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大阪・四天王寺 〈弱法師〉


 四天王寺はJR天王寺駅より北へ約10分、地下鉄谷町線・四天王寺夕陽ヶ丘駅からは南に数分のところにあります。2015年6月19日、『弱法師』(謡曲の世界では“よろぼし”と読みます)の謡蹟である当寺に参拝いたしました。当地は身近なところにありながら、未訪問の謡蹟のひとつです。JR天王寺駅から参道を経て、四天王寺病院の交差点を渡ると、右手に石の鳥居がその姿を現します。鳥居は神社の象徴のように思っておりましたが、まれに鳥居のある寺院もあるようです。神仏混淆の名残なのでしょうか。


シテ 一セイ出入いでいりの。月を見ざれば明暮あけくれの。夜の境を。えぞ知らぬ  二ノ句難波なにはの海の底ひなく。深き思ひを。人や知る
サシ「それ鴛鴦えんあうふすまの下には。立ち去る思ひを悲しみ。比目ひぼくの枕の上には波を隔つる愁ひあり。いはんや心ありがほなる。人間有為うゐの身となりて。年月としつきの流れては。妹背いもせの山の中に落つる。吉野の川のよしや世と思ひも果てぬ心かな。淺ましや前世ぜんぜに誰をかいとひけん。今また人の讒言ざんげんにより。不孝ふかうの罪に沈む故。思ひのなんだかき曇り。盲目とさへなり果てゝ。しやうをもかへぬ。この世より。中有ちううの道に。迷ふなり。
下歌「もとよりも心のやみはありぬべし
上歌つたへ聞く。かの一行いちぎやうくわの旅。かの一行の果羅の旅。闇穴道あんけつだうちまたにも。九曜くやう曼荼羅まんだら光明くわうみやう赫奕かくやくとして行末を.照らし給ひけるとかや。今も末世まつせと云ひながら。さすが名に負ふこの寺の。佛法最初の天王寺の石の鳥居此處ここなれや。立ち寄りてをがまんいざ立ち寄りて拝まん


《四天王寺》  大阪市天王寺区四天王寺1-11-18

 四天王寺は、『日本書紀』によれば推古天皇元年(593年)の創健で、聖徳太子建立七大寺の一つとされています。本邦最初の官寺で、本尊は救世観音菩薩(ぐぜかんぜおんぼさつ)。当寺周辺の区名、駅名などに使われている「天王寺」は四天王寺の略称です。


石の鳥居

 石の鳥居は寺の西門の門前にあり、鳥居の右手前には、大きく「大日本佛法最初四天王寺」と刻された石柱が建てられています。以下は“石の鳥居”の説明です。

 建立当初は木造であったが、永仁2年(1294)忍性律師により石造(花崗岩)に改められた。吉野・金峯山の銅の鳥居、宮島・厳島神社の大鳥居と並んで、日本三鳥居の一つとされる。
 過去に幾多の地震や災害による被災・修理の記録があり、近年では平成7年の阪神大震災の後に、ひび・傾きが認められたため、平成9年に半解体修理を実施している。この際、島木を包む銅板の中から、永正・寛文年間などの写経・毛髪・経木が多数確認された。
 鳥居の上部中央に高さ1.5m、幅1.1メートルの「釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心」という文字が書かれたブロンズの扁額を掲げる。文字は弘法大師、小野道風の筆ともいわれる。
 春分・秋分の両彼岸の中日の日暮れ時には、太陽が丁度この鳥居の中心にかかり、ついに西の海に入るので、弘法大師や法然上人など高僧がここで日想観を修したという。日本浄土思想の発祥の地といわれており、西方浄土信仰のシンボルとして、遙か彼方の極楽浄土に想いを馳せ、自らも往生すべく鳥居越しに沈む夕陽を拝むという信仰が今日まで続いている。

 扁額の文字は「釈迦如来が法輪を転じ給う処、まさに極楽浄土の東門の中心たるべし」といった意味なのでしょうか。


石の鳥居の扁額

引導石


 鳥居をくぐったところに「引導石」があります。この引導石は、転法輪石(金堂前)・伊勢神宮遥拝石(東門内)・熊野権現礼拝石(南門内)と併せて、四天王寺四石の一つに数えられています。古記録によれば、葬送の時に棺を引導石の前に置き、無常院(北引導鐘堂)の鐘を三度鳴らすと、太子がこの石に影向されて亡魂を極楽浄土にお導きくたさるという伝承があり、太子信仰と浄土信仰を結ぶ重要な霊跡となっているそうです。
 引導石と隣接して「聖徳太子影向引導五輪宝塔」があります。その昔、引導石の上に太子が影向された、との古記録に基づき建立されたもので、宝塔中央には太子の尊像を安置しています。


聖徳太子影向引導五輪宝塔

見真堂前に立つ謡曲史蹟保存会の駒札

 石の鳥居から西大門(極楽門)への参道の左手に見真堂があります。浄土真宗の祖である親鸞聖人(見真大師)を顕彰し、建立されたお堂です。本尊を阿弥陀如来とし、向かって右に聖徳太子像、左に六字名号の掛け軸が祀ってあります。また堂の右手には親鸞聖人の立像が建てられています。
 見真堂の前に“謡曲「弱法師」と石の鳥居”と題して、謡曲史蹟保存会の駒札があります。

 謡曲「弱法師」は、罪のないのに家を追われた少年俊徳丸が、天王寺の境内をよろめき歩くので“弱法師”と呼ばれていたが、自分の非を悟った父親と再会、この少年は天王寺の救世観音を信じて悟りの世界にあったので、日想観を拝むと感激して心にうつる津々浦々の風光をほめて舞う。夜も更けて父とともに高安に帰るという物語で、四天王寺の縁起も説かれ、風雅で興趣を感ずる曲である。
 聖徳太子建立の当寺の西門は極楽浄土の東門に当るといわれ、石造りの明神型鳥居は永仁2年(1294)忍性上人の再建によるもので、彼岸には落日を拝し極楽浄土を思う日想観の修行がなされた。世にいう“天王寺さんのお浄土参り”として名高い。

 それでは、西大門を入る前に、謡曲『弱法師』について、考察いたしましょう。


   謡曲「弱法師」梗概
 観世十郎元雅の作。四天王寺建立の由来を語るクリ・サシおよびクセの冒頭部分が、作者名を記さずに世阿弥『五音』に記載されているので、クリ・サシ・クセは世阿弥作の独立した曲舞謡を、元雅が本曲に取り入れたものと考えられている。
 人の讒言により、わが子俊徳丸を追いやった高安の通俊〈ワキ〉は、従者(アイ)を伴い四天王寺で七日間の施行を行う。梅の盛りの境内で、弱法師と呼ばれる盲目の少年俊徳丸(シテ)が進み出て、施行を受ける。俊徳丸は四天王寺の由来を語る。道俊はこの少年がわが子と気付く。俊徳丸は日没を拝み、難波から見る景色を心に思い描く。夜が更けたころ、通俊は父であることを名のり、二人は高安の里に帰ってゆく。
 世阿弥自筆本によれば、古くは俊徳丸の妻や四天王寺の住僧が登場していたが、登場人物をシテ中心に焦点を絞って整理した結果、現行の演出となったものである。ちなみに自筆本による役割は以下のようである。(「横道萬里雄・表章『日本古典文學大系・謡曲集』岩波書店、1960」による)

  シテ    俊徳丸
  ツレ    俊徳丸の妻
  ツレ    高安の通俊〈ワキツレ又はアイにも〉
  ワキ    天王寺の住僧
  ワキツレ  随行の僧
  アイ    寺近くの男

 世阿弥本による上演は、1991年・橋の会、浅井真州(まさくに)(通俊をワキ、住僧をワキツレ)により、翌年には能劇の座、梅若六郎(通俊はアイ)により行われている。2003年には観世文庫自主公演で、シテ俊徳丸・観世清和、ツレ俊徳の妻・関根祥六、ワキ住僧・森常好、アイ通俊・山本東次郎で上演されている。


 大成版一番本の[資材]に記されていますが、『太平記』の巻第五「相模入道弄田楽幷闘犬事」には、「天王寺ノヤヨウレボシヲ見バヤ」なる記事があり、吉田東吾博士は「執権北条高塒の時代に“田楽ヨウレボシ(弱法師)の狂”が存し、“後に親子の再開などの情事を付加した謡曲”が『弱法師』である」と考察されました。
 『観世』掲載の小林健二博士による『弱法師』の作品研究(「観世」2005年1月号)では、《弱法師》の素材としては〈クナラ太子譚〉が重なるところが多いとされています。〈クナラ太子譚〉は『今昔物語集』第四「拘拏羅太子抉眼依法力得眼語第四」にある物語です。長文になりますので以下にその要約を記しています。この「
今昔物語集・原文」をクリックすると、〈クナラ太子譚〉の原文が別窓で開きます。

 天竺阿育(アショカ)王の太子拘拏羅(くなら)は継母により父王に讒言される。父は太子を庇って遠国に送ったが、継母は王の印証を奪い、太子の両眼を抉り取り国外に追放せよとの偽宣旨を下した。両眼を抉り捨てた太子は、妻を連れて流浪の身となるが、偶然に王宮へ迷い来て琴を弾く。その音を聞いた王は太子のなれの果てであると気づき、名乗って事の真相を知る。王は簍沙(クシヤ)大羅漢に太子の眼の回復を願い、羅漢は十二因縁の説法を行い、再び光を得ることができた。

 世阿弥自筆本の『弱法師』では、讒言により父に放逐され、盲目となった俊徳丸が妻とさすらいながら、最後には父と再会する、というストーリーであるが、上記のクナラ太子譚と似通った点が多分に見い 出すことができます。
 以下は小林健二博士の仮定に基づいています。すなわち「仏法を説いて衆生を導く、いわゆる唱導説話が、物狂い能の淵源にあったことが明らかにされつつある。唱導の場で語られていたクナラ太子譚が、河内の高安長者譚と結びついて『弱法師』の素材となった話へと形成されていったのであろう。その話と天王寺を拠り所とするヨロボシという盲目の乞食芸能者を結びつけたところに、元雅の一曲の構想があったのである。素材となったクナラ太子譚では太子は最後には開眼し、ハッピーエンドで終わるのだが、『弱法師』の俊徳丸の眼は劇中で開くことはない。ここに『隅田川』で捜し求めていたわが子は死んでいた、とする結末と似たものを感じる。元雅は、宗教的な題材に拠りながらも、極めて現実的な眼差しで作劇しているのである。」

 それでは、素材のひとつである『太平記』の巻第五「相模入道弄田楽幷闘犬事」を以下に抄録します。


イヅクヨリキタルトモ知ラヌ、新座シンザ本座ホンザの田樂共十餘人、忽然コツゼントシテ坐席ニツラナリテゾ舞歌マヒウタヒケル。其キヨウハナハダ尋常ヨノツネニ越タリ。シバラク有テ拍子ヲ替テ歌フ聲ヲ聞ケバ、「天王寺ノヤヨウレボシヲ見バヤ。」トゾ拍子ハヤシケル。
(中略)
後日ニ南家ナンケノ儒者刑部少輔ギヤウブノセウ仲範ナカノリコノ事ヲ傳聞ツタヘキキテ、「天下將乱マサニミダレントスル時、妖霊星エウレイボシイフ悪星アクシヤウクダツテ災ヲ成ストイヘリ。シカモ天王寺ハコレ佛法最初ノ霊地ニテ、聖徳太子ミヅカラ日本一州ノ未來記ミライキトドメ給ヘリ。サレバカノ媚者バケモノガ天王寺ノ妖霊星ト歌ヒケルコソアヤシケレ。(後略)


 ちなみに相模入道は時の執権北条高塒、南家は藤原北家に対する南家で、藤原武智麻呂の子孫。
 上述一番本の[資材]では「従来“えうれぼし”を妖霊星と解していたのは、吉田東伍博士が訂正した通り、“弱法師”の訛誤であろうと思われるから、田楽には早くからこれを題材にした曲があって、本曲の作者は更に其処から資材を獲たものではないかと思う。尤もこうした巷説が古くからあって、田楽の曲もまた本曲も、ともにそれに拠ったのだとも考えられ得るのである。」と述べられています。
 吉川英治『私本太平記』は上記の説に拠っているものと思われます、新婚の足利高氏が執権高塒に招かれた祝賀の席で、“天王寺の弱法師”なる田楽が舞われます。この“天王寺の弱法師”が古来伝えられたものか、あるいは作者の独創になるものなのでしょうか…。


おそらく高氏自身の大酒の酔も、このとき、その極に達していたのだろう。突として彼の口から、田楽歌の“弱法師(よろぼふし)”がよろよろ歌われ出していた。
   ──天王寺の弱法師
   よろぼふし
   夜々の通ひは何方(いづかた)
   知るまじとて
   木々は知る 露は知る
   如法暗夜(によほふあんや)にも一眼あり
   鞍馬おろしも誘ふ
   魔界外道の谷はここ……
 ふと、うつつに返ってか、高塒もすぐ日ごろ好む田楽歌の節に誘われ出していた。
 (中略)
 すると、生ける心地もなく隠れていた田楽役者たちも、そこかしこから「……おおうい」と、一せいに応えて躍り立ち、華雲殿の屋の棟も動くかのような妖しい諸声(もろごえ)を茲に揺り起した。
   妖霊星(えうれいぼし) えうれいぼし
   天王寺の
   えうれいぼし
 これは、ひとり高氏だけの耳に、こう聞こえていたのである。弱法師と歌っている合唱が、妖霊星、妖霊星と。


 宗教性と娯楽性をあわせもつ語り物である“説教節”にも「しんとく丸」があり、能の『弱法師』ともども後世に影響を与えたようです。以下に説教節「しんとく丸」の概要を記します。(“石橋健一郎「『弱法師』と『摂州合邦辻』」「観世」2005年2月号”などを参照。)

 河内国高安郡の信吉(のぶよし)長者とその妻は、前世に犯した罪のために子宝に恵まれなかった。夫婦は京都清水の観世音に子授けを願い、生まれた子が7歳(あるいは3歳とも)になるまでに、夫婦どちらかの命をとるという条件で、男の子を授かり、しんとく丸〈信徳丸・真徳丸・新徳丸など〉と名付けた。しんとく丸は、聖徳太子の命日に営まれる天王寺の聖霊会(しょうりょうえ)で稚児舞を勤めた折、客席にいた和泉国近木の庄(こぎのしょう)の蔭山長者の娘・乙姫を見初め文を取り交わして結婚の約束を取りつけた。そんなときにしんとく丸の母が亡くなり、父の信吉は後妻を迎えるが、実子二郎が生まれると、後妻はしんとく丸を疎み、清水観音に呪詛して悪病・盲目の身とした上で、天王寺に捨てさせた。
 一方、しんとく丸と文を取り交わしていた乙姫は、彼の苦難を知り天王寺の引声堂(いんせいどう)でしんとく丸を尋ね当てる。そして、ともに清水観音に詣でて平癒の祈願をしたところ、観音の夢の告げにより病いは快癒した。一方、信吉長者は盲目となり零落するが、しんとく丸は自らを治癒した方法で父の目を治し、継母と二郎は処刑される。

 以上のように説教節の「しんとく丸」は、観音菩薩の申し子である貴種が、継母の憎悪による受難の末、恋人の愛と観音の慈悲により救われるという物語です。
 さらに、弱法師伝説を受け継いだ近世芸能には、歌舞伎や人形浄瑠璃に『摂州合邦辻(せっしゅうがっぽうがつじ)』という作品があり、また落語に『弱法師』という作品もあるようです。これらは参考として末尾に掲載いたします。また折口信夫に、『弱法師』の主人公である俊徳丸を扱った『身毒丸』という短編があるそうですが、まだ読んだことがありません。
 このような「弱法師」のルーツを探ってみると、とても興味深いものがありそうです。以上、『弱法師』の“資材”について検討いたしましたが、ここで私なりに整理をしてみたいと思います。
 まず四天王寺には施薬院のような施設が設けられ、多くの病人や盲人などが居住していたと考えられます。そこから『太平記』に記されている田楽の「ヨロボウシ」が謡われるようになります。一方、河内の高安の長者伝承から派生した説教節「しんとく丸」が成立、これらに『今昔物語』にある「クナラ太子譚」が総合されて(あるいは「クナラ太子譚」は説教節「しんとく丸」の成立の一要因であったかも知れません)、能『弱法師』の原型のようなものがが成立したのではないでしょうか。それが元雅の手により集大成されたとは考えられないでしょうか。
 先人の遺された資料をもとに、『弱法師』のルーツについて推察してみました。素人考えながら、否素人考えであるからこそ、楽しめるものがあろうかと思います。東大阪市には「俊徳道」の名が近鉄やJRの駅名として残されており、俊徳丸の出身地である高安の里近く、八尾市山畑地区には“俊徳丸鏡塚”があるそうです。このあたりも機会があれば訪れてみたいと考えています。

四天王寺境内地図


 それでは、参拝かたがた四天王寺の境内を散策いたしましょう。(境内の諸堂の解説は、当寺のサイト、パンフレットおよび『週刊 古寺を巡る 四天王寺』(小学館、2007) 等を参照しています。)


西大門(極楽門)

 石の鳥居から参道に沿って西大門に進みます。以下は当寺の公式サイトの解説です。

 推古元年創建。昭和37年、松下幸之助氏の寄贈により再建された西大門は、極楽に通ずる門の意味から、通称 極楽門と呼ばれている。
 門の内部には番浦省吾作の釈迦如来十大弟子、武庫山(ぶこさん)出現の山越阿弥陀如来、観音製紙菩薩の画像が描かれています。門柱に転法輪があり、参詣者はこれを回転させ、直接法門に触れることにより、洗心の功徳を積むことができる。また、転法輪とは、釈迦如来の説法が過去現在未来と無限に続くことを表しており、仏足石・菩提樹と並んで、仏陀(悟れるもの)の象徴とされている。

 西大門を入ると広々とした境内が広がり、正面に中心伽藍の西重門があります。300円の拝観料を支払って、伽藍の内部へと入ります。


中心伽藍拝観券


 当寺の伽藍配置は“四天王寺式伽藍配置”とよばれ、南大門・中門・塔・金堂・講堂がすべて一直線に並んで建てられています。古代の寺院にはこうした伽藍配置を採用したものが多くありますが、当寺が最も古い創建伝承をもっているため“四天王寺式”と名付けられたようです。寺院建築の代表的な様式の一つとされています。



金堂

金堂御朱印


 推古天皇元年(593)聖徳太子の創建以来、度重なる戦果天才により伽藍は消失しましたが、その都度再建を重ね、現在の金堂は昭和36年に再建されました。堂内には本尊の救世観音菩薩半跏像を中心に、四方には四天王立像が並んでいます。
 創健間もないころの四天王寺は、その名の通り持国天・増長天・広目天・多聞天の四天王を本尊としていたようです。7世紀後半、天智天皇が亡母の斉明天皇のために五重塔内に四天王像を造立し、同時に金堂に弥勒菩薩像を奉安した記録があり、この頃から弥勒菩薩が本尊になったと思われます。
 その後、弥勒菩薩として9世紀頃まで奉祀された金堂の本尊が、聖徳太子観音化身説の高まりを背景に、太子信仰と結びつき、太子の本地仏である救世観音とよびならわされるにいたった。また平安時代に編纂された図像集『別尊雑記』には、本尊の図柄が、金銅半跏仏の形式で示され「聖如意輪云々」と記載されているようです。この聖如意輪観音も太子の本地仏です。
 基壇下の青竜池より、白石玉出の清水が湧いており、この水を亀井堂に引いているといわれています。

 謡曲のクリ・サシ・クセに、当寺の縁起が謡われています。


クリ「それ佛日ぶつにち西天さいてんの雲に隱れ。慈尊じそんの出世遥かに。三會さんねあかつき。未だなり
シテ サシ「然るにこの中間ちうげんに於いて。なにと心を延ばへまし  地「ここによつて上宮じやうぐう太子たいし。國家をあらた萬民ばんみんを教へ。佛法流布るふの世となりて。あまねく惠みをひろめ給ふ  シテ「然れば當寺を御建立ごこんりふあつて  地「始めて僧尼そうにの姿を現し。四天王寺と。名づけ給ふ
クセ金堂こんだう御本尊ごほぞんは。如意輪によいりんの佛像。救世ぐせ観音くわんのんとも申すとか。太子の御前生ごぜんじやうしんだんこく思禅師しぜんじにて。渡らせ給ふ故なり。出離しゆつりの佛像に應じつゝ。いま日域にちいきに至るまで。佛法最初の御本尊と。現れ給ふ御威光おんいくわうの。まことなるかなや末世相應まつせさうおう御誓おんちかひ。然るに當寺の佛閣の。御造みつくりの品々も。赤栴檀しやくせんだんの霊木にて。塔婆たふば金寶きんぽうに至るまで。閻浮檀金えんぶだごんなるとかや
シテ萬代よろづよに。澄める龜井かめゐの水までも  地水上みなかみ清き西天さいてんの。無熱地むねつちの。池水ちすゐを受け継ぎて。流れ久しき代々よよまでも五濁ごぢよくの人間を導きて。済度さいどの船をも寄するなる。難波の寺の鐘の聲。異浦々ことうらうらに響き来て。あまねき誓ひ滿潮みちじほの。おし照る海山も皆成佛の姿なり


 現在の五重塔は昭和38年、8度目の再建になるとのことで、鉄骨鉄筋コンクリート造りになっていますが、飛鳥時代の創建当時の姿を再建したものです。以下は当寺のサイトによる説明です。

 聖徳太子創建の時、六道利救の悲願を込めて、塔の礎石心柱の中に仏舎利六粒と自らの髻髪(きっぱつ)六毛を納められたので、この塔を「六道利救の塔」といいます。塔の入口は南北にありますが、通常開放しているのは北側のみで、南正面に釈迦三尊の壁画と四天王の木像をお祀りしています。なお、この中心壁と外壁の各面に描かれた仏画は山下摩起画伯の筆によるものです。


五重塔


 五重塔は内部の参観がが可能になっています。狭い階段を最上階まで登ると、周りの景色が見渡せます。西側の極楽門が眼下に見下ろせます。塔内は撮影禁止とされていますが、外部を撮るのは支障なかろうと、記念の1枚を。


五重塔入口

最上階より極楽門を望む

 内部の回廊を廻って南端の中門に。下に掲げるのは、後刻外部より撮影した写真です。仁王像の東側が那羅延金剛力士、西側が密迹金剛力士で、大仏師松久朋琳・宗琳両師の作とのこと。


仁王像(吽形)

中心伽藍中門(南大門より撮影)

仁王像(阿形)


 回廊を巡り西重門より退場、伽藍の外部のお参りです。

 極楽門の北、休憩所の手前に“義経鎧掛け松”があります。
 文治元年(1185)、頼朝と不和になった義経は京を逃れ、大物浦から西国に向かおうとしますが船が難破、和泉国に流れ着きます。ここから吉野山に逃れる途中、追っ手を逃れ四天王寺で休息した時に松の木に鎧を掛けたという伝承があるようです。義経は至るところで松の木に縁があるようですね。


義経よろい掛け松

北引導鐘楼


 六時堂の手前、中央伽藍の北西の角に“北引導鐘堂(北鐘堂)”があります。
 正式には、黄鐘楼(おうしょうろう)といいます。北の引導鐘・鐘つき堂とも呼ばれ、この鐘の音は遠く極楽までも響くといわれ、先祖供養のための鐘の音が絶えません。春秋の彼岸にはお参りの人でごったがえすとのことです。


仏足石

丸池


 六時堂の西側に丸い形をした池があります。俗に“丸池”とか“鏡の池”と呼ばれています。旱魃のおりでも池の水が涸れることはないといわれ、往古より雨乞いの際にはこの池の聖水を用いて祈祷していたそうです。
 池の西には仏足石と釈迦如来像が祀られ、参拝者は池の東側(此岸)から西の方角を向いて、極楽浄土(彼岸)を観想し、池越しに拝むのが古来よりの習わしであったとのこと。


石舞台(後方は六時堂)

亀の池


 六時堂の南に亀ノ池があり、池の中央に南北に架かる石橋上に、重要文化財に指定されている石舞台があり、「聖霊会」の舞台となっています。
 この石舞台は、住吉大社の石舞台、厳島神社の平舞台とともに「日本三大舞台」の一つとされています。文化5年(1808)に大阪の材木問屋の寄進により建造され、欄干には「舞台講」の文字が刻まれています。
 東西の亀ノ池では、亀がびっしりと日向ぼっこをしておりました。



六時礼賛堂

六時堂御朱印


 中心伽藍の北側、石舞台の正面に六時礼賛堂が建てられています。昼夜6度にわたって諸仏礼賛の修業をすることが、その名の由来となったようです。最初の堂宇は弘仁7年(816)に最澄によって創建されたと伝えられ、比叡山の根本中堂を模した様式だったといわれています。現在の堂宇は元和9年(1623)に徳川秀忠が建立した椎寺薬師堂を、文化8年(1811)に移築したものです。扁額の「六時礼賛堂」の文字は、天台座主242世吉田源應大僧正の揮毫。
 内陣は、厨子内に本尊の薬師如来坐像を、その両側に四天王像と、羅睺星(らごせい)像、計都星(けいとせい)像を安置しています。



 亀の池の東、中央伽藍の東北角に亀井堂があります。亀井堂は戦火で焼失後、昭和30年に再建されました。文献上の初見は平安時代中期ですが、創健当時から存在したという伝承があるようです。堂内には、その昔聖徳太子が井戸にお姿を映され、楊枝で自画像を描かれたという楊枝の御影が安置されています。
 亀井堂の霊水は金堂の地下より湧き出る白石玉出の水であり、 回向(供養)を済ませた経木を流せば極楽往生が叶うといわれています。謡曲のクセのアゲハで「萬代に。澄める龜井の水までも」と謡われている“亀井の水”は、この水をいうのでしょうか。


亀井堂

番匠堂


 伽藍の回廊の東重門のところにあるのが「番匠堂」です。以下は当寺による説明書きです。

 この御堂は日本における大工技術の始祖として番匠(大工)たちから尊敬されている聖徳太子を祀る。曲尺(かねじゃく)を携えたそのお姿より、世に曲尺太子といわれている。
 四天王寺は推古天皇元年(593)に、聖徳太子が鎮護国家・済世利民の御誓願により創建され、その際伽藍建立にあたっては百済より最新の番匠の技術を招来された。
 また、聖徳太子は七堂伽藍の建立には、やむをえず大地の大地の産物の命を絶ってしまうので、金槌・鋸・錐などに仏性を入れて、番匠器(大工道具)で「南無阿弥陀佛」の名号を書かれ、大工の工事安全と伽藍の無事建立を祈ったと伝えられている。
 文化国家日本の先駆けとなった四天王寺伽藍の建立は、聖徳太子並びに番匠の人々の叡智とたゆまぬ努力の賜物であり、その偉業を顕彰し、併せてあらゆる建築にたずさわる人々の守護の為、ここに番匠堂を建立するものである。


聖霊院(太子殿)

南鐘堂


 聖霊殿は聖徳太子の没後鎮魂のために建立されたもので、前殿(拝殿)と奥殿から構成されています。前殿には十六歳像・太子二歳像・四天王が、奥殿には太子49歳の聖徳太子摂政像(1月22日のみ公開の秘仏)が祀られています。毎年2月22日の「太子二歳まいり」では、太子の知恵にあやかるべく、2歳前後のお子たちを連れたご家族で賑わいます。
 中心伽藍の東南角にある南鐘楼の正式名称は、鯨鐘楼(げいしょうろう)といいます。


南大門

熊野権現礼拝石


 中心伽藍のの堂宇と一直線の一にある南大門は、昭和60年11月に再建されたものです。南大門の内側には熊野権現礼拝石が玉垣内に鎮座しています。往古より熊野詣にはまずこの場所にて熊野を遥拝し、道中の安全を祈り、熊野街道を南へと向かったと言われています。
 南大門正面より真南に向かう道は庚申街道といわれ、すぐ近くに庚申信仰発祥地である四天王寺庚申堂があり、庚申の日とその前日には多くの参詣者で賑わっています。


万燈院

阿弥陀堂


 万燈院と阿弥陀堂は中心伽藍の南西角にあります。
 紙衣仏(かみこぶつ)をお祀りしているため紙衣堂ともいいます。紙の衣を着て修業した羅漢さんを形どったこの仏さんは病気回復に功徳があるといわれ、毎年10月10日の衣替え法要は多くの信者さんで賑わいます。
 紙衣法要では1年間紙衣仏が着ていた紙衣を背中に当て、お加持します。これを3年続けると病気になっても、また、臨終の時でも不浄の世話を人にかけないといわれています。願い事の書かれた護摩木を焚き、太鼓を鳴らしての祈祷が行われます。入口に木槌と木臼があり、痛い所をさすると治るといわれています。
 阿弥陀堂の本堂は、昭和28年に四天王寺末寺の三重県国束寺(くずかじ)の本堂を移築したものです。本堂西側のお堂は、納骨総祭塔に納骨されるお骨を仮安置する納骨堂です。法然上人二十五霊場の札所となっています。


法然上人立像

大師堂


 納骨堂の西側に法然上人の立像があります。台座の歌は、
  月影の至ぬ里はなけれども ながむる人の心にぞすむ  法然

 極楽門の並びに大師堂と弘法大師の立像が祀られています。弘法大師は若き日、西門で日想観を修業されたといわれています。
像のまわりに敷きつめられた砂は、四国八十八ヶ所霊場のお砂を集めたもので、このお砂踏み場にお参りすれば、四国霊場にお参りした効果があるそうです。


 境内を一回りして、再び極楽門に帰ってきました。石の鳥居の扁額にもありましたように、この地は極楽浄土の東門の中心といわれ、日想観の聖地でありました。
 “日想観”とは…?。一番本の辞解によれば「観無料壽経に説かれた、極楽浄土を観念する十六観法の第一。西向きに正座し、日没の相状を観て、西方浄土を想観すること」ということなのですが、よく分かっていません。『弱法師』における“日想観”を、謡曲の詞章から眺めてみましょう。


ワキ「やあいかに日想觀じつさうくわんを拜み候へ  シテ「げにげに日想観の時節じせつなるべし。盲目なれば其方そなたとばかり。心あてなる日に向ひて。東門とうもんを拜み南無阿弥陀佛なむあみだぶ  ワキ「なに東門とははれなや。此處ここ西門さいもん石の鳥居よ  シテ「あら愚かや天王寺の。西門を出でゝ極樂の。東門に向ふは僻事ひがこと  ワキ「げにげにさぞと難波なにはの寺の。西門を出づる石の鳥居  シテ阿字門あじもんに入つて  ワキ「阿字門を出づる  シテ弥陀みだ御國みくに  ワキ「極樂の  シテ 一セイ「東門に。向ふ難波の西の海  地入日いりひの蔭も。舞ふとかや

シテ「あら面白や我盲目まうもくとならざりしさきは。弱法師よろぼしが常に見馴れし境界きやうがいなれば。何疑ひも難波江に。江月かうげつ照らし松風しようふう吹き。永夜えいや清宵せいせう何のなす所ぞや 〈イロエ〉
シテ ワカ住吉すみよしの松のひまより。眺むれば  地「月落ちかゝる。淡路島山あはぢしまやま  シテながめしは月影の  地「詠めしは月影の。いまは入日いりひや落ちかゝるらん。日想観じつさうくわんなればくもりも波の。淡路絵島えじま。須磨明石。紀の浦までも。見えたり見えたり。滿目青山ばんぼくせいざんは。心にあり  シテ「おう。見るぞとよ見るぞとよ


「さて難波の浦の致景ちけい数々かずかず  シテ「南はさこそと夕波の。住吉すみよしの松影  地ひがしかたは時を得て  シテ「春の緑の草香山くさかやま  地「北は何處いづく  シテ「難波なる  地長柄ながらの橋のいたづらに彼方かなた此方こなたありく程に。盲目の悲しさは。貴賤きせんの人に行き逢ひの。まろただよひ難波江の。足もとはよろよろと。げにもまこと弱法師よろぼしとて。人は笑ひ給ふぞや。思へば恥ずかしやな今は狂ひ候はじ今よりは更に狂はじ


 俊徳丸は彼岸の中日である“時正の日”に、“日想観”を修します。まず西方を向き膝をついて合掌し、“東門”を拝み「南無阿弥陀仏」と唱えます。それを聞いた通俊は、ここは天王寺の“西門”なのに“東門”というのは間違いではないかと咎めます。俊徳丸は「天王寺の西門を出て極楽の東門に向かうのだ、これが間違いであろうか」と応えるのです。つまり天王寺の“西門”は実は極楽の“東門”に向かっているというわけです。
 弱法師の俊徳丸は、天王寺の西門から入り日を拝み、淡路・絵島・須磨・明石、紀の海までをもその心眼でとらえ、恍惚となって歩き廻ります。そのよろよろとした歩きぶりを人は笑いますが、それは都を追われて各地を転々とし、やがて伊勢の地で倒れた観世元雅の姿とも重なるものがあるのかも知れません。元雅やは『弱法師』に、自らの将来を予感していたのでしょうか。

 

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  (平成27年 6月19日・探訪)
(平成27年 7月24日・記述)



 説教節や謡曲から派生したと考えられるのが歌舞伎や人形浄瑠璃の『摂州合邦辻(せっしゅうがっぽうがつじ)』です。この初演は、安永2年(1773)2月、大阪・北堀江市の側芝居〈かわしばい〉の人形浄瑠璃で上演されました。以下はそのストーリーの概要です。

 河内の国高安道俊には、妾腹の兄次郎丸と本妻の弟俊徳丸という二人の子があった。本妻も妾もすでに亡く、子供たちとあまり年のかわらない腰元のお辻が、玉手御前〈たまてごぜん〉として後妻に迎えられていた。弟の俊徳丸が正妻の子という理由で正式な跡継ぎとなっていたが、兄の次郎丸がそれを嫉み、一派と計って御家横領を企んでいた。
 ある日住吉大社に詣でた俊徳丸は、継母の玉手御前から愛の告白を受ける。俊徳丸には浅香姫という許嫁がいたし、なにより玉手は父の後妻、応じられるわけがない。俊徳丸に拒絶された玉手は彼に毒酒を飲ませた。俊徳丸の美しい顔は醜く崩れ、あまつさえ盲目と なり、家を出奔する。それを追って玉手も何もかも振り捨てて、俊徳丸の跡を追った。
 俊徳丸は天王寺の乞食小屋で病身を養っていたが、浅香姫と再会する。そこに次郎丸が現れるが、玉手の実父で、閻魔堂の堂守をしている合邦道心に救われ、その庵に身を寄せる。我が家に立ち返った玉手は、俊徳丸の姿を見るや、浅香姫と縁を切らせるため住吉で毒酒を飲ませたのだと明かし、何としても俊徳丸と夫婦になりたいと狂態の限りを尽くす。そんな娘の姿に堪えかねた合邦は、怒りのあまり刀を振るい脇腹を刺し通す。その時玉手は苦しい息の下から思いがけない告白を始める。──俊徳丸を病にして家出をさせたのは、次郎丸の陰謀から救うためであり、寅の年・月・日・刻の揃った生まれである自分の血を飲めば病は治癒する。この血を俊徳丸に飲ませるため、敢て刃にかかったのである。また次郎丸の悪事を言い立てなかったのは、二人の継子を二人ながら救いたかったためである。──その言葉の通り、玉手の血潮によって俊徳丸の病は平癒し、目も見えるようになった。玉手は人々の唱える念仏の輪の中で、息絶えたのであった。

 『摂州合邦辻』と同様謡曲の『弱法師』から生まれたと思われるものに、『弱法師』という古典落語があります。別名『菜刀(ながたん)息子』。菜刀とは“菜切り包丁”のことです。それでは、お粗末ながら手短に、一席を…。

 一人息子の俊造は気が弱くて頼りない男でして、包丁屋に使いにやると、“裁ち包丁”ではなく“菜刀(ながたん)”を受け取って帰って来ました。父親が「おまえは、菜刀ひとつまともに注文でけんのか」と厳しく叱りつけますと、俊造はその日から姿を消してしまいました。心配した両親は心当たりを探しますが、どこにもおりません。
 それから一年が経った春のお彼岸。両親は願掛けを兼ねて四天王寺にやって参ります。門前では多くの乞食が「右や左の旦那さま」とか「長々患いまして難儀をしております」などと、参詣人に物乞いをしていました。そのなかに気が弱くて声を出せない乞食がおります。よくよく見れば、せがれの俊造でありました。驚いて連れて帰ろうとする母親に、父親は「今ここで甘い顔をすると、俊造はダメになってしまう。ここはこのまま別れて、もう一苦労させたがよかろう」と母親を説得いたします。母親は立ち去る前に、俊造に団子を施しますと、俊造「ながたんあつらえまして難儀しております」


《参考文献》
 今野達校注『新日本古典文学大系・今昔物語集』(岩波書店、1999)
 「週刊 古寺を巡る・四天王寺」(小学館、2007)
 「観世」1998年 2月号 岡部伊都子「能の花『梅─弱法師』」
 「観世」2005年 1月号 小林健二「作品研究『弱法師』」
 「観世」2005年 2月号 石橋健一郎「『弱法師』と「摂州合邦辻』」
 「観世」2005年 3月号 鎌田東二「『弱法師』と日想観」
 「観世」2005年 4月号 浅見真州・西野春雄「対談『弱法師』」
 「観世」2006年 7月号 小佐田定雄「巻頭随筆『弱法師雑感』」



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