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信州・善光寺 〈柏崎・土車〉


 2009年6月20日~22日の3日間の謡友との佐渡の旅を終えて、23日からは北陸の謡蹟を巡るべく、ひとり旅を開始しました。昨日は佐渡から新潟を経て柏崎で一泊、今日は先ず謡曲『柏崎』のシテの足跡をたどって、ここ柏崎から、越後の国府のあった直江津を経て長野善光寺へお参りし、併せて『土車』の謡蹟を訪問。その後、福井県武生まで足を延ばして『花筐』の謡蹟を探訪するという、ちょっと欲張った試みです。
 ここ柏崎の地は謡曲『柏崎』のスタート地点ですので、まず『柏崎』について。


  謡曲「柏崎」梗概
 『申楽談義』に「鵜飼、柏崎などは、榎並左衛門五郎作也。さりながら、いづれも悪き所をば除き、良きことを入れられければ、皆世子の作なるべし。今の柏崎には土車の能の曲舞を入れらるる。」とあり、榎並左衛門五郎の原作を世阿弥が改作したものである。


 訴訟のため鎌倉に滞在中であった越後国柏崎の某が病没し、一子花若はこれを嘆き出家すると行方不明になってしまう。家臣の小太郎は形見の品と花若の文を持って柏崎に帰り、花若の母に事の次第を告げる。夫の死と子の遁世という二重の悲しみのあまり、母は心乱れ、柏崎を狂い出て信濃善光寺にたどりついた。夫の後生善所とわが子との再会を祈ると、折りよくこの寺に弟子入りしていた花若と再会を果たすのである。

 狂女に弥陀讃仰の曲舞ほ舞わせるのが主眼であって、そのために所を善光寺とし、夫との死別・子との生別を狂気の因由としたものである。

 本曲の長大なクセは『申楽談義』にあるように、もと『土車』のクセを取り入れたものであるとされ、それが世阿弥の改作のポイントと考えられるこのクセは恋慕・哀愁・釈教の三要素を備え、構成上、本曲の中心となる部分である。


 柏崎殿に仕える小太郎が、柏崎殿の病死と子息の花若が行方不明となった知らせを持って、鎌倉から越後国柏崎に帰郷します。


名ノリ ワキ「これは越後の國柏崎殿の御内みうちに。小太郎と申す者にて候。さても頼み奉りし人は。訴訟の事の候ひて。ざい鎌倉にて御座候ひしが。たゞ假初かりそめに風の心地と仰せ候ひて。程なくむなしくなり給ひて候。また御子息花若殿も。同じく在鎌倉にて御座候ひしが。父御の御別れを嘆き給ひ。何處いづくともなく御遁世とんせいにて候。さる間花若殿の御文に。御形見の品々を取り添へ。只今故郷ふるさと柏崎へと急ぎ候
道行しぬべき。日影も袖や濡らすらん。日影も袖や濡らすらん今行く道は雪の下。一通り降る村時雨。山の内をも過ぎ行けば。袖冴え増さる旅衣。碓氷の峠うち過ぎて。越後に早く。着きにけり越後に早く着きにけり


 小太郎から夫の死と花若の遁世を聞いた花若の母は、悲嘆にくれながらも我が子の安穏を神仏に祈るが、悲しみのあまり心乱れ、柏崎を狂い出て善光寺にたどり着きます。
 謡曲のストーリーに準じて、柏崎から府中、善光寺へとシテの足取りをたどってみたいと思います。



 《香積寺》 新潟県柏崎市西本町3丁目4−3

 先ず謡曲『柏崎』前段の舞台である柏崎市の香積寺を尋ねました。墓地を廻りお寺の正面に出ますと立派な山門がありました。後でお聞きしたところによれば平成7年に建立されたものです。曹洞宗の寺ですので門前には「不許葷酒入山門」の碑が厳めしく立っています。「葷酒山門に入るを許さず」と読めば普通でしょうが、皮肉って「許されざる葷酒山門に入る」とも読めるとか。


香積寺山門


 この寺は建長年間柏崎権頭勝長の建立といわれており、山門を入った右手に、市指定文化財として「柏崎勝長邸跡」の説明書きがありました。

   謡曲「柏崎」にある柏崎勝長の館跡
 伝説によると、柏崎勝長公の家は鵜川の柏の大樹の東北にあったと言われている。勝長は柏崎の最初の長(おさ)と伝えられ、室町時代に成立した謡曲「柏崎」(榎並左衛門五郎作、のちに世阿弥が改作して完成した狂女物の謡曲)に登場する「柏崎殿」であると言われているが、その詳細は不明である。勝長邸は、彼が没後その遺言により、菩提寺であるここ香積寺に寄進され、剣野村から現地へ移転したと伝えられる。
 勝長公の碑は、江戸時代の建立であり、内室の位牌は香積寺にある。享保3年(1718)5月22日付、善光寺庚申堂別当堂照坊より柏崎勝長公と善光寺にまつわる由緒書を受け、寛保3年(1743)には五百回忌が営まれるなど、柏崎文化発祥の源として、古くから郷愁の的となっている。

 この説明書きの奥に、倒壊した墓石があり、謡曲史跡保存会の駒札が立てられてありました。駒札には、

   謡曲「柏崎」と香積寺
 謡曲「柏崎」は、越後国柏崎の豪族が訴訟のため鎌倉に滞在中に病死した。一子花若はこれを悲しみ出家してしまった。その臣小太郎は形見の品々を持って柏崎に帰り花若の母に事の次第を告げる。
 二重の悲しみに母は狂乱の体となり、わが子をたずねて迷い出る。信濃善光寺に辿りついた女は、夫の後生善所と、わが子との再会を祈ると、折りよくこの寺に居た花若と再会を得るという物語である。
 香積寺境内には柏崎親子三人の墓と供養塔がある。近くにある質素なお堂は、柏崎勝長が鎌倉に出向く際に火災のお守りとして祀った秋葉神社で、それが今もなほ守り続けられているのを見ても、庶民の辛苦を訴えた領主の優しい心を連綿と受けついでいる姿がほほえましく思われる。また花若地蔵尊が長野市にある。

と記されています。


秋葉神社の跡と市の説明板


地震で倒壊した石碑


柏崎勝長公石碑


 倒壊した石碑には「柏崎勝長公石碑」と刻まれているので、どうやらこれが駒札にいう供養塔であると思われます。駒札にいう秋葉神社の所在を求めて境内を捜しましたがどうもそれらしいものが見当たりません。お寺に尋ねようと寺務所らしきところの呼び鈴を鳴らしましたが応答なし。まだ朝の9時過ぎなのですがすでに他出されたものか…。仕方なくもとの案内板のところに戻って周りを眺めておりますと、ここには小さなお堂の跡と思しき一区画があります。どうやらここに秋葉神社があったように思われました。
 後日、電話でお尋ねしたところ、平成16年の新潟県中越地震により秋葉神社も墓石も倒壊したとのことで、近い将来再建の計画はあるが何時になるかは不明であるとのことでした。

 ちょっと消化不良のまま香積寺を後にして、次なる訪問地。越後国の国府のあった直江津に向かいました。


下歌「憂き身は何とならの葉の柏崎をば狂ひ出で
上歌「越後の國府こふに着きしかば。越後の國府に着きしかば。人目も分かぬ我が姿。壁生草いつまでぐさのいつまでと。知らぬ心は麻衣。うら遥々と行く程に。松風遠く淋しきは。常盤ときはの里の夕べかや。我にたぐへて哀れなるはこの里。子故に身を焦しゝは野辺の木島きじまの里とかや。降れども積らぬ淡雪の。淺野あさのと云ふはこれかとよ。桐の花咲く井の上の。山を東に見なして。西に向へば善光寺。生身の彌陀みだ如來によらい。我が狂乱はさてきぬ。死して別れし夫を導きおはしませ


 柏崎から直江津まで信越本線で30分足らず、海と山に挟まれた回廊を列車は進みます。かつて花若の母もこの風景の中を歩いたものでしょうか。
 さて、越後の国府があったという直江津ですが、国府の跡がどこにあったか明確ではないようです。直江津駅前の観光案内で尋ねましたが分からないとのことでした。国府という地名は残っていますので(これも当てにはなりませんが)、それらしき所として、国府八幡宮、五智国分寺、本願寺国府別院を訪ねることにいたしました。


 《府中八幡宮》 新潟県上越市西本町3丁目5

 府中八幡宮は直江津駅から数百メートル、イトーヨーカドーの北側に鎮座していました。NHKの大河ドラマ「天地人」にあやかろうとしてか、「天地人」の幟が社殿の周りにはためいています。神様がテレビドラマにあやかろうとは、世の中「何れを順と見、逆なりと言はん」といった感があります。


府中八幡宮拝殿


 当社の説明書きには、祭神は誉多別命で沼河姫命と建御名方命の二神を合祀、昔は阿比多御館といい高志総社であったと記されています。越後国の総社ということは国府の近くに建てられてあったと言えましょう
 謙信公をはじめとして上杉氏の敬仰が厚く、江戸幕府においても崇信の念が高く社領を百石と定めたとあり、歴代の高田城主の帰依も深かったようです。


府中八幡宮全景

空海筆の扁額


 また当八幡宮の鰐口は上越市および新潟県の指定文化財とされています。この鰐口には
 「奉施入鰐口岡前寺千手観世音越後国頚城郡府中右所願成就皆令満足故也
との刻銘があり、かつて府中八幡宮は千手観音を祀る岡前寺とともに、神仏混淆の信仰対象であったようです。
 おそらく明治の廃仏毀釈で岡前寺は廃寺となり、その鰐口が八幡宮に遺されたものではないでしょうか。そう思って拝殿を見上げると、鰐口ではなく鈴が吊るされていたのは当然でしょうが、八幡宮と刻された扁額があり「空海筆」と刻まれてありました。空海の真筆であれば国の文化財かそれに近い扱いとなるでしょうから、先ず贋作なのでしょう。

 八幡宮から1キロほど西に歩くと五智国分寺があります。国分寺の南側に「国府」という地名が付けられており、八幡宮からの道すがら、「国府小学校」とか「介護老人保健施設・国府の里」など「国府」を冠した施設があります。また直江津は親鸞の配流の地であり、親鸞にまつわるいろいろな史跡や伝承が残されています。



 《五智国分寺》 新潟県上越市五智3丁目20-21


 五智国分寺は、天平13年( 741)に聖武天皇の勅命により行基が開基、その後、幾度となく災厄を重ね、永禄5年(1562)に上杉謙信によりこの地に真言宗の寺院として再興されました。もとの地はもっと海岸よりにあったらしいとのことで、開創時の場所は定かではないようです。
 その後上杉家が会津へ転封、新しく領主となった堀秀治と対立し弾圧を受けて無住となりましたが、徳川家康の許しで天海の弟子の俊海が天台宗の寺として中興しています。
 仁王像は天保7年(1836)に、名立出身の永井要壱と弟子二人によって製作されたもので、新潟県でも稀にみるものとのことです。


五智国分寺仁王門


 当寺は俊海が天台宗の寺として中興した後も幾度となく火災に遭い再興を繰り返しています。現在の本堂は昭和63年焼失後、平成9年に再建されたものです。
 本堂に祀られている本尊五智如来は、胎蔵界の大日如来、薬師如来、宝生如来、阿弥陀如来、釈迦如来で、五智とは、大日如来の五つの智慧をあらわしているそうです。


北門

本堂


 また本堂には上杉景勝の朱印状が展示されていました。読み下し文は以下のようです。

前代の節目に任せ、国分寺領の諸役を停止し郡司不入たるべく候。然者(しからば)修造ならびに堂参勤行を退転無く、これを勧めらるべき者也。仍(よつて)件の如し。
天正拾弐年三月十日
三門徒

 謙信と同様に景勝も国分寺を手厚く保護した模様です。

 三重の塔は、安政3年(1856)に宮大工木曽武川常右衛門、江崎長三郎の手により着工され、慶応元年(1865)に上棟され整備されてきましたが、高欄などが未完成のまま現在に至っています。また、塔の一層の壁面には高田の名工石倉正義銘の十二支の彫刻が、二層には中国二十四孝の中から選んだ十二孝の彫刻がはめ込まれています。


上杉景勝の朱印状

三重塔



直江津港を背景に、国分寺
三重塔と親鸞上人像を描く
直江津郵便局風景印

朱印


史跡春日山城を描き、
直江津港に国分寺三重塔を
配した五智郵便局風景印

 直江津郵便局と五智郵便局の風景印に、いずれも国分寺三重塔が描かれていました。

 国分寺北側の裏門より境内に入ると親鸞上人の配所であった竹之内草庵(親鸞堂)があります。以下は草庵に掲げられた「親鸞聖人越後配所草庵縁起」よりの転載です。

 平安末期から鎌倉時代にかけて、法然の開宗した専修念仏へ弾圧が加わり、承元元年(1207)75歳の法然は土佐へ流され、その高弟の35歳の親鸞聖人は藤井善信と還俗させられ越後に配流となりました。流罪となった親鸞聖人は国分寺境内の竹ノ内草庵で、国府代官萩原敏景の監視のもとに「延喜式」による流人の生活を約一年間送りました。
 翌年、代官の命令で「竹ノ内草庵」から「竹の前草庵」に移られる。延暦元年(1211)勅使岡崎中納言が国府に到着し「赦免の宣旨」を授けた。赦免を喜んだ聖人が、別れを惜しむ同行の心根を思い、国分寺の北にある鏡ヶ池に自らの姿を映し刻まれたと伝えられる、親鸞聖人座像が竹ノ内草庵(親鷲堂)に安置されています。なお、国分寺の東に聖人が日常用いた清水が今もなお涸れることなく湧きいでております。また境内には聖人旅立ちの像、御配所草庵跡地の碑、句仏上人の碑があります。

 句仏上人は、真宗大谷派管長で東本願寺第二十三代法主の大谷光演師で、明治から大正時代にかけての浄土真宗の僧。生涯に多くの俳句を残し、文化人としての才能を発揮、日本俳壇界に独自の境地を開いています。境内の碑には「御配所我泣く夜半をほととぎす」とありました。


竹之内草庵

親鸞上人像


 経堂近くには、芭蕉の句碑が2基建てられてありました。ひとつは比較的新しく「古池や蛙飛こむ水のおと」と刻まれています。もうひとつの古い碑には「薬欄にいづれの花をくさ枕」とありました。これは芭蕉の「奥の細道」三百年の記念事業として、上越市が立てたもののようです。その説明書きによれば以下のようです。

  薬欄にいづれの花をくさ枕
「薬園の草が秋で美しいが、どれを枕としてここに旅寝しようかと、主人への挨拶をこめて詠んだもの」と解される。元禄2年(1689)7月8日(旧暦)、高田の医師細川春庵を訪れた時の作句である。春庵は薬草を栽培し、庭は泉水その他美しい庭だったと言われている。
 松尾芭蕉は、正保元年(1644)伊賀上野に生まれ、俳句の道を志し、20歳の頃に初めて俳書に掲載された。寛文12年(1672)江戸へ出て創作活動を続け、元禄2年3月末、弟子の曽良を伴い奥の細道の旅に出ている。
 芭蕉は、旧暦7月2日新潟、三日弥彦、4日出雲崎、5日鉢崎(現柏崎市)を経て6日に今町(直江津)を訪れ、翌7日も滞在し、8日から10日まで高田で過ごしたようである。
 この句碑は、明和7年(1770)に建てられたものである。


芭蕉句碑(葉蘭に…)

芭蕉句碑(古池や…)


 さすがに当寺の境内は広大で、仁王門の近くに茶店がありました。冷たいものを食し、しばし休息をとります。ここの名物はトコロテンのようで、後からやってきた男性二人がトコロテンを注文し、トコロテンは箸1本で食べるものだと蘊蓄を傾けておりました。


 《本願寺国府別院》 新潟県上越市国府1丁目7-1


 国分寺の仁王門を出て、本願寺国府別院を目指し南に下りました。このあたりの地名は「国府」となっています。越後国の一宮である居多神社もすぐ近くにあり、国府はおそらくこの近辺に置かれたものと思われます。謡曲『柏崎』のシテ、花若の母もこのあたりを通過して善光寺へと旅立っていったものでしょう。


国府の町名

配所国府御坊


 国分寺を少し南に下ると「配所国府御坊」と「国府御影堂」の碑があります。これは東にある光源寺の一画のようです。光源寺は親鸞の弟子で木曽義仲の家来だった最信によって開かれた寺で、親鸞が罪を許された際に自ら描いたという「御満悦の御影」を安置し、国府御影堂または国府御坊と呼ばれてきました。


国府別院

親鸞聖人像


 承元元年(1207)越後に配流となった親鸞は、国分寺境内の竹之内草庵で約1年を過ごした後、南方の竹ヶ前(たけがはな)草庵に移ります。この草庵の跡地に文化2年(1805)に建てられたのが現在の国府別院です。



国府別院本堂

朱印

 国府別院では近日大きな催しがあるらしく、檀家の方でしょうか手伝いの方々で、あわただしく境内の清掃やら本堂の飾りつけなどが行われておりました。詳しい話も聞けぬまま、御朱印だけ頂戴して別院を後にしました。


 今日は直江津に泊り明日長野の善光寺に詣でる予定です。残った時間で市内の郵便局廻りをいたしました。その途次、直江津の市街地を歩いていますと、この街並が少し変わっています。歩道の内側にもう一筋歩道があり、この歩道の上に二階の部分が張り出して、歩道の屋根の役割を果たしていました。店舗や住宅の一階が歩道部分だけ狭くなっているのでしょうか。
 また、関川に架かる橋の欄干には「山椒太夫」のレリーフが飾られてありました。森鴎外『山椒太夫』の書き出しの部分…。

 越後の春日を経て今津へ出る道を、珍らしい旅人の一群れが歩いている。母は三十歳を踰えたばかりの女で、二人の子供を連れている。姉は十四、弟は十二である。それに四十ぐらいの女中が一人ついて、くたびれた同胞二人を、「もうじきにお宿にお着きなさいます」と言って励まして歩かせようとする。二人の中で、姉娘は足を引きずるようにして歩いているが、それでも気が勝っていて、疲れたのを母や弟に知らせまいとして、折り折り思い出したように弾力のある歩きつきをして見せる。近い道を物詣りにでも歩くのなら、ふさわしくも見えそうな一群れであるが、笠やら杖やらかいがいしい出立ちをしているのが、誰の目にも珍らしく、また気の毒に感ぜられるのである。


直江津の街並

山椒大夫の欄干


 実は、山椒大夫といえば丹後地方あたりの物語とばかり思っていましたが、鴎外の『山椒太夫』を読んでみると、このあたりがその発端となっているようです。なんとなく軽いカルチャーショックにさいなまれながら、直江津駅前のホテルに帰りその夜を過ごした次第です。


 明くれば6月24日、8時過ぎの信越本線の列車に飛び乗り長野へと向かいました。謡曲での花若の母の足取りは、越後の国府、常磐の里、木島の里、浅野、井の上、善光寺ということになります。
 常磐と木島は現在の飯山市に、浅野は豊野町に、井の上は須坂市に、それぞれその地名が残っています。花若の母は直江津から国道 292号線方面の経路で飯山市に入り、国道 117号線の経路で豊野町、須坂市の井上から西に向かって善光寺に着いたものと思われます。
 私が長野に到着したのは10時少し前、霧雨がかすかに煙っていましたが、タクシーで善光寺に着いたころにはすっかり上がっておりました。


 《善光寺》 長野市元善町491


 古来「牛に引かれて善光寺参り」とか「遠くとも一度は詣れ善光寺」などと言われている善光寺に初めてお参りすることになりました。しかしそれが謡蹟めぐりの一環であって信心のなせる業でないのですから、何をかいわんやということでしょうか。

 さて、花若の母は柏崎を発ち、国府などを経て信濃国善光寺にたどり着きました。そこには出家した花若がおり、母子は無事再会を果たします。


シテ「敎へは元より彌陀如來みだによらいの。御誓ひにてはましまさずや。唯心ゆゐしんの浄土と聞く時は。この善光寺の如来堂の。内陣こそは極樂の。九品くほん上生じやうしやううてななるに。女人の參るまじきとの御制戒せいかいとはそもされば。如来の仰せありけるか。よし人々は何とも言へ。聲こそしるべ南無阿彌陀佛
「頼もしや。頼もしや
シテ「釋迦は
「彌陀は導く一筋に。此を去る事遠からず。これぞ西方極樂の。上品じやうほん上生じやうしやうの内陣にいざや參らん。光明遍照十方の。誓ひぞしるきこの寺の。常の燈火ともしび影頼む。夜念佛よねぶつ申せ人々よ。夜念佛いざや申さん


 善光寺の本尊は一光三尊阿弥陀如来というそうで単立の寺院、欽明天皇13年( 552)、仏教伝来の折りに百済から日本へ伝えられた日本最古の仏像といわれています。その後紆余曲折を経て推古天皇の命により、本田善光の手で初め長野県の飯田市に、次いで現在地に遷座しています。「善光寺」の名はこの本田善光の名から付けられたそうです。

 さすがに善光寺は大寺です。郵便局を廻った関係で北門から入場し、本堂にお参りをしました。すでに観光客をはじめとして参拝者で本堂前はかなりの人出でありました。


善光寺本堂


 善光寺本堂は国宝に指定されています。以下は本堂についての説明書きです。

 善光寺本堂は、皇極天皇元年( 642)の創建以来十数回の火災に遭っており、現在の建物は宝永4年(1707)の再建です。間口は約24メートル、奥行は約54メートル、高さは約26メートルあり、江戸時代中期を代表する仏教建築として国宝に指定されています。
 本尊を祀る仏堂に、参拝者のための礼堂(らいどう)が繋がった特殊な形をしており、棟の形が鐘を撞くT字形の道具・撞木(しゅもく)に似ていることから「撞木造り」と呼ばれています。国宝建造物の中では東日本最大、檜皮葺建造物の中では日本一の規模を誇る広大な建物です。
 床下には約45メートルの暗闇の回廊があり、秘仏の御本尊・善光寺如来様と結縁する「お戒壇めぐり」をすることができます。

 行程は多少前後しますが、仁王門外にある善光寺郵便局と長野桜枝郵便局の風景印に当寺本堂が描かれていますので、ここに掲載しておきます。




善光寺本堂と駅頭の如是姫像
をかたどる噴水塔を描いた
善光寺郵便局風景印

朱印


りんごの中に善光寺本堂と
仁王門を描き桜の枝を配した
長野桜枝郵便局風景印


 本堂の右手のあずまやに「牛にひかれて善光寺まいり」の伝承が書かれてありました。

 むかし、善光寺から東に十里、信濃の国小県郡に強欲で信心が薄く、善光寺に一度もお参りしたことのないお婆さんが住んでいました。ある日、川で布をさらしていたところ、どこからか一頭の牛が現れ、角に布を引っ掛けて走りだします。そこで慌てたお婆さんは布惜しさに取り戻そうと一生懸命に追い掛けました。そして気が付いてみるとそこは善光寺。牛の姿はなく、角に引っ掛けられたはずの布は如来の厨子の前にありました。実は、布をさらった牛は善光寺如来の化身だったのです。そのことら気付いたお婆さんは自分の不信心を悔い、善光寺如来に手を合わせ、以来信心深くなって善光寺に度々参詣に訪れ、極楽往生を遂げたとのこと。

 本堂の左手には、経蔵、輪廻塔などと並んで「むじな燈籠」がありました。以下はこの燈籠にまつわる伝承です。

 昔、下総国(現在の千葉県)のむじなが、殺生をしなければ生きていけない自らの罪を恥じ、人の姿に化けて善光寺に参詣しました。むじなは善光寺に燈籠を寄進したいと願っていましたが、宿坊でうっかりむじなの姿のまま入浴していたところを人に見つかり、何処かへ逃げ去りました。むじなを不憫に思った宿坊の住職が、その願いを叶えるため、この燈籠を建てたといわれています。



むじな燈籠

謡曲史跡保存会の駒札


 その隣には「謡曲と善光寺」として、謡曲史跡保存会の駒札が立てられています。

   謡曲と善光寺
 大衆信仰の寺である善光寺は、謡曲にも数多く謡われております。
 「土車」の物語は、妻に死別して世を捨てた深草少将が当寺を訪れる。一方、家臣の小太郎も父・少将を慕う若君を土車に乗せて、全国を尋ね歩き当寺にたどり着く。二人に気づいた少将は、自身の出家の妨げになるとして、一旦やり過ごす。が、絶望して川に身を投げようとする二人を呼び止め、再会を喜び合う。
 「柏崎」「山姥」「道明寺」「藤」なども、この弥陀如来さまに救いを求めてお参りに来るのは同じで、昔から善光寺がだれにも頼られ、だれをも受け入れてきたことを物語っています。

 上記の駒札に述べられているように、善光寺を舞台とした曲に『土車』があります。昭和25年~平成21年の60年間での演能回数が僅か37回と、決して人気曲とはいえませんが、『土車』について考察したいと思います。


  謡曲「土車」梗概
 作者は世阿弥。典拠未詳。観世、喜多二流の現行曲。

 深草少将は妻に死別してから世をはかなみ、一人の子を捨てて出家し、諸国を廻りながら信濃の善光寺にやって来る。一方、少将の若君の守役である小次郎は、父を慕う幼主の有様を見るに忍びず、土車に幼な児を載せて、物乞いとなり諸国を廻りながら善光寺にたどり着く。

 僧形の少将はわが子と小次郎を見かけ、それと気付き名のろうとするが、ここが三界の絆の切り7どころと思い直してそのまま行き過ぎる。子と小次郎は、父に会えぬことを嘆き川に身を投げようとするが、引き返してきた少将がこれを引き留め、三人は再会を喜ぶのである。

 本曲にあった「善光寺の曲舞」を『柏崎』に移したことが『申楽談義』により知られ(前述)、したがって本曲のクセは、のちに作って挿入したことになる。
 シテ・子方が登場の際、橋掛りに土車の作り物を出し、子方がその中に立ち、シテは引綱を引く。

 シテは腰に鞨鼓を付けて登場するが、それを討って舞う〈鞨鼓〉の舞は本曲にはない。なお主君を尋ねる男者狂いをシテとする作品には、他に『高野物狂』がある。


下歌 地「この歌のことはりに。この歌の理に。鬼もめでゝ去りぬれば。千方ちかたも亡び候ひて。一天いつてん四海しかい波を。うち治め給へば國も動かぬあらかねの。土の車の我等まで。道せばからぬ大君の。御影みかげの國なるをば獨りかせ給ふか
シテ「殊さら當國信濃路しなのぢ

「木曽の棧道かけはしかけてげに。賴みもあよほからぬ。のりの聲立てゝなほ。諸人しよにんあはれみ他の力洩らさじものを彌陀佛みだほとけの。御影もあまねく憐ませ給へ人々。憐みの中にもこのお佛ぞ上なき。佛は衆生しゆじやうを一子とおぼし召さるれば。殊さら我等が影賴み賴む中にも。弥陀ははわにてましませば。父にも逢はせて給へなまみだ
シテ阿彌陀佛あみだぶつ
「阿弥陀佛。歌舞の菩薩聲々に。花の振鼓ふりつづみ篳篥ひちりき笙の笛和琴わごん。聲を上げて叫べども。父とも答へず哀れとだにも知らざれば。よしそれまでぞささら八撥やつばちをも。うち捨てゝ狂はじ皆うち捨てゝ狂はじ皆うち捨てゝ狂はじ



 一昨日、佐渡の旅の途次、K氏との話で、深草少将が登場する曲が『通小町』以外に何があったか、を思い出そうとして、二人とも思いだせず、宿題にしたのですが、『土車』がそれでした。かつて「ワキ」の人別帳なるものを調べたときに「深草少将のなれる果」というのがあったのが、喉元にひっかかったまま出てきませんでした。

 経蔵の方面から山門の方へ廻って行くと親鸞聖人像が建てられています。親鸞は越後から東国への旅の途中、ここ善光寺に立寄り、善光寺如来に松の枝をお供えしたということです。


親鸞聖人像

石像宝篋印塔


 山門の脇には、石像宝篋印塔がありました。この地方で最古の逆修供養塔で、応永4年(1397)の銘が入っており、長野市の文化財に指定されています。源義経の忠臣である佐藤継信・忠信兄弟の供養塔といわれており、若くして戦死した兄弟を供養するため、母親の梅唇尼が建てたと伝えられています。

 ここから再び本堂の右側に廻りました。こちらには庭園が広がっており茶屋もありました。茶屋で一息ついて、さらに境内の探訪を続けます。


山頭火句碑

一茶句碑


 先ずお目にかかったのは種田山頭火の句碑です。山頭火が善光寺に参詣したのは昭和11年(1936)年のこと。句碑には以下の句が刻まれてあります。

   八重ざくらうつくしく南無観世音菩薩像
   すぐそこでしたしや信濃路のかっこう

 続いて小林一茶の句碑がありました。

   春風や牛に引かれて善光寺
   開帳に逢ふやすずめも親子連

 一茶は北国街道柏原宿(現・長野県信濃町柏原)の生まれ。この句は、善光寺奉納句として詠んだものでした。


鳩ぽっぽ歌碑

庭園風景


 その奥には針供養塔の横に「鳩ぽっぽ歌碑」が建てられています。

 東くめ作詞、滝廉太郎作曲の唱歌「鳩ぽっぽ」の歌碑です。東くめは善光寺の鳩の姿を見て歌詞を作ったといい、碑文は本人の自筆によるものです。絵は長野市出身の鈴木万平の作です。
 東くめと滝廉太郎による童謡は、明治34年発行の『幼稚園唱歌』に多数収められ、この歌も「お正月」「雪やこんこ」などと共に広く愛唱されました。

 再び山門の方に戻る途中に鐘楼があります。梵鐘は重要美術品に指定されており、寛文7年(1667)鋳造の名鐘で、平成8年には「日本の音風景百選」に選ばれ、平成10年2月7日の長野冬季オリンピックでは、この鐘の音が開会の合図となったそうです。


鐘楼

濡れ仏


 山門の脇には、これも重要美術品の「濡れ仏」の坐像があります。以下はその説明書きです。

 享保7年(1722)に完成した、高さ約 2.7メートルの延命地蔵菩薩座像です。六十六部(日本全国を行脚する巡礼者)の供養のため、法誉円信が広く施主を募って造立したものです。江戸の大火の火元として処刑され、のちに歌舞伎や浄瑠璃の題材となった「八百屋お七」の冥福を祈り、恋人の吉三郎が造立したという伝説もあります。

 再度山門まで帰って来ました。寛延3年(1750)に建立された二層入母屋造りの山門は重要文化財に指定されており、楼上には輪王寺宮公澄法親王筆の「善光寺」と書かれた額が掲げられています。この額は通称「鳩字の額」と呼ばれており、3文字の中に鳩が5羽隠されているそうです。さらに「善」の一字が牛の顔に見えると言われ「牛に引かれて善光寺参り」の信仰を如実に物語っているとのことです。


山門


 山門から仁王門までの間にも数多の見るべきものがありますが、その一つに旧如来堂跡地蔵尊があります。説明書きによりますと、

 善光寺本堂は、古くは「如来堂」と呼ばれ、皇極天皇元年( 642)の創健から元禄13年(1700)までの間はこの場所にありました。この地蔵尊は旧本堂内の瑠璃壇(ご本尊善光寺如来さまをご安置した壇)の位置に建てられています。

ということですから、『柏崎』の花若の母がクセ舞を舞い、わが子と巡り会えたのは、この場所であったのでしょう。


旧如来堂跡地蔵尊

良寛詩碑


 仁王門の西側に、良寛の詩碑が建てられてありました。

 この漢詩は良寛さまが42歳のころ、帰郷の途路二回目の善光寺参詣の折におつくりになられたものです。

   再游善光寺     善光寺に遊ぶ
  曾從先師游此地   曽て先師に従ってこの地に遊ぶ
  廻首悠悠二十年   首を回らせば悠々二十年
  門前流水屋後嶺   門前の流水屋後の嶺
  風光猶似昔日姸   風光猶似たり昔日の妍

「妍(けん)」は、うつくしく、うるわしいこと。


仁王門


 参拝の順序が逆になり、最後に仁王門に到着です。仁王門は宝暦2年(1752)に建立されましたが、善光寺大地震などにより二度焼失したようです。以下門前の説明書きによります。

 現在の仁王門は、当県山形村の永田兵太郎をはじめとする全国信徒の篤志により、大正7年(1918)に再建されました。間口約13メートル、奥行き約7メートル、高さ約14メートル、屋根は銅瓦葺です。
 仁王像および背後の三宝荒神像・三面大黒天像は、近代彫刻の巨匠高村光雲と米原雲海の合作です。「定額山」の額は伏見宮貞愛(さだなる)親王の御筆になるものです。


 かくて『柏崎』と『土車』の謡蹟である善光寺の参拝を終え、この後長野市内の郵便局を10局訪問し、次なる謡蹟の地である越前武生へと旅立った次第であります。




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(平成21年6月23、24日・探訪)
(平成21年8月10日・記録)
(平成31年3月10日・加筆)


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