西大寺は山号を勝宝山と称し、本尊は釈迦如来。奈良七大寺の一つに数えられています。近鉄「大和西大寺駅」の南東、数分の位置にあります。以下は当寺のサイトによります。
天平宝字8年(764)9月11日、藤原仲麻呂(恵美押勝)の反乱の発覚に際して、孝謙上皇はその当日に反乱鎮圧を祈願して、『金光明経』などに鎮護国家の守護神として登場する四天王像を造立することを誓願されました。翌年の天平神護元年(765)に孝謙上皇は重祚して称徳天皇となり、誓いを果たして金銅製の四天王像を鋳造されました。これが西大寺のそもそものおこりです。それを皮切りに、父君の聖武天皇が平城京の東郊に東大寺を創建されたのに対し、その娘に当る称徳女帝の勅願によって宮西の地に本格的に当寺の伽藍が開創されたのです。
しかし、平安遷都後は旧都の寺として朝廷から次第に顧みられなくなり、また災害にも再三みまわれ、急速に衰頽し、平安中期以降はかつての繁栄も見る影もなく一旦さびれてしまうことになりました。
このように荒廃した西大寺を鎌倉時代半ばに再興したのが、興正菩薩叡尊上人(1201~90)です。叡尊上人は「興法利生」をスローガンに戒律振興や救貧施療などの独自な宗教活動を推進し、当寺はその拠点として繁栄しました。西大寺は叡尊上人の復興によって密・律研修の根本道場という全く面目新たな中世寺院として再生することになったのです。その後、室町時代には文亀2年(1502)の兵火により多くの堂塔を失うことになりましたが、江戸時代になってから諸堂の再建が進み、ほぼ現状の伽藍となりました。
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西大寺伽藍配置図
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西門から境内へ入ります。古刹の山門といえば重厚な楼門や仁王門が常ですが、当寺のそれは普通の民家の門を、少し立派にした程度のものです。
右手にある四王堂は、西大寺創建の端緒となった称徳天皇誓願の四天王像を祀るお堂です。たびたびの火災で焼失し、現在の堂舎は江戸前期の延宝2年(1674)に再建されたものです。現在安置されている四天王像も鎌倉期以降の再造ですが、その足下に踏まれた邪鬼は奈良時代の創建当初のものです。
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西門
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四王堂
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境内を進むと、右手に重要文化財に指定されている本堂があります。もともと東塔跡北方に中世に建てられた光明真言堂の後身で、寛政年間に完成したものです。江戸中期の土壁を用いない独特の建築技法による奈良市屈指の巨大な近世仏堂です。
本堂の前に巨大な東塔の跡が遺されています。西大寺東西両塔は当初、八角七重塔として設計されましたが、奈良時代末期の緊縮財政の中で縮小され、実際には四角五重塔として創建されたものの、その両塔も延長6年(928)に雷火でいずれかが焼失したと伝えられています。その後、平安末期に修造されましたが、1502年に焼亡し、その後は再建されないまま塔跡のみが遺っています。
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本堂
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東塔跡
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四王堂の前の池畔の柳が「百萬の古柳」です。謡曲では曲頭にワキが、名ノリで「これは和州三吉野の者にて候。又これに渡り候幼き人は。南都西大寺の辺にて拾ひ申して候」と述べています。その場所がここだというわけです。
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百萬の古柳
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以下は、当寺と関西吟詩文化協会による「百萬古柳の由来」とする説明書きです。
観世流謡曲に百萬(別名嵯峨物狂)と題し世阿弥元清作とあり。昔奈良に百萬という女曲舞(一説には春日大社巫女という)在って、我が愛兒(男子)を連れ西大寺念仏会に詣でたる時、我が兒を見失いしは此の古柳の附近なりと。百萬は佛の加護を念じ、念佛を稱えつゝ八方我が兒を覓めて徊い、遂に狂女となる。しかし後日、嵯峨清凉寺の大念仏会に於て再開することを得て、法の力ぞありがたしと愛兒諸共都へ歸りたると。
実話か傳説か定かならざるも、雅曲に本づきその大略を記し、以て由来書となせるなり。因に愛兒は他年名僧となり、十遍上人と号して清凉寺の住僧となりしと記録にも見えたり。右側の碑は此の憐れなる百萬を詠じた詩を勒したるものなり。
由来書きによれば、古柳の右手に百萬を詠んだ詩碑があったようですが、うっかりと失念してカメラに収めそこなっておりました。
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