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甲州石和・遠妙寺 〈鵜飼〉


 2016年11月9日、謡曲『鵜飼』の謡蹟を、山梨県石和の遠妙寺に訪れました。
 山梨県に立ち寄ったのは今回が初めての経験です。遠妙寺は、JR石和温泉駅から南下し、国道411号線を東に進んだところにあり、そこから南下した笛吹川には鵜飼橋が架かっています。なお笛吹川は古くは石和川と呼ばれていたのでしょうか、謡曲では石和川と謡われており、以下の由緒書き等でも石和川となっていました。

遠妙寺周辺地図



 

《鵜飼山遠妙寺》  山梨県笛吹市石和町市部1016

 国道に面して山門が建てられています。門の扁額には「鵜飼山」の山号が刻まれています。門前左手には「宗門川施餓鬼根本道場」の石柱が、右手には、やや小さく「福衆開運大黒天」の石柱が建てられています。当寺は七福神まいりの一霊場でもあるようです。


国道に面した山門



 以下は山門の横に掲げられた、旧石和町による当山の由緒書きです。

 弘安年間(1280年頃)日蓮上人の弟子日朗上人、宗祖日蓮が鵜飼勘作の亡霊に法験を遺した旧地に近いところに一草庵を結び、鵜飼の寺と称し、のち慶長年間(1600年頃)鵜飼山遠妙寺と改めた。身延五ヶ寺の一つで、同宗川施餓鬼の根本道場であり、毎年9月29日盛大な川施餓鬼を執行する。
 同寺には鵜飼勘作の伝説に関するものが多く、鵜飼堂(勘作の墓を納む)、鵜飼天神、また以前鵜飼河畔にあった勘作の供養塔も甲府バイパス開設の敷地内になったため、現在は鵜飼堂の前に移してある。
 寺には多くの寺宝があるが、特に経石7個、鵜石1個、ビク石1個、大黒石1個などは、いずれもその昔鵜飼川で拾ったものと言われている。
 境内には願生稲荷が祀ってある。昔古城(今の武田神社)の稲荷が、当宿原山の七右エ門老母の体を借りて、法華経の功徳を得んと鵜飼山遠妙寺に勧請してもらったとのいわれがある。
 謡曲『鵜飼』は、勘作の伝説を世阿弥元清が作ったもので、今日に伝えられている。


仁王門


 山門から参道を進むと、立派な仁王門が建てられています。仁王門の扁額は「遠妙寺」。当寺の敷地はわりあい狭く、本堂と庫裏のほかには墓地があるくらいですが、この仁王門は誠に立派な造りで、平面的な他の建物とは不釣り合いな感があります。以下、山門に掲げられた「鵜飼山遠妙寺と仁王門」と題した説明書きです。上記の由緒書きと重複部分も多くありますが、全文を掲載します。

 遠妙寺は、日蓮宗身延五ヶ寺の一つで、本尊は十界曼荼羅である。本堂・庫裏・客殿・総門・仁王門・鐘楼・七面堂・漁翁堂・願生稲荷堂などの風格のふる建物を有する寺である。弘安年中、日蓮の弟子日朗が一宇を設け、鵜飼堂と称し、のち慶長年間日遠が鵜飼山遠妙寺に改めた。寺記に、平時忠漂泊の郷が石和とされ、時忠は鵜使いを生業としたが、禁漁を犯し、簀巻きの刑に処せられて沈殺された。その怨念を持って石和川の鬼となった亡霊を、文永11年(1274)日蓮が、石和川岩落にて済度し給うたと伝える。世阿弥の謡曲『鵜飼』とのかかわり深い寺である。なお、鵜飼漁翁は鵜飼勘作として知られる。寺宝に、日蓮真筆本尊・鵜飼の経石7個などがある。
 仁王門は、三間一戸側面二間楼門重層入母屋造瓦葺で、江戸末期のものである。再建は寛政7年(1789)とあり、未完成の部分が多く見られたが、平成16年の解体修理手で完成した。安置仏は密迹金剛神、執金剛神の2体で、6尺2寸(2メートル余)の軀高を持っている。石和町唯一の仁王門として貴重な建造物である。

 まさか、このようなところで平時忠の伝承、それも時忠が鵜使いになっていたという伝承に出会うとは、思いもよらぬことでありました。
 本尊の「十界曼荼羅」とは、あまり聞きなれない言葉なので調べてみました。「日蓮宗の本尊。日蓮の創始した曼荼羅図。図中央に「南無妙法蓮華経」の題目を大書,その周囲に十界を書き,これによって『法華経』の真実を図示したものとする。すなわち,中央と周囲との関係は,久遠成仏の本仏と迹門としての世界との一体不二の妙理を示す。」ということのようです。



本堂

御朱印

 本堂の前には日蓮上人の立像が建てられており、本堂に向かって左手は墓地となっています。墓地の入り口に、謡曲史蹟保存会の駒札が建てられており、その奥に漁翁堂があります。


日蓮上人像

謡曲史蹟保存会の駒札、奥に漁翁堂


 以下は「謡曲『鵜飼』と鵜飼勘作」と題した、謡曲史蹟保存会の駒札からの転載です。

 謡曲「鵜飼」は殺生を戒め、法華の功徳を説いた曲で、日蓮の高徳説話の一つである。
 安房国(千葉県)清澄の僧(日蓮)が甲斐国(山梨県)石和に行き、川端の堂に泊まっていると鵜飼の老人が来る。縦僧がこの老人は二、三年前に接待を受けた漁翁に似ているというと、老人は実はその亡霊であるという。そして僧の言葉に従って懺悔のために鵜飼の様を語り、回向を願って消え失せる。
 僧が法華経の句を一石に一字を書いて川に投げ回向をしていると閻魔王が現われ、かの鵜飼は罪深くて地獄に堕つべきものであったが、僧を接待した功徳によって、これから極楽に送るのであると語る。
 この曲は世阿弥元清が鵜飼勘作(平大納言時忠卿)の伝説をもとに作ったものといわれ、鵜飼堂と勘作の供養塔がある。

 シテの鵜使いが、禁漁を犯したために殺された次第を語るシーンです。


シテ 語「そもそもこの石和川いさわがはと申すは。上下かみしも三里が間は堅く殺生禁断の所なり。今仰せ候岩落いはおち辺に鵜使いは多し。な夜なこの所に忍びのぼつて鵜を使ふ。憎き者の仕業しわざかな。彼を見顕みあらはさんとたくみしに。それをば夢にも知らずして。また或夜忍び上つて鵜を使ふ。狙ふ人々ばつと寄り。一殺いつせつ多生たしやうの理に任せ。彼を殺せと言ひあへり。その時左右さうの手を合はせ。かゝる殺生禁断の所とも知らず候。向後きやうこうの事をこそ心得候べけれとて。手を合はせ歎き悲しめども。助くる人も波の底に  下歌罧刑ふしづけにし給えば叫べど聲が出でばこそ。その鵜使の亡者まうじやにて候




漁翁堂


 なかなか信じ難い物語であり、またどのような経緯で伝えられたものなのか、はなはだ疑問ですが、鵜飼勘作が平時忠であったという言い伝えが、当地には古くから遺されているようです。しかしながら平時忠は配流先の能登で没したとするのが一般的であり、その子孫は時国家として現在まで続いています。かつて「平家に非ずんば人に非ず」と豪語していた時忠が、当地で鵜使いになっていたとは、全く信じ難いことです。以下は当寺のパンフレットに記された「鵜飼勘作物語」です。

 鵜飼勘作とは元の名を平大納言時忠と言い、平清盛の北の方二位殿の弟という。平家壇の浦に滅びた時、時忠卿が三種の神器の一つ「神鏡」を朝廷へ奉還した功が認められ、一命を助けられて能登の国へ流罪となった。而しこの地も安住の地ではなく、時忠卿は程なく能登を脱出、遠く甲斐へ遁れて来て石和の里へ住み着き、公卿時代遊びで覚えた「鵜飼」を業とするようになった。たまたま南北十八丁三里の間、殺生禁断の地と定められていた「法城山観音寺」の寺領を流れる石和川で漁をしていた事が知れ、村人に捕らえられ“簀巻き”にされて岩落の水底に沈められた。以来亡霊となって昼夜苦しんでいた処、巡教行脚の旅僧、即ち日蓮上人の法力によって成仏得脱した。
 現在では、この鵜飼勘作の物語をもとにして、平安時代から続いたといわれる「徒歩鵜(かちう)」を再現、石和温泉の夏の風物詩として多くの人を楽しませている。

 それでは、謡曲『鵜飼』について考察いたしましょう。


   謡曲「鵜飼」梗概
 『申楽談義』に「鵜飼、柏崎などは榎並左衛門五郎作也。さりながら、いづれも悪きところをば除き、良きことを入れられければ、皆世子の作なるべし」とあり、榎並左衛門五郎の原作を世阿弥が改作したものである。ちなみに榎並左衛門五郎は摂津の榎並座の役者。榎並座は室町中期には金春座に吸収された模様である。
 典拠は未詳であるが、『甲斐国志』に鵜飼山遠妙寺について「日蓮宗身延客末五寺ノ一ナリ。日蓮石和川ニ於テ漁人ノ霊ニ逢ヒテ済度セシ旧蹟ナリ」と記し、また当寺の寺記を引いて「此精舎ハ宗祖法験ヲ遺スノ旧地、幽魂慈救ヲ索ムルノ古宅ナリ。山ハ鵜飼ト名ケ、寺ハ遠妙ト号ス。蓋シ久遠ノ妙法ニ由リ、時ニ応徴ヲ彰シ、鵜飼ノ霊魂、随ヒテ開解スルコトヲ得、以テ此ノ称ヲ設クルナラント」とも述べている。ただし『甲斐国志』は後世の書であり、遠妙寺記も謡曲以後のものに相違なく、これらを典拠としたとは言い難いが、とにかく殺生禁断に関する説話が古くからあって、それが阿漕が浦や石和川にも付会せられて、その土地の伝説となったものであろう。本曲は、こうして出来た石和川の伝説に基づき、それに「法華経」の功徳を強調すべく脚色を加えたものであろう。
 安房の清澄の僧が甲斐へと向かう。石和川の畔の堂に泊まっていると、夜半鵜使いの老人が現われる。老人は、従僧の記憶どおり、数年前に接待をしてくれた鵜使いの亡者であり、石和川の殺生禁断の所で鵜を使った罪で殺されたことを語り、鵜を使うさまを実演して見せ、闇路へと消えてゆく。
 そこで僧が法華経の文句を一石に一字ずつ書き付け、川に投げ入れて回向をすると、閻魔王が現われ、かの鵜使いはおびただしい罪悪により地獄へ堕ちる筈であったが、僧の接待の功徳により極楽に送られることとなったと告げ、法華経の徳を称えるのである。
 前場に重きをおいた作品で、中でも鵜を使う場面の「鵜之段」は、独立した一つの内容を持ち、物真似的要素が顕著で、演技の中心となっている。後シテの面は“小癋見(こべしみ)”であるが『申楽談義』に「小癋見は世子着出されし面也。余の者着べきこと、今の世に無し。彼の面にて鵜飼をば為出されし面也。異面にては鵜飼をほろりとせられし也」とあり、後シテの“小癋見”は世阿弥が初めて用いたもので、世阿弥以外にこの面を着けて演じられる力量の者はいない、と述べている。また他の面で『鵜飼』を演じる時は少し和らげて演じたとある。冥土の鬼であるこの後シテは、いわゆる力動道風鬼の代表的な例といえる。
 本曲の詞章には、その名は明記されていないが、「法華経」賛美と「安房の清澄より出でたる僧」から、ワキ僧が日蓮であることを暗示している。本曲と『阿漕』『善知鳥』を「三殺生」または「三卑賎」と呼び、いずれも殺生の罪がテーマで暗い不気味な曲である。そしてこれらはキタナク謡う、というのが心得のようであります。




一字一石塔と鵜供養塔


 漁翁堂と地蔵堂を挟んで「一字一石塔」と「鵜供養塔」が建っています。
 寺記によれば、日蓮上人は自ら筆を執り、法華経一部八巻二十八品六万九千三百八十余文字を、三日三夜にわたり一石に一字を書写し、鵜飼川岩落の水底に沈め、川施餓鬼の法要を修したということです。その様子を描いたのが下図の「鵜飼漁翁済度の図」です。


鵜飼漁翁済度の図(当寺パンフレットより)

待謡 ワキ・ワキツレ「川瀬の石を拾い上げ。川瀬の石を拾い上げ。たえなる。のり御經おんきようを。一石いつせきに一字.書きつけて。波間なみまに沈め弔はゞ。などかは浮かまざるべきなどかは浮かまざるべき




鵜石と漁籠石


七字の経石

鵜と笛吹川の鵜飼橋を
描く石和郵便局風景印


 鵜石と漁籠石は、慶長年間から当寺に伝わるみごとな川すれ石です。七字の経石は、鵜飼漁翁の亡霊済度のために「一一文文是真仏」と言われた法華経の文字を、川原の小石に、一石に一字ずつ書写したものです。いづれも当寺のパンフレットからの転載です。
 当寺の北隣にある石和郵便局の風景印に、鵜と笛吹川に架かる鵜飼橋が描かれています。





福聚開運大黒天

鐘楼


 当寺は七福神詣でのの霊場の一でもあります。七福神詣では、福徳をもたらす神として各地で盛んに行われていますが、当地にも「甲斐石和温泉七福神霊場」が設けられ、七ヶ寺に祀られる七福神にお参りし、幸せを願うことができるようです。当寺には、伝教大師作の「開運大黒天」並びに慶長年間に鵜飼川から出たという「石体大黒天」が祀られており、この分身を境内に「鵜飼山福聚開運大黒天」として勧請しています。


 遠妙寺の山門を出て南に進むと、すぐに笛吹川に架かる鵜飼橋に出ます。なかなか立派な橋で、交通量もかなりのものでした。笛吹川は富士川水系の一級河川。古くは石和川と呼ばれたものでしょうか。
 ここ“石和鵜飼”は、毎年7月から8月にかけて、鵜飼橋の南、市役所前の河川敷で開催されます。日本各地で行われている鵜飼では、鵜匠が船へ乗り込み鵜飼を行うのに対して、“石和鵜飼”は鵜匠が直接川へ入る「徒歩鵜飼」と呼ばれる類例の少ないもので、幕末期の成立であると考えられています。


鵜飼橋

笛吹川


 下の写真は石和鵜飼の様子で、遠妙寺のパンフレットより転載しました。
 最後に謡曲のハイライトである「鵜之段」を鑑賞しながら、石和川に別れを告げたいと思います。


笛吹川での徒歩鵜(パンフレットより)


シテ「鵜籠うかごを開き取りいだ  ワキ「島つ巢おろし荒鵜あらうども  シテ「この川波にばつとはなせば  

「面白の有樣や。底にも見ゆる篝火かがりびに。驚く魚を追い廻し。かづき上げすくひ上げ。隙なく魚を食う時は。罪も報いも。後の世も忘れ果てゝ面白や。みなぎる水の淀ならば。生簀いけすの鯉や上らん玉島川にあらねども。小鮎こあゆさばしるせゞらぎに。かたみて魚はよもためじ。不思議やな篝火の。燃えてもかげの暗くなるは。思ひ出でたり月になりぬる悲しさよ。鵜舟の篝影消えて。闇路やみぢに帰るこの身の名殘なごり惜しさを.如何にせん名殘惜しさをいかにせん 〈中入〉




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  (平成28年11月 9日・探訪)
(平成28年12月 6日・記述)


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