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京都・羅城門遺址 〈羅生門〉


 源の頼光は、大江山の鬼を退治し、その名は天下にとどろきました。太平の世が続くある春の夜、頼光は、渡辺の綱や平井保昌などの家臣を集めて、長雨のつれづれを慰めようと、酒宴を催しておりました。


頼光「いかに面々。さしたるきようも候はねども。この春雨の昨日今日。晴間はれまも見えぬ徒然に。今日も暮れぬと告げ渡る。聲も淋しき入相いりあひの鐘
上歌 地「つくづくと。春の長雨ながめの淋しきは。春の長雨の淋しきは。しのぶつたふ。軒の玉水たまみづ音すごく。ひとり眺むる夕まぐれ。ともなひ語らふ諸人もろびとに。御酒みきを勧めて盃を。とりどりなれや梓弓あづさゆみ弥猛心やたけごころの一つなる。武士もののふの交はり頼みある仲の酒宴かな。
クセ「思ふ心のそこひなく。たゞうちけてつれづれと。降り暮したる宵の雨。これぞ雨夜あまよの物語
頼光「しなじな言葉ことばの花も咲き  地「匂ひも深きくれなゐに。おもてもめでゝ人心。隔てぬ仲の戯れは。面白や諸共もろともに。近く居寄ゐよりて語らん


 酒宴もたけなわ、頼光の「近頃珍しいことはないか」との仰せに、平井の保昌が羅生門に鬼が棲んでいるとの噂を語ります。綱はこれを聞き咎め、「土も木も我が大君の国なれば」、そのようなことのある筈がないと反論。保昌と綱の口論となり、ついに綱は噂の真偽を確かめるため羅生門に行く決意を披露し、行ったという証拠に門に立ててくる物を頼光に請い、頼光はお札を綱に与えます。綱は“標(しるし)”を賜り、颯爽と羅生門へと出で立ちました。


保昌「さてはそれがし偽りを申すとおぼし召し候か。この事世上せじやうに隠れなければ申すなり。まこと不審に思し召さば。今夜こんにやにてもあれかの門に御出おんにであつて。まことか偽りか御覧候へ
ワキ「さては某参るまじき者とおぼし召され候か。そのにて候はゞ。今夜かの門に行き。まことか偽りかを見候べし。しるしを賜り候へ
ワキツレ「滿座のともがら一同に。これは無益むやくと支へけり
ワキ「いや保昌はうしやうに對し野心は無けれども。一つは君の御為なれば。しるしべと申しけり

頼光「げにげにつなが申す如く。標を立てゝかへるべしと。ふだを取り出でびければ
ワキつなしるしを賜はりて
「綱は標を賜はりて。御前ごぜんを立つて出でけるが。立ち歸り方々かたがたは。人の心を陸奥みちのくの。安達原にあらねども。こもれる鬼を從へずは。二度ふたたびまた人に。おもてを向くる事あらじ。これまでなりや梓弓あづさゆみ。引きは返さじ武士もののふの。弥猛やたけごころぞ.恐ろしき弥猛心ぞ恐ろしき



 さて綱は、兜に身を固め、夜更けの雨が降りしきる中を、馬を駆って羅生門へとやってまいりました。やってきた証拠に、頼光より賜った標の札を門の壇上に置いて帰ろうとすると、何者かが兜をつかんで引き止めました。


サシ 後ワキ「さても渡辺の綱は。たゞ假初かりそめの口論により。鬼神きじんの姿を見ん為に。物具もののぐ取つて肩に懸け。同じ毛の兜の緒を締め。重代ぢうだいの太刀を
一セイ 地たけなる馬にうち乘つて。舎人とねりをも連れず唯一騎。宿所を出でゝ二條大宮を。南頭みなみがしらに歩ませけり
上歌「春雨の。音もしきりに更くるの。音も頻りに更くる夜の。鐘も聞ゆる曉に。東寺とうじの前をうち過ぎて。九條おもてにうつて出で。羅生門を見渡せば。物凄ものすさましく雨落ちて。俄かに吹き来る風の音に。駒も進まず。高嘶たかいななききし。身ぶるひしてこそ立つたりけれ

ノル「その時んまを乘り放し。その時馬を乘り放し。羅生門の石壇いしだんあがり。しるしふだを取りいだし。壇上に立て置き歸らんとするに。うしろより兜のしころつかんで引き留めければ。すはや鬼神きじんと太刀抜き持つて。らんとするに。取りたる兜のを引きちぎつて。おぼえず壇より飛びりたり



 後ろから綱を襲ったのは羅生門に棲む鬼でした。太刀を抜き持った綱は、鉄杖を振りかざして挑みかかる鬼と渡り合い、ついに鬼の片腕を斬り落とします。鬼は「時節を待ちて、また取るべし」と言い残して虚空に消えてゆきました。かくて綱は勇名を天下にとどろかせたのでした。


ノル「かくて鬼神きじんは怒りをなして。かくて鬼神は怒りをなして。持ちたる兜をかつぱと投げ捨て.その丈皐門かうもんの軒に等しく.兩眼月日つきひの如くにて。綱をにらんで立つたりけり 〈働〉
ワキ「綱は騷がず太刀さしかざ
「綱は騷がず太刀さし翳し。汝知らずや王地わうぢを犯す。その天罰は。のがるまじとて懸りければ。鐵杖てつちやうを振り上げ。えいやと打つを。飛びちがひちやうと斬る.斬られて組みつくを。拂ふつるぎに腕打ち落とされ.ひるむと見えしがわき築地つぢに登り。虚空をさしてあがりけるを。慕ひ行けども黒雲くろくも覆ひ。時節を待ちてまた取るべしと。ばはる聲も。かすかに聞ゆる鬼神おにかみよりも。恐ろしかりし。綱は名をこそ。げにけれ



 謡曲『羅生門』の展開を謡曲の詞章を通して眺めてみました。
 本曲は、『大江山』『土蜘蛛』と並ぶ、いわゆる“頼光武勇譚”三部作の一つで、源頼光とその家臣である渡辺綱などの活躍を描いたものです。
 『羅生門』の主人公である渡辺綱は、Wikipedia によりますと、武蔵国足立郡箕田郷(現在の埼玉県鴻巣市)の生まれ。摂津源氏の源満仲の娘婿である仁明源氏の源敦の養子となり、母方の里である摂津国西成郡渡辺〈現在の大阪市中央区〉に居住します。摂津源氏の源頼光に仕え、頼光四天王の筆頭として剛勇で知られています。
 上に紹介した謡曲の『羅生門』は『平家物語・剣巻(つるぎのまき)』「渡辺の綱鬼を切る事」に典拠しています。
 それでは、その原典である『平家物語・剣巻』を以下に。(水原一校注『新潮日本古典集成・平家物語』新潮社、1981)


 そのころ、頼光よりみつの郎等に「渡辺の源四郎つな」といふ者あり。 (中略) 頼光の使として、一条大宮につかはしけるが、夜陰におよびむまに乗り、「おそろしき世の中なれば」とて、鬚切ひげきりかせらる。一条堀河の戻橋もどりばしにて、よはひ二十あまりの女房の、まことにきよげなるが、紅梅こうばい薄衣うすぎぬの袖ごめに法華経持ち、懸帯かけおびして、まぼりかけ、ただ一人行きけるが、綱がうち過ぐるを見て、「夜ふけ、おそろしきに、送り給ひなんや」となつかしげん言ひければ、綱、馬より飛んでおり、「子細しさいにやおよび候べき」とて、いだいて馬に乗せ、わが身も後輪しづわにむずと乗り、堀河の東を南へ行きけるに、女房申すやう、「わが住む所は都のほか。送り給はんや」。「さんざふらふとこたへければ、「わが行く所は愛宕山あたごさんぞ」とて、綱がもとどりひつつかんで、いぬゐをさして飛んで行く。綱はちともさわがず、鬚切を抜きあはせ、「鬼の手切る」と思へば、北野のやしろの回廊の上にぞ落ちにける。髻につきたる手を取つてみれば、女房の姿にては雪のはだへとおぼえしが、色黒く、毛かがまりて小縮こちぢみなり。


 この物語は「一条戻り橋での鬼退治」としてよく知られた伝承で、私も小さいころ寝物語に母から聞いた記憶があります。頼光の四天王の筆頭である渡辺の綱が、一条戻り橋で美女に化けた鬼の片腕を斬り落としたというお話ですが、『平家物語・剣巻』にはその後日譚が語られています。すなわち…、

 綱は自宅に籠って鬼の腕を守っていると、伯母が訪ねてきました。伯母は話のついでにこの厳重な物忌みを綱に尋ねます。綱は、伯母にいきさつをはなし、鬼の片腕をつい見せてしまいました。伯母は鬼の腕を眺めていましたが、「これは吾が手だ、持っていくぞ。」と言うと、突然鬼となって飛び上がり、虚空に消えてしまいました。

…というものです。
 この一条戻り橋を羅城門に置き換えたのが、謡曲の『羅生門』です。

 羅城門(羅生門)は、平安京のメインストリートである朱雀大路の南端に設けられ、都の表玄関の役割を果たしたものです。10世紀後半には倒壊した模様ですが、それ以前から荒廃して浮浪者や群盗などの塒となり、または死骸の捨て場所ともなっていたようです。そのあたりの様子を示すものとして『今昔物語』に以下のような記述がみられます。(阪倉篤義他校注『新潮日本古典集成「今昔物語修」』1994、新潮社)


 今は昔、摂津の国のほとりよりぬすみせむが為に京に上りける男の、日の未だ暮れざりければ、羅城門らせいもんの下に立隠れて立てりけるに、朱雀の方に人しげく行きければ、人の鎮まるまでと思ひて、門の下に待ち立ちけるに、山城の方より人共ひとどもあまた来たる音のしければ、其れに見えじと思ひて、門の上層うはこしやはら掻きつき登りたりけるに、見れば火ほのかにともしたり。
 盗人ぬすびとあやしと思ひて連子れんじよりのぞきければ、若き女の死にて臥したる有り。其の枕上まくらがみに火を燃して、年いみじく老いたるおうな白髪しらが白きが、其の死人の枕上に居て、死人の髪をかなぐり抜き取るなりけり。
 盗人此れを見るに、心も得ねば、「此れはし鬼にやあらむむと思ひておそろしけれども、「若し死人にてもぞ有る、おどして試みむ」と思ひて、やはら戸を開けて刀を抜きて、「おのれは」と云ひて走り寄りければ、おうな手迷てまどひをして手を摺りてまどへば、盗人、「は何ぞの嫗のくはし居たるぞ」と問ひければ、嫗。「己が主にておはしましつる人のせ給へるを、あつかふ人の無ければ、くて置き奉りたるなり。其の御髪みぐしたけに余りて長ければ、其れを抜き取りてかつらにせむとて抜くなり。助け給へ」と云ひければ、盗人、死人の着たるきぬと嫗の着たる衣と、抜き取りてある髪とを奪ひ取りて、走りて逃げてにけり。
 て其の上のこしには死人のなきがらぞ多かりける。死にたる人のはうぶりなど否為えせぬをば、此の門の上にぞ置きける。此の事は、其の盗人の人に語りけるを聞きぎて、く語り伝へたるとや。


 羅城門の荒廃したありさまは『今昔物語集』に描かれているとおりですが、謡曲にあるように、羅城門に鬼が出没するという噂話も、あながち根拠のないものではなかったと思われます。
 また『十訓抄』にも“羅城門の鬼”についての記述があります。(永積安明『十訓抄』岩波文庫、1942)


 都良香みやこのよしか、羅城門の前をすぐるとて、「気晴れて風は新柳の髪をけづる」と詠じたりければ、楼のうへに声ありて、「氷消えて浪は旧苔きうたいの鬢を洗ふ」とつけたりけり。良香、菅丞相の御前にて、此詩を自嘆し申しければ、「下句の鬼のことばなり」とぞ仰られける。


 以上、謡曲の『羅生門』と、その典拠である『平家物語』、さらに『今昔物語』と『十訓抄』に描かれた荒廃した羅生門の様子を眺めてみました。
 “羅生門”といえばすぐに思いつくのは、芥川龍之介の短編小説『羅生門』と、黒澤明監督作品の映画『羅生門』です。
 芥川龍之介の『羅生門』はこの『今昔物語集』に基づいて書かれたので、生きるための悪という人間のエゴイズムを克明に描いています。以下そのストーリーの概要です。

 ある暮れ方、荒廃した羅生門の下で若い下人は、2階に人の気配を感じて、興味を覚え上へ昇ってみた。楼閣の上には身寄りの無い遺体がいくつも捨てられていたが、老婆が松明を灯しながら、若い女の遺体から髪を引き抜いている。襲いかかった下人に対し老婆は「抜いた髪で鬘を作ることは、悪いことだろう。だが、それは自分が生きるための仕方の無い行いだ。ここにいる死人も、生前は同じようなことをしていたのだ。それは、生きるために仕方が無く行った悪だ。だから自分が髪を抜いたとて、この女は許すであろう」と自身の行いを説明する。髪を抜く老婆に正義の心から怒りを燃やしていた下人だったが、老婆の言葉を聞いて勇気が生まれる。そして老婆を組み伏せて着物をはぎ取るや「己(おれ)もそうしなければ、餓死をする体なのだ」と言い残し、漆黒の闇の中へ消えていった。下人の行方は、誰も知らない。

 黒澤明による映画『羅生門』(1950年)は、芥川龍之介の短編小説『藪の中』を原作としていますが、『羅生門』から舞台背景、着物をはぎ取るエピソード(映画では赤ん坊から)を取り入れています。出演は三船敏郎、京マチ子、森雅之、志村喬など。退廃を極めた平安時代の京の都。荒れ果てた羅城門で、ある変死事件の目撃者や関係者がそれぞれ食い違った証言をする姿をそれぞれの視点から描き、人間のエゴイズムを鋭く追及した作品です。日本映画として初めてヴェネツィア国際映画祭金獅子賞とアカデミー賞名誉賞を受賞しています。


 それでは、現在の羅生門の様子は如何に?……ということにて、2019年6月19日、「羅城門遺址」を訪れました。

「羅城門跡」周辺地図


 前述しましたように、かつて平安京のメインストリートである朱雀大路の南端に設けられ、都の表玄関の役割を果たしたのが羅城門ですが、10世紀末に倒壊したまま再建されることなく放置され、現在では「唐橋羅城門公園」にある「羅城門遺址」の石柱が、わずかにその存在を伝えています。
 近鉄東寺駅から1キロ弱、東寺の西方約 300メートル、九条通りに面して矢取地蔵を祀る小祠があります。その奥にある小さな児童公園の中央に「羅城門遺址」の石柱が、鉄柵に囲まれてポツンと立っておりました。


矢取地蔵尊の祠

唐橋羅城門公園

 地蔵堂の前には矢取地蔵尊の由緒を記した駒札が建てられています。羅城門とは直接関係はありませんが、内容がちょっと面白いので、以下にご紹介します。

 本尊は矢取地蔵尊。石像で右肩に矢傷の跡が残っている。左手に宝珠、右手に錫杖、矢を持つ。かつては矢負地蔵とも呼ばれた。
 天長元年( 824)、日照り続きで人々は飢えと渇きに苦しんでいた。そのため淳和天皇の勅命により、東寺の空海と西寺の守敏(しゅびん)僧都が神泉苑の池畔で雨乞いの法会を行なった。
 先に守敏が祈祷するも雨は降らなかった。対して、空海が祈祷すると三日三晩にわたり雨が続き、国土が潤った。
 これにより守敏は空海を恨み、ついに空海を羅城門の近くで待ち伏せて矢を射かけた。すると一人の黒衣の僧が現れ、空海の身代わりとなって矢を受けたため、空海は難を逃れた。
 空海の身代わりとなった黒衣の僧は地蔵菩薩の化身であったため、その後の人々はこの身代わり地蔵を矢取の地蔵と呼び、羅城門の跡地であるこの地に地蔵尊を建立し、長く敬ってきた。現在の地蔵堂は明治18年(1885)に唐橋村(八条村)のひとびとにより寄進され建立されたものである。



「羅城門遺址」の石柱


 羅城門について、もう少し詳しく調べてみましょう。以下は Wikipedia を参照しています。

 羅城門は、古代日本の都城の正門。朱雀大路の南端に位置し、北端の朱雀門と相対する。後世に「羅生門」とも呼ばれる。
 文献上では、『日本紀略』において弘仁7年( 816)8月16日夜に大風で倒壊したと見えるほか、その後に再建された門も『百錬抄』によれば天元3年( 980)7月9日の暴風雨で倒壊したと見え、以後は再建計画が上がるも実際に再建されることはなかった。ただし『今昔物語集』「羅城門上層ニ登リテ死人ヲ見シ盗人ノ語」によれば、倒壊以前にはすでに荒廃しており、上層では死者が捨てられていた。『小右記』では、11世紀前半頃に藤原道長が法成寺建立に際して礎石を持ち帰ったと見え、当時には礎石のみの状態であった。そのほか、羅城門の鬼に関する謡曲「羅生門」などの様々な怪奇譚が知られる。
 遺構については、数回の発掘調査が実施されているが、現在までに確認には至っていない。現在羅城門跡付近に残る「唐橋」の地名は、羅城門前のそうした溝に架けられた橋に因むとされる。


 『今昔物語集』にあるように、羅城門は倒壊する以前からかなり荒れはてており、盗賊の住家ともなっていたようです。謡曲にあるように、羅生門に鬼が出没するという噂話も、あながち根拠のないものではなかったと思われます。
 羅城門は東寺の西方 300メートルほどのところにありました。綱が鬼退治に出向いた折には、東寺の前を通り、寺の鐘の音を耳にしたかもしれません。
 東寺の五重塔と、綱が東寺の前を過り羅生門に向かうところを描いた謡曲の詞章を以下に。


東寺五重塔

上歌 地「春雨の音もしきりに更くるの。音も頻りに更くる夜の。鐘も聞ゆる曉に。東寺の前をうち過ぎて。九條おもてにうつて出で。羅生門を見渡せば。物凄ものすさましく雨落ちて。にはかに吹き来る風の音に。駒も進まず。高嘶たかいななきし。身ぶるひしてこそ立つたりけれ



 かなり後回しになってしまいましたが、謡曲『羅生門』について考察いたします。


   謡曲「羅生門」梗概
 作者は観世小次郎信光。古くは『綱』といった。観世・宝生・金剛・喜多の4流の現行曲。『平家物語剣巻』の、渡辺の綱が鬼の腕を斬る話や、『今昔物語』『十訓抄』にある羅城門に鬼が住んでいた話などに典拠したものであろう。
 本曲の特色として、シテの登場は後場の後半のみで、しかも謡が一句もない。内容の上からも、舞台面・縁起面でも中心となっているのはワキとワキツレである。前場は室内の主演の場における言葉争い、後場は慎也の人気のない羅生門での無言のうちに繰り広げられる力と力の争い、という対照的な設定を通して、ワキ(渡辺綱)の武士としての闘争心が描かれている。
 したがって、事実上の主役はワキであり、ワキ方中心の能である。前場の酒宴ではワキの舞う場面があり、ワキの仕舞として注目に値する。なお、シテに謡がない曲は、他に『室君』のみである。
 信光の作品は本曲をはじめ『船弁慶』『玉井』『張良』『紅葉狩』『吉野天人』などに代表されるように、華麗な扮装や歌舞、大がかりな作り物、多数の登場人物が醸し出すショー的・スペクタクル的な性格の濃さやワキの活躍による劇的展開の多様性などを特色としている。
 信光の能の特色として、本曲や『船弁慶』『紅葉狩』『皇帝』といった霊験物や鬼退治物のシテとワキ(ワキツレ)との闘争を描く結末の〈ノリ地〉の詞章に、しばしば主語が省略されているため、そのままではやや判りにくい点がある。本曲の場合で言えば、
……(鬼神は)鐵杖を振り上げ。えいやと打つを。(綱は)飛び違いちやうと斬る.(鬼神は)斬られて組みつくを。(綱が)拂ふ剣に (鬼神は)腕打ち落とされ.怯むと見えしが脇築地に登り。虚空をさして上りけるを。(綱は)慕ひゆけども黒雲多ひ。……
のごとくである。
 本曲および『平家物語剣巻』によれば、「頼光武勇譚」の三部作の順は、『大江山』『羅生門』『土蜘蛛』となる。『大江山』は頼光を中心に保昌・季武・綱・金時・独武者(ひとりむしゃ)、『羅生門』は綱、『土蜘蛛』は独武者の活躍を描いている。



 最後に本曲に関連した川柳を数句拾ってみました。

  つわものの交わりもするむすめなり
  羅生門綱おれが行くべいと言ひ
  夜話が嵩じて札を立てに行き
  弓手には外科をさらつて大江山
  渡辺は酒宴なかばへさげて来る
  羅生門綱は味噌こそ上げにけり
  ああも似るものかと綱はくやしがり

 初句・諸藩の江戸在住の留守居役は交際役で、政治折衝をする役目ですが、その宴席に侍る踊り子はなれなれしく振舞ったようです。謡曲の「武士(もののふ)の交はり頼みある仲の酒宴かな」を引いたもの。
 二句目・三句目、渡辺綱については上に述べたように、生まれは武蔵の国で向うっ気が強く、酒宴の最中に羅生門の鬼の話を聞くと言い争いになり、雨中出かけて行きました。関東の“ベイベイ”言葉で「俺が行くべい」というところが面白い。
 四句目、綱に斬り落とされた腕は右手だったようです。鬼は左手で外科医をかっさらって大江山へと逃げていった、ということですが、大江山の鬼はすでに退治されていますから、ちょっとおかしいかも…? 一説にはこの鬼は茨木童子であったとか。
 五句目、綱は斬り落とした鬼の腕をひっさげて持ち帰り、頼光に報告しますが、それはまだ酒宴の最中だったとか…。
 六句目、羅生門で綱は有名になりました。謡曲の最後の詞章「綱は名をこそ。揚げにけれ」の文句取りですが、いささか“手前味噌”ではないかという、川柳作者の皮肉でしょうか。
 七句目、鬼は綱の伯母に化けて腕を取り戻しにやってきました。綱は「いや~、鬼のやつめ、伯母さんによく似ていたな~」と、くやしがることしきりであったでしょう。




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  (令和元年 6月19日・探訪)
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