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淡路島・大和大国魂神社 〈淡路〉


 2016年3月3日、『淡路』の謡蹟である淡路国二ノ宮大和大国魂神社を訪れました。
 (この「大和大国魂神社」に関する記述は、本サイトの「気まぐれ紀行〈淡路・国生みの島紀行〉」と一部重複しています。淡路・国生みの島紀行については、こちらをご参照ください。)

 大和国魂神社は、自動車道の西淡三原ICから東へ3キロほど。自動車道のすぐ北にある丘の上に鎮座しています。

大和国魂神社、おのころ島神社周辺地図



《大和大国魂神社》  兵庫県南あわじ市榎列上幡多857

 主祭神は大和大国魂神。八千戈命(やちほこのみこと)、御年命(みとしのみこと)、素盞嗚尊(すさのおのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)、土御祖神(つちのみおやのかみ)を配祀しています。境内入口には平成10年再建された鳥居が立ち、広く長い境内の突き当りに、社殿があります。


大和大国魂神社大鳥居


 当神社の創建年代は詳しく分かっていませんが、大和朝廷の勢力が淡路に及んだとき、その支配の安泰を願って大和国山辺郡の大和坐大国魂神社(現在の大和神社)を勧請した、と考えられています。
 9世紀にはすでに官社に列し、延喜式では名神大社に列した古社。近世には阿波藩主である蜂須賀家の崇敬を受け、社殿を再興。明治になって県社となりました。往古は桜の名所で、桜祭が開催されていたそうです。拝殿の屋根に桜紋が付けられていました。
 以下は境内に立つ由緒書きの碑からの転載です。

 古ヨリ八太ノ二ノ宮ト尊称シ、皇室ヲ初メ世人ノ崇敬厚ク、臨時祭及祈年国幣ニ預リ給ヒ壱千弐百八拾有余年ノ星霜ヲ経、移転ナキ旧社タル事青史ニ明カナリ。当国  伊弉諾神社ヲ以テ 一ノ宮トシ本社ヲ以テ二ノ宮ト称ス。
 文徳天皇仁寿元年官社ニ列シ 清和天皇貞観元年従一位ニ敍セラル 醍醐天皇延喜ノ制ニ名神大社ニ列シ 名神祭及祈年 国幣ニ預リ給ヒ 淡路国正税ノ内八百束(現在ノ米十六石)ヲ祭料ニ充テラル 文武天皇慶雲元年 諸社ニ下賜フモノト伝ウル 古銅印 ハ 現在重要文化財ニ指定サレ 今尚当社ニ所蔵ス
 土御門天皇 元久二年庁宣ニヨリ祭料ヲ下サレ其神ヲ祭リ 土民群集桜花ヲ賞ス 世ニ二ノ宮ノ桜祭ト称シ世人ノ知ル所ナリ 後当国二ノ宮ト仰ガレ公武ノ崇敬浅カラズ
 江戸時代 蜂須賀候深ク当社ヲ信仰シ 元禄拾五年社領二反ヲ 下賜ヒ 代々祈願所ト定メ深ク当社ヲ崇敬シ社殿ノ改築等度々行ヒ 実文拾年本殿再興 文政拾弐年 天保拾四年諸殿建立 然ル所 王政復古御維新以来 廃藩置県ノ制度ニ改マリ 其道絶セリ 明治六年県社ニ列シ 三原郡一円信徒タルヲ以テ郡費ヲ充テ 明治拾年本殿及諸建物悉皆新築シ 現今ニ至ル
 当社ハ 大国主神 即チ 大己貴神 ナリ 其故ハ大黒ノ神影ヲ摺テ世ニ弘メ配ル古板アリテ 今猶珍伝シ近世新ニ神影ヲ彫刻シテ用ユナリ 郷土作リ ノ神 医薬ノ神 難病祈封ノ神 人体五行ノ神 病気祈願ノ神様トシテ 神霊アラタカナリ


社殿


 社殿の左手の繁みに芭蕉の句碑が建てられています。

  花左可李山八必古呂の安作保良希  はせを
  (花ざかり山は日頃の朝ぼらけ  芭蕉)

 別名「花塚」としても有名で、俳聖松尾芭蕉の句。弘化5年(1848)建立。


拝殿

芭蕉句碑


 それでは謡曲『淡路』について眺めてみましょう。


   謡曲「淡路」梗概
 観世・金春・金剛三流の現行曲。観阿弥の作。『神皇正統記(じんのうしようとうき)』その他による。
 当今に仕える臣下は宿願あって玉津島に参詣した。帰途、神代の古跡を一見しようと淡路島に渡り、古跡のことを尋ねようと人を待つ。すると尉と若い男が田の水口に幣帛(みてぐら)を立てている。これは御神田なのかと臣下が問う。尉は水口に五十串といって五十の幣帛を立てて神をまつると歌を引いて言い、ここの社は伊弉諾尊・伊弉册尊の二神をまつる、その御神田だと答える。伊弉諾と書いて種蒔く、伊弉册と書いて種を収むと読むと教え、豊かに実る収穫に感謝し神徳を称える。尉は我が国の創始について、淡路島を始めとする島々を産んだ国産み、森羅万象、神々を産んだ神産みの有様を物語ると天に姿を消す。
 夜半、月光のもとに伊弉諾尊が姿を現す。尊は勇壮に舞い、御代と国家の安泰と繁栄を言祝ぐのだった。

 前場のシテ・ツレが肩にして出る“朳(えぶり)”は、農具の一種で、長い柄の先に横板のついたくわのような形のもの。土をならしたり、穀物の実などをかき集めたりするのに用いる。


 朝臣が参拝した社が一ノ宮ではなく二ノ宮であるとと聞かされ、一ノ宮の所在を尋ねます。その答えに「当社は二ノ宮ではあるが、伊弉諾・伊弉册二神を祀っている。神は一きうである」と聞かされます。ここでいう“一きう”について大成版の[辞解]では「一きうは一宮かといひ又一體の誤寫に因るかとも言はれてゐるが、一級と考へて良いであらう」と述べられています。ただこの場合の“一きう”は、[曲趣]にあるように“一翕”であると考えるべきではないでしょうか。


ワキ「さては當社二の宮にてましまさば。國のいちみや何處いづくにてましますぞや。もし譲葉ゆづりはの権現にて御座候やらん  シテ「おそれながらしくおん心得候ものかな。當社は二の宮にてましませばとて。國中こくちう一二いちにの次第にあらず  ツレ御覽ごらん候へ當社の神達かんだち二柱ふたばしらやしろの御殿なれば  シテ「二つの宮居みやゐをそのままにて。二の宮とあがめ奉るなり

シテ・ツレ「これはすなは伊弉諾いざなぎ伊弉册いざなみみこと二柱ふたばしらの。神代かみよのまゝに宮居し給ふ。淡路の國の。神はいつきう宮居は二つの。二の宮とあがめ申すなり



 『淡路』の舞台は、淡路国二ノ宮すなわち大和大国魂神社とされていますが、前シテの詞章において「これは即ち伊弉諾伊弉册の尊の二柱の。神代のまゝに宮居し給ふ…」と述べています。そして後シテは伊弉諾尊なのです。ところが二ノ宮・大和国魂神社の祭神は大和大国魂命です。このような誤りが起こった理由について『中世諸国一宮制の基礎的研究』(岩田書院、2000)によれば「淡路が伊弉諾尊と伊弉冉尊による国生み伝承の地であるため、中世において二宮の祭神は伊弉諾尊と伊弉冉尊になっていた。再び祭神が大和大国魂神に戻ったのは明治の神仏分離以後」だと述べられています。本来の祭神からすれば、舞台は伊弉諾命・伊弉冉命を祀る一ノ宮かおのころ島神社とするのが妥当であると思われます。

 また『淡路』は、クセには“甲グリ”が二ヶ所も登場するように結構難物です。ちなみに“甲グリ”が二ヶ所登場する曲は以下の5曲です。


曲名 該当箇所 詞章
淡路  クセ・アゲハ後  八十三万
 六千八百余歳
須磨源氏  クリ・サシ後の上歌  乙女の巻に
 太政大臣
白楽天  ロンギ  舞人はこの尉が
 キリ地  第三の姫宮
花筐  クセ・一のアゲハ後  上界の嬖妾
 生まるゝとは
弓八幡  クセ・アゲハ後  をかたまの木の枝に
 後場ロンギ  この君の神徳(シテ謡)


クリ 地「それ天地てんち開闢かいびやくの昔より。混沌こんどん未分みぶん漸く分れて。清く明らかなるは天となり。重く濁れるは。地となれり  サシ シテ「然れば天に五行ごぎやうしんまします。木火もくくわ土金水どごんすゐこれなり  地「既に陰陽相分あいわかれて。木火土のせい伊弉諾となり。金水の精り固まつて伊弉册とあらはる  シテ「然れども未だ世界ともならざりしさきを伊弉諾と云ひ  地「國土を治まり萬物ばんぶつ出生しゆつしやうする所を伊弉册と申す。即ちこの淡路の國を。始めとせり

クセ「さればにや二柱ふたばしら御神おんがみの。磤馭廬島おのごろじまと申すもこの一島いつたうの事かとよ。およそこの島始めて大八洲おほやしまの國を作り。紀の國伊勢志摩日向ひうがならびに。四つの海岸を作りいだし。日神にちじんぐわちじん蛭子ひるこ素盞嗚そさのをと申すは。地神ぢじん五代の始めにて。皆この島に御出現。中にも皇孫くわうそんは。日向の國に。天降あまくだり給ひて。地神第四の火々出見ほほでみ皇子みこを御出生げにありがたき代々よよとかや
シテ天下てんがを保ち給ふ事  地「すべて。八十三万。六千八百餘歳なり。かゝるめでたき皇子わうじ達に。御代おんよ譲葉ゆづりはの権現と。現れおはします。伊弉諾伊弉册の神代かみよも只今の國土なるべし


 上記は『淡路』のクリ・サシクセの詞章で、国土創成の神話が語られています。一番本の[資材]によれば「国土創成の神話は記紀にも見えてゐるが、本曲は寧ろ神皇正統記などに基いたものであらう」と述べられています。『神皇正統記』は若干長文になりますので、本稿の末尾に掲載ました。



 謡曲に登場する他の神社について考察いたしましょう。
 先ず、淡路国一ノ宮・伊弉諾神宮について。

《伊弉諾神宮》  兵庫県淡路市多賀740


伊弉諾神宮大鳥居


 淡路国一ノ宮。祭神は伊弉諾尊、伊弉冊尊。以下、当社の由緒書きです。

 古事記に「故(かれ)、其の伊邪那岐の大神は淡海(あふみ)の多賀(たが)に坐(ま)すなり」。日本書紀に「伊弉諾尊(中略) 是を以て幽宮(かくりのみや)を淡路の洲に構(つく)り、寂然(しづかに)長く隠れましき」とあり、淡路の島は二柱の大神が一番初めに御開拓になった地であり、此の多賀は伊弉諾大神が国土経営の神業を了えられた後、お鎮まり遊ばされた御終焉の地で、大神の御陵がそのまま神社として祀られるようになった、我が国最古の神社である。

 上記「幽宮」についての記述が、書紀は“淡路”ですが、古事記では“淡海”となっています。国生みに始まるすべての神功を果たされた伊弉諾尊が、御子神なる天照大神に国家統治の大業を委嘱され、余生を過ごされたのが“幽宮(かくりのみや)”です。その地は最初にお生みになられた淡路島の多賀の地であるのが自然であると思われます。となると古事記の“淡海”は“淡路”の誤りではないかとする説も古くからあるようです。
 滋賀県犬上郡多賀町に鎮座する多賀大社は、伊邪那岐・伊邪那美尊をお祀りしています。『古事記』の記述より、伊弉諾尊の幽宮であることに基くようです。『古事記』以前の時代には、一帯を支配した豪族・犬上君の祖神を祀ったとの説があります。多賀大社の祭神は南北朝時代の頃までは伊弉諾尊ではなかったことが判明しており『古事記』の記述と多賀大社を結びつけることはできないようです。
 余談ですが、当社の祭神について少し気になったことがあります。当社の祭神は伊弉諾尊と伊弉冉尊二柱となっていますが、当社が幽宮であるということは、伊弉諾尊おひとりがここ幽宮で余生を送られたのであり、したがって祭神は伊弉諾尊一柱であるべきではないかと思うのです。そして伊弉冉尊は当社から真南にある諭鶴羽神社に祀られているのです。本来は当社と諭鶴羽神社とは二社で一対ではなかったのだろうか……などと想像をたくましくしております。



拝殿

御朱印


 中之鳥居を過ぎ、放生池の手前左手に「ひのわかみやと陽の道しるべ」と記された碑と日時計のようなものがありました。
 “ひのわかみや(日之少宮)”は、書紀によれば伊弉諾尊が住まわれていた宮殿のことで、当社の別称です。この碑文には当社の所在地の特殊性が記されています。

 當神宮の創祀は神代に溯り、伊弉諾尊の宮居跡に営まれた神陵を起源とする最古の神社である。また日本書紀に「仍留宅於日之少宮」の記述があり、これは伊弉諾尊の太陽神としての神格を稱へ、御子神である天照皇大御神の差昇る朝日の神格と対比する日之少宮として、御父神の入り日(夕日)の神格を表現してゐる。因に全国神社の本宗と仰ぐ伊勢の神宮(皇大神宮)はこの神域の同緯度上に鎮座し、更にその両宮を結んだ中間點に最古の都「飛鳥宮藤原京」が榮都されてゐるのである。
 専門家の協力を得て當地から太陽軌道の極致にあたる方位を計測すると、夏至・冬至・春秋仲日の日出と日歿の地に、神縁の深い神々が鎮座してゐることを、次の通りに確認することができた。緯度線より北への角度29度30分にあたる夏至の日出は信州の諏訪湖(諏訪大社)、日没は出雲大社日御碕神社への線上となる。春分秋分は伊勢の神宮から昇り、海神神社(対馬國)に沈む。南への角度28度30分にあたる冬至の日の出は熊野那智大社(那智の大瀧)、日没は天孫降臨傳承の高千穂峰(高千穂神社・天岩戸神社)となるのである。 (後略)


ひのわかみやと陽の道しるべ


 上記の碑文を整理すると以下のようになります。
 ◎同緯度上……伊勢皇大神宮(内宮)・飛鳥宮藤原京・対馬国一ノ宮海神神社
 ◎真北……但馬国一ノ宮出石神社
  真南……諭鶴羽神社・沼島
 ◎夏至の日出方向(29°30′)……信濃国一ノ宮諏訪大社
     日没方向(29°30′)……出雲大社
 ◎冬至の日出方向(28°30′)……熊野那智大社
     日没方向(28°30′)……高千穂神社・天岩戸神社
 上記のような極めて特殊な位置に伊弉諾神宮が建っているというわけです。このように古代の遺蹟などを直線で結ぶことを“レイライン”というそうです。これらの要素や、それらを結ぶ線の交点をさらに結ぶと、安倍晴明で有名な五芒星やダビデの星と呼ばれる六芒星が出現します。日本にはこのような事例はたくさんあるようですが、古代の日本人がどうして遠方にある位置を正確に特定できたのか? 単なる偶然にすぎないか、あるいは現在には伝わっていない特殊な方法でもあったのでしょうか。



 続いて、天の浮橋について。

《天の浮橋》  兵庫県南あわじ市榎列大榎列

 天の浮橋はおのころ島神社より西に300メートルほど、榎列(えなみ)小学校の南方すぐのところの民家のはずれにあります。
 記紀の国生み神話のなかで、伊弉諾尊・伊弉冉尊が「天の浮橋」に立って、天の沼矛を持って海原をかき回すことにより、その矛より滴る潮が固まって島となった。これが「おのころ島」であると言われています。
 近くの榎列郵便局の風景印に天の浮橋が描かれています。


タマネギの輪郭に淡路人形
浄瑠璃の頭と天の浮橋の石
碑を描く榎列郵便局風景印


天の浮橋全景

磐座か?


 以下は『古事記』における「天の浮橋」の記述です。


ここあま神諸もろもろみことちて、伊邪那岐命いざなぎのみこと伊邪那美命いざなみのみこと、二柱の神に、「是の多陀用弊流ただよへる國ををさつくり固め成せ。」とりて、あめ沼矛ぬぼこを賜ひて、ことさし賜ひき。かれ、二柱の神、天の浮橋に立たして、其の沼矛をし下ろしてきたまへば、しほ許々袁々呂々邇こをろこをろに畫きして引き上げたまふ時、其の矛のさきよりしただりり落つる鹽、かさなり積もりて島と成りき。是れじまなり。
                  (『古事記・祝詞 』岩波・日本古典文學大系、1958)



天の浮橋の碑



 かなり遠い曲ですが『逆矛』のクセやキリに「天の浮橋」での国生みの様子が描かれています。以下、同曲のキリから。


シテ「むかし伊弉諾いざなぎ伊弉册いざなみみこと。この御矛おんほこたずさへて。天の浮橋を。踏み渡り給ひ  地すなは御矛みほひをさしおろし。乃ち御矛をさし下し給ひ。青海原あをうなばらを。き分け攪き分け探り給へば。矛のしただり固まつて。國となれり  シテ「まづ淡路島  地「紀の國伊勢志摩。筑紫四國。總じて八つの國となつて。大八洲おほやしまの國と名づけ。天地人の三才さんさいとなる事も。この矛の德なりあらありがたや 〈働〉


 この『逆矛』の瀧祭の神のことは『神皇正統記』を参照しています。


 最後に譲鶴羽(ゆずるは)神社について。

《譲鶴羽神社》  兵庫県南あわじ市灘黒岩

 謡曲に「譲葉権現」として紹介されるのが「譲鶴羽神社」です。
 南あわじ市南部にそびえる淡路島の最高峰である譲鶴羽山(ゆずるはん)、平安時代より諭鶴羽参りが盛んで、修験道の聖地として信仰を集めたこの山の頂き付近には、元熊野宮としての諭鶴羽神社が鎮座しています。創建は開化天皇の治世と伝えられる古社で、祭神は伊弉冉尊(いざなみのみこと)、速玉男命(はやたまをのみこと)、事解男命(ことさかのをのみこと)
 当社の祭神として伊弉冉尊が祀られています。通常は一ノ宮伊弉諾神宮やおのころ島神社、多賀大社などのように、伊弉諾・伊弉冉二神を併せてお祀りしているケースが多いと思うのですが、伊弉冉尊のみをお祀りしているのは、当社のほか三重県熊野市有馬町の花窟神社なと、その数は少ないようです。
 伊弉諾神宮の項で述べましたが、当社が伊弉冉尊を祀り、伊弉諾神宮が本来は伊弉諾尊のみを祀り、二社一対の存在ではなかったかと愚考した次第です。


 『神皇正統記』の「国生み伝承」を扱った部分は、『淡路』『逆矛』の章句に引用されています。以下にその該当箇所を掲載します。(岩佐正校注『神皇正統記・増鏡』岩波・日本古典文學大系、1965

 それ天地あめつち未分いまだわかれザリシ時、混沌こんとんトシテ、マロガレルコト雞子とりのこノ如シ。クヽモリテきざしをフクメリキ。コレ陰陽いんやう元初げんしよ未分ノ一氣いちき也。其氣始テワカレテキヨクアキラカナルハ、タナビキテあめト成リ、オモクニゴレルハツヾイテつちトナル。其中ヨリ一物ひとつのものいでタリ。カタチ葦牙あしかひノ如シ。すなはちシテ神トナリヌ。國常立尊くにのとこたちのみことト申。又ハ天ノ御中主ノ神トモ號シ奉ツル。此神ニもくくわごんすゐ五行ごぎやうノ徳マシマス。まづ)水徳ノ神ニアラハレ給ヲ國狹槌尊くにのさつちのみことト云。次ニ火徳ノ神ヲ豐斟渟尊とよくむぬのみことト云。あめノ道ヒトリナス。ユエニ。純男じゆんなんニテマス。次ニ木徳ノ神ヲ泥土うひちにのみこと沙土すひぢ瓊尊にのみことト云。次ニ金徳ノ神ヲ大戸之道尊おほとのぢのみこと大苫邊尊おほとまべのみことト云。次ニ土徳ノ神ヲ面足おもたるのみこと惶根尊かしこねのみことト云。天地ノ道相まじはりテ、おのおの陰陽ノカタチアリ。シカレドソノフルマヒナシト云リ。此もろもろのまことニハ國常立ノひとはしらの神ニマシマスナルベシ。五行ノ徳おのおの神トアラハレ給。是ヲ六代トモカゾフル也。二世三世ノ次第ヲたつベキニアラザルニヤ。次ニ化生けしやうシ給ヘル神ヲ伊弉諾尊・伊弉册尊ト申ス。是ハまさしク陰陽ノふたつニワカレテ造化ざうくわはじめトナリ給フ。かみノ五行ハヒトツヅツノ徳也。此五徳ヲアハセテ萬物ばんぶつヲ生ズルハジメトス。
 コヽニ天祖あまつみおや國常立尊、伊弉諾・伊弉册ノふたはしらの神ニみことのりシテノ給ハク、「豐葦原ノあきノ瑞穗ノくにアリ。いましゆきテシラスベシ。」トテ、すなはち天瓊矛あまのぬぼこヲサズケ給。此矛又ハ天ノさかほこトモ、天魔あまのあまのさかホコトモイヘリ。二神コノホコヲサヅカリテ、天ノ浮橋ノ上ニタヽズミテ、矛ヲサシオロシテカキサグリ給シカバ、滄海あをうなばらノミアリキ。ソノホコノサキヨリシタヽリオツルしほコリテひとつノ嶋トナル。コレヲ磤馭廬おのごろじまト云フ。 (中略) すいにん天皇ノぎよニ、大和姫ノ皇女くわうぢよ、天照太神ノ御ヲシヘノマヽニ國々ヲメグリ、伊勢國ニ宮所ヲモトメ給シ時、おほノ命ト云神マヰリアヒテ、五十鈴ノ河上ニ靈物れいもつヲマボリオケル所ヲシメシまをしシニ、カノ天ノ逆矛・五十鈴・天宮あめのみや圖形づぎやうアリキ。大和姫ノ命ヨロコビテ、其所ヲサダメテ、神宮ヲタテラル。靈物ハ五十鈴ノ宮ノ酒殿さかどのニヲサメラレキトモ、又、瀧祭たきまつりノ神ト申ハりゆう神ナリ、ソノ神アヅカリテ地中ニヲサメタリトモ云。ひとつニハ大和ノ龍田たつたノ神ハコノ瀧祭ト同體ニマス、此神ノアヅカリ給ヘル也、ヨリテ天柱あめのみはしら國柱くにのみはしらいふ御名アリトモ云。 (中略) 寶山ニトヾマリテ不動ノシルシトナリケンコトヤ正説しやうせつナルベカラン。龍田モ寶山チカキ所ナレバ、龍神ヲ天柱あめのみはしら國柱くにのみはしらトイヘルモ、深秘じんぴノ心アルベキニヤ。日本紀にほんぎ舊事本紀くじほんぎ・古語拾遺等ニノセザラン事ハ末學まつがくともがらヒトヘニ信用シガタカルベシ。かの書ノ中猶一決セザル事多シ。いはんや異書ニオキテハしやうトスベカラズ。
 カクテ、此ふたはしらの神相ハカラヒテやつノ嶋ヲウミ給フ。先、淡路あはじしまヲウミマス。淡路あはじのわけト云。 (中略) 
 地神ちじん第一代、大日孁尊おほひるめのみこと。是ヲ天照太神あまてらすおほみかみト申。又ハ日神ひのかみトモ皇祖すめみおやトモ申也。此神ノうまれ給コトみつノ説アリ。ひとつニハ伊弉諾・伊弉册尊アヒはからひテ、天下ノ主ヲウマザランヤトテ、まづ、日神ヲウミ、次ニ月神つきのかみつぎに蛭子ひるこつぎに、素盞嗚尊ヲうみ給トイヘリ。 (中略) 
 第四代、彦火々出見尊ひほほでみのみことまをす。御このかみ闌降すせりノ命、海ノさちマス。此尊ハ山ノ幸マシケリ。 (中略 ) 
 此尊天下あめのしたをさめ給コト六十三萬七千八百九十二年ト云ヘリ。 (以下略)

 


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