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宇治十帖古跡 〈浮舟・橋姫〉


 2015年9月28日、『浮舟』の古跡を訪ねて、宇治の三室戸寺に参拝、併せて『源氏物語』宇治十帖の古跡を巡りました。
 『源氏物語』の第45帖から54帖までは、主な舞台が宇治であるため「宇治十帖」と呼ばれており、その古蹟が宇治に点在しています。これは江戸時代に好事家たちによって、物語最後の十帖にちなんだ古蹟が各々定められたもので、これらの古蹟は変遷を経ながらも、今日に伝えられています。


「宇治十帖」古跡巡り地図


 今回の謡蹟巡りは、「宇治十帖」の古跡を巡りながら、併せて『浮舟』と最近復曲された『橋姫』の謡蹟を探訪しようというものです。宇治十帖の古跡巡りは探訪の順ではなく、物語に沿って45帖から順にたどって行きたいと思いますが、まずは『浮舟』にちなんで、宇治河畔にある「宇治十帖モニュメント」から始めましょう。


宇治十帖モニュメント


 宇治十帖モニュメントは宇治川の右岸と中の島を繋ぐ朝霧橋の東詰のたもとに建てられています。「宇治十帖」では光源氏はすでに亡くなっており、中心となるのは薫君(かおるのきみ)や匂宮(におうのみや)、そして「宇治十帖」後半の「宿木」から「夢浮橋」の6帖にかけて、中心人物として登場するのが浮舟です。
 浮舟は薫の手で宇治に囲われるが、彼の留守に忍んできた匂宮とも関係を持ってしまいます。対極的な二人の貴人に愛され、その板ばさみに苦しみますが、やがて事が露見し、追い詰められた浮舟は自ら死を決意するも果たせず、山で行き倒れているところを横川の僧都に救われました。その後僧都の手により出家を果たし、薫に消息を捉まれ自らの元に戻るよう勧められても、終始拒み続けるのです。
 このモニュメントは、浮舟の居場所を探り出し宇治を訪れた匂宮が、彼女とともに小舟で橘の小島へ渡ったときの場面をモチーフにしています。以下は『源氏物語』に描かれたそのシーンです。


 いとはかなげなるものと、明け暮れ見出だすちひさき舟に乗り給ひて、さと渡り給ふほど、遙かならむ岸にしも漕ぎ離れたらむやうに心ぼそくおぼえて、つとつきて抱(いだ)かれたるもいとらうたしとおぼす。有明の月澄みのぼりて、水の面(おもて)もくもりなきに「これなむたち花の小島」と申して、御船しばしさしとゞめたるを見たまへば、大きやかなる岩のさまして、されたる常盤木の影しげれり。匂宮「かれ見たまへ。いとはかなけれど、千年(ちとせ)も経(ふ)べき緑の深さを」とのたまひて、
  匂宮 年経(ふ)ともかはらぬものか橘(たちばな)の小島のさきにちぎる心は
女もめづらしからむ道のやうにおぼえて、
  浮舟 たち花の小島の色はかはらじをこのうき舟ぞゆくへ知られぬ
おりから人のさまに、をかしくのみ何ごともおぼしなす。
 かの岸にさし着きて下リ給ふに、人に抱(いだ)かせ給はけむはいと心ぐるしければ、抱きたまひて助けられつゝ入り給ふを、いと見ぐるしく何人をかくもてさわぎ給ふらむと見たてまつる。



 謡曲では、旅の僧の問いに答えて里女(浮舟の亡霊)が、源氏物語にある浮舟のことを、以下のように語ります。


サシ シテ「玉の數にもあらぬ身の。そむきし世をやあらはすべき  地「まづこの里にいにしへは。人々數多あまた住み給ひけるたぐひながら。とりわきこの浮舟はかをる中将の假初かりそめに。すゑ給ひし なり

クセ「人がらもなつかしく。心ざまよしありておほとかに過し給ひしを。物言ものいひ。さがなき世の人の。ほのめかし聞えしを。色深き心にて。兵部卿ひやうぶきやうの宮なん忍びてたづねおはせしに。織り縫ふわざいとまなき。宵の人目もかなしくて。垣間見かいまみしつゝ.おはせしもいと不便ふびんなりし業なれや。その夜にさても山住やまずみの。めづらかなりし有樣の。心にみて有明の。月澄みのぼる程なるに

シテ「水のおもても曇りなく  地「舟めし行方ゆくへとて。みぎはの氷踏み分けて。道は迷はずとありしも淺からぬ御契おんちぎりなり。一方ひとかたはのどかにてはぬ程る思ひさへ。晴れぬ眺めとありしにも。涙の雨や増りけん。とにかくに思ひび。この世にくもならばやと。歎きし末ははかなくてつひに跡なくなりにけり。終に跡なくなりにけり

 

 改めて謡曲『浮舟』について。本曲は昭和25年~平成21年の60年間の演能回数が108回と、それほど人気の高い作品ではありません。ただ近年になって増加傾向にあるのですが、平等院などが世界遺産に登録されたことと関連があるのでしょうか。


   謡曲「浮舟」梗概
 作者に関しては『申楽談義』には「是は素人横尾元久といふ人の作。節は世子(せし)付く」と述べていることから、世阿弥が作曲(型付もか)したことが知られる。『八帖本花伝書』に「『浮舟』『玉鬘』大方、似たる能なり」というように、『玉鬘』に影響を与えた作とされ、構成やシテの出立など、両曲には共通点が多く、四番目者でありながら鬘物に近い点も共通している。
 初瀬から都へ上る旅僧が宇治に着くと、一人の女が宇治川を柴舟に棹さしてやって来た。僧が土地の謂れを尋ねると、源氏物語にある浮舟のことを詳しく物語り、自らは大比叡のふもと、小野の里の者であると告げて消え失せる。
 僧が小野に行き回向をしていると、心の乱れに悩む浮舟の霊が現れ、世をはかなんで身を投げようとしたときに、横川の僧都に助けられたことを語り、僧の供養を受けて兜率天に生まれることができたと、喜びを述べて明け方とともに消え失せるのである。
 前シテは水棹(みさお)を持って登場し、川船に乗って現れることを示している。また前場・後場とも“一声”で登場するが、一曲中に一声を二度持つ例は数少ない。



 それでは「宇治十帖古跡」巡りを始めましょう。源氏物語のストーリーにそって、探訪いたします。それぞれの古跡で“この字体”で記しているのは、宇治市文化財愛護協会の駒札の内容です。その前に「宇治十帖古跡」ではありませんが、与謝野晶子の「宇治十帖」の歌碑が、さわらびの道沿いに建てられています。晶子の没後50年と宇治市制40周年にあたる平成4年10月に建てられたもので、晶子の真筆で刻まれています。


与謝野晶子歌碑


 (橋姫)  しめやかに心の濡れぬ川ぎりの立舞ふ家はあはれなるかな
 (椎本)  朝の月涙の如し真白けれ御寺のかねの水わたる時
 (総角)  こころをば火の思ひもて焼かましと願ひき身をば煙にぞする
 (早蕨)  さわらびの歌を法師す君に似ずよき言葉をば知らぬめでたさ
 (宿木)  あふけなく大御女をいにしへの人に似よとも思ひけるかな
 (東屋)  ありし世の霧きて袖を濡らしけりわりなけれども宇治近づけば
 (浮舟)  何よりも危なきものとかねて見し小舟の上に自らをおく
 (蜻蛉)  ひと時は目に見しものをかげろふのあるかなきかをしらぬはかなき
 (手習)  ほど近き法の御山をたのみたる女郎花かと見ゆるなりけれ
 (夢浮橋) 明けくれに昔こひしきこころもて生くる世もはたゆめのうきはし



《 橋 姫 》

 橋姫(はしひめ)の古跡は、宇治橋西詰から縣神社参道を少し進んだところに鎮座する橋姫神社です。大化2年(646)に宇治橋が架けられた際に、瀬織津媛(せおりつひめ)を祀ったのが始まりとされています。


「橋姫」古跡──橋姫神社


「その頃、世に数(かず)まへられ給はぬふる宮おはしけり」と「宇治十帖」は書き始められる。
 光源氏の異母弟の八宮(はちのみや)は、北方(きたのかた)亡き後、宇治の地で、失意と不遇の中に、二人の姫君をたいせつに育てながら、俗聖(ぞくひじり)として過ごしておられた。世の無常を感じていた薫君(かおるのきみ)は、宮を慕って、仏道修行に通い、三年の月日がながれた。
 晩秋の月の夜、薫君は琵琶と琴を弾かれる姫君たちの美しい姿を垣間見て、「あはれになつかしう」思い、
   橋姫の心をくみて高瀬さす
   棹(さお)のしづくに袖ぞぬれぬる
と詠んで大君(おおいきみ)に贈った。
 出家を望まれる八宮は、薫君を信じ、姫君たちの将来をたのまれる。その後、薫君は、自分が源氏の実子ではないという出生の秘密を知ることになる。


通りから見た橋姫神社

境内の奥に建つ歌碑

宇治南陵局風景印


 境内の奥まったところに、草に埋もれるように歌碑がありました。
 「流離」と題して、

  宇治川の砂の夕焼けすなほりて無心のあこはみすておくべし

と読めるのですが、確証はありません。
 なお、宇治南陵郵便局の風景印に、橋姫の古跡が描かれています。


 宇治の橋姫については、古くは『古今和歌集』巻第十四(689)に「題しらず」として、

  さむしろに衣かたしき こよひもや我を待つらん宇治の橋姫  よみ人しらず

と詠まれています。この歌の“橋姫”は、宇治の地にいる愛人を、宇治橋の守り神である“橋姫”にたとえたものでしょう。
 謡曲『鉄輪』は『平家物語』剣巻にある橋姫伝説に取材したものです。『鉄輪』の大成版一番本の前付に『平家物語』剣巻が紹介されています。

嵯峨天皇の御宇に、或公卿の娘、余りに嫉妬深うして貴船の社に詣でて七日籠りて申すやう、「(中略)我を生きながら鬼神になしてたび給へ。妬しと思ひつる女取り殺さむ」とぞ祈りける。明神、哀れとやおぼしけむ「(中略)げに鬼になりたくば、姿を改めて宇治の川瀬に往きて三七日漬れ」と示現あり。女悦びて都に帰り、(中略)顔には朱をさし、身には丹を塗り、鉄輪を戴きて三つの足には松を燃し、(中略)夜更け人定りて後、大和大路へ走り出で、南を指して行きければ、(中略)さながら鬼形に異ならず、是を見る人肝魂を失ひ倒れ臥し、死なずといふ事なかりけり。かくの如くして宇治の川瀬に往きて、三七日漬りければ、貴船の社の計らひにて、生きながら鬼となりぬ。宇治の橋姫とはこれなるべし。

 2013年6月30日、京都観世会「復曲試演の会(実行委員長・井上裕久)」により『橋姫』が復曲上演されましたので、本曲について触れておきます。以下は本曲の一番本を参照しています。


   復曲「橋姫」梗概
 作者は不詳。謡本前付の[資材]にば「平家物語〈剣巻〉に見える、嫉妬のあまりに貴船の神に自ら鬼になることを祈願して、告げのとおり宇治川に21日間浸かり、生きながら鬼になった女の話と、宇治橋のたもとに祀られている橋姫とが混同して伝承されたみのが、本曲に取り入れられたと考えられる」と記されている。本曲の成立は室町時代後期と思われるが、能として上演された記録はなく、元禄期以降には謡本の発行が見られないので、この頃に廃曲となったものと考えられる。
  前シテ  里女  面─若女又は孫次郎
  後シテ  橋姫  面─橋姫(泥眼ヲ重ネル)
  ワキ   旅僧

 諸国一見の僧が、京都洛北貴船より奈良春日明神へ参詣の途中、宇治の里に立ち寄る。そこへ里女が声を掛けて来て、宇治橋の袂、橋姫の神へと誘う。女は、橋姫が恋しい男が待てど暮らせどついに訪れず、淋しく涙した昔話を語る。委しく語る女を僧は不審に思い、素性を尋ねると、女は橋姫の霊で、恋しい男に捨てられた淋しさが嫉妬や恨みとなり、鬼神となったのだと語り、鬼に変化し再び姿を見せると言うや、橋の面に隠れる。
 その夜、月の影に照らされて橋姫の霊が僧の前に現れる。僧が、その恐ろしく変わった形相を不思議に思っていると、橋姫は嫉妬の恨みを晴らすために貴船の神に願いを掛けて鬼になったと言い、山河を自在に飛び翔り、暁の薄墨の闇へと消え失せるのだった。


2013年6月30日
発行の一番本

 前場では捨てられた女の悲しみを切々と語るうち嫉妬に代わっていく様を見せ、後場では貴船の神の告げにより忽ちに鬼に変化し、自在に天地を飛行する事でその超人的な力と恐ろしさを見せる。


 クリ・サシ・クセは、里女~実は橋姫の亡霊が、捨てられた女の悲しみを述べる場面です。悲しみがやがて嫉妬へと変わっていきます。クセの冒頭で、古今集の「さむしろに衣かたしき今宵もや、我を待つらん宇治の橋姫」の歌を引いていますが、前述しましたが、この歌の「橋姫」は「我を待つ女」を「橋姫」にたとえたものでしょう。


クリ「げにやあだにのみ。よそに見てしをいにしへの。憂世語うきよがたりの身の上に。なりける事こそ。あはれなれ
サシ シテ「昔この里に住みける人。妹背いもせの中にありびて  地「物の戀ひするあかつきの。枕淋しき寝屋ねやの月。影を便りに馴れ衣。間遠まどおになるや妻戀つまごひの<  シテ「鹿の起伏おきふし。音に立てゝ  地「泣くばかりなる。有樣かな

クセ「しかれば詠歌えいかにも。さむしろに衣かたしき今宵こよひもや。我れを待つらん。宇治の橋姫といはれしも我身の上のいかなれば。うきがたりの名のみたつ宇治の川波うたかたの。哀れたゞ來し方の我身の上ぞ戀ひしき。只いつとなく獨寝ひとりねの。更け行く鐘の聲きけば。昔戀ひしき暁の。かけのれ尾の亂れ戀。夜聲を添へていとどなほ。人待つ風ややまおろし。思ひしげきの不便ふびんなりし業なれや。その夜にさても露時雨つゆしぐれ。定めなや恨めしや何時かは袖をほさまし

シテ「思ひあまりて待つくれの  地「せめて思ひやなぐさむと。橋本はしもとに立ち出でて。其方そなたの空を眺むれば。月のみづる朝日山。かがみけて雪の色。懸けてもせめて思へかし。今はさながら遠妻とほづまの。まれにだにひ來ぬ宇治の橋姫ぞびしき



 



《 椎 本 》

 椎本(しいがもと)の古跡は、宇治橋東詰から府道沿いに東屋の古跡を過ぎたところにある彼方(おちかた)神社です。「彼方」の名前の由来は、川の流れ落ちる「落方(おちかた)」だという説があり、宇治十帖の中では「おち」という言葉が度々使われています。特に椎本の巻では「おち」を取り入れた歌が二首詠まれているので、彼方神社が椎本の古跡になった由縁はこの辺りにあるのではないかとも考えられています。
 祭神は大物主命とされていますが、宗像神や日本武尊を祭神とする説もあるようです。『日本書紀』の神功皇后の項にある、忍熊王(おしくまのみこ)が謀反し武内宿禰がこれを討たんとした「彼方の疎林(あらら)の松原」は、当地のことであるとのことです(『日本書紀』歌謡28~30に莵道(うぢ)での戦の記録があります)。


「椎本」古跡──彼方神社


 春、花の頃、匂宮(におうのみや)は、初瀬詣(はつせもうで)の帰路、宇治の夕霧の山荘に中宿りし、お迎えの薫君やお供の貴族たちと音楽に興じた。楽の音は対岸の八宮(はちのみや)の邸にもよく通い、八宮は都にいられた昔を偲ばれた。
 薫君から二人の姫君のことを聞きゆかしく思っていた匂宮は、宇治に消息(しようそこ)を送ったが、返事はいつも妹の中君がなさるのだった。
 薫君は八宮を仏道の師と仰いで、宇治を訪れ、姉の大君(おおいきみ)に強くひかれていく。
 八宮は死期の近いことを感じ、姫君たちに身の処し方につい て遺言し、信頼している薫君に姫君を頼み、秋も深いころ、阿闇梨(あざり)の山寺で、さみしく静かに生涯を閉じられた。
   たちよらむ蔭(かげ)と頼みし椎が本
   むなしき床(とこ)になりにけるかな



《 総 角 》

 総角(あげまき)の古跡は、さわらびの道の、宇治上神社から源氏物語ミュージアムにかけての山手、大吉山風致公園の入り口付近にあります。


「総角」古跡


 八宮(はちのみや)の一周忌がめぐって来た。薫君は仏前の名香(みようごう)の飾りに託して、大君への想いを詠んだ。
   総角に長き契りを結びこめ
   おなじ所によりもあはなむ
 大君は父君の教えに従い、自らは宇治の山住みで果てる意思が堅く、妹の中君(なかのきみ)をこそ薫君に委ねたいと望まれた。
 薫君は中君と匂宮(におうのみや)とが結ばれることによって、大君の心を得ようとされたが、意外な結果に事が運ばれてしまう。
 匂宮は中君と結ばれたが、気儘に行動され得ない御身分故、心ならずも宇治への訪れが遠のく。大君は「亡き人の御諌(おんいさ)めはかかる事にこそ」と故宮をしのばれ、悲しみのあまり、病の床につき、薫君の手あつい看護のもとに、冬、十一月に、薫君の胸に永遠の面影を残して、帰らぬ人となった。



《 早 蕨 》

 早蕨(さわらび)の古跡は、宇治神社と宇治上神社の間の、さわらびの道沿いにあります。江戸時代から明治にかけて、早蕨の古跡はその所在地を転々とし、大吉山の山頂や、宇治川西岸などに置かれていたこともあったようです。


「早蕨」古跡


 年改まり、宇治の山荘にも春が来た。今年も山の阿闇梨(あざり)から蕨や土筆(つくし)などが贈られてきた。
 中君(なかのきみ)は亡き父君や姉君を偲びつつ
   この春はたれにか見せむ亡き人の
   かたみにつめる峰の早蕨
と返歌なさった。
 二月の上旬、中君は匂宮の二条院へ迎えられ、行先の不安を感じつつも、幸福な日々が続く。
 夕霧左大臣は、娘の六君(ろくのきみ)を匂宮にと思っていたので、失望し、薫君にと、内意を伝えたが、大君の面影を追う薫君は、おだやかに辞退した。
 花の頃、宇治を思いやる薫君は、二条院に、中君を訪ねては懇ろに語るが、匂宮は二人の仲を、疑い始める。



《 宿 木 》

 宿木(やどりぎ)の古跡は、府道大津南郷宇治線が宇治川に沿い始める辺りにあります。江戸時代には、藤原寛子が建立した金色院の跡地で知られる白川にありましたが、その後、槇の尾山の麓に移り、平成6年にそれよりもう少し川下の現在の場所には移転しました。「宿木」とは『源氏物語』では蔦を指し、紅葉するさまが物語中で描かれています。


「宿木」古跡


 亡き大君を忘れかねる薫君は、いつしか現(うつ)し身の中君(なかのきみ)におもいをよせるようになった。中君はその真情に絆(ほだ)されはするが「うとましく」も思われる。
 二条院に中君を訪れた薫君は宇治に大君の人形(ひとがた)を造り勤行(ごんぎよう)したいと語る。中君は異母妹の浮舟が大君に似通っていることを告げる。
 秋、薫君は宇治の山荘を御堂(みどう)に改造することとし、弁尼(べんのあま)を訪れる。そして共に大君の思い出に浸り、
   宿りきと思い出でずば木(こ)のもとの
   旅寝もいかに寂しからまし
と口ずさみ、紅葉を中君への土産にお持たせになり、匂宮に恨まれる。
 中君は男子御出産、薫君も心すすまぬまま、女二宮(おんなにのみや)と結婚された。其の後、宇治を訪れた薫君は、偶然、浮舟を覗き見て、大君と全く瓜二つなのに驚き、強く心ひかれてゆく。



《 東 屋 》

 東屋(あづまや)の古跡は、京阪宇治駅東南の「東屋観音」と呼ばれる石仏で、鎌倉時代の作とされています。花崗岩に厚肉彫りされていて、風化がかなり進んではいますが、表情は穏やかで左手に蓮の花を持ち右手は印を結んでいるのがわかります。頭が大きくなで肩の藤原様式ですが、鎌倉後期の作と伝えられていて、宇治市の重要文化財にも指定されています。
 「東屋観音移転之記」によれば、「この石仏はもとは現在地の南西20メートルのところにあったが、宇治橋が架け替わり、道路が拡張されたことに伴い、同所にあった江戸時代の灯籠や宝篋印塔などとともにこの場所に移し、整備復元された」ということです。


「東屋」古跡──東屋観音


 浮舟の母は、今は常陸介(ひたちのすけ)の後妻となっていた。
 浮舟には左近少将という求婚者がいたが、少将は、浮舟が介の実子でないと知ると、財力めあてで浮舟の義妹と結婚してしまう。この破談に浮舟を不憫に思った母は、縁を頼って二条院にいる中君に預けることにした。
 ある夕暮、ふと匂宮は、西対(にしのたい)にいる浮舟を見て、その美しさに早速言い寄った。驚いた母は、娘の行く末を案じ、三条辺りの小家に浮舟をかくした。
 晩秋、宇治を訪れた薫君は、弁尼(べんのあま)から浮舟の所在を聞き、ある時雨模様の夜に訪ねて行く。
   さしとむる葎(むぐら)やしげき東屋の
   あまり程ふる雨(あま)そそぎかな
 翌朝、薫君は浮舟を連れて宇治へと向かった。薫君にとって浮舟は、亡き大君の形見と思われた。



《 浮 舟 》

 浮舟(うきふね)の古跡は、三室戸寺境内の鐘楼横にあります。もともと浮舟之古蹟碑は、「浮舟の杜」とよばれていた「莵道稚郎子の墓」辺りにあったのですが、明治の中頃以降、移転を繰り返した後、現在の場所に移されました。


「浮舟」古跡


 正月、中君のところに宇治から消息があった。浮舟のことを忘れられない匂宮は、家臣に尋ねさせたところ、まさしく浮舟は、薫君にかくまわれて宇治にいることがわかった。そして、ある夜、闇に乗じ、薫君の風(ふう)を装って忍んで行く。浮舟が事に気付いた時はもう遅かった。
 浮舟は、薫君の静かな愛情に引きかえ、情熱的な匂宮に次第にひかれていく。薫君は物思いに沈む浮舟を見て、一層いとおしく思われた。
 如月の十日頃、雪の中、宇治を訪れた匂宮は、かねて用意させていた小舟に浮舟を乗せ、橘の小島に遊び、対岸の小家に泊って一日を語り暮らした。
   橘の小島は色もかはらじを
   この浮舟ぞゆくへ知られぬ
 浮舟は、二人の間で様々に思い悩んだ末、遂に死を決意する。

 三室戸寺は西国三十三観音霊場の第10番札所です。本山修験宗の別格本山です。 約1200年前(宝亀元年)、光仁天皇の勅願により、三室戸寺の奥、岩淵より出現された千手観音菩薩を御本尊として創建されました。開創以来、天皇・貴族の崇拝を集め、堂塔伽藍が整い、霊像の霊験を求める庶民の参詣で賑わうこととなりました。宝蔵庫には平安の昔を偲ぶ五体の重要文化財の仏像が安置されております。
 また5千坪の大庭園に四季おりおりの花が見られるので、一名『花の寺』とも言われています。4月下旬~5月上旬の“つつじ園”には、2万株の平戸ツツジ、霧島ツツジ、久留米ツツジ等が咲き誇り、その規模は関西屈指のものです。さらに6月のアジサイ、7月のハス、秋の紅葉など、四季を通じ美しい花模様を楽しむことができます。当寺は“あじさい寺”とも呼ばれているようで、6月には臨時バス“あじさい号”が運行されるようです。

   暮れはつる秋のかたみにしばし見ん 紅葉散らすな御室戸の山  西行


三室戸寺山門

本堂につづく石段

 現在の本堂は、文化11年(1814)に再建された重層入母屋造の重厚な建物で、本尊の千手観音立像が安置されているが、厳重な秘仏で写真も公表されていないようです。
 本堂の前には、ハスを植えた大きな鉢が沢山置かれています。百種のハスが7月から8月にかけて開花するようですが、さぞ見事な眺めでしょう。


三室戸寺本堂

「西国霊場」御朱印


 本堂の右手に「浮舟」の古跡があります。これは250年前の寛保年間「浮舟古跡社」を石碑に改めたものです。その折古跡社のご本尊「浮舟観音」は当山に移され、今に浮舟念持仏として伝えられています。
 『源氏物語』に登場する、光源氏の異母弟八宮はもとより、薫君も“宇治山の阿闍梨”を仏道の師として深く帰依していました。当時、宇治には山寺として知られた寺は三室戸寺のみで、当寺の僧をモデルとして描いたのではないでしょうか。 ちなみにやや時代が下りますが『宇治拾遺物語』には藤原一門の三室戸僧正隆明が名声高き僧として記されており、 当寺が藤原期に有名寺院であったことが知れます。
 八宮の山荘は、宇治川の瀬音が聞こえる宇治川右岸にあり、山寺は鐘の音が微かに届く山中とありますので、現在地でいえば、八宮山荘は宇治橋下流、山寺は三室戸寺ではないでしょうか。
 なお当寺では、西国霊場のご朱印とは別に、「浮舟」のご朱印を備えていました。


「浮舟」古跡

「宇治十帖」御朱印


 同所に建てられた、謡曲史蹟保存会の駒札です。

 謡曲「浮舟」は夫薫中将と兵部卿宮(匂の宮)との恋の間に揺れ迷う女性浮舟を描いた源氏物(宇治十帖記)である。
 旅僧が初瀬から上洛の途次、宇治で一人の里女に会い、浮舟の物語を聞く。里女は「自分は小野の里に住む者です」と言い、旅僧の訪問を期待して消え失せる。
 旅僧が比叡山の麓の小野で読経して弔っていると浮舟の霊が現れて宇治川に身を投げようとしたが物の怪に捕らえられ、苦しんで正気を失ったところを横川の僧都に助けられた次第を物語る。旅僧の回向で心の動揺も消え、都卒天に生まれ得ると喜び、礼を述べて消えて行くという雅びた幽玄味を持つ曲である。
「浮舟と古跡碑」は、浮舟の宿命と懊悩が伝わる供養塔として追慕の念が絶えない。



阿弥陀堂

三重塔


 本堂と浮舟古跡の間にある阿弥陀堂は、親鸞の父日野有範の墓だと伝えられています。寺伝では親鸞の娘覚信尼が祖父の有範の墓上に阿弥陀堂を建てて菩提を忌ったと伝えています。
 三重塔は、元禄17年(1704)建立、全高16メートル。もとは兵庫県佐用郡三日月村(現・佐用町)の高蔵寺にあったものを、明治43年(1910)に当寺が買い取って参道西方の丘上に移設、その後境内の現所在地(鐘楼の東隣)に移されたものです。



《 蜻 蛉 》

 蜻蛉(かげろう)の古跡は、源氏物語ミュージアム北側住宅地の北東に伸びる道を進み、京都翔英高校の手前の道を右折したところにある「かげろう石」がそれです。かげろう石は高さ2メートルほどの自然石で、それぞれの面には阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩と阿弥陀如来を拝む十二単を着た女性が彫られていて、平安後期の作と伝えられています。
 以下は宇治市教育委員会による「線刻阿弥陀三尊仏(かげろう石)」の説明です。

三尊仏の来迎を高さ206センチ、下部幅106センチの自然石に線彫りしている。
正面には定印をむすんで蓮華座上に結跏趺坐する阿弥陀如来、向かって右側には両手で蓮台をささげて坐る観音菩薩、そして左面には合掌して坐る勢至菩薩と往生者をあらわか十二単衣の女性像が刻まれている。
平安時代の作品と考えられ、俗にかげろう石とよばれいてる。


「蜻蛉」古跡──かげろう石


 宇治の山荘は、浮舟の失踪で大騒ぎとなった。事情をよく知る女房達は、入水を推察して、世間体を繕うため母を説得し、遺骸の無いまま泣く泣く葬儀を行った。薫君も匂宮も悲嘆の涙にくれたが、思いはそれぞれ違っていた。
 事情を知った薫君は、自らの恋の不運を嘆きながらも、手厚く四十九日の法要を営んだ。
 六条院では、明石中宮(あかしのちゅうぐうう)が光源氏や紫上のために法華八講(ほっけはっこう)を催された。都では、華やかな日々を送りながらも薫君は、大君や浮舟との「つらかりける契りども」を思い続けて愁いに沈んでいた。
 ある秋の夕暮、薫君は、蜻蛉がはかなげに飛び交うのを見て、ひとり言を口ずさむのだった。
   ありと見て手には取られず見れば又
   ゆくへも知らず消えし蜻蛉



《 手 習 》

 手習(てならい)の古跡は、宇治橋東語から府道京都宇治線を三室戸の方向に500メートルほど進んだ交差点にある「手習の杜」と彫られた石碑です。
 浮舟は宇治川に身を投げたあと、宇治院の森の大木の下で比叡山横川(よかわ)の僧都に助けられたのですが、この辺りがその場所として想定され、「手習の杜」とよばれていました。その昔、手習の杜には観音堂があり、安置されていた木造聖観音立像は「手習観音」とよばれ、地域の信仰を集めていたようです。平安時代後期の作品であるこの観音像は、江戸時代初期に興聖寺に施入され、今は宇治市の指定文化財になっています。


「手習」古跡──手習の社


 比叡山の横川に尊い僧都がいた。初瀬詣の帰りに急病で倒れた母尼を介護するために宇治へ来た。その夜、宇治院の裏手て気を失って倒れている女を見つけた。この女こそ失踪した浮舟であった。僧都の妹尼は、亡き娘の再来かと手厚く介抱し、洛北小野の草庵に連れて帰った。
 意識を取り戻した浮舟は、素性を明かそうともせず、ただ死ぬことばかりを考え泣き暮らした。
 やがて秋、浮舟はつれづれに手習をする。
   身を投げし涙の川の早き瀬を
   しがらみかけて誰かとどめし
 浮舟は尼達が初瀬詣の留守中、立ち寄った僧都に懇願して出家してしまう。やがて、都に上った僧都の口から浮舟のことは、明石中宮に、そして、それはおのずと薫君(かおるのきみ)の耳にも届くのであった。



《 夢 浮 橋 》

 夢浮橋(ゆめのうきはし)の古跡は、宇治橋西詰の宇治川旅館の横手にあります。昭和63年に現在の場所に石碑が建てられました。夢浮橋の古跡が宇治橋の袂にあるのは、「橋」に始まり「橋」に終わる宇治十帖最後の巻の古跡であるがゆえのことかも知れません。


「夢浮橋」古跡


 薫君は、小野の里にいるのが、浮舟であることを聞き、涙にくれる。そして僧都にそこへの案内を頼んだ。僧都は、今は出家の身である浮舟の立場を思い、佛罰を恐れて受け入れなかったが、薫君が道心(どうしん)厚い人柄であることを思い、浮舟に消息を書いた。
 薫君は浮舟の弟の小君(こぎみ)に、自分の文(ふみ)も添えて持って行かせた。
 浮舟は、なつかしい弟の姿を覗き見て、肉親の情をかきたてられ母を思うが、心強く、会おうともせず、薫君の文も受け取らなかった。
 小君は姉の非情を恨みながら、仕方なく京へ帰って行った。薫君はかつての自分と同じように、誰かが浮舟をあそこへかくまっているのではないかとも、疑うのだったとか。
   法(のり)の師とたづぬる道をしるべにして
   思はぬ山に踏み惑うかな



 夢浮橋の古跡のある宇治橋西詰は“夢浮橋ひろば”とも呼ばれているようです。平成15年12月に紫式部の像が建立されました。宇治川を背景にたたずむ式部の姿は、「橋姫」ではじまり「夢浮橋」で終わる「宇治十帖」を象徴するかのようでもあります。


夢浮橋ひろばに立つ紫式部像


 宇治橋西詰を起点とした古跡巡りは、再び出発地点に還ってきました。橋を渡り東詰にある通園茶屋にて、宇治川のせせらぎを聞きながら、冷たいものでのどをうるおし、今回の謡蹟巡りを終えることといたします。




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  (平成27年 9月27日・探訪)
(平成27年11月20日・記述)


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