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洛北・大原寂光院 〈大原御幸〉


 2018年10月18日、比叡山を下り三千院に参拝、大原山荘で一泊し翌19日の早朝より寂光院を訪れました。

大原の里 散策地図



 寂光院は、いうまでもなく『大原御幸』の舞台となった古刹です。壇ノ浦での平家の滅亡後、平清盛の娘で高倉天皇の中宮であった建礼門院徳子は、御子安徳天皇とともに入水したものの源氏方に助けられ、出家して大原の寂光院に余生を送っていました。それを後白河法皇が御幸されたとされる故事がいわゆる「大原御幸」です。
 ただ、法皇の御幸についての真偽については不明ですが、『平家物語』諸本などにはその記述が残されています。
 今回は、寂光院参拝にあたり、まず謡曲『大原御幸』について考察したいと思います。


   謡曲「大原御幸」梗概
 作者は未詳、金春系の能であろうか。『平家物語』の「灌頂巻」に典拠しており、『平家物語』の詞章を巧みに切り継ぎして、絵巻物のように物語を舞台化している。喜多流では『小原御幸』と表記。
 本曲は2時間を要する大作であるが、三番目物としてはシテの舞のない唯一の例である(『源氏供養』も舞はないが〈イロエ〉がある)。これは主人公である建礼門院の心境が舞を舞うにはあまりにも切迫した情感に充たされている故であろう。

 大原の寂光院で遁世の生活を送っている建礼門院を、後白河法皇がお訪ねになる旨を、法皇に仕える大臣が告げ、供人に道を清めるよう命ずる。寂光院では、女院が大納言局を伴い樒を採りに裏山に行かれる。
 女院の留守に法皇は到着され、あたりの様子をご覧になりながら、留守居の阿波内侍とお話になるうちに、女院が裏山から下りてこられ、法皇と対面される。法皇のお尋ねに応えて、西海に流離されて目前に六道の苦患を経験したことや、安徳天皇ご最期のことなどを物語り、共に涙に沈ませられ、やがて帰還される法皇を庵室から静かに見送られるのであった。

 本曲は、古くは素謡専用の、いわゆる「座敷謡」とされていた。本曲に『砧』『蝉丸』を併せて「座敷謡三番」と呼ぶこともあり、能よりはむしろ謡としてこれらが古来もてはやされていたということであるが、謡いどころ、聞かせどころが多く、なるほどゝうなづかせられる。また本曲は、とくに品格が要求され、『定家』『楊貴妃』とともに、俗に「三婦人」と称される。
 なお、本曲は昭和15年(1940)に不敬罪に当るとして警視庁より上演が禁止された。(この件に関しては後述します。)


 本曲が『平家物語』「灌頂巻」に拠っており、巧みにその詞章を取り込んでいることは前述しましたが、その具体的な例として、『平家物語』の「大原御幸の事」と、謡曲『大原御幸』の後白河法皇がが寂光院を訪れるくだりを以下に転載します。
 まず『平家物語』「大原御幸の事」です。(「佐藤謙三『平家物語』角川文庫、1959」による。同書では「小原御幸」)


 かゝりし程に、法皇ほふわうは、文治ぶんぢ二年の春の頃、建禮門院の小原をはら閑居かんきよの御住まひ、御覧ぜまほしう思しめ召れけれども、二月きさらぎ彌生やよひのほどは、嵐烈しう餘寒も未だ盡きず、峯の白雪消えやらで、谷のつらゝもうち解けず。かくて春過ぎ夏立つて、北祭も過ぎしかば、法皇、夜をこめて、大原の奥へ御幸ごかうなる。忍びの御幸なりけれども、供奉ぐぶの人々には、徳大寺・花山くわざんゐん・土御門以下いげ公卿くぎやう六人、殿上人八人、北面少々せうせうさぶらひけり。鞍馬どほりの御幸なりければ、かの清原きよはら深養父ふかやぶ補陀樂寺ふだらくじ小野をの皇太后宮くわうだいこうぐう舊跡きうせき叡覧あつて、それより御輿にぞ召されける。遠山とほやまにかかる白雲は、塵にし花の形見なり。 青葉あをばに見ゆるこずゑには、春の名残りぞしまるる。
 頃は卯月二十日餘りのことなれば、夏草の茂みがすゑを別け入らせ給ふに、初めたる御幸なれば、御覧じ馴れたる方もなく、人跡じんせき絶えたる程も、思し召し知られてあはれなり。
 西の山のふもとに、一宇いちう御堂みだうあり。すなはち寂光院じやくくわうゐんこれなり。古う造りなせる前水せんずゐ木立こだち、由ある様の所なり。いらか破れては霧不断のかうを焚き、とぼそ落ちては月常住じやうぢうともしびかかぐとも、かやうの所をやまうすべき。には若草わかぐさ茂り合ひ、青柳あをやぎ糸を乱りつつ、池の浮草波にただよひ、錦を晒すかとあやまたる。中島の松に懸かれる藤波ふぢなみの、うら紫に咲ける色、青葉まじりの遅桜おそざくら初花はつはなよりもめづらしく、岸のやまぶき咲き乱れ、八重やへ立つ雲の絶え間より、山ほととぎすの一声ひとこゑも、君の御幸を待ちがほなり。法皇ほふわうこれを叡覧あつて、かうぞ遊ばされける。
   池水に 汀の桜散り敷きて 波の花こそ 盛りなりけれ
 降りにけるいはの絶え間より、落ち来るみづの音さへ、ゆゑび、由ある所なり。緑蘿りよくらの垣、翠苔すゐたいの山、に描くとも筆も及び難し。


 続いて謡曲『大原御幸』の一節です。寂光院の描写は、上記の『平家物語』「灌頂巻・大原御幸」に基づくところ大なりといえましょう。


次第 ワキ・ワキツレ「分け行く露も深見草ふかみぐさ。分け行く露も深見草。大原おはら御幸みゆき急がん
ワキ行幸ぎやうがうを早め申し候間。大原に入御じゆぎよ
サシ「かくて大原に御幸みゆきなつて。寂光院じやくくわうゐんの有樣を見渡せば。露結ぶ庭の夏草茂りあひて。青柳あをやぎ糸を乱しつゝ。池の浮草うきくさ波に揺られて。錦をさらすかと疑はる。岸の山吹咲き乱れ。八重やへ立つ雲の絶間たえまより。山郭公やまほととぎす一聲ひとこゑ も。君の御幸を。待ちがほなり
法皇法皇ほふわう池のみぎはを叡覧えいらんあつて。池水いけみづに。みぎはの櫻散り敷きて。波の花こそ。さかりなりけれ
上歌 地りにける。岩のひまより落ちる。岩の隙より落ち来る。水の音さへよしありて。綠蘿りよくらの垣翠黛すゐたいの山。繪にくとも。筆にも及び難し。一宇いちう御堂みだうあり。いらか破れては霧不断ふだんかうき。とぼそ落ちては月もまた常住の燈火ともしびかかぐとはかゝる所か.物すごやかゝる所か物凄や


 かくて法皇のご一行は、寂光院にお着きになりました。私も法皇にならって寂光院に参詣いたそうと存じ候。


 寂光院門前の小さな広場には「紫葉漬と大原女の発祥の地」と書かれた石碑が建てられていました。碑文はやや長文ですが、以下に転載します。

 平安の昔寂光院に住まわれた建礼門院が、大原の里人から献上された夏野菜と赤紫蘇の漬物の美味しさに感動され、「紫葉漬」と名付けられたと伝えられています。
 本来、柴葉漬とは夏野菜と赤紫蘇を塩漬けにし乳酸発酵させた純朴な漬物を指します。そして、使われる赤紫蘇は、大原盆地で繰り返し栽培されている為、原品種に近く、香り品質ともに、最上級と言われています。
 この赤紫蘇を使って大原で漬けた紫葉漬けは、京都府の伝統食品(京つけもの)の認定を受けています。
 また、建礼門院の女官阿波内侍のお姿がルーツであると伝わる大原女は、数々の書画や文献に残され、大原伝統文化の象徴として大原観光保勝会が保存に努めています。
 この度の建礼門院八百年御遺忌に因み、大原のしば漬け業者、赤紫蘇に縁のある者が、こぞって建礼門院の遺徳をしのび御恩に感謝の気持ちを表し、記念碑を建立して、後世に伝えるものです。


「紫葉漬と大原女の発祥の地」の碑

大原西陵


 寂光院のすぐ右手に建礼門院の墓所である「大原西陵」があります。寂光院参拝に先立って、まず女院の御陵にお参りいたしましょう。
 「高倉天皇皇后徳子 大原西陵」と記された宮内庁の制札の右手から石畳の細い参道が続いています。参道入口の門扉が閉ざされているのではないかと、いささか心配していましたが、扉は開かれており、御陵まで参拝することができました。
 建礼門院徳子は、平清盛の娘で清盛と後白河法皇の政治的協調のため、高倉天皇に入内して第一皇子・言仁親王(後の安徳天皇)を産み、安徳天皇の即位後は国母となります。その後、木曾義仲の攻撃により都を追われ、壇ノ浦の戦いで安徳天皇は清盛の妻の時子(二位尼)とともに入水、平氏一門は滅亡しましたが、徳子は生き残り京へ送還されて出家、大原寂光院で安徳天皇と一門の菩提を弔い、余生を送りました。
 『平家物語』では「灌頂巻」で、大原を訪れた後白河法皇に自らの人生を語り、全巻の幕引き役となっています。また、謡曲『小督』では、天皇と小督局との関係に清盛が激怒して小督局を追放したという話があり、『平家物語』に典拠していますが、事実かどうか疑わしいようです。


建礼門院大原西陵


 御陵の前には「建礼門院大原西陵」の石柱が建てられていますが、風化が激しく文字の一部が読み取れない状況です。御陵は樹々に覆われて内部は暗くて定かではありませんが、五輪塔が建てられている様子でした。
 御陵より引き返し、寂光院に参詣いたします。


謡曲史蹟保存会の駒札

寂光院入山受付


 寂光院の門前には、謡曲史蹟保存会の駒札が建てられています。

 文治二年(1186)四月、後白河法皇が壇ノ浦で平家が滅びて後、洛北寂光院に隠棲された建礼門院(徳子・高倉帝の皇后)を訪ねられたことは「平家物語、灌頂巻」にくわしく、また謡曲「大原御幸」にも謡われている。当寺、法皇は鞍馬街道から静原を経て江文峠を越え大原村に入り寂光院を尋ねられているが、ここ寂光院の本尊は聖徳太子御作の地蔵菩薩で、その左に建礼門院の木造や阿波ノ内侍の張子の座像が安置されている。謡の詞章にそって緑羅の垣、汀の池などが趣きをそえ、うしろの山は女院の御陵域になっており、楓樹茂り石段は苔むし謡曲をしのぶことが出来る。



《寂光院》  京都市左京区大原草生町676

 寂光院は天台宗の尼寺で、山号および寺号は清香山玉泉寺。その由緒について、以下、境内の説明書きによります。

 当院は推古天皇二年(594)に聖徳太子が用明天皇御菩提のためと、普く天下安穏のためにお建てになったのを開創とする。
 本尊六万躰地蔵菩薩(重文)は、太子が御父用明天皇の御菩提のためと、天下万民平和安穏のためにお作りになったものである。
  寂光院御詠歌
   浪速より小原の里にしたひきて寂光院のみ仏にぞなむ
  願へひと六万躰の地蔵尊わけてたまはる信の深きに
 初代の住職は聖徳太子の御乳人玉照姫である。その後文治元年九月に、高倉天皇の皇后建礼門院がお住まいになった。それ以来御閑居御所とも、高倉后大原宮とも称して、やはり代々貴族の姫等が静かに、清らかに法燈を伝えてきた。文治二年四月に後白河法皇が御幸あそばされた。平家物語や謡曲で有名な小原御幸である。(後世小原を大原と書いた。)
 本堂は飛鳥・藤原・桃山の三時代の様式からなり、内陣及び柱は飛鳥・藤原及び平家物語当時のもので、外陣は慶長八年に豊臣秀頼卿が片桐且元を工事奉行として修理されたものである。また内陣の床は秀頼卿がおはりになり、それ以前は支那式の土間であった。
 これら歴史的貴重な文化財が平成十二年五月九日未明、放火全焼、その貴重な美しい姿は永遠に忘れることなく惜しまれるものである。
 本堂西側の庭は古びた池、千年の古松、苔むした石、汀の桜等、後白河法皇が「池水に汀の桜散りしきて波の花こそさかりなり」と御製をお詠みになった平家物語当時のままである。北庭園は回遊式四方正面の庭で、林泉・木立・清浄の池等、古き幽翠な名作の庭で、特に石清水を引いた三段の滝は玉だれの泉と言って、一段一段高さと角度が異なり、三つの滝のそれぞれ異なる音色が一つに合奏するようにできている。
 本堂前右側にある大きな南蛮鉄の雪見燈籠は、太閤秀吉の桃山城にあったものである。書院前方の茂った山は、平家物語に建礼門院が大納言佐局を供に、み仏にお供えになる花を摘んでお帰りになるところが書かれている翠黛山である。

寂光院境内案内地図


 入山受付で600円の拝観料を納め、朱印帳を託して入山いたします。なだらかな石段の続く参道を進み、「寂光院」の額の架かった山門を入ると、正面に小ぢんまりとした本堂がたたずみ、前方には庭園が広がっています。


山門


 本堂に向かって右手前にある置き型の鉄製灯籠が「雪見灯篭」で、豊臣秀頼が本堂を再建した際に伏見城から寄進されたものと伝えられています。以下、当山のサイトより。

 宝珠、笠、火袋、脚からなり、笠は円形で降り棟をもうけず、軒先は花先形となっている。火袋は側面を柱で5間に分かち、各面に五三の桐文を透し彫りにし、上方に欄間をもうけ格狭間(ごうざま)の煙出とし、1面を片開きの火口扉とする。円形台下に猫足三脚を付けている。
 銘文等はないが、制作も優れ保存も完好で重厚な鉄灯籠である。

 山門から本堂へは直進できず、右手にある書院前より履物を脱いでお参りするようになっています。


雪見燈籠

書院


 本堂の東側にある池が「四方正面の池」と呼ばれています。
 北側の背後の山腹から水を引き、三段に分かれた小さな滝を設け、四方は回遊出来るように小径がついています。本堂の東側や書院の北側など、四方のどこから見ても正面となるように、周りに植栽が施されています。
 池の奥、小さな滝の左手に観音像が安置されていました。


四方正面の池

池の水際の観音像

 本堂では係員による当山の由緒等の説明を聞くことができます。
 本堂は飛鳥、藤原、桃山の三時代の様式からなり、内陣および柱は飛鳥様式を踏襲しており、外陣は慶長8年(1603)に豊臣秀頼が修理させたものでありました。これらの文化財が平成12年年に焼失しています。以下は院内に掲げられた「受難と再興」とする掲示です。

 平成12年5月9日未明、寂光院は心無い者の放火により、桃山時代に建立された三間四面の杮葺本堂はひとたまりもなく灰塵に帰しました。
 堂内には鎌倉時代に制作された本尊地蔵菩薩立像、3000余体の小地蔵菩薩像、および建礼門院像・阿波内侍像が安置されていたが、すべて焼けてしまいました。ただ、本尊地蔵菩薩像だけは全身を焦がしながらも凛として屹立しておりました。像の表面は大きく焼損したが、像内に籠められていた鎌倉時代の造立の発願文・経文類やさらに3000余体の小地蔵尊を始めとする納入品の数々は無事でした。
 火災の直後、文化庁及び有識者によって焼損した地蔵菩薩像の重要文化財指定継続の有無が議論されたが、地蔵菩薩像の彫刻面がほぼ残存していること、像内の造立当初からの豊富な納入品が無傷で残ったこと、などが理由で指定解除に至らなかったことは不幸中の幸いでした。
 しかし地蔵菩薩像を焼損したままにしておくことは風化と欠落を招くため、直ちに文化庁の指導のもとに樹脂硬化による保存処理が施された。また、像内に納められていた数々の納入品とともに、完全空調の収蔵庫において永久保存されることとなりました。
 聖徳太子発願以来ともいうべき未曽有の受難を乗り越え、1400年の法灯を未来永劫に伝えんとともに、ここに寂光院の安穏と万民豐楽・世界平和を深く祈念するものであります。


本堂

ご朱印

 本堂の左手前にある小池は、冒頭の『平家物語』で、後白河法皇が、
   池水に汀の桜散り敷きて波の花こそ盛りなりけれ
と詠まれたという「汀の池」です。
 また汀の池の傍らには、古来より桜と松が寄り添うように立っていて、桜を「みぎわの櫻」、松を「姫小松」といいました。
 姫小松は樹高15メートル余りで樹齢数百年になるものでしたが、平成12年の本堂火災とともに、池のみぎわの櫻と姫小松もともに被災し、とくに「姫小松」は倒木の危険があるため伐採され、現在はご神木としてお祀りされています。


汀の池

千年姫小松(パンフレットより)


 本堂の左手奥に、女院が隠棲していたと伝えられている庵跡があります。以下は院内の説明書きです。

 ここは建礼門院御庵室跡と伝えられるところです。右手にある御使用の清水は、今もこんこんと湧き水をたたえています。
 『平家物語』のなかの悲劇のヒロイン建礼門院徳子。権勢を誇った平相国入道清盛の二女に生まれ、高倉天皇の中宮となって御子安徳天皇を生みました。絶頂の日日もつかの間のことでした。源平争乱が勃発するや、6歳の安徳天皇を奉じて平家一門とともに西国に赴くこととなり、ついに文治元年(1185)3月長門檀ノ浦での合戦に義経軍に破れました。女院は安徳天皇とともに入水しましたが、一人敵に助けられて生きながらえて京都に送還され落飾されました。秋も押しせまった9月末になって憂きことの多い都を遠く離れた洛北の地大原寂光院に閑居し、昼夜絶えることなく念仏を唱えて夫高倉天皇とわが子安徳天皇、および平家一門の菩提を弔う日々を送りました。
 文治2年(1186)の春、大原寂光院に閑居する建礼門院のもとを後白河法皇が訪れた話が、『平家物語』の最終をかざる「潅頂の巻」の載っています。法皇が見た女院の御庵室の様子は「軒には蔦槿(あさがお)這ひかかり、信夫まじりの忘草」「杉の葺き目もまばらにて、時雨も霜も置く露も、もる月影にあらそひて、たまるべしとも見えざりけり、後ろは山、前は野辺」というありさまで、「来る人まれなる所」でした。
 突然の法皇の行幸に、女院は翠黛山に女房らと花摘みに行って留守でした。侍女の老尼阿波内侍に案内を請うてごあんしつの中を御覧になった法皇は、一丈四方の仏間と寝所だけという昔の栄華に比べて余りの簡素な生活にただただ落涙するばかりでした。しばらくして花摘みから帰って来た女院は、はじめ逢うことを拒みますが、阿波内侍に説得されて涙ながらに法皇と対面します。先帝や御子や平家一門を弔いながらの今の苦境は後生菩提のための喜びであると述べ、六道になぞらえて己が半生を語る女院に、法皇はじめ供の者も涙するばかりでした。
 建久2年(1191)2月中旬の頃、女院はこの地で往生の鬨を迎え、内侍たちに看取られてその生涯をそっと閉じました。



建礼門院御庵室遺蹟

 冒頭の法皇御幸の後半部分にも庵のありさまが謡われていますが、以下は謡曲の前場、シテの建礼門院が寂光院での閑居のありさまを詠嘆する場面です。ワキツレ大臣が法皇御幸の準備を申し付け、続いてアイ狂言の下人がお触れをすると、後見が大藁屋の引廻しを除き、シテの建礼門院とツレの大納言局、阿波内侍、三人の姿が現われます。


サシ シテ「山里はものゝさみしき事こそあれ。世のきよりはなかなかに

シテ・局・内侍「住みよかりける柴のとぼそ。都の方の音信おとづれは。間遠まどほへる籬垣ませがきや憂き節しげき竹柱たけばしら立居たちゐにつけて。もの思へど。人目なきこそ安かりけれ
下歌「折々に心なけれどふものは
上歌しづ爪木つまぎをのの音。賤が爪木の斧の音。こずゑの嵐猿の聲。これらの音ならでは。眞拆まさきの葛青葛あをつづら来る人まれになり果てゝ。草顔淵がんねんちまたに。しげき思ひの行方とて。雨原憲げんけんとぼそともうるほふ袖の.涙かな濕ふ袖の涙かな



 以下は『平家物語』「灌頂巻・大原御幸」の該当部分です。


 さて、女院の御庵室あんじつを叡覧あるに、軒にはつた朝顔あさがほはひかゝり、しのぶ混じりの萱草わすれぐさ瓢箪へうたんしばしば空し、草、顔淵がんゑんちまたしげし、れいでう深くとざせり、雨、原憲げんけんとぼそうるほすともつつべし。杉の葺目ふきめもまばらにて、時雨も霜も置く露も、洩る月影に爭ひて、たまるべしとも見えざりけり。うしろは山、前は野邊、いざさ小篠をざさに風騒ぎ、世にたへぬ身の習ひとて、憂き節しげき竹柱、都の方のおとづれは、間遠まどほへるませがきや、僅かにこと問ふものとては、嶺に木傳こづたふ猿の聲、しづ爪木つまぎをのの音、これ等がおとづれならでは、まさきのかづら靑葛、來人まれなる所なり。



女院使用の井戸遺蹟

神明神社


 御庵室跡の右手奥に、女院が使用されたという井戸の遺跡があります。
 また御庵室跡の奥に鳥居があり、石柱の社号標に「神明神社」と刻されており、ここが参道の入口になるのでしょうが、竹棒で閉じられています。寂光院と何らかの関係があるのでしょうか。


鐘楼

茶室


 本堂の正面の「汀の池」の水際にある鐘楼は江戸時代に建立されたもので、「諸行無常の鐘」と称する梵鐘が懸かっています。
 鐘身に黄檗宗16世の百癡元拙(1683~1753)撰文になる宝暦2年(1752)2月の鋳出鐘銘があり、時の住持は本誉龍雄智法尼、弟子の薫誉智聞尼で、浄土宗僧侶でした。
 また鋳物師は近江国栗太郡高野庄辻村在住の太田西兵衛重次です。

 『平家物語』ゆかりの文化財等を紹介している宝物殿で一休み、受付に預けておいた朱印帳を頂戴して参拝を終えました。



 謡曲『大原御幸』の前場に関して、その典拠となる『平家物語』との対比を行いましたが、後場についてもその作業を行ってみました。ただし、謡曲の詞章が単なる引用とは言えない箇所も多々ありますが、『平家物語』の該当部分を参考までに対比しています。

【謡曲】(後シテの出に続く法皇と内侍の問答)

内侍「只今こそあの岨づたひを女院の御歸りにて候
法皇「さて何れが女院。大納言の局は何れぞ
内侍「花筐臂に懸けさせ給ふは。女院にて渡らせ給ふ。爪木に蕨折り添へたるは。大納言の局なり。いかに法皇の御幸にて候

【平家物語】(灌頂巻・大原御幸の事)

 やゝあつて、上の山より、濃き墨染の衣着たりける尼二人、岩の懸路を傳ひつゞ、下り煩ひたる樣なりけり。法皇「あれはいかなる者ぞ」と、仰せければ、老尼、涙を抑へて、「花筐臂にかけ、岩躑躅取具して持たせ給ひて候ふは、女院にて渡らせ給ひ、爪木に蕨折添えて持ちたるは、鳥飼の中納言維實の女、五條の大納言國綱の養子、先帝の御乳母、大納言の局」と、申しもあへず゜泣きけり。


【謡曲】(地謡・上歌)


朧の清水

上歌「一念の窓の前。一念の窓の前。攝取の。光明を期しつゝ十念の柴の樞には。聖衆の来迎を待ちつるに。思はざりける今日の暮。古に歸るかとなほ思ひ出の涙かな。げにや君こゝに叡慮の惠み末かけて。あはれもさぞな大原や。芹生の里の細道おぼろの清水月ならで。御影や今に残るらん

【平家物語】(灌頂巻・六道の沙汰の事)

 「一念の窓の前には、攝取の光明を期し、十念の柴の樞には、聖衆の來迎をこそ待ちつるに、思ひの外の御幸かな」とて御見参ありけり。

 大原のバス停から寂光院に向かう細い道の脇に、小さな湧き水があります。建礼門院が京都から寂光院へ移ってきた際、この清水のあたりで日が暮れました。折しも朧月夜のころあい、月影に自分の姿がこの水溜りに映り、そのやつれた姿を見て身の上を嘆いたという話が伝えられているそうです。


【謡曲】(ロンギ)

ロンギ 地「さてや御幸の折しもは如何なる時節なるらん
シテ「春過ぎ夏もはや。北祭の折なれば。青葉にまじる夏木立春の名殘ぞ惜しまるゝ
「遠山にかゝる白雲は
シテ「散りにし花の形見かや
「夏草の茂みが原の其處となく分け入り給ふ道の末
シテ「此處とてや。此處とてや。げに寂光の寂かなる。光の陰を惜しめたゞ

【平家物語】(灌頂巻・大原御幸の事)

 かゝりし程に、法皇は、文治二年の春の頃、建禮門院の小原の閑居の御住ひ、御覧ぜまほしう思し召されけれども、二月彌生の程は、嵐烈しう餘寒も未だ盡きず、峯の白雲消えやらで、谷のつらゝもうち解けず。かくて春過ぎ夏立つて、北祭の過ぎしかば、法皇、夜をこめて、小原の奥へ御幸なる。 (中略)
 遠山にかゝる白雲は、散りにし花の形見なり。青葉に見ゆる梢には、春の名殘ぞ惜しまるる。


【謡曲】(ロンギ・アト)

シテ「思はずも深山の奥の。住居して。雲居の月をよそに見んとは。かやうに思ひ出でしに。この山里までの御幸。返す返すもありがたうこそ候へ

【平家物語】(灌頂巻・大原御幸の事)

 少しひき退けて、女院の御歌とおぼしくて、
  思ひきや深山の奥にすまひして雲居の月をよそに見んとは


【謡曲】(シテ語リ)

シテ 語「…能登の守敎經は。安藝の太郎兄弟を左右の脇に挾み。最後の供をせよとて海中に飛んで入る。新中納言知盛は。沖なる船の碇を引き上げ。兜とやらんに戴き。傳子の家長が弓と弓とを取り交はし。そのまゝ海に入りにけり。その時二位殿鈍色の二つ衣に。練袴の稜高くはさんで。我が身は女人なりとても。敵の手には渡るまじ。主上の御供申さんと。安徳天皇の御手を取り舷に臨む。何處へ行くぞと直上りしに。この國と申すに逆臣多く。斯く淺ましき所なり。極楽世界と申して。めでたき所のこの波の下にさむろふなれば。御幸なし奉らんと。泣く泣く奏し給へば。さては心得たりとて。東に向はせ給ひて。天照大神に御暇申させ給ひて
「又。十念の御爲に西に向はせおはしまし
シテ「今ぞ知る  地「御裳濯川の流れには。波の底にも都ありとはと。これを最期の御製にて。千尋の底に入り給ふみづからも。續いて沈みしを。源氏の武士採り上げてかひなき命ながらへ。二度龍顔に逢ひ奉り。不覚の涙に袖をしほるぞ恥かしき。

【平家物語】(巻十一・能登殿最期の事)

 能登殿、これを見給ひて、先づ眞前に進んだる安藝太郎が郎等に須曽を合せて、海へどうと蹴入れ給ふ。續いてかゝる安藝太郎をば、弓手の脇にかい挾み、弟の二郎をば、馬手の脇に取つて挾み、一締しめて、「いざうれ、おのれ等、死出の山の供せよ」とて、生年廿六にて、海へつゞとぞ入り給ふ。

      (巻十一・内侍所の都入の事)

 新中納言知盛の卿は、「見るべき程の事をば見つ。今はたゞ自害せん」とて、乳母子の伊賀平内左衛門家長を召して、「日來の契約をば違ふまじきか」と宣へば、「さる事候」とて、中納言殿にも、鎧二個着せ奉り、我が身も二個着て、手に手を取り組み、一所に海にぞ入り給ふ。

      (巻十一・先帝御入水の事)

 二位殿は、日來より思ひ設け給へる事なれば、鈍色の二衣うち被き、練袴の傍高く取り、神璽を脇に挾み、寶劒を腰にさし、主上を抱き參らせて、「われは、女なりとも、敵の手にはかゝるまじ、主上の御供に參るなり。御志思ひ給はん人々のは、急ぎ續き給へや」とて、靜々と舷へぞ歩み出でられける。主上今年は八歳にぞならせおはしませども、御年の程より、はるかにねびさせ給ひて、御形いつくしう、傍も照り耀くばすりなり。御髪黑うゆらゆらと、御背過ぎさせ給ひけり。主上、あはれなる御有樣にて、「そもそも尼前、われをばいづちへ具して行かんとはするぞ」と仰せければ、二位殿、幼き君に向ひ參らせ、涙をはらはらと流いて、「君は未だ知し召され候はずや、先世の十善戒行の御力によつて、今萬乘の主とは生れさせ給へども、惡緣に引かれて、御運已に盡きさせ給ひ候ひぬ。先づ、東に向はせ給ひて、伊勢大明神に御暇申させおはしまし、その後、西に向はせ給ひて、西方浄土の來迎に預らんと誓はせおはしまして、御念佛候べし。この國は粟散邊土と申して、ものうき境にて候。あの波の下にこそ、極樂浄土とてめでたき都の候。それへ具し參らせ候ふぞ」と、樣々に慰め參らせしかば、山鳩色の御衣に鬟結はせ給ひて、御涙におぼれ、鼓美しき御手を合せ、先ず東に向はせ給ひて、伊勢大明神・正八幡宮に、御暇申させおはしまし、その後西に向はせ給ひて、御念佛ありしかば、二位殿、やがて抱き參らせて、「波の底にも都の候ふぞ」と慰め參らせて、千尋の底にぞ沈み給ふ。

 平知盛の最期について、本曲や『碇潜(いかりかづき)』では知盛が碇を戴いて入水したとしていますが、『平家物語』では乳母子の家長と手に手を取って入水し、碇を負うて入水したのは、教盛・経盛兄弟となっています



 冒頭の“「大原御幸」梗概”において、戦時中における本曲の上演自粛について触れましたが、詩人の萩原朔太郎が『阿帯:萩原朔太郎随筆集』に収録されている「能の上演禁止について」というエッセイで、この問題を論じていますので、その冒頭の部分を以下に転載します。(「国立国会図書館デジタルコレクション」のサイトより転載)

 能の「大原御幸」が上演禁止になつた。あの蕭條たる山里の尼院の中で、浮世を捨てた主從三人の女が、靜物のやうにじつと坐つたまま、十數分もの長い間、物悲しくも美しい抒情の述懐を合唱する場面は、すべての能の中でも最も幽玄で印象に残る場面であるが、今後再びそれが見られないと思ふと、永久に寶石を失つたやうな寂しさが感じられる。先には「蟬丸」が禁止になり「船辨慶」の一部が抹殺されたが、今後は皇室に関する一切の能を禁じ、長く廃演にするといふことである。するとさしづめ式子内親王をシテ役にした「定家」や、醍醐天皇とおぼしき帝の出給ふ「草子洗小町」やを初め、幾多の美しい傑作能が、今後舞台から消滅することになるのであらう。
 警視廰の方の理由は、臣下たるものが皇族に扮し、娯樂興行物に演藝するといふのは、畏れ多く不敬のことだといふのである。成程一應はもつともの理由であるが、いささか杓子定規の役人思想が、世話の行きすぎをしたかとも考へられる。すべての物事は、法律的の言語概念で考へないで、深くその物の本質する精神から考へるのが大切である。娯樂演藝物とは言ひながら、能は歌舞伎や活動寫真とはちがつてゐる。能は武家の式樂として、最も嚴重な格式の下に、長裃の儀禮を以て觀覧されたものである。これを見る者は將軍であり、大名であり、當時の貴族たる武士階級者であつた。平民階級の町人等には、かたく法律を以てその觀覧が禁じられた。それほど鄭重に儀禮を正して、荘重に演ぜられた式樂なのだ。今日もし市井の大衆劇や娯樂的の映畫劇で、皇室を主題とする如き物が現はれたら、あへて警察の令を待つ迄もなく、僕等が率先してその不敬を責めるであらう。だが觀客が皆禮服を着、儀式を正し、最敬礼を以て列座し、そして演藝そのものと演出者とが、最も嚴粛荘重なる精神を以てする舞臺に於て、たとひ皇室に關する場面があらうとも、一概に不敬呼ばはりをすることはできないだらう。勿論今日の能の觀客は、昔のやうに禮儀正しくはない。しかし能そのものの芸術精神は、依然として傳統のままに荘重な式樂であり、何等卑俗の娯樂性を持たないのである。況んや能は、五百年もの長い傳統を經た古典劇である。ニイチエも言ふ通り、人は幾度も繰返される劇に於ては、もはや筋やストーリイを見ようとしないで、もつぱら演技の形式だけを見るのである。「大原御幸」や「蝉丸」などの觀客は、シテが皇族であることなど意識しないで、單にそれが觀世左近であり、梅若萬三郎であることだけを見てゐるのである。警視廰の取締りが、映畫や現代劇にやかましく、時代劇や歌舞伎劇に比較的寛大だといふことも、おそらくこの同じ理由にもとづくにちがひない。新しく出來たナマのものは、臭氣の刺激性が甚だしい。しかし五世紀も経た骨董品に、今さら何の臭氣があらう。枯骨を叩いてその肉臭を探索し、今さらに事新しく公告するのは、却つて人心を惑はすことの愚になりはしないか。

 上記文中「『船弁慶』の一部が抹殺されたが」とありますが、具体的には、現行大成版一番本の13丁表、後シテの出の直前の地謡の「主上を始め奉り」が削除されました。
 戦時中に軍部より横槍が入って『安宅~勧進帳』『小督』『玄象』『花筐』など、〈天皇〉に係わる不適切な部分の文句の変更を強要され、『蝉丸』に至っては、かくのごとき曲は不敬極まりなしということで、大成版からは除外されたことは他の稿でも述べましたが、本曲『大原御幸』も上演自粛の憂き目にあっておりました。その詳細は上記萩原朔太郎の随筆に述べられていますが、現代の私たちの感覚からすれば、まるで信じられない出来事です。本曲や『蝉丸』のような名曲を、舞台で鑑賞し、また謡うことができるのは誠にありがたいことと言ねばなりますまい。




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  (平成30年10月19日・探訪)
(平成31年 1月28日・記述)


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