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逢坂山・蝉丸三社 〈蝉丸〉


 これやこの行くも帰るも別れては
  知るも知らぬも逢坂の関


 百人一首にある蝉丸の歌です。
 この度は、大津から逢坂山を越えて京都の山科方面に抜け、その間にある『蝉丸』の謡蹟を訊ねようと試みました。
 一口で『蝉丸』の謡蹟と言いましたが、ここ逢坂山には「蝉丸神社」が3ヶ所存在します。大津市内から順に、「関蝉丸神社・下社」「関蝉丸神社・上社」「蝉丸神社」の3社がそれです。「関蝉丸神社」は上下社で1社となり、最後の「蝉丸神社」は「関蝉丸神社」の分社であるようです。
 実際に参拝してみて、いずれの社も無人で、あまり手入れもなされず放置されている様子でした。恐らく、数少ない氏子の方々の手に依って、辛うじて神社としての体を保っているのではないでしょうか。若干わびしい謡蹟訪問ではありました。

 なお、この稿をまとめるにあたって、小松和彦「能のなかの異界・逢坂山─『蝉丸』」(『観世』平成17年4月号)を参考にさせていただいております。

 それでは、まず謡曲『蝉丸』の概要について。

   謡曲「蝉丸」梗概
 古くは〈逆髪〉〈逆髪の能〉ともいった。作者は未詳であるが世阿弥ともいわれている。『申楽談義』に、「逆髪の能に、宮の物に狂はんこと、姿大事なりしほどに、水衣をだみて(金銀などで彩色して)着し時、世に褒美せしなり」とあり、世阿弥が演じたことは確かである。

 延喜の帝の第四皇子、盲目の蝉丸は、勅命によって逢坂山に捨てられる。廷臣淸貫(きよつら)が蝉丸を剃髪し、簑・笠・杖を与えて去った後、博雅(はくが)の三位が現れ、雨露を凌ぐ藁屋を設え、蝉丸を住まわせる。
 延喜帝の第三皇女の逆髪が登場、髪が生え上がって撫でても下らない、という異様な姿を笑われた逆髪は、わが髪は逆さまであるが、皇女を庶民の身分で笑うのも逆さまであり、順逆は見方によると言い返す。狂乱の逆髪が都から逢坂山に赴くと、藁屋の中に琵琶の音がする。対面した姉弟は互いに縁の深さを思い、それぞれの境遇を嘆くが、やがて別離の時がきて、逆髪は涙ながらに別れを告げ、蝉丸は声を頼りに姉宮を見送る。

 本曲は救いのない陰惨な主題であるが「気高く、華やかに囃すべし」ともいわれ、また舞台に甘美な情緒が漂うのは全編華麗な詞章にもよるが、都から逢坂山へとたどるシテの道行きの華やかさもその一助となろう。この道行き以外はいたって動きの少ない能であるので、近世初期には『砧』『大原御幸』とともに、素謡専用曲(いわゆる「座敷謡三番」)として扱われていた。
 なお本曲は、第二次世界大戦中皇室の不幸を取り扱うことは不敬であるとして、上演中止とされていた。


 ところで、蝉丸とはいかなる人物であったのか。子どもの頃遊んだ「坊主めくり」では、蝉丸は坊主か、一般の男性かで、よく揉めたことを思い出します。帽子を被っているけれども彼は坊さんだと言われ、訳の分からぬまま納得したものです。百人一首の人物画で、帽子を被っているのは蝉丸だけではないでしょうか。
 この百人一首の歌は、天暦5年(951)に撰された『後撰和歌集』から採られたものであり、また他にも3首の歌が知られているので、蝉丸という名の歌人は10世紀の半ばまでには実在した人物といえましょう。けれども、その実像は明らかではなく、蝉丸の名は伝説の中で語り伝えられ、その伝説を媒介にして関明神社に結びつけられ、神として合祀されるに至ったと考えられます。
 それではまず『今昔物語』巻第二十四「源博雅朝臣行会坂盲許語第二十三」から眺めてみましょう。以下、日本古典文学全集『今昔物語』(小学館、2001)によります。


今昔いまはむかし源博雅みなもとのひろまさト云人有ケリ。(中略)
其時ニ、会坂あふさかノ関ニ一人ノめしひ庵ヲ造テ住ケリ。名ヲバ蝉丸せみまろトゾ云ケル。此レハ敦実あつみト申ケル式部卿しきぶきやうノ宮ノ雑色ざふしきニテナム有ケル。其ノ宮ハ宇多法皇ノ御子みこニテ、管弦ノ道ニ極リケル人也。年来としごろ琵琶ヲ弾給ひきたまひケルヲ常ニ聞テ、蝉丸琵琶ヲナム微妙みめうニ弾ク。

(博雅は琵琶の道にとても執心しており、会坂の関の盲人が琵琶の名手であると聞き、琵琶の秘曲である「流泉」「啄木」を聞きたいと関に行くが、蝉丸はその曲を弾かない。その後三年の間、夜毎に出かけて行ったが聞くことができなかった。三年目の八月十五日の夜、二人は互いに語り合い、蝉丸は博雅に「流泉」「啄木」の曲を伝えたのである。)


 上記のように『今昔物語』では、蝉丸は宇多天皇の御子・式部卿敦実(あつざね)親王の雑色であり、隠遁して逢坂の関のほとりに庵を結んで住んだとされています。
 ところが『平家物語』巻十、「海道下りの事」では、以下のように記されています。


四宮河原しのみやがはらになりぬれば、こゝは、昔延喜第四の皇子蝉丸せみまるの、関の嵐に心を澄まし、琵琶びはをひき給ひしに、博雅はくがの三位といつし人、風の吹く日も吹かぬ日も、雨の降る夜も降らぬ夜も、三年みとせが間歩みを運び、立ち聞きて、かの三曲を伝へけん、藁屋わらやとこの古へも、思ひやられてあはれなり。(以下略)


 ここでは「延喜第四の皇子」とされており、これは謡曲と同様です。方や宇多天皇の御子・式部卿敦実親王の雑色、一方では延喜天皇の第四の皇子と、天と地ほどの違いがあります。
 尾崎雅嘉の『百人一首一夕話』(古川久校訂・岩波文庫、1972)に「蝉丸の姓氏詳らかならず。古説に仁明天皇の時の道人なり。常に髪を剃らず世の人翁と号し、或は仙人といひ、また延喜帝の第四の皇子などといへるは、いづれも拠り所なき説共にて時代も違へり。また蝉丸の像を盲人の様に描く事、笑ふに堪へたり。」と述べており、これは『今昔物語』に基づいているようですが、どうもこの説の方が信憑性があるように思われます。
 蝉丸─延喜帝第四皇子説に関して、小松和彦『能のなかの異界・逢坂山』において、以下のように述べています。すなわち、

 琵琶法師たちが職業集団としてまとまっていく過程で、始祖と仰いだのは蝉丸ではなく、仁明天皇の第四皇子である“人康(さねやす)親王”であった。親王は28歳の時に病を得て盲目となり、山科に隠遁し、盲人たちを集めて音曲を楽しみとした。親王亡きあと、その霊を祀り天夜尊としう神号を贈り、その社を四宮と呼んだ。『平家物語』の海道下りの段で、語り手は山科の四宮河原において、この盲人琵琶の始祖である仁明帝第四の皇子人康親王の伝承を想起すべきところを、延喜帝第四の皇子である蝉丸の伝説を想起したのではなかろうか。換言すれば、蝉丸の延喜第四皇子説の生成には、人康親王・仁明帝第四皇子説の影響があったとみるべきであろう。謡曲『蝉丸』は、こうした蝉丸伝承のうちの延喜第四皇子説に着目して作られたものである。

というものです。また同書では、山科の四宮にある十禅寺には蝉丸塔があると記されていましたので、十禅寺を訪ねてみました。
 十禅寺は京阪電車四宮駅のすぐ西方にあります。ところが寺の方は不在で、残念ながらお話を伺うことがぎきませんでしたが、門前に建てられた京都市に依る説明書きによれば、境内にあるのは蝉丸塔ではなく、開祖の人康親王の廟のようでした。またこの地を“四宮”と呼ぶのは、人康親王が仁明天皇の第四の皇子であることによるとのことでした。


 前置きが長くなってしまいましたが、それでは蝉丸三社へ参拝に出立いたします。謡曲『蝉丸』では、当然のことながら、下記の謡曲の詞章にあるように、都を出発し粟田口から山科を経て逢坂山へやって参りますので、私は謡曲の道行きとは逆のルートをたどったことになります。私は逢坂山を越えて山科へ入りましたが、四宮のあたりまで三条通が続いていたのには、いささか驚かされました。以下は謡曲の「道行」の場面です。


上歌 地「花の都を立ち出でて。花の都を立ち出でて。に鳴くか賀茂川や。末白河をうち渡り。粟田口あはたぐちにも着きしかば今はたれをか松坂や。關の此方こなたと思ひしに。後になるや音羽山の名殘惜しの都や。松虫鈴虫蟋蟀きりぎりすの。鳴くや夕陰の山科やましなの里人もとがむなよ。狂女なれど心は清瀧川きよたきがはと知るべし
シテ逢坂あふさかの。關の清水に影見えて  地「今や引くらん望月もちづきの。駒の歩みも近づくか。水も走井はしりゐの影見れば。我ながら淺ましや。髪は荊棘おどろを戴きまゆずみも乱れ黒みて。げに逆髪さかがみの影映る。水を鏡と夕波のうつつなの我が姿や



逢 坂 山 周 辺 地 図


 長安寺に『関寺小町』の謡蹟を訊ねた後、逢坂山に向って国道161号線を進みます。朝のうちは少し晴間もありましたが、逢坂山を目指す頃にはどんよりと曇り、雨が落ちてきそうな気配です。峠越えだけに少々心配な空模様ではあります。
 JRが逢坂山のトンネルに入る直前の跨線橋を越えると、右手に「音曲藝道祖神」「關蟬丸神社」の石柱が見えてきました。関蝉丸神社下社です。鳥居の前の参道は京阪電車の軌道が横切っているという、ちょっと風変わりな風景でした。


「関蝉丸神社」の石柱

参道を京阪電車の軌道がよぎる


《関蝉丸神社下社》  大津市逢坂一丁目15-6

 関蝉丸神社下社は旧称“関清水大明神蝉丸宮”。当社の由緒について、滋賀県神社庁のサイトでは以下のように述べられています。

祭神は、上社・猿田彦命、下社・豊玉姫命。上下社ともに蝉丸霊を合祀し、当社は上下社をもって一社とする。
社記によると創祀は嵯峨天皇の弘仁13年(822)と伝える。しかし逢坂山は京都と近江の国堺であり、琵琶湖と王城および畿内を結ぶ交通の要所でもあったので、古くより国堺神・坂神・手向の神(道祖神)あるいは逢坂越の関の守護神としても崇敬され、さらに王城の疫神として疫神祭(道饗祭)が斎行されたこともあり、これ等の御神徳が集って関明神上下社が創祀されたものと考えられる。貞観17年(875)に坂神に従五位下の神位が贈られている。
時代が降ると関明神として崇敬されてきたが、この関明神は後撰集の歌人で琵琶の名手である蝉丸だとする信仰がひろまり、歌管弦の名手鴨長明もその一人で無名抄にそのことを書いている。蝉丸が当社に合祀されたのは天慶9年(946)とも平安時代末ともいわれ詳らかでない。けれども蝉丸伝承は時代と共にたかまり、次第に歌舞音曲その他諸芸にかかわる人々の信仰があつくなって、江戸時代には諸国の説教者(雑芸人)を統轄し、免許をうける人々が全国的規模で増加した。

 この由緒書きによれば、当社は「古くより坂神としても崇敬された」とあります。謡曲『蝉丸』のシテは、延喜帝の第三の皇子で、蝉丸の姉宮である“逆髪”なのです。ということは、ここ関蝉丸神社は蝉丸だけではなく、逆髪をも祀っているといえるのかも知れません。いやむしろ逆に考えて、謡曲作者(世阿弥か)は“坂神”にヒントを得て“逆髪”なる人物を創造したのではないでしょうか。

 京阪電車の軌道を渡って境内に入ります。正面には神楽殿が風に吹かれて寒そうにたたずんでおり、その手前に関の清水と紀貫之の歌碑があり、また鳥居をくぐったすぐ右側に蝉丸の歌碑がありました。


関の清水

 「関の清水」は逢坂の関の付近にあった清水で、歌枕としても名高く、古来歌に多く詠まれています。以下は『古今和歌集』巻11、恋1(537)の読人不知の歌です。

  あふさかのせきにながるゝいはし水 いはで心におもひこそすれ


紀貫之歌碑

蝉丸歌碑


 歌碑に刻まれているのは、貫之と蝉丸の著名なものです。

  逢坂の関のしみづに影見へて いまやひくらし望月の駒  貫之
  これやこのゆくもかへるも別れつゝ しるもしらぬも逢坂の関  蝉丸


神楽殿

貴船神社


 社殿の前には神楽殿があり、その右手には貴船神社が祀られています。「貴船神社」と刻まれた社号標の側面には、大きく「關清水蟬丸神社」と刻まれています。


本殿


 社殿の前に謡曲史跡保存会の駒札が立てられていました。“謡曲「蝉丸」と関蝉丸神社”として、以下のように述べられています。

 幼少から盲目の、延喜帝第四皇子蝉丸の宮を帝は侍臣に頼み、僧形にして逢坂山にお捨てになった。此の世で前世の罪業の償いをすることが未来への扶けになるとあきらめた宮も、孤独の身の上を琵琶で慰めていた。
 一方、延喜帝第三の皇女逆髪の宮も、前世の業因強く、遠くの果てまで歩き回る狂人となって逢坂山まで来てしまった。美しい琵琶の音に引かれて、偶然にも弟の宮蝉丸と再会し、二人は互いの定めなき運命を宿縁の因果と嘆き合い、姉宮は心を残しながら別れて行く。という今昔物語を出典とした名曲が「蝉丸」である。
 蝉丸宮を関明神祠と合祀のことは定かでないが、冷泉天皇の頃、日本国中の音曲諸芸道の神と勅し、当神社の免許を受けることとされていたと伝えられる。


回廊の奉納額(その1)

回廊の奉納額(その2)


 社殿の中は回廊になっており、本殿を囲んで回廊が廻らされています。回廊には奉納謡会の番組が掲げられていました。番組では必ず『蝉丸』が謡われているのは、当然のことでありましょう。


時雨燈籠

星野椿句碑


 社殿の左手には、重要文化財に指定されている「時雨燈籠」があります。以下は大津市教育委員会による説明です。

 「時雨燈籠」の名称でしられる六角形の石燈籠です。六角形の基礎には単弁(たんべん)の蓮華座(れんげざ)を彫り、その上にたつ竿の中ほどに蓮華と珠紋(しゅもん)帶をつくり、六角形の中台には花入単弁の蓮華が彫られています。六角形の火袋は簡単なもので、火口を一ヶ所と小さな丸窓を設け、壁面も上部にだけ連子(れんじ)を彫っています。六角形の笠もうすく、蕨手(わらびで)はよく古式をとどめています。最上部の宝珠と請花は後補。
 いずれにしても作成年代を示す銘文はないが、様式上、鎌倉時代の特色を持ったよい石燈籠で、貴重なものとして昭和37年6月に国の重要文化財に指定されました。

 燈籠の右手には、星野椿の句碑があります。椿は高浜虚子の次女星野立子の長女で、雑誌「玉藻」を主宰しています。

  逢坂の流れは淸し初桜  椿


句碑(作者不明)

正岡子規句碑


 社殿の右手から裏山に廻ると、さらに句碑が立てられています。最初は社殿の右手奥にある句碑ですが、作者は分かっておりません。

  蝉丸の学びの宮ぞ春の風

 裏山の登り口には正岡子規の句碑があります。

  木の間もる月あをし杉十五丈  子規


淳句碑

小町塚


 裏山を少し登ったところにあった句碑です。作者は“淳”となっているのですが、詳しいことは分かっていませんが、高柳淳なのでしょうか。

  近松も小町もめでし山桜  淳

 さらに登ると小町塚ががありました。横書きで「小町塚」と刻まれています。その下には、

  花濃以呂は宇つりにけりないたづらに わず身世にふるながめせしまに

と、彫られているとのことなのですが、よく判読できませんでした。




 関蝉丸神社に別れ、国道161号線を進みます。国道1号線と交わる少し手前に安養寺がありました。門前にある碑には「三井寺南別所」とあり、元来は天台寺門派の寺でしたが、現在は西本願寺派に属しているようです。その門前に建つ「逢坂」の碑によれば、

 「日本書紀」によれば、神功皇后の将軍・武内宿禰がこの地で忍熊王(おしくまおう)とばったりと出会ったことに由来すると伝えられています。この地は、京都と近江を結ぶ交通の要衝で、平安時代には逢坂関が設けられ、関を守る関蝉丸神社や関寺も建立され、和歌などに詠まれる名所として知られました。

 門前に立てられている、大津市観光振興課の説明によれば、当寺を関寺の旧跡としています。また観音堂の「立聞観音」について、東海道名所図会には「昔蝉丸逢坂の庵に絃曲楽給ふを立聞し給ふゆゑに此名あり」と記載されています。さらに京都新聞の「ふるさと昔語り」には、以下の故事が掲載されていました。

 安養寺の近くの庵には「琵琶法師」と呼ばれた盲目の歌人蝉丸が暮らしていた。夜ごとに美しい琵琶の音色を奏でる蝉丸。その後ろに、いつしか墨染めの法衣を着た一人の僧侶が立つようになった。
 蝉丸の庵には、歌人の源博雅が修行に通っていた。名前も名乗らず、毎晩、曲を聞き終わったら立ち去る僧侶のことを不思議に思った源はある日後ろをつけてみた。すると、僧侶は安養寺の観音堂の中に姿を消したという。
 観音像の脇には、「立聞安養寺」と白い文字で書いた額が置かれている。「独眼竜」と称される戦国武将伊達政宗の直筆だ。1571年(元亀2)。織田信長の比叡山焼き打ちで、安養寺の本堂と観音堂は焼失した。観音像は持ち出されて無事だったが、廃材で造られた仮堂にまつられることになった。その後、偶然安養寺で馬を休めた伊達政宗が「有名な立聞観音が、みすぼらしい仮堂に安置されているなんて」と嘆き、家来に命じて新たな観音堂を建てたという。

 かつては多くの参拝客で賑わったであろうと想像されますが、現在ではひっきりなしに車が行き交う国道の傍らに、ひっそりとたたずんでいました。それは蝉丸神社も同じことでありましょう。


安養寺門前

安養寺観音堂


 安養寺をすぎると国道161号線は国道1号線と合流し、右側の歩道がなくなり道路の左側へと移ります。しばらく京阪電車と並行して進み、高速道路をくぐると右手の山肌にに関蝉丸神社上社が見えてきました。手押し式の信号で対面に渡りますが、盛大に流れる車の動きを止めるのは、少々気がひけた次第です。



《関蝉丸神社上社》  大津市逢坂一丁目20

 関蝉丸神社上社は旧称“関大明神蝉丸宮”。当上社と下社を合せて一社となす、とされています。


国道を隔てて見上げる関蝉丸神社上社


 下社に比べると上社はさほど見るべきものもないようです。20数段の階段を登ると踊り場のようなところがあり、さらに階段を上ると狭いながらも神楽殿があります。ここからさらに階段を上り本殿へ導かれます。


朱の鳥居に「蝉丸」の扁額、正面は神楽殿

神楽殿の傍らから本殿を望む


 朱の鳥居には“蝉丸”の扁額が掲げられておりました。上社・下社で一社とされていますが、見たところ下社が主となっているようで、上社は全体に寂れた感が否めませんでした。


本殿

本殿より見降ろした境内


 再び車を止めて歩道に渡ります。しばらく進むと対面に逢坂山弘法大師堂が見えてきました。弘法大師と聞けばお参りをしなくてはと思うものの、頻繁に車が往来する国道に隔てられています。横断歩道もなく残念ながら参拝を諦めて進み、逢坂の関跡に着いたのですが、よく見ると弘法大師堂からは国道の右手にも歩道が出現しています。ということは、蝉丸上社から歩道はないのですが、国道の右側を進むと大師堂に到着し、そのまま歩道を進めむことが出来たようです。
 なだらかな坂道を登りきった、国道と旧東海道の分岐点に横断歩道があり、これを渡ると逢坂関跡の碑や休憩所があり、少し狭いながらも小公園のようになっておりました。


逢坂山弘法大師堂


逢坂関跡の碑と常夜燈


 休憩所には逢坂の関にまつわる説明が掲げられています。

 逢坂の関の初出は、平安京建都の翌年延暦14年(795)に逢坂の関の前身が廃止されたという『日本紀略』の記述です。
 その後、逢坂の関は京の都を守る重要な関所である三関(鈴鹿関・不破関・逢坂関)のひとつとして、弘仁元年(810)以降、重要な役割を果たしていましたが、平安後期からは徐々に形骸化されその形を失ってきました。
 逢坂の関の位置については現在の蝉丸神社(上社)から関寺(現在の長安寺のあるあたり)の周辺にあったともいわれていますが、いまだにその位置は明らかになっていません。


逢坂関跡の休憩所

車石


 休憩所の入り口は関所を思わせる造りになっています。門を入るとすぐ左手に“車石”の見本が展示されており、その先にはトイレと休憩用のベンチがあります。以下は啓示された車石の解説です。

 大津は、奈良時代の昔から、物資の集散する京の玄関口として大いに栄えましたが、この繁栄を支えてきたのはまぎれもない東海道でした。特に、逢坂峠は東海道の中でも要衝の地として重視されており、逢坂峠から瀬田を含む大津宿周辺は、街道一の繁栄を極めました。街道沿いには、大津絵や針、大津算盤などを売る多くの店が軒を連ねるようになります。また車石と呼ばれる石を敷き詰める街道の整備も行われました。
 江戸時代に逢坂越えは、大津港で陸揚げされ京都へ運ばれた米俵などの輸送にも重要な役割を果たしました。これら物資を運ぶ牛車が泥道で立ち往生しないように、車石と呼ばれる石が敷設されました。その工事は文化元年(1804)から翌2年にかけて行われました。車石は、今も京都・大津間の旧東海道沿いに残されており、当時としては画期的な街道整備を知る貴重な文化財となっています。


 
大津絵・鬼の寒念仏

大津絵・牛車

大津絵・長安寺牛塔
 


 休憩所の地面にはタイルが貼られているのですが、その中に上の写真のような、大津絵をあしらったものが混ざっていました。以下は同所に掲示された大津絵の解説です。

 大津絵がいつごろから始まったものか、はっきり年代を示す資料はありません。しかし、17世紀前期には、東海道を往来する旅行者用の土産物として絵が売られるようになったと考えられています。その後、大津絵は近松門左衛門の『傾城反魂香』(宝永5年(1708)初演)によって全国にその名前が知れわたることになりました。
 大津絵は庶民向けの絵であることから、勢さんコストを抑えるために描写も簡略化し、細かい描写は小型の版木を押して、すばやく描けるように工夫してあります。
 そして、その素朴な画風は様々な画家に愛され、円山応挙や富岡鉄斎、浅井忠なども大津絵をモチーフにした絵画を描いています。また、大津絵の魅力に魅せられた愛好家は全国各地に沢山おられ、その伝統は今でも受け継がれています。



逢坂山の歌碑

東海道五十三次・大津宿の図


 休憩所のはずれに、逢坂山を詠んだ歌碑があります。いづれも百人一首に採られた歌です。

  夜をこめて鳥のそらねははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ  清少納言
  名にしおはば逢坂山のさねかづら 人にしられてくるよしもかな  三条右大臣
  これやこの行くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関ゆるさじ  蝉丸

 休憩所を過ぎ旧東海道に入ると、右手に蝉丸神社が鎮座しており、また道の左右には「かねよ」という料理屋があります。うなぎ料理で有名とのことですが、高そうなのと昼食にはまだ早いのでパス。ただ庭先にあった「東海道五十三次」の大津宿を描いた絵だけカメラに収めました。絵に曰く「大津 名物“走井餅”、茶店 店の前に“走り井”がコンコンと湧き出ている。牛車は、のんびり京都へ向う」



《蝉丸神社(分社)》  大津市大谷町21-1


 この蝉丸神社は、御輿が逢坂の峠を越えて渡らないということで、近世に入ってから大谷に新たに建立されたもので、元来は上社、下社の関明神社であったとのことです。


蝉丸神社(分社)


 以下は社号標の碑の横にある当社の由緒書きです。

 当社は天慶9年(946)蝉丸を主神として祀られております。蝉丸は盲目の琵琶法師とよばれ、音曲芸道の祖神として平安末期の芸能に携わる人々に崇敬され、当宮の免許により興行したものです。その後、万治3年(1660)現在の社が建立され、街道の守護神猿田彦命と豐玉姫命を合祀してお祀りしております。


社殿への階段

車石


 本殿へと続く階段の右手に「車石」が展示され、大津市藤尾学区連合会による説明書きがありました。先ほどの休憩所の説明と若干重複しますが、異なる観点からの記述もありますので、以下に転載します。

 大津と京都を結ぶ東海道は、米をはじめ多くの物資を運ぶ道として利用されてきました。
 江戸時代中期の安永8年(1778)には、牛車だけでも年間15894輌の通行がありました。この区間は、大津側に逢坂峠、京都側に日ノ岡峠があり、通行の難所でした。
 京都の心学者脇坂義堂(わきさかぎどう)は、文化2年(1805)に1万両の工費で、大津八丁筋から京都三条大橋にかけての約12kmの間に、牛車専用通路として、車の轍(わだち)を刻んだ花崗岩の切り石を敷き並べ、牛車の通行に役立てました。これを「車石」と呼んでいます。


神楽殿

本殿


 階段を上ると、右90度の方角に神楽殿があり、その奥に本殿があります。下社・上社と同様にあまり手入れがなされていない様子で、いかにも侘びしげなたたずまいでありました。



 これで蝉丸三社への参拝は終り、あとは走井と小町の百歳堂のある月心寺に向います。月心寺は国道1号線の左手にありますので、京阪大谷駅の先にある陸橋を渡ります。


陸橋より国道1号線を望む

大津算盤発祥の地

 陸橋から盛大に国道を走行する写真を撮ろうとカメラを構えたところ、そんな時に限って車があまり走っておらず、意に反した構図になってしまいました。橋を渡って再び国道1号線に合流します。車輪がある古民家の前に「大津算盤の始祖・片岡庄兵衛」とした碑が建てられていました。以下は先ほどの休憩所にあった“大津算盤”の説明です。

 大津は日本国内での算盤発祥の地と伝えられています。大津算盤は、慶長17年(1612)、大津一里塚町(現大谷町の西側)の片岡庄兵衛が、長崎で明(中国)から算盤を手に入れ、改良を加えたことに始まります。材質は、珠がツゲ、ヒイラギ、ウメ、枠がカシ、カキ、黒たん、紫たんなどで、桁の軸には丈夫な細竹が使用されていました。また枠や梁の裏側(底部)には、作者の居住地と名前が木版印刷された和紙が貼られているものが多くあります。算盤製造は明治に入ってすたれていきましたが、算盤師の看板や制作道具、宝永2年(1705)銘の算盤などが現存しています。なお制作道具と宝永銘の算盤は市指定文化財です。


月心寺

走井の水(下間圭祐氏提供)


 さらに道を下って行くと、京都府との境界線のあたりに「月心寺」があります。ここには謡曲にも謡われた“走井の水”や“小野小町の百歳堂”があると聞いていましたので、ぜひ拝見しようと立ち寄ったのですが、門扉は堅く閉ざされており、内部には人の気配が感じられません。残念ながら拝観は不可能と諦めました。友人の下間圭祐氏が、以前中山道を踏破された際に撮影された“走井”の写真を拝借して掲載いたします。
 「走井」については、古くは『枕草子』にも「井は 堀兼の井。走井は逢阪なるがをかしき。山の井、さしもあさきためしになりはじめけん」と記されています。
 また『近江名所図会』には、

 大谷町茶店の庭中にあり、涌勢走るか如きを以て此名あり。古来関の清水と並称して甚だ有名也。
  逢坂の関とは聞けど走井の 水をばこそ止めざりけり  兼道
  走井の筧のきりはたなびけど 長閑に見ゆる望月の駒  読人不知
  悠々涌水鐘秀精 走流勢活有余情 尋常難比貧泉水 一瀬自知爽客情  熊谷立閑

と紹介されています。以下は同所に立てられている大津市観光課による“走井”の説明です。

 この名水は第13代成務天皇のご誕生の時産湯に用いられたと伝えられている。
 安永年間(1772~81)スウェーデン人ツェンベルグが江戸に赴いた紀行に「どんな小さい茶屋にも米で作った白か綠の小さな菓子がある。旅人や輿夫はこれを買って茶とともに食べる。茶はいつも飲めるように用意されている」と記されている。
 関の清水走井などの清冽な水で点てられた茶とともにとったのが、その菓子の名のおこりである。
  走井のかけひの水のすえゞしさに 越えもやられず逢坂の関  淸輔


 月心寺に参拝出来なかったのは何とも残念至極ではありますが、これにて『蝉丸』の謡蹟探訪を終え、大津市に別れを告げて山科を目指しました。朝方からどんよりとした空模様でしたが、峠越えは雨に逢うこともなく、やれやれといったところです。山科で郵便局を廻り帰阪の途に着きました。



 曲目の梗概で簡単に触れましたが、『蝉丸』が戦時中上演禁止になったことに関して、大角征矢氏の『能謡ひとくちメモ』に詳述されていますので、これを参考にして若干補足いたします。
 戦時中、軍部は謡曲の詞章にまで横槍を入れ、『小督』『花筐』など皇室に係わる不適切な部分の文句の変更を強要しました。ちょうど二十四世観世左近が手掛けた大成版五番綴りの初版本第一冊が、檜書店から発行されたのは翌昭和15年4月15日でしたが(二十四世左近は前年の昭和14年3月21日に亡くなっています)、『蝉丸』に関しては、かくのごとき曲は不敬極まりなしということで、この大成版からは除外されていたのです。


大成版五番綴本

大成版一番本


 その証拠にいま、我々が使っている一番本の表紙曲名の下にある番号をご覧ください。左上の写真は五番綴本の1冊目と39冊目です。右は1冊目1曲目の『高砂』、39冊目5曲目の『鍾馗』、最後の41冊目5曲目の『猩々』、および番号のない『蝉丸』『求塚』『松浦佐用姫』です。
 『高砂』には表紙曲名の真下に「一ノ一」つまり五番綴りの第1冊目の第1曲目との表示ですが(『鍾馗』の「丗九ノ五」、『猩々』の「四十一ノ五」も同様)、『蝉丸』のそれには冊数・曲番を示す番号がありません。それは『蝉丸』が大成版五番綴りに含まれず、戦後番号なしで復活したからなのです。ついでながら『求塚』も番号がないのは、戦後、観世華雪が〈復曲〉したものだからです。最近の『三山』『松浦佐用姫』も同様です。
 私たちの世代は、このような改竄について直接知ることはありませんでしたが、少し上の世代の謡曲愛好家にとっては、実に不愉快な出来事であったに違いないでしょう。



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  (平成26年12月25日・探訪)
(平成27年 1月20日・記述)


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