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上州・佐野のわたり 〈船橋・鉢木〉


 2017年10月27日、群馬県高崎市の上佐野町に『船橋』と『鉢木』の謡蹟を訪れました。この2曲の謡蹟はこの界隈に存在しています。
 昨夜は高崎駅前に宿を取り、朝一番にレンタサイクルを借り受け、県道12号線(この道路は「東国歴史文化街道」と呼ぶそうです)を東南に進み、粕沢橋郵便局の所で90度西に方向転換し、西光寺を目指します。西光寺の前方の道路に面して、高崎市の史跡に指定されている「佐野の船橋歌碑」がありました。

高崎市佐野地区界隈 謡蹟探訪地図


 ここ「佐野の船橋歌碑」史蹟の地には、船橋の歌碑と佐野橋竣工記念の碑、高崎市教育委員会による史蹟の説明書きおよび謡曲史蹟保存会の駒札が建てられています。


佐野の船橋歌碑


  まず、高崎市教育委員会の説明書きによれば、


佐野の船橋歌碑

 碑面には、船木観音の四文字と馬頭観音の線刻画像の下に、
   かみつけの佐野の船はしとりはなし
     親はさくれどわはさかるがへ

と万葉集巻十四、東歌の中の一首が刻まれている。
 碑の裏側には「古道佐野渡 文政丁亥孟冬延養寺良翁識」とあり、この歌碑がかつて船橋があったと伝えられる場所に建てられたこと、碑文は文政十(1827)年十月、新町の延養寺の住職良翁により記されたものであることが分かる。
 船橋とは、船をつなぎその上に板を渡して浮き橋としたものであるが、この地にもかつて船橋がかかっており、重要な交通路であった。
 この佐野の船橋にまつわる伝説がある。烏川をはさんで二つの村があり、それぞれの村の長者の息子と娘が恋仲となり、夜に船橋を渡って人目を忍んで会っていた。しかし、それを知った親が、ある夜橋板をはずし二人が会えないようにしたが、それを知らない若い二人が船橋を渡ろうとして、川に落ちて死んでしまったというものである。謡曲「船橋」はこの伝説を素材として作られたものである。
 この歌碑は、その若い二人の怨霊を慰めるために、建てられたものと言われている。


 碑の台座には「■邑下組講中」と刻されていますが、最初の文字が判読できませんでした。
 その右手に「謡曲『船橋』と佐野の渡」と題して、謡曲史蹟保存会の駒札が建てられていますが、かなり埃をかぶっており判読しづらい状態になっていました。

 謡曲「船橋」は、万葉集巻十四の東歌
  上野ぬ佐野の船橋とりはなし親は離くれどわはさかれかへ
を主材として、男女恋慕の妄執を描いた曲である。
 熊野山伏が松島平泉へ行く途次、上野国佐野で橋を架ける費用の寄付を募っている二人の男女に出会い、橋の由来を尋ねると、昔この川を隔てて住んでいた男女が、人目を忍んで毎夜会っていたところ、二親がこれを嫌い、或夜橋板をとり外して置いた。二人はこれを知らないで踏み外し、川に落ちて死んだ、という昔物語をし、実は自分達がその男女であると回向を乞うて消え失せる。そこで山伏が加持して成仏を祈ると二人の亡霊が現われ、親の好まぬ恋愛関係の苦患を訴え、やがて法力によって成仏する。という筋である。
 この佐野の船橋は、謡曲「鉢木」の佐野の渡と同一場所であるのは奇しき縁である。

 この駒札に記された“この佐野の船橋は、謡曲「鉢木」の佐野の渡と同一場所である”という文言には若干の疑義があります。観世流大成版の『鉢木』には「佐野のわたり」なる語は6ヶ所に登場しますが、いづれも「わたり」であって「わたし」でも「渡し」でもありません。ちなみに岩波書店発行の『日本古典文學大系・謡曲集』(横道萬里雄・表章校注、1963)でも「佐野のわたり」となっており、頭注で「わたり」は「附近」としています(小学館や新潮社発行の古典文学全集には『鉢木』が採り上げられていませんでした)。したがって駒札の「佐野の渡」の表記は誤りであるといえましょう。この点に少々こだわった所以は、この謡蹟探訪の地名を「佐野界隈」の意で「佐野のわたり」としていることによります。

 謡曲『船橋』のストーリーは上記の駒札などに説明されており、若干重複しますが、謡曲『船橋』について眺めてみましょう。


   謡曲「船橋」梗概
 世阿弥による改作。『申楽談義』に「〈佐野の船橋〉はもともと田楽の能である。世阿弥が書き直した。しかし田楽が演ずる以前からあったというからずいぶん古い曲である」とあり、古能を田楽が取り入れてそのレパートリーに加えていたが、それを世阿弥が改作したのだという。
 また『三道』では、最近古作の能を踏まえて制作した作品のうち、砕動能として〈恋重荷〉〈佐野の船橋〉〈四位の少将(通小町)〉〈泰山もく(泰山府君)〉を挙げ、「〈佐野の船橋〉には古作の原曲がある」と記している。
 本曲のテーマは、『万葉集』巻十四・3420、上野国の歌「上毛野佐野の舟橋取り放し親は離(さ)くれど吾(わ)は離(さか)るがへ」と、それをめぐる和歌説話に基づくものである。

 三熊野の山伏が松島平泉へ下る途中、上野国佐野で橋造立の勧進をしている男女に出会い、橋の由来を尋ねると、万葉集に「上野の佐野の船橋とりはなし」と詠まれた橋であると答える。さらに橋の謂れについて、昔相愛の男女が住んでいたが、通い路の船橋を親に断たれ、川に落ち溺死したと話し、自分たちがその二人であると告げる。
 そこで山伏が亡き跡を弔うて加持をしていると、男女の亡霊が現われ、行者の法力で成仏することができたと喜ぶのである。

 この種の執心物で、愛人二人が登場する場合、例えば『通小町』などでは、女がしきりに回向をもとめるが、男はそれを妨げようするが、本曲では女は男とともに回向を求めているのは、生前互いの愛が深かったからであろう。男女の亡霊が連れ立って登場する作品には、ほかに『錦木』『女郎花』『項羽』などがある。


 上述のように本曲のテーマは、万葉集に所収の「上毛野佐野の舟橋取り放し親は離くれど吾は離るがへ」という一首ですが、謡曲では「東路の佐野の船橋取り放し親し離くれば妹に逢はぬかも」と謡われているように、元来は万葉集に基づくものが、中世では歌型を変えて受容されてきたようです。明応6年(1497)成立の歌学署『釣舟』には、以下のような記事が載せられています。

   東路の佐野の船橋取はなし 親しさけすは妹にあはんかも
 是は、昔上野の国佐野の舟橋と云ふ橋有りけり。その橋のわたりに住む者有りけり。河の向かひなる女のもとへ通ふを、親の心に詮なしと思ひて、橋の板を四五枚とりはなしけるを知らで、月を眺めてわたるとて、踏みはづして落ちて死にけり。その事を、後に、親にさけられて、女にえ逢はぬ者、かく読めるとぞ申し伝へ侍る。
    (伊藤正義校注『新潮日本古典集成・謡曲集』新潮社、1988)

 また本曲では、このいわゆる『万葉集』の「とりはなし」に関して、「取り放し」と「鳥は無し」の二つの解釈かあることを提起していますが、謡曲の本文ではその謂れには触れず、アイ狂言に語らせるという形をとっています。謡曲の、ワキの詞から、シテの〈語り〉、〈クセ〉に至る部分を以下に。


ワキ「さてさて万葉集の歌に。東路あづまぢの佐野の船橋取り放し。または鳥は無しと二流にりうに詠まれたるは。何と申したるはれにて候ぞ  シテ「さん候それにいて物語の候語つて聞かせ申し候べし。
語  昔この所に住みける者。しのづまにあこがれ。所は川を隔てたれば。この船橋を道としてな夜な通ひけるに。二親ふたおやこの事を深くいとひ。橋の板を取りはなす。それをば夢にも知らずして。かけて頼みし橋の上より。かつぱと落ちてむなしくなる。妄執まうしふと云ひ因果と云ひ。そのまゝ三途さんづに沈み果てゝ。紅蓮ぐれん大紅蓮の氷に閉じられて
下歌 地「浮かむ世もなき苦しみの。海こそあらめ川橋や磐石ばんじやくに押され苦を受くる
クセ「さらば沈みも果てずして。たましひは身を責むる。心の鬼となりかはり。なほ戀草こひぐさの事しげく。邪淫じやいんの思ひにこがれゆく船橋も古き物語。まことは身の上なり我が跡ひてび給へ
シテ夕日せきじつ漸く傾きて  地「霞の空もかきらし。雲となり雨となる。中有ちううの道も近づくか。橋と見えしもなかえぬ。此處はまさしく東路の。佐野の船橋鳥は無し。鐘こそひびけ夕暮の空も別れに.なりにけり空も別れになりにけり 〈中入〉


 ワキの「取り放し」か「鳥は無し」かの問いに対して、アイ狂言の所の者が〈中入〉で、以下のように語っています。

 (舟橋で水死した男女のことを語った後、親たちはせめて二人の死骸を探そうとする。)
 ある人申され候ふことには、かやうに水に溺れ空しくなりたるには、鶏を舟に乗せ川の面を漕ぎ廻れば、必ず死骸の上にて鳴くと申し候へば、さあらば鶏を尋ねよとて、ここもと隣郷を尋ね候へども、終に鶏が沙汰なかつたげに候。その心を万葉の歌にも詠み給ひ候。東路の佐野の舟橋取り放しとも、鳥は無しとも両説に申し候。橋の板を取り放したると一説に申し、または鶏の沙汰なきにより鳥は無しとも、かやうに詠み給ひけるなどゝ申し候

 すなわち、船橋の「橋板を取り放した」意の「取り放し」と、鶏を探したけれど「鶏がいなかった」意の「鳥は無し」の両様の意である、というものです。


 『万葉集』の「上毛野佐野の舟橋…」の歌は、平安時代以降の歌人達に強い印象を与えたようです。そして「佐野の船橋」は”歌枕”として多くの和歌に歌われ、かつ有名であったようです。『枕草子』六十二段では、

 橋は、あつむつの橋、長柄の橋、あまびこの橋、浜名の橋、ひとつ橋、うたたねの橋、佐野の舟橋、堀江の橋、かさゝぎの橋、山菅の橋、小津の浮橋、一すぢ渡したる棚橋、心せばけれど名を聞くにをかしきなり。

と「佐野の船橋」が採り上げられています。
 ただ地名「佐野」の語源は、普通名詞「狭野」であったようで、日本各地にその地名が残っています。お隣の下野国には『鉢木』で著名な佐野源左衛門が住まいしていた「佐野」がありますし、かく申す私が居住する泉佐野市は「和泉国の佐野」でありまして、かつて和泉式部が和泉国に佐野の地名があることを知らされて、

   いつ見てかつげずは知らん東路と聞きこそわたれ佐野の舟橋

 佐野の舟橋は東国にあるものと聞き続けていたのに、と驚いているのです。


 上野国の佐野に立ち戻りまして、かつての「舟橋」の架かっていた利根川の支流の烏川には、現在は木造の佐野橋が架けられています。

 葛飾北斎の『諸国名橋奇覧』に「上野国佐野の舟橋」の浮世絵があります。これには、川の両岸に杭を打ち、綱を渡して数十隻の小舟を並べて繋ぎ、上に板を置いて人馬がその上を渡って行く様子が描かれています。
 現在の「佐野橋」は「上信電鉄線」の「烏川橋梁」のすぐ下流に架けられています。「佐野の船橋歌碑」のすぐ隣に「佐野橋竣工記念碑」が建てられており、揮毫は「衆議院議員・中曽根康弘」と刻されているのですが、建碑の年月が不明です。中曽根康弘氏が首相に就任されたのが昭和57年(1982)ですから、それより以前のものだと思われます。


佐野橋竣工記念碑

 かつてこの橋はいわゆる「流れ橋」という構造になっており、大水のときには橋桁が比較的容易に流されて、橋脚を守る構造になっていたようです。何度かの流失を経て、比較的頑強な構造に架け替えられたのが、上記の竣工記念碑設立のときであったのではないかと想像します。しかしながら、2013年の台風18号により多大な被害を被り、現在の橋はその後に復旧されたものでしょう。




 「佐野の船橋歌碑」から新幹線沿いに少し南に、『鉢木』で有名な佐野源左衛門常世の住居跡といわれる「常世神社」が鎮座しております。


常世神社正面の鳥居


 社殿の左手に「謡曲『鉢木』と常世神社」と題して、謡曲史蹟保存会の駒札が建てられています。

 一族の不正のため領地を横領され、窮迫の生活をしていた武人佐野源左衛門常世が、大雪の日に宿を頼んだ修行者(実は鎌倉幕府執権北条時頼)のために、秘蔵の盆栽“鉢の木”を焚いてもてなしたのが縁で、表彰されたという謡曲「鉢木」の物語は有名で、戦前は学校の教材になっていました。
 これは出家して、最明寺と名乗った時頼の廻国伝説に基づいてつくられたものであるが、常世神社は、常世が佐野の領地を横領せられてのち、住み着いた所といわれる「常世屋敷跡」で、墓は別に栃木県佐野市葛生町の願成寺境内にあります。


常世神社社殿

   謡曲「鉢木」梗概
 作者は観阿弥とも世阿弥ともいわれているが未詳。『太平記』や『増鏡』に見える、北條時頼の廻国譚によるものであろう。

 諸国修行の旅層が、信濃から鎌倉に戻る途中、上野国の佐野で大雪にあい、とある家に宿を乞うた。外出先から戻った主人は、見苦しい家だからと一たびは断るが、妻の説得で旅僧を泊める。夜寒の折から、夫婦は秘蔵の鉢の木を焚いて暖をとらせた。僧は主人を由ある人と察し、強いてその素性を尋ねる。つつみかねて佐野源左衛門常世がなれの果てであると名のり、一族の者に横領されて零落はしたけれど、鎌倉の御大事の節は一番に馳せ参ずる覚悟を告げる。翌日名残を惜しむ夫婦と別れ僧は去って行った。

 この旅僧は最明寺時頼であった。時頼は鎌倉に帰ると、常世の言葉の真偽を試そうとして諸国の軍勢を招集する。果たして常世は痩せ馬に鞭打って馳せ参じた。時頼は常世の忠節を賞し本領を安堵せしめ、さらに鉢の木のもてなしに対して三箇の庄を与え、常世は面目を施して故郷へと帰って行った。
 零落の武士が返り咲く話を時頼の廻国に結びつけ、雪を両者の媒介として扱っている。鉢の木の事は寒い日に示される好意の端的な表現である。


 『鉢木』に謡われている、最明寺時頼の廻国伝説については『太平記』巻第三十八「最明寺幷びに最勝恩寺諸国修行の事」に、以下のような伝承が綴られています。(「長谷川端校注『新編日本古典文学全集・太平記』小学館、1998」による)

 最明寺時頼が六十余州を修行して、ある時摂津国難波裏に行き着き、日が暮れたので一軒のあばら家に宿を乞うた。そこには一人の尼が住んでおり、自分は親から譲り受けた一分領主であったが、一族の惣領に横領された由を話した。時頼は鎌倉に帰り、尼の所領をもとに戻し、そのほかにも、至るところの人の善悪を正したのであった。

 『太平記』では、常世に関する記事は見当たりませんが、時頼の摂津国における挿話などから『鉢木』の物語が生み出されたものかも知れません。
 私は以前、福井県の池田町を訪れたことがあり(2014年2月)、鵜甘神社においてこの地に伝わる「水海の田楽・能舞」を見学することができました。この鵜甘神社の田楽について、以下のような伝承がありました。

 鵜甘神社に伝わる田楽・能舞の由来は非常に古い。第88代後深草院の頃(建長2年正月15日)、時の執権相模守北条時頼は、寺社の向背を恐れ諸国を視察行脚中、当時平泉寺領であった池田の地を訪れた。時はちょうど正月である。折しも北国の雪に閉じこめられて、立往生して水海の地で一冬を越した。
 この地は美濃街道にあたり、尾張から府中(武生)に出る要所である。水海に滞在中は崇敬の念に厚い時頼は鵜甘神社に参籠し、天下泰平、五穀豊穣、国家安穏を祈願するとともに、村人の無聊をなぐさめて、田楽・能舞を教えて一冬を過ごした。時頼鎌倉に帰館後、水海滞在中のことを忘れず、神主及び村人をこの地より呼び寄せ、御供田、蜀紅の錦の装束、猩々の生毛の冠物を奉納し、神殿の修繕まで約した。田楽・能舞はこの時以来鵜甘神社の伝統となり、今日まで伝えられている。

 この伝承は、おそらく上記の『太平記』などに見られる最明寺時頼の廻国伝説から作られたものではないかと、私は想像しています。『鉢木』も同様に時頼の廻国伝説にヒントを得て作られたものではないでしょうか。近年の水戸黄門漫遊記なども、時頼の焼き直しではなかろうかと想像しています。



 常世神社は神社とは名ばかりの、かなりさびれてもの寂しいたたずまいでありました。所領を横領された常世が窮迫の日々を送ったのがこの地であるとされていますが、あたかもその当時を偲ばせるような侘しい有様です。


「佐野源左衛門常世遺蹟」の碑

下平克宏師奉納額


歌碑

 鳥居の奥は細長い参道になっており、細長くて狭い境内の突き当りの少し小高い所に小祠があります。その左手には「佐野源左衛門常世遺蹟」と刻さた大きな石碑が立てられています。碑の書は、侍従で宮中顧問官だった正四位子爵・日野西資博の手になり、大正15年に建立されたとのことです。また祠の右手には小さめの歌碑が建っていましたが、内容は判読できませんでした。
 祠の軒先には、下平克宏師が重要無形文化財総合指定保持者に認定されたのを記念した奉納額が飾られていました。

 さて、以下に掲げるのは、常世が秘蔵の鉢の木を焚いて客僧をもてなす前場の聞かせ所、いわゆる「薪之段」です。


シテ「仙人に仕えし雪山せつせんの薪  ツレ「かくこそあらめ  シテ「我も身を

捨人すてびとの為の鉢の木切るとてもよしやしからじと。雪うち拂ひて見れば面白や如何いかにせん。まづ冬木ふゆきより咲きむる。窓の梅のほくめんは。雪ほうじて寒きにも。異木こときよりまづ先だてば梅を切りやむべき。見じといふ。人こそけれ山里の。折りかけ垣の梅をだに。なさけなしと惜しみしに。今更いまさらたきぎになすべしとかねておもひきや

クセ「櫻を見れば春ごとに。花少しおそければ。この木やぶると心を盡し育てしに。今は我のみ侘びて住む。いえざくら切りくべて緋櫻ひざくらになすぞ悲しき
シテ「さて松はさしもげに  地「枝をめ葉をすかしてかゝりあれと植ゑ置きし。そのかひ今は嵐吹く。松はもとよりけむりにて。薪となるもことわりや切りくべて今ぞかきもりく火はおためなりよくりてあたりたまへや


 上掲の詞章で、現在は「松はもとより煙にて。薪となるも理や切りくべて今ぞ…」と謡われていますが、徳川時代以降、昭和の戦前までは、「松はもとより常盤(ときわ)にて。薪となるは梅桜切りくべて今ぞ…」と、何やら意味不明のまゝに謡っていました。これは徳川の本姓が〈松平〉であるので、〈松〉に関して〈まずい表現〉であるような箇所を軒並み家元が〈訂正〉したわけです。これを「かざし詞(ことば)」といいますが、このことに関して、表きよし氏が『観世』平成20年11月「『鉢木』の上演記録をめぐって」において次のように述べています。

 〈鉢木〉には「かざし詞」があった事が知られている。「かざし詞」とは身分の高い人の姓氏に遠慮して文句を改めたものをいうが、〈鉢木〉のクセの詞章に「松はもとより煙にて、薪となるもことはりや」とあったのを、徳川氏の旧姓が松平であることに配慮して「松はもとより常盤にて。薪となるは梅桜」と変えて謡うようになった。もとの詞章は松林が霞んで見える様子を和歌で煙に喩えるのを生かしたものだったが、松が燃えて煙になってしまうのは都合が悪いと考えたのである。
 謡本では正徳6年(1716)山本長兵衛刊の観世流内百十番本から「かざし詞」の形が採用されて固定化していった。能を演じたり謡を謡ったりする場合にはこうした配慮が必要な場合もあったが、『岡家本江戸初期能型付』の「鉢木」の項には、七大夫(喜多流初世喜多七大夫長能(おさよし)。〈鉢木〉を得意とした。)の演じた〈鉢木〉について次のような記事がある。

初ノ謡ノ内も、枩(まつ)をバ不切、「さしも実、枝をため」ノ時、右へ廻りざまに小刀をさす。是は忠卿の御前なれば枩を不切也。謡も替てうたひ候つる也。

 「忠卿」は駿府藩主の徳川忠長(二代将軍秀忠の三男)をさすと考えられ、寛永5年(1628)3月18日に秀忠が忠長邸に御成した際の能で七大夫が〈鉢木〉を舞っているから、その時のことかもしれない。七大夫は徳川氏の旧姓が松平氏であることに配慮して、松を切る演技をせず、謡の詞章も変えて謡ったとする。謡の詞章は「松はもとより常盤にて…」の形に変えたのだろうから、江戸時代に入るとすぐに「かざし詞」が登場していたわけで、七太夫の考案だった可能性も考えられる。

 そして『観世』平成21年1月号で、表きよし氏は「かざし詞」の変遷について、以下のように補足しています。

 観世流が〈鉢木〉の詞章を元来の形に戻したのは「大成版」からのようです。「昭和版」や昭和15年刊の「観世流改定本(決定版)」では、「松はもとより常盤にて、薪となるは梅桜」とあります。ただし「昭和版」では上欄に「古ニ 松はもとより煙にて。薪となるも理や」、「改訂本」では上欄に「原作ニハ「松ハもとより煙にて。薪となるも理や」トアリシヲ、江戸時代ニ徳川氏ノ松平姓ニ憚リ改文シタルナリ」とあります。これらを踏まえて「大成版」で元来の形に戻したようです。演出の件に関しましては、「改定本」の上欄に「コノ地中、元ハ上註特記ニ在ル文意ニ応ジテ、松ヲ切ル型モアリタルガ、現章ノ通リ改定シテ後ハ仕草ヲ差控ヘ、随ツテ謡ニモ、前二ヶ所ノ如キ心持ハ無クナレリ」とあります。「前二ヶ所」というのは梅や桜を切る型をする所を指しています。これからすると、やはり松の所は切る型をしないというのが普通だったようです。

 このかざし詞に関して、『日本古典文學大系・謡曲集』(横道萬里雄・表章校注、岩波書店、1963)によれば、観世・金春・喜多の三流は現在は古形に戻しているが、宝生流は江戸時代以降の形を現在も踏襲しており、金剛流では「松はもとより煙にて薪となるは梅桜」として、両者を折衷した形で謡っているとのことです。
 この『鉢木』と同じ現象が『三輪』にも見られるのです。〈中入〉後のワキの上歌(待謡)で、観世流の大成版では以下のように謡われています。

上歌 ワキこの草庵を立ち出でゝ。この草庵を立ち出でゝ。行けば程なく三輪の里。近き邊(あたり)か山陰の。松は標(しるし)もなかりけり。杉村ばかり立つなる神垣は何處なるらん神垣は何處なるらん

 諸流を通じて江戸初期までは上記のように「松はしるしもなかりけり」と謡っていましたが、江戸中期以降は「松は常盤の色ぞかし」とめでたい文句に改めて謡うようになりました。宝生流以外の四流は、明治維新後に漸次原形の「松はしるしもなかりけり」に戻しましたが、宝生流のみは現在でも「松は常盤の色ぞかし」と江戸後期の形を踏襲しているとのことです。


 余談ですが、高崎市立佐野中学校の校章は、「鉢の木」にちなんで「梅の花、松の葉、桜の花をかたどり、佐野地区の伝統の気風を表わして」おり、さらに校歌に「鉢の木」が謡われています。その2番の歌詞

   物語 佐野の鉢の木
   色も香も 梅 松 桜
   節操は 昔を今に
   伝統の 気風を誇る
   花開く 学びの窓は
   これぞわが 佐野中学校




 「常世神社」から新幹線の高架に沿って少し南下したところに「定家神社」が鎮座しています。先ほどの常世神社とは異なり、こちらはかなり広々とした境内です。その境内に朱塗りの社殿がぽつんと建つ以外に、めぼしい建物はありませんでした。
 祭神は鎌倉時代初期に活躍した歌人の藤原定家。『新古今和歌集』や『新勅撰和歌集』の選者を務めるなど、当時を代表する歌人です。このような上州の片隅に、定家を祀る社があろうとは。何となくそぐわぬ感が否めません。定家の子孫である冷泉為茂が著した『定家大明神縁起』(元禄7年・1694)によれば、「定家が東国行脚の折、佐野の松原に草庵を結び、しばらく住んだ後、持仏の観音菩薩を村人に贈り京へ帰った。村人達は定家を慕い草庵を祠として、観音像を安置して信仰した」と伝えられているようなのですが、果たしてその真偽のほどは、如何なものでしょうか。


定家神社正面の鳥居


 定家と佐野の地を結びつけるものとしては、『新古今和歌集』に、

   駒とめて袖うち払ふかげもなし佐野の渡りの雪の夕暮

という有名な一首があります。この歌は謡曲『鉢木』でも謡われており、この歌によって定家とここ佐野の地が結び付けられたと思われますが、この歌に詠まれた「佐野」の地は果たしてどこなのでしょうか。
 定家のこの歌は、『万葉集』巻三・265、長忌寸奥麻呂(ながのいみきおきまろ)の歌

   苦しくも降り来る雨か神(みわ)の崎狭野(さの)の渡りに家もあらなくに

を本歌として詠んだものとされています。万葉の長忌寸奥麻呂の「狭野(佐野)」は現在の和歌山県新宮市佐野です。その歌を踏まえた定家の「佐野」も、やはり紀伊国、新宮の佐野とするのが妥当でしょう。
 ところが「佐野の舟橋」の「佐野」と「佐野の渡り」の「佐野」とが同一視され、それによって「定家の佐野=上野国」となり、さらに前述しましたように、謡曲『鉢木』に謡われているところから、この地に定家神社が祀られることになったのではないでしょうか。


定家神社社殿

万葉歌碑


 当社の境内には万葉の歌碑が建てられていました。

  佐野山に打つや斧音(をのと)の遠かども寝もとか子ろが面(おも)に見えつる (巻十四・3473)
 (佐野山に打つ斧の音の遠くに聞こえるように、遠くにいるが、共に寝ようというのか、妹の姿が面影に見えたことよ)

 当社は、地元では「定家さま」と呼ばれて親しまれているそうです。社殿の横にはブランコやジャングルジムもあって、子供の絶好の遊び場になっているようです。また半紙に「こぬひとをまつほのうらのゆうなぎにやくやもしほのみもこがれつつ」と書いて神社の木戸に貼っておくと、3日以内に失せ物が見つかるという伝承があるようです。
 なんとなく寂れた感のあるお社ではありますが、地元の方に愛され一体になって存在している、そんな神社なのかも知れません。そうであれば、都を遠く離れた上州に祀られている定家卿も、きっとご満足かもしれません。


 今回の謡蹟探訪では、初めて関東地方を訪れました。一昨日は鎌倉に『盛久』の謡蹟を尋ね、鎌倉から上州に向かい佐野源左衛門常世の古跡を訪いましたが、まるで自分自身、最明寺時頼になって常世を訪れたような錯覚に陥った次第です。
 なお、『鉢木』に関しては、大角征矢氏が『能・謡ひとくちメモ』に「『鉢木』のもう一つの見方」と題して、興味ある見解を披露されています。また『鉢木』は川柳にとって絶好のテーマであったとみえて、川柳に多く取り上げられています。古川柳と謡曲の関わりを扱った『柳多留と謡曲』の「鉢木」も併せてご覧ください。




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  (平成29年10月27日・探訪)
(平成29年11月28日・記述)


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