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京都東山・清水寺 〈熊野・田村・花月〉


 2014年4月8日、『熊野』『田村』『花月』の謡蹟を探訪すべく京都東山の清水寺に参詣しました。
 ただ、今回の謡蹟探訪には少し趣向があり、『熊野』の史跡探訪にちなんで、平宗盛の邸宅があったといわれているJR京都駅から、宗盛と熊野のたどった道筋を経て清水寺にお参りしようというものです。「生田の森」の項でも述べましたが、わが謡蹟探訪は時節はずれが甚だしく、常に反省しているのですが、この企画は花の季節を外しては成立せず、この機を逃してはまた一年待たねばなりません。そんな次第で準備もそこそこに、京都に飛んで行きました。
 それでは先ず、『熊野』について眺めてみましょう。


   謡曲「熊野」梗概
 作者は、かつては世阿弥とも伝えられていたが、現在では未詳とする。禅竹説も有力である。
 多くの鬘物の中でも『松風』とともによく知られた作品である。本格的な鬘物は、女主人公が遠い昔の貴婦人であり、幽霊となって舞台に登場するものであるが、本曲はその条件から外れているにもかかわらず『松風』と並ぶ人気曲となっており、『熊野』を春の曙、『松風』を秋の暮にも譬える。

 平宗盛は寵愛する“熊野”を、花見の友にと都に留めていた。そこへ郷里の遠江国池田の宿から侍女の“朝顔”が、母の病を告げる文を持参する。熊野は宗盛に文を見せ暇を請うが、宗盛はこれを許さず、花見車を仕立てて共に東山の清水寺に向う。花の下の酒宴の席で、熊野は宗盛に所望され、心ならずも舞を舞うが、にわかに村雨が降り出し花を散らすのを見て、短冊に「いかにせん都の春も惜しけれど馴れし東の花や散るらん」と、母を思う歌を記し宗盛に挿し出す。さすがの宗盛もこれを哀れと思い帰郷を許す。熊野は、これも清水観音の御利生であると、喜び勇んで、そのまま東をさして帰っていった。


 熊野については『平家物語』巻十「海道下りの事」には、平重衡が池田の宿に着き「熊野のむすめ、侍従」に会い、その侍従が以前宗盛に召されて都へ上り、「いかにせん都の花も惜しければ…」の歌を詠んだ挿話について聞くことを記しているが、それによれば“熊野”は当人の母親の名ということになる。


 宗盛の館は、現在のJR京都駅八条口のあたりにあったようですので、京都駅をスタート地点として清水寺まで、熊野の足跡をたどってみたいと思います。
 少し余談になりますが、この曲は「これは平の宗盛なり」というワキの名宣で始まります。ここで思い出すのが夏目漱石の『吾輩は猫である』です。『猫』において漱石は、苦沙弥先生が『熊野』を謡うところを以下のように著わしています。

 我儘で思ひ出したから一寸吾輩の家の主人が此我儘で失敗した話をし樣。元来此主人は何といつて人に勝れて出來る事もないが、何にでもよく手を出したがる。俳句をやって「ほととぎす」へ投書をしたり、新體詩を「明星」へ出したり、間違ひだらけの英文をかいたり、時によると弓に凝つたり、謡を習つたり、又あるときはヴァイオリンなどをブーブー鳴らしたりするが、氣の毒な事には、どれもこれも物になつておらん。其癖やりだすと胃弱のくせにいやに熱心だ。後架の中で謡をうたつて、近所で後架先生と渾名をつけられているにも關せず一向平氣なもので、矢張これは平の宗盛にて候を繰り返している。皆んながそら、宗盛だと吹き出す位である。

 問題なのは太字にしていますが、苦沙弥先生が「これは平の宗盛にて候」と謡うところです。謡曲では身分の高いワキは通常「これは……なり」と名のるので、このところはいささか謡曲の常識からはかけ離れており、漱石のミスではないかと思ったことがありました。ところがこの件に関して、東京都立大学名誉教授である倉沢進氏が『観世』誌平成12年3月号の巻頭随筆で以下のように述べられています。かなりの長文なりますが全文を引用します。

 『吾輩は猫である』に、苦沙弥先生が便所で下手な謡を謡って近所の人々のひんしゅくを買うくだりがある。来る日も来る日も「これは平の宗盛にて候」で、皆が「そらまた宗盛だ」と吹き出すという。さる文芸評論家が本文は「これは平の宗盛なり」なのに、漱石は謡曲不案内のため間違えたと指摘している。しかし不勉強なのはむしろ評論家の方で、漱石のメッセージを聞きもらしているように思われる。
 謡曲作者の用語法では「にて候」と「なり」ははっきり区別され、その時の気分でいずれかが選ばれる性質のものではない。諸国一見の僧が「僧なり」と名乗ることは決してない。「……なり」と名乗るのは権威や権力を持った大臣ワキである。だから僧ワクは略式の笛「草の名乗」を聞いて舞台入口の常座で「僧にて候」と静かに名乗るのに対し、宗盛は舞台中央で本格の名乗笛「真の名乗」で、堂々と名乗るのである。
 漱石は、ワキ方下掛り宝生流の謡を名人宝生新に習っている。観世百万と異なりワキ宝生を習う人は千人のオーダーであろう。だから今度は『熊野』の稽古となれば、師匠の謡本を手写して使う。稽古は一応全曲に及ぶが、力が入るのはワキ謡の箇所であろう。だから漱石がワキの名乗を不用意に間違えるとは、まったく考えられないのである。
 新の若き日、父の稽古で『隅田川』の名乗り「これは隅田川の渡守にて候」を謡った所、それでは船頭にならないと叱られた。謡い直した所、それでは『隅田川』にならないと叱られたという話、安倍能成が伝えている。専門用語で言えば〈位〉である。位は、重い軽いが区別される。社会的地位の高下も多少関係するが、重要なのは主人公が抱える人生課題の重さである。シテ方の場合、シテの位すなわち曲の位であって問題はない。しかしワキ方にとっては曲の位がただちに役の位にはならないから面倒である。渡守の社会的地位は低い。しかし『隅田川』は、母が我子の死に直面する慟哭の曲、位は重い。この二つを舞台の上でどう同時に表現するか、ワキ方の大事である。
 その新の教えを受けた漱石が、「宗盛にて候」と不用意に間違えるわけもないことは、もはや言うまでもあるまい。それは意図的な書き違えであり、そこに漱石のメッセージが隠されている。カセットテープならぬ原稿用紙の上に、苦沙弥先生のへたくそな謡を再現するために、わざわざ「にて候」と書いたのであった。苦沙弥先生は詞章を間違えたというより、「宗盛なり」と堂々と謡うべき所を「にて候」の〈僧ワキの位〉で謡った、その箸にも棒にもかからない下手さかげんを、漱石は伝えたかったのである。
 漱石が読者に想定した当時の知識人にとっては、今書いたようなことは常識であったろう。漱石のメッセージは、当然明治の読者には届くはずのものであった。

 冒頭から、謡蹟探訪の趣旨をいささか逸脱してしまいました。それでは京都駅に立ち帰り、熊野の足跡をたどりましょう。まずは謡曲に謡われている花見車の道中です。


ロンギ「河原おもてを過ぎ行けば。急ぐ心の程もなく。くるまおほろくの。地蔵堂よと伏し拜む  シテ「観音も同座あり。せんだいの。方便あらたにたらちねを守り給へや  地「げにや守りの末すぐに。頼む命はしらたまの。おたの寺もうち過ぎぬ。六道の辻とかや  シテ「げに恐ろしやこの道は。めいに通ふなるものを。心ぼそとりやま  地「煙の末も薄霞む。聲もりよがんの横たはる  シテほくの星の曇りなき  地のりの花も開くなる  シテきやうかくどうはこれかとよ  地「そのたらちねを尋ぬなる。子安の塔を過ぎ行けば  シテ「春のひま行く駒の道  地「はや程もなくこれぞこの  シテ「車宿り  地「馬留め。こゝより花車。おりゐの衣播磨潟。しかかち清水の。佛のおんまえに。ねんじゆして母のせいを申さん


 謡曲の詞章にしたがいながら、以下の道順で清水寺に参ることといたしました。
   JR京都駅→七条烏丸→(七条通東進・三宮町通北上・正面通東進)→豊国神社→
   (大和大路北上)→六波羅蜜寺→六道の辻西福寺→(松原通東進)→六道珍皇寺→
   經書堂→馬留→清水寺仁王門

清 水 寺 界 隈 地 図


 それでは、熊野とともに歩く京都東山の旅の開始です。京都駅の八条口を出発点にしましたので、南側に降り立ちました。京都駅のこちら側に出ることはほとんどなく、何となく物珍しい光景でした。京都駅からは地下道を通り七条烏丸まで北上、東に進み七条米浜郵便局に立ち寄り、正面通を東に進み鴨川を渡ります。謡曲の「河原おもて」とは鴨川に沿った道路であるのことですが、熊野は七条あるいは五条あたりで鴨川を越えたのでしょう。橋の上から眺める鴨川は、岸沿いに桜が咲き誇り、なかなかの眺めではありました。


京都駅八条口

河原おもて──前方は五条大橋

 橋を渡り大仏前郵便局に立ち寄り、謡曲とは無関係ですが、豊国神社(とよくにじんじゃ)に参拝いたしました。
 豊国神社は、神号「豊国大明神」を下賜された豊臣秀吉を祀っています。豊臣家滅亡とともに徳川家の命により廃絶となったが、のちに明治天皇の指示により再興されました。


豊国神社

御朱印


 当社の説明によれば、朱印の銘は豊臣秀吉の関白印の銘で、中央に「関白」とあり、左右に「壽比南山・福如東海」とある。南山は長安の南80里にあった終南山のことで、一名“太一”ともいわれ、天の中心にある太一星(北極星)の精霊が住むといわれていた。東海は仙人の住むといわれる蓬莱山の場所で、「寿命も福もともに仙人と同じく永く多かれ」と祈る銘であるとのことです。



方広寺鐘楼

「国家安康、君臣豊楽」の銘

 拝殿の左手に鐘楼があります。この鐘が「方広寺鐘銘事件」として有名な方広寺の梵鐘で、ここには大仏殿の遺物9点が収められています。
 慶長19年(1614)、豊臣家が再建していた京都の方広寺大仏殿、梵鐘が完成しますが、家康はこの梵鐘に刻まれた「国家安康」の文字が、家康の名を二つに分断し、一方「君臣豊楽」は豊臣家の繁栄を願ったものと解釈して異議を唱え、方広寺の落慶法要が無期限延期になってしまいます。

 豊臣家は鐘銘問題の弁明のために片桐且元を駿府へ派遣しますが、家康は且元と面会せず、豊臣方の徳川家に対しての不信が問題の要因であるとし、秀頼を江戸に参勤、淀殿を人質として江戸に置く、秀頼が国替えに応じ大坂城を退去するなどの妥協案の中から一つを採用するように要求しました。この案に淀殿は怒り、且元は次第に裏切り者として扱われるようになります。豊臣家が且元を処分しようとしたことは家康に口実を与えることになり、家康はこの件を根拠にして諸大名に出兵を命じ、大坂冬の陣が勃発することとなりました。
 京都大仏前郵便局の風景印に、この梵鐘が描かれていました。


方広寺の国家安康の鐘を描く
京都大仏前郵便局風景印

 豊国神社の正面を南北に走っている道路が大和大路です。熊野の一行は「河原おもて」から「車大路」へ、そして「六波羅」へと参ります。謡本の辞解によれば「車大路」は五条橋の東、大和大路とのこと、豊国神社から大和大路を北上して、五条通を越えますと「東、五条坂」の標石があります。さらに大和大路を直進しますが、このあたりの道幅はかなり狭くなっています。六波羅裏門通の交差点を右折、六波羅蜜寺へとやって参りました。


五条大和大路、五条坂の標石

大和大路六波羅裏門通交差点、右「六波羅蜜寺」


 以下は、境内に立つ京都市の案内板による六波羅蜜寺の寺伝です。

 天暦5年(951)、疫病平癒のため空也上人により開創された真言宗智山派の寺院で、西国三十三観音霊場の第十七番札所として古くから信仰を集めている。空也上人の自刻と伝えられる十一面観音立像(国宝)を本尊とする。
 空也上人は醍醐天皇の第二皇子で、若くして出家し、歓喜踊躍(かんきゆやく)しつつ念仏を唱えたことで知られ、今に伝わる六斎(ろくさい)念仏の始祖である。
 往時は寺域も広く、平家の邸館や鎌倉幕府の探題が置かれるなど、源平盛衰の史跡の中心でもある。宝物館には、定朝(じょうちょう)の作といわれる地蔵菩薩立像のほか、空也上人像、平清盛坐像、長快(ちょうかい)作の弘法大師像など数多くの重要文化財を安置し、境内の十輪院が仏師運慶一族の菩提寺であったことから、本尊の脇に祀られていたという運慶・堪慶坐像も所蔵している。
 年中行事として、正月三が日の皇服茶(おうぶくちゃ)、八月の萬燈会(まんとうえ)、かくれ念仏として知られる十二月の空也踊躍念仏(国の重要無形民俗文化財)が有名である。


六波羅蜜寺

御朱印

 以下、六波羅蜜とは何か。当寺のサイト等により調べてみました。

 波羅蜜とは彼岸(悟りの世界)に到ること。六波羅蜜とは、この世に生かされたまま、仏様の境涯に到るための六つの修行をいう。
布施波羅蜜──見返りを求めない応分の施しをすること。物質面だけに限らす、貪欲の気持ちを抑えて、完全な恵みを施すことをいう。
持戒波羅蜜──戒律を守ること。道徳・法律等は人が作り現在はますます複雑になっている。高度な常識を持ち、瞬時瞬時に自らを戒めることが肝要となる。
忍辱波羅蜜──耐え忍ぶこと。如何なる辱めを受けても、堪え忍ぶことができれば、自らが他の存在に生かされ、全ての人の心を我が心とする仏の慈悲に通じることとなる。
精進波羅蜜──努力すること。不断の努力をいいます。限りのある生命を、ひとときも無駄にすることなく日々誠心誠意尽くすことをいう。
禅定波羅蜜──冷静に第三者の立場で自分自身を見つめることをいう。特定の対象に心を集中して、散乱する心を安定させること。
智慧波羅蜜──諸法に通達する智と断惑証理する慧。前五波羅蜜は、この般若波羅蜜を成就するための手段であるとともに、般若波羅蜜による調御によって成就される。
 我々は本来仏様の智慧を頂戴してこの世に生をうけている。しかし、貪りや怒り愚痴によってその大切な智慧を曇らせてしまいがちである。布施・持戒・忍辱・精進・禅定の修行を実践することにより、どちらにもかたよらない中道を歩み、此の岸から彼岸へ到ることができる。


福寿弁財天堂と十一面観音像

清盛塚と阿古屋塚


 明治維新の廃仏毀釈を受けて大幅に寺域を縮小したようで、寺の周囲は民家に囲まれて境内は狭く、かなり窮屈な感があります。入場したすぐ右手に十一面観音像があり、その横に清盛塚と阿古屋塚があります。
 阿古屋塚は鎌倉時代に建立されたもので、歌舞伎の「壇浦兜軍記」に登場する阿古屋の菩提を弔うためのもの。以下は、五代目板東玉三郎による塚の碑文です。

 平家の残党悪七兵衛景清の行方を捜すため、想い人で五條坂に住む白拍子阿古屋を捕え、代官秩父庄司重忠は阿古屋に景清の所在を問い質す。阿古屋は知らぬと申し開きするが、詮議のために弾かせた琴、三味線、胡弓などの調べに一点の乱れのないことに感動した重忠は、阿古屋が景清の所在を知らぬことが真実であると知り釈放する。「阿古屋の琴責め」とも称される。
 平家物語の裏面に隠された「阿古屋」の悲恋を語り伝えるためにこれを記す。

 謡曲では「六波羅の、地蔵堂よと伏し拜む。観音も同座あり、闡提救世の、方便あらたにたらちねを守り給へや」と謡われていますが、当寺には地蔵堂もあったのでしょうか。同座の“観音”は本尊十一面観音のこととおもわれますが…。

 六波羅蜜寺を少し北上し、松原通の交差点に桂光山西福寺があり、「六道の辻」の標石が建てられ、壁面に「六道の辻地蔵尊」と大書した案内板が掲げられています。
 謡本の辞解では、「六道の辻」は後述する珍皇寺の門前あたりであるとされており、珍皇寺の門前には「六道之辻」の碑が建てられています。よく分っていませんが、要はこのあたり一帯を「六道の辻」と呼ぶのでしょうか。


西福寺

六道の辻


 以下は、西福寺内部に掲げられている「檀林皇后と弘法大師(六波羅地蔵尊由来記)」なる説明書きです。

 嵯峨天皇の御代、弘法大師当地に地蔵堂を建立し御自作の地蔵尊を安置せられる。
 ここは鳥辺野の無常所の入口にあたり、世に「六道の辻」と謂います。昔は六つの仏堂がありましたが、現在は三仏堂が残っており、毎年八月のお盆には庶民の伝統行事「お精霊迎え」の六道詣りが数百年も続けて行われています。
 弘法大師六道の辻地蔵堂開基の頃、嵯峨天皇の皇后になられた橘嘉智子姫(檀林皇后)がしばしば御参詣になられて、弘法大師に厚く御帰依あそばされ深く仏教をきわめられしとの事。
 また弘仁5年(810)皇子正良親王御病いの時、当地蔵尊に御平癒祈願をされ無事御成長なされて、後に目出度く五十四代仁明天皇の御位におつきあそばされたので、世の人々は六道の辻地蔵尊を、子育地蔵或は六はら地蔵などと呼ぶようになりました。

 上述の「六波羅の、地蔵堂」とは、この寺のことかも知れないと、ふと思った次第です。

 ここから坂道を登りながら、松原通を東に進み清水に向います。昔はこの通りが“五条通”で、現在の松原橋が“五条大橋”だったそうです。
 東大路の手前に「六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)」があり、門前に「六道の辻」の碑が建っています。謡本の辞解によればこの寺が“愛宕の寺”であり、この門前のあたりが一般に“六道の辻”といわれているようです。



六道珍皇寺

御朱印


 以下は、門前に掲げられた京都市による「六道珍皇寺」の案内板です。

 大椿山と号する建仁寺の塔頭で「六道さん」として親しまれている。
 この付近は、かつて死者を鳥辺野(東山区南部の阿弥陀ヶ峰北麓の五条坂から南麓の今熊野に至る丘陵地)へ葬送する際の野辺送りの場所で「六道の辻」と呼ばれ、この世とあの世の境といわれていた。六道とは、仏教ですべての生き物が生前の善悪の行いによって必ず行くとされる、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六種の冥界のことで、本堂の裏にある井戸は、昼は嵯峨天皇、夜は閻魔大王に仕えた小野篁(おののたかむら)が冥途へ通った入口であったという伝説が残されている。
 創建についての詳細は明らかではないが、平安・鎌倉時代には東寺に属して隆盛し、その後衰退した。室町前期の正平年間(1346~70)に建仁寺の僧、良総(りょうそう)によって再興され、臨済宗に改められた。
 薬師堂に本尊の木像薬師如来坐像(重要文化財)を安置し、閻魔堂に小野篁の作と伝わる閻魔大王像と等身大の小野篁象が祀られている。
 毎年8月7日から10日までの4日間は「六道まいり」が行われ、先祖の精霊をこの世へ呼び戻す「迎え鐘」を撞く参拝者でにぎわう。

 謡曲で「げに恐ろしやこの道は。冥途に通ふなるものを。心ぼそ鳥部山」と謡われていますが、小野篁がここから冥途に通ったという伝承を踏まえたものです。



門前の「小野篁卿旧跡」の碑

六道珍皇寺境内


 門前には「小野篁卿旧跡」の碑が建てられていました。
 参拝を終え、松原通を東進します。東大路を過ぎ、五条坂との合流地点、三年坂(産寧坂)を登り切って清水坂に入ったところの角っこに、来迎院経書堂があります。小さなお堂ですが、聖徳太子が開いたといわれる古刹で、現在は清水寺の塔頭となっています。
 本堂の入口には、座布団の上に丸い「重軽石」が置かれています。「願い事を念じてこの石を持ち上げ、軽く感じれば願いが叶い、重く感じれば願いは成就しない」のだそうです。


来迎院経書堂の碑

本堂の重軽石


 五条坂と合流したとたん一気に人混みが激しくなり、人の波を掻き分けながら歩く感があります。まるで心斎橋を歩いているようです。清水寺が世界遺産に登録されている故か、7割がたが外国人、中でも中国語がやたら飛び交っています。それと驚いたことに着物姿の外人が多いこと。ホテルなどで和服を貸し出しているのでしょうか。ともかく異様な雰囲気であります。


人人人の清水坂

馬駐(パンフレットより)


 人混みを掻き分けるようにして、やっと清水寺の仁王門前にやってきました。謡曲では、経書堂から子安の塔を経て、「車宿り、馬留め」となります。子安の塔は明治末期までは仁王門の門前にあり、旧参道の「三年坂」の名称も、その「参寧(さんねい)」(安産)信仰にちなむものとされるようです。
 参拝の順序とは異なりますが、謡曲の詞章にしたがって「子安の塔」を先に観賞いたします。現在の子安の塔は、清水寺本堂の南、錦雲渓をへだてた泰産寺の丘上に建っています。高さ15メートルの軽快・美麗な檜皮葺きの三重塔で、千手の子安観音を祀り、安産・子育てに大きな信仰を集めています。
 そして熊野一行の旅の最後が「馬留め」。かつて乗馬で上山した貴族や武士はここに馬を繋いで、徒歩で本堂に参詣しました。全国的に珍しい遺構で、かつ規模も大きく、同時に馬を5頭繋ぐことができたようです。馬駐(うまとどめ)は仁王門の左手にありますが、前にテントが張られており撮影できませんでしたので、パンフレットの写真を借用しました。


舞台から子安の塔を望む

 さて、宗盛、熊野の一行は無事に清水寺山門まで到着した模様です。乗り物を下りて心静かに参拝いたしましょう(いや、宗盛は花見の宴を催すために来たのでした。)
 以下は『熊野』のクセ部分です、清水から眺めたの四方の景色を謡っています。


クセ清水寺せいすいじの鐘の聲。祇園ぎおん精舎しやうじやをあらはし。諸行無常の聲やらん。地主権現の花の色。しやさうじゆことはりなり。しやうじやひつめつの世の習ひ。げにためしあるよそほひ。佛も元は捨てし世の。なかばは雲に上見えぬ。鷲のお山の名を殘す。寺は桂のはしばしら。立ち出でゝ峯の雲。花やあらぬ初櫻の祇園林しもはら
シテ「南を遥かに眺むれば  地だいよううすがすみごかげんの移りますも同じいまぐま。稲荷の山の薄紅葉の。青かりし葉の秋また花の春はきよみづの。たゞ頼め頼もしき春も々の花盛り


 以下、清水から見た花の都の名所案内です。『田村』でも同様の地の案内があります。
 「鷲のお山の名を残す、寺は桂の橋柱」と謡われているのは、東山の正法寺の一名、霊鷲山桂橋寺を言い籠めた、と辞解にあります。「祇園林」は祇園社(八坂神社)の林。「下河原」はその南に続く地名。「今熊野」は今熊野神社。後白河法皇によって熊野から勧請されたもの、泉涌寺の山内寺院で西国三十三観音霊場の第十五番札所。熊野と同じ名であるので「御名も同じ」。

 考えて見ますと、熊野は実にいいタイミングで宗盛から暇を頂戴したものです。このままずるずるとお側に侍っていますと、都落ちとなり、古川柳に、

  熊野ごぜん長居をすると水を飲み (柳多留十六・26)

と詠まれているように、西海の藻屑となったかもしれません。危いところでした。

 昭和52年発行の第2次国宝シリーズ記念切手のデザインに「清水寺本堂」が描かれています。また東山郵便局と京都清水郵便局の風景印に、同じく清水の舞台が描かれています。


清水寺舞台を描く
東山郵便局風景印


国宝シリーズ記念切手

清水寺舞台と清水焼を描く
京都清水郵便局風景印




《清水寺》  京都市東山区清水一丁目294

 清水寺の来歴について、謡曲『田村』では以下のように述べられています。


シテ 語「そもそも當寺清水寺せいすいじと申すは。大同二年の御草創。坂の上の田村麿の御ぐわんなり。昔大和の國しまてらと云ふ所に。げんしんと云へる沙門。しやうじんの觀世音を拜まんと誓ひしに。或時がはの川上より。こんじきの光さしゝを。尋ね上つてみればいちにんの老翁あり。かの翁語つて曰く。我はこれぎやう居士と云へり。汝一人のだんを待ち。大伽藍を建立すべしとて。東をさして飛び去りぬ。されば行叡居士と云つぱ。これくわんのんさつの御再誕。また檀那を待てとありしは。これ坂の上のむら麿まる


 以下は、当寺のパンフレットによる略縁起です。

 音羽山清水寺。開創は1200余年前、奈良時代末の宝亀9年(778)。大和・子島寺の延鎮上人が夢の告げをうけ音羽の滝を尋ねあてて行叡居士に逢い、霊木を授けられて観音像を彫像し、滝上の草庵に祀ったのに始まる。
 そして間もなく坂上田村麻呂公が、滝の清水と上人の教えに導かれて妻室と共に深く観音に帰依し、仏殿(本堂)を寄進建立し、御本尊十一面千手観音を安置。延暦17年(798)寺域を拡げ、本尊の脇侍に地蔵菩薩と毘沙門天を祀り寺観をととのえた。
 「清水寺」の名は、音羽の滝の清泉にちなむ。御本尊(秘仏)は“清水型観音”といわれる四十二臂の最上の両手を頭上にあげて化仏(けぶつ)をいただく清水寺独特の千手観音像をしており、格別霊験あらたかで、『源氏物語』『枕草子』『今昔物語』や、謡曲「熊野」「田村」「盛久」などにも見え、昔からたいそう広く篤い崇信を集めてきた。西国三十三観音霊場第十六番札所。1994年、UNESCOの世界遺産に登録された。


清水寺仁王門


 この仁王門は室町後期、応仁の乱後の再建で、正面10メートル、高さ約14メートルの室町様式の堂々たる楼閣です。正面軒下に平安時代の名筆・藤原行成の筆と伝える「清水寺」の額を掲げ、両脇間には京都における最大級の仁王像(鎌倉時代)を安置しています。
 門前は大変な人出です。私の小学校の修学旅行は奈良・京都の観光であり、当然この門前で記念写真を撮影したことを思い出しました。


   謡曲「田村」梗概
 作者は、大成版の前付では世阿弥とされているが、不明である。金春禅竹『五音三曲集』に一部の詞章の引用があるので、それ以前の作であろう。『清水寺縁起』『今昔物語』などに典拠する。
 ここ清水寺は、前場の舞台となっている。


 東国の僧が春たけなわの都を訪れ、清水寺に参詣する。地主権現の桜の花盛りであったので、それを眺めていると、萩箒を持った童子が現れ、桜の木蔭を掃き清める。僧が童子に東寺の来歴を訊ねると、昔賢心が坂上田村麻呂を檀那と頼んで建立した当時の縁起を語り、なお見渡される京都の名所を問われるままに教える。やがて日が暮れ、月が出て桜の花に映ずると、これの方が名所に勝る眺めではないかと、僧と共に「春宵一刻値千金」の風情を楽しみ、また清水観音の利益を讃える。僧が名を尋ねると、それを知りたければ、帰る方を見よと言い捨て、田村堂の内陣に消えていった。

 本曲は古来「祝言の修羅」とされ、他の修羅物とは異なった趣があり、脇能に近い傾向を持つ。後シテが源平の武将でないこと、前シテが老人ではなく童子であること、クセが前後二ヶ所にあること、後シテが脇能に近い扮装の小書演出を持つことなど、修羅物としては特異である。さらに修羅道の苦しみをまったく描かず、修羅物特有の憂愁さがなく、かげりのない爽やかさが本曲の特色となっている。



清水寺本堂

御朱印


 境内は人混みのため落ち着いて撮影する暇がありませんし、撮影しても人影が映りこみ、かつ修理中の建物が多く周囲が覆われており、満足な作品になりません(それほどの腕かな?!)。人の波に押されるように、入場券を購入して本堂までやって来ました。本堂では柏手を打ってお参りしている者もおり(どうも日本人のようでした)、現代版神仏混淆というやつでしょうか。
 本堂は江戸時代の初期、寛永10年(1633)に再興されたもので国宝に指定されています。堂内は巨大な丸柱によって外陣と内陣と内々陣に三分され、最奥の内々陣に本尊が祀られています。本堂南正面に「舞台」が錦雲渓に張り出しています。


開山堂(田村堂)


 本堂との順序が前後しましたが、開山堂は謡曲『田村』に謡われている「田村堂」です。清水寺創建の願主坂上田村麻呂夫妻と、清水寺元祖行叡居士、開山延鎮上人を祀っています。延鎮上人は謡曲にある賢心の後の名。また謡曲では「大同二年(807)の御草創」となっており、若干時間のずれがあります。
 以下、『田村』のクセからロンギにかけて、都の春を謡い、案内する童子の正体が明らかとなるシーンです。


下歌 地「あらあら面白のしゆの花の景色やな。櫻のの間に洩る月の雪も降る夜嵐の。誘ふ花とつれてるや心なるらん
クセ「さぞや名にし負ふ。花の都の春の空。げに時めけるよそほひせいやうの影緑にて。風長閑のどかなる。音羽の瀧の白糸の。繰り返し返しても面白やありがたやな。地主ぢしゆ権現ごんげんの花の色もことなり  シテ「たゞ頼め。しめが原のさしも草  地「我世の中に。あらん限りはの誓願せいぐわん濁らじものを清水の。緑もさすやあをやぎの。げにも枯れたる木なりとも。花さくらのよそほひいづの春もおし並めて。のどけき影は有明の。天も花にへりや。面白の春べやあら面白の べや
ロンギ「げにや氣色けしきを見るからに。たゞびとならぬよそほひのその名如何なる人やらん  シテ「如何にとも。いさやその名もしらゆきの。跡を惜しまばこの寺に。帰る方をご覧ぜよ  地「帰るや何處あしがきの。間近きほどかをちこち  シテ「たづきも知らぬ山中に  地「おぼつかなくも。思ひ給はゞ我が行く方を見よやとて。地主権現のおんまへより。下るかと見えしが。下りはせで坂の上の田村堂ののきるや。月のむら戸を押し開けて内に入らせ給ひけりないぢんに入らせ給ひけり (中入)


 清水寺の本堂を通り抜け、納経所で朱印をいただきます。その左手の石段を上ると謡曲『田村』で、ワキ僧がシテの童子に出会う「地主権現」ですが、“縁結びの神”を名のるだけあって、こちらも若いカップルで溢れています。『田村』の詞章の「天も花に酔へりや」ではありませんが「天も人に酔へりや」という気分です。


地主神社

御朱印


 地主神社は、江戸時代までは清水寺の鎮守社でしたが、明治の神仏分離令で清水寺から独立し、近代社格制度のもと郷社となりました。主祭神は大国主命、縁結びの神さまとして若い女性やカップルに人気のスポットとなっているようです。
 社伝によれば、創建は日本建国以前の神代とされています。実際、境内の「恋占いの石」は原子物理学者、ラリー・ボースト博士による科学的な年代測定で縄文時代の遺物であることが判明しているとのことです。



地主神社本殿

恋占いの石


 現在の社殿は、清水寺本堂と同様寛永年間(1624~44)の徳川家光による再建で、桃山時代の様式による華麗な建物です。本殿・拝殿・総門ともに重要文化財に指定されています。
 「恋占いの石」は、一方の石から眼をとじて歩き、反対側の石に無事たどりつくことができると、恋の願いがかなうといわれているそうです。


おかげ明神

栗光稲荷


 狭い境内におしくらまんじゅうのように、さまざまな設備が並んでいました。以下は「おかげ明神」の説明です。

 どんな願い事も、一つだけなら必ず「おかげ(ご利益)」がいただけるという、一願成就の守り神様。特に女性の守り神として厚い信仰を集めている。また後方のご神木は「いのり杉」とも「のろい杉」ともいわれ、昔女性の間で流行した「丑の刻まいり」に使われた。白の衣に頭はローソク、顔は真白に化粧をし、午前2時「丑の刻」に相手にみたてたワラ人形を、人知れずこのご神木にくぎで打ちつけ、のろいの願をかけたという。その五寸くぎのあとが、現在も向って左後方に無数に残っている。

 「丑の刻まいり」は貴船神社だけではなかったのですね。
 栗光稲荷は、商売繁盛、家内安全、開運招福の神で、毎年初午祭が盛大に行われるそうです。


 地主神社を後に工事中の奥ノ院の前の仮設通路の人混みの中を通過して子安の塔へ行き、そこから「歌の中山清閑寺」まで足を延ばしました(清閑寺については後述)。子安の塔から舞台の下へ取って返すと「音羽の滝」に外人観光客の行列ができておりました。


音羽の滝

御朱印


 音羽の滝は清水寺の開創を起縁し、山号の由来ともなっています。滾々と流れ出る三筋の清水は、古来「黄金水」「延命水」と呼ばれ、“清め”の水として尊ばれ、開祖行叡居士・開山延鎮上人の滝行を伝承して水垢離の行場となってきました。参詣者は柄杓に清水を汲み、六根清浄、所願成就を祈るのですが、外人が果してどこまで理解していることやら。滝祠には不動明王や行叡居士を祀っています。


 そびえたつような舞台の裾を通り仁王門の方に向いますと「アテルイ顕彰碑」なるものがありました。坂上田村麻呂にも関係がありますので、以下に転載します。

 八世紀末頃、日高見国胆沢(岩手県水沢市北方)を本拠とした蝦夷(えみし)の首領阿弖流爲(アテルイ)は中央政府の数次に亘る侵略に対し、十数年に及ぶ奮闘も空しく、遂に坂上田村麻呂の軍門に降り同胞の母礼(モレ)と共に京都に連行された。
 田村麻呂は敵将ながら、アテルイ、モレの武勇、人物を惜しみ政府に助命嘆願したが容れられず、アテルイ、モレ両勇は802年河内国で処刑された。
 この史実に鑑み、田村麻呂開基の清水寺境内にアテルイ、モレ顕彰碑を建立する。


舞台を見上げる

アテルイ顕彰碑


 境内の散策を終え、再び仁王門へと帰ってまいりました。清水寺といえば忘れてならない曲に『花月』があります。舞台は寺の門前ですので、ちょうどこの辺りになるのでしょうか。それでは『花月』を観賞いたしましょう。


   謡曲「花月」梗概
 作者は未詳であるが、世阿弥作とも古作ともいわれているが、少なくとも世阿弥時代に存在した作品といわれている。。典拠は不明であるが、天狗が人を拉致した説話は少なくないから、本曲もそうした巷談に取材したものであろう。


 筑紫の国彦山の麓で子どもが七歳のとき行方不明となり、出家して諸国を行脚していた父親が、ある春の頃上洛して清水寺に参詣して、門前の男から花月と呼ぶ少年の喝食のことを聞く。門前の者が幕へ向かって呼ぶと、やがて烏帽子をつけ、弓矢を携えた花月が登場し、小歌を謡い、花を踏み散らす鶯を弓で射落そうとしたり、清水寺の縁起を曲舞にして舞い謡う。それを見た僧は、この少年が別れた我が子であると気づき、自分が親であることを告げる。花月は喜んで、七歳のとき天狗に連れ去られてからの次第を羯鼓を打ち、簓(ささら)をすって舞いながら物語り、親子ともに仏道修行に旅立つのであった。

 小歌、弓之段、クセ、羯鼓、キリの山廻りと、見せ場をふんだんに持った作品である。中でも小歌は、室町時代の流行歌謡であり、その凝った節廻しと特殊な拍子扱いが特色を持っている。この場面では、地謡に合わせてシテはアイ狂言と肩を並べて舞台を回る。小品ながら、全編明るく華やかな芸尽しを伴う遊狂ぶりに溢れ、また室町時代的な雰囲気に満ちた作品といえよう。
 なおワキの道行の詞章は『卒都婆小町』とまったく同じである。


クセ「そもそもこの寺は。坂の上のむら麿まる。大同二年の春の頃。草創ありしこの方。今も音羽山。嶺のしづしただりに。濁るともなききよみづの。流れを誰か汲まざらん。或時この瀧の水。しきに見えて落ちければ。それを怪しめ山に入り。そのみなかみを尋ぬるに。こんじゆせんの岩のほらの。水の流れに埋もれて名はあをやぎの朽木あり。その木より光さし。きようくんずれば
シテ「さては疑ふ所なく  地やうりうくわんのんの。おんしよへんにてましますかと。皆人手を合はせ。なほもその奇特を知らせてべと申せば。朽木の柳は緑をなし。桜にあらぬおいまで。皆白妙に花咲けり。さてこそせんじゆの誓ひには。枯れたる木にも.花咲くと今の世までもまをすなり


 清水寺の開基に関して『花月』に謡われているのは“楊柳観音”ですが、「千手の誓ひには」とありますので「楊柳千手観音」なのでしょうか。少年が遊狂で語る縁起譚ですから、あまり当てにはならないかも知れません。

 これらの曲以外にも『三井寺』の前場では、行方不明となった我が子を尋ねて駿河の国から上京したシテの母親は、当寺に参籠し「南無や大慈大悲の観世音さしも草。さしも畏き誓ひの末。一称一念なほ頼みあり。ましてやこの程日を送り。夜を重ねたる頼みの末。などかその効なからんと。思ふ心ぞ哀れなる あはれみ給へ思ひ子の。行末何となりぬらん行末何となりぬらん」と祈願をしたところ、「わが子に逢わんと思うならば三井寺へ参れ」との霊夢を蒙り、夢の告げにまかせて三井寺へ参ることとなります。『三井寺』については、いずれ別項にて取り上げたいと思います。

 また『盛久』の主人公である平盛久も当寺の観音を篤く信仰しており、そのご利益で助命されます。また、景清も当寺の観音を信仰しており、頼朝をつけ狙っている景清を描いた『大仏供養』では、「これは平家の侍悪七兵衛景清にて候。我この間は西国の方に候ひしが。宿願の仔細あるにより。この程まかり上り清水に一七日參籠申して候。」と述べています。景清の清水詣では盛久と同様有名であったらしく、古川柳に

  朝参り主馬と七兵衛目礼し  (柳多留 四・14)

と詠まれています。主馬は盛久、七兵衛は景清。清水に朝参りした二人が出会うと、目礼を交わしたであろうということです。
 景清といえば、上方落語に「景清」という演目があります。この落語では清水寺の観音様は“楊柳観音”になっているのです。それではお笑いの一席をかいつまんで…(興津要編『古典落語』続々々・講談社文庫)。

 京都に住む木彫師の定次郎は失明してしまい、近所の甚兵衛さんの勧めで、清水の観音さんに百日の願掛けをして毎日通う。というのは清水の観音は、昔平家の侍大将悪七兵衛景清が、両眼があると頼朝の命を狙わねばならぬので、我と我が眼をくり抜いて奉納したから、眼には霊験あらたかであるというもの。百日の満願の日、楊柳観音が現れ定次郎に景清が奉納した両眼を貸し与えてくれました。定次郎、喜び勇んで帰って参りますと、途中でお大名の行列に出くわしました。
 行列「ひかえい、ひかえおろう」、「ひかえられるかい」と豪傑の眼が入った定次郎、やたらに強くなっており、取り押さえにきた家来を右へ左へと大立ち回り。定次郎、殿さまの駕籠へ手をかけ、棒鼻を押さえ「乗り物、待った」。殿さま「狼藉者、名を名乗れ」、定次郎「わが名を聞きたくば、いっても聞かさん。すぎし源平の合戦に、あえなく散りし平家の一門。悪七兵衛景清なるぞ」と大見得を切ります。殿さま「そちゃ、気が違うたな」、定次郎「いいえ、眼が違いましたんやがな」


 さらに『放下僧』の小歌では、ここ清水の景を、「面白の花の都や。筆に書くとも及ばじ。東には、祇園清水落ち来る瀧の、音羽の嵐に、地主の櫻は散り散り」と謡っています。




 順序が後先になりましたが、以下は歌の中山清閑寺への参拝記です。子安の塔から山裾沿いに10分ほど歩くと、清閑寺に到着します。



《清閑寺》  京都市東山区清閑寺歌ノ中山町3

 清閑寺(せいかんじ)の山号である「歌の中山」は地名で、清閑寺から清水寺の間の山路をいいます。真言宗智山派の寺院で本尊は十一面千手観音。延暦21年(802)に天台宗の寺として紹継法師によって創建され、当時は清水寺と並ぶほどの大寺院でしたが、応仁の乱で焼失し、慶長年間(1596~1615)に性盛によって真言宗の寺院として再興されましたが、往時の盛観に復することはできませんでした。現在の本堂はこの時建造されたものとのことです。
 『平家物語』の悲恋で知られる高倉天皇と小督局ゆかりの寺院であります。以前、嵯峨野の小督塚を訪れた際、この地をも訪問したいと考えていましたが、やっと念願がかないました。


歌の中山清閑寺の標石

六条天皇、高倉天皇御陵


 清水寺から山陰の小道をたどってきますと、左手の小高い土手に「歌の中山 清閑寺」の標石が出迎えてくれます。その奥山腹に六条天皇と高倉天皇の御陵がひっそりとたたずんでいます。
 わずか1歳で即位した六条天皇の養育に尽力した藤原邦綱は、この寺の閑寂を愛し、境内に邸宅を営んでいたこともあり、天皇もしばしば行幸されていたようです。安元2年(1176)天皇はこの邸宅で崩御され、その遺骸は清閑寺の小堂に葬られました。
 六条帝に次いで即位された高倉天皇もまたよく行幸され、山境の紅楓をことのほか愛でられたということです。天皇が寵愛した小督局は、中宮徳子の父である平清盛の命により、この地で出家させられました。天皇は局への慕情止みがたく「局のいる清閑寺に葬るよう」遺言をされ、この地に埋葬されました。
 以下は『源平盛衰記』の「井巻第二十五・小督の事」より。


(小督局は嵯峨野に身を隠したものの、高倉帝の命を受けた仲国に見いだされ、再び内裏に帰ってくる。ところが清盛の知るところとなり、源太夫判官季定に小督局を追放するよう命じる。)
季定すゑさだ承り、目もあてられず思ひけれ共、東山の麓淸閑寺と云ふ所に具足し奉り、姿を替へさせ奉る。ひすゐのたをやかなるをそりおろし、花色衣の御袖を、うき世をよその墨染に替へけるこそ悲しけれ。此を見奉りける人、上下袂をしぼりけり。  (中略)

主上しゆじやう聞召きこしめしちん天子の位にて、これ程の事を叡慮えいりよに任せぬことこそ安からねとおぼしされけれ共、世にろうはなかりけり。小督局の、心ならず尼になされたる所なれば、御なつかしく思召しけるにや、朕をば必ず淸閑寺へ送り納めよと御ゆゐごんの有りけるこそ、御あいしふの罪と云ひながらあはれなれ。



清閑寺山門

本堂

 山門を入ると謡曲史跡保存会の駒札が立ち、本堂の前には「小督剃髪の本堂」の碑があります。以下は「謡曲『小督』と清閑寺」と題する史跡保存会の駒札です。

 「歌の中山清閑寺」といわれるこの寺は、真言宗智山派に属し、延暦21年(802)紹継法師の創設によるものですが、古典「平家物語」に書かれた小督局が、平清盛のため尼にさせられたところといわれます。小督は高倉帝の愛を受けましたが、帝の中宮建礼門院が清盛の娘だったため、嵯峨に身を隠したのは有名で、これをもとにつくられたのが謡曲「小督」です。
 しかし帝の心は変わらず「私が死んだら小督のいる清閑寺へ葬ってくれ」と遺言され、養和元年(1181)亡くなられたので、この寺に埋葬されたといわれます。
 寺の背後の山中に御陵があり、傍らに小督の墓があります。山号の「歌の中山」は清水寺から清閑寺に至る山路をいいます。


要石

小督の桜

 庭前の石垣に囲まれた石は、そこに立てば京都の町並があたかも扇を開いたような角度で眺望され、扇の要にあたることから「要石(かなめいし)」と呼ばれています。
 昔は山科・大津方面から京都に入るには、この付近が通路となっており、東の方からこの寺にたどり着いてはじめて京都が見えたので、一つの名所となっていたようです。
 またいつの頃からか、この要石に誓いをたてると願いがかなうという信仰が生れ、今日に続いているそうです。

  願いあらばあゆみをはこべ清閑寺庭に誓いの要石あり

 要石の右手に「小督の桜」と刻した標石があります。小督を偲んで植えられた桜なのでしょうか。
 また「与謝野礼厳」と記された立て札がありました。与謝野礼厳は与謝野鉄幹の父で、浄土真宗西本願寺の僧でしたが、明治29年(1896)に妻を亡くし、この寺に隠棲しました。3万首近い歌を詠んだといわれています。

  年を経て世に捨てられし身の幸は人なき山の花を見るかな
  汲むほどに足らぬ日もなし巌間水すみよかりけり歌の中山


小督供局養塔

 本堂前庭の楓の樹林の中にある宝筐印塔は、小督局の供養塔だといわれています。
 小督は高倉天皇の死後、生涯にわたって菩提を弔ったといわれ、その墓も高倉陵の傍らにありますが、一説では平家の都落ちで一緒に九州まで逃れたといわれており、福岡県田川市の成道寺に小督局の墓といわれる石造りの七重の塔が残っています。


 小督ゆかりの清閑寺を後に、「歌の中山」と呼ばれる山裾の小径を清水寺まで取って返し、その後『橋弁慶』で有名な五条大橋から五条の天神にお参りして、本日の謡蹟巡りの旅を終えました。




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  (平成26年 4月 8日・探訪)
(平成26年 5月13日・記述)


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