謡曲の先頭頁へ
 謡蹟の先頭頁へ

京都・五条大橋 〈橋弁慶〉


 2014年4月8日、京都東山の清水寺に参詣、『熊野』『田村』『花月』の謡蹟を探訪した帰路に、五条大橋から五条天神に参拝、『橋弁慶』の謡蹟を訪ねました。
 平安朝の頃の五条通は現在の松原通で、当時の五条の橋は現在の松原橋の位置にあったようです。豊臣秀吉が現在の五条大橋の位置に架け替えさせたとのこと。したがって、牛若丸と弁慶が出会った(といわれている)五条の橋は松原橋ということになります。


東詰からの松原橋

松原橋西詰の親柱

 清水寺から松原通を下り、松原橋にでました。松原通は道幅もさほど広くないのですが、赤信号となると橋の上にはあっという間に車の列が出来上がります。


鴨川の川辺

川端通の桜並木

川辺には桜が咲き競っております。花を愛でつつ、鴨川の河川敷を歩いたり、川端通を歩いたりしながら、ぶらぶらと五条大橋に向い南下しました。


川辺から見た五条大橋

 五条大橋西詰に到着しましたが、さすがにこの通りは国道1号線だけあって、車の通行がはんぱではありません。
 牛若丸と弁慶の像が建てられていると聞いていましたが、それは橋の西詰にあるようです。


五条大橋を渡る

五条大橋東詰

 橋を渡りきると、道の中央分離帯のところに、牛若丸と弁慶の像がありました。御所人形風で下半身スッポンポン。かわいい牛若と弁慶像でしたので、いささか面喰ってしまいました。


牛若丸と弁慶の像


 それでは、謡曲『橋弁慶』について。考察してみたいと思います。


   謡曲「橋弁慶」梗概
 佐阿弥とも伝えられているが作者は未詳である。佐阿弥は室町時代の能作者であるが、生没年未詳。『自家伝抄』は『望月』『高野物狂』なども佐阿弥の作としているが確証はない。金春系の人物であろうか。
 『橋弁慶』は『義経記』に取材したもの。原典では弁慶が五条の橋で太刀強盗を働いているが、それを牛若の方にしたのは、前段における会話で、牛若の早業に関する予備説明を加えようとしたためであって、本曲の中心をなすのは、いうまでもなく後段の切り組みである。

 武蔵坊弁慶は、宿願のため夜毎に五条天神へ参詣していたが、満参の日に伴っている従者より、五条の橋に十二、三の少年が出没して、不思議な早業で斬りかかることを聞く。弁慶は一度は参詣を躊躇するが、聞き逃げは無念である、むしろその化生のものを退治してやろうと決心して夜更けを待つ。
 牛若は、母の命令で明日は寺に上ることになったので、今夜を名残に五条の橋に出て通行人を待ち受けていると、大長刀を持った弁慶が通りかかった。被衣姿の牛若を見て女と思い、通り過ぎようとしたが、牛若は長刀の柄元を蹴りあげて戦いを挑み、切り合いとなるが、弁慶は身の軽い牛若に翻弄されて力尽き、互に名のり合って主従の誓いを交わすのである。


 観世流では小書「笛之巻」がある。この小書では前場が全く変わり、弘法大師伝来の笛を牛若に見せて、乱暴者の牛若を教訓する場面となる。前シテの弁慶が、牛若の母常磐御前に替わり、常には出ないワキに傅(めのと)の羽田秋長が登場、舞台も常磐の住居となる。この小書の時には、往々にして和泉流狂言の替間「弦師(つるし)」が付くことになる。


 以下、子どものころよく歌った「牛若丸」の歌です。

  京の五条の橋の上
  大の男の弁慶が
  長い薙刀ふりあげて
  牛若めがけて切りかかる


シテ「辦慶かれを見つけつゝ 〈立廻〉
シテ「言葉をかけんと思へども。見れば女の姿なり。我は出家しゆつけの事なれば。思ひ煩ひ過ぎて行く  子方「牛若彼をなぶつて見んと。行き違ひさまになぎなたの。もとをはつしと蹴上ぐれば  シテ「すは。しれものよ。物見せんと
「長刀やがて取り直し。長刀やがて取り直し。いで物見せん。なみの程と。斬つてかかれば牛若は。少しも騷がずつゝ立ち直つて。うすぎぬ引きけつゝ。しづしづと抜き放つてつゝ支へたる長刀の。きつさきに太刀打ち合はせ。めつ開いつ戦ひしが。何とかしたりけん。もとに牛若寄るとぞ見えしが.たたみ重ねて打つ太刀に。さしもの辦慶合はせ兼ねて。はしげたを二三げん退しさつて。肝をぞ消したりける。
あらもの々しあれ程の。あら物々しあれ程の。小姓一人ひとりを斬ればとて。なみにいかで洩らすべきと。長刀。柄長くおつ取り延べて。走りかかつてちやうと斬れば。そむけて右に。飛び違ふ取り直して裾を。ぎ拂へば。をどり上つて足もためず。ちうを拂へばかうべを地につけ.々に戦ふ大長刀。打ち落されて力なく。組まんと寄れば。斬り拂ふすがらんとするも便たよりなし。せん方なくて辦慶は。たいなるしやうじんかなとて呆れ果てゝぞ立つたりける


 牛若は女装で登場するようですが、平安末期の京の町で、夜ふけに女性が一人歩きできるほど治安が良かったとは到底思えないのですが…。

 橋のたもとに「扇塚」なるものがありました。以下は昭和35年に記された当時の高山義三京都市長「扇塚の記」です。

 扇は平安時代の初期この地に初めて作られたものである。ここ五条大橋の畔は時宗御影堂の遺跡であり、平敦盛没後その室本寺祐寛上人によって得度し蓮華院尼と称し寺僧と共に扇を作ったと言い伝えられている。この由緒により、扇工この地に集まり永く扇の名産地として広く海外にまでも喧伝されるに至った。いまこの由来を記してこれを顕彰する。


扇塚

大田垣蓮月の歌碑

 橋の西詰から小道を隔てて「牛若ひろば」なる小公園があります。ここに大田垣蓮月の歌碑と説明書きがありました。(風化が激しく読み取れない部分は想像で補っています)

  あすも来て見んと思へば家づとに手折るもをしき山さくら花
 大田垣蓮月(1791~1875)は江戸後期の女性歌人。夫と子の死を機に出家、「蓮月」を名乗る。自作の短歌を独特の書体で入れた陶器が「蓮月焼」の名でヒットした。
 多くの文人との逸話もあるが、幼い富岡鉄斎の学問修行の援助をしたのは有名。幕末・明治・大正にかけてその名が広く知られていたことは、時代祭の行列に登場していることからも分かる。歌集に「海人のかる藻」がある。
 幕末、京の町が騒がしくなった72才のときに上賀茂神光院茶所に移り、明治8年84才で歿。墓は西賀茂西芳寺にある。墓石の字は富岡鉄斎による。


 五条大橋から河原町通を北上して再び松原通に出ます。松原通を西に、弁慶が「我宿願の仔細あつて、五條の天神へ、丑刻詣を仕り候」と夜毎に通ったという五条天神への道をたどります。
 「丑刻詣で」といえば、女性が誰かを呪うために行った行為で、貴船神社の専売特許かと思っていましたが、清水の地主神社にもその風習があったようですし、貴船神社に限ったものではなかったのかも知れません。また弁慶が「丑刻詣で」を行っているわけですから、何らかの祈願成就のため、丑の刻に神仏に参拝することが、後に呪詛する行為に転じたものと思われます。
 「丑刻詣で」についてとやこう申すうちに、はや五条天神へ着いて候。


五条天神

 西暦794年の平安遷都に際し、桓武天皇が空海に命じて、大和の国から天神様を勧請したのが始まりといわれています。牛若丸と弁慶が始めてであったのがこの地あると言う説もあるようです。現在は境内も狭く、こじんまりとした巷の鎮守さまという感じの社です。以下は京都市による当社の由緒書きです。

 祭神として、大己貴命、少彦名命、天照大神を祀る。
 社伝によれば、延暦13年(794)、桓武天皇の平安遷都に当り、大和国宇陀郡から天神(あまつかみ)を勧請したのが当社の始まりといわれる。当初は「天使の宮」(天使社)と称したが、後鳥羽天皇の時代に「五条天神宮」と改めた。
 創社の頃は社域も広く、社殿も広壮であったが、中世以来たびたび火災に遭い、元治元年(1864)の蛤御門(はまぐりごもん)の変で社殿は焼失した。現在の社殿は近時の再建である。
 当社は古来、医薬・禁厭(きんえん・まじない)の神として広く崇敬され、今なお節分には、厄除けの祈願のため参詣する人が多い。


社殿

北門


 北門の横に「皇国医祖神…」の碑が建てられています。また『徒然草』203段に

勅勘の所に靫かくる作法、今は絶えて知れる人なし。主上の御惱、大方世の中の騒がしき時は、五條の天神に靫をかけらる。鞍馬にゆぎの明神といふも、靫かけられたりける神なり。看督長の負ひたる靫を、其の家にかけられぬれば、人出で入らず。此の事絶えて後、今の世には、封をつくることになりにけり。

とあり、古来医薬の神として崇められたようです。「靫(ゆき)」とは、矢を差し入れて背負う細長い箱。勅勘を受けた人の家であることを示すために、門にかけるものをいうようです。


 京都駅から始まり、清水寺・中山清閑寺・五条大橋とたどった本日の謡蹟探訪は、ここ五条天神で終了。四条烏丸まで歩き、阪急電車で帰阪の途に就きました。




 謡曲の先頭頁へ
 謡蹟の先頭頁へ
  (平成26年 4月 8日・探訪)
(平成26年 6月 2日・記述)


inserted by FC2 system