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京都紫野・雲林院 〈雲林院〉


 2016年5月27日、京都紫野に雲林院を訪れました。
 雲林院は北区紫野雲林院町にある小さな祠堂で、大徳寺の広大な寺領のすぐ南、北大路通の大徳寺前の交差点を少し下ったところにひっそりとたたずんでいます。なお雲林院は“うんりんいん”のほか“うりんいん”とも訓まれています。

雲林院周辺地図


 ここ雲林院はその名のように、謡曲『雲林院』の舞台です。


   謡曲「雲林院」梗概
 本曲は、後シテを在原業平とする現行曲に対し、前場はほとんど同様であるが、後場が全く異なり、業平は登場しない「世阿弥自筆本」が存在する。これは古作を世阿弥時代に手直ししたもので(改作者は世阿弥とも考えられる)、世阿弥以降、後場をまったく改変したものが現行曲である。(「世阿弥自筆本」については後述)
 『伊勢物語』の業平・二條后の恋物語とその古註とに取材したものらしいが「弘徽殿の細殿に人目を深く忍び…」とあるのは、『源氏物語』花宴の巻に見える光源氏・朧月夜内侍の恋物語を採り入れたものである。

 幼いころから『伊勢物語』を愛読していた芦屋公光が、ある夜の夢に刺激されて京都紫野にやって来る。今を盛りの櫻の枝を折る公光を、一人の老翁が咎め、花折りの是非について古歌を引いて風雅問答をする。そして業平の名をほのめかして老翁は立ち去る。
 やがて夜になり、業平の霊が現われ、伊勢物語のことを語ったり、昔を追憶して夜遊の舞楽を奏したりしていたが、明け方に公光の夢は覚めるのである。
 業平の霊が伊勢物語の愛読者に秘事を授けるというのが眼目で、その秘事とは業平と高子とのことを指したもののようであるが、改作のためかその点は不明瞭である。



《雲林院》  京都市北区紫野雲林院町23

 以下は、雲林院門前に立てられた京都市の駒札です。

 雲林院は、平安時代の紫野の史跡である。この付近一帯は広大な荒野で、狩猟も行われていた。淳和天皇(在位823~833)は、ここの広大な離宮紫野院を造られ、度々行幸された。
 桜や紅葉の名所として知られ、文人を交えての歌舞の宴も行われた。後に、仁明天皇皇子常康(つねやす)親王に伝えられる。貞観11年(869)に僧正遍昭を招き雲林院と呼ばれ、官寺となった。寺としての雲林院は菩提講が名高い。歴史物語「大鏡」は、この菩提講で落ち合った老人の昔物語という趣向で展開する。「源氏物語」「伊勢物語」にも雲林院の名は現れ、「古今集」以下歌枕としても有名で、謡曲「雲林院」はそうした昔をしのんで作られている。
 鎌倉時代には、雲林院の敷地に大徳寺が建立された。現在の観音堂は宝永4年(1707)に再建され、十一面千手観世音菩薩像、大徳寺開山大燈国師像を安置している。
   これやきく雲の林の寺ならん
    花を尋ねるこころやすめん    西行


雲林院総観


 門前には、同じく京都市による「源氏物語ゆかりの地」とした説明がありました。

 淳和天皇の離宮であった紫野院は、常康親王(仁明天皇皇子)の時に雲林院と称し、親王から託された僧正遍照が9世紀終り仏寺に改めた(天台宗)。堂塔の造営や造仏が相つぎ桜の名所ともなった。賀茂祭の還立(かえりだち)を見物するために朝早くから雲林院のあたりに物見車が立ち並ぶ描写が『枕草子』に見える。雲林院での菩提講は有名で『大鏡』の語りの場ともなった。14世紀初めの大徳寺の創始により敷地の多くは施入・子院となり、応仁・文明の乱で焼失し、現在の雲林院(臨済宗)は、江戸期の宝永4年(1707)に寺名を踏襲して大徳寺の塔頭として建てられたものである。
 『源氏物語』「賢木」に、光源氏が逢ってくれない藤壺の態度が辛くて出家しようと、伯父に当たる桐壺更衣の兄律師のいる雲林院に籠る話がある。
 2000年に行われた雲林院跡東域の発掘で、初めて平安時代の園池や建物跡、井戸跡などが発見された。なお、ここより東方360mの堀川通の西側には紫式部と小野篁の墓伝承地がある。

 上記解説にもあるように『大鏡』の冒頭で、語り手により歴史語りが行われた雲林院の菩提講の場に導かれています。なお、『大鏡』では「雲林院」は「うりんいん」と訓まれるようです。以下は『大鏡』の「序」の始まりの部分です。

 先つ頃、雲林院の菩提講に詣でてはべりしかば、例人よりはこよなう年老い、うたてげなる翁二人、媼といきあひて、同じ所に伊めり。
(橘健二・加藤静子校注『大鏡』小学館・日本古典文学全集、1996)


山門に架かる寺号標

山門からの境内


 説明書きによれば、平安時代には現在の大徳寺の境内が、雲林院の広大な敷地であり、当時の書物にも登場するほど平安貴族に親しまれていたようです。残念ながら現在では、観音堂を中心として左右に地蔵堂と弁財天を祀る小祠があり、庭の奥に十三重の石塔が建つだけの、侘びしいたたずまいとなっています。


観音堂




手水舎

「雲林院」


 観音堂の手前にある手水鉢の側面には「雲林院」と刻されています。かなりの歳月を感じさせるものがあり、あるいは、当院の全盛期の遺物でもありましょうか。


紫雲弁財天と遍照歌碑

十三重の石塔


 観音堂の右手に紫雲弁財天の小祠があり、その前に僧正遍照の詠んだ「天津風雲の通ひ路吹きとぢよをとめの姿しばしとどめむ」の歌碑が建てられています。
 遍照は常康親王より雲林院を付嘱され、これを寺院として天台宗の教義を習学することとなります。ちなみに『古今和歌集』仮名序における遍照の評価は「歌のさまは得たれども、まことすくなし。たとへば絵にかける女を見て、いたづらに心を動かすがごとし」と、真実味に乏しいと評されています。



《二つの『雲林院』》

 本曲の梗概にて記しましたが、本曲には、前場はほとんど同様であるが、後場が全く異なる「世阿弥自筆本」が存在します。これは世阿弥時代に古作を手直ししたものです。すなわち後場で、ツレに二条の后が登場し、業平に連れ去られた后を取り戻そうとする、后の兄・藤原基経がシテとなり、業平は登場しません。この「世阿弥自筆本」をさらに改変したものが現行曲となっています。
 『申楽談義』の金剛のことを述べたところに、『金剛は何をもせし者也。尉のかゝり也。論議そゞろと謡ひし所也。雲林院の能に、「基経の、常無き姿に業平の」とて、松明振り上げ、屹と居なりし様、南大門にもうでざりし也。』と記されています。「基経の、常無き姿に業平の」は自家本の後場の“一セイ”の章句であり、この形ですでに演じられていたことが明らかです。
 世阿弥自筆本の『雲林院』は、昭和57年(1982)10月、法政大学能楽研究所主催「世阿弥本による〈雲林院〉試演の会」において、作本・表章、横道萬里雄、主演・観世栄夫、観世銕之亟により上演され、その後も改修が加えられ、重ねて上演されています。
 平成28年2月6日、「大槻能楽堂自主公演能」で、〈雲林院にみる原作のエネルギー・改作の充実〉をテーマとして、世阿弥自筆本と現行曲の2曲が上演されました。
 この折のパンフレットには、自筆本の詞章が掲載されていました。また、岩波・日本古典文学大系『謡曲集』(横道萬里雄・表章校注、1960)の『雲林院』にも自筆本の詞章が掲載されています。現行曲と自筆本の対比を可能ならしむるため、岩波『謡曲集』に基き、本項の末尾に、世阿弥自筆本の詞章を掲載しました。



大槻能楽堂自主公演能・番組


 上記の大槻能楽堂自主公演能のパンフレットには、現行曲と世阿弥自筆本の比較がなされています。以下、この冊子を参考にして両者の差異を眺めてみましょう。

《あらすじ》
【前場】
 不思議な夢に導かれ、都・紫野にある雲林院を訪れた芦屋の公光が、満開の桜を手折ると、老人が現われこれを咎めた。花を愛でる思いを、互いに古歌を引いて語り合うが、やがて心を通わせる。「伊勢物語」を愛読する公光が、「伊勢物語」を手に木陰にたたずむ男女、その二人はまさに在中将業平と二条の后である─という夢に惹かれてこの地を訪れたことを話すと、老人は、今夜は桜の下で休み、夢を待つようにと告げ、自分は業平であることをほのめかせて、姿を消した。
【後場・現行曲】
 公光の夢枕に、在りし日の美しい姿の在原業平の霊が現われ、「伊勢物語」の秘事を語り、昔を思い出して舞楽に興じるが、やがて夢が覚めるとともに姿を消した。
【後場・自筆本】
 公光の夢枕に、二条の后と藤原基経が現われ、「伊勢物語」の秘事や、武蔵野の野焼き狩りの様を語るが、夢が覚めるとともに、姿を消した。

《両者の差異》
 前場には大きな差異はないが、後場は著しく、別の曲と言えるくらい異なっている。
 現行曲は、業平ひとりが登場し、武蔵野も春日野もともに大内の中にあるという「伊勢物語」の秘事を展開している。
 自筆本は、二条の后とその兄の藤原基経が登場する。業平が二条の后とともに武蔵野へ遁れ、塚に籠ったのを、基経が追いかけ、ついに二条の后を取り返す事件が中心に描かれている。この場合、中入前に前シテが業平であることをほのめかしているにもかかわらず、後シテは藤原基経であり、業平が後場に登場しないのは奇異な感を受けます。

 自筆本では、主として『伊勢物語』の十二段と六段とを一連の話として、これに基いて物語を展開していると思われます。参考までに『伊勢物語』の原文を掲載します。



《六段》
 むかし、をとこありけり。女のえ得(う)まじかりけるを、年を経てよばひわたけけるを、からうじて盗み出でて、いと暗きに来けり。芥川といふ河を率(ゐ)ていきければ、草の上におきたりける露を「かれは何ぞ」となんをとこに問ひける。ゆくさき多く夜もふけにければ、鬼ある所とも知らで、神さへいみじう鳴り、雨もいたう降りければ、あばらなる蔵に、女をば奥におし入れて、をとこ、弓、胡籙(やなぐひ)を負ひて戸口に居り、はや夜も明けなんと思ひつゝゐたりけるに、鬼はや一口に食ひてけり。「あなや」といひけれど、神なるさわぎにえ聞かざりけり。やうやう夜も明けゆくに、見れば、率て来し女もなし。足ずりをして泣けどもかひなし。
  白玉かなにぞと人の問ひし時露とこたへて消えなましものを
 これは、二条の后のいとこの女御の御もとに、仕うまつるやうにてゐたまへりけるを、かたちのいとめでたくおはしければ、盗みて負ひて出でたりけるを、御兄人(せうと)堀川の大臣(おとゞ)太郎国経の大納言、まだ下﨟にて内へまゐりたまふに、いみじう泣く人あるを聞きつけて、とゞめてとりかへしたまうてけり。それを、かく鬼とはいふなりけり。まだいと若うて、后のたゞにおはしける時とや。


《十二段》
 むかし、をとこ有けり。人のむすめをぬすみて、武蔵野へ率て行くほどに、ぬす人なりければ、国の守にからめられにけり。女をば草むらのなかにおきて、逃げにけり。道来る人、「この野はぬす人あなり」とて、火つけむとす。女、わびて、
  武蔵野は今日はな焼きそ若草のつまもこもれり我もこもれり
とよみけるを聞きて、女をばとりて、ともに率ていにけり。

            (秋山虔『伊勢物語』岩波・新日本古典文学大系、1997)




《『雲林院』と詩歌》

 本曲には『和漢朗詠集』や『古今和歌集』などからの引用が多く見受けられます。以下、それらを拾ってみましょう。


《川柳に詠まれた『雲林院』》

 最初に、『雲林院』を扱った川柳を、すこし鑑賞したいと思います。
 川柳では、謡曲よりも上掲の『伊勢物語』の第六段「芥川」を題材にしたものが多く見受けられます。それらの中から、私の好きな句を3句取り上げました。

  芥川神代もきかぬ不埒なり
  連れて逃げなよと二条の后いひ
  やわやわと重みのかゝる芥川

 業平は藤原高子と駆け落ちをします。高子はすでに清和天皇の后となることが決まっており、すぐさま追手がかけられます。業平は高子をおぶって芥川をわたるが、結局は捕まってしまいます。
 初句は、百人一首にある業平の歌「ちはやぶる神代もきかず龍田川からくれなゐに水くくるとは」をもじったもの。
 二句目、高子が二条の后と呼ばれるのはまだ先のことですが…。高貴な家のお嬢さんを、男に夢中になった町娘になぞらえて、蓮っ葉な言葉遣いをさせたところが、なんともおかしい。
 三句目、業平は高子を背負って芥川を渡ります。十二単に包まれた彼女の肢体は柔らかな重みを感じさせたことでしょう。そしてそれが次第に重くなっていく…。ほのかにエロチシズムを感じさせる句です。



《現行『雲林院』と和漢朗詠集》

 続いて、『和漢朗詠集』からの引用です。(『朗詠集』所収の和歌は、次項の「『雲林院』と和歌」に含めています。)


サシ ワキ花の新に開くる日初陽(そやう)潤へり。鳥の老いて歸る時。薄暮(はくぼ)(くも)れる春の夜の。月の都に急ぐなり


  花の新たに開くる日初陽(そやう)潤へり
  鳥の老いて歸る時薄暮(はくぼ)(くも)れり

 菅原文時「春色雨中に尽きたり」の一節。
 早春、花が新しく開くころは、春雨にしっとりうるおって、朝日の影さえしめやかでした。うぐいすも年老いて、谷の古巣に帰り、春が尽きようとしている今日は、春最後の雨に、夕暮れの空もうち曇っています。


ワキ遥かに人家を見て花あれば便(すなは)ち入るなればと。木陰(こかげ)に立ち寄り花を折れば


  遥かに人家を見て花あれば便(すなは)ち入る
  貴賤と親疎とを論ぜず

 白居易 「春を尋ねて諸家の園林に題す」の一節。
 花を尋ねて散策しはるかに人の家を見て、そこに花が咲いていれば入っていってその花をめでるのです。花のあるじが、身分の高い人であろうと低い人であろうと、親しかろうと疎かろうと、そんなことにはかまいもしません。


シテ誰そやう花折るは。今日は朝(あした)の霞消えしまゝに。夕べの空は春の夜の。殊に長閑(のどか)に眺めやる。嵐の山は名にこそ聞け。まことの風は吹かぬに。花を散らすは鶯の。羽風に落つるか松の響きか人か。それかあらぬか木の下風か。あら心もとなと散らしつる花や。や。さればこそ人の候。落花狼藉(らつくわらうぜき)の人其處(そこ)退き給へ


  落花狼藉(らつくわらうぜき)たり風狂じて後
  啼鳥(ていてう)龍鐘(りようしよう)たり雨の打つ時

 大江朝綱 「残春を惜しむ」の一節。
 春の嵐が吹き荒れたあとは、落花があられもなく地上に散り乱れています。晩春の雨がしとしとと降り注ぐとき、うぐいすが疲れたような声でしょんぼり啼きます。


シテ 詞さやうに詠(よ)むもありまた或歌に。春風は花のあたりを避(よ)ぎて吹け。心づからやうつろふと見ん。げにや春の夜の一時を千金に替へじとは。花に清香(せいきやう)月に影。千顆万顆(せんくわばんくわ)の玉よりも。寶と思ふこの花を。折らせ申す事は候まじ


  日に瑩(みが)き風に瑩く 高低千顆万顆(せんくわばんくわ)の玉
  枝を染め浪を染む 表裏(へうり)一入再入(いつじふさいじふ)の紅

 菅原文時 「暮春、宴に冷泉院の池亭に侍して、同じく花の光水上に浮ぶを賦し、製に応ず」の一節。
 池のほとりに、みごとに咲きそろった桜の花は、たとえてみれば、日の光にみがかれ、風にみがかれた千粒万粒の珠が、高く低く枝にかかって輝いているような美しさです。また、鮮やかな紅の染料が、枝を染め、その枝を映している池の波を染めて、まるで裏と表を薄く濃く染めわけた衣のようにも見えます。

  春宵一刻 値 千金
  花に清香あり 月に陰あり
 『和漢朗詠集』とは無関係ですが、現在でもよく引用されている、蘇軾「春夜」の一節です。
 一刻千金に値する春の夜、その高価さを一つ一つの対象に分けることはできないが、とりわけ清らかな香りをはなつ花、そしておぼろにかすむ月。


ワキげにげにこれは御理(ことわり)。花もの言はぬ色なれば。人にて花を戀衣  シテ輕漾(けいやう)激して影唇を動かせば。我は申さずとも  ワキ花も惜しきと  シテ言ひつべし


  誰か謂(い)つし水心無しと 濃艶(ぢようえん)臨んで波色なみいろを變ず
  誰か謂つし花語(ものい)はずと 輕漾(けいやう)激して影脣(くちびる)を動かす

 菅原文時 「暮春、宴に冷泉院の池亭に侍して、同じく花の光水上に浮ぶを賦し、製に応ず」の一節。
 水に心がないといったのはだれだったか、そんなことがありましょうか。色濃く美しい花が水面をのぞきこむと、水も色をかえてこたえるではありませんか。また、花はものをいわぬともいったが、そんなこともありません。池にさざ波が立つときに花の影がゆれ動くのは、花が唇を動かしているのです。



《現行『雲林院』と和歌》

上歌 (ワキ・ワキツレ)松蔭に。煙をかづく尼が﨑。煙をかづく尼が﨑。暮れて見えたる漁火(いさりび)のあたりを問へば難波津に。咲くや木の花冬籠り。今は現(うつつ)に都路の。遠かりし。程は櫻にまぎれある雲の林に.着きにけり雲の林に着きにけり

 (古今和歌集・仮名序)
 そもそも、歌のさま、六つなり。唐の歌にもかくぞあるべき。その六種の一つには、そへ歌。大鷦鷯(おほささぎ)の帝をそへ奉れる歌。
  難波津に咲くや木(こ)の花冬こもり今は春べと咲くや木の花
といへるなるべし。

による。「ここは難波津で、古歌で名高い花が咲いているのを確かに眺めて…」の意。

シテまことの風は吹かぬに。花を散らすは鶯の。羽風に落つるか松の響きか人か。それかあらぬか木の下風か。あら心もとなと散らしつる花や。

 (古今和歌集・春歌下、109 素性法師)
 木伝えばおのが羽風に散る花を誰におほせてこゝら鳴くらむ

 鶯の葉風に花の散ることは、和歌にしばしば詠まれている。

ワキ 詞何とて素性(そせい)法師は。見てのみや人に語らん櫻花(さくらばな)。手毎に折りて家苞(いへづと)にせんとは詠みけるぞや

 (古今和歌集・春歌上、55 素性法師)
 見てのみや人にかたらむさくら花てごとにをりていへづとにせん


シテ 詞さやうに詠(よ)むもありまた或る歌に。春風は花のあたりを避(よ)ぎて吹け。心づからやうつろふと見ん。

 (古今和歌集・春歌下、85 藤原好風)
 春風は花のあたりをよぎてふけ心づからやうつろふとみん


上歌 地げに枝を惜しむは又春のため手折(たを)るは。見ぬ人のため。惜しむも乞ふも情あり。二つの色の爭ひ柳櫻をこき交(ま)ぜて。都ぞ春の.錦なる都ぞ春の錦なる

 (古今和歌集・春歌上、56 素性法師)
 みわたせば 柳櫻をこきまぜて 宮こぞ春の錦なりける


シテその花衣を返して着、又寝の夢を待ち給へ


  (古今和歌集・恋歌二、554 小野小町)
  いとせめて恋しき時はうばたまの夜の衣を返してぞ着る

による。「花の下に片敷く衣を裏返しに着て寝て、逢いたい人をまた夢見ることを期待しなさい」の意。

待謡 ワキ・ワキツレいざさらば。木陰の月に臥して見ん。木陰の月に臥して見ん。暮れなばなげの花衣。袖を片敷き.臥しにけり袖を片敷臥しにけり

 (古今和歌集・春歌下、95 素性法師)
 いざ今日は春の山辺にまじりなむ暮れなばなげの花のかげかは

 素性法師が雲林院の常康親王にあてて、花見のためきたやまのあたりに行っていたおりに詠んだ歌。「花かげ」を雲林院として、そこに宿を求める歌とみる説が大勢である。「なげの」は、なさそうな、から転じて、気のなさそうな、なおざりの、などの意。

後シテ月やあらぬ。春や昔の春ならぬ。我が身一つは。もとの身にして

 (伊勢物語 四段)
 むかし、東(ひんがし)の五条に大后(おほきさい)の宮おはしましける、西の対に住む人有けり。それを本意(ほい)にはあらでこころざし深かりける人、行きとぶらひけるを、正月(むつき)の十日ばかりのほどに、ほかにかくれにけり。ありどころは聞けど、人の行き通ふべき所にもあらざりければ、猶憂しと思ひつゝなんありける。又の年の正月に、梅(むめ)の花ざかりに、去年(こぞ)を恋ひて行きて、立ちてみ、ゐてみ見れど、去年に似るべくもあらず。うち泣きて、あばらなる板敷に月のかたぶくまでふせりて、去年を思ひでてよめる。
  月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして
とよみて、夜のほのぼのと明くるに、泣く泣く帰りにける。

 昔、東の京の五条に、大后の宮がおられたお邸の西の対に住む女人があった。その人を、本心からというふうではなかったが、じつは深く思い慕っていた男が、訪れてはいたのだが、正月十日あたりのころに、その女人は、よそに姿を隠してしまった。どこそこにいる、とは聞き知ったが、それは特別な人ではないかぎり行き通うことができる所でもなかったので、男はそのまま憂鬱な気持で、過ごしていたというわけだった。翌年の正月がめぐってきて、梅の花が盛りと咲いている。そうした時に、男は去年を恋しく思い、五条の西の対に行って、立って見たり、すわって見たりなどして、あたりを見まわしたが、去年眺めた感じとはまるでちがう。男はさめさ゜めと泣いて、住む人もなく、帰庁敷物など取り払ってがらんとした板敷に、月が西の方に傾くまでにじっと臥せって、わいてくる去年の思い出を歌にした。
 (月は昔の月ではないのだろうか、春は昔の春ではないのだろうか、皆移ろい行ったようだ。私の身一つはもとのままなのに、あの人もいないのだ)
男はこう詠んで、夜がほのぼのと明けるころに、涙ながらに帰っていった。

クセ 如月や。まだ宵なれど月は入り。我等は出づる戀路かな。そもそも日の本の。中に名所と云ふ事は。我が大内に在りかの遍照が連ねし。花の散り積る芥川をうち渡り。思ひ知らずも迷ひ行く。

 (古今和歌集・物名、435 僧正遍照)
 散りぬればのちはあくたになる花を思ひ知らずも迷(まど)ふてふかな


(クセ アゲハ前)思ひ知らずも迷ひ行く。被ける衣(きぬ)は紅葉襲(がさね)。緋の袴踏みしだき。誘ひ出づるやまめ男。紫の。一本結(ひともとゆい)の藤袴。萎(しを)るゝ裾をかい取つて>

 (古今和歌集・雑歌上、867 読人しらず)
 紫のひともとゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る

に基づき、「一本故」を「元結」に転じ、その色が「藤(色)」と言いかけて「藤袴」に続けている。「藤袴」は襲の色目の名で、表裏とも紫である。

(クセ アゲハ後)シテ信濃路や  地「園原茂る木賊色(とくさいろ)の。狩衣の袂を冠の巾子(こじ)にうち被(かづ)き。忍び出づるや如月の。黄昏月もはや入りて。いとゞ朧夜に。降るは春雨か。落つるは涙かと。袖うち拂ひ裾を取り。しをしをすごすごと。たどりたどりも迷ひ行く

 (古今和歌集・春歌下、88 大伴黒主)
 春雨の降るは涙かさくら花散るを惜しまぬ人しなければ


シテ松の葉の散り失せず  地松の葉の散り失せず。末の世までも情知る。言(こと)の葉草の假初(かりそめ)に。かく顯(あらは)せるいにしへの。伊勢物語。語る夜もすがら覚むる夢となりにけりや.覚むる夢となりにけり

 (古今和歌集・仮名序)
 それ、まくらことは、春の花匂ひすくなくして、空しき名のみ、秋の夜の長きをかこてれば、かつは人の耳に恐り、かつは歌の心に恥ぢ思へど、たなびく雲の立ち居、鳴く鹿の起き臥しは、貫之らがこの世に同じく生れて、このことの時にあへるをなむ喜びぬる。
 人麿亡くなりにたれど、歌のこととどまれるかな。たとひ時移り事去り、楽しび悲しびゆきかふとも、この歌の文字あるをや。青柳の糸絶えず、松の葉の散り失せずして、真拆の葛、長く伝はり、鳥の跡、久しくとゞまれらば、歌のさまを知り、ことの心を得たらん人は、大空の月を見るがごとくに、いにしへを仰ぎて、今を恋ひざらめかも。



《自筆本『雲林院』と和歌》

 「世阿弥自筆本」に引かれた和歌を抽出しています。前段は現行曲と大きな差異はありません。本項の末尾に「世阿弥自筆本」を掲載し、該当箇所には下線と参照番号を付しています。


上歌 ワキ松蔭に、煙を被く尼が﨑、煙を被(かづ)く尼が﨑、暮れて見えたる漁り火の、あたりを問へば難波津に、咲くや木の花冬籠もり、今は現(うつつ)に都路の。遠かりし、程は桜に紛れつる、雲の林に着きにけり、雲の林に着きにけり

 (現行曲①参照)


ワキ 夢に見しごとくの古跡と見えて。甍(いらか)破れ瓦に松生(お)ひたる氣色なるに。花は昔を忘れぬかと。見えたる氣色の面白さよ

  (玉葉和歌集・雑一、1898 諄子内親王)
  住む人も宿もかはれる庭の面に見し世を殘す花の色かな

などの心を引いている。

シテ まことの風は吹かぬに、花を散らしつろはもし人の手折るかさなくはまた、枝を木傳(こづ)たふ鶯の、羽風か松の響きか人か、それかあらぬか木の下風か、あら心もとなと散らしつる花やな

  (現行曲②参照)


ワキ なにとて素性法師は、見てのみや人に語らん桜花、手ごとに折りて家苞(いへづと)にせんとは詠みけるぞ

  (現行曲③参照)


シテさやうに詠むもありまたある歌には、春風は花のあたりを避(よ)ぎて吹け、心づからや移ろふと見ん

  (現行曲④参照)


 歌 げに枝を惜しむはまた春のため、手折るは見ぬ人のため
 上歌惜しむも乞ふも情あり、惜しむも乞ふも情あり、ふたつの色の争ひ、柳桜をこき交ぜて、都ぞ春の錦なる、都ぞ春の錦なる

  (現行曲⑤参照)


シテその花衣を返して着、又寝の夢を待ち給へ

  (現行曲⑥参照)


上歌わが名を今は明石潟  地わが名を今は明石潟、花をし思ふ心ゆゑ、木隠れの花に現はるる、まことに昔を恋ひ衣、ひと枝の花の蔭に寝て、わが有様を見給はば、その時不審を開かんと、夕べの空のひと霞、思ほえずこそなりにけれ

  (古今和歌集・羈旅歌、409 読人しらず─柿本人麿とも)
  ほのぼのとあかしの浦の朝霧に島隠れゆく舟をしぞ思ふ

 「ほのぼのと明石の~」の歌をもじり、明石潟を原歌の「舟をしぞ思ふ」に代えて「花をし思ふ」の序としたらしい。

 ツレ恥ずかしながらいにしへは、二条の后といはれし身の、なほ執心の花は根に、鳥は古巣に帰り来ぬ

  (千載和歌集・春歌下、122 崇徳院)
  花は根に鳥は古巣に帰るなり春のとまりを知る人ぞなき

により、「花は根に、鳥は古巣に」が「帰り来ぬ」の序となっている。この歌は、和漢朗詠集、清原滋藤「花は根に帰らむことを悔ゆれども悔ゆるに益なし、鳥は谷に入らむことを期すれども定めて期を延ぶらむ」に基づいている。

上ノ詠 地武蔵野は、けふはな焼きそ若草の、夫(つま)も籠もれり、われも籠もれり

  (伊勢物語・十二段、古今和歌集・春歌上、17 読人しらず)
  武蔵野は今日はな焼きそ若草のつまもこもれりわれもこもれり

古今集の初句は「春日野の」。

下ノ詠 シテ白玉か、何ぞと問ひしいにしへを、思ひ出づやの、夜半の曉(あかつき)

  (伊勢物語・六段、新古今和歌集・巻四・哀傷歌、851 在原業平)
  白玉か何ぞと人の問ひし時つゆとこたへて消えなましものを

の歌を引く。新古今集の結句は「消なましものを」。「それは白玉か、とあの人が尋ねた時、私は悲しい心で浮かぶ涙を、露と答えて、その露のようにはかなく死んでしまったらよかったのに」の意。

掛合 ツレ海人の刈る藻に住む虫のわれからと、思へば世をも恨みぬものを

  (古今和歌集・恋歌五、807 典侍藤原直子)
  海人の刈る藻に住む虫のわれからと音をこそ泣かめ世をば恨みじ

の歌による。

シテよしや恨みも忘れ草、夢路に帰る物語り、只今今宵現はして、かの旅人に見せ給へ

  (古今和歌集・恋歌五、766 読人しらず)
  恋ふれども逢ふ夜のなきは忘れ草夢路にさへや生ひしげるらむ

の歌を引く。

ロンギ 地年を経て、住み来し里を出でて往(い)なば、住み来し里を出でて往なば、いとど深草、野とやなりなんと、亡き世語りも恥ずかしや

  (伊勢物語・百二十三段、古今和歌集・雑歌下、971 在原業平)
  年を経てすみこし里をいでていなばいとど深草野とやなりなむ


シテ野とならば、鶉となりて泣き居らん、假だにやは、君が来ざらんと、慕ひ給ひしもあさましや

  (伊勢物語・百二十三段、古今和歌集・雑歌下、972 読人しらず)
  野とならばうづらとなりて鳴きをらむかりにだにやは君は来ざらむ

 古今集の第二・三句は「うづらと鳴きて年は経む」。

げに心から唐衣、着つつ馴れにし妻しあれば  シテ遙々来ぬる、恋路の坂行くは

  (伊勢物語・九段、古今和歌集・羈旅歌、410 在原業平)
  から衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬるたびをしぞ思ふ


シテ遙々来ぬる、恋路の坂行くは、苦しや宇津の山  地現か夢か行き行きて

  (伊勢物語・九段)
  駿河なるうつの山辺のうつつにも夢にも人にあはぬなりけり


シテ遙々来ぬる、恋路の坂行くは、苦しや宇津の山  地現か夢か行き行きて、隅田川原の都鳥  シテいざ言問はん武蔵野とは

  (伊勢物語・九段、古今和歌集・羈旅歌、411 在原業平)
  名にしおはばいざ言問はむみやこどりわが思ふ人はありやなしやと

による。

まことは春日野の、まことは春日野の、飛ぶ火の野守も出でて見よや、上は三笠山、麓は春日野に、伏すや牡鹿の夫も籠もりし、この武蔵塚よりも、終に后を取り返して、帰ると思へば夜も明けて、あたりを見れば、武蔵野にても春日野にもなく、所は都紫野の、雲林院の花のもとに、雲林院の、花の基経や后と見えしも、夢とこそなりにけれ、皆夢とこそなりにけれ

  (古今和歌集・春歌上、18 読人しらず)
  春日野の飛火の野守いでて見よいまいく日ありて若奈摘みてむ

に基づき、「出でて見よ」を導く。




 以下に「世阿弥自筆本」による詞章を掲載します。この詞章は、岩波書店・日本古典文学大系『謡曲集』(横道萬里雄・表章校注、1960)に基づいています。なお、上記の「自筆本と和歌」の該当箇所に下線を施しています。

次第 ワキ藤咲く松も紫の、藤咲く松も紫の、雲の林を尋ねん。
名ノリ ワキこれは津の國芦屋の里に公光(きんみつ)と申す者なり、われ若年のいにしへ、さるおん方より伊勢物語を相傳し明け暮れ玩(もてあそ)び候、ある夜の夢にとある花のもとに束帯ひ給へる男、紅の袴召されたる女性、かの伊勢物語の冊子(さうし)をご覧じて、木蔭に立ち給ふをあたりにありし翁に問へば、これこそ伊勢物語の根本在中将業平、女性は二條の后、所は都紫野の雲の林と語ると思ひて夢覺めぬ、あまりにあらたなりつる夢なれば、急ぎ都に上りかの所をも尋ねばやと思ひつつ
下歌 ワキ芦屋の里を立出でて、われは東に赴けば、名残の月の西の宮、潮の蛭子(ひるこ)の浦遠し、潮の蛭子の浦遠し
上歌 ワキ松蔭に、煙を被く尼が﨑、煙を被(かづ)く尼が﨑、暮れて見えたる漁り火の、あたりを問へば難波津に、咲くや木の花冬籠もり、今は現(うつつ)に都路の。遠かりし、程は桜に紛れつる、雲の林に着きにけり、雲の林に着きにけり

ワキ 詞面白やな花の都の北山陰、紫野に来て見れば、夢に見しごとくの古跡と見えて、甍(いらか)破れ瓦に松生ひたる気色(けしき)なるに、花は昔を忘れぬかと、見えたる気色の面白さよ、所は夢に違はねども、逢ひ見し人は見え給はず、かくてはいつまであるべきぞ、帰らん道の家苞(いへづと)にと、木陰に立ち寄り花を折る
シテ 詞たそやう花折るは、けふは朝の霞消えしままに夕べの雲も春の日の、ことにのどかにて眺め遣(や)る、嵐の山も名にこそ聞け、まことの風は吹かぬに、花を散らしつろはもし人の手折るかさなくはまた、枝を木傳(こづ)たふ鶯の、羽風か松の響きか人か、それかあらぬか木の下風か、あら心もとなと散らしつる花やな
問答 シテさればこそこれに人のありけるぞや、花守りの候ふぞ、花を散らしつるはみ内でわたり候ふか、あら落花狼藉(らつくわらうぜき)の 人やそこ退き給へ  ワキそれ花は乞ふも盗むも情あり、とても散るべま花な惜しみ給ひそ  シテとても散るべき花なれども花に憂きは嵐、さりながら風も花をこそ誘へ枝を手折り給へば、おことは花のためは風よりも辛き人やあらなにともなの人や  ワキなにとて素性法師は、見てのみや人に語らん桜花、手ごとに折りて家苞(いへづと)にせんとは詠みけるぞ  シテさやうに詠むもありまたある歌には、春風は花のあたりを避(よ)ぎて吹け、心づからや移ろふと見ん、春の夜のひと時をば千金にも替へじとは、花に清香月に影、然れば千顆萬顆(せんくわばんくわ)の玉よりも、宝と思ふこの花を、折らせ申すこと候ふまじ  ワキされば花物言はずとこそ見えたれ、人にてはなを恋ひ心のあるは理ならずや  シテ軽漾激して影唇を動かせば、われは申さずとも花を惜しきと言つつべし

げに枝を惜しむはまた春のため、手折るは見ぬ人のため
上歌惜しむも乞ふも情あり、惜しむも乞ふも情あり、ふたつの色の争ひ、柳桜をこき交ぜて、都ぞ春の錦なる、都ぞ春の錦なる

問答 シテおことはいかなる人にてましませばこの花のもとに休らひ夜に入るまではおんわたり候ふぞ  ワキこれは津の國芦屋の里に公光と申す者にて候ふが、伊勢物語を玩び候ふゆゑかこのご在所を夢に見參らせて候ひしほどにこれまで尋ね参りたり、所は紫野雲の林とまさしく承りて候  シテ雲の林とは雲林院候、これこそ二条の后の御山荘の跡にて候へ、さては志を感じ、二条の后のこの花のもとに現はれ伊勢物語をなほなほおことに授けんとのおんことにてぞ候ふらん、花の下臥しして夢を待ちてご覧候へ  ワキさらば今夜は木蔭に臥し、別かれし夢をまた返さん  シテその花衣を返して着、又寝の夢を待ち給へ  ワキかやうに詳しく語り給ふ、おん身はいかなる人やらん  シテその様年の古びやう、昔男となど知らぬ  ワキさては業平にてましますか  シテいや
上歌わが名を今は明石潟  地わが名を今は明石潟、花をし思ふ心ゆゑ、木隠れの花に現はるる、まことに昔を恋ひ衣、ひと枝の花の蔭に寝て、わが有様を見給はば、その時不審を開かんと、夕べの空のひと霞、思ほえずこそなりにけれ 〈中入〉

掛合 ワキ不思議な夜更くるままの花のもとに、さもなまめける女人、紫の薄衣(うすぎぬ)に紅の袴召されたるが、忽然として現はれ給ふ、いかなる人にてましますぞ  ツレ恥ずかしながらいにしへは、二条の后といはれし身の、なほ執心の花は根に、鳥は古巣に帰り来ぬ  ワキさては現に聞き及べる、二条の后にてましますかや、然らば夢中に伊勢物語の、その品々を見せ給へ  ツレいでいで昔を語らんとて、花の嵐も聲添へて、その品々を語りけり

クリ 地そもそもこの物語りは、いかなる人のなにごとによつて、思ひの露を添へけるぞと、言ひけんことも理(ことわり)かな
サシ ツレまづは武蔵野と詠じ、または春日野の草葉の色も若緑  地色を変へ花を摘みて、その品々もいかならん、げにげに伊勢や日向のことは、たれかは定めありぬべき
下歌 地武蔵塚と申すは、げに春日野のうちなれや、然れば春日野の、牡鹿の角の束の間も、隠れかねたる聲立てて、一首のご詠かくばかり
上ノ詠 地武蔵野は、けふはな焼きそ若草の、夫(つま)も籠もれり、われも籠もれり

サシ シテそもそもこれはかの后のおん兄(せうと)、基経が魄霊(はくれい)なり、さてもこの物語の品々、夢中に現はし見せんとて、后もここに現はれて、伊勢物語の所から、武蔵野はけふはな焼きそ若草の、夫(つま)とは業平ご詠は后を、取返ししはわれ基経が、鬼ひと口の姿を見せんと、形は悪鬼身は基経か
一セイ シテ常なき姿に業平の  地昔を今になすとかや
下ノ詠 シテ白玉か、何ぞと問ひしいにしへを、思ひ出づやの、夜半の曉(あかつき)

掛合 ツレ海人の刈る藻に住む虫のわれからと、思へば世をも恨みぬものを  シテよしや恨みも忘れ草、夢路に帰る物語り、只今今宵現はして、かの旅人に見せ給へ  ツレ忘れて年を経しものを、またいにしへをば見ゆまじとた、武蔵野さして逃げて行けば  シテ武蔵野に果てはなくとても 恋路に限りなかるべきか、いづくまでかは忍び妻の  ツレ昔も籠もりし武蔵塚の、内に逃げ入り隠れければ  シテまさしくここまで見え給ひつるが、おんうしろ影も絶えにけり、暗さは暗しいかがせん
歌 シテこの野に火をとぼし  地この野に火をとぼし、焼き狩りのごとく漁(あさ)り行けば、ここにひとつの塚あり、この内こそ怪しけれとて  シテ松明(しようめい)振り立てて、  地松明振り立てて、塚の奥に入りて見れば、さればこそ案のごとく、后はここにましましけるぞや、げにまこと名に立ちし、まめ男とはまことなりけり、あさましや世の聞こえ、あら見苦しの后の宮や

ロンギ 地年を経て、住み来し里を出でて往(い)なば、住み来し里を出でて往なば、いとど深草、野とやなりなんと、亡き世語りも恥ずかしや  シテ野とならば、鶉となりて泣き居らん、假だにやは、君が来ざらんと、慕ひ給ひしもあさましや  地げに心から唐衣、着つつ馴れにし妻しあれば  シテ遙々来ぬる、恋路の坂行くは、苦しや宇津の山  地現か夢か行き行きて、隅田川原の都鳥  シテいざ言問はん武蔵野とは  地まことに東か  シテもしは都か  地まことは春日野の、まことは春日野の、飛ぶ火の野守も出でて見よや、上は三笠山、麓は春日野に、伏すや牡鹿の夫も籠もりし、この武蔵塚よりも、終に后を取り返して、帰ると思へば夜も明けて、あたりを見れば、武蔵野にても春日野にもなく、所は都紫野の、雲林院の花のもとに、雲林院の、花の基経や后と見えしも、夢とこそなりにけれ、皆夢とこそなりにけれ




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  (平成28年 5月27日・探訪)
(平成28年 9月 4日・記述)


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