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天橋立・智恩寺 〈九世戸・丹後物狂〉


 2015年9月10日、11日の両日、天橋立に遊び、智恩寺と西国観音霊場の成相寺に参拝しました。この地は『九世戸』と最近復曲上演された『丹後物狂』の謡蹟になっています。
 (この「天橋立・智恩寺」に関する記述は、本サイトの「気まぐれ紀行・〈天橋立とくろまつ列車〉」と一部重複しています。天橋立観光の記録については、こちらをご参照ください。)

 まず、謡曲の『九世戸』は、天橋立の生成と文殊信仰との関係が説話的に述べられいる「九世戸縁起」に典拠しているものと思われます。それでは“九世戸”とはどこを言うのか。通常は天橋立の南端の、現在は回旋橋(小天橋)のある狭い水道を言うようですが、一説では、回旋橋と大天橋との間の地であるとか、智恩寺の異称であるともいわれているようです。


九世戸の渡し(回旋橋)


 回旋橋は正式名称は“小天橋”というようです。智恩寺の仁王門を入らず、右手に進んだところにあり、天橋立の松並木の入り口となっています。すぐ近くには、対岸の傘松公園方面への遊覧船の乗り場があり、知恵の輪が建っています。
 九世戸の水道を眺めると、ちょうど回旋橋が開いて、砂利船が通過していました。船が通るたびに90度旋回する珍しい橋で、大正12年に手動でまわる廻旋橋ができましたが、橋の下を通る大型船舶が多くなり、昭和35年5月から電動式となりました。


九世戸の渡し(遊覧船上より撮影)

知恵の輪



 智恩寺では、伝えられてきた「九世戸縁起」を絵葉書にして漫画風に表しています。それでは漫画による「九世戸縁起」です。



 むかし、むかしのこと、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉册尊(いざなみのみこと)という二柱の神さまが日本の島々を造られていた時代の話。
 この神さまが地上をご覧になると、あらうみの大神がこの地を占領して大暴れしていて、人も住むことができません。

 神様たちは毎日相談しました。やがて伊弉諾尊の申されますには、何といっても今中国の五台山におられる文殊菩薩こそ知恵第一の仏様で、昔から龍神の導師である。あらうみの大神もきっと改心するであろうと。



 そこではじめて五台山より海を越えて文殊菩薩をこの島に請待いたしました。。
 文殊菩薩はこの島で千年の間説法をされました。龍神みな集まって教えを聞き、すっかり感心して今後は仏法を信じ、人々を護る神々になるようにちかいました。そこで天橋の浦を千歳の浦といい、説法のお経を置いたところを経ヶ岬といいます。

 神様方は文殊菩薩の手に持たれる如意に乗って海に降りられました。如意が浮かんだのを天の浮橋といい、着かれた地を宮津といいます。



 文殊菩薩は宮津にしばせく住まわれますのに、龍神たちが皆々集まって、菩薩から戒を授かって御弟子になりました。この所を戒岩寺といいます。文殊菩薩が獅子で上陸された所を獅子崎(しいざき)といいます。

 如意を海に浮かべた天の浮橋に、龍神が一夜で土を置いて島にしました。この島にまた天人が天降って一夜で千代の姫小松を、松明をとぼして植えました。その内に夜が明けてきましたので、植えるのをやめて火を置いて天に帰りました。火を置いた所を火置(日置)といいます。この島が天橋立です。



 天神七代すぎ、地神二代、あわせて九代にできたので土地の名を九世戸と名付けます。
 土地は平和になり、人々も住みつくようになりました。

 九代をかけてでき上った天橋立に文殊菩薩をお迎えすることになりました。海には龍神の龍燈、天には天燈が献じられ、人々は海上に松明を照らし、船を出して文殊菩薩をお迎えしました。これが今日まで伝わる7月24日の出船祭りの始まりです。



 出船祭りは、毎年7月24日に知恩寺で行われる祭りで、「九世戸縁起」を再現したイベントです。海上を照らす数多くの松明の中、海上舞台の上で太鼓に合わせて龍舞・巫女舞が演じられ、クライマックスには打上げ花火もあがります。
 謡曲『九世戸』は、この「九世戸縁起」を描いています。


クリ「それ地神ぢじん二代の御神おんがみ。始めて此處に天降り。末世の衆生しゆじやう濟度さいどの為に。霊像をくわんじやうし給へり
サシ シテ「さればこの地開闢かいびやくの昔  地「はや神國とあらかねの。きゝうの祭しなじなの。衆生濟度の方便生死しやうじの相をたすけんとて  シテ三世さんぜ覚母かくもの。大聖文殊を  地「この島に安置おろ。し給ひけり
クセ「この橋立を造らんと。約諾やくだくありしその頃は。神の代いまだ遠からず。雲霧。虚空にち満ちて常闇とこやみの如くなりしかば。おのおの神火しんくわともして。日夜に土を運びて同じく松を植え給ふ。その燈火の餘りを彼處かしこに置かせ給ひしより。火置ひおきの島とてこれも故あるしんしよなり
シテ「かくて神々集まりて  地天竺てんぢく五臺山ごだいさんの。文殊を勧請くわんじやうし給へば。かみは有頂の雲を分け。下は下界の龍神。音樂種々の華降り。御燈ごとうを捧げ奉る。その影向やうがうの有樣語るも.おろかなりけり


 智恩寺の山門を入ったところに「謡曲『九世戸』と智恩寺」と題して、謡曲史蹟保存会の駒札が建てられています。

 九世戸(くせのと)は、天橋立と智恩寺のある半島との海峡を言ったが、中世には智恩寺の異称でもあった。謡曲「九世戸」は同寺に伝承されてきた「龍燈・天燈」の神事で、現在も「出船祭」として行われている祭りを中心に脚色した初番物です。
 天皇の臣下が九世戸に参拝し、美しい景色に見とれていると、老若二人の漁夫が現れる。老人は九世戸の地名の由来や縁起などを説明し「本尊の文殊菩薩に仕える者で、今夜は神事が行われる」と教えて消える。
 夜が更けると、月下に天女が天龍燈を持って降臨し、海上から龍神が龍燈を持って現れ、松の木に捧げると、光は一つになって天地を照らす。龍神は神通力で飛び回り、豪快に舞を舞う。

 当地の駒札は、他所のそれと比べると随分立派なものでした。
 駒札の説明と若干重複しますが、以下、謡曲『九世戸(くせのと)』について眺めてみましょう。


   謡曲「九世戸」梗概
 観世小次郎信光の作。典拠は未詳であるが、智恩寺に伝わる神事を描いている。

 天竺五台山の文殊を勧請したと伝える丹後国・九世戸を、当今に仕える廷臣が訪れる。老若二人の漁師が現れ、廷臣の問いに答え九世戸のいわれを語り、今宵は神事があり、天女と龍神が天燈と龍燈を捧げる時であると教え、自分は文殊菩薩に仕える“さいしょう老人”であると告げて姿を消す。
 夜が深更に及ぶと、月下に紫雲がたなびき、天女が天降って天燈を捧げると、海上より龍神が現れて龍燈を捧げ、通力遍満の既読を見せ、やがて天女が天に帰ると、龍神もま た海中に飛びいるのであった。

 前シテは文殊菩薩に仕えるさいしょう老人(文殊菩薩の五使徒の一人である最勝老人のことか)が、仮に漁翁の姿となって現れたことになっているが、後シテは別人格の龍神である。また後ツレは龍神に同伴して天燈を捧げる天女であるが、前ツレはそれとは無関係の漁夫である。前場と後場は事件には関連があるが、人物の連絡はない。この曲は天橋立を背景にした神事を描き、そこかに神仏融合の有様を見せる作品である。
 本曲は観世流のみの現行曲であり、その故もあってか、昭和25年から平成21年の60年間での演能回数は、僅かに8回を数えるのみで稀曲の部類に入る作品である。


 なお、謡曲『氷室』では、ワキの亀山院に仕える臣下が「我この度丹後の國九世の戸に參り。既に下向道なれば。これより若狭路にかゝり。津田の入江青葉後瀬の山々をも一見し。それより都に帰らばやと存じ候」と語っており、当地の文殊信仰が広く流布していたことを物語っています。


 それでは、智恩寺の文殊堂にお参りいたします。


智恩寺山門


 以下は宮津市教育委員会による智恩寺の来歴です。

 ここ智恩寺は「知恵の文殊」とよばれ、またこのところの名から「切戸(きれと)の文殊」・「九世戸(くせと)の文殊」とよばれて古くからの信仰の厚いところであった。寺伝によれば、その開創は千余年の昔、延喜年間という。世に三文殊と称するのは、ここ智恩寺に加えて、奈良県桜井市の阿部院・京都市左京区金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)(あるいは、これに代えて山形県高畠町大聖寺)の三寺の文殊のことである。
 國指定の特別名勝「天橋立」というのは、海中に3.6キロメートルにわたって連なる砂嘴(さし)の部分だけでなく、それを展望できる成相寺山麓の「笠松」の地、そしてここ智恩寺の境内地をも含めているのである。
 寺に伝わる古縁起にも、
 そもそも、九世戸あまのはしたてと申すは、本尊は一字文殊、鎮守ははしたての明神と申す、本地は同じ文殊にておわします 云々
と記し、橋立も一体の信仰の地と考えられてきたのである。
 本尊は善財童子・優闐王(うてんおう)を従えた文殊騎獅象である。境内には、本堂をはじめ、山門・多宝塔ほか諸堂が並び、寺だけでなく地方の歴史を語る多数の遺物に接することができる。

 

智恩寺本堂(文殊堂)

御朱印


 黄金閣を正面に宝形造りの銅板葺き屋根の御堂が当寺の本堂である文殊堂です。智恵を授かる文殊さんとして有名で、受験生が多数お参りに訪れます。
 日本の国土創生の時、この地で暴れていた悪龍を鎮めるため中国から智恵第一の仏様で、龍神の導師である文殊菩薩を招請され、悪龍を教化されたと伝えられています。この伝承は「龍燈・天燈」の神事として伝えられており、現在も「出船祭」として行なわれています。

 2009年10月24日、ここ文殊堂において『丹後物狂』が、観世清和・三郎太父子により復曲上演されました。『丹後物狂』は世阿弥が得意とした能だということなのですが、江戸時代中頃以降は演じられなくなっていました。それでは『丹後物狂』について考察してみましょう。


   謡曲「丹後物狂」梗概
 『申楽談義』に「井阿作」とあるので井阿弥(せいあみ)の作と考えられる。もとは『笛物狂』という曲があり、これをもとに造られたのが井阿弥作の『丹後物狂』で、これを世阿弥が曲舞の段を増補して大幅に改訂したものである。ただし、この段階では男物狂ではなく夫婦が登場していたものを、「丹後物狂、夫婦(めうと)出でて者に狂ふ能なりしなり。幕屋にて、にはかに、ふと今のやうにはせしより、名ある能となれり。(『申楽談義』)と世阿弥が述べているように、父親のみを出す演出を考え付いたという。

 物語は、天橋立の文殊堂に願掛けをして生まれた子供をめぐる、一種のホームドラマである。
 近くの白糸の浜の岩井殿(前シテ)は、文殊堂に参籠祈誓して一子花松を授かった。勉学に励ませようと近くの成相(なりあい)寺に預けていたが、久しく会っていなかったので、家に呼び寄せて様子を尋ねた。勉学の進み具合をも報告していたところ、下人(アイ)が花松は学問は申すに及ばず、雑芸も上達していると口をはさんだため、岩井殿は立腹し花松を勘当してしまった。花若は悲しみのあまり海に身を投げるが、通りかかった筑紫の男に助けられ、筑紫彦山の寺に登って学問に精励し、成長して故郷に帰り父母を尋ねるが行方がつかめない。やむを得ず両親のため、文殊堂で七日間の説教を行うこととした。


2009年10月24日
発行の一番本

 そこへ失ったわが子を思うあまりに物狂いとなった父親(後シテ)が行き合わせ、狂人となり子を尋ねて諸国を廻るも果たせぬ子細を語り、わが子が身を投げた同じところに身を投げようと、導師の花松に訴える。花松も父母が見つからぬようであれば死を覚悟していた。親子は互いに相手を認めて、再会を喜び故郷へと帰って行く。


 10月24日、智恩寺で復曲上演された『丹後物狂』の記録です。
   シテ 観世清和      笛  杉信太朗
   子方 観世三郎太     小鼓 鵜澤洋太郎
   ワキ 福王和幸      大鼓 亀井広忠
   オモアイ 山本東次郎   アドアイ 山本則重
 翌2010年4月29日、国立能楽堂において、同じメンバーでの公演が行われています。
 なお『丹後物狂』の復曲は、これ以前にも“橋の会”で、1989年および2001年の2回にわたり上演されています。
 (注)2001年の復曲上演の詳細は以下の通り。
    2001年12月6日 〈橋の会〉 於・宝生能楽堂
   シテ 清水寛二      笛  松田弘之
   子方 柴田昂徳      小鼓 宮増新一郎
   ワキ 殿田謙吉      大鼓 柿原弘和
   オモアイ 野村与十郎   アドアイ 野村祐丞

 余談ながら、本曲の子方の花松は九州の彦山に登って修行をしまが、彦山に登り修行をする曲には『花月』があります。ただし『花月』では、七つの歳に天狗にさらわれるのですが…。なぜ“彦山”なのかについて、“座談会〈丹後物狂〉(「観世」平成21年11月)”で松岡心平氏は「彦山、あそこは朝鮮半島の花郎(ファラン・かろう)といいますか、弥勒信仰と一体化した場所ですね。三国時代の新羅では稚児が山岳で修行をしてパワーを身につけ、青年戦士団のトップとなります。そうした信仰は八幡信仰の中にも入ってきていますが、なかでも彦山は特に濃厚な稚児のトポスです。彦山には花郎信仰が直接入ってきたと見ていい、そうすると彦山は修験だけでなく稚児文化の日本における発祥地とも考えられます。花松はそういう所で修行をして大成し、丹後に帰って行く…」と語っています。

 以下に挙げるのはは、後場クリ・サシ・クセで、シテの父親が悲しみを嘆くシーンです。世阿弥はこの部分のために改作したとも考えられるところで、世阿弥の自信作であろうと言われています(『観世』平成21年10月・11月号、座談会〈丹後物狂〉)。なお、謡曲の章句は、平成21年10月24日発行の同曲一番本によっています。


クリ 地「それ親の子を思ふこと。人倫じんりんに限らず。焼け野のきぎす夜の鶴。うつばりのつばめに至るまで。子ゆゑいのちを。捨つるなり
サシ シテ「我らももとはこの国の。近きあたりに住みしなり。わざとその名は申すまじ  地「子のなきことを歎き。かの御本尊ごほぞんに祈りを掛けひとりの男子なんしまおくる  シテ「たまたまあひ一子いつしなれば  地「かざしの花。たなごころの玉。袖の上の蓮華れんげと。またたぐひなきあまりに。憎まざるに叱り。思はざるに勘当かんだうせしは。それぞ狂乱のはじめなる
クセ「子はいとけなき心に。いさむるをば知らずして。まことに憎むぞと心得こころえに紛れて家を出で。かの橋立はしだてに立ち渡り。浦の波間に身を投ぐる。父母ちちはわ後悔千万にて。せめて変はれる姿をも。あひ見ばやと思ひて果てしところを尋ぬれども。うたかたの。波間なみまに消えて跡もなし。思ひのあまりに。心そらにあくがれて。狂人となりぬれば。夫婦ふうふともに家を出で。国をまはりて尋ぬれどその面影のなければ。いとど涙の古里ふるさとに。ふたたび立ち帰りて。この橋立はしだてに参りつゝ
シテ「うらめしの御本尊ごほぞん  地「かほどにえんのなき子をば何しに賜び給ふぞと。ゆゑもなき文殊もんじゆに。向かひて恨みかこちて。せめてわが子の沈みし一つところに身を投げて。浄土じやうとの縁となりなんと。思ひ切りたる我らなり。導師だうしも憐れみてわが跡弔ひて賜び給へ



 シテの岩井殿が修行のために花松を託したという成相寺(なりあいじ)は、智恩寺の対岸の山上にある古刹です。
 “願うこと必ず成り合う寺”の意で、西国三十三観音霊場の第28番札所。本尊は聖観世音菩薩。寺伝によれば慶雲元年(704)、真応上人の開基で、文武天皇の勅願寺となったということですが、真応上人については詳らかでなく、中世以前の寺史は判然としないようです。ただ、天橋立、対岸の文殊堂と併せて、三位一体的な存在であったようです。平成19年、高野山真言宗から独立して、真言宗単立寺院となっています。


成相寺仁王門

成相寺本堂


 予定では、成相寺まで足を延ばすのは、時間の都合でちょっと難しいかと考えていましたが、幸い余裕をもって参拝することを得ました。西国札所に参拝することもさることながら、『丹後物狂』の花松の修業の場を垣間見たいと希望していましたので、謡蹟探訪としては満足できる結果となりました。
 午前中で天橋立観光を終え、午後は京都丹後鉄道の“くろまつ号”で西舞鶴へ、舞鶴線・山陰本線を乗り継いで、京都経由で帰阪いたしました。




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  (平成27年 9月10日・探訪)
(平成27年11月15日・記述)


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