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讃州・白峯寺 〈松山天狗〉


 2018年6月28日、謡友18名とともに、香川県五色台にある白峯寺に参詣しました。
 この日は、岡山県倉敷市にある藤戸寺に参詣し、同寺の本堂をお借りして奉納謡会を実施しました。その後香川県に入り『松山天狗』の謡蹟である白峯寺を訪れたものです。この日は高松市で一泊して、翌日『屋島』と『海士』の謡蹟である屋島寺と志度寺に参拝いたしました。
 ここ白峯寺には崇徳上皇を祀る頓証寺殿があり、また隣接する御陵にも上皇が祀られています。後述しますが保元の乱で敗れ、この地に流され亡くなった崇徳上皇を扱った作品が『松山天狗』で、金剛流のみ現行曲ですが、観世流でも近年復曲上演されています。
 私は過去3度、四国八十八ヶ所を歩いて巡拝しました。その折撮影した写真を交えて、讃岐における崇徳上皇の足取りをたどってみたいと思います。なお、この項は当サイトの「お遍路紀行」の白峯寺の記述からかなりの部分を再録しております。

 まずは崇徳院について。

 崇徳天皇(1119~1164)は第75代天皇(在位1123~1142)。譲位後は新院、 配流後は讃岐院とも呼ばれた。鳥羽天皇の第一皇子、母は藤原璋子(待賢門院)であるが、実は曾祖父である白河法皇と璋子と密通してできた子と言われている。白河法皇が亡くなり、鳥羽上皇が院政を開始すると、政治の場から遠ざけられ鬱屈とした日々を送るようになる。不満を募らせた崇徳上皇は藤原頼長と手を組み、源為義・平忠正らの武士を集めて保元の乱を起こす。しかし後白河天皇側の夜襲に遭いわずか一日で惨敗、捕らえられ讃岐国へ流罪となった。天皇の流刑は、淳仁天皇が藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱で淡路国に流されて以来、392年ぶりのことである。崇徳上皇は京に帰ることも許されないまま讃岐の地で、失意の内に悲運の生涯を閉じた。享年46歳。


 崇徳院といえば、まず思いつくのが小倉百人一首の、

 瀬を早み岩にせかるゝ滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ

という歌です。この歌は『詞花集』恋上に、題知らずとして収録されています。『百人一首一夕話』(尾崎雅嘉・古川久校注、岩波文庫、1973)によれば、

 浅瀬の流れが早き故、川中にある岩にせかるゝ水が両方へ別れて流れるれど末にてはまた一つに流れ合ふやうに、人を恋ひ侘ぶる心の切なきに、その中をさまたぐる人ありて一旦は別るゝとも、末にてはまたもとの如くより合ん事ぞと、恋の心を滝川にたとへて詠ませ給へるなり。


 この歌は、単なる恋の歌とするのではなく、崇徳院の不遇な生涯に対する無念の想いが込められていると解釈すべきなのでしょうか。

 また、落語に「崇徳院」という演目があります。もとは上方落語の演目で、初代桂文治の作といわれています。

 若旦那が寝込んでしまった。旦那様に頼まれて熊五郎が聞いてみると、高津宮で出会ったお嬢さんが忘れられない恋煩いだった。熊さんは腰に草鞋をぶら下げて相
手のお嬢様を探しに出掛ける、首尾よく探し当てたら蔵付きの借屋が五軒のほか多額の礼金も貰えるのだ。手掛かりは短冊に書かれた崇徳院の和歌
      瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢わんとぞ思う
 かみさんに教えられた通り、湯屋、床屋など、人が集まるところで「瀬をはやみ~」とやるのだが、なかなか見つからない。熊さんが本日十軒目の床屋入り「瀬をはやみ~」とやると、ちょうど入ってきた鳶頭が、恋煩いで寝込んでいるというお嬢様の話を始めた。高津宮で出会った若旦那に会いたいというのだ。手掛かりは短冊に書かれた崇徳院の和歌だと言う。
 お互いに見つけたと、互いにこっちに来いと揉合いになり、鏡を割ってしまったが心配するな。
「割れても末に買わんとぞ思う」



崇徳院ゆかりの地を巡る


 それでは、讃岐における崇徳院ゆかりの地を巡ってみましょう。

●松山の津
 当時は今よりも海が内陸部まで迫っており、雄山のふもとも海であったと考えられます。讃岐の地に配流された崇徳上皇は、ここ松山の津に着いたとされており「崇徳天皇御着舩地 松山津」の史蹟碑が立てられています。この地は古くはその名のとおり入海で、国庁に通じる要所であり万葉集に記されている「讃岐国阿益郡(あやのこほり)に幸(いでま)しし時軍王(いくさのおほきみ)山を見て作る歌」(巻一・5)はこの地と考えられています。

●雲井御所
国司庁の近傍に御所を建てることになりましたが完成するまでの間、国司庁長官綾高遠(あやのたかとう)の館を仮の御所とし、約3年間滞在されました。上皇は都を懐かしみ「ここもまたあらぬ雲井となりにけり空行く月の影にまかせて」と詠まれました。雲井御所と言うのは、この歌にちなんだものです。

●鼓岡神社
 上皇は雲井御所で3年間過ごされたあと、坂出市府中町にある鼓ヶ岡の「木の丸殿」に移られました。上皇はこの鼓ヶ岡で6年間過ごされ長寛2年(1164)8月、この地で崩御されました。この辺りは昔国司庁のあった所で、文化の中心として栄えました。


八十蘇場の水

「崇徳天皇御殯殮御遺跡」の碑


●八十蘇場(やそば)の水
 崇徳上皇が崩御されたことは、直ちに都に伝えられました。真夏の暑い時期であり、都からの指示を待つ間、八十蘇場の霊水につけ遺体の腐損を防いだと伝えられています。この霊泉は、景行天皇の御代の「悪魚退治伝説」に登場する霊泉で、1000年以上経つ今でも枯れることなくたんたんと湧き流れています。ちなみに志度寺奥之院の地蔵寺にも、同様の「悪魚退治伝説」が伝えられています。

●天皇寺高照院
 上皇が崩御された後、都からの連絡を待つ間この寺に安置したと言われ、その後天皇にゆかりのあるお寺ということで「天皇寺」と呼ばれるようになりました。四国霊場第79番札所。明治維新の神仏分離以前は、白峯宮が札所でした。


天皇寺高照院

白峯宮


●白峯宮
白峯宮は、崇徳上皇が祭神で別名「明の宮(あかりのみや)」とも呼ばれています。由来は崇徳上皇崩御後、八十蘇場の水に御遺体を浸しておいた間、毎夜この辺りから神光がしたため、二条天皇の宣旨で社殿が建てられたと伝えられています。

●高家(たかや)神社
 高家神社の祭神は、天道根命(あめのみちねのみこと)および崇徳天皇、待賢門院。当社の由緒書きによれば「此の社は往古高家の首姓の者、此の地に住居せしに依り其の祖神天道根命を勧請して氏神となし、即ち高家神社と称え奉れり」とあり、さらに「長寛2年(1164)崇徳天皇崩御あらせられ、御棺を白峯に納め奉らんとて山路にかかる折、天候険悪、社前の石上に安置し奉りしに、其の跡に御血聊か汚染あり。依て郷人恐み、天皇と御母公との二霊を相澱に齊奉れり。是血の宮とも申し奉る所以なり」と述べられています。今も境内には「御棺墓石」が置かれています。


高家神社隨神門

白峯に続く道


●西行法師の道
 高家神社を過ぎると前方に切り立った山肌が見えてきます。白峯寺はこの山頂にあります。高家神社から2キロほど進んだところに鳥居があり、遍路小屋が建てられています。ここから車道と別れて山頂まで石段が敷かれており、高屋口からの歩き遍路はこの登山道を進みます。青梅神社から続く、この道を西行法師の道と呼ぶようです。


車道と別れ、登攀開始

歌碑の続く登坂道


 石段の両側には、崇徳院や西行の歌碑が並んでおり、とても風情があるのですが、登れども登れども、尽きることなく続く石段に、歌に詠まれたホトトギスではありませんが音をあげてしまいました。
 以下に歌碑の一部を拾ってみました。

   佛には桜の花を奉れわがのちの世を人とぶらはゞ         山家集
   願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎのもち月のころ     山家集
   虫のごと声たてぬべき世の中に思ひむせびて過ぐる頃かな     崇徳院
   啼けば聞き聞けば都の恋しきにこの里過ぎよ山ほととぎす     崇徳院
   ながらへてつゐにすむべき都かはこの世はよしやとてもかくても  山家集
   はかなくもこれを旅寝と思ふかないづくも仮の宿とこそ聞け    崇徳院



 階段を登りきると崇徳上皇の御陵があります。上皇の遺体は、白峯山稚児ヶ嶽の頂上で荼毘に付され御陵が築かれました。江戸時代には荒廃を重ねましたが、歴代藩主の手厚い庇護を受け次第に修復されのした。
 崇徳陵から白峯寺へは、七棟門の門前および頓証寺殿勅額門の門前への二通りの道が通じています。


御陵への参道

白峯御陵


白峯寺境内案内図


 今回の白峯寺参拝の主たる目的は、崇徳陵と頓証寺殿への参拝ですが、白峯寺の境内も一通り拝観いたしましょう。


 白峰寺は弘法・智証両大師の開基である。当寺の略縁起には以下のように記されている。

 弘法大師は、弘仁6年(815)当山に登られ、峯に如意宝珠を埋め閼伽井を掘られた。かの宝珠の地滝壺となり、三方に流れて増減なしと云う。
 次いで貞観二年十月の頃瀬戸の海上に流木出現し、光明に耀き異香四周に薫じたので、国司の耳に入りこれを当時入唐留学より歸朝して金倉寺に止住せられていた善知識円珍和尚(智証大師)に尋ねられた。和尚かの瑞光に導かれて当山に登り、山中を巡検して居ると白髪の老翁現はれて曰く「吾は此の山の地主神、和尚は正法弘通の聖者なり。この山は七佛法輪を転じ、慈尊入定の霊地なり。相共に佛堂を建て、佛法を興隆せん。かの流木は補陀洛山のさんざしなり。」との御神託あり。乃ち流木を山中に引き入れて千手観音の尊像を彫み、当寺の本尊として佛堂を創建せられた。

 その後保元の乱に敗れて讃岐に配流となり、長寛2年(1164)に崩御された崇徳上皇の御陵が営まれた。
 堂宇はたびたび兵火等の災に遇うものの、藩公生駒家、松平家の外護によって再建維持され、明治維新の変革を経て現況を保持している。。



七棟門

御朱印

 白峯寺の山門は、高麗形式の門の左右に2棟の塀を連ねた珍しい塀重門で、棟数をあわせると7棟なので「七棟門」と呼ばれています。
 白峯寺への参道脇に「十三重石塔」が2基建っています。源頼朝が崇徳天皇の菩提のために建立したと伝えられ,西塔は「元亨4(1324)、金剛佛子」の銘があり,東塔は弘安元年(1278)の建立です。いづれも鎌倉時代の多層塔の様式を今に伝える重要文化財です。


十三重石塔

お迎え大師像と句碑


 門前には稲荷社が祀られており、その前面に大師像と句碑が建てられています。
  白峯の花に宿とる遍路かな  朝悦
 作者の「朝悦」については不詳です。

 七棟門をくぐると右手に御成門、左手に茶房があり、正面が護摩堂、内が納経所となっています。護摩堂を左折すると突き当りが崇徳天皇の御廟所である頓証寺殿勅額門。勅額門の右手に長い石段があり本堂に通じています。


護摩堂

鐘楼


 勅額門の前から石段を登ると、まず左手に薬師堂。当寺の案内図では金堂となっています。石段の対角には鐘楼が立っています。
 さらに少し登ると、左に行者堂、右に廻向堂。行者堂はその名の如く、役小角(えんのおづぬ)を祀ったものでしょう。


薬師堂

廻向堂


 行者堂の傍らに、中河与一の撰文による中河幹子と荒木敏恵の歌碑が建てられています。

  とこしへにこの白峯を守らすと 流れ来まししや玉のおん身を  幹子
  白峯の御陵にいくど詣で来て しのびまつるに山鳩もなく    敏恵
幼くおはしましけるより歌を好ませ 給ひてと、今鏡に崇徳天皇のことが誌されてゐる。当時、天皇の側近からは、俊成や西行や寂蓮のやうな新古今集の代表的歌人が輩出した。天皇の御歌として、現在の歌集に残ってゐるものは百六十七首、みな御心のこもった秀抜の名歌ばかりである。今、その伝統にあやかり、ゆかりの地に生をうけた師弟、中河幹子と荒木敏恵とが一つの碑に歌を刻み、天皇の御生涯を思ひ、その御悲痛をしのび奉る。
  昭和五十五年十月十一日     中河与一撰文

 実に重厚で立派な歌碑です。中河与一(明治30年~平成6年)は、香川県生まれの小説家・歌人。この撰文を見る限り、この碑は頓証寺殿や白峯御陵のような崇徳院ゆかりの処に建てられた方が望ましいと思えるのですが、そうはならない事情でもあったのでしょうか。


行者堂

中河幹子・荒木敏恵歌碑


 階段を登りきった境内の最上段が本堂エリアになっています。本堂と大師堂が左右に並び、その右手に地蔵堂と善如龍王の祠があります。本堂の左手庭園の奥に瑜祇塔と阿弥陀堂があります。以下は瑜祇塔の説明です。

瑜祇塔の正式名は金剛峰楼閣瑜祇塔であり、金剛智三蔵訳の「金剛峰楼閣一切瑜伽瑜祇経」に基づいて建立されます。瑜祇塔は密教の根本である金剛界と胎蔵界の両部は本来同一のものであるという精神を説いたもので、重要な経典の一つであります。古来より日本仏教は伽藍建築様式を確立し各地に伽藍が建立されました。伽藍境内の最も特徴的な堂宇が多宝塔形式の塔(四角、六角、八角等の多角形の屋根を持つ建物又、三重、五重、七重等の多層の屋根を持つ建物)であり、その多宝塔形式の原型とされるものが瑜祇塔で、古の形をインドのストゥーパー(塔)に求めることが出来ます。当、瑜祇塔は文政12年(1829)に建立されたものである。


阿弥陀堂

瑜祇塔


 本堂は入母屋造り、本尊の千手観音を祀るので、観音堂とも呼ばれ、また後嵯峨天皇の勅号により千手院とも称しています。開基以来数度の火災により焼失、現在の堂は慶長4年(1599)生駒近規により再建されたものです。本尊の千手観音は智証大師と当山鎮守白峰大権現の合作と伝えられ、脇侍として愛染明王、馬頭観音を祀っています。
 大師堂は文化8年(1811)高松藩主松平頼儀により再建されたもの。


本堂

大師堂

 白峯寺の境内堂宇の拝観を終え、主眼である頓証寺殿に参拝いたしましょう。勅額門の前には「玉章(たまずさ)の木」があります。この木は先代の古木に代わって植えられた二代目であるそうです。

 都を慕われた崇徳上皇は、ほととぎすの鳴き声にも都をしのばれ、
   鳴けば聞く聞けば都の恋しきにこの里すぎよ山ほととぎす
と詠じられました。
 ほととぎすはその意を察し、その後はこの大木の葉を巻いてくちばしをさし入れ、声を忍んで鳴いたといいます。その巻いた葉の形が玉章(てがみ)に似ているため、ほととぎすの落し文、玉章と呼ばれ、その葉を懐中にすれば必ずよい便りがあるといわれ、若い男女には殊に珍重されています。
 名木玉章の木は、風雪によく耐えて保元の昔を物語っておりましたが、ついに樹齢八百余念に天寿を全うしました。古木は、香川県五色台自然科学館に寄贈し、長くその歴史をとどめる事にいたしました。このゆかりの地に新しい玉章木を植えて古の玉章木をしのぶことといたしました。


玉章の木

勅額門

 勅額門をくぐると正面が崇徳上皇の御廟所である頓証寺殿で、堂前には相模坊大天狗の石像が刀を振り上げて仁王立ちになっています。
 この勅額門は、小松天皇の勅額が奉納されたことからその名で呼ばれいます。頓証寺殿について、坂出市教育委員会の説明書きによれば以下のようです。

 頓証寺殿は、保元の乱に敗れ讃岐に配流された崇徳上皇が、この地で崩ぜられたのち、その頓証菩提を弔い御霊を慰めるために、鎌倉の初期鼓岡の御所を移したと伝えられ、朝野の尊崇が厚かった仏殿である。  全面の門は、延宝年間(1673~80)高松藩主の再建したものであるが、応永21年(1414)将軍足利義持の執奏によって、後小松天皇宸筆の扁額が奉納され、この門に掲げられていたので、この門を勅額門と呼んでいる。  現在掲げられている扁額は後世の模刻で、現物はいま宝物館に収蔵されている。扁額は古法の額字伝によった「頓証寺」の3字を約1糎の高さに掘り出した、縦96.5センチ、横63センチの板の周囲に、斜め外に向けて花の繰り形のある縁を耳字形に取付け、縦139センチ、横115センチの大きなものである。全面に黒漆を塗り、文字と周囲の二重枠及び縁の上面に11.5センチ角の金箔を散らした室町期工芸の優品で、重要文化財に指定されている。
 勅額門は通例の寺院の門と異なり、保元の乱で上皇方の将として戦った源為義・為朝父子の像が随身として安置され保元の昔を偲ばせている。


頓証寺殿

御朱印

 頓証寺殿の前には剣を振り上げた相模坊大権現の像が仁王立ちになっています。相模坊についての説明書きは以下の通り。

 白峯の相模坊大権現様はかつて相模の国(神奈川県)の大山に君臨した修験の大行者で、その名を相模坊と称した。後に讃岐の国白峯に入山し、当山の修験行者(やまぶし)集団の統括者(大先達)となり、その神通力、法力により行者集団から大権現として祭祀された。
 その無限大の法徳により霊威のある聖地白峯山の守護神(鎮守)として崇め祀られた。崇徳天皇の守護神(謡曲『松山天狗』、雨月物語等に詳述)としても有名である。
 当地方の鎮守として衆生の種々の願い事を叶えてくれる権現様です。石像は、御本尊秘仏の故、前仏として建立されたものであります。


相模坊大権現

白峯御陵遥拝所


 頓証寺殿の左側に西行坐像や「よしや君…」の歌碑や白峯御陵の遥拝所があります。以下は「西行」とした説明書きです。

仁安元年(1166)神無月の此、西行法師四国修行の砌、当山に詣でゝ負を橘の樹にかけ法施奉りけるに、御廟振動して御製あり
  松山や浪に流れてこし船の やがて空しくなりにけるかな
西行涙を流して御返歌に
  よしや君昔の玉の床とても かゝらん後は何にかはせん
御納受もやありけむ度鳴動したりけるとなん


西行坐像

西行歌碑


 西行が崇徳院の御廟に詣で、歌を詠んだことは『保元物語』や『撰集抄』にも記されており、『撰集抄』に典拠した謡曲『松山天狗』にも謡われています。『撰集抄』は古来西行の自著とされていましたが、明治以降の研究では自著でないことが明らかになっています。その『撰集抄』巻一「讃州白峯之事」(西尾光一校注、岩波文庫、1970)より。

過にし仁安のころ、西國はるばると修行し侍りしついでに、讃州みを坂の森と云(いふ)所に、しばらく住み侍りき。 (中略)
かくても侍るべかりしを、憂き世中には思ひをとめじと思ひ侍りしかば、たちはなれなんとし侍し程に、新院の御墓所をおがみ奉らんとて、白峯と云所にたづね参り侍りしに、松の一むらしげれるほとりに、くぎぬきしまはしたり。これなん御墓にやと、いまさらかきくらされて物も覺えず、まのあたりに見奉りし事ぞかし。 (中略)
かけてもはかりきや、他國邊土(へんど)山中の、おどろのもとに朽ちさせ給ふべしとは。貝鐘(かいかね)のこゑもせず。法花三昧(ほっけざんまい)つとむる僧一人もなき所に、たゞ峯の松風のはげしきのみにて、鳥だにもかけらぬありさまを見奉るに、そゞろなみだ落し侍りき。 (中略)
とにもかくにも、おもひつゞくるまゝに、涙のもれいで侍りしかば
  よしや君むかしの玉の床とてもかゝらん後はなににかはせむ
とうち詠じて侍りき。盛衰は今にはじめぬわざなれども、ことさら心おどろかれぬるに侍り。 (後略)

 謡曲『松山天狗』は『撰集抄』を典拠していますが、相模坊をはじめとする天狗が崇徳院のもとに参内し、逆臣をことごとく滅ぼすというストーリーが付加されています。これは崇徳怨霊伝説が流布されて以降のものではないかと想像しますが、怨霊としての崇徳院のイメージは定着し、近世の文学作品である『雨月物語』や『椿説弓張月』などにおいても怨霊として描かれ、現代においても様々な作品において怨霊のモチーフとして使われることも多いようです。
 以下は謡曲『松山天狗』について。


   謡曲「松山天狗」梗概
 五流の中、金剛流のみの現行曲であるが、観世流でも近年復曲試演されている。作者は未詳。『撰集抄』による。

 西行法師(ワキ)が崇徳院の跡を弔うため讃岐の国に下ると、老人(前ジテ)が西行に白峯を教え、崇徳院の御廟所へ案内すると、崇徳院は無念の気持ちが強かったので白峯の天狗・相模坊と小天狗どもがやってくるばかりだったと語り、西行の歌に感涙したと言うと姿を消す。その夜、西行の夢に崇徳院(後ジテ)が現われ舞楽を舞うと(早舞)、悲憤がつのって怒りを表わす。すると天狗(後ツレ)どもが出現し、逆臣を討つ勇ましい有り様を見せ(舞働)やがて白峯の方に飛び去る。


金剛流『松山天狗』謡本

 『撰集抄』を典拠に天狗参内のことを加え、崇徳院の御陵松山に詣でた西行と、その参内を喜び詠歌を愛でつつも、昔を思い出して逆鱗の姿を見せる崇徳院の霊との出会いを見せたものである。上田秋成の『雨月物語』「白峯」の端緒となった作品である。
 観世流での復曲初演は、1994年7月「能劇の座」で、能本作成・西野春雄、演出・56世梅若六郎(現玄祥、実)、シテ・大槻文蔵であった。それ以降も数回にわたって上演されている。



 『撰集抄』巻一「新院御墓白峰之事」を下敷きとした作品に、上田秋成の『雨月物語』があります。ただ『雨月物語』は『撰集抄』をベースとしてはいるものの、上述の『松山天狗』の影響を強く受けていると考えられます。以下に『雨月物語』「白峯」を眺めてみましょう。(中村幸彦校注『上田秋成集』「雨月物語・白峯」、岩波書店・古典文學大系、1959)

(西行は讃岐国白峰の新院の陵の前に座し、経文を誦し「松山の浪のけしきはかはらじをかたなく君はなりまさりけり」との歌を詠み供養をする。)

 日は没(いり)しほどに、山深き夜のさま常(たゞ)ならね、石の牀(ゆか)木葉の衾いと寒く、神清(しんすみ)骨冷て、物とはなしに凄しきこゝちせらる。月は出でしかど、茂きが林(もと)は影をもらさねば、あやなき闇にうらぶれて、眠(ねぶ)るともなきに、まさしく「圓位(えんゐ)、圓位」とよぶ聲す。眼をひらきてすかし見れば、其形(さま)異なる人の、背高く痩せおとろへたるが、顔のかたち着たる衣の色紋(いろあや)も見えで、こなたにむかひて立てるを、西行もとより道心の法師なれば、恐ろしともなくて、「ここに來たるは誰(だそ)」と答ふ。かの人いふ。「前によみつること葉のかへりこと聞えんとて見えつるなり」とて
  「松山の浪に流れてこし船のやがてむなしくなりにけるかな
(うれ)しくもまうでつるよ」と聞ゆるに、新院の霊なることをしりて、地にぬかづき涙を流していふ。「さりとていかに迷はせ給ふや。濁世(ぢょくせ)を厭離(えんり)し給ひつることのうらやましく侍りてこそ。今夜の法施(ほふせ)に随縁したてまつるを、現形(けぎゃう)し給ふはありがたくも悲しき御こゝろにし侍り。ひたぶる隔生卽忘(きゃくしゃうそくもう)して、佛果円滿の位に登らせ給へ」と、情(こゝろ)をつくして諌奉る。

(新院は西行の諌めをものともせず、自分は生きている時から魔道に心を傾けてきた。今に大魔王となり天下に大乱を生ぜしめよう、とのたもう。)

  「よしや君昔の玉の床(とこ)とてもかゝらんのちは何にかはせん
刹利(せつり)も須陀(しゆだ)もかはらぬものを」と、心あまりて高らかに吟(うたひ)ける。此ことばを聞しめして感(めで)させ給ふやうなりしが、御)面も和らぎ、陰火もやゝうすく消ゆくほどに、つひに龍體(みかたち)もかきけちたるごとく見えずなれば、化鳥(けてう)もいづち去(ゆき)けん跡もなく、十日あまりの月は峯にかくれて、木のくれやみのあやなきに、夢路にやすらふが如し。ほどなくいなのめの明けゆく空に、朝鳥の音(こゑ)おもしろく鳴わたれば、かさねて金剛經一巻を供養したてまつり、山をくだりて庵に歸り、閑(しづか)に終夜(よもすがら)のことゞもを思ひ出づるに、平治の乱よりはじめて、人々の消息、年月のたがひなければ、深く愼みて人にもかたり出でず。


 時に峯谷ゆすり動きて、風叢林(はやし)を僵(たを)すがごとく、沙石(まさご)を空に巻上る。見る見る一段の陰火(ゐんくは)君が膝の下(もと)より燃上りて、山も谷も昼のごとくあきらかなり。光の中につらつら御氣色を見たてまつるに、 朱(あけ)をそゝぎたる龍顔(みおもて)に、荊(おどろ)の髪膝にかゝるまで乱れ、白眼(しろきまなこ)を吊りあげ、熱き嘘(いき)をくるしげにつがせ給ふ。御衣は柿色のいたうすゝびたるに、手足の爪は獣のごとく生(おひ)のびて、さながら魔王の形あさましくもおそろし。 (中略) 御聲谷峯に響て凄しさいふべくもあらず。魔道の淺ましきありさまを見て涙しのぶに堪(たへ)ず。復(ふたゝ)び一首の哥に随縁のこゝろをすゝめたてまつる


 明治の王政復古の際、孝明天皇と明治天皇が思い浮かべ恐怖したのがこの崇徳院の怨霊でした。孝明天皇は異郷に祀られている崇徳上皇の霊を慰めるため、その神霊を京都に移すよう幕府に命じますが、まもなく死去、子の明治天皇がその意を継ぎ、現在地に社殿を造営し、慶応4年(1868年)、御影堂の神像を移して神体とし白峯宮を創建しました。また明治6年(1873)、道鏡によって帝位を奪われ淡路に配流され、その地で死去した淳仁天皇(淡路廃帝)の霊も白峯神宮に合祀しました。政争に破れて流罪となり、その地で果てるという、きわめて珍しい悲運をたどった崇徳院や淳仁天皇などの怨霊の発現を恐れ続けていたものでしょう。なお白峯神宮は、蹴鞠の宗家であった堂上家(公家)・飛鳥井家の屋敷の跡地に建てられたものです。
 そして当神宮のサイトでは、崇敬の意義として以下のように記されています。

当神宮は、かような歴史上御非運に会われた御二方の天皇の御神霊をお祀り申し上げております。しかしながら、両天皇の御治績をうかがう時、わが国の発展に示された御聖徳はまことに偉大でありながら、かつ御無念な御生涯であられたことを悲しむものです。かかる場合は、後世の人々がその聖徳を偲び、御霊を慰め奉ることが大切です。
御創建に当っての明治天皇の深い御志を尊ぶことにより、両天皇の御神霊は更にさらに私たちを御守護下さいます。『神は人の崇により威を増し、人は神の御加護により運を添ふ』と古来より伝承されています。私どもは日々の生活に於いて祈り、感謝する気持を保ち続けたいものです。


白峯神宮社殿

御朱印


 崇徳上皇ゆかりの地ということで、四国の白峯御陵参拝に先立って、6月初旬、京都の白峯神宮に参拝いたしました。参拝して驚いたことに、当社の摂社である地主社(じしゅしゃ)に祀られる精大明神(せいだいみょうじん)が蹴鞠の守護神であるため、現在ではサッカーのほか、球技全般およびスポーツの守護神とされ、社殿前にはサッカーやバレーボールの日本代表チームや、Jリーグに所属する選手などからボールなどが奉納されていました。
 参拝当日は地方の高校生とおもわれる男女十数名が参拝しており、かなり賑わっていました。彼らは崇徳院よりはスポーツの神にお参りしたのでしょう。残念だったのは、入口の神門が工事中で撮影ができませんでした。
 毎年9月21日に催行される秋季例大祭(崇徳天皇祭)には、観世・金剛流の能楽と、大蔵流の狂言等による「上京薪能」が実施されます。金剛流よりは種田師。観世流は河村家。狂言は茂山社中が担当し、いちひめ雅楽会の舞楽と区民の箏曲等も加わります。


拝殿

地主社


 地主社には、精大明神・柊大明神・白峯天神・糸元大明神の諸神が祀られています。前述しましたが精大明神は、「まり精大明神」とも言い、球技・スポーツ芸能上達の神とされています。例祭7月7日で七夕の神とも。


伴緒社

潜龍社


 伴緒社(とものおしゃ)には、崇徳天皇に従った源氏の武将、源為義・源為朝が祀られ、武道・弓道上達の神として信仰されています。
 潜龍社(せんりゅうしゃ)は白峯龍王命・紅峯姫王命・紫峯大龍王命を祀っています。この神は、昭和30年(1955)、本殿にて御火焚祭の斎行中、炎の中に出現した三柱の龍神です。潜龍社の脇にある潜龍井の水を飲むと、諸々の悪縁を断ち、災難除・病気平癒・事業隆昌などに霊験ありとされています。


崇徳天皇欽仰之碑

西村尚歌碑


 地主社の左隣に「崇徳天皇欽仰之碑」が建ち、百人一首で有名な崇徳帝の歌
  瀬をはやも岩にせかるる瀧川のわれても末にあはむとぞ思う
の碑がありました。
 西村尚の歌碑には
  小賀玉のしじ葉がもとの飛鳥井の井筒むかしの物語せよ
の歌と、河村禎二師の『井筒』の舞姿がはめ込まれていました。歌碑説明によれば西村尚氏は白峯神社宮司で、京都創成大学教授でもある歌人です。
 歌に「飛鳥井」とありますが、手水舎の飛鳥井は、清少納言の『枕草子』168段に、

井は、ほりかねの井。たまの井。はしり井は、あふさかなるがをかしき也。山の井、などさしもあさきためしになりはじめけん。
あすか井は、みもひもさむしとほめたるこそをかしけれ。千貫の井。少将の井。さくら井。きさきまちの井。

と九つの名水の中にあげてほめ讃えています。井戸からは滾々と尽きることのない水が昼夜をとわず湧き出ています。


蹴鞠の碑


鞠庭

オガタマの木


 西村尚の歌碑の右手に「蹴鞠の碑」があります。碑文に曰く、

 蹴鞠保存会は、明治天皇の「蹴鞠保存」の思召しにお応えして明治36年に創立され来る平成15年に百周年を迎える。この間全員は一貫して蹴鞠道の精神と古技の伝承保存及びその普及に努めて来た。白峯神宮の鎮座在しますこの地は蹴鞠道の宗家、飛鳥井家邸宅の跡にて、斯道の守護神、精大明神の御社も鎮まります。此所に百年の歩みの道標として蹴鞠の碑を建立して国家安泰、万年平和、本会の使命達成を祈念するものである。

 前述しましたが「精大明神」は蹴鞠・和歌の宗家である公卿・飛鳥井家が代々守護神として邸内にお祀りしてきたもので、当神宮がその祭祀を受け継いでいます。
 7月7日の精大明神祭(七夕祭)には、祭典中に山城舞楽京都和楽会による舞楽が奉納されるほか、蹴鞠が伝統を受けつぐ京都蹴鞠保存会によって古式ゆかしく奉納されます。また精大明神は「七夕の神」とも説かれており、芸能・学問の向上を祈って七夕小町をどりも奉納されます。

 手水舎の奥の「小賀玉(おがたま)の木」は、樹高約13mで一説では樹齢800年と言われていますが、今も旺盛に春には白い芳香のある花を咲かせ、秋にはピンクの実を落として鳥たちや多くの生物を育んでいるとのことです。以下は京都市による説明書きです。

 慶応4年(1868)創建の、ここ白峯神宮の社地は、蹴鞠と和歌の家元であった飛鳥井家の邸跡にあたる。このオガタマノキは樹齢が数百年と考えられることから飛鳥井家の邸宅であった時代に植えられたものとみられる。
 オガタマノキは、春に芳香のある花を咲かせ、その名は招霊(おがたま・神霊を招く)がなまったものという説もある。神社の境内にはよく植えられる木であるが、この木が京都市内で最大のものである。
 昭和60年6月1日、京都市指定天然記念物に指定された。


 元来わたしは判官びいき的傾向が強く、保元の乱の結果についても、崇徳天皇を悼む気持ちが大でありました。ここ京都の白峯神宮に参拝して、当社が「スポーツの守護神」をうたい文句とし、崇徳上皇の影も形も埋もれてしまってているのに接し、わびしさを禁じ得ませんでした。近年どれほどの参拝者が、崇徳上皇の霊に頭を垂れているのでしょうか。いわんや淳仁天皇に於いてをや、であります。
 神社といえども生き延びるためには、一般大衆に迎合せざるを得ないでしょう。讃岐の金刀比羅宮にしても、存在もしていない海の守り神「金毘羅大明神」を掲げて、商売をしているのですから…。民間企業においても、本業とはかけ離れた分野に進出し成功を収めるケースが多く存在します。サッカーなどのスポーツを前面に打ち出し、参詣者の増加を図るのも、神社経営のひとつの方策でありましょう。
 とはいうものの、まことに複雑な心境の白峯神宮参拝でありました。




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  (平成19.7.20、20.8.21、22.11.15)
(平成30年 6月28日・探訪)
(平成30年 8月11日・記述)


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