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相州・江ノ島 〈江野島〉


 2017年10月25日、神奈川県の江ノ島を訪れました。
 新大阪から新幹線で小田原まで行き、東海道本線で藤沢へ、藤沢から小田急で片瀬江ノ島に向かいました。江ノ島到着はお昼前、大阪を発つときはどんよりとした空模様でしたが、藤沢では小雨。今日の天気予報では夕方には快方に向かうとのこと。江ノ島駅に着いたときも止みそうな模様でしたので、ここは晴れ男の沽券にかけてもと、傘を調達せずに島への通路である弁天橋に取りかかりました。

江ノ島地図



 かつては干潮時に片瀬の浜から江の島まで歩いて渡ったということですが、明治に入って木橋が架けられ、現在の全長389メートルの橋は、昭和39年に開催された東京オリンピックのヨット競技に合わせ完成したものです。


本土より江ノ島を望む

「名勝史跡江ノ島」の碑

 ところが橋上を3分の1ほど進んだあたりから、雨脚は治まるどころか急に激しくなってきました。いまさら江ノ島駅近くまで後戻りして傘を調達するわけにもゆかず、びしょ濡れになりながらなんとか島の入り口に到着、手前の食堂に駆け込んで雨宿りを兼ねた昼食といたしました。



雨宿り兼昼食の「えびすや」

青銅の鳥居

 食事を終えても雨は止みそうにありません。むしろ激しくなり風まで強まってきた模様です。幸い少し先の土産物屋に傘がありましたので、さっそく購入、濡れ鼠になることだけは避けることができました。けれども江島神社辺津宮には雨中の参拝と相なりました。
 江の島の入口にあるのが青銅の鳥居で、延享4年(1747)に創建、文政4年(1821年)に再建されました。江の島道においては三の鳥居で、一の鳥居・二の鳥居は現存していません。正面の扁額は「江島大明神」。鎌倉時代、蒙古が来襲した文永の役に勝利した記念に、後宇多天皇から贈られた勅額の写しとなります。




 江ノ島の入り口に到着したところで、これから参拝する江島神社の縁起に基づく『江野島』について考察いたしましょう。


   謡曲「江野島」梗概
 作者は観世長俊。典拠となった『江島縁起』は、江ノ島湧出当時の出来事として伝えられた物語で、一面から見れば弁財天縁起でもある。
 そのころ島の対岸に五頭龍王が棲んでいた。眼に白日を貫き、身に黒雲を纏って、盛んに暴威を揮うので人々は石窟に隠れて涕哭の声が尽きることがなかった。そこで弁財天は、衆生済度の方便から五頭龍王を善心に導こうと決意し、こののち悪心を翻して人間を愛護するならば夫婦の語らいをなそうと申し出ると、龍王は誓約して龍の口の明王として国土守護の前身となった。(この内容はクセに謡われている。)
 その明神が漁翁の姿となり、勅命により下向した臣下を迎え、この島の由来や五頭龍王と天女の誓約のことを述べ、波間に消える。勅使が待つうち、やがて神殿の扉が開き、二人の十五童子を従えた弁財天が現われ、宝珠を勅使に捧げて舞を舞う。そこへ龍王も現われて威を揮い、弁財天に続いて雲中へと去ってゆく。


 演能では、最初に一畳台を大小前に出し、その上に引廻シをかけた大宮の作り物を置く。大宮の中には弁財天(後ツレ)と二人の十五童子(子方)が入っており、後場で引廻シを取ると、左右に童子を従えた弁財天が登場する。
 またアイに神職が出て数人の参詣人(道者)たちに寄付を強要する筋の替間(かえあい)「道者(どうしゃ)」があり、古くはこの演出が普通であったようである。
 本局は観世流にのみあり、その故か演能回数は極めて少ない。大角征矢氏による昭和25年~平成21年の60年間における調査では、20回を数えるのみで、それ以降の平成22年~現在(29年10月)では、若干増加傾向にあるものか3回演じられている。



《江島神社》 神奈川県藤沢市江の島2-3-8


 江ノ島はもともと陸続きであったものが、約2千年前に侵食、海進により島となったといわれています。しかしながら、平安時代中期の天台宗の僧・皇慶(こうけい)が著したと伝えられる『江嶋縁起』によれば、欽明天皇13年(552年?)に海底より塊砂を噴き出し、21日で島ができたと伝えられています。謡曲『江野島』でもその〈語り〉において、

 

そもそもこの島は。欽明天皇十三年。卯月十二日戌の刻より。同じく二十三日辰の刻に至るまで。江野かうや南海なんかい湖水こすゐみなとの口に。雲霞うんか暗く覆ひて。天水てんすゐ氛氳ふんぬんたり。大地だいぢ振動する事十日に餘れり。とばかりありて天女うんしやうに現れ。童子左右さうはんべり。諸々の天衆てんしゆ龍神水火雷電。山神さんじん鬼魅きみ夜叉羅刹らせつ。雲上より磐石ばんじやくを下し。海底より塊砂くわいしやを噴き出す (中略) その後靄雲あいうん収まりて。海上に一つの島を成せり。すなはち江野になぞらへて。江野島とこれを申すなり


と、『江嶋縁起』に基づいて島の成り立ちを述べています。

 江島神社のご祭神は、天照大神が須佐之男命と誓約された時に生まれたとされる宗像三女神です。
  奥津宮の多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)
  中津宮の市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)
  辺津宮の田寸津比賣命(たぎつひめのみこと)
 この三女神を江島大神と称しています。古くは江島明神と呼ばれていましたが、仏教との習合によって、弁財天女とされ、江島弁財天として信仰されるに至り、海の神、水の神の他に、幸福・財宝を招き、芸道上達の功徳を持つ神として、今日まで仰がれています。
 宗像系の神社は日本で5番目に多いとされ、そのほとんどが大和およびび伊勢、志摩から熊野灘、瀬戸内海を通って大陸へ行く経路に沿った所にあります。著名な宗像神社は、宗像大社(福岡県)および全国各地の宗像神社のほか、厳島神社(広島県)、善知鳥神社(青森県)などがあります。
 なお当社と竹生島の都久夫須麻神社、宮島の厳島神社の三社を「日本三大弁財天」と称しています。ただし奈良県の天河大弁財天社を含む場合もあるようです。


朱の鳥居から瑞心門を望む


 社伝によれば、文武天皇4年(700年)に、役小角が江の島の御窟に参籠して神感を受け、修験の霊場を開きました。これに続き弘法大師や日蓮上人などの名僧が、御窟で次々に行を練り、高いご神徳を仰いだと伝えられています。弘仁5年(814)には空海が岩屋本宮を、仁寿3年(853年)に慈覚大師が上之宮(中津宮)を創建。時を経て建永元年(1206)に慈覚上人良真が源實朝に願って下之宮(辺津宮)を創建しました。


瑞心門



唐獅子の図


 青銅の鳥居から両側に土産物屋の続く参道を抜けると、巨大な朱の鳥居が出現します。現在の鳥居は、昭和11年(1936)に山田流筝曲の家元・林敏子が再建・寄進したものです。
 朱の鳥居の正面、石段を上ったところにある龍宮城を模した楼門が瑞心門です。人々が瑞々しい心でお参りできるようにと名付けられたそうです。壁や天井には、片岡華陽が描いた牡丹や唐獅子の絵画が飾られています。以下は瑞心門唐獅子の説明です。

 中央アジアからもたらされたライオンが、古代中国で幻想動物として描かれ、我が国には密教曼荼羅の中の唐獅子が9世紀に渡来し定着していきました。以後仏法のみならず邪悪なものを退け、国家鎮護を祈念する形代として、飾られるようになりました。
 この瑞心門の唐獅子は御祭神の守護と合わせて、御参拝の皆様に厄災なきことを祈願して飾りました。


弁財天像


 瑞心門をくぐると正面の壁に、江島神社ご鎮座1450年を記念して奉献された「弁財天童子石像」があります。弁財天と童子、そして龍神の像が見事に彫られています。以下は当社宮司による「弁財天童子像建立之記」刻印説明文です。

 平安時代中期に撰述せられた「江島縁起」は、天地開闢のことより説き起し、東海道相模国江ノ島が 天下の霊地たるを記述せられている。
 縁起に曰く「欽明天皇13年卯月12日、戌刻より23日辰刻に至るまで、江野南海湖水湊口に雲霞暗く 蔽いて、天地震動すること十日に余れり。諸々の天衆龍神水火雷電山神類夜叉羅刹、雲上より 磐石をくだし海底より塊砂をふき出す。その後、竭雲収まり軽霞まきしりぞいて、海上に忽ちに 一つの嶋を成せり。即ち江野になぞらえへて、これを江野嶋という。
 天女、雲上に顕れ、白龍、十五童子を従へ、この嶋上に降居したまへり」とあり、弁財天が江ノ島に祀られることとなりしを伺い知ることが出来る。
 折りしも当神社御鎮座1450年を向へ、記念事業としてこの縁起に基づき、弁財天顕現の一場面を、篤志者の御浄財を以て石像にて奉製いたし、弁財天の無量無辺不可思議の功徳を後の世永く称え奉るべく、祈念建立いたすものなり。

 瑞心門からさらに曲がりくねった石段を上ると辺津宮が鎮座しています。



辺津宮

御朱印

 辺津宮は田寸津比賣命(たぎつひめのみこと)をお祀りしています。土御門天皇の建永元年(1206)、時の将軍・源實朝が創建。延宝3年(1675)に再建された後、昭和51年(1976)の大改修により権現造りの現在の社殿が新築され、屋根には江島神社の社紋「向かい波三つ鱗」が見られます。高低差のある江ノ島の神域内では、一番下に位置していることから「下之宮」とも呼ばれています。

 ご朱印に描かれている江島神社の社紋は、北条家の家紋「三枚の鱗」の伝説にちなみ考案されたもので「向い波の中の三つの鱗」を表現しています。『太平記』によれば、建久3年(1190)鎌倉幕府を司った北条時政が、子孫繁栄を願うため江の島の御窟(現在の岩屋)に参籠したところ、満願の夜に弁財天が現れました。時政の願いを叶えることを約束した弁財天は、大蛇となり海に消え、あとには3枚の鱗が残され、時政はこれを家紋にしたと伝えられています。以下、『太平記』巻第五「時政榎嶋に参籠の事」(後藤丹治他校注、日本古典文學大系、岩波書店、1960)より、該当部分を転載します。


 昔鎌倉草創のはじめ、北條四郎時政榎嶋えのしまに參籠して、子孫の繁昌を祈けり。三七日に當りける夜、赤き袴に柳裏やなぎうらきぬ着たる女房の、端嚴たんごん美麗なるが、忽然として時政が前に來て告ていはく、「汝が前生ぜんじやうは箱根法師也。六十六部の法華經を書寫かきうつして、六十六箇國の靈地に奉納したりし善根に依て、再び此土このどに生る事を得たり。されば子孫永く日本の主と成りて、榮花えいぐわに誇るべし。但其擧動ふるまひたがふ所あらば、七代を過ぐ可不可べからず。吾言ふ所不審あらば、國々にをさめし所の靈地を見よ。」と云捨いひすてて歸給ふ。其姿をみければ、さしもいつくしかりける女房、忽に伏長ふしだけ二十丈ばかりの大蛇と成て、海中に入り入にけり。其迹を見に、おほきなるいろこを三つ落せり。時政所願しよぐわん成就しぬと喜て、すなはちかの鱗を取て、旗のもんにぞ押たりける。今の三鱗形みついろこがたの文是なり。



奉安殿

御朱印


 辺津宮の左側にある八角のお堂が奉安殿です。神奈川県の重要文化財に指定されている八臂弁財天(はっぴべんざいてん)と、日本三大弁財天のひとつとして有名な裸弁財天の妙音弁財天(みょうおんべんざいてん)が安置されています。江戸時代には、この江島弁財天への信仰が集まり、江の島詣の人々で大変な賑わいを見せたということです。

 当社の縁起を記した『江島縁起』の絵巻物には、以下のような伝承が伝えられています。

 鎌倉には昔、五つの頭を持つ龍がいて悪行を重ねていました。そこへ天女が舞い降り、天女に恋心を抱く五頭龍を諭し、悪行をやめさせました。この五頭龍をまつるのが龍口明神社(鎌倉市腰越)です。その後、五頭龍は海を離れ、山に姿を変えました。これが現在の藤沢市龍口山です。そして、天女の天下りとともに出現した島が現在の江の島。天女は江島神社に奉られている弁財天です。江島神社には弁財天堂(奉安殿)があり、裸弁財天像(妙音弁財天)が奉られています。

 この伝承に基づいて、謡曲『江野島』ではその〈クセ〉で以下のように謡っています。


クセ「こゝにまたいにしへ。武藏相模の境に。鎌倉海月かいげつの間に深澤と云ふ湖あり。かの湖に大蛇棲めり。その身一つにして。そのかしら五つあり。隆準りうじゆんの鼻胡髯こぜんあぎとまなこに白日を貫き身に黒雲を纏へり。然れば神武天皇より。垂仁天皇の御宇までは。十一代の帝祚ていそ。七百餘歳の年次ねんしを經て國中こくちうに満ちて人を取る
シテ「景行天皇の御宇に至り  地龍悪りようあくいよいよ盛んなれば。人みな石窟せきくつに隱れ住み涕哭ていこくの聲限りなし。時に天部てんぶは龍に向ひ。汝が悪心を翻し殺生をとどめこの國の守護神となるならば夫婦の語らひを我なすべしと。固く誓約せいやくし給へば龍王もこれに應じつゝ。今より殺害せつがいを止めて善心を思ひたつくちの。明神となり給ひ。國土を守護し給ふなり


 なんと、暴れ者の五頭竜王にとって、美人の弁天様から結婚の申し込みがあろうとは! こんな美味しい話を断る男が存在する筈はないでしょう。それにしても、よく理解できないのが弁財天の心境です。衆生を救うためにはわが身をも犠牲にするものか。あるいは元来五頭両王を好もしく思っていたものなのか。不可思議な女心の一端をかいま見たような江ノ島訪問ではありました。


 辺津宮の参拝を終え、当初の計画では中津宮、奥津宮に参拝する予定でしたが、無情にも雨は止みそうにありません。おまけにズボンはびしょ濡れ。気分は萎えてしまい、『江野島』の謡蹟探訪は辺津宮のみで終えるという尻すぼみな結果となってしまいました。
 また、湘南モノレールの西鎌倉駅の近くに、弁財天の夫君にあたる五頭龍大神を祀る龍口明神社があるそうですが、こちらも失礼して、『盛久』の謡蹟を訪ねて、由比ヶ浜へと向かいました。
 なお参拝の途次、江ノ島郵便局に立ち寄り風景印を入手しましたので、掲載します。


富士山とヨットハーバーに
江ノ島とヨットにカモメを
描く、江ノ島郵便局風景印




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  (平成29年10月25日・探訪)
(平成29年11月 8日・記述)


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