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東近江・鏡の宿 〈烏帽子折〉


 このところ近江の謡蹟探訪に凝っている感がありますが、2015年1月13日、湖東の鏡の宿(かがみのしゅく)に『烏帽子折』の謡蹟を訪ねました。
 ここは『烏帽子折』の前場の舞台で、牛若丸時代の源義経が、金売り吉次に伴われて奥州の藤原秀衡を頼って東に下る途次に立ち寄り、元服をした地といわれています。
 この日は、JR野洲駅でレンタサイクルを手当てし、郵便局を廻りながら、県道2号線を経て近江八幡市に入り、長駈竜王郵便局(当局の風景印に義経元服の池が描かれている)へ、そしてお目当ての、中山道の国道8号線に面した鏡の宿へと還ってきました。竜王郵便局に立ち寄ったため、町並の北側(近江八幡側)から鏡の宿に入ることとなり、牛若丸の旅とは逆流する結果となりました。
 ところがこの8号線、国道とは名ばかりで、道幅は狭く歩道は路肩に毛の生えた程度のもので、幅は狭くおまけにでこぼこ道。その上、車は国道の名に違わずひっきりなしにガンガンすっ飛ばして走っております。まさに恐怖の8号線でありました。
 仕方なく、自転車を押しながら国道の沿線に点在する謡蹟を訪問した次第です。

鏡の宿近郊地図



 それでは鏡の宿探訪に先立って、謡曲『烏帽子折』について考察いたしましょう。


   謡曲「烏帽子折」梗概
 宮増の作と伝えられている。宮増は室町中期ごろの能作者・能役者であるが詳細は不詳。曽我伝説や義経伝説に取材した作品が多く、観世信光や観世長俊の作能と共通する、大衆劇としての興趣を備えた能作者であったといえよう。
 『平治物語』や『義経記』に取材したもので、牛若丸の元服と三条吉次を襲う盗賊退治が主題であるが、前述の両書とは内容を異にする。
 財物を携えて東国へ下る三条吉次、吉六兄弟を牛若丸が呼び止めて同行を求め、近江の鏡の宿まできたところ、六波羅からの追手がかかる。これを知った牛若は、元服して身なりを還るために烏帽子屋を訪れ源氏の左折れの烏帽子を誂え、その対価として小刀を与える。烏帽子屋の妻はこの刀を見て、少年が牛若であることを見抜き、自らは義朝の家来鎌田正清の妹であることを明かし、夫妻は小刀を牛若に返上し別れを惜しむ。(前場終了)
 後場では、美濃赤坂の宿に着いた一行を、熊坂長範の一党が襲撃するが、牛若の活躍により撃退され、熊坂も牛若に打ち取られる。
 本曲では前場・後場を通して舞台にいるのは子方(牛若)のみであり、筋書きの上でも演技の上でも、子方が主役的存在となる。『鞍馬天狗』の子方〈花見稚児〉で初舞台を踏み、本曲を子方修行の到達点とすることの多いのも、それ故である。


 本曲では、牛若は近江の鏡の宿で元服し、美濃の赤坂宿で“熊坂長範”に襲われます。兄弟曲ともいうべき『熊坂』でも、熊坂長範の襲撃は赤坂となっています。
 ところが、このあたりの関係が、文献によってはかなり異なっています。前述の『平治物語』『義経記』、それに小説の吉川英治『新平家物語』、司馬遼太郎『義経』のそれぞれが、元服と盗賊の襲撃をどのように描いているか、一覧表にしてみました。

文 献
元服の地
盗賊襲撃の地
盗賊の首魁
謡曲・烏帽子折
近江国鏡の宿
美濃国赤坂宿
熊坂長範
平治物語
近江国鏡の宿
下総国深栖?
不明
義経記
尾張国熱田宮
近江国鏡の宿
由利太郎、藤沢入道
吉川英治・新平家物語
尾張国熱田宮
美濃路
熊坂長範
司馬遼太郎・義経
近江国鏡の宿
近江国鏡の宿
藤沢入道

 『平治物語』では元服は鏡の宿、盗賊退治は関東に下ってからとなっています。これは『義経記』などで語られる義経伝説における盗賊退治の骨子であり、その初期段階の姿であったものでしょう。ただ元服の地や盗賊退治の地、さの前後関係が、諸本によりかなり異なっているのは、如何なる理由によるものでしょうか。また現代の小説もいろいろな要素が入り混じっている感があります。鞍馬山で天狗に学んだ牛若丸だけあって、凡人には計り知れないものがあったのかも知れませんね。


 恐怖の国道8号線をたどりながら『烏帽子折』前場の謡蹟を訪ねます。この付近ではかつて旧中山道の宿場街であったのですが、当時の建物などの史蹟はあまり残されていない模様で、史蹟跡に「鏡の里保存会」による駒札が立てられていました。


恐怖の国道8号線

本陣跡の駒札


 町並のちょうど中央あたり、民家に挟まれた空き地がありました。ここがかつての宿屋白木屋の跡地のようで、「源義経宿泊の館跡」の碑があります。この碑は「鏡景勝会」によって建てられたものです。以下は碑の台座に刻まれた碑文です。

 沢弥伝と称し旧駅長で屋号を白木屋と呼んでいた。
 牛若丸はこの白木屋に投宿した。義経元服の際使用した盥は代々秘蔵して居たが現在では鏡神社宮司林氏が保管してゐる。
 西隣は所謂本陣で元祖を林惣右衛門則之と称し、新羅三郎義光の後裔である。その前方国道を隔てて脇本陣白井弥惣兵衛である。
 


源義経宿泊の館跡の碑


 源義経の元服については、ここ竜王町観光協会のサイトに「義経元服ものがたり」として詳しく述べられていますので、以下に抜粋します。

 鏡の宿に入ってまもなく表で早飛脚の声をよくよく聞けば鞍馬よりの追手か平家の侍たちか、稚児姿の牛若を探しているではございませんか。これは我等のことに違いない。このままの姿では取り押さえられてしまいます。急ぎ髪を切り烏帽子を着けて、東男に身をやつさねばと元服することを決心するのでございました。。
 そこで白木屋の近くで烏帽子を折る烏帽子屋五郎大夫に源氏の左折れの烏帽子を注文いたします。左折とは烏帽子の頂を左方に折り返して作ることで、源氏は左折を用い、平家は右折のものを用いておりました。しかし今は平家の全盛期で、源氏の左折の烏帽子は御法度で五郎大夫もためらいますが牛若のたっての願いと、幼い人が用いるものなれば平家よりのお咎めもあるまいと引き受けるのでございます。
 烏帽子の代金に牛若は自分の刀を烏帽子屋に与え白木屋に戻ります。烏帽子屋の妻は刀を見て涙を流すのでございました。その刀は古年刀(こねんとう)で源氏重代の刀剣でございました。実は五郎大夫の妻は、義朝の家臣鎌田兵衛正清の妹(あこやの前)でございました。夫が受け取った刀は、牛若丸の護り刀として義朝が授けたものでございました。それを聞いた烏帽子屋は驚き、刀を牛若に返したのでございました。牛若もなんと不思議な縁かと喜びました。
 その後、牛若は鏡池の石清水を用いて前髪を落とし、名を九郎義経とし、鏡神社へ参拝し源氏の再興と武運長久を祈願したと伝えられております。

 このサイトの物語は『義経記』に基づいたように記されているのですが、内容は謡曲『烏帽子折』の前場のストーリーと同じです。恐らくは謡曲のストーリーを参照したのではないかと想像します。

《鏡神社》  滋賀県蒲生郡竜王町鏡1289

 白木屋跡から100メートルほど野洲方面にもどると、鏡神社が鎮座ましましております。


鏡神社

朱の鳥居


 境内の至るところに「源義経元服の地」の幟がひるがえっています。左手に、上部を切断され根もとだけとなった松の古木があります。これは「烏帽子懸けの松」とのことで、承安4年(1174)3月3日に元服した牛若丸が、この松枝に烏帽子を懸けて鏡神社に参拝し、源義経と名乗りをあげ、源氏再興と武運長久を祈念しました。明治6年(1873)10月3日台風により折損したため、幹の部分を残して保存したものです。


烏帽子懸けの松


 松の傍らに、「謡曲『烏帽子折』と鏡神社」として、謡曲史跡保存会の駒札が建てられています。

 謡曲『烏帽子折』は、鞍馬山を脱出して奥州に向った牛若丸が、その途次での元服の地鏡の宿と、盗賊退治をした赤坂の宿での出来事を一続きにして構成された切能物である。
 この鏡神社は、平家のきびしい追手をのがれるため東男に変装し、俄かに左折の烏帽子を作らせて、自らを源九郎義経と名乗って元服したところと伝えられている。
 即ち、謡曲「烏帽子折」の前半の場面の舞台となった所である。
 此の地を出立の後、赤坂の宿で熊坂長範に襲われるが、これを退治して奥州へ下った勇壮な謡が後半の場面となっている。この二つの全く異なった二つの場面は、牛若丸の守刀「こんねんどう」によってつながりを見せている曲なのである。


 それでは、石段を上り本殿に向います。
 鏡神社の主祭神は天日槍尊(あめのひぼこのみこと)、渡来系の神様のようです。以下は鳥居の傍らに掲げられた当社の由緒書きよりの抜粋です。

 当神社の創始年代は不詳であるが、主祭神天日槍尊は日本書紀による新羅国の王子にして、垂仁天皇3年の御世(BC31)来朝し多くの技術集団(陶物師、医師、薬師、弓削師、鏡作師、鋳物師など)を供に近江の国へ入り集落を成し、吾国を育み文化を広めた祖神を祀る古社である。
 天日槍は、持ち来たる神宝の日鏡をこの地に納めたことから「鏡」の地名が生まれ、書紀にも「近江鏡の谷の陶人は即天日槍の従人なり」と記されている。鏡山の麓は渡来集団に関わる地名も多く、須恵器を焼いた古窯址群も広く現存する。


拝殿

本殿


 本殿は重要文化財に指定されています。以下は本殿前に掲げられた竜王町教育委員会による説明です。前記の当社の由緒書きと若干重複しますが、転載します。

 本殿は、三間社流造杮葺(さんげんしゃながれづくりこけらぶき)で、母屋に前室を設け、さらに向拝をつけた流造本殿の典型的なものです。詳細な建立年代は不明ですが、蟇股(かえるまた)の様式から室町時代中頃のみのと考えられます。
 本殿の祭神は天日槍とされ、飛鳥時代から奈良時代にかけて編纂された『日本書紀』垂仁天皇三年条にある「近江国の鏡村の谷(はざま)の陶人(すえびと)は、天日槍の従人(つかひびと)なり」との天日槍伝抄の記述と、この神社周辺域を含む、竜王町と野洲市の境に位置する鏡山一帯に、古墳時代後期から飛鳥・奈良時代にかけて焼かれた「須恵器(すえき)」という焼物の窯跡が多く存在する事との深い関わりが推測されます。
 天日槍伝承に書かれている「陶」は「須恵」という同じ器の意味を表わしており、鏡山で見つかる窯跡や、近くに「須恵」という地名もあることから、この鏡地域周辺は、古くから渡来人と関わり、いち早くその知識・技術を取り入れた先進地域であったことを示します。

 鳥居をくぐった右手の小高いところ、御幸山の上り口に位置する山裾に八幡神社の小さな祠が祀られています。祭神は誉田別尊(応神天皇)ですが、ここに義経も合祀されています。誉田別尊は兵法にすぐれ国を栄えさせ、学術技芸を栄えさせた長寿の天皇とあります。義経も兵法に優れていたところから、相通じるものがあるとして合祀されたものではないでしょうか。また、ここの宮山を「御幸山」と呼ぶようですが、大正6年11月14日に大正天皇が陸軍の大演習を統監され、当時の県知事池松時和がこのことを記念して命名したとのことです。
 また本殿左手前には祓戸神の碑が建てられています。神道において祓を司どる神で、祓戸(祓所、祓殿)とは祓を行う場所のことで、そこに祀られる神という意味です。


御幸山八幡宮

祓戸神碑


 鏡神社を後にして、8号線を野洲方面に150メートルほど進むと、道の駅“竜王鏡の里”の国道を挟んだ真向かいに「義経元服の池」があります。義経はこの池の水を元服の時に使ったといわれています。この池は浦山の湧き水がしみ出てきているもので水道が整備されるまでは、付近の人家の飲料水として使用されたほど大変澄みきった美しい水で、かつて旅する人々も喉を潤したものといわれているようです。


源義経元服の池


 以下は、「九郎判官源之義経 元服之池」と刻された碑の台座に記された、鏡景勝会による碑文です。

  父は尾張の露と消え 母は平家に捕へられ
  兄は伊豆に流されて おのれ一人は鞍馬山
と歌はれし不遇の児、牛若丸は遮那王と称して鞍馬山に仏堂修行していたが、十一歳の時母の訓戒により、祖先の系図に感じ平家を滅ぼし父の遺志を達せんと、堅い決心を抱いた。
 それより後は、昼は書を読み文を習ひ、夜は僧正谷にて一心に武術に励み、時の来るのを待っていた。京都の天満宮に日参して源氏の再興を祈ったのもこの頃の事であった。
 時に奥州と京都とを往返する金売商人吉次に語ひ、承安四年三月三日の暁、住み慣れた鞍馬山に別れを告げ、機を見て兄頼朝に謁せんと、憂き旅の東下りの途につき、吉次、下総の深栖陵助頼重等と共に、その夜鏡の宿に着き、吉次の常宿白木屋に投宿することになった。
 牛若丸、つらつら考へるに、道中安全を期するには、元服し東男に粧ふに若くはないと、吉次、陵助と語り、元服に際して烏帽子親として五郎太夫三番の左折りにして烏帽子を進めた。其の夜この池の清浄水を汲み取り、前髪を落飾し源九郎義経と名乗った。時に年十六歳。これが元服池の由来である。かくて烏帽子を戴き源氏の武運長久を鏡神社に祈った。当地こそ武人としての義経出生の地である。

 この碑文に「父は尾張の露と消え…」とあるのは「牛若丸の歌」といい、その一番の歌詞です。鞍馬の義経祭では毎年謡われているとのことでした。こんな歌があったとは全く知りませんでした。その二番~四番(鏡の宿が謡われている)を以下に。

 〈二〉敵の平家を滅ぼして   わが家源氏を興さんと
    ひるは学問剣術は    人目をしのぶ夜のわざ
 〈三〉七つの道具をなげだして 弁慶あやまる五条橋
    金売吉次がおともして  落ちゆく先は奥州路
 〈四〉鏡の宿の元服に     その名は義経源九郎
    途中のなんぎ切りぬけて 秀衡やかたに着きにけり

 なお、竜王郵便局の風景印に、県立希望ヶ丘自然公園青年の城と義経元服の池が描かれていました。


竜王郵便局風景印

 ここ鏡の宿で無事に元服を終えた牛若は、宿の亭主夫妻に見送られて出立し、旅を重ねて美濃の国赤坂の宿に到着します。そこで熊坂長範一党の襲撃を受けることになりますが、それは後場の物語です。
 それでは、牛若出発の場面を以下に。

ロンギ「はや東雲しののめも明け行けば。はや東雲も明け行けば。月も名殘の影映る鏡の宿しゆくを立ち出づる  シテ・ツレいたはしの御事おんことや。さしも名高き御身おんみの。商人あきびとと伴ひて。旅をしかの.徒跣足かちはだし目もあてられぬ御風情おんふぜい  子方時世ときよに變る習ひとて。世のため身をば捨てごろも。恨みと更に思はじ  シテ東路あづまぢのおはなむけと思し召され候へとて  地「このおんこしの物をひて参らせ上げゝれば。力なしとて受け取り我しも。世に出づならば。思ひ知るべしさらばとて商人あきびとと伴ひ憂き旅に。やつれ果てたる美濃の國赤坂の宿しゆくに着きにけり赤坂の宿 宿に着きにけり 〈中入〉


 『烏帽子折』の謡蹟探訪を終え、昼食にしようと国道を渡り道の駅に参りましたが、人影もまばらで閑散としています。食堂の入口に近づくと、何とかしたりけん! “定休日”の標が…。身の不運を嘆きながら野洲駅に向って自転車を走らせました。結局、野洲に還るまで昼食はおあずけという次第でありました。

 ところが、道の駅を過ぎて少し走った左手の茂みに「平宗盛の墓」の標識を発見。これは見逃す訳には参りません。車を止め、狭い山道を分け入ったところに、宗盛の墓所がありました。
 「蛙不鳴池(かわずなかずいけ)および首洗い池」とした、地元の野洲市大篠原自治会による説明書きです。

 西方に見える池を蛙不鳴池と云い、この池は元暦2年(1185)源義経が、平家の大将・平宗盛とその子淸宗を処刑した時、その首を洗った「首洗い池」の続きで、以後蛙が鳴かなくなったとの言い伝えから、蛙鳴かずの池と呼ばれている。別名、帰らずの池とも呼ばれ、その池の神が日に三度池に影を落とされたのに、御帰りを見た事がないとの言われからである。
 昔は、横1町半(約165m)、長さ2町(約220m)あった。首洗い池は、蛙不鳴池の東岸につながって、ほぼ円形をしていた。最近までその姿をとどめていた。


道の駅は定休日だった…

平家終焉の地


 石面に仏像が彫られた墓石が宗盛のはかなのでしょうか。「平宗盛卿終焉之地」と刻された墓地には、地元の方が手向けられたものでしょう、花が供えられてありました。
 以下は「平家終焉の地」とした、野洲市観光物産協会の説明書きです。

 平家が滅亡した地は壇ノ浦ではなくここ野洲市である。
 平家最後の最高責任者平宗盛は、源義経に追われて1183年7月、一門を引き連れて都落ちをした。西海を漂うこと2年、1185年3月24日壇ノ浦合戦でついに破れ、平家一門はことごとく入水戦死した。しかし一門のうち建礼門院、宗盛父子、清盛の妻の兄平時忠だけは捕らえられた。宗盛父子は源義経に連れられ鎌倉近くまでくだったが、兄の頼朝に憎まれ追い返され、再び京都へ向った。
 途中、京都まであと一日ほどのここ篠原の地で、義経は都に首を持ち帰るため、平家最後の総大将宗盛とその子淸宗を斬った。そして義経のせめてもの配慮で、父子の胴は一つの穴に埋められ塚が建てられたのである。
 父清盛が全盛の時、この地のために掘った祇王井川が、いまもなお広い耕地を潤し続け、感謝する人々の中に眠ることは、宗盛父子にとっても、野洲市が日本中のどこよりもやすらぐ安住の地であろう。
 現在ではかなり狭くなったが、昔塚の前に広い池があり、この池で父子の首を洗ったといわれ「首洗い池」、またはあまりにも哀れで蛙が鳴かなくなったことから「蛙鳴かずの池」とも呼ばれている。


平宗盛の墓


 義経にとっては、かつて自らが元服をした地において、平家の総大将の首を討つことになろうとは、世が世であれば感無量の出来ごとであったことでしょうが、この時は兄頼朝の不興を買っての帰り路、誠に複雑な心境であったに違いありません。
 この地の探訪を終え、湖南・湖東の謡蹟はほぼ訪問したことになりました(滋賀県ではあとは、白鬚神社と比叡山を残すくらいでしょうか)。野洲駅まで自転車を走らせ、帰阪の途につきました。



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  (平成27年 1月13日・探訪)
(平成27年 3月20日・記述)


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