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洛北・小町寺 〈通小町〉


 2018年10月19日、洛北の八瀬から市原の小町寺に『通小町』の謡蹟を訪ねました。
 昨夜は大原の山里で一泊し、寂光院の参拝を済ませて、バスで八瀬に到着、ここから京福電鉄で市原へ向かいます。八瀬は、比叡山と若丹山地に挟まれた高野川の渓谷にあり、ここから比叡山に登る叡山ケーブルが運行されています。


『通小町』関連地図



 当地は『通小町』の前場の舞台となっています。高野川の流れる美しい八瀬の里にひと夏を送る僧のもとへ、何処とも知らず女性一人、木の実を持って毎日訪れます。


名宣 ワキ「これは八瀬の山里に一夏いちげを送る僧にて候。こゝに何處いづくとも知らず女性によしやう一人いちにん。毎日木の實爪木つまぎを持ちて來り候。今日けふも来りて候はゞ。如何いかなる者ぞと名を尋ねばやと思ひ候
次第 ツレ「拾ふ爪木つまぎ炷物たきものの拾ふ爪木もたきものゝ匂はぬ.袖ぞ悲しき
サシ「これは市原野いちはらのあたりに住む女にて候。さても八瀬の山里に。たつとき人の御入り候程に。いつもの實爪木を持ちて參り候。今日もまた參らばやと思ひ候。いかに申し候。又こそ參りて候へ
ワキ「いつも來れる人か。今日は木の實のかず々御物語り候へ
ツレ「拾ふ木の實は何々ぞ  地「拾ふ木の實は何々ぞ  ツレ「いにしへ見馴れし。車に似たるは嵐にもろき落椎おちじひ  地歌人かじんの家の木の實には  ツレ人丸ひとまるの垣ほの柿。山の笹栗ささぐり  地「窓の梅  ツレ「園の桃  地「花の名にある櫻麻さくらあさの。苧生をふ浦梨うらなしなほもあり。いちひ香椎眞手葉椎まてばしひ。大小柑子かんじ金柑きんかん。あはれむかしの戀しきは花たちばなの.一枝ひとえだ花たちばなの一枝
ワキ「木の實の數々は承りぬ。さてさて御身おんみは如何なる人ぞ名を御名おんなのり候へ
ツレ「恥ずかしやおのが名を
「小野とは言はじ。すすき生ひたる市原野辺に住むんばぞ。跡ひ給へお僧とてかき消すやうに.失せにけりかき消すやうに失せにけり


 ツレの「拾う木の實は何々ぞ」から「花たちばなの一枝」までは、観世流大成版には表示がありませんが、『岩波日本古典文學大系・謡曲集』などでは〈ロンギ〉とされており、木の実尽くしの謡い処となっています。また大成版謡本の頭注には“段物”の表示はありませんが、一般には「果(このみ)之段」の名で親しまれています。


八瀬を流れる高野川のせせらぎ


 余談ですが当地の“かまぶろ温泉”は、壬申の乱の折、大海人皇子が背中に矢を受けた際に、村人が傷をいやすために献じたのが始まりと言われ、八瀬の地名もこの伝承から“矢背”が起源とされています。
 それでは、ここ八瀬の里よりワキ僧に伴われて、市原野へと参ろうと存ずる。

 京福電鉄鞍馬線の市原駅で下車し、少し南下すると小町寺があります。小町寺は俗称で、如意山補陀落寺が正式名称です。


《如意山補陀落寺(小町寺)》  京都市左京区静市市原町1140

 補陀落寺に関しては「京都通百科事典」のサイトなどを参照しています。
 当山は天徳3年(959)に天台座主の延昌の発願により静原にあった清原深養父(きよはらのふかやぶ)の山荘を寺にしたのが始まりといわれています。またこの地は、小野皇太后(後冷泉天皇皇后)が出家して天皇の菩提を弔うために隠棲した常寿院があった場所とも伝えられています。
 『平家物語』灌頂巻の「大原御幸の事」には、後白河法皇が大原寂光院を訪れる途次、この地を通られたとされています。すなわち、

 鞍馬通りの御幸なりければ、かの清原深養父が補陀落寺、小野皇太后の旧跡、叡覧あつて、それより御輿にぞ召されける。

とあり、補陀洛寺、小野皇太后宮の旧跡を御覧になり、そこから輿に乗られた、との記述があります。

 また当地は、小野小町終焉の地ともいわれています。ところが小町は絶世の美女と言われているにもかかわらず、その生没年は不明であり、小町のものといわれている墓所も全国に数多く存在します。生誕地については、伝承によると現在の秋田県湯沢市小野といわれており、晩年も同地で過ごしたとする地域の言い伝えが残っているようですが、確証はないようです。
 一説によれば、陸奥路まで漂泊の身を運んだ小町は、年老いて容色の衰えた身でこの市原野を訪れ、そこで朽木が倒れるように亡くなった、ともいわれているようです。
 小町寺の近くにある京都静市市原郵便局の風景印には、小野小町供養塔が描かれていました。


小野小町供養塔を描く
京都静市市原局風景印


本堂への石段

本堂


「小町寺」の扁額


 県道に面した石段を上ると、正面に小ぶりな本堂があり「小町寺」の扁額が掲げられています。本堂は平成11年に再建されたとのこと、訪れたときは無人のようで拝観できませんでしたが、堂内には平安時代の作の阿弥陀三尊像と老衰した小町像が祀られているとのことです。
 本堂の北側は墓地になっており、その入口付近に深草少将の宝篋印塔と、その奥に小野小町供養塔が祀られています。


小野小町供養塔

深草少将宝篋印塔


 小野小町が実在の人物であったのに対し、深草少将(ふかくさのしょうしょう)は室町時代に能作者が創作した架空の人物だったようです。『通小町』に描かれている小町にまつわる「百夜通い」の伝説に登場する人物で、深草の里の欣浄寺(京都市伏見区)に屋敷があったともいわれています。
 本堂の南側に、「小町姿見の井戸」と「あなめのすすき」があります。
 姿見の井戸は、水も枯れはて落ち葉が積っています。小町が姿見として使っていたということですが、晩年の容色衰えた姿を映していたのでしょうか、わびしい限りのありさまでした。


小町姿見の井戸


 「小町あなめのすすき」は、亡くなった小町の髑髏から薄が生い茂ったという、いわゆる「髑髏伝説」によるものです。
 在原業平が旅先で泊まった夜「秋風の吹くにつけてもあなめあなめ」という歌の上句を聞き、翌朝目の穴から薄の生えた小野小町の髑髏を見つけ、「小野とは言はじ薄生ひたり」と下句をつけたという話に基づいています。『古事談』の髑髏説話が『小学館日本古典文學全集・謡曲集』に掲載されていますので、以下転載します。

 業平朝臣、二条ノ后ヲ盗ミテマサニ去ラントスル間、兄弟達追ヒ至リテ奪ヒ返ス時、業平ノ本鳥(もとどり)ヲ切ルト云々。ヨツテ髪ヲ生ヤス程、歌枕ヲ見ルト称シ、関東ニ発向シケリ。
 奥州八十嶋ニ宿リケル夜、野中ニ和歌ノ上句ヲ詠ズル声有リ。ソノ詞ニ曰ハク、秋風ノ吹クニツケテモ穴目々々ト。音ニ就キテコレヲ求ムルニ人無ク、只一ツノ髑髏有リ。明日猶コレヲ見ルニ、件(くだん)ノ髑髏ノ目穴ヨリ薄(すすき)生ヒ出デタリケリ。風ノ吹ク毎ニ薄ノナビク音此(かく)ノゴトク聞エケリ。奇怪ノ思ヒを成スアヒダ、或ル者云ハク、小野小町コノ国ニ下向シ、コノ所ニテ逝去ス。件ノ髑髏ナリト云々。ココニ業平憐哀(あはれみ)ヲ垂レ、下句ニ付ケテ云ハク、小野トハイハジ、薄生ヒケリト云々。


あなめのすすき


 この「小町あなめのすすき」伝承については、謡曲の前場の最期の部分(上記謡曲の詞章に続く部分)で以下のように描かれています。これは業平の奥州八十嶋での出来事を、あたかも市原野でのように作り変えたものでしょう。もしまことに市原野辺で「あなめあなめ」の歌を聞いたのであれば、ここ小町寺あたりにも髑髏伝説が存在したのかも知れませんが…(?)。


ワキ「かゝる不思議なる事こそ候はね。只今の女の名をくはしく尋ねて候へば。小野とは言はじすすき生ひたる。市原野いとはらのに住むんばと申しかき消すやうに失せて候。こゝに思ひ合はする事の候。或人市原野を通りしに。薄一叢ひとむら生ひたる蔭よりも。秋風の吹くにつけてもあなめあなめ。小野とは言はじ薄生ひけりとあり。これは小野小町の歌なり。さては疑ふ所もなく只今の女性によしやうは。小野小町の幽霊と思ひ候程に。かの市原野に行き。小町の跡をとむらはばやと思ひ候
上歌「この草庵を立ち出でゝ。この草庵を立ち出でゝ。なほ草深く露しげき市原野辺に尋ね行き。座具ざぐべ香を
「南無幽霊成等じやうとう正覚しやうがく出離しゆつり生死しやうじ頓証とんしよう菩提ぼだい


 境内を散策していますと、山号の「如意山」を刻した宝篋印塔や、小野皇太后の供養塔がありました。


如意山

小野皇太后供養塔


 小野皇太后の略歴は以下のようです。

 後冷泉天皇の皇后。藤原教通の三女で名は藤原歓子。永承二年(1047)入内、翌年女御となる。治暦四年(1068)皇后に冊立され、承保元年(1074)皇太后となったが、すでに永承六年(1051)頃から洛北比叡山麓の小野に籠居し、仏教に深く帰依して念仏三昧の日々を送っており、小野皇太后とも呼ばれる。


 それでは『通小町』について考察いたしましょう。


   謡曲「通小町」梗概
 古くは『四位少将』といった。『申楽談義』に「小町(卒都婆小町)、自然居士、四位の少将(通小町) 以上、観阿作」「四位の少将は、根本、山徒に唱導の有りしが書きて、金春権守多武峰にてせしを、後書き直さる」とあり、比叡山衆徒の唱導師(民衆教化のため説法を行った僧)の手になる原作を観阿弥が作り直し、世阿弥がさらに手を加えたものとされている。『古事談』『歌論議』などに典拠する。

 八瀬の山里に住む層のもとへ、木の実と柴を持った、年老いた小町の化身と思しき里女がいつもの通り現れる。女は木の実の数々について語り、小野小町の名をほのめかし、僧に回向を願って立ち去る。
 僧が市原野へ行き小町の跡を弔うと、かつての若かりし小町の霊に続いて深草少将の霊も現われ、僧の戒を受け成仏しようとする小町を引き留める。少将は小町のもとへ通った百夜通いのありさまを再現して見せ、やがて小町・少将ともに成仏するのである。

 作能形式が固定する以前の、類型にとらわれない形が注目される。
 小町が亡霊で登場する作品で、ツレとして扱われている作品は、現行曲では本曲のみである。


 主人公である小野小町(本曲のシテは深草少将ですが)は、クレオパトラ・楊貴妃と並んで「世界三大美女」のひとりとも称され、その歌は百人一首にも選ばれ、六歌仙の一にも数えられた実在の人物ですが、その実像ははっきりとしません。冒頭でも述べましたが、生没年も来歴も明確なものはありません。『徒然草』173段に、

小野小町が事、きはめてさだかならず。衰へたるさまは、玉造と言ふ文(ふみ)に見えたり。この文、清行(きよゆき)が書けりといふ説あれど、高野大師の御作の目録に入れり。大師は承和(じょうわ)のはじめにかくれ給へり。小町が盛りなる事、その後の事にや、なほおぼつかなし。

 ここでいう「玉造といふ文」とは『玉造小町子壮衰書』です。平安中期ないし末期に成立した長文の序をもつ古詩で、老いさらばえて町を徘徊する女が、往時の贅沢の限りと、零落して惨憺たる乞丐人と成り下がるまでを描いた仏教的な教訓書です。この物語の主人公は小野小町ではありませんが、小町の物語として読み継がれてきており、小町像の形成に多大の影響を与えています。

 一方、シテの深草少将は架空の人物ですが、この人物にについて林望氏は以下のように述べています。

 小町のもとへ忍んで通っていた男性の一人が“深草の帝”とも称せられた仁明天皇であると思われる。次に『大和物語』に“良少将”として登場する左近衛少将良岑宗貞(よしみねのむねさだ)、後の僧正遍照であるり、小町から宗貞に送った艶冶な戯れの歌がある。さらに、これまた色好みとして名高い在原業平も小町と相識る仲であったようで『伊勢物語』に“色好みなる女”からの返歌として小町の歌が登場している。この業平の最終官位は“従四位上右近衛権中将”であった。かくして、「深草・少将・四位」が小町を巡って顔をそろえ、これらの色好みの男たちを集合して「深草四位少将」という人物が造形されたものであろう。(『観世』能楽逍遥「通小町の向こうには」平成19年2月号を参照)

 深草少将の他の作品への登場については、『土車』のワキ僧が「深草少将のなれる果」とされており、ここでの深草少将は妻に死別して子供を捨てて出家しています。その子の“傅(ふ・めのと)”の小次郎がシテとして登場していますので、ある程度の身分であったものと思われます。けれども本曲の深草少将と同一人物か否かは定かではありません。また『卒都婆小町』にも「百夜通い」が語られていますが、深草少将は登場人物ではありません。
 さて、市原野を訪ねたワキが、小町の願いにより弔いを始めようとすると、深草少将の亡霊が出現し、小町だけが回向により成仏しても、自分は百夜通いの未練が残り浮かばれないと小町の願いを退けます。通常このような場合、愛人同士が同じ心で回向を願うものですが、本曲ではまったく趣を異にしています。そして僧の勧めにより少将は「百夜通ひし所をまなうで」見せるのですが、気持ちが次第に高ぶり「月をは待つらん。我をば待たじ」というあたりで最高潮に達します。『申楽談義』にも、

 四位の少将の能、事多き能也。犬王はえすまじき也と申しける也。ひと向きに成共せば、大和の囃子にてすべき、と申しけるとかや。「月は待つ覽、月をば待つらん、我をば」の所、一建立成就の所也。
(『通小町』は手数の多い能で、犬王は「自分には演じ難い能で、たってしょもうされたなら大和の囃子で演ずるほかあるまい」と評した。「月は待つらん、月をばまつらんわれをば」ここが、舞台と観客が一つになる山場である。)

と記されています。犬王は近江申楽の日吉(ひえ)座大夫。舞を中心とした幽玄な芸を得意としたもので、このような物真似芸は、まったく異質であったものでしょうか。

 それでは、謡曲に描かれた「百夜通い」の有様を以下に。


シテ「思ひも寄らぬ車のしぢに。百夜ももよ通へといつはりしを。まことと思ひ。あかつき毎に忍び車の榻にゆけば  ツレ「車の物見ものみもつゝましや。姿を變へよと言ひしかば  シテ輿こし車は言ふに及ばず  ツレ「いつか思ひは  地「山城の木幡こはたの里に馬はあれども  シテ「君を思へばかち跣足はだし  ツレ「さてその姿は  シテ「傘にみの  ツレ「見の憂き世とや竹の杖  シテ「月には行くもくらからず  ツレ「さて雪には  シテ「袖をうちはら  ツレ「さて雨の  シテ「目に見えぬ。鬼一口ひとくちも恐ろしや  ツレ「たまたま曇らぬ時だにも  シテ「身一人ひとりに降る。涙の雨か 〈立廻〉

シテ「あら暗の夜や  ツレ「夕暮れは一方ひとかたならぬ。思ひかな  シテ「夕暮れは何と  地「ひとかたならぬ。思ひかな  シテ「月は待つらん月をば待つらん。我をば待たじ。虚言そらごと  地「あかつきは。あかつきは。數々かずかず多き。思ひかな  シテ「我が為ならば  地「鳥もよしり。鐘もたゞ鳴れ。夜も明けよたゞ獨寝ひとりねならば。つらからじ

シテ「かやうに心を。つくしつくして  地「かやうに心を盡し盡して。しぢの數々。よみて見たれば。九十九夜くじふくよなり。今は一夜ひとよよ嬉しやとて。待つ日になりぬ。急ぎて行かん。姿は如何に  シテ「笠も見苦し  地風折かざおり烏帽子ゑぼし  シテ「蓑をも脱ぎ捨て  地花摺はなすりごろも  シテ色襲いろがさね  地「裏紫の  シテ藤袴ふぢばかま  地「待つらんものを  シテ「あら忙しや。すははや今日けふ  地「くれなゐの狩衣かりぎぬの。衣紋ゑもんけたかく引きつくろい。飲酒おんじゆは如何に。月の盃なりとても。いましめならば保たんと。唯一念いちねんの悟りにて。多くの罪をめつして小野の小町も少将も。共に佛道ぶつだう成りにけり共に佛道なりにけり


 深草少将は百夜通いのありさまを再現するのですが、これから少将の人物像を探ってみましょう。本曲に描かれている限りにおいては、少将は少々女々しく、僻みっぽい性格であると感じられます。「二人見るだに悲しきに…」と、独りぼっちにされるのが耐えられないと嘆いたり、「煩悩の犬となって打たるゝと。離れじ」と小町に取りすがったりと、しつこくて男らしくない有様です。さらに上記の詞章にあるように、「小町は月を待っても、私を待ってくれない」と僻みっぽく嘆くかと思えば、「明け方を告げる鶏の声も、鐘の音も、独り寝だから辛くない」などと、痩せ我慢で強がってみたり…。引く手あまたの小町にいわせれば「何ともみっともないったらありゃ~しないワ」ということになりましょう。現代でいえば少将はややストーカー気味であります。その少将が最後に仏の戒めである飲酒戒を守ったことにより、多くの罪業を消滅させ、小町と共に成仏するという結末には、あまりにも短絡的でいささか抵抗がありますが、そこらあたりが能の能たる所以かも知れません。

 本曲の前場の女は「市原野辺に住む姥ぞ」と名のるように、小町の化身の老女ですが、現在では後ツレを同じ姿のまま演じるために、若い女の姿で登場します。(大成版の前附でも、ツレの著付は“紅入唐織”となっています。)
 この演出では謡曲の詞章にある“姥”とは一致しませんので、唐織を紅ナシにして、面を中年の〈深井〉などに替える演出により時おり上演されることがあります。
 また〈果之段〉を強調するべく、この段の前に現在上掛では省略されている以下の〈サシ〉謡を復活した演出もあるようです。(〈サシ〉の詞章は『岩波古典文學大系・謡曲集』による)

ツレ(かたじけ)なきおん譬へなれどもいかなれば悉達(しつだ)太子は、浄飯王(じやうばんわう)の都を出て、檀特山(だんどくせん)の嶮しき道、菜摘み水汲み薪とりどり、さまざまにおん身を窶(やつ)し、仙人に仕へ給ひしぞかし、いはんやこれは賤の女の、摘み慣らひたる根芹(ねぜり)若菜、わが名をだにも知らぬほど、卑しき軽きこの身なれば、重しとは持たぬ薪なり。




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  (平成30年10月19日・探訪)
(平成31年 2月25日・記述)


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