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洛北・貴船神社 〈鉄輪〉


 2018年10月19日、洛北の貴船神社に参拝しました。当社は『鉄輪』謡蹟です。
 参拝に先立って、謡曲『鉄輪』について。


   謡曲「鉄輪」梗概
 古作のなごりを持つといわれるが、作者は未詳。『平家物語』の「剣巻」や貴船信仰に関わる巷説などに典拠している。

 下京の女が、自分を捨てて新しい妻を迎えた夫を恨み、貴船の宮に丑の刻詣りをする。社人の夢に神が現われ「丑の刻詣りをする女がいるが、その女の願いを叶えてやる。頭に松明を灯した鉄輪を戴き、顔に丹を塗り、身に赤い衣を着て、憎悪の心を抱けと告げよ」と託宣する。このお告げを聞いた女は、家に帰り信託の通りにしようと思うや否や、その姿は鬼と変わり、神は逆立ち、あたりに黒雲が立ち現れて雨が降り、雷が鳴り響いた。
 一方、夫は毎晩悪夢に悩まされていたので、安倍晴明に占ってもらうと、女の恨みが深く今夜のうちにも命が危ない。そこで晴明は、呪詛返しの法を行うことになり、茅で造った人形に夫婦の名を書き、さまざまな供物を調えて懸命に祈った。祭壇の幣がざわめき出し、身の毛もよだつ恐ろしい光景のなか、女の生霊が出現し、男に対し恨みを晴らそうとするが、晴明が祈り招いた三十番神に追われて、その場から消えていった。

 本曲の後場、ことにその後半は、リズミカルな中ノリの地謡とともに、嫉妬に狂う鬼女の激しい型が展開される。後シテは橋姫または生成の表をかけるが、橋姫は顔の上半は白く下半は赤井色で、現在では本曲専用のものである(1913年復曲上演の『橋姫』の後シテも使用)。


 続いて謡曲『鉄輪』の前場、夫に捨てられた女が貴船神社に丑の刻詣りをし、貴船明神の信託により鬼女となるまでのシーンを描いています。


口開 狂言「かやうに候者は。貴船きぶねの宮に仕へ申す者にて候。さても今夜不思議なる御靈夢れいむを蒙りて候。そのはれは。都より女の丑のとき參りをせられ候に。申せと仰せらるゝ子細しさい。あらたに御霊夢を蒙りて候程に。今夜參られ候はゞ。御夢想むさうのやうを申さばやと存じ候
次第 シテ「日も數そひて戀衣こひごろも。日も數そひて戀衣。貴船きぶねの宮に參らん
サシ「げにや蜘蛛のいえに荒れたる駒はつなぐとも。二道ふたみちかくる徒人あだびとを。賴まじとこそ思ひしに。人のいつわり末知らで。契りめにし悔しさも。たゞ我からの心なり。あまり思ふも苦しさに。貴船の宮に詣でつゝ。住むかひもなき同じ世の。うちに酬いを見せ給へと
下歌「賴みをかけて貴船川早くあゆみを運ばん
上歌 地かよひ馴れたる道の末。通ひ馴れたる道の末。夜もただすの變らぬは。思ひに沈む御菩薩池みぞろいけ生けるかひなき憂き身の。消えん程とや草深き市原いちはら野辺の露分けて。月遲きの鞍馬川。橋を過ぐれば程もなく。貴船の宮に.着きにけり貴船の宮に着きにけり
「急ぎ候程に。貴船の宮に着きて候。心靜かに參詣申さうずるにて候
狂言「いかに申すべき事の候。御身は都より丑の刻參りめさるゝ御方にて渡り候か。今夜御身の上を御夢想むさうに蒙りて候。御申しある事ははや叶ひて候。鬼になりたきとの御ぐわんにて候程に。我が家へお歸りあつて。身には赤き衣を。顔には丹を塗り。頭には鐵輪かなわを戴き。三つの足に火を灯し。怒る心を持つならば。忽ち鬼神と御なりあらうずるとの御告にて候。急ぎお歸りあつて。告の如く召され候へ。なんぼう奇特きどくなる御告にて御座候ぞ
シテ「これは思ひも寄らぬ仰せにて候。わらはが事にてはあるまじく候。定めて人違ひとたがへにて候べし

狂言「いやいやしかとあらたなる御夢想にて候程に。御身の上にて候ぞ。かやうに申す内に何とやらん恐ろしく見え給ひて候。急ぎ御歸り候へ
シテ「これは不思議の御告かな。まづまづ我が家に歸りつゝ。夢想のごとくなるべしと
「言ふより早く色かはり。言ふより早く色かはり。氣色けしき變じて今までは。美女のかたちと見えつる。緑の神は空さまに。立つや黒雲の。雨降り風と鳴神なるかみも。思ふ仲をばけられし。恨みの鬼となつて人に思ひ知らせん憂き人に思ひ知らせん 〈中入〉



 謡曲の前場の舞台となるのが貴船神社です。叡山鉄道で貴船口まで行き、そこからバスに揺られること数分、貴船のバス停に到着します。貴船神社までは数百メートル、貴船川のせせらぎを聞きながらの散策コースとなっています。
 この貴船川に沿って、川床料理を楽しむ料亭が並んでいますが、先日(9月4日)に近畿地方を襲った台風21号によって貴船川も荒らされ、料亭もかなり被害を受けた様子でした。

貴船神社周辺地図



《貴船神社》  京都市左京区鞍馬貴船町180

 水神である高龗神(たかおかみのかみ)を祀り、古代の祈雨八十五座の一座とされるなど、古くから祈雨の神として信仰されており、また水の神様として、全国の料理・調理業や水を取扱う商売の人々から信仰を集めています。地域名の貴船「きぶね」とは違い、水神であることから濁らず「きふね」というそうです。その由緒について、以下、当社のサイトによります。

 御社殿の御創建を明記するものは何もない。ゆえに創建の年代は不詳ながら、天武天皇白鳳6年(約1300年前)にはすでに御社殿造替が行われたとの社伝があることから、貴船神社の創建年代は極めて古い。
 貴船神社の起源については、貴船大神が御鎮座することになった伝説が記されている社記のなかに見ることができる。
 「国家安穏・万民守護のため、太古“丑の年の丑の月の丑の日”に、天上より貴船山中腹、鏡山に天降れり」とあり、よって“丑の日”が縁日とされているゆえんである。
 また別の伝説には、第18代反正天皇の御代(約1600年前)、初代神武天皇の皇母・玉依姫命が御出現になり、
 「吾は皇母玉依姫なり。恒に雨風を司り以て国を潤し土を養う。また黎民の諸願には福運を蒙らしむ。よつて吾が船の止まる処に祠を造るべし」と宣り給い、「雨風の國潤養土の徳を尊び、その源を求めて黄船に乗り、浪花の津から淀川、鴨川をさかのぼり、その源流である貴船川の上流のこの地(現在の奥宮の地)に至り、清水の湧き出づる霊境吹井を認め、一宇の祠を建てて水神を奉齋す」とあり、“黄船の宮”と崇められることになったと伝えられている。

 貴船のバス停から数分歩くと、左手に朱塗りの二ノ鳥居が立っています(一ノ鳥居はどこに建てられていたのだろう?)。


二の鳥居


 二ノ鳥居からは石段の参道が続いています。参道の両側には、朱塗りの灯籠がびっしりと並んでいます。観光案内などには、必ずと言っていいほどこの風景がとりあげられています。
 石段を登りきり、神門くぐると本殿下の小さな広場に到着します。


参道の石段

神門


 神門の左手に御神木の桂の木が聳えています。

 貴船は古くは「気生嶺」「気生根」とかかれていた。大地のエネルギー「気」が生ずる山、「気」が生ずる根源という意味。
 神道では、体内の気が衰えることを「気枯 (けが) れ」といい、古来当社に参拝する者皆、御神気に触れ、気力の充実することから運気発祥(開運)の信仰が篤い。
 この桂は、樹齢四百年、樹高三十メートル、根元からいくつもの枝が天に向かって伸び、上の方で八方に広がる。これは御神気が龍の如く大地から勢いよく立ち昇っている姿に似て、当社の御神徳を象徴し、まさに御神木と仰がれる由縁でる。
 上流の結宮さらに奥の奥宮にもこれより大きな桂がある。

 御神木の隣に石庭があります。

 昭和の作庭家の第一人者・重森三玲氏が昭和四十年に古代の人々が神祭をおこなった神聖な祭場「天津磐坂(あまついわさか)をイメージして造った石庭。
 貴船川から産出する貴船石は、緑色や紫色をした美麗な水成岩で、庭石、盆栽石の名石として、その数も少なく珍重されている。

 石庭の南には斎館があります。当所は神職が神事に赴く前に心身を清めるために過ごす建物だそうです。その玄関に、奉納された面白い馬の顔の絵がありました。


御神木の桂

石庭


齋館玄関


 神門の右手、社殿下の広場に手水舎と、その右手に2頭の神馬の像が立ち並んでいました。説明によると当社は「絵馬発祥の社」とのことです。

 古来、雨乞の社として名高い当社には、畏くも歴代天皇様より、旱天(ひでり)には黒馬、霖雨には白馬または赤馬を、その都度献げて御祈願される例になっていました。
 しかし、時には生馬に換えて「板立馬」を奉納したと、平安時代の文献である『類聚符宣抄』は伝えています。この「板立馬」こそは今日の絵馬の原形と言われています。
 当宮では、この故事に倣らい、かつて和泉式部が復縁を、平實重が蔵人昇任を、大宮人が加茂競馬の必勝を、そして源義経が源氏再興を、それぞれ大神様に祈ったように、皆様方の心の願いを、一枚の絵馬に託して御祈願なさいますよう、お勧め致します。


手水舎

絵馬


 拝殿への石段を上ると、若い男女の参拝客が目につきます。広場の右手が拝殿になっており、正面の片隅に「ご神水」なる涌き水がありました。
 この水は貴船山の涌き水で、当社のサイトによれば「夏は冷たく、冬は不思議なぬくもりを持つ弱アルカリの良質な天然水で、今までに一度も枯れたことがない」そうです。汲み取り、自由に持ち帰ることも可能なようでした。


神水


 石段を上ってすぐ左手に社務所があります。御朱印を頂戴して謡曲史蹟保存会の駒札のことを尋ねると、それは奥宮に建てられているとのこと。ただし先般の台風の影響で、途中の参道が倒木・落石等の可能性があるため、参拝はあくまで自己責任で行ってほしいとのことでした。
 ここで人気があるのは「水占い」のおみくじです。おみくじを「御神水」に浮かべると、水に浮かべた紙に、水の神様の力で文字が浮き出してくそうですが、これが結構あたるようで、とくに若いカップルには人気があるようです。


社務所

拝殿

 祭神の高龗神(たかおかみのかみ)について。
 「龗」は、雨カンムリの下に「口」を3つ並べて、その下に「龍」という何とも難しい文字です。「龗」は龍の古語であり、龍は水や雨を司る神として信仰されており、貴船神社のほか、奈良県の丹生川上神社などにも祀られています。
 奥宮の祭神も高龗神ですが、一説には闇龗神(くらおかみのかみ)が祀られているとも伝えられていますが、この二柱の神は、呼び名は違っても同じ神であるとのことです。
 当社のサイトによれば、「高龗神は、降雨。止水を司る龍神であり、雲を呼び雨を降らせ、陽を招き、降った雨を地中に蓄えさせて、それを少しずつ適量を湧き出させる働きを司る神であって、大切な水の供給を司る“水源の神”」なのだそうです。
 『日本書紀』によれば、神産みにおいてイザナギとイザナミの間に、火の神である迦具土神(かぐつちのかみ)が生まれますが、火の神であったため、出産時にイザナミの陰部に火傷ができ、これがもとでイザナミは死んでしまいます。怒ったイザナギに迦具土神は斬り殺されますが、その際に生まれたのが高龗神とされています。


拝殿内陣

ご朱印

 『鉄輪』の謡蹟探訪というからには、奥宮に参拝しなければ意味がありません。本宮の参拝を済ませ、北門を出て、ここでも立ち並ぶ朱塗りの燈籠に見送られながら、“自己責任”で奥宮への参道をたどることといたしました。


北門

北門を振り返る


 本宮から数百メートル進むと、左手に磐長姫命(いわながひめのみこと)を祀りする中宮の結社(ゆいのやしろ)があります。

 神武天皇の曽祖父にあたられる瓊々杵命(ににぎのみこと)が、木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を娶らんとする時、父の大山祇命が姉の磐長姫命も共におすゝめしたが、瓊々杵命は木花咲耶姫命だけを望まれたため、磐長姫命は大いに恥じ、「吾こゝに留まりて人々に良縁を授けよう」といわれ、御鎮座したと伝えられています。
 古くより縁結びの神、「恋を祈る神」としての信仰が篤く、平安時代の女流歌人・和泉式部が切ない心情を歌に託して祈願したという話は有名です。
 昔はスヽキ等の細長い草を、今は「結び文」を神前に結びつけて祈願すると習わしがあります。男女間の縁だけでなく、人と人、会社と会社、就職・進学などあらゆる縁を結んで下さる神様です。


中宮


 ここでちょっとした失敗。先を急ぐあまり、結宮へは参拝せず奥宮への道を急いでしまいました。階段を上れば和泉式部の歌碑などもあったようなのですが、残念なことをいたしました。

 結社から少し歩き、奥宮の参道の入り口に「思ひ川」があり、そこに架かる橋を「思ひ川橋」というそうです。もともとは「御物忌川(おものいみがわ)」で、参詣する際に禊をする川でしたが、和泉式部が恋の成就を祈ったところから「思ひ川」と呼ぶようになったともいわれているようです。


思い川の鳥居

つつみヶ岩


 つつみヶ岩は貴船特有の貴船石。古代の火山灰堆積の模様を表す水成岩で、紫色に輝き、色調・形状ともに秀でた名石です。かつて貴船・鞍馬は海底火山であったことがたくさんの化石から証明されており、枕状溶岩もそれを証明するひとつで、海底火山の活動によって流れ出した溶岩が海水で冷やされ固まり、これがいくつも重なって枕状になったものです。


奥宮前の広場

奥宮への参道


 結社より数分、奥宮前の広場に到着。朱の燈籠が並ぶ参道の向こうに、奥宮の神門が見えてきました。
 奥宮の境内には参道に並ぶ朱塗りの燈籠もなく、神門を除けば一切華やいだ色調はありません。古色然として、本宮のきらびやかな賑わいとはうって変わった静寂に満ちていました。以下、京都市による「奥宮」に関する説明書きです。

 当地は、貴船神社が当初創建されたところで、当社の祭神も本宮と同様高龗神です。
 社伝によれば、「反正天皇の時代(五世紀初頭)に、玉依姫命(たまよりひめのみこと・神武天皇の母)が黄船に乗って浪速から淀川、鴨川、貴船川をさかのぼって当地に上陸し、そこに祠を営んで水神を祀ったのが当宮の起こりである」とのことで、地名及び社名の起源をこの「黄船」に求める説もある。
 境内の本殿横には、この伝説にまつわる「船形石」があり、これを積み囲んだ小石を持ち帰ると航海安全に御利益があるとされた。
 また本殿下には巨大な龍穴があり、文久年間(1861~63)の本殿修理の際、大工があやまってノミをこの中へ落したところ、一天にわかにかき曇り、ノミを空中に吹き上げたという。この他、宇治の橋姫伝説や和泉式部の恋願成就など、当社にまつわる逸話は数多い。
 なお、当社境内周辺には、昭和60年6月に京都市指定天然記念物に指定されたカツラをはじめ、高木が多く見られ、自然遺産の宝庫でもある。


奥宮神門


 神門をくぐると左手にあるのが「連理の杉」。長恨歌の「在天願作比翼鳥、在天願為連理枝」を連想します。杉と楓の木がひとつにつながっているさまを、男女和合にみたてて連理の杉と呼んだものでしょう。
 拝殿の左手に「船形石」があります。玉依姫命が難波の津から黄色の船に乗り、この地にたどり着き「黄船の宮」として水神を祀る社を創建しました。乗ってきた黄船を人目につかぬように石で隠したのが「船形石」だそうです。航海安全に御利益があるとされ、海上関係者から信仰されてきたとのことです。


連理の杉

御船形石


拝殿

 本殿には本宮と同じく高龗神が祀られていますが、闇龗神(くらおかみのかみ)であるともいわれています。高龗神と闇龗神は同一神であるともいわれており、“龗”゛龍の古語であることから、いづれも水神であることには違いないでしょう。
 この本殿の真下には“龍穴”があり、大和の室生龍穴、備前の龍穴と並び「日本三大龍穴」の一つに数えられており、当社最大のパワースポットとされています。
 境内には注連縄で飾られた古木がありました。丑の刻詣りの釘の跡でもないものかと、目を凝らして眺めてみましたがも、よく判りませんでした。


奥宮社殿

ご朱印

 社殿の傍らに「貴船と『鉄輪』伝説」と題して、謡曲史蹟保存会の駒札が建てられています。

 当社は古来より水ノ神として崇敬され、祭神として高龗神を祀り、心願成就信仰としての「丑の刻詣」で知られている。
 むかし宇治の橋姫が丑ノ刻(午前2時)詣りをして男に呪いをかけた伝説があり、これをもとに作られたのが謡曲『鉄輪』で、橋姫が頭にのせた鉄輪を置いた鉄輪掛石が叡山電鉄・貴船口駅の傍らにある。
 丑ノ刻詣りは祭神が国土豊潤のため、丑年丑月丑日丑刻に降臨されたと伝える古事によるもので、人々のあらゆる心願成就に霊験あらたかな事を示すもので、単にのろいにのみとどめるべきものではない。


謡曲史蹟保存会の駒札

宇治橋のたもとの橋姫神社


 上記の駒札には「宇治の橋姫」の丑の刻詣りの伝説が記されています。頭初の『鉄輪』の梗概にも記しましたが、謡曲『鉄輪』の典拠は『平家物語』の「剣の巻」とされています。この伝承は以下のようなものです。

 嵯峨天皇のとき、さる貴族の姫があまりに嫉妬深かったので、新しい女を作った夫を恨み、貴船の宮に参詣して「私を生きながら鬼にして欲しい」と祈ったところ、貴船明神が示現して「鬼になりたくば、姿を改めて宇治川の水に三週間浸かれ」と神託を伝えた。女は言われた通り、長い髪を五つに分けて角に擬し、顔に朱を指し、身には丹を塗り、頭に鉄輪を戴いてその足に松明をすえ、両端に火を灯した松明を口にくわえる、というすさまじい姿で氏を目指して走り去り、やがて鬼となって、男の親類縁者から道行く者まで命を奪った。

 『新潮日本古典集成』「謡曲集」に「田中本平家剣之巻」の該当部分が掲載されていますので、以下に転載します。

 嵯峨天皇ノ御時、或公卿ノ娘余ニ、物ヲ嫉デ、貴布弥大明神ニ七日籠テ祈ケルハ、願ハ吾生乍鬼ニ成シ給ヘ、嫉シ思フ女ヲ取殺サントゾ申ケル。示現有テ、鬼ニ成度バ、姿ヲ作替テ宇治ノ川瀬ニ行テ、三七日混ベシ、左有バ鬼ト可成ト示現有ケレバ、女房悦て都ニ帰つヽ、人無所に立入テ、長ナル髪ヲ五ニ分テ、松脂ヲ塗リ、巻上テ、五ノ角ヲ作ケリ。面ニハ朱ヲ指、身ニハ丹ヲ塗リ、頭ニハ金輪ヲ頂キ、続松(ついまつ:たいまつ)三把ニ火ヲ付テ、中ヲ口ニクハヘツヽ、夜更人定テ後、大和大路走出テ南ヲ差シテ行ケレバ、頭ヨリ五ノ炎村燃上ル。是ニ行合タル者ハ、肝心ヲ失テ倒伏、不死人ト云事ナシ。走テ宇治川瀬ニ行テ三七日混テケレバ、貴布弥大明神ノ御計ニテ、彼女生乍鬼ト成ヌ。又宇治ノ橋姫トモ是ヲ云トゾ承ル。
 偖(さて)彼女鬼ト成テ、嫉シト思フ女、其縁ノ者、吾ヲ冷メシ男ノ親類、境界上下ヲ撰バズ、男女ヲ不嫌、思様ニ取失フ。男ヲ捕ントテハ貌吉女ニ変ジ、女ヲ取ントテハ男ト変ジテ、多クノ人ヲ取間、怖シトモ無云計。


 結社の和泉式部の伝承などによれば、貴船神社は水神系の神を基調にして、縁結びの神として知られていたと考えられますが、その一面、“呪い”を引き受けてくれる~人の心の“闇”に関わる信仰を引き受けてくれる~神としても知られていたと考えられます。
 当社の社伝によれば、貴船大神は「太古“丑の年の丑の月の丑の日”に、天上より貴船山中腹、鏡山に天降れり」とあり、丑の刻に参詣すると、心願成就するという伝承があったので、そこから呪詛に転じたのが、いわゆる当社の「丑の刻詣り」であり、本来は呪いに限ったものではないでしょう。
 本来の呪詛であれば、神自らが祟るべき人のもとに現れています。これに対して『鉄輪』や「宇治の橋姫」に見られる神は、祈願者自身を鬼にして敵のもとに出向かせています。後者による丑の刻詣りでは、祈願者が橋姫のようないでたちとなり、憎い相手に見立てた人形(ひとがた)に釘を打ち込めば、人形と同様の厄災を相手に与えることができる、と思われるようになり、かくして丑の刻詣りの風習が根付いていったものでしょう。




 後日、下京区に「鉄輪の井」があることを知り、2019年2月1日に訪問いたしました。
 鉄輪の井は、下京区堺町通松原下ル鍛冶屋町にあります。京阪電鉄の清水五条駅から歩いて10分程度のところです。堺町通に面して個人宅と思われる格子戸があり、その門前に「謠曲傳示 鐵輪跡」の石碑が建てられ、戸口の上には表札と並んで「鐵輪ノ井戸」の看板が懸けられていました。


民家の奥に鉄輪の古跡が…

鉄輪ノ井戸


鉄輪跡の碑


 入口を入ると狭い路地が続き、10メートルほど進んだところに「命婦稲荷」の扁額がかかった朱塗りの鳥居が立ち、正面に命婦稲荷神社の小祠が鎮座しておりました。ただ敷地が狭く、全体を撮影するのに十分なスペースがなく、断片的な写真になってしまいました。
 命婦稲荷社は、寛文8年(1668)に伏見の稲荷本宮に勧請してお祀りしたのが始まりです。それ以前から当地には「鉄輪塚」「鉄輪井戸」があり、この井戸の水を汲み相手に飲ませると、悪縁が切れるとの俗信がありました。家内安全・商売繁盛のお稲荷さんをお迎えしてお祀りしたのは、鉄輪井戸のイメージを払拭する意図でもあったのでしょうか、
 明治10年(1877)、市中の小祠廃止の府令により、命婦稲荷は閉鎖されましたが、昭和10年にご神体が町内の蔵から出現し、町民の熱意により現在地に再建されました。この工事の際「鉄輪塚」の碑が発掘され、これをご神体としてお祀りしたのが「鉄輪社」です。


命婦稲荷の鳥居

命婦稲荷社


 鳥居の手前に、「鉄輪ノ井由来」として、謡曲史蹟保存会の駒札が建てられています。

 謡曲「鉄輪」は、男に捨てられた市井の女が、貴船へ“丑の刻詣り”をして、相手の男とその後妻を祈り殺そうとする話が骨子になっていますが、この井戸は“鉄輪の女”が住んでいたところのものだといゝ、一節には身投げをした井戸ともいわれています。
 このような伝説から「縁切り井戸」として、井水を汲んで相手に飲ませると、悪縁が切れるなどの俗信がありました。昭和十年には「霊水」となっています。
 なお、かつては鉄輪で築かれた塚があったということです。


命婦稲荷の扁額

謡曲史蹟保存会の駒札


 命婦稲荷社の右手に、鉄輪社がまつられており、その右に井戸があります。井戸の上に鍛冶屋町敬神会の方による「鉄輪の伝説」なる説明書が置かれていました。やや長文になりますが、以下に転載します。

 むかし、火鉢や囲炉裏に置いて、鍋や薬罐をかける三本足の五徳のことを、鉄輪とよんでいました。能にも『鉄輪』の謡曲があります。下京に住む女が、自分を捨てて後妻をめとったことを恨み、貴船神社に丑刻詣をしていますと、鉄輪を頭にのせ、三本の足に火をともし、怒りの心をかきたてると、鬼になれると、お告げがありました。夫はそれ以来悪夢に苦しみ、安倍晴明に占ってもらうと、今夜、命を失うということです。それで調伏の祈祷をうけていると、女の鬼が現われ、夫をつれていこうとしますが、三十番神に追われ、苦しみながら去っていきます。
   貴船川鉄輪の火かや飛ぶ蛍  (徘徊『犬子衆』三・螢)
 多くの文学や歌曲などに影響を与えてきたのも、この鍛冶屋町の「鉄輪井」です。この鉄輪の女が安倍晴明に調伏され、ついにこの鉄輪井あたりで息が絶えてしまったと言いつたえています。それで鉄輪とともに霊をとむらい「鉄輪塚」を築いたもののようです。昭和十年、鉄輪井の横にまつられている町内の氏神、命婦稲荷社を再興す建するときに、鉄輪井も「霊泉」として残すため、板の井戸枠を板石にあらため、屋根をかけました。その地ならしのとき、土の中から「鉄輪塚」の石碑が発掘され、「鉄輪社」の小祠をつくり、鉄輪大明神の御神体として納め、命婦稲荷社のよこに祀っています。
 むかしは、この鍛冶屋町は「鉄輪町」(『京雀』寛文5年・1665刊)とも呼ばれ、よく知られていたようです。また「鉄輪井」は「縁切井戸」としても有名でした。この井戸水を飲ますと、相手との縁が切れるといわれ、遠くからもこの井戸水を汲みにくる人がありました。それで、井戸に絵馬やお花が供えられていた聞いています。今は地下鉄工事などの影響で、水が涸れてしまいました。それでもペットボトルに水を入れてきて、「鉄輪井」に供えて祈り、もちかえるひともあるようです。
 この「鉄輪」の伝説は、みの町の南の本塩釜町にあったとする六条御息所邸の生霊、北にある夕顔町など、『源氏物語』の影響もあったようです。また「ある公卿の女、余りに嫉妬ぶかくして、貴船の社に詣でつつ」(『平家物語』剣巻)などのあらすじと重なり、謡曲の『鉄輪』が生まれ、鍛冶屋町の「鉄輪」伝説ともなったようです。
    鉄 輪 塚
 伝ヘ言フ。昔、嫉妬ノ女アリ。ヒトヲ呪詛ヒテ、神ニ祈リ、夜毎、丑ノ時、社参ス。終ニ、此コニオイテ、貴疲レテ死ス。シカフシテ、ソノ霊荒ルルヲモッテ、戴クトコロノ鉄輪ヲモチテ、塚ヲ築キテ、コレヲ祭ルト言ふ。
    『山州奈跡志』巻十七(沙門白慧、元禄十五年・1702三月自序)
 其の他、鉄輪井、鉄輪塚の古地誌類として、
  『出来斎京土産』(延宝五年・1677刊)
  『名所都鳥』(元禄三年・1690刊)
  『山城名跡巡行志』(宝暦四年・1754刊)
  『拾遺都名所図絵』(天明七年・1787刊)
などの抜粋古文書を、当町敬神会が保存しています。


鉄輪社と鉄輪ノ井


 現代でも、ペットボトルに水を入れて、鉄輪社に祈った後、それを持ち帰る者あり。とは、いささか背筋が寒くなるような気分であります。

 さて、謡曲『鉄輪』の詞章で、少し奇異に感じる箇所があります。それは後場の最後の場面なのですが……。

徒し男を取つて行かんと臥したる枕に立ち寄り見れば。恐ろしや御幣に。三十番神ましまして。魍魎鬼神は穢らはしや。出でよ出でよと責め給ふぞや。


 鬼となった女が男の枕辺に立ち寄り、恨みを晴らそうとしますが、そこに祀られていた三十番神に攻め立てられて、神通力を失うシーンです。三十番神は月の30日を1日ずつ分担して法華経を守護する30柱の神々ですが、貴船明神はその「三十番神」の一柱の神なのです。ということは、女に立ち向かった三十番神が貴船明神であった可能性が3.3パーセントですがあります。
 女の願いを聞き入れ、鬼となる手段を教えておいて、いざという時に女の敵となるというのは、女にとっては欺かれたと申せましよう。「貴船明神はん、それは殺生でっせ!」。それとも貴船明神の担当する日は30分の1ですから、女とは滅多なことでは当たらないのかも知れません。

 最後に『鉄輪』に関連する川柳を少々。

  胸の火が燃えて頭を手燭にし (柳多留拾遺 四・9)
  色男丑三つころに悩み出し  (柳多留 九・10)

 どちらも“丑の刻詣り”を詠んだものです。「胸の火が燃えて頭を手燭にし」とは、何ともうまく表現したものですね。




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  (平成30年10月19日、平成31年 2月 1日・探訪)
(平成31年 2月11日・記述)


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