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大和・西大寺 〈百萬〉


 2015年12月9日、奈良西大寺を訪れました。西大寺の境内には「百萬の古柳」の古跡が遺されています。謡曲『百萬』の舞台となっているのは、京都嵯峨野の清凉寺ですので、近い将来清涼寺に参詣したいとて考えていますが、『百萬』の謡蹟探訪の手始めとして、百萬がその子を失ったとされる当寺と、その住まいであったといわれる奈良市内の西照寺を訪れました。
 それでは、まず謡曲『百萬』について考察いたしましょう。


   謡曲「百萬」梗概
 『申楽談義』に「世子作」とあるので、作者は世阿弥であろう。ただし『三道』によれば「昔の嵯峨物狂の狂女、今の百萬、これなり」とあり、昔の『嵯峨物狂』をもとにした能だといえよう。『嵯峨物狂』すなわち「嵯峨の大念仏の女物狂」は、観阿弥の最も得意とした能の一つであり、作者も観阿弥であった可能性がある。 

 都の者が、奈良西大寺で拾った少年を伴い、嵯峨の大念仏に参会するため、清涼寺に赴く。そこに一人の狂女が現れ、念仏の音頭をとり、笹を持って舞い、我が子に逢わせ狂気を止め給えと祈る。これを見た少年は、この女が母親であることを知り、攣れの男は女に来歴を尋ねる。
 女は、奈良の都の百萬という者で、ただ一人の子に生き別れ狂乱となったと答える。男は憐れに思い、信心に私信がなければ逢えないものでもないと言うと、女は法楽の舞を舞ううちにも、子供を尋ねて迷い歩いた様子を見せる。舞が終り少年を引き合わせると、夢かと驚き、これも法の力であると喜んで、ともに故郷に帰っていった。

 本曲のクセは、地謡の次第が始めにあり、クセの最後を次第と同文句とし、さらに二段グセとする、『申楽談義』に説く曲舞の基本が守られている。同様の形式を持つ作品には『歌占』『杜若』『山姥』『東岸居士』がある(ただし『東岸居士』のクセは一段である)。
 この『百萬』の長大なクセでは、みずからの遍歴を、リズミカルな地謡とともに舞って見せるのであるが、当初は“地獄の曲舞”を舞っていたが、後に世阿弥が現行の曲舞と入れ替えたものである(“地獄の曲舞”は現行の『歌占』に取り入れられている)。
 本曲のモデルは、南北朝時代に流行した曲舞の名手で、百萬と呼ばれる奈良在住の女曲舞舞いである可能性がある。狂女物ではあるが「これかや春の物狂ひ」という通り、全体に春の明るく華やかな雰囲気の感じられる曲である。


 西大寺は山号を勝宝山と称し、本尊は釈迦如来。奈良七大寺の一つに数えられています。近鉄「大和西大寺駅」の南東、数分の位置にあります。以下は当寺のサイトによります。

 天平宝字8年(764)9月11日、藤原仲麻呂(恵美押勝)の反乱の発覚に際して、孝謙上皇はその当日に反乱鎮圧を祈願して、『金光明経』などに鎮護国家の守護神として登場する四天王像を造立することを誓願されました。翌年の天平神護元年(765)に孝謙上皇は重祚して称徳天皇となり、誓いを果たして金銅製の四天王像を鋳造されました。これが西大寺のそもそものおこりです。それを皮切りに、父君の聖武天皇が平城京の東郊に東大寺を創建されたのに対し、その娘に当る称徳女帝の勅願によって宮西の地に本格的に当寺の伽藍が開創されたのです。
 しかし、平安遷都後は旧都の寺として朝廷から次第に顧みられなくなり、また災害にも再三みまわれ、急速に衰頽し、平安中期以降はかつての繁栄も見る影もなく一旦さびれてしまうことになりました。
 このように荒廃した西大寺を鎌倉時代半ばに再興したのが、興正菩薩叡尊上人(1201~90)です。叡尊上人は「興法利生」をスローガンに戒律振興や救貧施療などの独自な宗教活動を推進し、当寺はその拠点として繁栄しました。西大寺は叡尊上人の復興によって密・律研修の根本道場という全く面目新たな中世寺院として再生することになったのです。その後、室町時代には文亀2年(1502)の兵火により多くの堂塔を失うことになりましたが、江戸時代になってから諸堂の再建が進み、ほぼ現状の伽藍となりました。


西大寺伽藍配置図


 西門から境内へ入ります。古刹の山門といえば重厚な楼門や仁王門が常ですが、当寺のそれは普通の民家の門を、少し立派にした程度のものです。
 右手にある四王堂は、西大寺創建の端緒となった称徳天皇誓願の四天王像を祀るお堂です。たびたびの火災で焼失し、現在の堂舎は江戸前期の延宝2年(1674)に再建されたものです。現在安置されている四天王像も鎌倉期以降の再造ですが、その足下に踏まれた邪鬼は奈良時代の創建当初のものです。


西門

四王堂


 境内を進むと、右手に重要文化財に指定されている本堂があります。もともと東塔跡北方に中世に建てられた光明真言堂の後身で、寛政年間に完成したものです。江戸中期の土壁を用いない独特の建築技法による奈良市屈指の巨大な近世仏堂です。
 本堂の前に巨大な東塔の跡が遺されています。西大寺東西両塔は当初、八角七重塔として設計されましたが、奈良時代末期の緊縮財政の中で縮小され、実際には四角五重塔として創建されたものの、その両塔も延長6年(928)に雷火でいずれかが焼失したと伝えられています。その後、平安末期に修造されましたが、1502年に焼亡し、その後は再建されないまま塔跡のみが遺っています。


本堂

東塔跡


 四王堂の前の池畔の柳が「百萬の古柳」です。謡曲では曲頭にワキが、名ノリで「これは和州三吉野の者にて候。又これに渡り候幼き人は。南都西大寺の辺にて拾ひ申して候」と述べています。その場所がここだというわけです。


百萬の古柳


 以下は、当寺と関西吟詩文化協会による「百萬古柳の由来」とする説明書きです。

観世流謡曲に百萬(別名嵯峨物狂)と題し世阿弥元清作とあり。昔奈良に百萬という女曲舞(一説には春日大社巫女という)在って、我が愛兒(男子)を連れ西大寺念仏会に詣でたる時、我が兒を見失いしは此の古柳の附近なりと。百萬は佛の加護を念じ、念佛を稱えつゝ八方我が兒を覓めて徊い、遂に狂女となる。しかし後日、嵯峨清凉寺の大念仏会に於て再開することを得て、法の力ぞありがたしと愛兒諸共都へ歸りたると。
実話か傳説か定かならざるも、雅曲に本づきその大略を記し、以て由来書となせるなり。因に愛兒は他年名僧となり、十遍上人と号して清凉寺の住僧となりしと記録にも見えたり。右側の碑は此の憐れなる百萬を詠じた詩を勒したるものなり。

 由来書きによれば、古柳の右手に百萬を詠んだ詩碑があったようですが、うっかりと失念してカメラに収めそこなっておりました。



 次いで、百萬親子が住んでいたという、奈良市内の今辻子町にある西照寺(さいしょうじ)を訪ねました。
 西照寺へは、近鉄奈良駅の西出口から南下し、三条通を西へ、JAアンテナショップのある小路を右折し、て北へ数十メートルのところで更に右折した突き当りの袋小路にあります。開化天皇陵の南の端になりますが、少々分かりづらい場所でした。


西照寺界隈地図


 門前の通りは行き止まりになっており、下記の由緒書にあるように、境内は狭く、民家かと思われる本堂の前に、徳川家康の墓碑と百萬の供養塔が並んでいます。以下は当寺の由緒書きです。

 西照寺は、はじめは禅松庵(ぜんしょうあん)という真言律宗の草庵で西大寺の叡尊(えいそん)上人(1201~90)が下三条の地に開基したと伝えられている。その後、弘治2年(1556)興福寺別当より西照寺の称号を賜り、当寺中興の祖、英誉良阿(えいよりょうあ)上人が浄土宗に改め現在地に諸堂を建立した。
 江戸時代は幕府の帰依も深い寺院であったが、明治以後寺地は狭まり昔日の面影はなくなった。現在の堂宇は昭和29年、前住職授誉見誠和尚が再建したものである。なお、現在の宗旨は浄土宗の本山から離れた単立浄土宗である。当寺のご本尊は腹帯を巻いた阿弥陀様であり、また徳川家康公と由緒が深く、その位牌と墓碑が現存する。


西照寺

百萬供養塔(左)と徳川家康公墓碑


 以下、百萬供養塔についての説明です(当寺パンフレットより)。

 当寺門前の通りは現在行き止まりになっているが、明治までは東側の林小路町(はやしこうじちょう)に通じており、百萬ヶ辻子町(ひゃくまんがづしちょう)とよばれ、百萬親子が住んでいたという。この石塔も はじめは百萬屋敷跡にあったがいつの頃からか当寺境内に安置されるようになった。
 百萬とは女性の名で春日大社の巫女で一男児があった。ある日西大寺の念仏会に親子で詣でたがあまりの混雑に我が子十萬を見失った。その後は狂女となって必死に十萬を求め歩き、京都嵯峨の清涼寺の念仏会で遂に我が子にめぐり会い、奈良に戻り親子睦まじく暮らし、やがて十萬は唐招提寺の道浄上人になったとも、清涼寺の十遍上人になったともいわれる。この話は観阿弥が能楽に仕立て、有名になった。素朴な五輪塔に狂女の舞姿を偲んでいただけるであろうか。

 説明では“素朴な五輪塔”と記されていますが、右側の家康の墓碑に比べると、相当でっぷりとした造りになっています、百萬はかなり“太め”の女性であったものでしようか?!
 また徳川家康の墓碑に関して、当寺中興の良阿上人の父が今川義元であり、家康とは遠縁に当たること、また奈良の昔話の「家康と桶屋」の舞台が当寺付近であったことなどが、その理由ではないかとしています。その「家康と桶屋」の話とは…。

 徳川家康が大阪冬の陣で形勢不利となり豊臣方の真田幸村率いる軍勢に追われ、奈良まで逃避したが、たまたま当地付近の桶屋が作っていた桶の中にかくまってもらい九死に一生を得た。その恩に報いるため、桶屋をはじめ近隣の社寺に寄進したという話。
 桶屋の桶に隠れたという話は静岡県浜松市天竜区佐久間町にも伝わっている。


 さて、百萬は愛する子を失い、狂女となって我が子を求めて徘徊します。そして奈良の都を後にして、奈良坂を越え山城に入り嵯峨野の寺の大念仏に参ります。この過程を謡曲では、長大な二段グセに謡っています。

  

クセ「奈良坂の。兒手柏このてがしは二面ふたおもて。とにもかくにも侫人ねぢけびとの。き跡の涙越す。袖のしがらみひまなきに。思ひ重なる年なみの。流るゝ月の影惜しき。西の大寺おほてら柳蔭やなぎかげみどり子の行方ゆくへ白露の。置き別れて何地いづちとも知らず失せにけり。一方ひとかたならぬ思ひ草。葉末はずゑの露も青丹あをによし。奈良の都を立ち出でゝ。かへり三笠山。佐保さほの川をうち渡りて。山城やましろに井出の里玉水は名のみして。影うつす面影淺ましき姿なりけり。かくて月日を送る身の。ひつじの歩み隙の駒。足にまかせて行く程に。都の西と聞えつる。嵯峨野さがのの寺に參りつゝ。四方よもの景色をながむれば

 

 百萬は奈良坂を越え、山城に入り、木津から井出を通過して京に入ったものでしょう。
 現在の東大寺の転害門から国道369号線に沿って北上し、般若寺の交差点で佐保川を渡り県道754号線に入ります。この般若寺坂が奈良坂の南端にあたるようです。坂を下って梅谷口の交差点を過ぎると、やがて木津川市へとつながります。
 写真の“佐保川”は、百萬の渡ったところとは異なると思いますが、近鉄奈良駅から北上し、奈良女子大学の北側の佐保橋のところで撮影したものです。


般若寺坂

佐保川


 百萬は月日を重ね嵯峨野に到着いたしました。私も早く機会を見つけて嵯峨野清凉寺に参詣し、百萬の足跡を訪ねたいと思います。

 なお余談ですが、謡曲に関するクイズて「一番重い舞は…?」というのがあります。尋ねられた方は、位の重い舞かと思って、「神舞かな?、いや真ノ序之舞だろうか」などと考えるのですが、答えは何と「百萬の舞」だというのです。その心は、本曲の地次第で「親子鸚鵡の袖なれや百萬が舞を見給へ」の「百萬が」のところが「ひゃくまんがン」という節付けになっており、あたかも「百萬貫」と聞えるので、これが最も“(重量の)重い”舞だというわけです。




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  (平成27年12月 9日・探訪)
(平成27年12月23日・記述)


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