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2018年10月18日、比叡山を下り三千院に参拝、大原山荘で一泊し翌19日の早朝より寂光院を訪れました。 |
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大原の里 散策地図 |
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寂光院は、いうまでもなく『大原御幸』の舞台となった古刹です。壇ノ浦での平家の滅亡後、平清盛の娘で高倉天皇の中宮であった建礼門院徳子は、御子安徳天皇とともに入水したものの源氏方に助けられ、出家して大原の寂光院に余生を送っていました。それを後白河法皇が御幸されたとされる故事がいわゆる「大原御幸」です。 |
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本曲が『平家物語』「灌頂巻」に拠っており、巧みにその詞章を取り込んでいることは前述しましたが、その具体的な例として、『平家物語』の「大原御幸の事」と、謡曲『大原御幸』の後白河法皇がが寂光院を訪れるくだりを以下に転載します。 |
かゝりし程に、法皇は、文治二年の春の頃、建禮門院の小原の閑居の御住まひ、御覧ぜまほしう思しめ召れけれども、 |
続いて謡曲『大原御幸』の一節です。寂光院の描写は、上記の『平家物語』「灌頂巻・大原御幸」に基づくところ大なりといえましょう。 |
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かくて法皇のご一行は、寂光院にお着きになりました。私も法皇にならって寂光院に参詣いたそうと存じ候。 |
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「紫葉漬と大原女の発祥の地」の碑 |
大原西陵 |
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建礼門院大原西陵 |
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謡曲史蹟保存会の駒札 |
寂光院入山受付 |
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《寂光院》 京都市左京区大原草生町676 |
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寂光院は天台宗の尼寺で、山号および寺号は清香山玉泉寺。その由緒について、以下、境内の説明書きによります。 |
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寂光院境内案内地図 |
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入山受付で600円の拝観料を納め、朱印帳を託して入山いたします。なだらかな石段の続く参道を進み、「寂光院」の額の架かった山門を入ると、正面に小ぢんまりとした本堂がたたずみ、前方には庭園が広がっています。 |
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山門 |
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雪見燈籠 |
書院 |
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四方正面の池 |
池の水際の観音像 |
本堂では係員による当山の由緒等の説明を聞くことができます。 |
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本堂 |
ご朱印 |
本堂の左手前にある小池は、冒頭の『平家物語』で、後白河法皇が、 |
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汀の池 |
千年姫小松(パンフレットより) |
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建礼門院御庵室遺蹟 |
冒頭の法皇御幸の後半部分にも庵のありさまが謡われていますが、以下は謡曲の前場、シテの建礼門院が寂光院での閑居のありさまを詠嘆する場面です。ワキツレ大臣が法皇御幸の準備を申し付け、続いてアイ狂言の下人がお触れをすると、後見が大藁屋の引廻しを除き、シテの建礼門院とツレの大納言局、阿波内侍、三人の姿が現われます。 |
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以下は『平家物語』「灌頂巻・大原御幸」の該当部分です。 |
さて、女院の御 |
女院使用の井戸遺蹟 |
神明神社 |
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鐘楼 |
茶室 |
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『平家物語』ゆかりの文化財等を紹介している宝物殿で一休み、受付に預けておいた朱印帳を頂戴して参拝を終えました。 |
謡曲『大原御幸』の前場に関して、その典拠となる『平家物語』との対比を行いましたが、後場についてもその作業を行ってみました。ただし、謡曲の詞章が単なる引用とは言えない箇所も多々ありますが、『平家物語』の該当部分を参考までに対比しています。 |
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【謡曲】(後シテの出に続く法皇と内侍の問答) |
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内侍「只今こそあの岨づたひを女院の御歸りにて候 |
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【平家物語】(灌頂巻・大原御幸の事) |
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やゝあつて、上の山より、濃き墨染の衣着たりける尼二人、岩の懸路を傳ひつゞ、下り煩ひたる樣なりけり。法皇「あれはいかなる者ぞ」と、仰せければ、老尼、涙を抑へて、「花筐臂にかけ、岩躑躅取具して持たせ給ひて候ふは、女院にて渡らせ給ひ、爪木に蕨折添えて持ちたるは、鳥飼の中納言維實の女、五條の大納言國綱の養子、先帝の御乳母、大納言の局」と、申しもあへず゜泣きけり。 |
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朧の清水 |
上歌「一念の窓の前。一念の窓の前。攝取の。光明を期しつゝ十念の柴の樞には。聖衆の来迎を待ちつるに。思はざりける今日の暮。古に歸るかとなほ思ひ出の涙かな。げにや君こゝに叡慮の惠み末かけて。あはれもさぞな大原や。芹生の里の細道おぼろの清水月ならで。御影や今に残るらん |
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【平家物語】(灌頂巻・六道の沙汰の事) |
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「一念の窓の前には、攝取の光明を期し、十念の柴の樞には、聖衆の來迎をこそ待ちつるに、思ひの外の御幸かな」とて御見参ありけり。 |
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大原のバス停から寂光院に向かう細い道の脇に、小さな湧き水があります。建礼門院が京都から寂光院へ移ってきた際、この清水のあたりで日が暮れました。折しも朧月夜のころあい、月影に自分の姿がこの水溜りに映り、そのやつれた姿を見て身の上を嘆いたという話が伝えられているそうです。 |
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ロンギ 地「さてや御幸の折しもは如何なる時節なるらん |
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【平家物語】(灌頂巻・大原御幸の事) |
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かゝりし程に、法皇は、文治二年の春の頃、建禮門院の小原の閑居の御住ひ、御覧ぜまほしう思し召されけれども、二月彌生の程は、嵐烈しう餘寒も未だ盡きず、峯の白雲消えやらで、谷のつらゝもうち解けず。かくて春過ぎ夏立つて、北祭の過ぎしかば、法皇、夜をこめて、小原の奥へ御幸なる。 (中略) |
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シテ「思はずも深山の奥の。住居して。雲居の月をよそに見んとは。かやうに思ひ出でしに。この山里までの御幸。返す返すもありがたうこそ候へ |
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【平家物語】(灌頂巻・大原御幸の事) |
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少しひき退けて、女院の御歌とおぼしくて、 |
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シテ 語「…能登の守敎經は。安藝の太郎兄弟を左右の脇に挾み。最後の供をせよとて海中に飛んで入る。新中納言知盛は。沖なる船の碇を引き上げ。兜とやらんに戴き。傳子の家長が弓と弓とを取り交はし。そのまゝ海に入りにけり。その時二位殿鈍色の二つ衣に。練袴の稜高くはさんで。我が身は女人なりとても。敵の手には渡るまじ。主上の御供申さんと。安徳天皇の御手を取り舷に臨む。何處へ行くぞと直上りしに。この國と申すに逆臣多く。斯く淺ましき所なり。極楽世界と申して。めでたき所のこの波の下にさむろふなれば。御幸なし奉らんと。泣く泣く奏し給へば。さては心得たりとて。東に向はせ給ひて。天照大神に御暇申させ給ひて |
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【平家物語】(巻十一・能登殿最期の事) |
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能登殿、これを見給ひて、先づ眞前に進んだる安藝太郎が郎等に須曽を合せて、海へどうと蹴入れ給ふ。續いてかゝる安藝太郎をば、弓手の脇にかい挾み、弟の二郎をば、馬手の脇に取つて挾み、一締しめて、「いざうれ、おのれ等、死出の山の供せよ」とて、生年廿六にて、海へつゞとぞ入り給ふ。 |
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(巻十一・内侍所の都入の事) |
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新中納言知盛の卿は、「見るべき程の事をば見つ。今はたゞ自害せん」とて、乳母子の伊賀平内左衛門家長を召して、「日來の契約をば違ふまじきか」と宣へば、「さる事候」とて、中納言殿にも、鎧二個着せ奉り、我が身も二個着て、手に手を取り組み、一所に海にぞ入り給ふ。 |
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(巻十一・先帝御入水の事) |
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二位殿は、日來より思ひ設け給へる事なれば、鈍色の二衣うち被き、練袴の傍高く取り、神璽を脇に挾み、寶劒を腰にさし、主上を抱き參らせて、「われは、女なりとも、敵の手にはかゝるまじ、主上の御供に參るなり。御志思ひ給はん人々のは、急ぎ續き給へや」とて、靜々と舷へぞ歩み出でられける。主上今年は八歳にぞならせおはしませども、御年の程より、はるかにねびさせ給ひて、御形いつくしう、傍も照り耀くばすりなり。御髪黑うゆらゆらと、御背過ぎさせ給ひけり。主上、あはれなる御有樣にて、「そもそも尼前、われをばいづちへ具して行かんとはするぞ」と仰せければ、二位殿、幼き君に向ひ參らせ、涙をはらはらと流いて、「君は未だ知し召され候はずや、先世の十善戒行の御力によつて、今萬乘の主とは生れさせ給へども、惡緣に引かれて、御運已に盡きさせ給ひ候ひぬ。先づ、東に向はせ給ひて、伊勢大明神に御暇申させおはしまし、その後、西に向はせ給ひて、西方浄土の來迎に預らんと誓はせおはしまして、御念佛候べし。この國は粟散邊土と申して、ものうき境にて候。あの波の下にこそ、極樂浄土とてめでたき都の候。それへ具し參らせ候ふぞ」と、樣々に慰め參らせしかば、山鳩色の御衣に鬟結はせ給ひて、御涙におぼれ、鼓美しき御手を合せ、先ず東に向はせ給ひて、伊勢大明神・正八幡宮に、御暇申させおはしまし、その後西に向はせ給ひて、御念佛ありしかば、二位殿、やがて抱き參らせて、「波の底にも都の候ふぞ」と慰め參らせて、千尋の底にぞ沈み給ふ。 |
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平知盛の最期について、本曲や『碇潜(いかりかづき)』では知盛が碇を戴いて入水したとしていますが、『平家物語』では乳母子の家長と手に手を取って入水し、碇を負うて入水したのは、教盛・経盛兄弟となっています |
冒頭の“「大原御幸」梗概”において、戦時中における本曲の上演自粛について触れましたが、詩人の萩原朔太郎が『阿帯:萩原朔太郎随筆集』に収録されている「能の上演禁止について」というエッセイで、この問題を論じていますので、その冒頭の部分を以下に転載します。(「国立国会図書館デジタルコレクション」のサイトより転載) |
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(平成30年10月19日・探訪) (平成31年 1月28日・記述) |