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神戸・生田の森 〈箙・生田敦盛〉


 2014年3月27日、神戸の生田神社に参拝いたしました。
 生田神社は神戸・三宮駅のすぐ裏手、繁華街に接して鎮座しています。神社の本殿の裏にある「生田の森」に、『箙』と『生田敦盛』の跡を訪ねました。
 ところが私の謡蹟探訪の欠点は、時節外れに訪れることです。以前訪問した高野山では、『高野物狂』に“「霞の奥の高野やま 「時しも春の 「花壇上 「花壇上月傳法院。紅葉三寶院よりもなほ深く。雪は奥の院。”と謡われているにもかかわらず、10月の初めという、全く気の抜けた時期に訪ねるという失敗を犯しています。
 それでも学習効果があるのであればともかく、今回の訪問では、当然“箙の梅”がメインとなるにもかかわらず、梅の季節が終った3月の下旬に訪れるという失敗を繰り返してしまいました。



《生田神社》  神戸市中央区下山手通一丁目2-1

当社の由緒書きには、以下のように述べられています。


生田神社境内図

 祭神は、稚日女尊(わかひるめのみこと)。「稚(わか)く瑞々しい日の女神」を意味し、天照大神の幼名とも妹とも言われています。日本書紀に「稚日女尊が、清浄なる機殿で神服を織っていた所、素盞鳴尊(すさのをのみこと)がこれを見て、逆剥(さかはぎ)の斑駒(ぶちごま)を殿内に投げ込んだため、稚日女尊は大いに驚き給ひ」と見えています。
 また日本書紀の神功皇后の巻に、三韓外征の帰途、神戸港で船が進まなくなったため神占を行った所、稚日女尊が現れ「吾は活田長峡国(いくたのながさのくに)に居らむと海上五十狭茅(うなかみのいそさち)に命じて生田の地に祭らしめ」との神託があったと記されています。
 平安時代の法制書である『新抄格勅符抄』(しんしょうきゃくちょくふしょう)という書物に、大同元年(806)に、神社に奉仕する封戸(ふこ)である神戸(かんべ)244戸が朝廷より与えられたと記されており、それが「こうべ」と変わり現在の神戸(こうべ)という地名の語源になったといわれているようです。

 当社は縁結びの神としても有名なようです。
 いささかミーハー的になりますが、生田神社と言われて思い出すのが、藤原紀香と陣内智則の結婚式が2007年2月に行われたことです。それの効果で当社の結婚式場が大いに活況を呈したことは容易に想像されます。けれども2年後の2009年には早くも離婚。陣内の浮気が原因であったとか、いろいろ取りざたされていましたが…。芸能人、特に女性の芸人というものは、離婚するために結婚するのではないかと思われてなりません。この二人の離婚の影響で、当社での挙式はきっと大幅に減少したに違いないでしょう。
 余談はさておき、境内の史蹟を散策いたします。


二の鳥居

三の鳥居


 当社の一の鳥居は、JR・阪急の高架の南側のビジネス街にあります。本日の参拝ではパスして、二の鳥居からといたしました。時代を感じさせる二の鳥居(ここが神社の入口となっています)をくぐると左に大海神社、右に松尾神社が鎮座しています。
 先ずは、大海神社の由緒について。


 大海神社に鎮座されている御祭臣は、猿田彦大神と申しあげ、神戸の地主神として最も古くこの地に祀られた神であります。その昔文禄元年(1593)、豊臣秀吉公の海外遠征の時、海上安全を守らせ給う神として船内にお祀りになったという故事が伝えられています。
 古来、庶民に大層尊崇を受け、とくに漁人舵子楫取の信仰が厚く、生田の浦を往来する船舶は帆を巻きおろして遙かに敬意を表したといわれています。
 近時は、水先案内の神・海上安全・海運繁昌に御加護のある神として祈願され、海運関係の企業の方々に深く信仰されています。


大海神社

松尾神社


 もう一方の末社、松尾神社の祭神は大山咋神(おおやまくひのかみ)。松尾神社は「酒の神」として崇められているようで、以下「灘五郷酒造の発祥地」とする説明書きです。


 神功皇后の御外征以来、毎年三韓より使節が来訪しております。
 その使節が入朝及び帰国するに当り朝廷では敏馬浦(脇浜の沖)で新羅から来朝した賓客に生田神社で醸造した神酒を振舞って慰労の宴を催しこれ等に賜るのが例でありました。
 この酒は「延喜式の玄番寮」によると生田、廣田、長田(以上攝津国)片岡(大和)の四社より稻五十束ずつを持ち寄り、稻束二百束とし生田神社の境内で生田の社人に神酒を醸造させたもので、この神酒で新羅の要人の宴を賜ったと記されております。これが灘五郷酒造の始めと伝えられておりまして、酒造王国の発祥の地は実は生田神社であると言われております。


 なお、生田神社は縁結びの神といわれていますが、松尾神社にある杉の木に、心を落ち着けて恋愛成就の願いごとをすると願いが叶うと言い伝えられているそうです。


楼門


 朱に輝く三の鳥居をくぐると、重厚な楼門が目に飛び込んできます。
 楼門の左手には「箙の梅」が、また右手には「梶原の井」がありますが、まず正面の拝殿にて参拝をすませ、社務所でご朱印を頂戴しました。この社務所の前には『生田敦盛』にちなむ「敦盛の萩」があります。



生田神社拝殿

御朱印


 参拝をすませて楼門に立ち帰り、謡曲『箙』の史蹟である「箙の梅」と「梶原の井」を眺めることといたしましょう。最初に「箙の梅」です。ちなみに“箙(えびら)”とは、矢を挿し入れて背中に負う武具。矢を差す方立(ほうだて)と呼ぶ箱と、矢をよせかける端手(はたて)と呼ぶ枠からなる。この左右の端手に緒をつけて腰につける。矢の数は24本。


箙の梅

 「箙の梅」の旧跡に立てられた謡曲史跡保存会の駒札“謡曲「箙」と梶原景季”により、『箙』ついて眺めてみます。


   謡曲「箙」梗概
 謡曲「箙」は、梶原景季が箙に梅をさして奮戦した様を描いた勝修羅物である。

 源平盛衰記には、源平一の谷合戦の時、梶原景時、景季父子は生田森で平家方の多勢に囲まれて奮戦した時の様子を『中にも景季は、心の剛も人に勝り、数奇たる道も優なりけり、咲き乱れたる梅が枝を箙に副へてぞ挿したりける。かかれば花は散りけれども匂いは袖にぞ残るらん。“吹く風を何いといけむ梅の花散り来る時ぞ香はまさりけり”という古き言までも思い出でければ平家の公達は花箙とて優なり、やさしと口々にぞ感じ給いける』と称賛の言葉で表している。戦場の凄まじさ、殺伐さの中に、風流な香をただよわせて、何んとも表現のし難い風情である。(謡曲史跡保存会の駒札)



 西国から都に向う僧が生田川に到着する。そこへ来合わせた里人に、当所の梅について尋ねると、これを箙の梅と称する由来を語り、梶原景季の名を告げて消え去る。
 夜更けに箙に梅花の枝を挿した若武者姿の源太景季の霊が現れ、生田の森の合戦における奮戦ぶりを見せ、夜明けとともに立ち去っていった。
 作者は、世阿弥ともいわれるが不詳である。現行の修羅物で、前シテが直面で登場するのは『敦盛』と本曲のみである。『田村』『屋島』とともに勝修羅三番の一つに数えられるが、他の二曲に比べ、キリの一節「もとより雅びたる若武者」に象徴される花やかさと風流な趣向とを持ち、同時に一抹の哀愁感を漂わせる曲である。


 本曲は『平家物語』と『源平盛衰記』に典拠していますが、源太景季が箙に梅を挿したことは『源平盛衰記』に拠っているようです。まず、謡曲の最後の立ち廻りの部分から。


ワキ「山も震動  シテ「海も鳴り  ワキらいくわも乱れ  シテ「悪風の  地こうえんの旗を靡かし紅焰の旗を靡かして。えんに歸る生田川の。波を立て水をかへし。山里海川も。みな修羅道の。ちまたとなりぬ。こはいかに淺ましや
シテしばらく。心を靜めて見れば  地「心を靜めて見れば。所は生田なりけり。時も昔の春の。梅の花さかりなり。一枝りて箙に挿せば。もとよりみやびたる若武者に。相あふ若木のはなかづら。かくれば箙の花もげんも我さきかけん。さきかけんとの。心の花も梅も。散りかゝつて面白やかたきつはものこれを見て。あつぱれ敵よのがすなとて。八騎が中に。とり籠めらるれば  シテ「兜も打ち落されて  地おほわらはの姿となつて  シテ「郎等三騎に後を合はせ  地「向ふ者をば  シテおがみ打ち  地「また巡り逢へば  シテ「車斬  地かく縄十文字。鶴翼飛行の秘術を盡すと見えつるうちに。夢覚めて。しらしらと夜も明くれば。これまでなりや旅人よ。いとま申して花は根に。鳥は古巣に歸る夢の鳥は古巣に歸るなり。よくよくひて賜び給へ


 次に『平家物語』(佐藤謙三校註・角川文庫)の「二度驅けの事」を眺めてみます。ただし、ここでは梶原景季の活躍は描かれていますが、“箙の梅”については触れられていません。


 梶原あぶみ踏張ふんばり立ち上り、大音聲を揚げて、「(中略)梶原平三景時とて、東國に聞えたる一人當千のつはものぞや。我と思はん人々は寄り合へや、見參せん」とて、をめひて驅く。城の内にはこれを聞いて、「たゞ今名のるは、東國に聞えたる兵ぞや。あますな、漏すな、討てや」とて、梶原を中に取りめて、われ討ち取らんと進みける。梶原、先づ我が身の上をば知らずして、源太はいづくにあるやらんと、驅けり驅け廻り尋ぬる程に、案の如く、源太は、馬をも射させかちだちになり、かぶとをも打ち落されおおわらはに戰ひなつて、二丈ばかりありける岸を後に當て、郎等二人にたて、打物抜いて敵五人が中に取り籠められて、おもても振らず命も惜まず、こゝを最期と攻め戰ふ。梶原、これを見て、源太は未だ討たれざりけりとうれしく思ひ、急ぎ馬より飛んで下り、「いかに源太、景時こゝにあり。同じう死ぬるとも、かたきに後を見すな」とて、おやして、五人の敵を三人うつり、二人に手はせ、「弓矢取は、驅くるも引くも折にこそよれ。いざうれ、源太」とて、かい具してぞ出でたりける。梶原が二度のかけとはこれなり。


 『平家物語』に次いで『源平盛衰記』(池邊義象校註・博文館)の「佐巻第三十七・景高景時城に入る」から。前述の「梶原の二度驅け」に続く部分です。ここでは源太景季が箙に梅を挿しての活躍が描かれています。謡曲はこれらを題材として作られたものと思われます。


 詩歌管弦は公家仙洞の翫物もてあそびもの、東夷いかでか、しま難波津の言葉を存ずべきなれ共、梶原は心のがうも人にすぐれ、たる道も優なりけり。咲亂れたる梅が枝を、箙に副へてぞ指したりける。かゝれば花は散りけれども、にほひは袖にぞ殘りける。
  吹く風を何いとひけん梅の花散りくる時ぞはまさりける
と云ふ古きことばまでも思出でければ、平家のきんだちは、はなえびらとて優なりやさしと、くち口にぞ じ給ひける。



箙の梅の碑

謡曲史跡保存会の駒札と子日庵一草句碑


 この時節、残念ながら梅花にはお目にかかることはできません。せめて一月早く訪れておればと思っても、すでに後の祭りというやつです。
 根本にでっかく「えびらの梅」と刻された石があり、謡曲史跡保存会の駒札の左手には「神垣や又とをらせぬ梅の花」と円柱に刻した、子日庵一草の句碑がありました。


   子日庵一草の句碑
碑面に「神垣や又とをらせぬ梅の花」とあり、裏面に「文化元甲子春 子日庵一草」とある。
子日庵一草は文化文政の俳人で、岩手県和賀郡黒沢尻の人である。諸国の神社仏閣名所旧跡を遍歴行脚し、終焉の地を摂津兵庫に求めて、文政2年(1819)11月18日、兵庫の津、鶴路亭において89歳で没した。
この句は、源平合戦の際に、源氏の若武者梶原源太景季が咲き誇る梅の一枝を手に折って箙にさし、獅子奮迅の働きをした故事をふまえ、この生田の森は神聖な神社の境内であるから二度と箙の梅は折らせないと詠んでいる。


 楼門を挟んだ反対側に「梶原の井」があります。


かぢはらの井


 現地の案内板によれば、

   梶原の井
一名「かがみの井」とも云われ、壽永の昔(八百年前)源平生田の森の合戦の折、梶原景季がこの井戸の水を汲んで生田の神に武運を祈ったと伝えられる。別説では景季がこの井の水を掬った時、咲き盛った箙の梅の花影が映ったとの伝もある。

  けふもまた生田の神の恵みかや ふたたび匂ふ森の梅が香   景季

 ここで少しばかり不思議に思われるのが、本曲が梶原景季を主人公としている点です。景季の父の景時は源義経を陥れた大悪人とされています。『正尊』においても「渡辺にて梶原が逆艪の意見を承引し給はざりし遺恨に依り。我が君を讒奏申し。」とか「梶原が讒奏により。義経を鎌倉へも入れられず。道より追ひ返されし事は如何に」などと、梶原の讒言のため頼朝・義経の仲が不和になったとしています。そのような、古来不人気ナンバーワンともいうべき梶原景時の嫡男である景季を、敢て主人公とする必要があったものか。それにもかかわらず景季を描きたくなるほど、彼の活躍が素晴らしいものであったのでしょうか。どうにも不思議に思われてなりません。

 井戸の右手に句碑らしきものがありましたが、残念ながら判読できませんでした。


 再度、楼門をくぐり社務所の前に参りますと「あつもり萩」と刻まれた碑と、謡曲史跡保存会による“謡曲「生田敦盛」と生田の森”なる駒札が立てられてありました。この駒札を参考に『生田敦盛』を眺めてみます。


   謡曲「生田敦盛」梗概
 法然上人が賀茂に参詣の途次、男の捨子を拾い養育、十歳余りになって或日上人の説法により母が名乗り出で、我が父は敦盛なることを知り深く恋慕する。賀茂明神に一七日参詣して祈誓し、満参の日、父に逢わんとせば生田の森に下れ、との霊夢を蒙る。
 生田森の草庵内で甲冑を帯した亡霊の父に対面して、軍物語をするあたりは誠に哀情の深さと、修羅の闘争のすざましさを見せつけられる。これが謡曲「生田敦盛」である。
 敦盛最期のことは、平家物語、源平盛衰記に見えるが、遺子のあった事は軍書類には見当らず、ただお伽草紙「小敦盛」に見られるのみである。
 生田森は源平一の谷合戦の重大拠点であったが、今は知らぬ顔の静寂さである。(謡曲史跡保存会の駒札)


 作者は金春禅鳳。遺児が父の霊を訪ねて行くというテーマは修羅物にあっては特異であり、一曲の雰囲気もキリの前半を除けば鬘物の感がある。



「あつもり萩」の碑と謡曲史跡保存会の駒札


 『生田敦盛』は馴染みの薄い曲です。大角征矢氏による過去60年間(昭和25年~平成21年)の演能統計によりますと、修羅物16曲中で15位という人気のなさで、64回演能、年平均1回強という結果になっています。兄弟曲とでもいうべき『敦盛』が500回も演じられているにもかかわらず、この結果となっています。修羅物の多くが典拠している『平家物語』『源平盛衰記』などの戦記物に基づいていないからなのでしょうか。
 また、本曲の概要で「遺児が父の霊を訪ねて行くというテーマは修羅物にあっては特異であり」としましたが、ワキの名ノリで語られる敦盛の遺児と母親の出会いは『百萬』や『三井寺』などの母子邂逅譚にも通じるものがあるのではないかと思います。父子の巡り会いを描いたものには『歌占』や『土車』など、これも多くの作品がありますが、親子の邂逅譚は物狂いが主体となっています。本曲のような修羅物での親子邂逅譚はテーマが中途半端で明確ではなくなり、その分訴える力が弱まっているのではないでしょうか。

 参考までに、以下に修羅物の過去60年間の演能回数を掲載しておきます。

曲  名 60年間演能数 年平均演能数 曲  名 60年間演能数 年平均演能数
 清 経 1391 23.2  実 盛 276 4.6
 田 村 762 12.7  通 盛 247 4.1
 巴 741 12.4  箙 203 3.4
 屋 島 730 12.2  俊成忠度 187 3.1
 経 正 649 10.8  朝 長 138 2.3
 敦 盛 500 8.3  兼 平 98 1.6
 頼 政 472 7.9  生田敦盛 64 1.1
 忠 度 466 7.8  知 章 52 0.9


 以下は謡曲『生田敦盛』の父子対面の場面です。


ワキ「不思議やなこれなる草のいほりの内に。さも華やかなる若武者の。甲冑かつちうを帯し見え給ふぞや。これは如何いかなる事やらん  シテ「愚かの人の心やな。面々これまで来り給ふも。我に對面の為ならずや。恥かしながらいにしへの。敦盛が幽霊来りたり  子方「なう敦盛とは我が父かと。身にもおぼえず走り寄り
「袂にすがり絶えこがれ。袂に縋り絶えこがれ。泣くに立つる鶯の。逢ふ事の嬉しさも。き身に餘るばかりなり。かくは思へど頼まれぬ。夢のちぎりをうつゝに返す由もがな



 大成版一番本の“資材”の記事を参考にすれば、敦盛に遺児があったことは、史籍にはその所見がないが、俗伝として古くからあったものと思われます。そしてこうした俗伝が謡曲の資材となったものかもしれません。
 さらに“資材”では「又、お伽草子の小敦盛がその内容に於いて本曲と同じである事を考へると、制作の前後は不明としても、両者の間に関係があるやうにも思はれる」と記されています。そこで『お伽草子』の「小敦盛」について調べてみました。

 『お伽草子・小敦盛』には、以下の二系統の伝本が存在します。
 (A) 江戸時代に入って、それまで写本で行われていたものが絵入板本として板行され世に広まったが、ほかに書肆が23篇を集めて、同じ体裁で『御伽文庫』または『御伽草紙』と名づけて出版した叢書。出版元は大坂の書肆渋川清右衛門。仮にこれを「御伽文庫本」とします。
 (B) 「御伽文庫本」よりもやや長い内容の、それまで写本で行われていた絵巻類。これを「絵巻」とします。
 今回私が参照しているものは『新潮日本古典集成・御伽草子集』(松本隆信校註、新潮社)で、後者のいわゆる「絵巻」に相当するものです。「御伽文庫本」は「絵巻」に比べると、物語の開始部分と最後の部分がかなり省略されています。
 それでは「絵巻」に基づいて『小敦盛』の概略を眺め、「御伽文庫本」および謡曲の『生田敦盛』との相違を眺てみましょう。(「御伽文庫本」は、岩波文庫・市古貞次校注『御伽草子』を参照した。)

 (1) 一の谷の合戦で、熊谷直実は敦盛の首を討ち、世をはかなんで出家、法然上人の弟子となる。
 『平家物語』『源平盛衰記』に描かれている部分で、「御伽文庫本」では省略。謡曲では『敦盛』に描かれている。

 (2) 敦盛の北の方(少納言信西入道の孫娘、弁の宰相)は男子を出生するが、平家の子孫と分れば命が無いと聞き、下松に捨てる。折節、賀茂の明神に参詣していた法然上人は、その子を拾い養育した。
 「御伽文庫本」はここから物語が始まる。『生田敦盛』ではワキの名ノリで、要約して述べられている。

 (3) 若君は成長するが、周りの稚児から親がいないことでいじめられ、親のことを歎き食事ものどを通らぬ状態になる。上人が説法の場でそのことを語ったところ、聴衆の中から母親が名乗り出て、敦盛の遺児であることが明らかになる。
 母親が名乗り出たあと「絵巻」では、熊谷蓮生坊が敦盛の最期を語り、形見の直垂を取りだす。「御伽文庫本」では省略されている。『生田敦盛』ではワキの名ノリで母親が名乗り出ることだけが述べられている。

 (4) 若君は賀茂の明神に参籠し、父敦盛に逢わせてほしいと祈願する。滿願の夜半に「昆陽生田の小野」を尋ねよとの夢のお告げを得る。
 『生田敦盛』の物語はここから始まる。若君は子方として登場。参籠の期間は「御伽文庫本」では百日、「絵巻」と『生田敦盛』では七日間。

 (5) 津の国生田を訪れた若君は、父敦盛の亡霊と対面する。夢覚めて若君は遺骨を抱いて帰洛する。
 若君が下った先は、両本ともに“津の国一の谷”としている。『生田敦盛』では敦盛の霊が修羅道の苦しみを語るところが中心となっており、夜明けとともに亡霊は去り、終曲となる。

 (6) 帰洛した若君は出家し、長じて学問の奥義を極め、西山の善慧上人と呼ばれるようになる。
 「御伽文庫本」では、若君の成人後の姿が記されていない。

 以上「小敦盛」について考察してみました。謡曲『生田敦盛』がこの「小敦盛」を題材としたものか、あるいは逆に「小敦盛」が『生田敦盛』を基に作られたものかは明確ではないようです。『生田敦盛』の作者といわれる金春禅鳳は15世紀後半から16世紀前半の人ですから、前述の「絵本」としての「小敦盛」の方が先に成立して語り伝えられており、これを参考にして『生田敦盛』が書かれたと考えるのが自然ではなかろうかと、想像します。


「あつもり萩」と五十嵐播水句碑

五十嵐哲也句碑


 境内の風景に立ち帰りましょう。
 『生田敦盛』の駒札の下には、いわゆる「あつもり萩」があるようなのですが、秋には美しい花を咲かせる萩も、この時期根本から剪り揃えられて何もありません。梅には遅過ぎ、萩とは見当違いな、よくもまあトンチンカンな時期に訪れたものだと、自身に感心すること頻りでありました。
 ただ、「敦盛萩」とは一体何なのか、『生田敦盛』との関係は? 敦盛が萩を好んだと、当社の説明では述べられていましたが、その真偽のほどは不明であり、肝心のこのところがさっぱり判っておりません。
 駒札を挟むようにして、五十嵐播水・哲也父子の句碑が立てられていました。

  初暦めくれば月日流れそむ  播水
  復興を称えて長き御慶かな  哲也

 五十嵐播水は姫路市に生まれる。京都帝国大学医学部を卒業。高浜虚子に師事。昭和9年「九年母」を主宰する。
 哲也は京都大学医学部卒業。在学中より晩年の高浜虚子・父の五十嵐播水について俳句を始める。平成12年播水逝去後そのあとを継ぎ「九年母」を主宰する。



 本殿の裏手には当社の鎮守の森である「生田の森」のたたずまいが拡がっています。かつては広大な領域であったものと思われますが、現在では神社の一角を形成するに過ぎません。
 鎌倉・室町の動乱期には、生田川をひかえた大森林であったため、源平の合戦を初めとして、足利尊氏と楠木正成・新田義貞との戦いや、織田信長と荒木村重の合戦の地ともなっています。
 当社のサイトによれば、平成13年の鎮座1800年祭を記念して、神功皇后を祀る生田森坐社を建立、森の内部に小川と遊歩道を造成し、現在の形に整備されたとのことです。


生田の森


 歴史には合戦の場として度々登場している生田の森ですが、一方では歌枕としても名高く、文人墨客に親しまれた名勝の地で、『枕草子』の115段にも、以下のようにつづられています。

 森は大荒木の森。忍の森。こごひの森。木枯の森。信太の森。生田の森。うつきの森。きくだの森。いはせの森。立聞の森。常磐の森。くるべきの森。神南備の森。假寐の森。浮田の森。うへ木の森。石田の森。かうたての森といふが耳とどまるこそあやしけれ。森などいふべくもあらず、ただ一木あるを、何につけたるぞ。こひの森。木幡の森。

 このように平安の昔から多くの歌に詠まれています。

  月残る生田の森に秋ふけて夜寒の衣夜半にうつなり  後鳥羽院
  秋風に又こそとはめ津の国の生田の森の春のあけぼの  順徳院
  汐なれし生田の森の桜花春の千鳥の鳴きてかよへる  上田秋成


生田の森の碑と戸隠神社

梶原の井、箙の梅の碑


 神社の社殿の西の参道の正面には、末社のひとつ「戸隠社」が祀られています。祭神は天手力男命(あめのたぢからおのみこと)。天の岩戸の故事に出てくる神で、力の神。本社は信州長野戸隠にあり、身体健全・筋力増進に効力ありとのことです。
 また正面には「生田の森」と刻した石柱があり、石柱の左面には「かぢはらの井、えびらのむめ」と刻まれています。当然のことながら、梶原景季が活躍したのは生田の森であり、現在楼門の脇にある「箙の梅」は後世に植えられたものでしょう。


折鳥居と礎石

生田の森、遊歩道入口


 戸隠社の奥に石の鳥居の残骸(?)のようなものがあり「折鳥居と礎石」なる説明書きがありました。

 此石柱は、往古より生田神社表参道桜並木の入口西国街道際に建てられし石鳥居の柱なり。
 この鳥居は安政の大地震の際、両脚の基部を残して倒壊せし為、其一部は移されて諏訪山金星台の碑となり、この石柱は原位置にありて、所謂生田の折れ鳥居として、市民の間に幾多の伝説と信仰を生みつゝ、親しまるゝ事今に至れり。
 昭和25年3月該地に朱塗大鳥居の起工せらるゝに当り、新にこの浄域を選んでここに移し、神戸市の歴史を物語る好個の記念物として、永く保存の途を講ずることゝせり。

 生田の森への入口は東西2ヶ所ありましたが、西側は封鎖されており、東側より入場しました。


森中の遊歩道

縁結びの水占い


 森には樹齢何百年を数える楠のご神木が数本あるそうです。
 石畳の遊歩道が完備して、ところどころに歌碑や句碑が立てられ、あずまやも整備されています。
 「縁結びの水占い」があり、清水が湧き出ています。若いカップルに人気があるのでしょうが、紀香・陣内離婚後はどんなものなのでしょうか。


生田森坐社

白鳳歌碑


 生田森坐社(いくたのもりにいますやしろ)は神功皇后を祀おりしたもの。その横に白鳳の歌碑がありました。白鳳の歌は森の入口にある楠の神木のところにも掲げられていますが、白鳳については不詳です。

  ふるさとの歴史きはめて百年の歩みを語る杜の老樹に  白鳳


稲荷社と楠の神木

包丁の碑


 森の東口にある稲荷社の隣に、楠の大木の切り株と胴体の一部が展示されています。500年の樹齢を持つこの神木は、昭和20年6月の神戸大空襲で焼けただれましたが、力強く蘇り、再生・再起・合格・復活・復興の象徴として信仰されているとのことです。ここにも白鳳の歌がありました。

  五百年の楠の年輪尊貴なり幾多の森のいにしへしのぶ  白鳳

 さらにその隣には「包丁塚」がありました。「料理に携わる人達の魂の籠った包丁に感謝するとともに、食文化の向上を願い、皇太子殿下御成婚・第61回神宮式年遷宮の記念事業として神戸市内の流理食品関係者によって建立された、全国でも珍しい塚である」とのことで、平成5年10月に建立されたものです。


生田の森、西側の通用門

生田の池と弁天社


 森の西側の入口は閉ざされていましたが、その西側には生田の池があります。ここも生田の森同様歌に詠まれ名勝として名高い地であったようです。

  しぐれ行く生田のもりのこがらしに池のみ草も色かはる頃  藤原定家
  人住まばさらにや問はむ津の国の生田の池の秋の月影  順徳院

 この池は、昭和初期には子どもたちが泳げるほどの水質でしたが、周囲が繁華街と化すにつれて水質も悪化し、目立たぬ一角となっていったようです。
 池のほとりには、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を祀る弁天社があり、小路紫峡・智壽子夫妻の句碑がありました。

  噴水のしぶき天衣の舞ふごとく  紫峡
  ひひな顔したる巫女たち初神楽  智壽子


 生田の森の散策を終え、生田神社を後にしました。境内を一足出ると、そこは三ノ宮の繁華街。その中にひっそりとたたずむ生田の森は、都会のオアシスとでもいえそうです。それにしても季節外れに謡蹟を訪れるという悪い習慣は、なかなか治りそうにありません。萩の時節また梅の時節に、再三再四訪れなくてはならなくなりそうです。
 また『生田敦盛』については、今まで謡ったこともなく、今回初めて稽古本を開いたような状態です。これも今後ゆっくりと“読む”必要を感じた次第です。




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  (平成26年 3月27日・探訪)
(平成26年 4月29日・記述)


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