県で最も古い建物です。礼堂と相の間は、慶長7年(1602)に淀君によって建て替えられました。
 昭和27年(1952)に国宝に指定されました。



石山寺本堂(三十八社より俯瞰)

御朱印


御本尊御影

 石山寺の本尊は如意輪観音です。参拝を終え納経所でご朱印を頂戴したところ、ご本尊を表わす“種子”は“タラク”になっています。先般参拝した三井寺の観音堂の本尊も如意輪観音でしたが、こちらの種子は“キリク”でした。そういえば、以前参拝した河内長野にある観心寺と延命寺の両寺とも、ご本尊は如意輪観音でしたが、種子は“キリク”でした。“タラク”といえば、四国霊場の太龍寺と最御崎寺は虚空蔵菩薩が本尊ですが、その種子は“タラク”でした。
 如意輪観音といってもいま一つピンときません。Wikipedia の力を借りて、ちょっと調べてみますと、「如意とは如意宝珠(チンターマニ)、輪とは法輪(チャクラ)の略で、如意宝珠の三昧(定)に住して意のままに説法し、六道の衆生の苦を抜き、世間・出世間の利益を与えることを本意とする。如意宝珠とは全ての願いを叶えるものであり、法輪は元来古代インドの武器であったチャクラムが転じて、煩悩を破壊する仏法の象徴となったものである。」とのことでしたが、ますます分からなくなった感があります。



 本堂の入口の右手にあるのが、かつて紫式部が籠って『源氏物語』を表わしたという「源氏の間」です。部屋の中には紫式部の人形が飾られています。


紫式部源氏の間


 この紫式部は、有職御人形司・十世伊東久重の手になるものです。以下は「源氏の間」の説明です。

 今を去る約千年の昔、寛弘元年八月十五夜、紫式部この部屋に參籠し、前方の金勝山よりさし昇る中秋の名月が、下の湖面に映える美しい景色に打たれ、構想の趣くまゝに筆を採られたのが有名な「源氏物語」であります。それから此の部屋を「紫式部源氏の間」と申すようになったのであります。

 伊東家は、明和4年(1767)に後桜町天皇より朝廷御用の御所人形司として「有職御人形司 伊東久重」の名を賜わり、寛政2年(1790)には、光格天皇より「十六菊花紋印」を拝領、代々その名と技を継承し、当代十二世に至っています。


紫式部の御所人形


 「平安時代寛弘元年(1004)紫式部は新しい物語を作るために石山寺に七日間の参籠をしていた。村上天皇皇女選子内親王がまだ読んだことがない珍しい物語を一条院の后上東門院に所望したが、手許に持合わせのなかった上東門院が女房の紫式部に命じて新作の物語を書かせようとしたので式部は祈念のため籠ったのである。折しも八月十五夜の月が琵琶湖に映えて、それを眺めていた式部の脳裏にひとつの物語の構想が浮び、とりあえず手近にあった大般若経の料紙に『今宵は十五夜なりけりと思し出でて、殿上の御遊恋ひしく…』と、ある流謫の貴人が都のことを想う場面を書き続けていった。源氏物語はこのように書き始められ、その部分は光源氏が須磨に流され十五夜の月の都での管絃の遊びを回想する場面として須磨巻に生かされることになった。」

 これは、石山寺のサイトの「源氏物語」の項より“源氏起筆”の部分の抜粋です。
 それでは、謡曲『源氏供養』の「次第・クリ・サシ」の部分を観賞しましょう。この後に源氏物語表白を詠み込んだ、長大な二段グセが続きます。


次第 地「夢のうちなる舞の袖。夢の中なる舞の袖。うつつに返すよしもがな
一セイ シテ花染衣はなぞめぎぬ色襲いろがさね  地「紫匂ふ。袂かな 〈イロエ〉
クリ シテ「それ無常むじやうと云つぱ。目の前なれども形もなし  地「一生夢の如し。たれあつて百年はくねんを送る。槿花きんくわ一日いちじつたゞ同じ
サシ シテ「ここにかずならぬ紫式部。頼みを懸けて石山寺。悲願ひぐわんを頼みこもり居て。この物語を筆に任す  地「されどもつひに供養をせざりしとがにより。妄執まうしふの雲も晴れ難し  シテ「今ひ難き縁に向つて  地「心中の所願しよぐわんおこし。一つの巻物に寫し。無明むみやうの眠りを覚ます。南無や光源氏の幽霊成等じやうたう正覚しやうがく



 石山寺で執筆活動にふける紫式部を詠んだ江戸川柳を少々。

  石山につくねんとしたうつくしさ  (柳多留 二・19)
  巡礼が来ると式部は筆を置き  (柳多留 六・9)
  いしいしをたべて明石へ書きかゝり  (柳多留 十一・34

 3句目の“いしいし”は団子の女房ことば。月見団子と石山寺の石をかけたものです。


 閑話休題。引き続き石山寺の境内の散策です。
 本堂の右手を上ると、国の重要文化財の三十八所権現社本殿が鎮座しています。以下は大津市教育委員会による説明書きです。

 石山寺は桃山時代に大規模な伽藍整備がなされており、本殿の建立は本堂の礼堂と同じく慶長7年(1602)になります。
 三方に刎高欄(はねこうらん)付きの榑縁(くれえん)を廻らし、正面には木階(もっかい)7級と浜床(はまゆか)を張ります。部材の保存状態は良好で、内陣内部を素木(しらき)とし、外陣(げじん)と外部は極彩色で彩られていたことがわかります。
 三十八所権現社として創建されており、真下に位置する蓮如堂は、元は三十八所権現社の拝殿として建立されたものです。
 蓮如堂と合わせて、寺院における鎮守社本殿および拝殿の構成や礼拝形式を伝える貴重な遺構として、平成20年12月、国の重要文化財に指定されました。


三十八所権現社

経蔵

 三十八社からさらに一段高くなったところに経蔵が建てられています。この経蔵も平成20年に重要文化財にしていされています。以下は滋賀県教育委員会に依る説明書きです。

 経蔵は高床の校倉でかつては国宝の淳祐内供筆聖教(しゅんにゅうないぐひつしょうぎょう)等を収蔵した建物です。
 建物は、頭貫木鼻(かしらぬきばな)の意匠や桁(けた)や垂木(たるき)に反り増しがあることなどから、桃山時代の16世紀後期頃の建立と考えられます。
 八角の束柱上を頭貫で繋ぎ、その上に台輪(だいわ)が乗り、校木(あぜき)は桁行・梁間方向とも同じ高さに十段組んでいます。台輪は木鼻の部分で矧(は)ぎ木をして一木のように見せています。
 県下における数少ない校倉造の遺構の一つで、また、全国的にも類例の少ない切妻造の校倉として、さらに、石山寺にとって重要な経典類が良好な状態で長く収納されてきた建築としても貴重です。

 経蔵の隣に、紫式部の供養塔と芭蕉の句碑が並んでいます。
 芭蕉の句碑には、「源氏の間を詠む」との詞書があって、

  あけぼのはまだむらさきにほととぎす


式部供養塔と芭蕉句碑

鐘楼


 ここから、さらに階段を上ると多宝塔などが建ち並ぶエリアとなりますが、右手に少し下ったところに、これも重要文化財に指定されている鐘楼があります。以下、大津市教育委員会の説明書きです。

 この鐘楼は桁行(けたゆき)3間、梁間(はりま)2間、重層で袴腰(はかまごし)を付け、屋根は入母屋造、檜皮葺となっています。昭和28年(1953)からの解体修理によってかなり復元され、袴腰は白漆喰壁に、棟は短くなって全体につりあいのとれた美しい姿になりました。
 縁下(えんした)と上層の軒下には三手先木組(みてさききぐみ)をもっていますが、とくに斜めに出る尾垂木(おたるき)のないのは、珍しい特徴です。
 源頼朝の寄進と伝えられていますが、様式や木材の風触から、鎌倉時代後期のものと考えられています。
 明治40年(1907)8月に重要文化財に指定されました。

 もとの階段を上って、多宝塔エリアにとやって参りました。


多宝塔

めかくし石


 多宝塔は国宝に指定されています。以下、大津市教育委員会の説明書きです。

 多宝塔は、下層が方形、上層が円形の平面に宝形造(ほうぎょうづくり)の屋根をのせた二重の塔です。石山寺多宝塔は建久5年(1194)に建立されたもので、多宝塔の中でも、最も優れて美しい姿をしており、上下左右の広がりがきわめて美しく洗練され、均斉のよくとれた建築です。
 また、内部の柱や天井の廻りなどの壁面には、仏像や草花などの極彩色の絵が描かれています。
 昭和26年(1951)に国宝に指定されました。

 多宝塔の本尊の大日如来坐像は、塔建立の建久5年に制作されたもので、典型的な鎌倉様式の風格を備えた彫像です。
 日本三大多宝塔としては、この多宝塔に加えて、高野山金剛三昧院、尾道市浄土寺が挙げられていますが、大阪府泉佐野市慈眼院や和歌山県海南市長保寺の多宝塔も国宝に指定されており、石山寺・金剛三昧院に続く三番手として、時おり名前を連ねることがあるようです。
 多宝塔の左手奥にあるのが「めかくし石」。平安時代のもので、目隠ししてこの石を完全に抱くと所願成就ということなのですが…。


源頼朝供養塔

宝筐印塔


 多宝塔の奥には、源頼朝と亀谷禅尼の供養塔といわれている宝筐印塔(ほうきょういんとう)があります。重要文化財に指定されており、以下は大津市教育委員会による説明書きです。

 この宝筐印塔は、多宝塔の西にあって、源頼朝と亀ヶ谷禅尼の供養塔といわれている内の一つです。
 宝筐印塔は中国の呉越王の銭弘叔が955年に金銅製の塔を作り、内部に宝筐印陀羅尼(だらに)を納めて諸国に配ったのがはじまりで、のち日本にも入ってきました。上から相輪、笠、塔身、基礎からなり、笠の四隅に花弁型隅飾(すみかざり)をもち、その上下が段型となっているのが最大の特徴です。
 この塔は、高さ128cmで、南北朝時代のものと推定されており、宝筐印塔の一典型示しています。
 昭和36年(1961)に重要文化財に指定されました。

 多宝塔の右手にも宝筐印塔があります。この塔の四方には、四国八十八霊場の砂が埋められており、この塔を廻ると八十八ヶ所を廻るのと同じ功徳があると言われているそうです。


月見亭

 多宝塔の東に瀬田川を見下ろすべく、少し飛び出したように建てられている月見亭は、江戸時代後期の貞保4年(1687)に建てられたとされています。もとは後白河上皇の行幸に際して建てられたといい、その後再建や修理を経て現在に至っています。はるかに琵琶湖を望みなが ら瀬田川の美しい風景を楽しむことができますが、元来、名前の通り月を眺めるのが目的で建てられたものです。中秋の名月の折などの近江八景の第一である「石山の秋月」は、さぞ見ごたえのある風情だと思われます。
 月見亭の隣には松尾芭蕉ゆかりの茶室「芭蕉庵」がありますが、公開されていませんでした。
 当寺の近くの石山寺郵便局の風景印には、この月見亭が描かれています。(印影は改称前の旧石山郵便局のもの)


石山寺の源氏の間に
月見亭と月を描いた
旧石山郵便局の風景印


 月見亭から裏山へのルートをたどります。なだらかな坂を上ると朱塗りの心経堂があります。寺の説明書きによけば、花山法皇が西国三十三観音霊場の中興一千年の記念事業として納められた心経写経を、永久に保存するために建立されたもので、堂の中央の台座に載せられた八角輪堂の一面には、如意輪観音半跏像が安置され、残りの七面には写経が収められている、とのことです。


心経堂

光堂


 さらに紫式部展が行われる(春・3月1日~6月30日、秋・9月1日~11月30日開催)豊浄殿の前を進むと、境内の一番奥まったあたりに、本堂と同じく舞台造の光堂(こうどう)があります。
 この光堂は、灌頂が行われる建物のようで、この平成20年に落慶した真新しい施設です。東レ株式会社の寄進により、古来の伝統的建築技法のままに、懸崖造(舞台造)で再建したものだそうです。
 光堂の下が源氏園。そこに紫式部の像がいかにも寒そうに横たわっていました。


紫式部像


 式部は手に筆を持ち、もの思いに耽っている様子です。石山寺で須磨・明石の巻から書きだしたと伝えられていますので、そのあたりの構想を練っているところでしょうか。
 それでは物語の各巻の名を詠みこんだ『源氏供養』のクセを以下に。


クセ「そもそも桐壷きりつぼの。夕べの煙速かに法性ほふしやうの空に至り。帚木ははきぎの夜の言の葉は終にかくじゆの花散りぬ。空蝉うつせみの。空しきこの世をいとひては。夕顔ゆふがほの。露の命を観じ。若紫わかむらさきの雲の迎へ末積花すゑつむはなうてなに坐せば。紅葉のの秋の。落葉らくえふもよしやたゞ。たまたま佛意に遇ひながら。榊葉さかきばのさして往生を願ふべし
シテ「花散る里に住むとても  地愛別離苦あいべつりくことわり免れ難き道とかや。たゞすべからくは。生死流浪の須磨の浦を出でゝ。四智しち圓明えんみやうの。明石の浦に澪標みをつくし。何時までもありなん。蓬生よもぎふの宿ながら。菩提の道を願ふべし。松風の吹くとても。業障ごふしやうの薄雲は。晴るゝ事更になし。秋の風消えずして。紫磨しま忍辱にんにく藤袴ふぢばかま上品じやうぼん蓮臺れんだいに。心を懸けて誠ある。七寶しちほう荘厳しやうごんの。真木柱まきばしらのもとに行かん。梅が枝の。匂ひに映る我が心。藤の裏葉に置く露の。その玉鬘たまかづらかけ暫し朝顔の光頼まれず
シテあしたには栴檀せんだんの蔭に宿木やどりぎ名も高き  地官位つかさくらゐを。東屋あづまやの内に籠めて。楽しみ栄えを浮舟うきふねに喩ふべしとかやこれも蜻蛉かげろふの身なるべし。夢の浮橋うきはしをうち渡り。身の来迎を願ふべし。南無や西方弥陀みだ如来によらい狂言きやうげん綺語きごを.ふり捨てゝ紫式部が後の世を。たすけ給へと諸共に。鐘打ち鳴らして回向ゑかうも既に終りぬ



 紫式部に別れ、源氏園を下って行きますと「無憂園」に至ります。
 琵琶湖をかたどった池や滝からなる回遊式庭園「無憂園」では、季節ともなれば、春に桜や山ツツジが咲き乱れ、初夏には花菖蒲が多種多様な花を咲かせるとのことですが、この時期は切り株のみの殺風景なものとなっていました。


無憂園(その1)

無憂園(その2)


 道際に「補陀洛山」と刻された大きな石標がありました。ここから山道を登って行くと、その先には西国三十三所観音霊場のそれぞれのご本尊の石仏が、ゆるやかな山の斜面を蛇行する山道(参道)沿いに点々と配置されています。
 境内を一周して本堂の下まで帰ってきました。本堂は舞台造になっているとのことでしたが、ここから見上げると、清水の舞台さながらの構造をはっきりと望むことができました。また本堂の下には池があり、そのほとりに朱塗りの閼伽井屋があります。ここで汲んだ水をご本尊に御供えするのでしょう。


ミニ西国霊場補陀落山

閼伽井屋


 さすがに大寺だけあって、境内の散策にはかなりの時間を要しました。40年ほど以前、まだ幼かった娘たちを連れて、当寺の梅園に遊んだことがありました。私の謡蹟訪問は、何故か時期外れとなることが多く、今回もあと三ヶ月ばかり遅くお参りすれば、咲き競う梅の花を見ることができたでしょう。何ともうまく時期を外すものだと、我ながらあきれはてたる有様ではありました。
 花の観賞はさておき、紫式部の供養がどこまで出来たか疑問ですが、『源氏供養』のキリを謡いながら、石山寺とお別れです。


キリ「よくよく物をあんずるに。よくよく物を案ずるに。紫式部と申すはかの石山のくわんおんかりにこの世に現れて。かゝる源氏の物語。これも思へば夢の世と。人に知らせんはう便べんげにありがたきちかひかな。思へば夢の浮橋うきはしも。夢のあひだの言葉なり夢の間の言葉なり




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  (平成26年12月24日・探訪)
(平成27年 3月16日・記述)


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