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奈良・猿沢の池 〈采女〉


 2015年12月9日、午前中に西大寺と奈良市内の西照寺に『百萬』の謡蹟を訪ねました。西照寺から三条通を西に進むと猿沢池に到達します。池の西北端に「采女神社」が鎮座していますが、神社とは名ばかりの小さな祠でありました。社の三条通側に神社の由来が板書されているのですが、かなり薄汚れたもので、侘びしさを否めませんでした。
 神社の祭神は采女命。祭礼は旧暦の8月15日の仲秋の名月に催行されるようです。以下は由緒書の内容です。

 奈良時代、天皇の寵愛が薄れた事を嘆いた采女(女官)が猿沢の池に身を投げ、この霊を慰める為祀られたのが采女神社の起こりとされる。入水した池を見るのは忍びないと、一夜のうちに御殿が池に背を向けたと伝えられる。例祭当日は采女神社本殿にて祭典が執行され、仲秋の名月の月明りが猿沢の池に映るころ、龍頭船に花扇を移し、鷁首(げきす)船と共に二隻の船は幽玄な雅楽の調べの中、猿沢の池を巡る。


采女神社


 社の正面には、“謡曲「采女」と采女への哀悼歌”として、謡曲史蹟保存会の駒札が建てられています。

 諸国一見の旅僧が奈良春日明神に参詣すると、一人の里女が来て、当社の由来を語り、なお僧を誘って猿沢の池へ行き、昔帝の寵愛を受けた采女が帝の御心変わりを恨んでこの池に入水した事を語り、自分はその幽霊であるといって、池の中に入る。僧は池の辺で読経回向していると、采女が現れて、成仏を喜び、采女についての逸話を語り、歌舞を奏して再び池に消えた。という大和物語の筋である。
    采女への哀悼歌
  我妹子(わぎもこ)が寝くたれ髪を猿沢の池の玉藻と見るぞかなしき  (人麻呂)
 (あのいとしい乙女のみだれ髪を猿沢の池の藻と見るのは悲しいことだ)
  猿沢の池もつらしな我妹子が玉藻かつかば水もひなまし  (帝)
 (猿沢の池を見るのは恨めしい。あのいとしい乙女が池に沈んで藻の下になっているのなら、いっそ水が乾いてしまへばよかったのに)


猿沢の池


 前の記述と若干重複しますが、謡曲『采女』について考察いたしましょう。


   謡曲「采女」梗概
 春日大社の縁起と仏法のありがたさを示し、また猿沢の池に身を投げた采女の悲劇を語る。『大和物語』によったもので、世阿弥の作と考えられる。


 頃は三月、奈良を訪れた旅僧が春日神社に詣でると、木の葉を手にした若い女性に出会う。女は神社の縁起を語り、一行を猿沢の池へ案内し、その昔、天皇に仕えその心変わりを恨み身を投げた采女のことを物語る。そして自分は采女の霊である旨を告げ、水中へ消える。
 僧が弔ううち、采女の霊が現われ。往時のありさまを語り、舞を舞い、ふたたび水底へと消えて行った。
 春日神社の縁起と采女の物語という、異なる二つの内容をないまぜにしたため、主題に一貫性を欠くが、それがかえってすがすがしい哀愁感をたたえる効果を上げている。同じ前場に、春日神社の由来と采女の入水について、シテの〈語り〉が二つ入っていることも特異である。

 クセの終わり近く、昔を回顧して謡われる、地謡の「とりわき忘れめや…」の一節が、序之舞への橋渡しのごとく添えられているのも特色がある。
 上述したように、謡曲『采女』は、春日大社の縁起と采女の伝説という二つにテーマから成り立っている。そして采女の伝説については、入水した悲恋の采女の物語と、陸奥国の葛城王の物語の、二つの伝説がある。
 観世流にある小書「美奈保之伝(みなほのでん)」は、テーマを采女の入水のみに絞ったもので、通常では2時間を超える長大なものが30分弱短縮整理されており、この小書付きでの演出が多く採用されている。この小書付きの場合、
 ①前シテ登場の〈次第〉(サシ)(下歌)(上歌)(初同)が抜けて、ワキの着きセリフの後、シテは「なふなふあれなる御僧。… さもあらば名所旧跡教へ申し候はん」と〈呼掛〉で登場し、問答の後すぐにワキを猿沢の池に案内する。
 ②後場の〈初同〉の「…采女とな思ひ給ひそ」で〈打切〉が入るか(?)
 ③〈クリ〉の前で〈打切〉り、〈クリ〉〈サシ〉〈クセ〉を省略し、〈裾クセ〉「とりわき忘れめや」に飛ぶ。このとき「とりわき忘れめや」を「さるにても忘れめや」と替える。 
 ④序之舞は終始足拍子を踏まず、身を沈める型とし、袖を返す型も演じない。入水した采女にちなみ、終始水のイメージで統一された演出といえよう。
 なお「みなほ」は、他に用例がなく語義未詳であるが「水面」という意味らしいとされている。万葉流の借音仮名表記である。この小書を作ったといわれる十五代観世元章一流の万葉嗜好によるものであろうか。


 春日大社の縁起については、春日大社の項で考察いたします。謡曲で語られる入水した采女の物語は『大和物語』に、陸奥国の葛城王の物語は『万葉集』に、それぞれ資材を求めたものとされています。まず『大和物語』にある「入水した采女の物語」について、謡曲とは若干異なる部分もあるようですので、調べてみたいと思います。第百五十「猿沢の池」の段です。


 むかし、ならの帝に仕うまつるうねべありけり。顔かたちいみじう清らにて、人々よばひ、殿上人などもよばひけれど、あはざりけり。そのあはぬ心は、帝をかぎりなくめでたきものになむ思ひたてまつりける。帝召してけり。さてのち、またも召さざりければ、かぎりなく心憂しと、思ひけり。夜昼心にかかりておぼえたまひつつ、恋しう、わびしうおぼえたまひけり。帝は召ししかど、ことともおぼさず。さすがに、つねには見えたてまつる。なほ世に経まじき心地しければ、夜、みそかにいでて、猿沢の池に身を投げてけり。かく投げつとも、帝はえしろしめさざりけるを、ことのついでありて、人の奏しければ、聞しめしてけり。いといたうあはれがりたまひて、池のほとりにおほみゆきしたまひて、人々に歌よませたまふ。かきのもとの人麻呂、 
   わぎもこがねくたれ髪を猿沢の池の玉藻と見るぞかなしき
とよめる時に、帝、
   猿沢の池もつらしなわぎもこが玉藻かづかば水ぞひなまし
とよみたまひけり。さて、この池に墓せさせたまひてなむ、かへらせおはしましけるとなむ。


 上記の『大和物語』では「わぎもこがねくたれ髪を猿沢の池の玉藻と見るぞかなしき」の歌は柿本人麻呂の哀悼の歌ですが、謡曲では、シテの采女の霊の詞章に
 されば天の帝の御歌に。吾妹子が寝ぐたれ髪を猿沢の。池の玉藻と見るぞ悲しきと。詠める歌の心をば。知ろし召され候はずや
とあり、帝の歌として用いています。『大和物語』にある「ならの帝」が誰であったかは、文武・聖武・平城天皇との諸説があり、特定できないようですが、上記の歌について『南都七大寺巡礼記』では平城天皇の作としており、『采女』における帝が平城天皇である可能性が大といえるかも知れません。ただし柿本人麻呂と同時代の帝とするならば、少し時代が一致しないかもしれません。

 次に、采女に関する二つの物語のうち、陸奥国の葛城王の物語は、クセに述べられています。

  

サシ シテ「然れば君に仕へびと。その品々しなじなの多き中に  地「わきて采女の花衣の。うら紫の心を碎き。君辺くんぺんに仕へ奉る  シテ「されば世上にその名を廣め  地なさけ内に籠り言葉ほかあらはるゝためし。世を以つてたぐひ多かりけり
クセ葛城かづらきおほきみ。勅に從ひ陸奥の。忍捩摺しのぶもぢずり誰も皆。事もおろそなりとて設けなどしたりけれど。なほしもなどやらん王の心けざりしに。采女なりける女のかはらけ取りし言の葉の露のなさけに心解け。詠感えいかん以つてはなはだし。されば安積山あさかやま。影さへ見ゆる山の井の。淺くは人を思ふかの。心の花ひらけ。風も治まり雲静かに。安全あんせんをなすとかや
シテ「然れば采女のたはむれの  地色音いろねに移る花鳥の。とぶさに及ぶ雲の袖。影もめぐるや盃の。御遊ぎよいう御酒みきのをりをりも。采女のきぬの色添へて。大宮人の小忌衣をみごろも。櫻をかざすあしたより。今日も呉織くれはとり聲のあやをなす舞歌ぶかの曲。拍子をそろへ。袂を翻して。遊樂いうがく快然くわいぜんたる采女のきぬぞ妙なる

 

 采女は天皇の食事に奉仕した後宮の女官で、地方の豪族の子女で容姿の美しい者が選ばれました。奉仕の期限が終った采女たちは、故郷に帰った者も多くいたと想像されます。
 上記の「浅香山影さへ見ゆる…」の歌は、万葉集 3807 にあります。
  安積香山影さへ見ゆる山の井の淺き心をわが思はなくに
 この歌の左註に記されているのが、クセに述べられている故事なのです。すなわち、

右の歌は、傳へて云はく、葛城王陸奥國に遣さえし時に、國司の祇承の緩怠なること異に甚し。時に、王の意に悦びず、怒の色面に顯る。飲饌を設くと雖も、肯へて宴樂せず。ここに前の采女あり、風流の娘子なり。左の手に觴を捧げ、右の手に水を持ち、王の膝を撃ちて、この歌を詠みき。すなはち王の意解け悦びて、樂飲すること終日なりきといへり。

「葛城王(橘諸兄とする説が有力)が陸奥に遣わされた時、国司の接待がまことにお粗末だったため、王の機嫌はよろしくなく、憤懣の気持ちが顔に現れていた。そこに以前都で采女として仕えていた女が盃を手にして進み出で、王の膝を打ちながらこの歌を詠んだ。それにより王のわだかまりは解け、歓を尽くす宴となった」という次第です。采女は宮廷の宴席に奉仕していたので、こうした場の取りなしには慣れていたことでしょう。
 この挿話は“采女”がどのような業務(?)に携わっていたかをよく表していると思われます。


采女まつり

悲恋の采女と衣掛柳の伝説


 池のほとりには「猿沢池こんなお話し」として、猿沢の池にまつわる伝承が、美しい絵入りで紹介されています。
 まず「采女まつり」について。

 猿沢池の北西に、池を背にした「采女神社」(春日大社の末社)の仲秋の明月の祭礼。
 時の帝の寵愛の衰えたのを苦に、月夜にこの池に身を投げた采女の霊を慰めるお祭りで、花扇奉納の行事がある。
 王朝貴族が七夕の夜、秋草で飾った花扇を御所に献じ、庭の池に浮かべて風流を楽しんだ故事による。
 数十人の稚児がひく花扇車や十二単の花扇使が、御所車で市内をねり、明月が姿を現すころ竜頭船に花扇を移し、管弦船からの雅楽の調べとともに池を二周、花扇は水面に浮かべられる。

 続いて「悲恋の采女と衣掛柳の伝説」です。

「昔、平城の帝に仕え奉る采女あり。顔かたちいみじう清らかにて、人々よばひ、殿上人などもよばひけど、あはざりけり。そのあはぬ心は、帝を限りなくめでたきものになん思ひ奉りける……云々」(大和物語より)
 しかし常なきものは男女の仲、やがて帝の寵愛の衰えたことを嘆いて、采女は身を投げてしまいました。そのとき衣を掛けたのが、衣掛け柳といわれています。
 これを不憫に思われた帝が、采女の霊を慰められたのが、池の北西の采女神社です。采女の古里、福島県郡山市にも采女の霊を祭る采女神社があります。この歴史の縁により、奈良市と郡山市は姉妹都市提携を結んでいます。

 猿沢の池の近くにある奈良下御門郵便局の風景印には采女祭りの様子が、また福島県郡山郵便局の風景印には采女が描かれています。奈良中央郵便局の風景印にも猿沢池が描かれていますので、併せてご紹介します。



猿沢池に浮かぶ花扇と官女を
乗せた龍頭船と国宝五重塔を
描く奈良下御門局風景印

安達太良山の遠景にうねめ
祭りのうねめと花かつみを
描く郡山局風景印

猿沢池から興福寺五重
塔を望み鹿を配した
奈良中央局風景印


 池の東端には、采女の衣掛け柳と采女地蔵、および九重塔があります。
 この采女の故事は『枕草子』にも取り上げられていました。その第35段。(渡辺実・校注「枕草子」岩波書店・新日本古典文学大系、1991)

 さるさはの池は、うねべの身なげたるを聞しめして、行幸などありけんこそ、いみじうめでたけれ。ねくたれ髪を、と人丸がよみけん程など思ふに、いふもおろか也。


衣掛柳と九重塔


 写真で見ると、バックに写っているホテルが、いささか邪魔になりますね?!
 逆光で見えにくいのですが、九重塔の下部には地蔵像の彫物があります。塔の手前にも「采女地蔵」が建てられているのですが、九重塔が采女の供養のために建てられ、その後、前方の地蔵が建てられたものではないでしょうか。
 塔の右手に「きぬかけ柳」の碑と、柳が一枝植わっています。恐らく本来の古柳は枯れ果て、第?代目かの柳として新たに植えられたものでしょう。


衣掛柳と「きぬかけ柳」の碑

九重塔と采女地蔵


 猿沢の池から興福寺への石段の下に会津八一の歌碑がありました。

  わぎもこがきぬかけやなぎみまくほり いけをめぐりぬかささしながら

 すべて仮名書きなのですが、
  吾妹子が衣掛柳見まくほり 池を巡りぬ傘さしながら
という歌なのでしょう。八一が衣掛柳を求めて池を巡った時は、あいにくの雨だったようですね。


会津八一歌碑

猿沢の池から興福寺五重塔を望む


 実は、猿沢の池はもっと濁っており、亀が浮かぶ泥臭い池だと想像していたのですが、きれいに澄んだ水面には、興福寺の五重塔が映え、絶好のデートスポットといえそうです。
 悲恋の采女を悼みつつ、猿沢の池に別れ、春日野から春日大社へと足を運びました。




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  (平成27年12月 9日・探訪)
(平成28年 1月21日・記述)


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