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大津・大伴黒主神社 〈志賀〉


 2017年4月20日、大津市に鎮座する大伴黒主神社に参拝しました。当社は一般にはあまり知られていませんが、謡曲『志賀』の謡蹟です。『志賀』自体も演じられることがほとんとなく、昭和25年~平成21年の60年における演能回数は、わずかに12回を数えるのみの、稀曲の部類に属する曲といえるかもしれません。
 面白いことには、大伴黒主を祀る大伴黒主神社の手前には、小川をひとつ隔てて紀貫之を祀る福王子神社が鎮座鎮座しており、何かしら因縁めいたものを感ぜずにはいられませんでした。

大伴黒主神社周辺地図



   

《福王子神社》  大津市南志賀2-19-1

 この日は三井寺から近江神宮に参拝し、その足で大伴黒主神社に向かいました。近江神宮から北の山中越のゆるやかに続く坂道を上り、西大津バイパスを越えると福王子神社が鎮座しています。余談ながら、この山中越は京都の北白川へと通じており、古くは主要な街道でした。


福王子神社の鳥居

神社拝殿


 福王子神社は紀貫之をお祀りしているとのことですが、社殿は寂れるに任せたという風情で、一見すると左隣にある正興寺の鎮守社かと見間違えそうです。以下は社頭表示の由緒書きです。

 平安朝初期の最も優れた文学者で三十六歌仙の一人、「古今集」の代表歌人で、選者。大和の守紀望行の二男に生まれる。延長8年(930)正月、土佐の守となり赴任、承平4年(934)12月任を終えて帰京の途、「土佐日記」を紀行、翌年12月に入洛、その徳を慕いて一小祠を建て神霊を鎮め祀る。その後この地に勧請せらる。承応6年(1657)に再興。
 藤原時代の歌人にして、「古今集」の選者、「新撰和歌集」を著した。
 晩年比叡山中腹裳立山に幽栖す。勧請以来千有余に当たり、昭和27年近府県の歌人関係者に呼びかけ、全町民挙げて千年記念奉祀大祭を斉行した。
 小倉百人一首
 人はいざ心も知らずふるさとは 花ぞ昔の香ににほひける


社殿

境内の古墳群


 当社の境内を通って大伴黒主神社に抜けられる小道があります。この道の周辺には古墳時代後期(6世紀後半)の群集墳があります。この古墳群は横穴式石室をもつ15基の円墳からなり、発掘調査された7基は直径10メートル前後のものです。多くは石室が露出したままになっています。




《大伴神社》  大津市南志賀2-24-1

 福王子神社の境内を抜けると、小川を隔ててお目当ての大伴黒主神社が鎮座しています。こちらも福王子神社に負けず劣らず寂れており、あまり手入れもなされず、おざなりの状態です。鳥居の手前に「大伴神社」の社号標の碑が、落葉にまとわりつかれるように建っています。


大伴黒主神社

社号標


石段を上り鳥居を俯瞰


 鴨長明(1155~1216)は、その歌論書である『無名抄』「黒主成神事」(久松潜一校注『日本古典文學大系65』「歌論集・能楽論集」岩波書店、1960)に、

 又、志賀の郡に、大道より少し入り、て山際に、黒主の明神と申す神います。是は、昔の黒主が神になれるなり。

と記しています。また滋賀県神社庁のサイトによれば

 詳細は不明であるが、『近江輿地志略』には大伴明神社と記され、「新在家村の民家の西、松樹茂りたる山際に在り、祭る所大伴黒主の霊なり」と説明されている。又近江国の地誌である『淡海録』には「黒主は晩年志賀山中に幽栖し、天暦七年没したので、土地の人が尊崇して同地に霊を祀った。その後承応三年に社を再興した」と記されている。


大伴神社社殿


 大伴黒主は六歌仙の一人に数えられていますが、その存在については研究者でも確信がもてないというのが実情のようです。ただ平安時代中期には黒主は近江に実在した人物と信じられていたようです。
 境内の由緒書きには黒主についての記述がなされています。それによれば、黒主は大友皇子(弘文天皇)の皇子で大伴姓を賜ったと言う大友与多王の子孫と伝えられ、大友の名は当地の旧名滋賀郡大友郷に由来するようです。そして「大友皇子→与多王(大友賜姓)→都堵牟麿→黒主」との流れを示していますが、これは年代が史実とは合わないようです。
 思うに黒主は、詳細は明らかではないものの、近江国滋賀郡大友郷の大領(律令制における職名のひとつ。大宝令によって定められた郡司における最高の地位)であった大友村主の一族のようです。大友の名は、当地の旧名滋賀郡大友郷に由来します。黒主も滋賀郡司をつとめたことがあり「滋賀の黒主」とも称されています。また園城寺(三井寺)の神祠別当職をつとめ、晩年はこの地で余生を送ったもようです。


手水舎と由緒書き

謡曲史蹟保存会の駒札


 以下は「大伴黒主神社と謡曲」と題した謡曲史蹟保存会の駒札の内容です。

 祭神の大伴黒主公は、平安初期の歌人で、古今和歌集の六歌仙の一人。志賀の郡司や園城寺僧正も務め、晩年はこの志賀で暮らした。
 ただ同和歌集の序文に紀貫之が「黒主はそのさまいやし。いわば薪の負える山人の花の陰に休めるが如し」と評している。世阿弥はそれを基に謡曲を創作した。
 「志賀」では、薪を背負った老いた木こりに仕立て、山桜見物の臣下と問答している。「草子洗小町」では、同僚の小野小町に懲らしめられるむ悪役で登場する。
 だが黒主はそんな「いやし男」でなかったことは、当神社の存在が何よりの証拠である。

 それでは本来の目的である謡曲『志賀』について、考察してみましょう。



   謡曲「志賀」梗概
 世阿弥の作とも伝えるが作者は未詳。典拠も未詳であるが、古今集の序に「大伴黒主はそのさまいやし。いはば薪負へる山人の花の陰に休めるが如し」とあるのに拠ったものであろうか。古くは『志賀黒主』『大伴』『黒主』ともいった。観世・宝生・金剛・喜多四流の現行の脇能である。
 当今の臣下が、今を盛りの山桜を見に江州志賀を訪れると、桜の枝を添えた薪を負う老人と若者が現われる。臣下は花の木陰に休む二人に声を掛け、心あって休むのか、薪が重くて休むのかと尋ねると、老人は大伴黒主の歌を引き、若の道についてさまざまなことを述べ、自らがこの山の神として祀られている黒主であることを仄めかして立ち去る。
 夜とともに天から舞歌の声が聞え、やがて志賀の山神である黒主の霊が現われ、泰平の御代ののどかな春を讃え、舞を舞うのであった。
 大伴黒主は『草子洗小町』では宮中で不覚をとり、さんざんら目に合いますし、六歌仙では唯一百人一首に選ばれていません。けれども本曲では神として崇められています。六歌仙の中でも謡曲に登場するのは小野小町と紀貫之、および黒主の三人。このうち神として登場するのは、黒主ただ一人なのです。
 ただ黒主の人気が高くない故か、前述しましたように、昭和25年~平成21年の過去60年間における本曲の上演回数は、わずかに12回を数えるのみです。その後の上演は、
  平成23年4月2日   吉田篤史(京都観世会 四季彩能)
  平成27年7月26日  遠藤和久(九皐会若竹能)
となっています。



 以下は、花見に志賀の山中を訪れた臣下が、花の木陰に休らう老人に出会い、薪に花を折り添えて背負っているさまに不審をして話しかける場面です。

 

ワキ「不思議やなこれなる山賤やまがつを見れば。おもかるべきたきぎになほ花の枝を折り添へ。休む所も花の蔭なり。これは心ありて休むか。たゞ薪のおもさに休み候か

シテ「仰せかしこまつて承り候ひぬ。まづ薪に花を折る事は。道ののたよりの櫻折り添へて。薪や重き春の山人やまびとと。歌人かじんも御不審ありし上。今更人いまさら何とか答へ申さん  ツレ「又奥深き山路なれば。松も檜原ひばらも多けれども。とりわき花の蔭に休むを  シテ「たゞ薪の重さに休むかとの。仰せは面目めんぼくなきよなう  シテ・ツレ「さりながらかの黒主くろぬしが歌の如く。その樣いやしき山賤やまがつの。薪をひて花の蔭に。休む姿はげにもまた。その身に應ぜぬ振舞ふるまひなり。許し給へや上臈じやうらふ


 すでに述べたところですが、上述の詞章の「その様賤しき山賤の。薪を負ひて花の蔭に。休む姿は…」は、『古今集』の序

 大伴黒主はそのさまいやし。いはヾ薪負へる山人の花の蔭に休めるごとし

に基づくものですが、謡曲作者(世阿弥か?)が、わずかこの一節から敷衍劇化して一曲を作り上げる、その技量には驚きを禁じ得ません。
 またシテの詞にある「道の辺のたよりの櫻折り添へて薪や重き春の山人」の歌は、雲玉集に大伴黒主の作として載せられているそうですが、確認できませんでした。

 続いて、後シテの出から神舞までの詞章です。


サシ 後シテ「雪ならば幾度いくたび袖を拂はまし。花の吹雪ふぶきの志賀の山。越えても同じ花園はなぞのの。里も春めく近江の海の。志賀辛崎からさきの松風までも。千聲ちこゑの春の。のどけさよ  一セイ「海越しに。見えてぞ向ふ鏡山かがみやま  地「年ぬる身は老が身の  地「それは老が身。これは志賀の  地「神のしら木綿いうかけまくも。かたじけなしや。神楽かぐらの舞 〈神舞〉


 一セイの詞章にある鏡山は、蒲生郡竜王町にある山。源義経の元服の地である“鏡の里”の南東方向にあります。
 詞章にある「…鏡山。年經ぬる身は老いが身の…」は『古今集』にある、

  鏡山いざたちよりて見てゆかむ年へぬる身は老いやしぬると (巻17・雑歌上・899)

の歌を引いたものと思われます。この歌は左註で黒主の作ではないかとする説が記されています。この歌を踏まえた川柳に、

  鏡山までは鏡を見ぬつもり
  鏡を見たは黒主の和歌盛り

という句があります。「和歌盛り」は「若盛」に通じるのでしょう。
 また、黒主は六歌仙でただ一人小倉百人一首に選ばれていませんが、それを詠んだ句に、

  薪負ふ人は登らぬ小倉山
  小倉から時雨れて見えぬ鏡山


 ただ百人一首に選ばれていませんが、謡曲愛好家であれば必ずと言っていいほどよく謡う『熊野』にある以下の詞章、

シテあら心なの村雨やな春雨の  地降るは涙か.降るは涙か櫻花。散るを惜しまぬ。人やある 〈イロエ〉

は、意外や意外、『古今集』にある黒主の歌

  春雨の降るは涙か櫻花散るを惜しまぬ人しなければ (巻2・春歌下・88)

を引いたものです。黒主嫌いの方も、知らず知らず彼の歌を口ずさんでいるのかも知れませんね。




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  (平成29年 4月20日・探訪)
(平成29年 6月 6日・記述)


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