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2014年6月20日、矢橋の渡しの旧跡を訪れ、近江大橋を渡って大津市膳所駅の北側にある義仲寺に参拝いたしました。義仲寺はその名のとおり木曽義仲の墓所となっており、巴塚もありますので、ここを『巴』の謡蹟といたしました。 |
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義 仲 寺 界 隈 の 図 |
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義仲寺山門 |
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義仲寺入場券 |
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巴地蔵堂 |
無名庵 |
それでは、謡曲『巴』に謡われた、義仲の最期の場面です。 |
ロンギ「さてこの原の |
木曽義仲の墓 |
朝日堂は義仲寺の本堂で、朝日将軍にちなんで命名されたものでしょう。本尊は木彫聖観世音菩薩。義仲、義高父子の木像を厨子に納めています。義仲、今井兼平、芭蕉、丈艸ほか合せて31柱の位牌を安置しています。現在の朝日堂は昭和54年に改築されたもの。 |
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朝日堂 |
朝日堂内陣 |
義仲の墓の手前に巴塚があります。本曲の主人公である巴御前を祀ったものです。巴御前の墓は木曽をはじめとして各地に存在するようですが、ここもその一つと言われているようです。『平家物語』における巴御前の記述は簡略で、義仲との関係も戦場における活躍も一切記されていません。謡曲における巴の活躍は『源平盛衰記』の「巴関東下向の事」などに拠ったものでしょう。 |
木曽は信濃を出でしより、 |
当寺には、巴御前の塚と併せて義仲の愛妾山吹の塚も祀られていました。巴塚は従前からあったようですが、山吹塚はもとJR大津駅前にあったものを、大津駅の拡張工事にともない、昭和48年に当寺に移設されたものです。ご朱印を頂戴しながら、ご住職よりそんなお話を伺い、「そりゃー巴もびっくりしたでしょうなー、迷惑だったんと違いますか」と思わず申しますと、巴と山吹は仲がよろしかったようですよ、とはご住職の弁でありました。 |
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巴塚 |
山吹塚 |
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三浦義一翁歌碑(かくのごとき…) |
三浦義一翁歌碑(としつきは…) |
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芭蕉の墓 |
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翁堂 |
御朱印 |
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芭蕉句碑(行く春を…) |
芭蕉句碑(度に病んで…) |
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芭蕉句碑(古池や…) |
又玄句碑(木曽殿と…) |
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羽州句碑(身のほどを…) |
魯人句碑(月の海…) |
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木曽八幡社と |
曲翠墓、保田與重郎墓 |
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シテ「今はこれまでなりと 地「立ち |
『源平盛衰記』によれば、巴は義仲から「我去年の春信濃国を出し時、妻子を捨置き、又再び見ずして永き別の道に入らん事こそ悲しけれ。去れば無からん跡までも、此事を知らせて、後の世を弔はゞやと思へば、最後の伴よりも然るべしと存ずる也。疾う疾う忍び落ちて信濃へ下り、この有樣を人々に語れ、敵も手繁く見ゆ、早々」と、自らの最後の有様を人々に語り伝えることでその後世を弔うよう言われ、戦場を去っていきます。落ち延びた後に頼朝から鎌倉へ召され、和田義盛の妻となって生んだ男子が朝比奈三郎義秀といわれています。和田義盛亡き後は出家して主・親・子の後世を弔う日々を送り、91歳で生涯を終えたということです。 |
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(平成26年 6月20日・探訪) (平成26年 9月 8日・記述) |