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和州・長谷寺 〈玉鬘〉


 2018年5月16日、奈良県の長谷寺に参拝、『玉鬘』の謡蹟を訪れました。
 前日の15日に室生寺に参拝し、赤目に宿泊、本日は午前中に赤目四十八滝を散策、午後長谷寺に参拝いたしました。
 近鉄の長谷駅から20分弱で長谷寺の門前に到着します。


長谷寺門前


 当寺は西国三十三観音霊場の第八番札所。総受付のあたりから山門を眺めると、平日であるにもかかわらずかなりの人混みです。

長谷寺境内案内図


 長谷寺は真言宗豊山派総本山の寺で、山号を豊山、院号を神楽院と称し、本尊は十一面観音。創建は奈良時代、8世紀前半と推定されていますが、詳しい時期や事情は不明です。寺伝によれば、天武天皇の朱鳥元年(686)道明上人が天武天皇の為に「銅板法華説相図』を初瀬山西の岡に安置し、のち神亀4年(727)徳道上人が聖武天皇の勅願により、本尊の十一面観音を東の岡に祀ったことにはじまります。徳道上人は観音信仰にあつく,西国三十三所が巡礼路としての形を整えたのは、徳道上人が仏道を求めて観音の霊場を一巡したことに始まるといわれています。


仁王門

登廊

 500円也の参拝料を支払い入山します。現在の仁王門は明治22年(1889)に再建されたもので、楼上には釈迦三尊、十六羅漢像を安置、扁額の「長谷寺」の額字は後陽成天皇の御宸筆。
 仁王門をくぐると、前方には延々と連なる登廊(のぼりろう)が続いています。上中下の三廊に分かれており、百八間、399段。平安時代の長暦3年(1039)に春日大社の社司中臣信清が子の病気平癒の御礼に寄贈したものです。下・中廊は明治22年の再建で、風雅な長谷型灯籠を吊るしています。


 登廊を登りきったところに国宝に指定されている本堂があります。小初瀬山中腹の断崖絶壁に懸造りされた南面の大殿堂で、写真でみると清水寺の舞台と似通った造りとなっています。


開山堂側から見た本堂

ご朱印


 登廊を三分の一ほど登ったところ、月輪院の手前に右に折れる小道があります。ここに「二本の杉」「藤原定家塚、藤原俊成碑」の案内標が示されており、この道を下って行くとお目当ての『玉鬘』ゆかりの「二もとの杉」と、さらにその奥には藤原俊成、定家父子を供養する「藤原俊成碑・定家塚」があります。


藤原俊成碑・藤原定家塚(中央の五輪塔が定家塚、右が俊成碑)


 2本の杉の大木は、根元のあたりがくっついているように見えます(本当にくっついているのでしょうか)。傍らに“謡曲「玉鬘」と二本(ふたもと)の杉”として、謡曲史蹟保存会の駒札が建てられていました。

 謡曲「玉鬘」は源氏物語玉鬘ノ巻に拠ったもので、初瀬詣での旅僧の前に現れた玉葛の霊が、僧を長谷寺の“二本の杉”の下へ案内し、この杉の下で亡母の侍女右近とめぐりあった話を述べるという物語になっている。
 玉鬘は、光源氏と契り生霊にとりつかれて死んだ夕顔の娘で、故あって筑紫へ身を隠すが、母に会いたい一心で筑紫から舟で大和に至り長谷へ祈願のため来たところ右近と巡りあい母の死を知るわけである。
 長谷寺の観音信仰は、そのような願いを示現してくれるというので、王朝時代から盛んだったという。

 また二本の杉の根元には「二もとの杉」と刻した石碑が建てられていました。



二もとの杉

杉の根元がくっついているのか


謡曲史蹟保存会の駒札


 謡曲史蹟保存会の駒札にも記されていますが、謡曲『玉鬘』は『源氏物語』の「玉鬘」の巻に典拠しています。典拠となった『源氏物語』の「玉鬘」の巻について、簡単に眺めてみましょう。謡曲では、アイ狂言が玉鬘の身の上を物語っています。

 玉鬘は頭中将と夕顔の間に生まれた娘。母の夕顔は頭中将の正妻に脅され姿を隠していた時に源氏と出逢い、逢瀬の途中に不慮の死を遂げる。しかし乳母たちにはそのことは知らされず、玉鬘は乳母に連れられて九州へ流れる。そこで美しく成長し、土着の豪族大夫監の熱心な求愛を受けるが、これを拒んで都へ上京。長谷寺参詣の途上で偶然にも夕顔の侍女で今は源氏に仕えている右近に再会、その紹介で源氏の邸宅・六条院に養女として引き取られる事となった。
 その後、実父である内大臣(頭中将)との対面を果たす。冷泉帝へ尚侍としての入内が決まるが、出仕直前に髭黒と突然結婚する。

 右近は玉鬘と出会い、二もとの杉の木立を尋ねたことを歌に詠み玉鬘とともに歓びます。以下『源氏物語』の右近と玉鬘の唱和のシーン、“二もとの杉”が詠われています。


 前より行く水をば、初瀬はつせ川といふなりけり。右近、
  「ふたもとの杉のたちどを尋ねずはふる川のべに君をみましや
うれしきにも」と聞こゆ。
   初瀬川はやくのことは知らねども今日けふの逢ふ瀬に身さへ流れぬ
と、うち泣きておはするさま、いとめやすし。


 この「二もとの杉」の歌は、『古今和歌集』の巻第十九の「旋頭歌」を踏まえたものです。

  初瀬川 古川野辺に 二もとのある杉 年をへて 又もあひ見む 二もとある杉

 さらに右近は「うれしき瀬にも」と付け加えていますが、これは『古今六帖』巻三にある、

  祈りつつ頼みぞわたる初瀬川うれしき瀬にも流れ合ふやと

を引いたのです。右近は、旋頭歌を踏まえた和歌に、さらに古歌の一句を添えることで、一首のみでは表現できなかったさまざまな思いを籠めたものでしょう。

 さて、謡曲では前シテの玉鬘の亡霊である里女が、小舟に掉さして初瀬川を漕ぎのぼって参詣いたします。


下歌「かくて御堂みだうに參りつゝ。かくて御堂に參りつゝ。らくせんのあたり。四方よもの眺めも妙なるや。紅葉もみぢの色に常盤ときは二本ふたもとの杉に着きにけり二本の杉に着きにけり

シテ「これこそ二本ふたもとの杉にて候へよくよく御覧候へ
ワキ「さては二本ふたもとの杉にて候ひけるぞや。二本ふたもとの杉の立所たちどを尋ねずは。古川ふるかは野辺のべに君を見ましやとは。何とまれたる古歌こかにて候ぞ
シテ「これは光源氏ひかるげんじいにしへ。玉鬘の内侍ないしこの初瀬にもほで給ひしを。右近うこんとかや見奉りてみし歌なり。共にあはれとおぼし召して御跡おんあとをよく弔ひ給ひ候へ


 それでは謡曲『玉鬘』について、考察してみたいと思います。


   謡曲「玉鬘」梗概
 作者は金春善竹。『源氏物語』の「玉鬘」の巻に拠ったもの。
 初瀬詣でに向かう旅僧が初瀬川まで来ると、小舟に棹さしてやてくる若い女に出会う。僧の問いに対して、女は初瀬寺に参る者と答え、山の紅葉を賞しながら御堂に参り、古歌に詠まれた二本(ふたもと)の杉まで一行を案内する。僧が古歌の謂れを尋ねると、数奇な運命にもてあそばれた玉鬘の物語を述べ、自らが玉鬘の亡霊であることをほのめかして立ち去る。
 僧が玉鬘のために回向をしていると、やがて玉鬘の霊が寝乱れ髪の姿で現れ、狂おしげに恋の怨みと妄執を述べる。

 本曲は四番目物の中で狂乱物の部類に属する。女の狂乱物の多くは、母性愛が毀損されるとか、恋情が充たされないなどの理由で、心の均斉が失われ、それが物思わしい自然の風物にほぐれ口を見出して、能特有の狂乱の状態に陥るのだが、本曲ではそのような原因となるべき条件が欠けている。この女主人公には、明確な恋情も感じられなければ、もとより母親ではないから、子供に対価る感情の激越も感じられる筈はない。
 狂乱物であるから〈カケリ〉はあるけれども、その〈カケリ〉とても「九十九髪。我や恋らし」という、いわばあてどもない恋ごころの表現に過ぎないもので、作者の目ざすところは縹渺として醸し出される幽玄の情緒にあるのみで、その点、鬘物の情緒を多分に含んでいる。
 岩波・日本古典文學大系『謡曲集』によれば「一般に禅竹関係の作品は、世阿弥の能のように主題が強く通っていない。ヴェールを通して物を見るような描き方がその特色である。この能は、古作の『浮舟』を学んだと思われ、きわめて似た構成なのだが、主題が不鮮明で、『浮舟』のように徹底しない」と述べられている。
 玉鬘の母である夕顔を主人公とした曲には『半蔀』『夕顔』の三番目物2曲がある。なお『玉鬘』の表記は観世流のみで、他流は『玉葛』と記す。


 『玉鬘』は、前半は三番目鬘物でありながら、後半は狂乱物といった特殊な演出となっています。ところで謡曲『玉鬘』の概要をまとめてみて、実は大いに困惑しています。それは後場において、シテの玉鬘が何故狂気の体をなさねばならぬのか。その理由が判然としないからなのです。
 お恥ずかしいことですが、私は『源氏物語』を読んだことがありません。今まで『源氏物語』に典拠した曲を扱った際には、急遽関連部分のみを読みかじり、急場をしのいでまいりました。そこで今般も泥縄式で、瀬戸内寂聴訳の『源氏物語』の「玉鬘」の章を目を通したのですが、前記の疑問を解決するには至りませんでした。
 取りあえず、謡曲『玉鬘』の後シテの出からキリの部分を眺めてみましょう。


後シテ「戀ひわたる身はそれならで。玉鬘。如何いかなるすぢを。尋ねぬらん。尋ねても。のりの教へにはんとの。心引かるゝ一筋ひとすぢに。そのまゝならで玉鬘の。乱るゝ色は恥かし。がみ  翔
一セイ「九十九髪。我やふらし面影おもかげ  地「立つやあだなるちりの身は  シテ「拂へど拂へど執心しふしん  地「ながきやみ  シテ黒髪くろかみ  地「あかぬや何時いつ寝乱ねみだれ髪  シテむすぼほれ行く。思ひかな

「げに妄執まうしふ雲霧くもきりの。げに妄執の雲霧の。迷ひもよしやかりける。人を初瀬のやまおろしはげしく落ちて。露も涙も散々ちりぢりに秋の葉の身も。ち果てぬうらめしや
シテうらみは人をも世をも  地「怨みは人をも世をも。思ひ思はじたゞひとつの。むくいの罪ゆ.數々かずかずの憂き名に立ちしも懺悔さんげの有様。或いはき返り。岩る水の。思ひにむせび。或いはこがるゝや.身より出づるたまと見るまでつつめども。ほたるに乱れつる。影も由なや恥かしやと。この妄執まうしふひるがへす。心は眞如しんによの玉鬘。心は眞如の玉鬘。長き夢路ゆめぢめにけり


 〈一声〉の囃子で登場したシテの玉鬘の内侍は、十寸髪(ますかみ)の面を付け、髪の毛を一握り分けて左肩に垂らして(付け髪)、狂乱の体を表わしています。そして「戀ひわたる」云々と乱れ心のわが身を恥じ、狂乱の心を表わす〈カケリ〉を舞います。前場では本三番目を思わせるように、水棹を持った清楚な出立ちで登場するシテが、後場でこのように狂うのはなぜなのでしょうか。
 『源氏物語』の「玉鬘」の巻に、ざっと目を通した限りにおいて、その要因を突き止めることは叶いませんでした。『源氏』の理解も不十分であるにもかかわらず、蛮勇を揮って想像し推理するならば、その原因は「玉鬘」の巻に見出されるのではなく、むしろ玉鬘の母である夕顔の登場する「夕顔」の巻などに潜んでいるのかも知れません。夕顔は源氏との逢瀬で、六条御息所と思われる女の霊により息を引き取ります。源氏の横槍のような愛情のために命を絶たれた夕顔の想いを、娘である玉鬘が背負わされている、その玉鬘の宿命のようなものを狂乱のうちに表現しているのでしょうか。

 『新潮日本古典集成・謡曲集』の巻末「各曲解題」で、『玉鬘』にみえる禅竹作の特徴の一として、以下の例のような重韻・連韻をあげています。

〈クセ〉  …思ひ絶えにし●●にし●●への。人にふた●●たびふた●●もとの
      …たま●●ならばたま●●かづら。迷ひを照らしたま●●へや
〈ロンギ〉 …聞けば涙もこもり●●●えに。こもれ●●●水のあはれ●●●かな。あはれ●●●とも
       思ひはめよ瀬川。やくも知るや…
      …弔ひたま●●へわれこそは。涙の露のたま●●と。のりもやらずりにけり…





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  (平成30年 5月16日・探訪)
(平成30年 6月14日・記述)


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