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大阪阿倍野・松虫塚 〈松虫〉


 年の暮れも押し迫った2017年12月12日、阿倍野にある松虫塚を訪れました。
 私は年に2回、天王寺の大阪市立大学附属病院に通っており、近くにある松虫塚などはいつでも行けると高をくくっていましたが、ついつい行けずじまいになっておりました。この日は所用で大阪市内に出てきており、夕方までの時間つぶしにと意を決して訪れた次第です。
 あべの筋と松虫通の交わる“松虫”交差点から西に100メートルほどのところに「松虫塚」が建てられています。阪堺電気軌道の“松虫”駅からも近く、JR天王寺駅や近鉄阿倍野橋駅からも徒歩10分程度のところです。
 余談ですが、松虫塚の南方には陰陽師で有名な安倍晴明を祀る安倍晴明神社が鎮座しています。またこの一帯の地名は阿倍野元町と呼ばれていますが、かつては晴明の父親である安倍保名(あべのやすな)の名をとって“保名”と呼ばれていたそうです。安倍晴明神社の近くにある“阿倍野保名郵便局”は、本来の命名法であれば“阿倍野元町郵便局”となるべきところでしたが、安倍保名の名を残そうと頑張り、現在の名称に落ち着いたと聞いたことがあります。

松虫塚周辺地図


   

 JR天王寺駅から阪堺電車の軌道に沿ってあべの筋を南下します。Wikipedia によれば“阿倍野”の由来は、古代にこの地を領有していた豪族「阿倍氏」の姓からとする説、『万葉集』の山部赤人の歌からとする説、古地名の「東生郡餘戸郷(ひがしなりぐんあまべごう)」の「餘戸(あまべ)」からとする説などがありますが、豪族「阿倍氏」説が今のところ有力であるとのことです。
 上記の“『万葉集』の山部赤人の歌”とは、(巻三・359)の「阿倍の島鵜の住む礒に寄する波間なくこのころ大和し思ほゆ」を指すのでしょうか。


阪堺電車“松虫”駅


西側からの眺め

東方から塚を望む



《松虫塚》  大阪市阿倍野区松虫通1-11-5

 阪堺電車は松虫駅の手前から、あべの筋の路面を離れて専用の軌道に入ります。歩くこと10分ほどで“松虫”の交差点を右折し、阪堺電車の線路を超えると、通常の街路樹にしては並はずれた大きさなのですが、先端が切り取られたような榎の木が立っています。その根元に、歩道の大半を塞ぐような形で玉垣が廻らされ、その中にお目当ての「松虫塚」が建てられています。
 もともとこの松虫塚付近は、狭い道路が入り組んでいたところだったそうで、あたらしく道路をつけることになりました。計画では松虫塚を突き貫けることになっていましたが、この榎の大木は御神木であり、この木を損なうと大きな災いを生じる虞があるということで、この塚の一角を迂回する形で開通したということです。


3基の松虫塚


中央は『古今集』の歌碑


 観世流大成版『松虫』の〈資材〉によれば、松虫塚の所在について「東生郡阿部野村より五町ばかり西北の畑中にある柘榴塚の東南である」とされています。柘榴塚は聖天山古墳附近にあったようですので、この地が謡曲の古跡とも思われます。けれどもこの松虫塚には、下記のようないくつかの伝承があるのですが、後鳥羽上皇に仕えていた官女の物語が主体のようで、謡曲の『松虫』との関係は希薄なようです。その故か、ここには謡曲史蹟保存会の駒札は建てられていませんでした。以下はここに建てられている3基の由緒書きのうち「松虫塚の伝説」と題した説明書きです。

 松虫塚には古来数々の伝説がありますが、この地が松虫(今日の鈴虫)の名所であったところから、松虫の音にまつわる風流優雅な詩情あふれる次のような物語が伝承されています。
 二人の親友が月の光さわやかな夜麗しい松虫の音をめでながら道遥するうち虫の音に聞き惚れた一人が草むらに分け入ったまま草のしとねに伏して死んでいたので残った友が泣く泣くここに埋葬したという。
 「古今集」松虫の音に友を偲び
  秋の野に入りまつ虫の声すなりわれかとゆきていざとむらわん
 後鳥羽上皇に仕えていた松虫の姉妹官女が法然上人の念仏宗に感銘して出家したが松虫の局が老後この地に来て草庵を結んで余生を送ったという。
 「芦今船」
  経よみてそのあととふか松虫の塚のほとりににちりりんの声 藤原言因
 才色兼備の名手といわれた美女がこの地に住んでいたが一夕秘枝を尽くした琴の音が松虫の自然の音に及ばないのを嘆き、次の詩を吟して琴を捨てたという。
  虫音喞々満荒野 闇醸恋情琴瑟抛
 (虫声そくそく荒野に満つ、恋情を闇にかもして琴瑟を抛つ)
 松虫の名所であるこの地に松虫の次郎右衛門という人が住み松虫の音を愛好することすこぶる深く終生虫の音を夜とし、老いてのち
  尽きせじなめでたき心しるならばこけの下にもともや松虫
の辞世の歌を残して没したという。


由緒書

新しい由緒の碑


 上記の説明書き以外に2種類の由緒書きがあります。その一つは、

 松虫塚には古来数々の伝説がありますが、この地が松虫(今日の鈴虫)の名所であったところから、松虫の音にまつわる風流優雅な言い伝えが多く、七不思議の神木とともに尊崇されてきました。
 昔は琴謡曲や舞楽などを修める人々の参詣で賑わったと伝えられていますが、近年は芸能全般、技術関係などすべての習いごとの習得を願う方たちから崇敬されています。

 “七不思議の御神木”とは榎の大木のことだと思いますが、この“御神木”に関する伝承は知り得ることができませんでした。
 最後の説明は、新しく建てられたものと思われる石柱に刻されています。

 昔から上町台地の上には古墳や塚がつくられることが多かったが、この松虫塚は通りかかりの旅人が松虫の声に聞きいり、命絶えたことをあわれんで供養されたものである。


 それでは本来の目的である謡曲『松虫』について、考察してみましょう。


   謡曲「松虫」梗概
 作者は金春禅竹。『能本作者註文』をはじめとする資料は世阿弥の作とするが、『自家伝抄』のみが金春禅竹作としている。本曲の構成や詞章は世阿弥作品を踏まえてその影響下にあり、かつ禅竹風の言いまわしも認められる点で、禅竹作の可能性が高いと思われる。
 典拠は不明であるが『古今集』の序の「松虫の音に友をしのび…」から思いついたのではないかと云われており、同歌集所収の「秋の野に人まつ虫の声すなり 我からゆきていざとむらはむ」の歌も本曲に引用されている。
 江戸時代に編纂された摂津国の地誌である『攝陽群談』によれば「所伝云、古或人二人伴て、此野を過。折節秋も半にて、月の清なるに松虫の声面白き方を慕ふ。一人は後に残りて、草の莚にぞ臥ぬ。暫の間も帰来ざりければ、また一人も跡を尋て、爰に来り見れば、草に伏て死ぬ。泣々土中に埋みて、松虫塚と号て、世伝之と云り。松虫の音こと、古今集の序にたよりて、謡に作たるに因れる歟」と見えている。

 阿部野の市で酒を売る者のところに、いつも大勢で来て酒宴を催す男たちがあった。その一人が酒に興じて「松虫の音に友を偲ぶ」と言ったので、その訳を尋ねると、昔、この阿部野の松原を二人の親しい友が通ったが、一人が松虫の音に心を惹かれて慕い行き、そのまま草むらの中で死んでしまったので、今でも亡くなった友を慕って、松虫の音に誘われて現われるのだと語り、自分がその亡霊である旨を打ち明けて立ち去った。
 その夜、酒売りの市人が回向をしていると、かの男の亡霊が現われて、友と酒宴をして楽しんだ昔の思い出を語り、虫の音に興じて舞を舞い、明け方に名残を惜しみながら、松虫の音の中を茫々たる草の原へと消えていった。

 本曲は男同士の深い友情を扱ったものとして、特異な主題を持つ作品であり、詞章のに“友”の語が頻出するのが特徴的である。ちなみに、“友”は16回、“友人(ともびと)”が5回、“酒友”は1回出現している。
 後シテは、男の亡霊を凄惨な姿とする演出が多数であり、黒頭に怪士(あやかし)、阿波男、千種男(ちぐさおとこ)など怪士系の凄愴な面をつけた鬼に近い扮装とし、舞は流儀により、黄鐘早舞(観世・金剛)、中ノ舞(宝生)、男舞(金春、喜多)と異なるが、いづれも早いテンポで強く舞う。大小黄鐘早舞は本曲と『錦木』の2曲のみに用いられる。


 『古今集』の序にある「松虫の音に友をしのび」については『三流抄』(『古今和歌集序聞書』、鎌倉時代に作られた古今和歌集・仮名序の注釈書)に以下のように述べられています。(伊藤正義『新潮日本古典文学集成』1988)

 松虫ノ音ニ友ヲ忍ブトハ、昔、大和国ニ有ケルモノ、二人互ニ契リ深シ。津ノ国阿倍野ノ市ヘ連テ行。市ニテ別レテ、アキナヒスル程ニ、互ニ行方ヲ知ラズ。一人先立テ帰ケルガ、彼ヲ待テ居タリケル程ニ、夜ニ入テカレハ死ケリ。彼市ニ残ル友、彼ヲ待ケレドモ、見エザリケレバ、広キ野ニ出テ尋行ス。彼死シタル者ノ家ハ貧シクシテ、草深シ。松虫多ク啼ケレバ、松虫ヲヽク啼処ヲ見レバ、彼者死テアリ。倶ニ一処ニテ死ナント契リタリシカバ、身ヲ抛テ死ス。夫ヨリシテ、友ヲ忍ビ、友ヲ戀スル事ニハ、松虫ノ音ニヨソヘテ云ナリ。


 本曲の曲名は『松虫』でありますが、本曲の〈キリ〉にはその名の通り多くの虫やその鳴き声が登場しています。

 

ワカ シテ「面白や千草ちぐさにすだく。虫の  地はた織る音の  ノル シテ「きりはたりちよう  地「きりはたりちよう。つゞりせてふ蟋蟀きりぎりす茅蜩ひぐらし。色々の色音いろねの中に。きて我が偲ぶ松虫の聲。りんりんりんりんとしてよるの聲めいめいたり
  ノル「すはや難波の。鐘も明方あけがたの。あさまにもなりぬべしさらばよ友人ともびと名殘の袖を。招く尾花をばなのほのかに見えし。跡絶えて。草茫々ばうばうたる朝の原に。虫のばかりや。殘るらん虫の音ばかりや。殘るらん


 まず「機織」は今のキリギリスであると考えられています。機を織るような声で鳴くところから、こう呼ばれるようになったようです。また「蟋蟀」は今のコオロギのこと。キリギリス(機織)の鳴く声は、機を織るような「きりはたりちょう」という音色で「つづりさせ」と鳴くのはコオロギ(蟋蟀)である、の意でしょう。詞章の「きりはたりちよう」は、機織りの音の擬声語で、続く「つづり刺せてふ」も、蟋蟀の声の擬声語です。
 この「きりはたりちよう」は『錦木』と『呉羽』にも登場しますが、こちらは「きりはたりちやう」と表記されており、なぜか本曲は「きりはたりちよう」の表記となっています。
 先ずは『錦木』の「きりはたりちやう」。こちらは虫の声を表わしています。

シテ機物の音  ツレ秋の虫の音  シテ聞けば夜聲  ツレきり  シテはたり  ツレちやう  シテちやう  上歌 地きりはたりちやうちやう。きりはたりちやうちやう。機織松虫きりぎりす。つゞりさせよと鳴く虫の。

 続いて『呉羽』の「きりはたりちやう」。こちらは機を織る音です。

一セイ シテ松の風。又は磯打つ波の音  地頻りに隙なき.機物の  シテ取るや呉羽の手繰りの糸  地我が取るあやは  シテ踏木の足音  地きりはたりちやう  シテきりはたり。ちやうちやうと  地悪魔も恐るゝ。聲なれや。げに織姫の。翳しの袖 〈中之舞〉

 さて「松虫」ですが、古くは今の鈴虫のことを指し、今の松虫は「鈴虫」といい、その名が現在とは逆になっていたといわれていますが、根拠となる確かな資料は見当たらないようです。「松虫」は「待つ」と掛けられ、和歌に詠まれています。
 室町以前の和歌で「松虫」の鳴き声を詠んでいるものはなく、『野宮』に「誰松虫の音は。りんりんとして…」とあるように、謡曲が古い例のようです。
 上掲の『錦木』に「松虫」が登場していますが、それ以外に「松虫」を扱っている曲を以下に。

『野宮』
(キリの中) たゞ夢の世と經りゆく跡なるに誰松虫の音は。りんりんとして風茫々たる。野宮の夜すがら。懐かしや 〈破之舞〉

『蝉丸』
(上歌〈道行〉の中) 松虫鈴虫蟋蟀の。鳴くや夕陰の山科の里人も咎むなよ。狂女なれど心は清瀧川と知るべし

『鞍馬天狗』
(シテ・子方の掛合) シテ思ひ寄らずや松虫の。音にだに立てぬ深山櫻を。御訪ひのありがたさよこの山に



 さて本曲には『和漢朗詠集』など、多くの詩歌が参照されています。以下にそれらを拾ってみましょう。

ワキ「傳へ聞く白樂天はくらくてん酒功賛しゆこうさんを作りし琴詩酒きんししゆの友。今に知られて市館いちやかたに。そんを据ゑ盃をならべて。寄りる人を待ち居たり。


 『和漢朗詠集』「酒」の部、480

 晋の建威けんゐ将軍劉伯倫りうはくりん酒をたしんで 酒徳頌しゆとくしようを作つて世に傳へたり
 唐の太子の賓客ひんかく白樂天また酒を嗜んで 酒功賛しゆこうさんを作つて以てこれに繼ぐ


 『白氏文集』巻六十一「酒功賛、幷序」
西晋の建威将軍であった劉伶は、酒を好んで、酒徳頌という酒を讃える文を書き、それを後世に伝えた。唐の太子賓客である私、白楽天も彼と同様に酒好きなので、酒功賛を作って先人の後に続くのである。


 『和漢朗詠集』「交友」の部、734

 琴詩酒きんししゆの友皆我をなげうつ 雪月花せつげつくわの時に最も君をおも


 『白氏文集』巻五十五「寄殷協律」
昔、一緒に琴を弾じ、詩を作り、酒を飲んで楽しんだ旧友たちは、皆私から去って、遠い存在となってしまった。だから、雪が降った朝、月光が美して夜、花の盛りの時節など、四季折々の風趣をめでるころになると、とりわけ君のことが懐かしく思い出される。


シテせまでもなし何とてか。この酒友しゆいうをば見捨つるべき。古きえいにも花のもと  ワキ「歸らん事を忘るゝは  シテ美景びけいると作りたり  シテ・ワキそんの前にゑひすすめては。これ春の風とも云へり


 『和漢朗詠集』「春興」の部、18

 花のもとに歸らむことを忘るるは美景びけいつてなり そんの前にひをすすむるはこれ春の風


 『白氏文集』巻十三「酬哥舒大見贈」
花樹の下で賞で遊び、帰るのをつい忘れてしまうのも、ひとえにその美しい眺めのためである。酒樽の前でさらに盃を重ねついに酔ってしまうのも、うららかな春風の酔いがあるからだ。


〈ロンギの中〉 地「げにげに思ひいだしたり。古き歌にも秋の野に  シテ「人松虫の聲すなり  地「我かと行きて。いざとむらはんとおぼし召すか人々ありがたやこれぞまことの友をしのぶぞよ


 『古今和歌集』巻第四「秋哥上」の部、202(よみ人しらず)

 あきののに人松虫のこゑすなり 我かとゆきていざとぶらはん


秋の野に松虫の鳴き声が聞こえてくる。「待つ」虫というくらいだから、誰かを待っているのだろう。もしや私かもしれないから、いざ、訪ねてみるとするか。


サシ 後シテ「あらありがたの御弔おんとむらひやな。秋霜しうさうに枯るゝ虫の聞けば。閻浮えんぶにの秋に歸る心。なほ郊原かうげんち殘る。魄靈はくれいこれまで来りたり。嬉しく弔ひ給ふものかな


 『和漢朗詠集』「無常」の部、794

 あした紅顔こうがんあつて世路せろに誇れども ゆふべに白骨となつて郊原かうげんちぬ


 義孝少将(『日本詩紀』巻二十九には慶滋保胤の失題の作として載せる)
朝には若く盛んなつやつやした顔色で、世に誇らしく生きていても、夕べには死んで白骨となり、郊外の野に朽ち果ててしまう。


〈クリの前〉上歌 地古里ふるさとに。住みしは同じ難波人なにはびと。住みしは同じ難波人。蘆火あしびく屋も古館ふるやかたも。かはらぬ契りを.忍草しのぶぐさの忘れえぬ友ぞかしあら。なつかしの心や


 『万葉集』巻十一、2651(よみ人しらず)

 難波人なにはびと葦火焚く屋のしてあれどおのが妻こそ常めづらしき


難波の人が葦で火をたく家のようにすすけてはいるけれども、自分の妻こそはいつもめずらしく、いいものである。


クリ 地「わすれて年をしものを。またいにしへに歸る波の。難波の事のよしあしもげにへたてなき友とかや
サシ シテあした落花らくくわを踏んで相伴あひともなつて出づ  地ゆふべには飛鳥ひてうに隨つて一時いちじに歸る  シテ「然れば花鳥くわてう遊樂いうがく瓊筵けいえん  地風月ふげつの友に誘はれて。春の山辺やまべや秋の野の草葉にすだく虫までも。聞けば心の。友ならずや


 『和漢朗詠集』「落花」の部、127

 あしたには落花らくくわを踏んで相伴あひともなつて出づ ゆふべには飛鳥ひてうに隨つて一時いつじに歸る


 『白氏文集』巻三十三「春来頻与李二賓客郭外同游、因贈長句」
朝には落花を踏みながら親しい友人である李賓客と連れだって遊びに出かける。夕方にはねぐらに帰る鳥に随って、二人とも連れだって仲よく帰ってくる。


クセ 地一樹いちじゆの蔭の宿りも他生たしやうの縁と聞くものを。一河いちがの流れ汲みて知るその心淺からめや。奥山の深谷みたにの下の菊の水。汲めども。汲めどもよもきじ。流水りうすゐの盃は手まづさへぎれる心なり。されば廬山ろさんいにしへ虎溪こけいを去らぬむろの戸の。そのいましめを破りしも。志を淺からぬ。思ひの露の玉水たまみずのけいせきをでし道とかや


 『和漢朗詠集』「三月三日」の部、42

 石にさはつておそく來れば心ひそかに待つ りうかれてはやく過ぐれば手先づさいぎ


 菅原雅規
曲水の宴で、流れに乗って下る盃が石に遮られてなかなか回ってこないと、すでに詩を作り終えた人は早く酒盃を手にしたいとはやる心を抑えて待っている。また酒をたたえた盃が流れに乗ってさっと通り過ぎようとすると、まだ詩のできていない人は手で盃をとどめては慌てて詩を作ろうとする。


ワカ シテ「面白や。千草ちぐさにすだく。虫の音の  地はた織るおと  シテ「きりはたりちよう  地「きりはたりちよう。つゞりせてふ蟋蟀きりぎりす茅蜩ひぐらし。色々の色香いろかの中に。きて我がしのぶ松虫の聲。りんりんりんりんとしてよるの聲めいめいたり


 『古今和歌集』巻第十九「雜體」の部、1020

 秋風にほころびぬらし ふじばかま つゞりさせてふきりぎりすなく


在原棟梁「寛平御時きさいの宮の哥合のうた」
秋風が吹いて、藤袴の花がほころんできたようだ。それを見て、つづりさせというきりぎりすが、袴の裾が綻びているから、綴り刺せと鳴いている。。


 最後に『松虫』にちなんだ川柳を少々。必ずしも謡曲関連とはいえぬかも知れませんが…。

  秋の野でつゞれも差せば機も織り (柳多留 五十四・36)
  押さへればすすき放せばきりぎりす (柳多留拾遺 一・20)
  面ざしは馬に似てゐるきりぎりす (柳多留 六・36)

 初句、謡曲のキリの詞章を下敷きにして、秋の野の虫の声を詠みこんだ句です。コオロギは「つづれさせ」と鳴き、キリギリスは「ハタハタ(機々)」と鳴く、ということでしょう。
 二句目、秋の夕べ、すすきの野にキリギリスが鳴いている。どこだろうと芒をのけてのぞくと、見えないばかりか声もやんでしまった。そして、手を放すとまた鳴きはじめた。虫を捕らえそこなったかと思い芒を放せば、やっぱり虫が居た、という景色でしょう。古くはキリギリスとコオロギは、松虫・鈴虫同様、現代の呼称とは逆になっていたとされていますが、江戸期では現代と同じ呼称になっていたようですね。
 三句目、よく見ればキリギリスは確かに馬面でした。この馬面を発見した、川柳的な写生の句ですね。
どうも、松虫よりキリギリスが中心になってしまいました。




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  (平成29年12月12日・探訪)
(平成30年 1月 4日・記述)


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