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大和・在原神社 〈井筒〉


 2015年10月6日、『井筒』の謡蹟である在原寺跡である在原神社を訪れました。

在原神社探訪地図



 近鉄天理駅近くでレンタサイクルを借り、国道161号線を北上し、西名阪の高速道に沿って少し左に入ったところに、神社というより祠と言うほうがふさわしい在原神社が、わびしげにたたずんでおりました。げにも、

上歌「名ばかりは。在原寺ありはらでらの跡りて。在原寺の跡古りて。松も老いたる塚の草。これこそそれよき跡の。一叢ひとむらずゝきの穗に出づるはいつの名殘なるらん。草茫々ばうばうとして露しんしんと古塚の。まことなるかないにしへの。跡なつかしき氣色けしきかな跡なつかしき氣色かな


といった風情でありました。考えてみますに、ワキが訪れた当時からすでに在原寺の跡は荒廃していたわけですから、現在の状態もむべなるかなと感じた次第です?!


在原神社


 境内には「在原神社史蹟保存顕彰会」による説明札が数か所に立てられていますが、この「保存顕彰会」は現在ではほとんど機能していない模様で、説明の札も古びたままの状態です。
 境内の入り口付近に「在原寺」と刻された石柱が立っています。風化が進み“在”の字は見えづらくなっていました。
 以下は境内に建てられた、天理市教育委員会による説明書きです。

 在原神社が鎮座するこの地には、明治9年(1878)まで「在原寺」という寺院があり、本堂・庫裏・楼門などが並んでいました。在原寺の創立は承和2年(835)とも元慶4年(880)とも言われ、後車の説を採る『寛文寺社紀』には、在原業平の病没後にその邸を寺としたとの記述があります。在原寺の井筒を『伊勢物語』にみえる「筒井筒」の挿話の舞台とする伝承もここから生まれたとかんがえられます。
 在原業平(825~880)は平安前期を代表する歌人で、六歌仙にも選ばれています。従四位下右近衛権中将まで進み、在五中将とも呼ばれました。古今和歌集仮名序に「その心あまりてことばたらず」とあり、情熱的な和歌を得意とした一方、漢詩文は不得手だったようです。阿保親王は平城天皇の皇子で業平の父親にあたり、承和2年創立説では在原寺のの創立者ともされ、現在の在原神社にも業平とともに祀られています。
 現在の社殿は大正9年に改築されてものですが、みとは紀州徳川家が寄進した立派なものだったといわれ、遅くとも江戸中期には寺と神社が共存していたようです。


「在原寺」の標石

社殿
  

 上記の説明と若干重複しますが、以下は、天理市のホームページで紹介されている「在原寺跡」の記事です。

 和州在原寺の縁起によるとこの東の石上領平尾山に、光明皇后が開かれた補陀落山観音院本光明寺があり、本尊は聖武天皇御縁仏の十一面観音であった。第51代平城天皇の御子阿保親王はこの観音を信心して業平が生れたと称し、このため親王は承和2年(835)今の地に移し、本光明山補陀落院在原寺と称した。「寛文寺社記」によると元慶4年(880)5月28日業平が病没したので邸を寺にしたとある。天文23年(1554)三条西公条の『吉野詣記』には在原寺の記事が見え、延宝9年(1681)刊の『和州旧跡幽考』にも記され、江戸時代は寺領わずかに五石であったが、明治維新ごろまで本堂、庫裡、楼門などがあり、昔は、在原千軒と称せられたほど人家が建ち並んでいたという。在原寺は廃寺となり、本堂は明治初年に大和郡山市若槻の西融寺に移され、今は阿保親王と在原業平を祀る在原神社となっている。
 上街道から在原神社の入口に、在原寺という標石が建っているが、その裏面に在原神社と刻まれているのはその事情を物語っている。
 中将在原業平は、有名な歌人の一人であり、また絶世の美男子であったといわれる。業平の作という伊勢物語にのせられた歌物語の「筒井筒ゐづつにかけしまろがたけ過ぎにけらしな妹見ざるまに」の歌や、謡曲の「井筒」にちなんだ筒井筒のほか一むらの薄、石標などにその名残を留めている。

 ここ在原寺を舞台として展開されるのが『井筒』の物語です。
 それでは、まず謡曲『井筒』について考察いたします。

  

   謡曲「井筒」梗概
 『五音』に作曲者名なしにあげてあるから、世阿弥の作曲と考えてよく、作詞者も世阿弥と考えて誤りはないであろう。
 『伊勢物語』に典拠したもので、前後一貫して、井筒の女の業平へのひたむきの純真な愛情を描いている。背景となる秋の古寺の夜景が、主題にぴったりと密着している。
 諸国一見の僧が初瀬に赴く途中、在原寺の廃墟に立ち寄ると、一人の女が現れ、業平と紀有常の娘との筒井筒などの純愛物語を語った後、有常の娘とも井筒の女とも言われたのは自分であると名乗って、井筒の蔭に姿を消した。
 その夜の僧の夢に、業平の形見の冠と直衣(のうし)を身に着けて現れた有常の娘は、人待つ女とも言われたと業平への思慕の情を述べ、舞を舞う。舞い上げて井筒に姿を映せば、見えるのは“業平の面影”であった。

 

 『井筒』は秋の名曲です。以下は、井筒の女の業平への恋心を謡い上げた、クリ・サシ・クセの部分です。残念ながら能では居グセで、舞台前方に座ったシテの女は、クセが終わるまでそのままの姿勢を保ちますが、流麗な辞句と巧妙な節付は、型を必要とせず観衆を魅了するものがあります。


クリ 地「昔在原の中将。年て此處にいそかみりにし里も花の春。月の秋とて住み給ひし 
サシ シテ「その頃は紀の有常が娘とちぎり。いもの心淺からざりしに  地「また河内かはちの國高安たかやすの里に。知る人ありて二道ふたみちに。忍びて通ひ給ひしに  シテ「風吹けば沖つ白波しらなみ龍田山  地夜半よはにや君がひとり行くらんとおぼつかなみの夜の道。行方ゆくへを思ふ心とげてよその契りはかれがれなり  シテ「げになさけ知る。うたかたの  地「あはれをべしも。ことはりなり
クセ「昔この國に。住む人のありけるが。宿をならべてかどさき。井筒に寄りてうなゐ子の。友達かたらそて互に影を水鏡みずかがみおもてをならべ袖をかけ。心の水も底ひなく。うつる月日つきそも重なりて。おとなしく恥ぢがはしく。互に今はなりにけり。そののちかのまめ男。言葉の露の玉章たまづさの。心の花も色添ひて
シテ「筒井筒。井筒にかけしまろがたけ  地ひにけらしな。いも見ざるにと詠みて贈りける程に。その時女もくらべ來し振分髪ふりわけがみも肩過ぎぬ。君ならずして。誰かあぐべきと互に詠みし故なれや。筒井筒の女とも。きこえしは有常が。娘の古き名なるべし


 謡曲が典拠としているのは『伊勢物語』です。大成版一番本の前付にも紹介されていますが、『伊勢物語』代二十三段〈筒井筒〉を以下に。


 むかし、田舎わたらひしける人の子ども、井のもとに出でてあそびけるを、大人になりにければ、をとこも女も、恥ぢかはしてありけれど、をとこはこの女をこそ得めと思ふ、女はこのをとこをと思ひつゝ、親のあはすれども、聞かでなんありける。さて、この隣のをとこのもとより、かくなん。
   筒井つの井筒にかけしまろがたけ過ぎにけらしな妹見ざるまに
 女、返し、
   くらべこし振分髪も肩すぎぬ君ならずして誰かあぐべき
などいひいひて、つひに本意のごとくあひにけり。
 さて、年ごろ経るほどに、女、親なく頼りなくなるまゝに、もろともにいふかひなくてあらんやはとて、河内の国、高安の郡に、いきかよふ所出できにけり。さりけれど、このもとの女、悪しと思へるけしきもなくて、出しやりければ、をとこ、異心ありてかゝるにやあらむと思ひうたがひて、前栽の中にかくれゐて、河内へいぬる顔にて見れば、この女、いとよう化粧じて、うちながめて、
   風吹けば沖つ白浪たつた山夜半にや君がひとり越ゆらむ
とよみけるを聞きて、限りなくかなしと思ひて、河内へもいかずなりにけり。


 少しばかり謡曲から離れて古典の解釈問題となるのですが…。上記『伊勢物語』の、女の返歌「くらべこし振分髪も肩すぎぬ君ならずして誰かあぐべき」の解釈に関して、先輩の大角征矢氏からご教示いただきましたので、ご紹介します。
 通常の解釈では「あなたと長さを比べあってきた私の振分髪も、肩を過ぎるほどに伸びてきました。あなたでなくて誰のために髪上げいたしましょう」(秋山虔校注『竹取物語・伊勢物語』岩波書店・新日本古典文学大系、1997)となっており、私もこの解釈しか知りませんでした。ちなみに手元にある「渡辺実校注『伊勢物語』新潮社・身長日本古典集成、1976」もほぼ同様の解釈となっています。この解釈では「あなただけのために髪を結い上げる」のであって、「結い上げる人」は自分か、自分でやれなければ母親か髪結いさんにやってもらう事になります。ところが、これに対して「あなた以外の誰が(この私の長い黒髪を)結い上げてくれるでしょうか〉」という解釈があるのです。つまり「結い上げる人」は彼氏その人なのです。
 この後者の解釈は、現在我々が使っている観世流「大成版」の前の「昭和改本」にあります。すなわち、〈御身より外に夫と定むる人なければ、御身の手に触れて髪上げせんとの意〉とあるのです。また宝生流謡本講義の難語辞解も〈…この黒髪をば、君よりほかの男の手に触れさする心はない、どうぞ貴方がかき揚げてくだされよとの歌意〉とあるのです。私たちが現在使用している大成版の辞解では、残念なことにこの部分の解釈が示されていません。
 一般的なものとして、高校生を対象とした〈古文参考書〉を数冊ばかり比較してみましたが、二つの説がほぼ拮抗しておりました。またネット上の『伊勢物語』を扱ったサイトで両者の比較をしてみましたが、ほぼ半々に分かれていました。
 従来、当然と思いこんでいた解釈にも、まるで異なる解釈が存在しているとは、改めて驚いた次第です。


 歌の解釈を長々と論じましたが、『井筒』の謡蹟探訪です。
 境内で目に付くのが「筒井筒」の井戸。くたびれ果てたという風情で「筒井筒、井筒にかけし…」という歌のムードとは程遠い眺めではありますが…。


筒井筒


 井戸の傍らに、謡曲史蹟保存会の駒札が建てられています。

 在原業平は平城帝(題51代)の皇子阿保親王の五男で、兄の行平と共に在原姓を名乗って臣籍に入り右近衛中将となり歌人としても知られています。女性遍歴も多彩で「伊勢物語」のヒーローとされています。
 その業平と、昔契った井筒の女(実は紀有常の娘)が現れ、業平との在りし日の交情を物語るのが謡曲「井筒」です。
 謡曲の舞台となっている“大和国石上の在原寺の旧跡”が当所だといわれ、曲にゆかりの深い井筒の井の跡もかすかに残っています。
 曲名の井筒は井戸の地上の部分を木や石で囲んだもののことで、本来は円形ですが方形のものもあります。紀有常の娘が幼時、背丈をこの井筒で業平と計りあったといわれます。


 本殿の左手に「夫婦(めおと)竹」が、また境内の右手に「一むら薄」があります。


夫婦竹

一叢すすき


 本殿の右手に芭蕉の句碑が建てられていました。

  うぐひすを魂にねむるか矯楊(たをやなぎ)

 天和3年(1683)、芭蕉40歳の作。「柳の枝が眠っている。柳は春の鶯に自分が変化した夢を見ているのであろう」の意。矯柳はしなやかな柳。『荘子』斉物論篇にある荘周が蝶になった夢の故事を踏まえた句であろうということです。
 この句は、当地で詠まれたものなのでしょうか。あるいは『井筒』のキリの「古寺の松風や芭蕉葉の夢も」にかけて、芭蕉の句碑を建てたものでしょうか。


芭蕉句碑

本堂跡


 井戸の右手に「業平河内通いの恋の道」として、在原神社史蹟保存顕彰会の方の手で、在原寺から河内の高安まで、かつて業平が通ったであろう道筋が記載されていました。


業平道


 現在「業平道」と呼ばれている街道(?)です。この道筋には「業平姿見の井戸」や「業平橋」など、業平ゆかりの旧跡も残されている様子です。機会があれば、否、機会を作ってぜひ走破してみたいものです。

 最後に『井筒』のキリを鑑賞しながら、在原寺跡とお別れしたいと思います。

 

ワカ シテ此處ここに來て。昔ぞ返す。ありはらの  地「寺井に澄める。月ぞさやけき月ぞさやけき  シテ「月やあらぬ。春や昔とながめしも。何時いつの頃ぞや

ノル「筒井筒  地「つゝゐづゝ。井筒にかけし  シテ「まろがたけ  地ひにけらしな  シテ「老いにけるぞや  地「さながら見みえし。昔男の。かむり直衣なほしは。女とも見えず。男なりけり。業平の面影おもかげ
シテ「見ればなつかしや  地「我ながらなつかしや。亡婦ばうふ魄靈はくれいの姿はしぼめる花の。色なうてにほひ。殘りて在原の寺の鐘もほのぼのと。くれば古寺ふるてらの松風や芭蕉葉ばせうばの夢も。破れてめにけり.夢は破れ明けにけり




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  (平成27年10月 6日・探訪)
(平成27年11月26日・記述)


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