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筑前・筥崎宮 〈唐船・箱崎〉


 暮れも押し迫った2007年12月25日、所用があり福岡に出向くことになり、ちょうどよい機会と『唐船』の旧蹟である筥崎宮に参拝することにしました。ところが大失敗。いつも肌身離さず携帯しているデジカメを、この日は何としたことか忘れてしまい、やむを得ず空港で購入した使い捨てのカメラでの撮影になってしまいました。幸い以前に大角征矢氏より頂戴した筥崎宮の写真と、筥崎宮のパンフレットがありますので、それらを併用させていただきながらの謡蹟めぐりといたします。

筥崎宮 近郊地図




《筥崎宮》  福岡市東区箱崎一丁目22-1

 参拝に先立って、まず筥崎宮について、当社のパンフレットより。

 筥崎宮は筥崎八幡宮とも称し、宇佐、石清水両宮とともに日本三大八幡宮に数えられます。御祭神は筑紫国蚊田の里(現在の福岡県宇美町)にお生まれになられた応神天皇を主祭神として、神宮皇后、玉依姫命がお祀りされています。創建の時期については諸説あり断定することは困難ですが、古録によれば、平安時代の中頃、延喜21年( 921)に醍醐天皇は神勅により「敵国降伏」の宸筆を下賜され、この地に壮麗な御社殿を建立し、延長元年( 923)筑前大分宮(だいぶ・穂波宮)より遷座したことになっております。
 鎌倉中期、蒙古襲来(元寇)のおり、俗に云う神風が吹き未曾有の困難に打ち勝ったことから、厄除・勝運の神としても有名です。

 日本三大八幡宮には、近年になって筥崎宮に代わって鶴岡八幡宮を加えることもあるようです。不思議なことに日本三大○○といえば、頭の二つはほぼ決まっているようですが、三つめに異を唱えるところが出現してモメていることが多いようです。
 筥崎宮の社名の由来については諸説があるようで、神功皇后が身ごもったまゝ新羅(しらぎ)に出兵し、戻ってのちの応神天皇を出産されたとき、その抱衣(えな~胎盤など)を「筥」に入れて埋めた所が現在の筥崎宮の位置であった、と云うのと、復曲能 『箱崎』 に述べられている、神功皇后が“戒(かい)・定(じょう)・恵(え)”の三学の妙文を金の箱に入れて埋めたことによるという説があるようです。
 また社名の「はこ」の字は「筥」が正字であり「箱」ではありませんが、筥崎宮の所在地や駅名など地名の「はこざき」は、筥崎宮の「筥崎」では筥崎八幡神に対して畏れ多いとして「箱崎」と表記するようです。

筥崎宮 境内案内図


 地下鉄「筥崎宮前」駅で下車し地上に上りますと、正面に一の鳥居が、その武骨な姿を現します。
 一の鳥居は国の重要文化財に指定されており、慶長14年(1609)藩主黒田長政が建立したものです。あまりスマートとはいえぬ武骨な鳥居で、江戸初期のまだ幾分戦国期の面影を残している感じを受けた次第です。


一の鳥居から楼門を望む

 当社はさすが筑前国一の宮だけあって境内には見るべきものも多くありますが、時間の関係上あまり興味の無いものは、はしょっての見学といたします。本殿をぐるりと一回りして楼門の前にやってきました。
 パンフレットによれば、楼門は国の重要文化財に指定されており、文禄3年(1594)筑前領主小早川隆景の建立になるようです。中国の毛利家が筑前にまで勢力を伸ばしていたとは、うかつにも全く知りませんでした。


楼門

御朱印


 この楼門は「敵国降伏」の扁額が掲げられていることから伏敵門とも呼ばれているそうです。
 当社にはこの紺紙に金泥で鮮やかに書かれた「敵国降伏」の御宸筆があります。社記には醍醐天皇の御宸筆と伝わり、以後の天皇も納められた記録があり、特に文永11年(1274)蒙古襲来により炎上した社殿の再興にあたり、亀山天皇が納められた事跡は有名です。楼門に掲げられている扁額の文字は、小早川隆景が楼門を造営した時、謹写拡大したもの、とのことであります。
 右の切手は終戦間近の昭和20年(1945)4月発行の「勅額切手」です。戦意発揚と戦勝祈願のため、この勅額をデザインした普通切手を発行したものですが、その願いもむなしくすぐに敗戦の秋を迎えました。



楼門(以下パンフレットより)

「敵国降伏」の宸筆



勅額切手


 楼門の前に神木「筥松」が朱の玉垣で囲まれておりました。しるしの松とも呼ばれるこの神木は、応神天皇がお生まれになったときの御胞衣(えな)を箱に入れ、この地に納めたしるしとして植えられた松で、この地はもともと葦津ヶ浦と呼ばれていましたたが、この箱が納められたことで箱崎と呼ぶようになったといわれています。



筥松

さざれ石


 一の鳥居をくぐり境内に入るとすぐ右手の一角が「唐船塔」で、その後側に元寇の際の蒙古軍船碇石や元寇防塁の碑、元寇歌曲碑、また「君が代」に歌われた「さざれ石」などがならんでいます。

 この石は国家君が代に詠まれている「さざれ石」です。岐阜県と滋賀県の境の伊吹山の麓に産し学名を石灰質礫岩と云い永年の間に石灰質が雨水で溶けて生じた粘着力の強い乳状液が小石を凝結して次第に巨岩となります。

 文永11年(1274)大陸を統合した元は、津島・壱岐を侵略し博多湾から上陸。博多は戦火に包まれ筥崎宮もその折焼け落ちます。たまたま九州を襲った暴風雨により、元軍の兵船は海の藻くずと消え、元軍は撤退します。神国に吹く神風の起源となったことは有名です。
 蒙古軍船碇石は、海中から見つかった元寇の遺物で、博多港中央阜頭の海中から引揚げられたもののうちの1本。全長2メートルにおよぶ碇石は、元寇防塁の碑の前に横たわっておりました。
 元寇防塁の碑は西南学院高校内から移築されたもの。碑文に曰く、

 弘安四年五月元軍十万此の地に来る我が軍石塁に拠りて防戦し大いに奮う。為に敵軍上陸する事能はず、七十余日空しく海上に漂ふ。是れ即ち当時の防塁石也。


蒙古軍船碇石と元寇防塁の碑

元寇防塁の碑


 昭和56年(1981)に建立された元寇歌曲碑は、木立の中に悠然とたたずんでおりました。楽譜と四番までの歌詞が刻まれています。
 元寇歌曲碑の碑文および唱歌『元寇』は次のとおりです。

元の国が文永(1274)と弘安(1281)の二度に亘って襲来してから、七百年以上になります。
当時、私達の祖先は博多湾の海岸一帯に防塁を築き、神社仏閣に敵国降伏を祈願するなど、国をあげての防衛に神仏のご加護もあって日本征服の野望を挫折させたのであります。


元寇歌曲碑

この祖先の一致団結の防衛をたたえ、私たちが今日あることに感謝するため、陸軍軍楽隊員の永井建子が、九十年前作詞作曲した唱歌「元寇」を長く保存したいために「日本唱歌保存愛唱会」が元寇ゆかりの筥崎宮の境内にこの碑を建立した次第であります。

 四百余洲を挙る 十万余騎の敵
 国難ここに見る 弘安四年夏の頃
 なんぞ怖れんわれに 鎌倉男子あり
 正義武断の名 一喝にして世に示す

 多々良浜辺の戎夷 そは何蒙古勢
 傲慢無礼もの 倶に天を戴かず
 いでや進みて忠義に 鍛えし我がかいな
 ここぞ国のため 日本刀(を試し見ん

 こころ筑紫の海に 浪おし分て往く
 ますら猛夫の身 仇を討ち還らずば
 死して護国の鬼と 誓いし箱崎の
 神ぞ知ろし召す 大和魂いさぎよし

 天は怒りて海は 逆巻く大浪に
 国に仇をなす 十余万の蒙古勢は
 底の藻屑と消えて 残るは唯三人
 いつしか雲はれて 玄海灘月清し


 さてお目当ての「唐船塔」ですが、その説明板によればこの塔は、唐から父を迎えにやって来た子が、父がもし死んでいたら建てようと思い持ってきた供養塔である、といわれているようです。
 また「夫婦石」は祖慶官人とその妻が、別れに際して腰をかけ名残を惜しんだ跡といわれているそうです。


唐船塔全容

唐船塔説明板


 以下に「唐船塔」の説明文を掲載します。

 謡曲『唐船』は、日本に捕らわれた唐人祖慶官人が箱崎殿(筥崎宮大宮司)に仕え、日本人妻との間に二人の子をなして平和に暮らしていた。
 やがて唐土に残した子供二人が迎えに来たので箱崎殿はこれを憐れみ日本で生まれた子も連れて帰ることを許した。そこで親子ともども喜んで帰ったが、夫婦、母子別れの悲劇もからまった物語である。迎えに来た子が、父がもし死んでいたら建てようと持ってきた供養塔がこの塔といわれている。
 歌は聖福寺の画僧仙厓和尚の作で
   箱崎のいそべの千鳥親と子と
    なきにし声をのこす唐船
 また祖慶官人と妻とが別れるときに腰かけて名残を惜しんだといわれる一対の石を「夫婦石」といっている。

 謡曲の大成版一番本の曲解では「典拠は不明であるが、支那との交通もあり、又倭寇などの活躍した当時であるから、この種の巷談は地方により語り伝えられていたものであろう」としており、「所を箱崎にしたのは、昔は此処が支那朝鮮と往来する要津であったからである」と記しています。箱崎にこの説明板に記されているような伝承があったのであれば、謡曲作者はそれに従ったと思われますが、どうもそうではないようです。とすれば謡曲が作られて後、それに基づいて唐船にまつわる伝承、史蹟が作られたとも想像されます。
 もしそうであるならば、謡曲では日本の子が父との別れを悲しみ、祖慶官人に追いすがって引き留めるのですが、その妻のことは一切触れられていません。この「夫婦石」で夫婦の別れを演出するとは、誰の思い付きかは知りませんが、粋なことをやって呉れるではありませんか。


唐船塔と夫婦石


 それではお目当ての「唐船塔」を前にして、謡曲『唐船』について。続いて前場の、シテ・祖慶官人が子供たちと牛を追いながら帰宅する場面です。


   謡曲「唐船」梗概
 四番目遊楽物。作者典拠ともに未詳。〈楽〉を舞う遊楽物の主人公はすべて異邦人で舞台は唐天竺であるが、本曲の舞台は日本であり遊楽する主人公が老体である点で特殊であり、ストーリーは劇的に構成されており、遊楽がその終止符を打つように構想されている。

 九州箱崎の某が、唐土との船争いの時に、祖慶官人という者を捕らえ、牛馬の野飼いをさせて使っているうちに13年経った。唐土に残されていた二人の子供は父を慕い、数の宝に代えて父を伴い帰ろうと思い、はるばる日本に渡って来た。
 祖慶官人は、日本で儲けた二人の子とともに野飼いから戻り、唐子との対面を喜ぶ。この唐子が箱崎の某の許しを得て、父を連れて帰ろうとすると、今度は日本の子が別れを悲しんで引き留める。進退谷まった祖慶官人は海に身を投げようとする。この様子を見た箱崎の某は、日本の子も唐土へ連れて帰ることを許したので、父子5人は船中で喜びの楽を奏しながら唐土へと帰って行くのである。

 日本子をも連れて帰国することを赦された老父は、歓喜のあまり手の舞い足の踏む所を知らないといった有様で遊楽する。その遊楽は筥崎の海岸を離れて行く船中で行われるのであるから、シテハ方三尺の作物の銅の間で、いかにも広々とした気持で〈學〉を舞わねばならない。前半の哀傷的な雰囲気とは対照的にこの舞は歓喜に満ちたものとなる。


ロンギ 日本子「「いかに父御ちちごよ聞こし召せ。さて住み給ふ唐土もろこしに。牛馬をば飼ふやらん御物語候へ
シテ「なかなかなれや唐土の。華山くわざんには馬を放し。桃林たうりんに牛をつなぐこれ花の名所なり
日本子「さて唐土と日の本は。いづれ優りの國やらん。くはしく語り給へや
シテ「愚かなりとよ唐土に。日の本をたとふれば。只今尉がいて行く。九牛きうぎうが一毛よ


日本子「さほど樂しむ國ならば。傷はしやさこそげに。戀しくおぼし召すらめ
シテ「いやとよ方々かたがた方々を。儲けて後は唐ころも。帰國の事も思はずと
「語りなぐさみ行く程に。嵐の音の少きは松原やすゑになりぬらん箱崎に早く、着きにけり箱崎に早く きにけり


 筥崎宮界隈の地図を眺めていますと、筥崎宮の北方を走る国道3号線に「松原」の交差点があり、近くに「箱崎松原」なるバス停や「箱崎松原郵便局」かありました。
 かつてこの近辺は海岸線で「松原」の地名が残っているように、松林が続いていたものと思われます。謡曲に謡われている祖慶官人とその子供たちが、牛を追いながら家路を目指したのはこのあたりではなかったでしょうか。このシテと子方による〈ロンギ〉は何かしらほのぼのとしたものを感じさせる、いい謡だと思います。
 本曲は祖慶官人と日本子の別離の悲哀から、連れ立って帰国を赦された歓喜へと、大いなる感情の起伏をテーマとしていますが、日本に置いてきぼりにされた祖慶官人の妻については一言も触れられていません。前述しましたが「唐船塔」の説明でも「祖慶官人と妻とが別れるときに腰かけて名残を惜しんだといわれる一対の石を“夫婦石”といっている」と極めて簡単に片づけています。
 夫婦の別離や愛するものとの別れを扱った曲は多くあり、子どもとの別離を扱ったものはさほど多くありません。これは想像ですが、作者は船中の〈楽〉を念頭に置いてこの能を制作したのではないでしょうか。その前提からすれば、夫婦の別れではなく、狭い船中で歓喜のうちに舞う演出に重点を置いたのではないでしょうか。その意味から本曲は特異なテーマを取り上げているといえるかも知れません。

 奈良県の天河大弁財天社に、観世十郎元雅が永享2年(1430)に『唐船』奉納の際に寄進したと墨書銘のある尉面(阿古父尉)が伝えられています。時の将軍足利義教の寵愛は元雅の従兄である音世弥に移っており、華やかな活動の場が閉ざされた元親が、不遇からの再起を祈願して奉納したものでしょう。能面の裏書の銘は、
  「唐船」 奉寄進 弁財天女御宝前仁為允之面一面心中本願成就円満也
       永享二年十一月日 観世十郎元雅敬白




 平成15年8月10日の猛暑の午後、鎮座1080年に当るここ「筥崎宮」で、観世宗家による復曲『箱崎』が初演奉能されました。なおそれに先立って、7月に東京で試演がありました。。
 筥崎宮の祭神は第十五代・応神天皇で、父は仲哀天皇、母は神功皇后で、この 『箱崎』 の後シテが神功皇后なのです。神功皇后について、以下 Wikipedia を参照しています。


 神功皇后は、第14代仲哀天皇の皇后で、『日本書紀』での名は気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)。仲哀天皇3年2月の天皇崩御に際して遺志を継ぎ、3月に熊襲征伐を達成する。同年10月、お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま筑紫から玄界灘を渡り朝鮮半島に出兵して新羅へ攻め込み、百済・高麗をも服属させる(三韓征伐)。12月、帰国した皇后は、筑紫で仲哀天皇の遺児である誉田別尊(ほむたわけのみこと)を出産。誉田別尊が即位するまで政事を執り行い聖母(しょうも)とも呼ばれる。

 世阿弥が『箱崎』を書いたのは14世紀末から15世紀初頭のころと考えられますが、1世紀ほど前の蒙古襲来は当時のひとびとの意識に強く残っていたことと思われます。蒙古襲来を思うとき、神功皇后による“三韓征伐”の伝承が思い起こされたことでしょう。そのような社会情勢のなかで、世阿弥は『箱崎』を書いたものと想像します。
 そして現在、韓国や北朝鮮と緊迫した情勢下で、神功皇后が復曲されました。半島情勢を思うとき、いま神功皇后あらましかばと、密かに願いたい気持ちになることもなしとは申せません。



『箱崎』上演当日の筥崎宮


 『観世』平成15年10月号に「筥崎宮に神功皇后が舞う」と題して、復曲奉納当日の様子が紹介されています。
 上演の舞台は、楼門と回廊に囲まれ、本殿に面する拝殿が選ばれました。地謡は囃子方の後方に座し、筥崎宮のシンボルである筥松の作り物が正先に出される。シテが付ける神功皇后の面は、この曲のために堀安右衛門氏により新たに作られたとのことです。


   謡曲「箱崎」梗概
 作者は、『三道』に「女体」の能としてあげられ、『申楽談義』に「世子作」とあり、『五音』にもその一部が作曲者名無注記であげられているので、世阿弥作としてまちがいのない曲である。
 延喜帝に仕える歌人壬生忠岑が九州筥崎宮に詣でたところ、月の夜、松の下を掃き清める里の女たちに出会う。里の女は、戒定恵の三学の妙文が入った金の箱を神功皇后が松の下に埋めたことから箱崎の名がついたと語り、忠岑にその箱を見せると約束した姿を消す。
 やがて神功皇后があらわれて、箱から経巻を取り出して忠岑に見せながら、天女の舞いを舞い、箱は再び松野下に納まる。
 神功皇后が筥崎の松原に“戒定恵”の経文の配流箱を埋め、そこから筥崎宮が生まれた話を軸として、これに『古事記』などに見える、八幡大菩薩の神詠「箱崎の松吹く風は波の音と尋ね思へば四徳波羅蜜」を取り合わせて一曲とした。
 箱崎の松原は、仏教の経典が埋められる聖地であり、そこでは吹きわたる松風の音と潮騒の音がまじりあって「四徳波羅蜜」の音楽を奏でている、というのである。その聖なる地に神功皇后が自ら出現して、壬生忠岑に経典入りの秘密の箱をあけて経文を見せつつ、天女の舞を舞うという構想である。
 仏法讃歓の舞である天女の舞を舞って人気を得ていた先輩能役者、犬王道阿弥に対し、世阿弥は、八幡大菩薩と一体である神功皇后に舞を舞わせる「箱崎」を制作することで、はじめて近江鶴楽犬王の天女舞を大和申楽に移入し、自らのレパートリーとすることに成功したと考えられる。

(「箱崎」一番本前附より)



 『箱崎』の復曲に関して、『観世』平成15年6月号に「復曲〈筥崎〉にむけて」して、観世清和宗家と台本作成にあたられた松岡心平東大教授の対談が紹介されており、その中で「天女舞」について以下のように述べられています。

観世 天女の舞につきましては、私も若い頃から当然その存在は知っておりました。例えば〈賀茂〉などのツレが天女として出てくるもの…謡本を見ていただければ天女舞と書いてございますが、幼い頃より父(先代元正)から「これは天女舞と書いてあるけれども、これはほか等の天女の舞ではないのだ」という教育をずっと受けておりました。それが役者として成長する中で、本当の天女の舞は一体どこにあるのだろう、という疑問をずっといだいておりました。もう一つは、かなり前ですが、〈呉服〉は現行ですと、中之舞になっておりますが、先代の梅若六郎師がいわゆる草の神舞で舞われた、と後で流儀の長老に聞きまして、何か舞事として全然成立していないのだな、という認識をいたしました。
 一昨年〈泰山木〉をさせていただきましたが、〈泰山木〉が必ずしも天女の舞をやったかどうかは定かではございくせん。ですが、天女という役柄なので、天女の舞を入れさせていただいたわけです。それで、早稲田大学の竹本幹夫先生から、いろいろご教示をいただきました時に、「〈箱崎〉もまさに天女の舞の曲」とお聞きしたことが、ずっと胸に残っておりまして、ならば、世阿弥が作った曲なのだから〈箱崎〉をやってみよう、と。それと、子供のころからの天女の舞に対する疑問も解決できる、という思いに至ったのです。
松岡 では、今回は天女の舞をどのようにやってみたいとお考えのですか。
観世 〈泰山木〉の経験をあげますと、からだが舞い込んでいきたい、という感じになりまして、これは神舞に通じるのです。天女ですから人間界の人ではない、それでいて神舞の気迫でどんどんのっていく。だから自分自身が非常に浄化されていて無機的な感じなのです。私は、この度の天女の舞は、戒定恵の三学の経文を神功皇后が壬生忠岑に伝授するというか送電するという意識で、だんだん狂いというか遊舞になっていって、少しクツロギの形などを入れられたら、という気がしております。
松岡 舞い込んでいって神舞に近くなっていくような意識をお持ちになった、というのはとてもおもしろいと思います。これは世阿弥が天女の舞について書いているんですが、「力を入満する」というような言い方が出てまいりまして、何かそういう力が体に充満してくるような神体の舞であった可能性があって、「体心捨力」つまり力を入れないで女舞を舞う事しか知らなかった世阿弥たちとって、犬王の天女の舞を取り入れたことの意味というのは大きなことだったと思うんです。

 その「天女の舞」とはいかなるものであったか、以下は大角征矢氏の『能謡ひとくちメモ』の抜粋です。

 その舞とは、『神舞』に始まって中程は『盤渉(ばんしき)早舞』となり、橋がかりをうまく使ったりして、また後半は神舞となる舞でした。いずれも颯爽たる舞ですから、うまく考えて繋ぎあわされたものと思います。『盤渉早舞』は『融』や『玄象』の後シテが舞いますね。いずれも高貴な身分のシテということで、『神舞』とともに舞って、神功皇后そのものを表したということでしょう。
 見どころは、その天女之舞の段落がつくたびに、例の「戒・定・恵」の、三つの巻物を、その都度、シテみづから箱から取り出してワキに渡し、ワキがその巻物を開いて読む、というところでした。

 つづいて松岡教授は「戒定恵」の三学の経文について、以下のように語っています。

 松の下に「戒・定・恵」の三学の経文が入った箱が納められていて、それを壬生忠岑の行いが正しいからということで、後シテの神功皇后が見せてあげる、というのが『箱崎』の筋になるわけです。ところが現在の筥崎宮の伝承では、単に戒定恵の三学とは言わなくて、それは胞衣(えな・胎盤と臍の緒)だと言うんです。神功皇后がが応神天皇を産んだその胞衣がそこに収められている。だから前シテの里女、つまり神功皇后が恥ずかしそうにそこを掃いている、というのはじつは自分が産んだ天皇の胞衣が納められている場所を清めている、というおもしろいシチュエーションになるのかも知れません。

 『箱崎』において「戒定恵(慧)の三学」という言葉が頻繁に表われてり、重要な意味をもつようですが、よく理解できません。困ったときの Wikipedia だのみ、さっそくお知恵拝借といたしました。

 三学とは、仏道を修行する者がかならず修めるべき基本的な修行項目をいう。具体的には、戒学・定学・慧学の3つを指す。
 戒学(かいがく)とは、戒のことで、「戒禁」(かいごん)ともいい、身口意(しんくい)の三悪(さんまく)を止め善を修すること。
 定学(じょうがく)とは、禅定を修めることで、心の散乱を防ぎ安静にするための方法を修すること。
 慧学(えがく)とは、智慧(パンニャー)を修めることで、煩悩の惑を破って、すべての事柄の真実の姿を見極めること。
 三学それぞれの関係は、●戒をまもり生活を正すことによって定を助け、●禅定にある心によって智慧を発し、●智慧は真実を正しく観察することができ、それによって真理をさとり、仏道が完成される。
 このように、戒定慧の三学は不即不離であり、この三学の学修をとおして仏教は体現される。

ということのようですが、ますます解らなくなったというのが、正直なところであります。


 以下に、『箱崎』の全文を掲載します。


《次第》

ワキ
ワキツレ

「誓ひ直(すぐ)なる神詣で。誓ひ直なる神詣で。宮路や絶(たえ)せざるらん

《名宣》
ワキ

「抑(そもそも)是は延喜の聖主に仕へ奉る。壬生の忠岑とはわがことなり。われいまだ九州箱崎の八幡へ参らず候程に。この秋思ひ立ち九州の旅におもむき候

《道行》

ワキ
ワキツレ

「上野に通ふ秋風の。上野に通ふ秋風の。音も吹飯(ふけい)の浦伝ひ。明石の渡(と)よりかく寄りてげに定めなき旅の空。なほ遥かなる播磨がた。室のとも君きぬぎぬの。朝妻船やしらぬひの。筑紫の地にも。着きにけり筑紫の地にも着きにけり

《一セイ》

シテ
ツレ

「箱崎の。松の葉守の神風に。月もさやけき。夕べかな

《二ノ句》
ツレ

「浦浪までも打時雨

 

シテ
ツレ

「秋深げなる。気色かな

《サシ》
シテ

「面白や馴れて聞くだに物凄き。此一浦の松の風

 

シテ
ツレ

「かはらぬ色は是とても。神の誓ひの恵みかと猶色めける箱崎の。浦わの秋も。神さびて。松陰清き。やしろかな

《下歌》
 

「木の間の月も影ろひて白砂(はくさ)に続く通路の

《上歌》
 

「直(すぐ)に守のその誓ひ。直に守のその誓ひ。隔てはあらじ神垣の。みづから運ぶ芦田鶴の。立居の心怠らぬ宮路直なる。頼みかな宮路直なる頼みかな

 
ワキ

「いかに是なる女性に尋ね申すべき事の候

 カカル
シテ

「恥かしやさも月の夜と云ひながら。暗き木陰に立ち寄りて。人には見えじと思ひしに。顕れけりな下松の。影見えけるか恥かしや

 
ワキ

「何をか包ませ給ふらん。女性の御身として。此松一木に限り陰を清め給ふこと不審にこそ候へ

 
シテ

「これこそ箱崎の松と申して隠れなき松にて候へ

 
ワキ

「さらばこの箱崎の松の謂はれを御物語候へ

《語》
シテ

「抑この箱崎の松と申すは。忝(かたじけなく)も神功皇后。異国退治の御時。この国に下り戒定恵の三学の妙文を。金(こがね)の箱に入れて。この松の下に埋(うづ)み給ふにより。箱崎とは申すなり。さればある歌にも

 

シテ
ツレ

「箱崎の松吹く風も浪の音も。たぐへて聞けば

《下歌》

「四徳波羅密の。法のしるしの松陰の。塵を払ひ清めてこそ。五障の曇なき。真如の月も漏るべけれ

《上歌》
 

「秋なかば松風の。秋なかば松風の。時雨顔には音すれど。曇はあらじ月影の。霜をば払はじ落葉をば。いざやかかふよ。何をかいつとて松風の。驚くべしや世の中は。夢のうちの夢ぞや煩悩の塵を払はん

《クセ》
 

「払へどもよも尽きじ。吹けばぞ落葉松の風。所は箱崎の。汀(みぎわ)も近し浦浪の。藻塩草やよるらんそれならばかくと人や見ん。海士にてはなき物をただ神松葉清めん

《ロンギ》
 

「しるしの松の葉風には一入(ひとしお)音も澄むやらん

 
シテ

「げに声も妙なりや。げに声も妙なりや。御法の上の松風

 

「実相の嵐ふけ過ぎて。月も心も澄みゆくや

 
シテ

「それぞ真如の玉松

 

「霜さへ増る暁の。鐘の響きに音そふは

 
シテ

「げに妙なりや彼の岸に

 

「打つ浪は茫々たり。金(こがね)の名ある箱崎の。松風颯々たり。げによく聞けば法の声の。しるしの松なれや有難のみかげかなやな

 
シテ

「いかに壬生の忠岑に申すべき事の候

 
ワキ

「何事にて候ぞ

 
シテ

「かの戒定恵の三学の妙文の。法の箱は拝みたくはましまさぬか

 
ワキ

「さん候拝みたくは候へども。我等迷ひの凡夫として。か程に妙なる法の箱を。いかでかたやすく拝むべき

 カゝル
シテ

「御身一心清浄にて。この松陰に座したまはば。かならず奇特を見すべき也

 
ワキ

「そもや奇特を見すべきとは。御身はさても誰が人ぞ

 
シテ

「よし誰なりともただ頼め。それ諸仏の誓ひ様々なりといへども

 
ワキ

「殊に誓ひは世に越えて

 
シテ

「悪(あし)きをだにも漏らさじの

《上歌》

「他の人よりは我が人と。誓はせ給ふ御神の。御母は我なりや。汝多年の信心を守る其の故に。かかる奇特を見すべし。半時ばかり待つべしや。松の葉の木陰れに。かきけす様に。失せにけりかきけす様に失せにけり 《中入》

《待謡》
ワキ

「嬉しきかなやいざさらば。嬉しきかなやいざさらば。この松陰に旅居して。風も嘯(うそむ)く寅の時。神の告をも。待ちて見ん神の告をも待ちて見ん

 
後シテ

「真如平等の松風は

 

「般若の真文を講じ

 
シテ

「法性随縁の月の光は

 

「箱崎の浪に。影清し 《イロエ》

 カゝル
シテ

「利益諸衆生現世成悉地。後生成菩提。説妙法花経

 

「示現大菩薩の誓ひによって

 ノル

「納めし法の箱崎の。二度(ふたたび)開くや法の花 《天女之舞》

 ノル

「願ひもみつの光さし。願ひもみつの光さし。弥陀誓願の。誓ひを顕し衆生の願ひをみてしめ給ふ去程(さるほど)に。海原や。博多の沖に。かかりたる。唐土船も。時つくり。鳥も音を鳴き。鐘も聞こゆる。明(あけ)なば浅まし。玉手箱。又埋み置く。しるしの松の。もとのごとくにおさまる嵐の。松の陰こそ。久しけれ




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  (平成19年 7月22日・探訪)
(平成28年 2月17日・記述)
(令和 2年 9月10日・追記)


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