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奈良・春日野

〈野守・春日龍神・大仏供養〉


春日野謡蹟探訪地図



 猿沢の池に采女の謡蹟を訪ねた後、奈良公園から春日大社に向かいました。
 三条通を東に進むと春日大社の一の鳥居があり、ここから急に参拝者(観光客?)の姿が増えてきたように感じられます。おまけに外国人の多いこと。その上、あまり姿を見せなかった鹿が参道に現れて、参拝客に餌をせびります。若い女性や外国人の、驚き、喜ぶ声があたりにひびいております。
 人ごみを避けるように、参道からそれて右手の散策路に入ります。鷺池を廻り浮見堂でしばし休息いたしますが、この方面はさすがに外人の姿もなく、なんとなく落ち着いた気分になるのが不思議です。


春日大社一の鳥居

鷺池の浮見堂


 大仏殿に通ずる自動車道を越えると、この辺りがいわゆる“飛火野”と呼ばれるところになるのでしようか。枯草などを積み上げて烽火をあげ、外敵に備えたことを「飛ぶ火」といい、烽火の番人を「飛ぶ火の野守」といったようです。参道近く、車道に面して小さな池というより水たまりがありますが、ここが「雪消之沢(ゆきげのさわ)」で、大成版一番本の前付では『野守』の謡蹟とされています。


雪消之沢


   謡曲「野守」梗概
 野守の鏡の故事を、いろいろな角度から変化をつけて舞台化したもので、世阿弥の作。藤原清輔の『奥儀抄』や、顕昭法橋の『袖中抄』によったもの。
 『奥儀抄』には「はしたかの野守の鏡得てしがな思ひ思はずよそながら見む。野守の鏡とは野なる水を謂ふなり。昔雄略天皇狩し給ひけるに、御鷹の失せにければ、野守を召して尋ねて参らせよと仰せられけるに、畏りて、地を守らへて、御鷹は彼の木の上に侍ると申しければ、地を守りてはいかにかくは申すぞと問はれければ、それより云ひ始めたるなり。云々」とあり、また『袖中抄』には「野守の鏡とは、野を守りける鬼のもたりける鏡なり。人の心の中を照らし、いみじき鏡と聞きて、国王の召すに、鬼惜み申しければ、野を焼き払はむとし給ひける時に、国王に奉りたる鏡なり。云々」と見える。

 羽黒山の山伏が、大和の葛城山に向かう途中、春日野にやってきて、野守の老人に逢う。山伏は老人に野中にある清水の名を尋ねたところ、野守の姿を映すので「野守の鏡」と称しているが、まことの「野守の鏡」というのは、昔この野に棲んでいた鬼神の持つ鏡のことである、という謂れを聞く。さらに、昔御狩のあった時、御鷹の影がこの水に映り、その行方が判ったので、はし鷹の野守の鏡云々と歌にも詠まれた、などと語る。山伏が、真の野守の鏡を見たいものだと言うが、老人は鬼の持つ鏡は恐ろしいので、この水鏡を見よと言って姿を消す。
 夜になって鬼神が現われ、天上界から地獄の底までを映して見せた後、奈落の底へと消え失せるのである。


 能の鬼には、人間の執心や怨霊が鬼となった、形は鬼であるが心は人間である、砕動風(さいどうふう)の鬼と、地獄から出現した形も心も純然たる鬼神である、力動風(りきどうふう)の鬼の二種類がある。『野守』の鬼は後者の力動風鬼であるが、前場は『古今和歌集』巻一に収める古歌「春日野のとぶひののもりいでてみよ今いくかありてわかなつみてん(春哥上19)」をはじめとして、題材を和歌説話にとり、詩的な香気を漂わせている。その対照の妙が本曲の特色といえよう。


 『野守』の主人公は“鬼神”です。そして本曲には“鬼神”という言葉が、それこそいやになる程出てきます。以下に、後シテの出から〈舞働〉に至る詞章を眺めてみましょう。


後シテ「ありがたや。天地を動かし鬼神きしんを感ぜしめ  地土砂どしや山河さんか草木さうもく  シテいちぶつ成道じやうだう法味ほふみに引かれて  地鬼神きじん横道わうだう曇りなく。野守の鏡は。現れたり
ワキ「恐ろしや打火うちびかかやく鏡のおもてに。映る鬼神きじんまなこの光。おもてを向くべきやうぞなき  シテ「恐れ給はゞ歸らんと。鬼神きじんは塚に入らんとす  ワキ「暫く鬼神きじん待ち給へ。はまだ深き後夜の鐘  シテときはとら伏す野守の鏡  ワキ法味ほふみにうつり給へとて  シテ「重ねて数珠じゆず  ワキ「押しんで
台嶺たいれいの雲を凌ぎ。台嶺の雲を凌ぎ年行ねんぎやうの。劫を積むこと一千余箇日.しばしばしんみやうを惜しまず採果さいくわ汲水ぎつすゐに暇を得ず。いち矜迦羅こんがら制多伽せいたか.三に倶利伽羅くりから七大八大金剛こんがう童子どうじ  ワキ東方とうはう  〈舞働〉

 

 上記の文中に本曲“鬼神”の文字は5ヶ所登場していますが、全曲中に“鬼神”が11ヶ所登場します。そして、ほとんど「キジン」と読むのですが、上記の後シテの出の箇所で、1ヶ所だけ「キシン」と発音します(ここは間違い易いところで、つい「キジン」と濁ってしまいます)。また「キジン」と謡う10ヶ所のうち、フリガナを振らずに「神」に濁点を振っているところが4ヶ所あります。これなど謡本特有の表記かもしれません。
 『野守』にはありませんが、“鬼神”には別に「オニカミ」という読み方もありるのです。では“鬼神”の三通りの読み方、「キシン」「キジン」「オニカミ」はどう違うのでしょうか。これについて、大角征矢氏が『能謡ひとくちメモ』の「『鬼神』の読み方」に詳述されていますので、それを参考にしながら…。
 ◎キシン……鬼のような猛々しい形相ではあるが、人に害を加えない神のこと。いわゆる砕動風鬼がこれに当る。『東北』『屋島』『俊寛』などにある。
 ◎キジン……人に害を加える神、というよりは、神の姿をした悪鬼のこと。力動風鬼がこれに当る。『田村』『土蜘蛛』『紅葉狩』『善知鳥』『鉄輪』『大江山』『皇帝』『昭君』などにある。
 ◎オニカミ…人間でありながら、まるで鬼か神みたいに人間離れしている。『熊坂』『芦刈』『景清』『烏帽子折』『大江山』などにある。
 また『野守』のように、鬼と鏡との関連は、『昭君』『皇帝』『松山鏡』に見られます。
 本曲のシテは、悪鬼の姿をしていますが、人に害を加える鬼ではありません。それ故に、地謡では「キジン」と言っても、シテ本人は「キシン」と澄んでいるのかと思っていますと、すぐその後に、シテ自らが「キジン」と言っており、この推測は見事にはずれてしまいました。


雪消之沢近くの鹿

飛火野の大楠


 「飛火野」は春日野の別称のようですが、地図では「雪消之沢」の附近にその呼称が示されておりました。大成版一番本の「所」では「奈良春日野雪消澤」となっており、『野守』の謡蹟はこのあたり一帯をいうのでしょう。ただ「雪消之沢」の近くにも、鹿がたむろしていましたが、カメラのレンズを通すと、木陰の鹿の目が異様に輝いておりました。
 雪消之沢の近くに楠の巨木があります。1本の樹に見えるのですが実際は3本の樹であり、樹齢100年とのこと。明治41年(1908)の陸軍大演習に際して、飛火野で催された饗宴に臨席された明治天皇の玉座跡に、記念植樹されたものだそうです。


 飛火野を過ぎるあたりから参拝客がますます増えてきます。鹿苑の横を通り二の鳥居にたどり着いきましたが、そこは参拝者で溢れてりました。
 人ごみをかき分けるように南門を入り、参拝を済ませて御朱印を頂戴しました。中門をカメラに収めましたが、撮影ポジションがよくなく、中途半端な構図になってしまいました。


二の鳥居

南門


 春日大社は全国にある春日神社の総本社であり、藤原氏の氏神を祀る神社です。その由来について、以下『週刊神社紀行・春日大社』(学習研究社、2002)によります。

 春日の地は、古くは春日氏を名乗った和爾(わに)氏一族の居住地で、春日山、御蓋山(みかさやま)を中心に古代祭祀がおこなわれていた。今も境内の各所に磐座(いわくら)が残る。
 このような聖地に神護景雲2年(768)に藤原永手(ながて)が一族の繁栄と王城守護を目的として春日社を創建したと伝えられる。祭神は、日立の鹿島、下総の香取の両社から迎えた武甕槌命(たけみかづちのみこと)、経津主命〈ふつぬしのみこと〉、それにもとの氏神である河内の枚岡神社に祀られていた天児屋根命(あめのこやねのみこと)と比売神(ひめがみ)を併せた4神である。こうして春日造りの社殿が4棟並ぶこととなる。これらを内院とし、のち中院、外院へと神社の規模も拡充していく。
 この春日社の繁栄に対し、藤原氏の氏寺である興福寺の働きかけも強まり、当寺の神仏習合思想により、春日大明神を法相宗(ほっそうしゅう)擁護の神と位置づけ、天暦元年(947)には仏教行事である法華八講(ほっけはちこう)を春日社内で行うなど、興福寺の春日社内への進出が続いた。さらに保延元年(1135)には、藤原摂関家の発願で春日若宮社を創建し、興福寺主導のもとに盛大な若宮祭(おん祭)を執り行うようになる。ここに春日社と興福寺の一体化が実現した。
 一方で、春日社の4神に、釈迦(一説に不空羂索観音(ふくうけんじゃくかんのん))・薬師・地蔵・十一面観音の本地仏が定められ、以後、春日信仰は仏教信仰と密接にかかわりあいながら発展していく。

 この縁起に関して、『采女』では、シテの〈語リ〉で以下のように述べています。


シテ 語「そもそも當社と申すは。神護景雲じんごけいうん二年に。河内の國枚岡ひらおかより。春日山本宮の峯に影向やうがうならせ給ふ。さればこの山。もとは端山はやまの蔭淺く。木陰こかげひとつもなかりしを。蔭頼まんと藤原や。氏人うぢうど寄りて植ゑし木の。もとよりめぐみ深き故。程なくかやうに深山みやまとなる。しかれば當社の御誓おんちかひにも。人の參詣は嬉しけれども。の葉の一葉も裳裾もすそに附きてや去りぬべきと。惜しみ給ふも何故ぞ。人のわづらひ茂き木の。蔭深かれと今も皆。所願しよぐわん成就じようじゆを植え置くなり。されば慈悲じひ萬行まんぎやうの日の影は。三笠の山に長閑のどかにて。五重ごぢう唯識ゆゐしきの月の光は。春日の里にくまもなし



参拝所

御朱印
 

 『春日龍神』は入唐渡天を志す明恵上人が、暇乞いのため春日明神を訪れるところから物語が始まります。


   謡曲「春日龍神」梗概
 作者は世阿弥とも伝えられているが未詳。『古今著聞集』による説話を資材として創意を加えたものであろう。
 本曲について、白洲正子氏はその著『明恵上人』で以下のように述べています。
 春日龍神というお能があります。
 栂尾(とがのお)の明恵上人が、入唐渡天を志し、暇乞いのため春日神社にお参りすると、一人の翁に出会う。翁はしきりに上人をいさめ、仏在世の時なら天竺へ渡るもよかろう。が、遺跡をたずねて何になる。それより日本に止どまって、上人を慕う人々を救うべきである。まこと志が深ければ、春日の山も天竺の霊鷲山(りょうじゅせん)と見えて来よう。「天台山を拝むべくは、比叡山に参るべし。五台山の望みあらば、吉野筑波を拝すべし」云々と、言葉をつくしてさとした後、もし思い止どまるなら、釈迦の誕生から入滅に至るまで、ことごとくこの春日山に移してご覧に入れよう、と約して去る。  後シテは、春日の使者の竜神で、釈迦の一代記を描くのですが、場面は霊鷲山での説法の座にしぼってあり、むらがる群衆も、一人の竜王が代表してみせる。最後の所は、奇瑞を見て、感激した上人が、出発することを思い止どまり、


「これまでなりや明恵上人、さて入唐は」
「とまるべし」
「渡天はいかに」
「わたるまじ」
「さて仏跡は」
「たずぬまじや」
とかたく誓って終る。春日龍神はそういった単純素朴な能で、むつかしい箇所など一つもない。特別な見どころもない。いってみれば、初心者向きの曲なのです。

 だから、つまらないといえばつまらない。私も長い間そう思っていたのですが、ある時梅若実翁が演じるのを見て、強い感銘を受けたことがあった。それは、今の後シテの場面で、竜神が、説法の座に、沢山の眷属(けんぞく)を集める所があり、幕の方を向いて、一々むつかしい名前を呼び上げる。むろん、そんなものは一人も現れないのですが、それら大勢のお供を従えた竜神が「恒沙(ごうじゃ)の眷属引きつれ引きつれ、これも同じく座列せり」と、舞台の中央でどっかと居坐る。専門語では「安座」(あぐら)といい、ふつう勢いを見せるために「飛安座(とびあんざ)」ということをしますが、実さんは老齢のためか、飛上りもせず、むしろ柔らかくといいたい位に、軽く廻ってストンと落ちた。動作は羽毛のようだったが、坐った形は大磐石の重みで、舞台には一瞬深い静寂がおとずれ、橋掛(はしがかり)から見物席に至るまで、竜神がひしめき合い、釈迦の説法に耳を澄ますかのように見えたのです。
 それは今まで見た春日龍神とは、まったく別のものでした。しいていえば、昔の人が信じた浄土とか涅槃(ねはん)という理想の世界を、ふと垣間見た感じで、そんなことは考えてもみないシテが、無心の中に著わしてしまうこのような美しさが、不思議なものに思われてなりませんでした。もしかすると、その時私は、自分でも知らずに、明恵上人の姿にふれていたのかもしれません。
 後場は上述のように、竜神参集のさまを、シテ一人の動作と詞章とでパノラマ風に描き出すのであるが、宝生・金剛流では、詞章どおり多数の竜神たちを登場させる小書「竜神揃」がある。また狂言の大蔵流・和泉流には「町積(ちょうづもり)」と称し、長安から天竺までの行程とその里数を末社の神が述べる替間(かえあい)がある。


 上記の竜神参集の場面を、謡曲は以下のように描いています。


「時に大地。振動するは。下界の龍神の参會か  後シテ「すは。八大龍王よ  地難陀なんだ龍王  シテ跋難陀ばつなんだ龍王  地娑伽羅しやから龍王  シテ和修吉わしゆきつ龍王  地徳叉迦とくしやか龍王.  シテ阿那あなば婆達多だつた龍王  地「百千眷屬けんぞく引き連れ引き連れ。平地へいぢに波瀾を立てゝ。佛の會座ゑざ出來しゆつらいして。御法みのり聽聞ちやうもんする  シテ「その外妙法めうほふ緊那羅きんなら  地「また持法ぢほふ緊那羅きんなら  シテ樂乾がくけん闥婆だつば  地樂音乾がくおんけん闥婆だつば  シテ婆稚ばち阿修羅あしゆら  地羅睺らご阿修羅あしゆら王の。恒沙ごうじやの眷屬引き連れ引き連れ.これも同じく座列ざれつせり
龍女りうによが立ち舞ふ波瀾はらんの袖。龍女が立ち舞ふ波瀾の袖。白妙なれやわだの原の。拂ふは白玉しらたま立つは綠の。空色も映る海原や。沖行くばかり。月の御舟みふねの。佐保の川面かはづらに。浮かみ出づれば  シテ「八大竜王 〈舞働〉
シテ「八大龍王は  地「八つのかむりを傾け。所は春日野の。月の三笠の雲にのぼり。飛火とぶひの野守も出でゝ見よや。摩耶まやの誕生鷲峯じゆぶうの説法。雙林さうりんの入滅。悉く終わりてこれまでなりや。明恵上人さて入唐につたう  ワキ「止るべし  地渡天とてんは如何に  ワキ「渡るまじ  地「さて佛跡ぶつせき  ワキ「尋ぬまじや  地「尋ねても尋ねてもこの上嵐の雲に乘りて。龍女は南方なんばうに飛び去り行けば。龍神は猿澤さるさはの池の青波。蹴立けたて蹴立てゝその丈千尋ちいろの大蛇となつて。天にむらがり。地にわだかまりて池水をかへして。失せにけり

 

 参拝を済ませ御朱印を頂戴して、本殿から北西の方、水谷神社へと参りました。水谷神社は、謡曲で前シテの〈上歌〉で、
御社の。誓ひもさぞな四所の。神の代よりの末うけて。澄める水屋の御影まで。塵にまじはる神ごゝろ
と謡われている「水屋」が、このお社であるとされています。


礼拝所から中門を望む

水谷神社


 さて、この『春日龍神』についていささか疑問に感じるものがあります。それはこの曲の主役が一体誰なのか、明確でない点です。謡曲で主役と言えば普通は〈シテ〉でしょう。本曲の前シテは春日社の宮人です。中入で「我は時風秀行ぞ」と言ってかき消すやうに失せるのですが、時風秀行とは、中臣時風および中臣秀行のことで、春日大社の祭神である武甕槌神が、常陸国の鹿島神宮から春日山に遷ったときに供奉した二人のことです。時風・秀行は春日大社を守ったようで、代々春日大社の神主は中臣氏で、この二人の子孫なのだそうです。
 前シテの老人が、春日明神の化身であり、後シテが春日明神その人であれば、極めて分かりやすいのですが、この曲は、前シテが明神に仕える宮人で、後シテが明神の使者とおぼしき龍神です。明神あるいはその化身が明恵(みょうえ)上人に入唐渡天を諫めるのであれば、上人も素直に納得すると思いますが、なにしろ上人は天竺までの行程表まで作成して、やる気満々なのですから、宮人では少し荷が重すぎるのではないかと、いささか心配です。せめて後場では、明神ご本人が出現していただきたいものです。要するに春日明神は、陰に隠れてシテを操っている黒幕のような存在ですね。そうすると表に出ている主人公はワキである明恵上人以外に考えられません。主体がはっきりしないので、何かしらすっきりとしないものが残る、そのように感じられるのです。
 それはともかく、事実上の主人公である明恵上人について少し調べてみました。
 明恵(承安3年・1173~寛喜4年・1232)は、鎌倉時代前期の華厳宗の僧。現在の和歌山県有田川町出身。華厳宗中興の祖と称される。法諱は高弁(こうべん)。明恵上人・栂尾上人とも呼ばれています。謡曲に描かれているように、明恵は釈迦への思慕が強く、天竺へ渡って仏跡を巡礼しようと企画しますが、春日明神の神託のため、これを断念しています。このあたりの経緯については、上記の白洲正子『明恵上人』が、その間の事情を詳しく伝えてくれています。

 (明恵は紀州の糸野から)対岸の里尾に移り、白上以来の念願であった渡天の志を、ここではじめて弟子達に打明けました。それから、三蔵法師の『西域記』などをたよりに、旅行の計画を立てるのですが、京都を出発して、一日に八里では何日、七里では何日、という風に、長安の都から印度の王舎城まで五万余里、即ち八千三百三十三里十二丁という所まで実に委しくしらべ上げています。現在、掛物に仕立ててあるその部分には、
 『印度ハ仏生国也。依恋慕之思難仰、為遊意計之、哀々(アハレ)マイラハヤ』
 と記してあり、飛立つおもいが目に見えるようです。(中略)
 が、渡天の望みは、ついに叶えられませんでした。建仁3年(1203)正月、病床にあった湯浅宗光の妻が、突然神がかりとなり、上人は日本の地を離れてはならぬという、春日明神の託宣を受けたからです。このことは、当寺の人々に強い感銘を与えたらしく、伝記は元より、古今著聞集ほか多くの書物が伝えています。「春日権現験記」では、若い女房が、鴨居の上に上ってお告げを宣べている、非常に印象的な絵もあります。
 お能の春日龍神は、それらの逸話に題材を得たもので、明神は出さずに、明神の使者の竜神をシテとし、釈迦の浄土を描いたところに、作者の工夫がうかがわれます。ついで翌月の二十二日には、上人自身の夢に、春日の神が現われ、春日の舞姫にも憑いたりして、度々の不思議な出来事に、断念せざるを得なかった。だが、考えてみれば、何も不思議なことはない。この託宣は、上人が、時の人々に、それ程慕われた事実を示しているにすぎないので、今の言葉でいえば、世論が神の形をとって現れたとみいえましょう。上人はこの時の体験を「託宣正本の記」にしたためましたが、これは後に自分で破棄してしまいました。例によって、世間の人々が、惑わされるのを恐れたためですが、それにも関わらず、奇瑞は人の口から口へ伝えられて行ったのです。伝説というものは、人が作るものかも知れないが、そう勝手にでっちあげられるものではない。読み方さえ正しければ、大勢の人の手を経た逸話ほど、信用の置けるものはないといってもいいのです。

 こうしてみますと、明恵上人は本気で入唐渡天を考えていたのですね。長安から天竺へ行くのであれば、孫悟空のような従者でもいなければ無理かもしれません。同書では、小林秀雄が「まあ思ひとどまつてよかつたのです。行つたら虎にでも喰はれるのが落ちだつたでせう」と記していると述べていますが、その通りだったかもしれません。
 この能のアイには「町積(ちょうづもり)という替間があることは前に述べましたが、これは一子相伝クラスの重い扱いになっているそうです。明恵上人が天竺に渡るまでの旅の道中を、どこどこまでが何千何百里だから、日数にして何日というふうに、里程の計算を全部しゃべります。数字のこととて間違えると計算が合わないし、数字の丸暗記は大変だというので、思い習いものになっているのでしょう。それにしても大変な代物があったものです。
 『春日龍神』では、明恵が入唐渡天をあきらめる代わりに、釈迦の一代記を展開します。想像ですが、春日明神(武甕槌命)の本地仏が釈迦如来であったことも関係があるのかもしれませんね。
 なお、明恵上人は宇治茶の祖ともいわれています。師である栄西禅師が中国から持ち帰った茶の種子を、栂尾深瀬の地に播きました。上人はその後、茶の普及のため山城宇治の地を選び、茶の木を移植。それが宇治茶の永い伝統の、記念すべき第一歩だったのです。宇治にある万福寺の山門に明恵上人の歌碑があります。
   栂山の尾の上の茶の木分け植えて跡ぞ生うべし駒の足影
 上人が馬で歩み、その馬の足跡に茶の種を植えることを教えた様子を詠んだものです。
 


水谷茶屋の附近の紅葉

国際フォーラム甍付近の紅葉


 水谷神社附近は木々が紅葉し、地上も落葉で紅く染めているようです。春日大社に別れ、東大寺へと向かいましたが、道の傍らには鹿がたむろしており、げにも『紅葉狩』に謡う、
四方の梢も色々に。錦を彩る夕時雨。濡れてや鹿の獨り鳴く聲をしるべの狩場の末。げに面白き景色からな
といった風情です。春日野国際フォーラム甍を過ぎ、大仏殿前にやって来ました。このすぐ近くに氷室神社があるので、ちょっと寄り道をいたしました。


氷室神社

拝殿


 実は、謡曲『氷室』と関係がないだろうかと思い参拝したのですが、天理市にある闘鶏(つげ)の氷室は不便なところから、平城京遷都のころ、奈良の春日山麓に氷室を設けて闘鶏の氷室神を勧請したのが、この神社のはじまりで、後に現在の地に移された。直接の関わりはないのですが、『氷室』の舞台である丹波国の氷室神社も「大和の國闘鶏の氷室より。供へ初めにし氷の物なり」と同曲で語っていますので、無関係ではなさそうです。


手水舎

「鷹乃井」


 当社の境内の手水舎の正面の石には、大きく「鷹乃井」と刻まれています。これは『野守』のシテの〈語リ〉にある、御狩で見失った鷹を尋ねているとき、「これなる水の底にこそ御鷹の候へ」翁が水に映る姿から、鷹が木にとまっていると教えるのですが、その井戸がここであるとのことです。




 さて、いよいよ本日最後の目的地である東大寺への参拝なのですが、「大仏殿」の交差点から南大門に至る参道は、人・人・ひとの群れでごった返しています。まるで心斎橋筋を歩いている気分です。


南大門への参道

中門への参道


 以下は、転害門にある「史跡・東大寺旧境内」とした奈良県教育委員会による説明です。

 東大寺は、聖武天皇が国家の安泰と繁栄を祈るために建立された寺で、その規模の雄大なことは、世界に比類がなく、平城宮と並んで奈良時代を代表する史跡である。
 創健後の変遷はあったが、大仏殿(江戸時代・国宝)を中心として、北方に大講堂跡、僧坊跡、食堂跡、正倉院、南方に南大門(鎌倉時代・国宝)、法華堂(三月堂、奈良時代・国宝)、西方に戒壇院があって、いまなお盛時の姿をしのぶことができる。境内もきわめて広大で、平地部から山間部にわたり、現境内よりはるかに広かった。西端は平城京の東、京極路で、現在の手貝通に面し、これに沿って転害門(奈良時代・国宝)、中門跡、西大門跡などがあり、他の三面もまたその旧規をとどめている。
 史跡東大寺旧境内は、この奈良時代の境内の姿を保存するために、昭和7年7月23日に国の史跡に指定されたもので、歴史上価値の高いところである。


鏡池を隔てて中門と大仏殿を望む

 あまりの人ごみに辟易して、大仏殿への入場をあきらめ、大仏殿の右手、鐘楼のエリアへの石段を上りました。この一角は「鐘楼の丘」と呼ばれているそうで、鐘楼を中心に、俊乗堂・行基堂・念仏堂が並んでいます。さすがにここは人影もまばらで、気持ちが落ち着きます。階段を上ってすぐ左手に建つのが俊乗堂です。どこかで聞いたことがあるな~と、のどの奥に引っかかっているのですが、なかなか思い出せません。隣にある納経所で「重源上人」と書かれているのを見て、ああ、勧進帳だったと、やっと胸の支えががとれました。
かほどの霊場の。絶えなん事を悲しみて。俊乘坊重源。諸国を勧進す。


俊乗堂

御朱印


 以下は、堂前に立てられている説明書きです。

 この俊乗堂は、大仏殿江戸再興の大勧進公慶上人が、鎌倉復興の大勧進重源上人の遺徳を讃えて建立されたもので、堂内中央には国宝「重源上人坐像」が安置されている。
 俊乗房重源は保安2年(1121)京都に生まれ、13歳で醍醐寺に入って密教を学び、仁安2年(1167)入宋して翌年帰国。治承4年(1180)平重衡による南都焼き討ちで伽藍の殆どが焼失したが、60歳で造東大寺司の大勧進職に任ぜられた重源は、十数年の歳月をかけて東大寺の再興を成し遂げられた。
 催行にあたって、大仏様(だいぶつよう)とよぶ宋風建築様式を取り入れ、再建の功により大和尚(だいかしょう)の号を受け、建永元年(1206)86歳で入滅された。


重源上人坐像


 中央に建つ鐘楼は、我が国の茶祖としても知られる栄西禅師が、承元年間(1207~10)に再建した豪放な建物で、国宝に指定されている。
 重さ26.3トンの大鐘は、東大寺創健当初のもので、国宝に指定されている。鐘声の振幅は非常に長く「奈良太郎」の愛称で親しまれている。通常、姿(形)の平等院・音(声)の三井寺・銘の神護寺を日本三名鐘と呼ぶようですが、銘の神護寺に替えて「勢の東大寺」ともいうようです。


鐘楼


 大仏殿の北西、正倉院の真西の国道369号線に面して、三間一戸八脚門の形式をもつ、堂々とした轉害門(てがいもん)があります。以下は門前の説明書きです

 轉害門は、もと平城左京一条大路に西面して建立され、佐保路門とも呼ばれた。
 中世の修理を受けているが、東大寺伽藍における天平時代の唯一の遺構で、その雄大な姿は創建時の建築を想像させるに十分である。
 この門は当寺鎮守八幡宮(手向山八幡宮)の祭礼が行われて遷座の場所となり重要視されてきた。
 基壇中央には、神輿安置の小礎4個が据えられ、天上も格天井に改められ、現今も川上町の有志により大注連縄が中央の2柱に懸けられている。
 京街道に面していたために、平安時代末期から民家が建並び、中世以降には東大寺郷のひとつである轉害郷(手貝郷)が生まれ、江戸時代には旅宿として発展した。


転害門


 東大寺の伽藍は、治承4年の平重衡の兵火や、永禄10年の三好家の主導権争いによる兵火などで灰燼に帰したが、転害門だけは二度の兵火を免れています。ただその柱には、合戦の鏃の跡や弾痕と思われるくぼみが遺されており、当時の模様を偲ぶことができます。


史跡旧東大寺境内

矢じり・弾痕


 源平の戦いに敗れた悪七兵衛景清がこの門に隠れ、大仏供養に参詣する源頼朝を狙ったとの伝説があり、一名「景清門」とも呼ばれています。大仏供養に際し景清の頼朝襲撃をテーマとしたのが、謡曲の『大仏供養』です。


   謡曲「大仏供養」梗概
 『平家物語』や『吾妻鏡』によったものであるが、作者は未詳。金春流では『奈良詣』という。
 悪七兵衛景清は、都の清水寺に参籠していたが、奈良の大仏供養のことを聞き、自分も南都に住む母親に対面せんものと、奈良に赴き、若草山あたりに住む母を訪ねる。母は喜び迎えた後、頼朝を狙っているという噂は真かと尋ねる。景清は包まずその決心を語り、夜が明けて母子は涙ながらに別れる。


 一方、大仏殿では盛大な供養が行われる。頼朝が家来大勢を引き連れて供養の場に臨むと、景清は宮人の姿に変装して近づこうとしたが、頼朝の臣下に追及され正体が露見する。景清はいったん雑踏にまぎれて立ち去り、武装して再び現れ、銘刀あざ丸を抜き大勢の中に割って入り、向かう者を切り伏せたが、今はこれまでと、あざ丸の霊気を利用して、霧が立ち込める中に身を隠して遁れ去るのである。
 建久6年3月21日、頼朝が奈良東大寺の大仏供養を行ったことは『吾妻鏡』にも見える史実であるが、この時景清が頼朝を狙撃したことは、史籍に初見はなく、大仏供養の折に頼朝方に降り、後日、食を絶って死んだとも伝えられている。

 しかし、この供養の際に、平家の遺臣中務丞宗助が頼朝を狙ったことが『長門本平家物語』巻十九に見える。また鎌倉の永福寺で、上総五郎兵衛忠光(一説では景清の兄とも)が頼朝を狙ったことが、『吾妻鏡』建久3年正月21日の条に見えている。本曲はこれらの史実に基づいて創造されたものと考えられる。


 悪七兵衛景清を扱った曲には『景清』があります。本曲が若き日の景清を描いているのに対し、『景清』では、老いてかつ盲目となり、草庵に侘びしく暮らす姿を描きます。この両曲には以下に掲げる「一門の船の中…」の〈上歌〉の一節は、ほとんど同じ詞章・節付となっていますが、わずかに異なるところがあります。


上歌「一門の船のうち。一門の船の中に肩を竝べ膝を組みて。所く澄む月の。景清は誰よりも御座船ござぶねになくて叶ふまじ。一類いちるゐその以下いげ武略ぶりやく樣々に多けれど。名を取楫とりかぢの船に乗せ。主従しうじう隔てなかりしは。さもうらやまれたりし身の。麒麟きりんも老いぬれば駑馬どばに劣るが如くなり


 また、主人公として登場していませんが、『屋島』では、景清の錣(しころ)引きの武勇譚が物語られています。
 景清は、一般には平景清と呼ばれていますが、藤原秀郷の子孫の伊勢藤原氏(伊藤氏)で、藤原景清とも伊藤景清ともいうようです。悪七兵衛の「悪」は善悪の悪ではなく、「強い」「猛々しい」というくらいの意味です。
 景清の銘刀「あざ丸」は、景清がこの刀を見つめたとき、彼の顔の「あざ」が刀に映って見えた、という伝承によるそうです。ただこの刀を持つと、矢で目を射抜かれたり、眼の病を患らったりするので、丹羽長秀により熱田神宮に奉納されたということです。
 景清の伝承は全国各地に伝えられ、その史跡が遺されています。また歌舞伎や古典落語の演目の一つにもなっています。


 今回の謡蹟探訪は、猿沢の池から飛火野、春日大社、東大寺と、少々欲張った行程となってしまいました。少し駆け足での探訪であったため、かつ、大変な人ごみに悩まされ、それぞれの史跡をゆっくりと鑑賞することができませんでした。また機会をみてのんびりと訪問したいと思いますが、人ごみだけは避ける訳にはいかないでしょうね。世界遺産も善し悪しであると、しみじみ思う今日この頃でございます。
 (「一門の船の中…」の『大仏供養』と『景清』の相違点:①「叶ふまじ」が、『大仏供養』は漢字、『景清』かな。②「その以下武略~」の「下」が、『大仏供養』は〈中の下〉、『景清』は〈下〉から〈浮キ〉。)



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  (平成27年12月 9日・探訪)
(平成28年 1月24日・記述)


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