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四天王寺はJR天王寺駅より北へ約10分、地下鉄谷町線・四天王寺夕陽ヶ丘駅からは南に数分のところにあります。2015年6月19日、『弱法師』(謡曲の世界では“よろぼし”と読みます)の謡蹟である当寺に参拝いたしました。当地は身近なところにありながら、未訪問の謡蹟のひとつです。JR天王寺駅から参道を経て、四天王寺病院の交差点を渡ると、右手に石の鳥居がその姿を現します。鳥居は神社の象徴のように思っておりましたが、まれに鳥居のある寺院もあるようです。神仏混淆の名残なのでしょうか。 |
シテ 一セイ「 |
《四天王寺》 大阪市天王寺区四天王寺1-11-18 |
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石の鳥居 |
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石の鳥居は寺の西門の門前にあり、鳥居の右手前には、大きく「大日本佛法最初四天王寺」と刻された石柱が建てられています。以下は“石の鳥居”の説明です。 |
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石の鳥居の扁額 |
引導石 |
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聖徳太子影向引導五輪宝塔 |
見真堂前に立つ謡曲史蹟保存会の駒札 |
石の鳥居から西大門(極楽門)への参道の左手に見真堂があります。浄土真宗の祖である親鸞聖人(見真大師)を顕彰し、建立されたお堂です。本尊を阿弥陀如来とし、向かって右に聖徳太子像、左に六字名号の掛け軸が祀ってあります。また堂の右手には親鸞聖人の立像が建てられています。 |
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大成版一番本の[資材]に記されていますが、『太平記』の巻第五「相模入道弄田楽幷闘犬事」には、「天王寺ノヤヨウレボシヲ見バヤ」なる記事があり、吉田東吾博士は「執権北条高塒の時代に“田楽ヨウレボシ(弱法師)の狂”が存し、“後に親子の再開などの情事を付加した謡曲”が『弱法師』である」と考察されました。 |
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ちなみに相模入道は時の執権北条高塒、南家は藤原北家に対する南家で、藤原武智麻呂の子孫。 |
おそらく高氏自身の大酒の酔も、このとき、その極に達していたのだろう。突として彼の口から、田楽歌の“弱法師(よろぼふし)”がよろよろ歌われ出していた。 |
宗教性と娯楽性をあわせもつ語り物である“説教節”にも「しんとく丸」があり、能の『弱法師』ともども後世に影響を与えたようです。以下に説教節「しんとく丸」の概要を記します。(“石橋健一郎「『弱法師』と『摂州合邦辻』」「観世」2005年2月号”などを参照。) |
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四天王寺境内地図 |
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西大門(極楽門) |
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石の鳥居から参道に沿って西大門に進みます。以下は当寺の公式サイトの解説です。 |
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中心伽藍拝観券 |
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金堂 |
金堂御朱印 |
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クリ「それ |
現在の五重塔は昭和38年、8度目の再建になるとのことで、鉄骨鉄筋コンクリート造りになっていますが、飛鳥時代の創建当時の姿を再建したものです。以下は当寺のサイトによる説明です。 |
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五重塔 |
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五重塔入口 |
最上階より極楽門を望む |
内部の回廊を廻って南端の中門に。下に掲げるのは、後刻外部より撮影した写真です。仁王像の東側が那羅延金剛力士、西側が密迹金剛力士で、大仏師松久朋琳・宗琳両師の作とのこと。 |
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仁王像(吽形) |
中心伽藍中門(南大門より撮影) |
仁王像(阿形) |
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義経よろい掛け松 |
北引導鐘楼 |
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仏足石 |
丸池 |
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石舞台(後方は六時堂) |
亀の池 |
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六時礼賛堂 |
六時堂御朱印 |
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亀井堂 |
番匠堂 |
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聖霊院(太子殿) |
南鐘堂 |
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南大門 |
熊野権現礼拝石 |
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万燈院 |
阿弥陀堂 |
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法然上人立像 |
大師堂 |
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俊徳丸は彼岸の中日である“時正の日”に、“日想観”を修します。まず西方を向き膝をついて合掌し、“東門”を拝み「南無阿弥陀仏」と唱えます。それを聞いた通俊は、ここは天王寺の“西門”なのに“東門”というのは間違いではないかと咎めます。俊徳丸は「天王寺の西門を出て極楽の東門に向かうのだ、これが間違いであろうか」と応えるのです。つまり天王寺の“西門”は実は極楽の“東門”に向かっているというわけです。 |
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(平成27年 6月19日・探訪) (平成27年 7月24日・記述) |
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