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大津・義仲寺 〈巴〉


 2014年6月20日、矢橋の渡しの旧跡を訪れ、近江大橋を渡って大津市膳所駅の北側にある義仲寺に参拝いたしました。義仲寺はその名のとおり木曽義仲の墓所となっており、巴塚もありますので、ここを『巴』の謡蹟といたしました。
 木曽義仲は治承4年(1180)、信濃に平氏討伐の軍を興し、寿永2年(1183)5月、北陸路に平氏の大軍を討ち破り7月に入京します。しかし翌寿永3年1月20日、源頼朝の命を受けて都に上ってきた源範頼、義経の軍勢と戦い、時利あらず、ここ粟津の地で討死、享年31歳でした。


   謡曲「巴」梗概
 『平家物語』『源平盛衰記』に典拠したもので、作者は未詳。
 木曽の山家の僧が都に上る途中、粟津の原に到着すると、松蔭に手を合せ涙する若い女に出会う。不審に思いその訳を尋ねる僧に、女はここは木曽義仲ゆかりの地であることを述べ、回向を請う。そして自らも亡者が仮に現れたものであると言いつつ、名も告げず夕闇に消えていった。

 僧が回向をして夜を過ごしていると、長刀を持ち甲冑姿の若い女が現れ、自分は巴という女武者であると名乗り、ここ粟津の原での奮戦の有様や義仲の最期を語り、義仲と共に死ぬことを許されず、形見の品を持って独り木曽に落ちのびた心残りの執心を晴らしてくれるよう、僧の回向を乞うのであった。
 鬘物を思わせる静かな前場とは対照的に、後場では長刀さばきを見せる女武者を描く、異色の修羅物であり、女性の修羅物としては、現行曲中で本曲のみである。



義 仲 寺 界 隈 の 図



《義仲寺》  大津市馬場町1丁目5-12


 義仲寺(ぎちゅうじ)は、JR(京阪)膳所駅の北方約300メートルのところ、県道16号線(湾岸道路)から一筋南側の通り(この通りが旧東海道のようです)にあります。わりあいこじんまりとした境内には、木曽義仲や芭蕉の墓が祀られ、また義仲の愛妾巴、山吹の塚や無数の句碑が建ち並んでいます。
 以下、当寺の資料により、義仲寺の沿革を眺めてみましょう。

 木曽義仲が粟津の原に滅んだ後いくばくかの年を経て、義仲の墓所のほとりにひとりの尼僧が草庵を結び懇ろに供養をしていた。里人が問うても「われは名も無き女性(にょしょう)」と答えるのみであったが、この尼こそ巴御前の後身であった。尼の没後、この庵は「無名庵(むみょうあん)」あるいは「巴寺」と呼ばれていた。
 戦国の頃には当寺は大いに荒廃したが、近江の国主佐々木氏が、石山寺参拝の途次この有様を見て「源家大将軍の御墳墓荒るるにまかすべからず」とて、当寺を再建し寺領を進めた。貞享年間(1684~88)以降、芭蕉が当寺を宿舎としてしきりに来訪した。元禄7年(1694)10月12日、芭蕉は大坂で没するが「骸(むくろ)は木曽塚に送るべし」との遺言により、遺骸は当寺に運ばれ葬られた。
 その後、たびたび改修が行われたが、第二次世界大戦の後、寺内全建造物の荒廃はその極に達し壊滅の危機を迎えた。この時東京都在住の三浦義一翁が、私財を寄進して義仲寺を三井寺円満院より分離独立させ、寺域を整頓し、朝日堂、無名庵、翁堂を改築改修し、昭和40年の時雨忌に昭和再建落慶の法要を行った。本寺は昭和42年11月、境内全域が文部省より国の史跡に指定された。


義仲寺山門


 以下は門前に立つ大津市教育委員会による説明書きです。


 義仲寺(ぎちゅうじ)の名は、源義仲を葬った塚のあるところからきていますが、室町時代末に佐々木六角氏が建立したとの伝えがあります。
 門を入ると左奥に、俳聖松尾芭蕉の墓と並んで、木曽義仲の供養塔が立っています
「木曽殿と背中合わせの寒さかな」という著名な句は、芭蕉の門人又玄(ゆうげん)の作です。境内にはこの句をはじめ、芭蕉の辞世の句「度に病んで夢は枯野をかけめぐる」など多くの句碑があります。また、巴御前を弔うために祭ったといわれる巴地蔵堂もあります。
 昭和42年11月に国指定の史跡となりました。



義仲寺入場券


 山門の右手にある地蔵堂は「巴地蔵堂」と呼ばれ、義仲の供養にその晩年を捧げた巴御前の冥福を祈るお堂で、石彫の地蔵尊が安置されています。
 無名庵は義仲の墓と芭蕉の墓の後方に建てられています。「無名庵」の呼称は、義仲の菩提を弔っているひとりの女性が「我は名も無き女性」と答えたことに基づき、「義仲寺」が正式の寺格を得る以前からのものでしよう。
 芭蕉はこの寺と湖南のひとびとを愛し、たびたび滞在し、この無名庵で句会も盛んに行われようです。現在も一般に開放されており、句会をはじめとする文化活動に利用されているようです。



巴地蔵堂

無名庵


 寺の中央に土台の上に宝篋印塔を据えた義仲の墓が祀られています。
 芭蕉は木曽塚と称えたとのことで、義仲の忌日である「義仲忌」は毎年1月の第三日曜日に営まれています。
 芭蕉の義仲を詠んだ二首。


  義仲の寝覚の山か月悲し  (元禄2年)
  木曽の情雪や生えぬく春の草  (元禄4年)



 それでは、謡曲『巴』に謡われた、義仲の最期の場面です。
 余談ですが、このロンギの「雪はむら消えに残るを」の「消え」が“甲グリ”といって一番高い調子で謡うところになっています。通常、謡曲を習い始めて最初に“甲グリ”に出くわすのが本曲ではないでしょうか。初めて習った時、この調子が摑めず(現在でもそうですが…)四苦八苦したことを思い出しました。


ロンギ「さてこの原の合戰かせんにて。討たれ給ひし義仲の。最期を語りおはしませ  シテ「頃はつきの空なれば  地「雪はむらえに殘るをたゞかよいみぎはをさして。駒をしるべに落ち給ふが。うすごほりふかに駈け込みゆんも。あぶみは沈んで。下り立たん便たよりもなくて。づなすがつて鞭を打てども。退く方も渚の濱なり前後を忘じて.控へ給へり。こは如何に淺ましや。かゝりしところにみづから駈け寄せて見奉れば。おもは負ひ給ひぬのりがへに召させ參らせ。この松原に御供し。はやおんがい候へ。巴も共と申せば。その時義仲の仰せには。汝は女なり。忍ぶ便たよりもあるべし。これなるまもり小袖を。木曽に届けよこの旨を。背かば主從さんの契り絶え果て。永く不興ふきやうのたまへば。巴はともかくも。涙にむせぶばかりなり




木曽義仲の墓

 朝日堂は義仲寺の本堂で、朝日将軍にちなんで命名されたものでしょう。本尊は木彫聖観世音菩薩。義仲、義高父子の木像を厨子に納めています。義仲、今井兼平、芭蕉、丈艸ほか合せて31柱の位牌を安置しています。現在の朝日堂は昭和54年に改築されたもの。



朝日堂

朝日堂内陣


 義仲の墓の手前に巴塚があります。本曲の主人公である巴御前を祀ったものです。巴御前の墓は木曽をはじめとして各地に存在するようですが、ここもその一つと言われているようです。『平家物語』における巴御前の記述は簡略で、義仲との関係も戦場における活躍も一切記されていません。謡曲における巴の活躍は『源平盛衰記』の「巴関東下向の事」などに拠ったものでしょう。
 以下、『平家物語』(佐藤謙三校註、角川文庫・1959)の「木曽の最期の事」の書き出しです。


 木曽は信濃を出でしより、ともゑ山吹やまぶき(一書には款冬)とて、二人の美女を具せられたり。山吹はいたはりあつて都に留まりぬ。中にも、巴は色白う髪長く、容顔まことに美麗なり。くつきやうあらうまのりあくしよ落し、弓矢打物取つては、いかなる鬼にもあふと云ふ一人當千のつはものなり。


 当寺には、巴御前の塚と併せて義仲の愛妾山吹の塚も祀られていました。巴塚は従前からあったようですが、山吹塚はもとJR大津駅前にあったものを、大津駅の拡張工事にともない、昭和48年に当寺に移設されたものです。ご朱印を頂戴しながら、ご住職よりそんなお話を伺い、「そりゃー巴もびっくりしたでしょうなー、迷惑だったんと違いますか」と思わず申しますと、巴と山吹は仲がよろしかったようですよ、とはご住職の弁でありました。

 ただ、巴塚は義仲の墓のすぐ傍にあるのですが、山吹の塚は山門近くの、義仲の墓からは少し離れた場所にあります。後からやって来たので已むを得ぬ措置なのかもしれません。



巴塚

山吹塚



 巴塚の傍らに、当寺の再建に尽力された三浦義一氏が巴を詠んだ歌碑があります。さらに芭蕉の墓の奥にも氏の歌碑が建てられています。


  かくのごときをみなのありとかつてまた おもひしことはわれになかりき
  としつきは過ぎにしとおもふ近江ぬ(野)の みづうみのうへをわたりゆく月



三浦義一翁歌碑(かくのごとき…)

三浦義一翁歌碑(としつきは…)


 義仲の墓と並んで芭蕉の墓があります。以下は芭蕉との関係についての当寺のパンフレットの記載です。


 芭蕉翁が当所を訪れたのは貞享2年(1685)3月中旬、ついで同5年5月中旬滞在。元禄2年(1689)、奥の細道の旅の後12月に京都、大津に在り膳所で越年、いったん伊賀上野に帰り、3月中旬再び来訪、9月末まで滞在した。
 元禄4年春、無名庵の新庵落成。同年4月18日から5月5日まで京都嵯峨の落柿舎に滞在、「嵯峨日記」を草す。6月25日から9月28日まで無名庵に滞在。
 伊勢の俳人又玄の有名な句「木曽殿と脊中合わせの寒さかな」は、同年9月13日ごろ、又玄が無名庵に滞在中の翁を訪ね泊まったときの作。
 芭蕉翁は、元禄7年5月11日最後の旅に江戸を出発、伊賀上野に帰郷。閏5月18日膳所に入り、22日落柿舎へ。6月15日京都から当庵に帰り、7月5日京都の去来宅に移る。7月中旬から9月8日まで伊賀上野に帰郷。8日伊賀上野を立ち9日夕、大坂に着く。


 芭蕉が大坂の旅舎で亡くなったのは、元禄7年(1694)10月12日午後4時頃、享年51歳でありました。



芭蕉の墓


 元禄7年10月12日、芭蕉は大坂の宿で亡くなりましたが、その遺言にしたがって遺骸を義仲寺に葬るため、その夜、去来、其角、正秀ら門人は遺骸を守り、川舟に乗せて淀川を上り伏見に到り、13日午後義仲寺に到着。14日に葬儀を執り行い深夜ここに埋葬しました。
 其角の『芭蕉翁終焉記』に「木曽殿の右に葬る」とあり、現在も当時のままであります。墓石の「芭蕉翁」の字は丈艸(じょうそう)の筆といわれています。
 芭蕉の忌日は「時雨忌」といい、当寺の年中行事になっています。現在は旧暦の節気にあわせて、毎年11月の第2土曜日に営まれています。



翁堂

御朱印


 翁堂の正面祭壇には芭蕉の像、左右に丈艸、去来の木造、側面に蝶夢(ちょうむ)法師の陶像を安置し、正面壁上に「正風宗師」の額、左右の壁上には三十六俳人の画像を掲げています。「正風宗師」は朱印にも記されていますが、正風とは芭蕉一門の俳風、すなわち「蕉風」のことであり、宗師とは一門の第一位である師匠、すなわち芭蕉のことをいいます。天井の絵は、伊藤若冲(じゃくちゅう)筆「四季花卉の図」です。
 翁堂は蝶夢法師が明和6年(1769)に再興。翌7年に画像が完成しています。安政3年(1856)に類焼し同5年に再建されます。現在の画像は、明治21年(1888)に穂積永機(ほづみえいき)が類焼したものに似た画像を制作して奉納したものです。



芭蕉句碑(行く春を…)

芭蕉句碑(度に病んで…)


 境内には20基ばかりの句碑や歌碑が建ち並んでいます。以下にその数点をご紹介します。先ずは芭蕉の句から。


  行く春をあふミの人とおしみける  芭蕉
  旅に病で夢は枯野をかけ巡る  芭蕉


 「行く春を~」は、元禄3年庚午(1690年)、芭蕉47歳の作。「志賀辛崎に舟を浮かべて、人々春の名残を言ひけるに」とあり、当寺において詠んだものでしょう。
 この句に関しては『去来抄』に、


先師曰く「尚白が難に、近江は丹波にも、行く春は行く歳にも有るべし、といへり。汝いかが聞き侍るや」。去来曰く「尚白が難あたらず。湖水朦朧として春を惜しむに便り有るべし。殊に今日の上に侍る」と申す。先師曰く「しかり。古人も此國に春を愛する事、をさをさ都に劣らざるものを」。去来曰く「此の一言心に徹す。行く歳近江にゐ給はば、いかでか此の感ましまさん。行く春丹波にゐまさば、もとより此の情浮かぶまじ。風光の人を感動せしむる事、まことなるなり」と申す。先師曰く「汝は去来、ともに風雅をかたるべきものなり」と殊更に悦び給ひけり。


とあります。いささか去来の我田引水的な自慢話ともいえないことはないでしょう。ただ芭蕉にとって琵琶湖の風情や、ここ義仲寺への思いには格別なものがあったのでしょう。
 「旅に病で~」は芭蕉の辞世の句として有名ですね。



芭蕉句碑(古池や…)

又玄句碑(木曽殿と…)


 続いて芭蕉と又玄(ゆうげん)の句。


  古池や蛙飛びこむ水の音  芭蕉
  木曽殿と背中合せの寒さかな  又玄


 又玄(ゆうげん)の「木曽殿と~」は、義仲寺を代表する、かつ義仲寺を最もよく言い表した句ではないでしょうか。一見すると芭蕉の墓と義仲の墓が「背中合せ」と詠まれたものと思われそうです。ところが実際の墓の配置は背中合せではなく横並びになっていますので、又玄の勘違いではないかと考えそうです。この句は又玄が無名庵に芭蕉を訪ねた時の作ということですので、木曽殿と背中合せになっているのは、作者の又玄か生きている芭蕉かということで、墓とは関係なさそうですね。作者の島崎又玄は芭蕉の弟子で、伊勢山田の人。伊勢神宮の御師であったらしい。この句はかつては芭蕉の作と思われていたようです。

 また、この又玄の「木曽殿と背中合せ~」を受けた古川柳に次のような句があります。「桃青」は芭蕉の別号。


  桃青が塚は尻より日が当たり  (柳多留二十七・7)
  朝日をばうしろに背負へど寒さかな  (柳多留九十八・71)



羽州句碑(身のほどを…)

魯人句碑(月の海…)


 続いて羽州と魯人の句。


  身のほどをかへり見る日ぞ初しぐれ  羽州
  月の湖鳰は浮いたりしづみたり  魯人


 松浦羽州は俳人。名古屋の商家に生まれるも生没年未詳。維新後、出雲北川・三河蓬宇と共に三大宗匠に数えられており、観世流謡曲、松尾流茶事を能くしたとのことです。
 魯人の本名は岡田存修(天保11年・1840~明治38年・1905)、明治時代の俳人。義仲寺無名庵が荒廃したままになっていることに心を痛め、明治27年(1894)6月無名庵に幹事として入庵し、境内や本廟の修繕、散在していた宝物の収集に努めました。
 魯人の逸話として、無名庵にある「木曽殿と背中合せの寒さかな」の句碑を抜いた話が残されています。人々は魯人の乱暴を糾したが、魯人は「これは芭蕉翁の句に非ずして、実は伊勢又玄が翁の碑を詠みたるものなり。然るを人々謬りて翁の句となすのみならず、碑にも其の旨を示せり、是れ後世を謀るものなり。」と答えたといいます。魯人の剛毅にして所信を曲げない性質を表す話として語り継がれています。



木曽八幡社と

曲翠墓、保田與重郎墓


 木曽八幡社は、義仲寺の鎮守として古くから鎮座していたようです。昭和51年社殿と鳥居を併せ新造、遷宮の御儀を行ったとのこと。
 八幡社の右側に立つのは芭蕉の供養塔で、右が二百年記念、左が三百年記念のものです。この図では定かではありませんが、拡大して見ると左の塔は白く見えるのに対し、右側の塔はかなり黒ずんでいます。百年の歳月が歴然と現れています。

 その右奥には曲翠の墓が祀られています。膳所藩士菅沼曲翠は、芭蕉が信頼した門人の一人でした。享保2年(1717)年7月、曲翠は藩の悪家老曽我権太夫を刺殺し、自らも責任をとって切腹しました。芭蕉は『幻住庵記』に「勇士曲水」と記し、また初見の印象を「ただ者に非ず」と言っています。
 曲翠の墓と並んで保田與重郎(やすだよじゅうろう)の墓があります。保田與重郎(明治43年・1910~昭和56年・1981)は、奈良県桜井市出身の文芸評論家で多数の著作を出しています。代表作に『日本の橋』『芭蕉』など。義仲寺再興に尽力したことにより分骨してここに祀られているそうです。


 義仲寺の探索に夢中になり、肝心の謡曲をなおざりにしてしまいました。
 再び謡曲『巴』に立ち帰りましょう。


シテ「今はこれまでなりと  地「立ちかへり我が君を。見たてまつればいたはしや。はやおんがい候ひて。この松が根に伏し給ひおんまくらのほどにおんそで。肌のまもりを置き給ふを。巴泣く泣く賜はりて。死骸におんいとま申しつゝ。行けども悲しや行きやらぬ。君のごりを如何にせん。とは思へどもくれぐれの。ゆいごんの悲しさに。粟津の。みぎはに立ち寄り。うはおび切り。もののぐ心しづかに脱ぎ置き。なしうち同じく。彼處かしこに脱ぎ捨て。御小袖を引きかづき。そのきはまでのはきぞへの。小太刀をきぬに引き隠し。所は此處ここぞ近江なる。しがらきがさを木曽の里に。涙と巴は唯一人落ち行きしうしろめたさの執心しうしんひてび給へ執心を弔ひて賜び給へ



 『源平盛衰記』によれば、巴は義仲から「我去年の春信濃国を出し時、妻子を捨置き、又再び見ずして永き別の道に入らん事こそ悲しけれ。去れば無からん跡までも、此事を知らせて、後の世を弔はゞやと思へば、最後の伴よりも然るべしと存ずる也。疾う疾う忍び落ちて信濃へ下り、この有樣を人々に語れ、敵も手繁く見ゆ、早々」と、自らの最後の有様を人々に語り伝えることでその後世を弔うよう言われ、戦場を去っていきます。落ち延びた後に頼朝から鎌倉へ召され、和田義盛の妻となって生んだ男子が朝比奈三郎義秀といわれています。和田義盛亡き後は出家して主・親・子の後世を弔う日々を送り、91歳で生涯を終えたということです。

 『盛衰記』では、義仲は「信濃国を出し時、妻子を捨置き」と言っていますので、巴は正妻ではなく側女だったようですね。
 また、朝比奈三郎義秀大力の勇者であったため、『盛衰記』では巴御前を義盛が望み義秀が生まれたことになっています。けれども義秀の生年が義仲の滅亡以前であることから、この話は創作でありましょう。

 最期に、巴に関する川柳を少々。

  木曽を抱きしめ緋縅をねだるなり  (柳多留二十二・40)
  生マつばき吐き吐き巴切つて出る  (柳多留四・21)

 上述しましたが、俗説では和田義盛に嫁した時に、巴はすでに懐胎しており、それが朝比奈三郎と伝えています。妊娠して惡阻がおこると、吐き気を催したり生唾が出たりするが、それを巴の奮戦に採り入れて詠んだものです。




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  (平成26年 6月20日・探訪)
(平成26年 9月 8日・記述)


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