謡曲の先頭頁へ
 謡蹟の先頭頁へ

薩摩川内・鳥追杜 〈鳥追舟〉


 2019年8月3日、薩摩川内市に鳥追舟の謡蹟を訪ねました。このところ列島は猛暑日が続き、この日も茹だるような暑さでありました。

「鳥追舟」謡蹟探訪地図


 JR川内駅を降りると、このあたりは“鳥追町”と呼ばれており、駅前のロータリーには、能『鳥追舟』の像が出迎えてくれます。各地の駅前ロータリーなどではいろいろな像を見かけますが、能の舞姿を描いたものは極めて珍しいと思います。この像は、当地を能『鳥追舟』の里として、「未来へ語る歴史像」の主題のもとに、平成16年に建てられたものです。以下はその碑文です。

 『鳥追舟』は、室町時代の金剛弥五郎の作といわれ、ここ川内が舞台となっています。川内の「日暮長者伝説」をもとに作られたもので、現在、演じられる能の中で薩摩国が舞台となっているのは、この「鳥追舟」のみです。

 ~「鳥追舟」(抄)~
 薩摩国の日暮殿は、訴訟のため京へ上り、はや十余年が経った。留守を任された家来の左近尉(さこのじょう)は、日暮殿の妻である北の方と息子の花若に田に群がる鳥を舟で追わせた。帰郷した日暮殿は、この様子に怒り、左近尉を斬ろうとしたが、北の方が許すよう願ったため、左近尉は許された。その後花若が家を継ぎ、久しく栄えた。

 「鳥追の社(とりおいのもり)」や「母合橋(ははあいばし)」、「日暮の岡(ひぐらしのおか)」などのゆかりの地が、物語や登場人物を今も、偲ばせています。
 この像から川内の歴史が未来に語り継がれていくことを願うものです。


「鳥追舟」の像


 前述の碑文に『鳥追舟』の概要が記されていますが、あらためて、謡曲『鳥追舟』について眺めてみましょう。


   謡曲「鳥追舟」梗概
 金剛弥五郎の作とも伝えられるが、作者は未詳。典拠も未詳である。日暮の里については、大成版一番本に「『三国名所図会』に、「日暮里。東手村称名寺の跡にあり。縦二丁・横一町ばかりの阜なり。今は林叢或は陸田となれり」とあって、東手村は、今薩摩郡川内川の下流に臨んでいる点は、本曲のワキの詞に『この日暮の里と申すは、前に大河流れ末は海に続けり』とあるのに、よく符合するのみならず、その外同郡隈之城(川内町に近く、その東南に当っている)付近の民族に、秋季禾穀を啄む諸鳥を追い払う為畦堰に楼を設けて鼓を撃ち、或は水上に小舟を泛べて楽器を奏し、声を立てゝ害鳥を嚇す、その様子が恰も祭のようである、という事も伝えられているから、作者はこうした土俗を伝聞し、それを脚色したものであろう」と述べられている。


 九州薩摩の日暮殿(ワキ)は訴訟のため、家に妻子を残し在京十余年に及んでいたが、その留守を預かる家人の左近尉(ワキツレ)は、主人の北の方(シテ)と幼い花若(子方)とに、舟に乗り田の塵を追えと要求する。北の方がその無礼を咎めると、かえって母子とも家から追い出そうとするので、涙ながら母子とは鳥追いに出かける。
 一方、訴訟ことごとく安堵した日暮殿は、供人(アイ)を伴い帰国して、笛・鼓を打ち鳴らして鳥を追う舟を見物する。それしは知らず左近尉は、気の進まぬ北の方・花若を舟に乗せ、鼓・鳴子を打ち鳴らして鳥を追う。日暮殿が舟を近づけよく見るとわが妻子であったので、大いに驚き、事情を聴いて左近尉を成敗しようとするが、北の方のとりなしで許す。その後花若が家を継ぎ、日暮の家は長く栄えたのである。

 後場、笹を立て鳴子・鞨鼓をつけた鳥追舟の作り物を出し、後シテ・子方・ワキツレの3人がこれに乗る(上図参照)。上述の大成版の前附で「秋季禾穀を啄む諸鳥を追い払う為畦堰に楼を設けて鼓を撃ち、或は水上に小舟を泛べて楽器を奏し、声を立てゝ害鳥を嚇す」と伝えられているとの記述もあり、またワキが「九州にてはこの鳥追舟こそ一つの見事にて候へ」などと言っているので、このような鳥追いが行われていたものであろうか。鹿児島本線の川内駅前が「鳥追町」と名付けられているが、実際に見事な鳥追の風習がその辺にあったのだろうか。あるいは〈謡〉の影響なのでしょうか。

 本曲は、憎まれ役のワキツレの左近尉がまた大役で、単にワキにつくワキツレでなく、ワキに対抗するワキツレであるだけに、ワキ方にこの二人の役が揃わないとなかなか演能されないようです。このワキツレの左近尉が、宝生(曲名は『鳥追』)・金剛・喜多の諸流ではワキになっており、逆にワキの日暮殿がワキツレとなっています。『千手』『蝉丸』『二人静』などのツレは、シテに匹敵し、よく〈両シテ〉扱いになりますが、この『鳥追舟』はワキ方にとっては〈両ワキ物〉といえるようです。
 右に掲げた番組は、平成13年7月22日、大濠公園能楽堂での〈能楽座・福岡公演〉のときのもので、日暮殿は福王茂十郎、左近尉が宝生閑の両師で、番組にワキ・ワキツレと明示せず人名のみの表示としたワキ方異流同士の合同上演であった。
 本曲の見どころ・謡いどころは、何といっても〈あれあれみよや~〉以下の「鳴子之段」であろう。



 JR川内駅前からスタートして、上述の碑文にあった「鳥追の杜(とりおいのもり)」「日暮岡(ひぐらしのおか)」「母合橋(ははあいばし)」を巡ってまいりました。


《鳥追の杜》

 川内駅の北西、歩いて2、3分のところに、薩摩川内市の指定文化財に指定されている「鳥追の杜」があります。“杜”とはいうものの、10メートル四方程度の、木立の緑に囲まれた公園のような一角でした。
 以下は正面に掲げられた「鳥追の杜」の解説です。

 昔、日暮岡に「日暮長左衛門」という長者が住んでいた。長者の家臣横淵左近尉は、奸策をもって奥方柳御前を離別させ、その後に左近尉と通じたお熊を入れた。長者には柳御前との間にお北と花若の二人の子どもがいた。やがて訴訟のため長者は都に上って長いj間帰らなかった。
 その留守中左近尉とお熊は、二人の子どもたちを虐待し、姉弟を鳥追舟に乗せ、太皷を叩いて毎日水田の水鳥を負わせた。姉弟は人目を忍んで母合の渡しで川を挟んで、母の柳御前と対面した。連日の虐待に耐えかねた姉弟は身をはかなんで平佐川に身を投げた。村人たちはこれをあわれみ、この地に塚を建て、ねんごろにその霊を弔った。
 謡曲の「鳥追」は、この伝説にちなんだものである。
  水鳥を追ひし跡とて名もくちず のこるしるしのもりの一むら


鳥追の杜


 中央付近に、正面に「鳥追杜」と刻された石碑が建てられています。
 左面に「水鳥を追ひし跡とて名もくちず
 右面に「のこるしるしの茂里の一むら
 裏面には「弘化四年四月 北郷松翁誌之」と刻されています。ちなみに弘化4年は1847年、北郷松翁については不詳です。


「鳥追杜」の碑


 史蹟のほぼ中央あたり、「鳥追社」の後方に、観音像や灯籠、それと古びた石碑群が並んでいます。
 観音像は首の周りが補強されている様子ですが、かつて請われたものを補修したのでしょうか。
 鳥追伝説では、日暮長者の子どもは入水して亡くなりますが、それを哀れんだ村人たちがこの観音像を造り、子どもの霊を弔ったとされています。


観音像

石像群


 片隅に謡曲史蹟保存会の駒札が建てられています。かなりほこりにまみれ、所どころ修正された跡のある駒札でした。市の文化財に指定されているのですから、教育委員会などの手で、もう少し手入れをしてほしいものです。

 謡曲「鳥追舟」は、薩摩国に伝わる巷説をもとに、家人の虐待に対する主人の妻子の忍従を描いた人情物である。
 日暮某は訴訟のために上京し、十余年も帰国できなかった。留守を預かる家人の左近尉は主人の妻子を労役に酷使していた。
 折から勝訴して家路を急ぐ主人は、その途次で鳥追舟に乗り身の不運を嘆きつつ稲穂に群がる鳥を追って鞨鼓を打つ妻子に対面する。家人の不徳義を怒り斬ろうとするが、妻に宥められて罪を許したという物語である。
 涙をおさえながら田の村取りを追う妻子のあわれさを強調して表現された曲である。
 鳥追の杜は、日暮伝説の地で日暮長者の愛児を葬った所と伝えられる。後世、愛惜した村人は観音像を安置して冥福を祈った。謡本では無事解決し末永く栄えたとされている。



謡曲史蹟保存会の駒札

ここは「鳥追町」


《日暮の岡》

 「鳥追の杜」の南方、平佐川の向こうに小高い山が見えますが、これが「日暮の岡」で、日暮長者の屋敷跡があるそうです。
 平佐川にかかるのが「日暮橋」で、日暮長者に由来する命名でしょう。


日暮橋

「ひぐらしばし」


 日暮橋を渡ったところに福昌寺があります。本来は鹿児島市の池之上町にあった寺で、歴代島津氏の菩提寺として広大な寺でしたが、明治の廃仏毀釈により廃絶、その後明治31年に当地に再建されました。門前の仁王石像は文化財に指定されています。当時の後方の茂みが「日暮の岡」です。


福昌寺

日暮の岡への階段


 川内小学校を半周すると、校庭の南側に「護国神社」への参道の石段があり、同時に「日暮長者の屋敷跡」へも続いている模様です。階段の上には「招魂」の扁額のある鳥居があり、その左手には土俵があります。土俵は、かつては学校の授業や課外活動などにつかわれたものでしょうが、すでに使用され亡くなって久しい感があります。
 土俵の奥に一段高くなった石組があり、ここには蛤御門の変(1864年)から太平洋戦争に至る戦没者の霊を祀る数基の石碑が建てられていました。


「日暮長者の屋敷跡」案内板

招魂塚・忠魂碑


 さて、肝心の長者屋敷の跡ですが、ここから先の道が見当たりません。探せはけもの道のようなものはあるのでしょうが、知らぬ土地で無理をして危険を冒すこともなかろうと、ここから先の探訪はあきらめた次第です。


《母合橋》

 「母合橋」は、日暮の岡の西方約1キロのところ、隅之城川が川内川に合流する手前に架かっています。橋の欄干には舟に乗り水鳥を追う絵が施されています。


鳥追の図


 欄干に「鳥追」の場面が描かれていますので、謡曲の謡いどころ・聴きどころである「鳴子之段」を以下に。


子方「あれあれ見よや  シテよその船にも
「打つつづみ。討つ鼓。空に鳴子の群雀むらすずめ。追ふ聲を立て添へさて。何時いつも太鼓はとうとうと風の打つや夕波の。花若はなわかよ悲しくとも追へや追へや水鳥。いとせめて。戀しき時はたまの。夜の衣をうち返し。夢にも見るやとて。まどろめばよしなや夜寒よさむの砧つとかや
シテうらみは日々に増れども
「怨みは日々に増れども。あはれとだにも言う人の。涙の數そへて。思ひ乱れて我が心。しどろしどろに鳴る鼓の。すぢなき拍子とも人や聞くらん恥かしや
シテ「家を離れて三五さんごの月の
くまなき影とても待ち怨み永久とことはに。心の闇はまだ晴れず
シテ「すはすは群鳥むらとり
稲葉いなばの雲に立ち去りぬ。また何時か逢坂あふさかの。木綿附鳥いふつけどりか別れの聲.鼓太鼓。うち連れてなほもいざや追はうよ


 橋のたもとに母合橋の伝承を記した説明板と、お北と花若の像が刻まれた石碑が建てられています。
 鳥追の杜の記述と一部重複しますが、以下に鳥追の伝承を転載します。

 ここは「母逢いの渡し」と呼ばれ、この地にまつわる伝説が室町時代の謡曲「鳥追舟」となり、江戸時代の「三国名勝図会」の「日暮の里」にも残されています。
 昔、日暮の岡に「日暮長左衛門」という長者と、奥方柳御前、お北と花若の二人の姉弟が幸福な日々を送っていましたが、長者は家臣のたくらみによって柳御前と離婚させられ、家臣と通じたお熊と結婚しました。その後、長者は土地問題で都に上って長い間留守にしました。
 そこで家臣とお熊は残された姉弟を虐待し、鳥追舟に乗せ、太皷を叩かせ、毎日水田の鳥を追わせました。姉弟は人目を忍んでこの母逢いの渡しで川を挟んで、母の柳御前と逢って共に涙を流していたという悲話の込められた地です。
 平成元年に架けられた現在の橋の親柱・欄干には、鳥追舟に関する場面がデザインされています。


母合橋

由緒書きと石碑


 姉弟の絵は逆光であったため、残念ながら鮮明に撮影することが出来ませんでした。左側に建つやや細長い石像が姉の「お北」、右の石像が弟の「花若」の図です。


お北の像

花若の像

 以下の図は、橋の親柱のレリーフです。どちらも隅之城川を挟んで対面する、母と姉弟を描いています。


 

 

 

 


 謡蹟探訪も終了し、「鳥追舟」の像のある駅前ロータリーに帰ってきました。駅前の喫茶で冷たい飲み物で咽をうるおし、九州新幹線で帰路につきました。

 謡曲の詞章に関して、いささか“あらさがし”のようで恐縮ですが、謡曲では、左近尉が北の方に「殿はこの秋の頃、御下向あるべき由申し候」と告げており、日暮殿が帰国することが解っていたようです。それにもかかわらず、北の方と花若を舟に乗せ鳥を追わせたのは何故か。そして日暮殿の帰国と相まって、あやうく手打ちにされる羽目になりました。そこまで危険を冒して鳥を追わねばならなかったのでしょうか。左近尉一生の不覚と言えましょう。いっそのこと謡曲の詞章から、この詞を削除しておけばよかったのではないかと思っています。




 謡曲の先頭頁へ
 謡蹟の先頭頁へ
  (令和元年 8月 3日・探訪)
(令和元年 8月19日・記述)


inserted by FC2 system