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2017年10月27日、群馬県高崎市の上佐野町に『船橋』と『鉢木』の謡蹟を訪れました。この2曲の謡蹟はこの界隈に存在しています。 |
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高崎市佐野地区界隈 謡蹟探訪地図 |
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佐野の船橋歌碑 |
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佐野の船橋歌碑 |
碑面には、船木観音の四文字と馬頭観音の線刻画像の下に、 |
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上述のように本曲のテーマは、万葉集に所収の「上毛野佐野の舟橋取り放し親は離くれど吾は離るがへ」という一首ですが、謡曲では「東路の佐野の船橋取り放し親し離くれば妹に逢はぬかも」と謡われているように、元来は万葉集に基づくものが、中世では歌型を変えて受容されてきたようです。明応6年(1497)成立の歌学署『釣舟』には、以下のような記事が載せられています。 |
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ワキの「取り放し」か「鳥は無し」かの問いに対して、アイ狂言の所の者が〈中入〉で、以下のように語っています。 |
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すなわち、船橋の「橋板を取り放した」意の「取り放し」と、鶏を探したけれど「鶏がいなかった」意の「鳥は無し」の両様の意である、というものです。 |
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葛飾北斎の『諸国名橋奇覧』に「上野国佐野の舟橋」の浮世絵があります。これには、川の両岸に杭を打ち、綱を渡して数十隻の小舟を並べて繋ぎ、上に板を置いて人馬がその上を渡って行く様子が描かれています。 |
佐野橋竣工記念碑 |
かつてこの橋はいわゆる「流れ橋」という構造になっており、大水のときには橋桁が比較的容易に流されて、橋脚を守る構造になっていたようです。何度かの流失を経て、比較的頑強な構造に架け替えられたのが、上記の竣工記念碑設立のときであったのではないかと想像します。しかしながら、2013年の台風18号により多大な被害を被り、現在の橋はその後に復旧されたものでしょう。 |
「佐野の船橋歌碑」から新幹線沿いに少し南に、『鉢木』で有名な佐野源左衛門常世の住居跡といわれる「常世神社」が鎮座しております。 |
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常世神社正面の鳥居 |
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常世神社社殿 |
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『鉢木』に謡われている、最明寺時頼の廻国伝説については『太平記』巻第三十八「最明寺幷びに最勝恩寺諸国修行の事」に、以下のような伝承が綴られています。(「長谷川端校注『新編日本古典文学全集・太平記』小学館、1998」による) |
常世神社は神社とは名ばかりの、かなりさびれてもの寂しいたたずまいでありました。所領を横領された常世が窮迫の日々を送ったのがこの地であるとされていますが、あたかもその当時を偲ばせるような侘しい有様です。 |
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「佐野源左衛門常世遺蹟」の碑 |
下平克宏師奉納額 歌碑 |
鳥居の奥は細長い参道になっており、細長くて狭い境内の突き当りの少し小高い所に小祠があります。その左手には「佐野源左衛門常世遺蹟」と刻さた大きな石碑が立てられています。碑の書は、侍従で宮中顧問官だった正四位子爵・日野西資博の手になり、大正15年に建立されたとのことです。また祠の右手には小さめの歌碑が建っていましたが、内容は判読できませんでした。 |
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上掲の詞章で、現在は「松はもとより煙にて。薪となるも理や切りくべて今ぞ…」と謡われていますが、徳川時代以降、昭和の戦前までは、「松はもとより常盤(ときわ)にて。薪となるは梅桜切りくべて今ぞ…」と、何やら意味不明のまゝに謡っていました。これは徳川の本姓が〈松平〉であるので、〈松〉に関して〈まずい表現〉であるような箇所を軒並み家元が〈訂正〉したわけです。これを「かざし詞(ことば)」といいますが、このことに関して、表きよし氏が『観世』平成20年11月「『鉢木』の上演記録をめぐって」において次のように述べています。 |
「常世神社」から新幹線の高架に沿って少し南下したところに「定家神社」が鎮座しています。先ほどの常世神社とは異なり、こちらはかなり広々とした境内です。その境内に朱塗りの社殿がぽつんと建つ以外に、めぼしい建物はありませんでした。 |
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定家神社正面の鳥居 |
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定家神社社殿 |
万葉歌碑 |
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(平成29年10月27日・探訪) (平成29年11月28日・記述) |