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2007年7月22日に志度寺を訪れたのは、初めての四国八十八ヶ所の歩き遍路の旅の、明日は結願を迎えるという、最後の行程でした。 |
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志度寺 近郊地図 |
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琴電房前駅 |
志度浦、この波の下に龍宮が? |
遍路道は房前駅を過ぎてから、琴電を跨ぎ、線路の海側を進みます。途中、平賀源内遺品館、平賀源内旧邸が並んでいます。以下は、源内遺品館および旧邸の前に立てられた、平賀源内先生顕彰会による説明書きの要約です。 |
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この外、滑稽小説『根南志草』『放屁論』『風流志道軒伝』や、浄瑠璃『神霊矢口の渡』『弓勢智勇湊』『忠臣伊呂波実記』などの作品をつぎつぎに発表し、江戸の人気を博した。 |
志度寺五重塔と 平賀源内の銅像を 描く志度局風景印 |
平賀源内遺品館 |
平賀源内旧邸の源内立像 |
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景行天皇のころ(西暦100年前後)土佐の海に棲んでいた怪魚が瀬戸内に入り込み、神出鬼没で航行する船を襲い、時には海岸にまで押し寄せて人を飲み食いし、その横暴ぶりは目に余るものがあった。 |
八十六番奥之院地蔵寺 |
霊子は褒美として讃岐一国を貰い受け国司となり、里人から讃留霊王(さんるれおう)と呼ばれた。後に悪魚の祟りを恐れた里人はお堂を建て、地蔵菩薩を安置したのが境内にある地蔵堂(魚霊堂)だと伝えられる。 |
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自性院 |
平賀源内の墓 |
《志度寺》 香川県さぬき市志度1102 |
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志度寺 伽藍配置図 |
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志度寺 門前からの風景 |
御朱印 |
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本堂には十一面観音を安置 |
空海を祀る大師堂 |
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仁王門 |
五重塔 |
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海人の墓 |
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シテ「その時海士人申すやう。もしこの珠を取り得たらば。この |
「志度寺縁起」の「海女の玉取り伝説」によれば、大臣となった房前は僧行基を連れて志度を訪れ、千基の石塔を建てて母の冥福を祈ったといわれています。毎年旧暦6月16日には大法会が行われ、十六度市が立ち、千三百余年の昔を偲ぶ供養がいまなお続けられているそうです。 |
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苔むした石塔群 |
高浜年雄句碑 |
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破壊された海人の墓 |
生駒親正の墓 |
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本堂前の駒札と山頭火句碑 |
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仁王門の右手、書院の裏手に曲水式庭園と枯山水庭園が広がっています。室町時代に四国管領であった細川氏によって、文明2年(1470)頃造成されたもので、昭和36年に京都林泉協会会長の重森三冷氏の指導により復元されたものです。 |
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庭園 |
お辻の井戸 |
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境内の散策を終えて、再び『海士』の物語に戻りたいと思います。 |
泉鏡花の小説に『歌行燈』があります。『歌行燈』と『海士』の「玉之段」とは、切っても切れない関係にあるといっても過言ではなかろうと思います。その『歌行燈』の一節。 |
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小夜ふけぬ。町凍(い)てぬ。何処としもなく虚空(おほぞら)に笛の聞えた時、恩地喜多八は唯一人、湊屋の軒の蔭に、姿蒼く、影を濃く立つて謡ふと、月が棟(むな)高く廂(ひさし)を照らして、渠(かれ)の面(おもて)に、扇のやうな光を投げた。舞の扇と、うら表に、其処(そこ)でぴたりと合ふのである。 |
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このように『歌行燈』には「玉之段」が登場するのですが、小説にある謡曲の章句を声に出して謡おうとしますと、非常に違和感がありますね。そのあたりのことも含めて『歌行燈』については大角征矢氏が『能・謡ひとくちメモ』の中で“『歌行燈』の不思議さ”と題して詳述されています。 |
さて、志度寺から次の札所である第八十七番長尾寺へは県道3号線を南下します。高松自動車道をくぐって数百メートルのところに幸田池があり、その南端の県道の右手に遍路の休憩小屋と「暮当・当願大明神」を祀る小さな社があります。この社に祀られているのが、復曲能『当願暮頭(とうがんぼとう)』の主人公なのです。さぬき市による社の来歴は以下のようです。 |
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幸田池 |
暮当当願大明神 |
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前シテ 暮頭 観世銕之亟(静夫) |
笛 藤田六郎兵衛 |
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シテ 暮頭・蛇体 梅若六郎 |
笛 松田弘之 |
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(平成19年 7月22日・探訪) (平成28年 2月17日・記述) |