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讃州・志度寺 〈海士・当願暮頭〉


 2007年7月22日に志度寺を訪れたのは、初めての四国八十八ヶ所の歩き遍路の旅の、明日は結願を迎えるという、最後の行程でした。

志度寺 近郊地図


 四国霊場第八十五番札所の八栗寺を下ると、琴電の八栗新道駅のところに下りてきます。そこから琴電に沿って志度寺への道を歩いて行きますと、房前駅があります。このあたりからは志度湾の風景が広がっており、地図では左手の方に少し飛び出した“房前の鼻”があるようなのですが、そこまでは行くことができませんでした。


琴電房前駅

志度浦、この波の下に龍宮が?

 遍路道は房前駅を過ぎてから、琴電を跨ぎ、線路の海側を進みます。途中、平賀源内遺品館、平賀源内旧邸が並んでいます。以下は、源内遺品館および旧邸の前に立てられた、平賀源内先生顕彰会による説明書きの要約です。

 平賀源内(享保13年・1728~安永8年・1780)は、本草学者、地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家として知られる。高松藩の軽輩御蔵番の三男として生まれる。宝暦2年(1752)に長崎へ遊学し、医学・本草学を学ぶ。宝暦6年(1756)には江戸に出て、田村藍水に師事する一方昌平黌に学ぶ。宝暦7年、藍水とともに、日本初の物産会を湯島で開催する。その後、伊豆における芒硝の発見、紀州物産誌の編纂、『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』の刊行をはじめ、火浣布の創製、秩父中津川鉱山の発掘、寒熱昇降機の発明、源内焼、西洋画の教授、日本初のエレキテルの復元なぢ、世人を驚かせた。

 この外、滑稽小説『根南志草』『放屁論』『風流志道軒伝』や、浄瑠璃『神霊矢口の渡』『弓勢智勇湊』『忠臣伊呂波実記』などの作品をつぎつぎに発表し、江戸の人気を博した。
 安永8年、ふとしたことから人を傷つけ、同年12月、伝馬町の獄中で52歳の生涯を閉じた。友人杉田玄白は、ひそかに遺体を引き取り、浅草総泉寺に埋葬、そのほとりに碑を建て「嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常」(ああ非常の人、非常の事を好み、行ひこれ非常、何ぞ非常に死するや)と記し、その一生を讃えた。また志度寺の塔頭志度寺の自性院にも、源内の義弟(末妹の婿)により源内の墓が建てられている。

 近くにある志度郵便局の風景印に、平賀源内の銅像が描かれています。


志度寺五重塔と
平賀源内の銅像を
描く志度局風景印


平賀源内遺品館

平賀源内旧邸の源内立像


 平賀源内旧邸から300メートルほど歩くと、志度寺の奥之院である地蔵寺があります。
 地蔵寺の開祖は志度寺本尊を開眼し同寺を創建した薗子尼です。往古は薗子尼がが住んでいたので「薗子屋敷」と呼ばれており、歴史の上では志度寺よりも古い寺です。 寺門の石柱には「海鵄魚口(えのうおくち)」と刻んであり、当寺は「魚霊堂」と呼ばれています。その経緯について、当寺のパンフレットを要約すれば以下のようです。

 景行天皇のころ(西暦100年前後)土佐の海に棲んでいた怪魚が瀬戸内に入り込み、神出鬼没で航行する船を襲い、時には海岸にまで押し寄せて人を飲み食いし、その横暴ぶりは目に余るものがあった。
 奏上を受けた天皇は、日本武尊の御子霊子(れいし)に討伐を命令した。霊子は500隻の軍船と千数百人の兵士を率いて悪魚退治に讃岐に渡ったが、志度浦で船と全兵士は悪魚に呑み込まれ、軍兵は毒気に当てられて息絶えてしまった。沈着な霊子は体内の軍船に火をつけたので、さすがの悪魚も死んでしまつた。霊子は刀で悪魚の腹を切り開き志度浦にたどり着いた。陸に上がったとき童子が現れ、水稲の水を献上、これを飲ませると兵士はたちまち蘇生したという。


八十六番奥之院地蔵寺

 霊子は褒美として讃岐一国を貰い受け国司となり、里人から讃留霊王(さんるれおう)と呼ばれた。後に悪魚の祟りを恐れた里人はお堂を建て、地蔵菩薩を安置したのが境内にある地蔵堂(魚霊堂)だと伝えられる。
 またこの寺の地を「江の口」と読んでいるのは「えの魚」の口を葬ったことに由来する。

 地蔵寺から数百メートル進むと、八十六番札所志度寺に到着します。
 境内の仁王門の手前、右手にある塔頭の自性院には平賀源内の墓所が祀られています。


自性院

平賀源内の墓



《志度寺》  香川県さぬき市志度1102

志度寺 伽藍配置図


 四国霊場第八十六番札所、補陀洛山清浄光院志度寺。本尊は十一面観音菩薩。
 寺伝によれば、開創は古く推古天皇33年(625)、四国霊場屈指の古刹です。海洋技能集団海人族の凡園子(おおしそのこ)が霊木を刻み、十一面観音像を彫り、精舎を建てたのが始まりと言われ、その後、藤原不比等が妻の墓を建立し「志度道場」と名づけられました。その息子房前の時代、持統天皇7年(693)行基とともに堂宇を拡張し、学問の道場として栄えたといいます。


志度寺 門前からの風景

御朱印


 室町時代には四国管領の細川氏が代々寄進を行い繁栄しましたが、そののち戦乱により寺院は荒廃します。藤原氏末裔の生駒親正による支援などを経てのち、寛文10年(1671)高松藩主松平頼重の寄進などにより再興されました。



本堂には十一面観音を安置

空海を祀る大師堂


 本堂、仁王門はこのときのもので、国の重要文化財に指定されており、仁王門の金剛力士像は鎌倉時代運慶の作で、香川県指定の重要文化財です。また木造十一面観音立像や志度寺縁起なども国の重要文化財に指定されています。


仁王門

五重塔


 境内で目を惹くのは仁王門の左手にそびえる五重塔、これは昭和50年に完成したものです。

 さて、お目当ての「海女の墓」は、五重塔の左手の海際にあります。「海女の墓」の碑と高浜年雄の句碑が前方にあり、その奥にウバメガシに囲まれてひっそりと眠っているようでした。


海人の墓


 それでは、謡曲『海士』について。引き続き、本曲の白眉とされる「玉之段」を鑑賞いたしましょう。


   謡曲「海士」梗概
 『志度寺縁起』などに典拠を求めたものであろう。作者は不明であるが『申楽談義』に金春権守の演じた記事があり、古い能の一つである。

 藤原房前は、自分の母が讃州志度の浦で亡くなった海人であると聞き、亡母の追善供養のため志度の浦にやって来る。そこへ一人の海人が来て、龍宮に取られた面向不背(めんこうふはい)の明洙を海人が奪い返した話を聞き、房前は偶然に海人が母の霊でることを知る。海人は、世継ぎを約束されたわが子のために、命を賭して明洙を盗み取る有様を再現し(玉之段)、やがて文に書かれた筆跡を遺して海中に去っていった。
 やがて亡母の追善供養をする房前の前に龍女が現われ、法華経の功徳で成仏できたことをを喜こぶ。またこの所はまた志度寺と号して、仏法繁盛の霊地となった。

 前シテの海人は、右手に鎌、左手に海松藻(みるめ)を持って登場する。海中に飛び込み、龍宮から玉を盗み取る「玉之段」は、写実に徹した物真似的な演技が連続する、激しい型が展開される。本曲は前場に重点がかかった作品で、前場だけでも独立できるものである。
 本曲のキリ「今この経の徳用(とくいう)にて」から最後までの一節が、追善能の終わりにつけ加える「追加」に、謡われることがある。


シテ「その時海士人申すやう。もしこの珠を取り得たらば。この御子おんこを世継の御位おんくらゐになし給へと申しゝかば。子細あらじと領状りやうじやうし給ふ。さては我が子ゆゑに捨てん命。露程も惜しからじと。千尋ちいろの縄を腰にけ。もしこの珠を取り得たらば。この縄を動かすべし。その時人々力を添へ。引き上げ給へと約束し。一つの利劒りけんを抜き持つて
「かの海底に飛び入れば。空は一つに雲のなみ。烟の浪を凌ぎつゝ。海漫々かいまんまんと分け入りて。直下と見れども底もなく。ほとりも知らぬ海底に。そも神變じんぺんはいさ知らず。取り得ん事は不定ふじやうなり。かくて龍宮に到りて宮中を見ればその高さ。三十丈の玉塔に。かの珠をめ置き香花かうげを供へ守護神は。八龍み居たりその外悪魚わにの口。逃れ難しや我が命。さすが恩愛の故郷ふるさとの方ぞ戀しき。あの波のあなたにぞ。我が子は在るらん父大臣もおはすらん。さるにてもこのまゝに。別れ果てなん悲しさよとなみだぐみて立ちしが又思ひ切りて手を合はせ。南無や志度寺の觀音くわんのん薩埵さつたの力を合はせてび給へとて。大悲の利劔りけんひたひて龍宮の中に飛び入れば。左右さうへばつとぞ退いたりけるそのひまに。寶珠ほうじゆを盗み取つて。逃げんとすれば守護神追つかくかねたくみし事なれば。持ちたるつるぎを取り直し。の下をかき切り珠を押し籠め劔を捨てゝぞ伏したりける龍宮の習ひに死人をめば。あたりに近づく悪龍あくりようなし約束の縄を動かせば。人々喜び引き上げたりけり珠は知らず海士人はかいしやうに浮かみ出でたり


 「志度寺縁起」の「海女の玉取り伝説」によれば、大臣となった房前は僧行基を連れて志度を訪れ、千基の石塔を建てて母の冥福を祈ったといわれています。毎年旧暦6月16日には大法会が行われ、十六度市が立ち、千三百余年の昔を偲ぶ供養がいまなお続けられているそうです。


苔むした石塔群

高浜年雄句碑


 海女の墓といわれる石塔群の前方には、高浜年雄の句碑が建てられています。以下は旧志度町観光協会による説明書きです。

    盆に来て海女をとむらふ心あり
 高浜年雄(1900~79)は虚子の長男、年雄は正岡子規が名付けた本名である。
 昭和10年頃より俳句の道に入り、26年には「ホトトギス」雑詠選を、34年虚子没後は主宰を継承、伝統派の中心作家として多くの俳人を育てた。客観写生の句風を守り、難解な措辞を排して平明に詠う独自の境地を開いた。この句は昭和27年9月5日(旧盆16日)志度寺参拝のおり詠んだもの。このとき息女・汀子(現ホトトギス主宰)、京極杞陽(故人)が同道された。年雄句碑は県内には善通寺と大窪寺にある。

 ところが2010年11月16日に、3度目のお遍路で志度寺を訪れた時には、石塔群が左下の写真のように柵で囲まれており、

 心無い方により「海女の墓」が破壊されてしまいました。
 その為、一時的に柵を張らせていただいております。
 申し訳ありませんが、文化財保護にご理解の程、宜しくお願いいたします。

という掲示が張り出されていました。破壊されてどのような状態になったのか、定かには分りませんが、愚かなことをする者がいたものです。何を思ってこのような行為に及んだものか、まったく理解に苦しむところです。


破壊された海人の墓

生駒親正の墓


 海女の墓のすぐ右手は墓地になっており、多くの墓石に囲まれて「生駒親正の墓」があります。
 以下、旧志度町文化財保護協会による説明書きです。

  生駒雅楽頭(うたのかみ)親正の墓
 美濃国土田郡に生まれる。織田信長に仕え、のち豊臣秀吉に従って身を起し、賤ヶ岳、小牧山の合戦で戦功をたてた。天正15年(1587)8月、17万石を与えられて讃岐の国主となる。高松城、丸亀城を築き、地元鄕士を重用して善政を行う。朝鮮出兵のあと秀吉は伏見へ呼び、「中老職」を与え、国政に参画させる。
 関ヶ原の合戦には豊臣方に味方したため、一時高野山に身を隠したが、息子一正の東軍での軍功に免じて罪を許された。
 隣の海女の墓は「生駒家の先祖」に当るとして志度寺を崇敬。八ヶ條の定め書を下して同寺の保護に力を注いだ。親正は慶長8年(1603)2月13日、78歳で生涯を閉じた。高松弘憲寺にも墓がある。

 生駒家は4代藩主高俊のとき改役になり、松平頼重が常陸より入部して讃岐高松藩初代藩主となります。ちなみに松平頼重は、水戸徳川家初代徳川頼房の長男で水戸光圀の兄でしたが、庶子として扱われたため水戸藩を継承できませんでした。

 境内を少し散策してみましょう。
 本堂の前に、謡曲史蹟保存会の駒札が山頭火の句碑と並んで建てられていました。以下はその内容です。

 謡曲「海士」は、海士の珠取り伝説と女人成仏を主軸にした母性愛物語である。
 藤原房前は生母が志度浦の海士である事を聞き、追慕の情にたえず此の地を訪れた。出会った海士から「奪われた面向不背の玉を竜宮から取り返したならば、生れた子を世継にするとのひたむきな約束のもとに海底に潜り、宝珠を取り返して命を失った。自分は房前大臣の母の幽霊である」と、我が生誕に関する珠取りの話を聞く。我が子房前の追善の経に引かれ、成仏した海士は竜女の姿で現れ喜びの早舞を舞い、孝養をたたえる。
 藤原不比等(淡海公)の子房前大臣は、僧行基とともに本堂を再建し、千基の石塔や法華経を納めた経塚を建立して供養を営み、また海士の縁として此の地を玉の浦と呼んだという。孝養の深さを偲ばせる海士の墓である。


本堂前の駒札と山頭火句碑


 また山頭火の句碑は、

  月の黒鯛ぴんぴんはねるよ

というものですが、この句碑は2007年の参拝の時には見当たりませんでしたので、その後建てられたものでしょう。

 仁王門の右手、書院の裏手に曲水式庭園と枯山水庭園が広がっています。室町時代に四国管領であった細川氏によって、文明2年(1470)頃造成されたもので、昭和36年に京都林泉協会会長の重森三冷氏の指導により復元されたものです。


庭園

お辻の井戸


 この庭園内には歌舞伎『花上野誉石碑(はなのうえのほまれのいしぶみ)』に出てくるお辻が水垢離した井戸があります。以下旧志度町観光協会の説明書きです。

 讃岐丸亀藩の武芸指南役堀口源太左衛門は、新らしく仕官した文武両道にすぐれた田宮源八に藩士の信望が集まってくるのをねたみ、寛永3年(1626)3月18日、国府八幡宮の境内におびき寄せだまし討ちにした。
 遺子坊太郎に堀口の手がのびかけたことを知った乳母お辻は、ひそかに坊太郎を連れて志度寺にのがれ、金毘羅大権現に坊太郎の仇討成就を祈願、火の物をたって水垢離をとり、満願の日に自害し果てたゆかりの井戸である。
 成人した坊太郎は江戸に出て、柳生道場きっての剣客となり、18歳になるや丸亀に帰えり、藩主の許可を受け寛永19年(1642)3月19日、山北八幡宮で本懐を遂げた。
 その後坊太郎は仏門に入り、父とお辻の冥福を祈りつつ22歳でこの世を去った。
 この物語りは、浄瑠璃「花上野誉石碑 志度寺の段」に上演されいまに伝えられている。


 境内の散策を終えて、再び『海士』の物語に戻りたいと思います。
 謡曲の素材となったと思われる「海女の玉取り伝説」が、どこまで真実を伝えているのでしょうか。あるいはこの伝説をどこまで信じることができるのでしょうか。
 寺伝では、藤原不比等がこの浦に下り、賎しい海女と契って生れた子供が房前であるとされていますが、歴史的にみれば、房前の母は蘇我連子(むらじこ)の娘の蘇我娼子(しょうし)ですから、志度の浦の海女とは無関係だと思われます。
 先に挙げた寺伝では「海洋技能集団海人族の凡園子(おおしそのこ)が霊木を刻み、十一面観音像を彫り、精舎を建てたのが始まりと言われ」と述べています。『続日本紀』によれば、藤原氏が海人族の海部直の娘と縁を結び、海人一族の援けを得て海洋の支配権を獲得したことが記されているようです。そこで生れた子を正妻の子にした可能性は大でしょう。それが房前かも知れません。

 話が飛躍しますが、道成寺のある紀州の御坊の地には「髪長姫」の伝承があります。

 むかし、漁師夫婦に女の子が授かったが、髪の毛が生えてこなかった。ある年、不漁が続き人々は困惑した。海底から不思議な光が射しており、それが不漁の原因のようである。母親は、娘に髪が生えないのは前世の因縁であろう、と考え、罪滅ぼしのため、海底に潜り怪しい光の元を探りに行った。光の正体は小さな黄金の仏像であった。像を引き上げると光は消え、浦は大漁が続いた。ある夜母親の夢に黄金仏が現れ、我は補陀洛浄土の観世音なり、と仰せられた。そこで娘の髪のことを願い、夢から覚め、ますます信心をすると、娘に美しい黒髪が生じた。髪はますます伸び、年頃の娘は「髪長姫」と呼ばれるようになった。この噂を聞いた藤原不比等は、娘を養女に迎え、名を宮子と改める。やがて宮子姫は文武帝の妃となり、彼女が産むのが聖武天皇である。宮子姫は故郷のことや観音仏のことが忘れられず、帝に願って建立したのが道成寺である。

というものです。宮子は藤原不比等の娘とされていますが、伝承のように養女であった可能性が大です。房前の場合も、前述しましたが、海女が産んだ子を正妻の子とした可能性が強くなってきます。またこの「髪長姫」の伝承は、志度寺の「海女の玉取り伝説」と酷似しています。藤原不比等の妻となった志度の海女、一方は不比等の養女となった海女の娘。上述しましたように、当時の藤原氏と海人族との関わりがうかがえるようです。
 藤原不比等は二人の娘を天皇に嫁がせ(宮子を文武天皇、光明子を聖武天皇)、外戚として権勢を振るう一方において、海人族と結んで海上支配権を確立して、その地位を盤石のものとしたのでありましょうか。
 もう一点疑問があるのは志度にある「房前」という地名と、不比等の第二子である「房前」との関連です。両者の鶏と卵の関係がよく分りません。地図を見る限り「房前」という地名は、現在は琴電の駅名と国道の交差点の名、それと「房前の鼻」という岬の名に見出せます。このあたりの地名は「牟礼町原」で、字にも「房前」は見つかりませんでした。ただ「房前の鼻」という岬があるからには、近くに「房前」という地名があってもよいと思ったのですが…。恐らく古くはここには「房前」の地名があり、その地で生まれた子なので、「房前」と名付けたものでしょうが、寺伝には「藤原房前がこの地を訪れ供養を行った」とありますので、逆に房前が来たことにより、この地名がつけられた可能性もなきにしも非ずでしょう(ただし、房前が志度にやって来た可能性は極めて低いと思うのですが…)。



 泉鏡花の小説に『歌行燈』があります。『歌行燈』と『海士』の「玉之段」とは、切っても切れない関係にあるといっても過言ではなかろうと思います。その『歌行燈』の一節。

 晃然(きらり)とあるのを押頂くやう、前髪を掛けて、扇を其の、玉簪(ぎよくさん)の如く額に当てたを、其のまゝ折目高にきりきりと、月の出汐の波の影、靜(しづか)に照々(てらてら)と開くとゝもに、顔を隠して、反(そ)らした指のみ、両方親骨にちらりと白い。
 又川口の汐加減、鄰(となり)の広間の人動揺(どよめき)が颯と退(ひ)く。
 唯(と)見れば皎然たる銀の地に、黄金の雲を散らして紺青の月、唯一輪を描いたる、扇の影に声澄みて、
  「──其時あま人申様(まをすやう)、もし此たまを取得たらば、此御子(みこ)を世継の御位(みくらゐ)になし給へと申(まを)しかば、子細あらじと領承(りやうしよう)し給ふ、扨(さ)て我子ゆゑに捨てん命、露ほども惜からじと、千尋のなはを腰につけ、もし此玉をとり得たらば、此なはを動かすべし、其時人々ちからをそへ──」
 と調子が緊(しま)つて、
  「……ひきあげ給へと約束し、一つの利剱を抜持つて、」
 と扇をきりゝと袖を直すと、手練(てだれ)ぞ見ゆる、自(おのづ)から、衣紋の位に年長(た)けて、瞳を定めた其の顔(かんばせ)。硝子戸越に月さして、霜の川浪照添(てりそ)ふ俤(おもかげ)。膝立据(ひざたてす)ゑた畳にも、燭台の花颯と流るゝ。
 「あゝ、待てい。」
 と捻平(ねじべい)、力の籠(こも)つた声を掛けた。

 続いて、以下はその最後の一節です。

 小夜ふけぬ。町凍(い)てぬ。何処としもなく虚空(おほぞら)に笛の聞えた時、恩地喜多八は唯一人、湊屋の軒の蔭に、姿蒼く、影を濃く立つて謡ふと、月が棟(むな)高く廂(ひさし)を照らして、渠(かれ)の面(おもて)に、扇のやうな光を投げた。舞の扇と、うら表に、其処(そこ)でぴたりと合ふのである。
 「(喜多八)……又思ひ切つて手を合はせ、南無や志渡寺(しどでら)の観音薩埵の力をあはせてたび給へとて、大悲の利剱を額にあて龍宮に飛び入れば、左右(さいう) へはつとぞ退(の)いたりける、」
 と謡ひすましつゝ、
 「背(せな)を貸せ、宗山。」と言ふとゝもに、恩地喜多八は疲れた状(さま)して、先刻(さつき)から其の裾に、大きく何やら踞(うづく)まつた、形のない、ものゝ影を、腰掛くるやう、取つて引敷くが如くにした。
 路一筋白くして、掛行燈の更けた彼方此方(あなたこなた)、杖を支(つ)いた按摩も交(まじ)つて、ちらちらと人立ちする。(完)


 このように『歌行燈』には「玉之段」が登場するのですが、小説にある謡曲の章句を声に出して謡おうとしますと、非常に違和感がありますね。そのあたりのことも含めて『歌行燈』については大角征矢氏が『能・謡ひとくちメモ』の中で“『歌行燈』の不思議さ”と題して詳述されています。
 なお『歌行燈』は、昭和18年に成瀬己喜男監督、花柳章太郎・山田五十鈴主演で、昭和35年に衣笠貞之助監督、市川雷蔵・山本富士子主演で映画化されています。



 さて、志度寺から次の札所である第八十七番長尾寺へは県道3号線を南下します。高松自動車道をくぐって数百メートルのところに幸田池があり、その南端の県道の右手に遍路の休憩小屋と「暮当・当願大明神」を祀る小さな社があります。この社に祀られているのが、復曲能『当願暮頭(とうがんぼとう)』の主人公なのです。さぬき市による社の来歴は以下のようです。

 延暦(約千二百年前)の昔、この長行に当願と暮当という仲の良い猟師がいた。ある日志度寺の修築法要が営まれ、暮当は狩に出たが当願は志度寺に参拝した。法席にいながら当願は「暮当は大きい獲物を捕らえただろう」と殺生心を起した。忽ち当願は口がきけず、立つことが出来なくなった。儀式に参列しながらも狩のことを思ったがため、気を失ってしまい、下半身が蛇となってしまった。心配して迎えにきた暮当は、当願の下半身が蛇となっているのを見て驚いた。当願を背負って帰る途中「体が熱いので池に入れてくれ」というので、仕方なく幸田の池に入れた。この時当願は片眼をくり抜き「この目玉を壺の中に入れておくと汲めどもつきぬ酒ができる」と教えた。暮当は言う通りにして売ると家は繁昌した。当願の体は次第に大きくなり幸田池から満濃池に、その後大槌、小槌の海に入って竜神になったという。里人はゆかりあるここに二人を大明神として祀った。
 干ばつの時に神酒を供えて雨乞いする風習が今に残っている。


幸田池

暮当当願大明神


 この物語は「志度寺縁起」の中で、当願暮当之縁起として語られているものです。
 復曲された能『当願暮頭』(暮当ではありません)では、兄の暮頭(前シテ)が志度寺の法要に加わり、弟の当願(ツレ)が狩場に行く。暮頭は殺生への執心が断ちきれず毒蛇に変身して満濃池に入る。僧(ワキ)が祈ると蛇体となった暮頭(後シテ)が現れ、弟の当願に自らの目を宝珠として与え、波間に沈む。というもので、上記の伝承とは当願と暮当の役割が逆になっています。
 兄は猟師の家に生れたがために殺生戒を犯すことになります。そして蛇体に変身しますが、その蛇体の兄が弟に残した宝珠によって、弟は経済的な余裕を得て、兄のたどった原罪の泥沼に落ちずに済むことになります。皮肉な結果ともいえましょう。

 復曲能『当願暮頭』は、平成3年12月23~24日の両日、国立能楽堂で「第3回研究公演・復曲の試み」として上演されました。出演者等は以下のようでした。

  前シテ  暮頭     観世銕之亟(静夫)
  後シテ  蛇体     同
  ツレ   当願     大槻文蔵
  ワキ   志度寺の住僧 宝生 閑
  ワキツレ 従僧     宝生欣哉
  同           殿田謙吉
  同           高井松男
  同           梅村昌功
  オモアイ 能力     山本東次郎
  アドアイ 能力     遠藤博義

     笛     藤田六郎兵衛
     小鼓    宮増純三
     大鼓    安福建雄
     太鼓    三島元太郎
     地頭    山本順之
     後見    観世榮夫
     同     永島忠侈

     能本作成  西野春雄
     作曲    横道萬里雄


 平成5年12月25日にも、上記と同じ出演者による復曲再演がありました。
 さらに平成9年9月9日には、「56世梅若六郎舞台生活45周年記念・六郎の会」(於・梅若能楽学院会館)で、梅若六郎(現・玄祥)により上演されました。出演者等は以下のようです。

  シテ   暮頭・蛇体   梅若六郎
  ツレ   当願      梅若晋矢
  ワキ   志度寺の住僧  宝生 閑
  オモアイ 能力      三宅右近
  アドアイ 能力      高沢祐介

     笛     松田弘之
     小鼓    鵜澤洋太郎
     大鼓    亀井広忠
     太鼓    助川 治




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  (平成19年 7月22日・探訪)
(平成28年 2月17日・記述)


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