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豊前・和布刈神社 〈和布刈〉


 2019年10月16日、北九州市門司区の和布刈神社に耀興『和布刈』の謡蹟を訪ね、関門トンネル(人道)で対岸の下関に渡り、壇ノ浦の古戦場址から赤間神社に参拝しました。

和布刈神社訪問地図


   早鞆の潮薙(しおな)の藻に和布刈(めか)るかな  雲屏(うんぺい)
 その年の、旧暦元旦は二月七日に当たった。
 その前夜、午後十一時ごろから、門司市内のバスが臨時に動いて、しきりと、客を北西の方にある和布刈岬に運んだ。霙でも降りそうな寒い晩だった。
 バスは三十分かかって狭い海岸通りを走り、海峡へ少し突き出た岬で客を降ろした。岬は関門海峡の九州側の突端である。
  (中略)
 バスは鳥居の傍で止まった。客はぞろぞろと鳥居をくぐってゆく。境内では数ヶ所に篝火が焚かれていた。寒い晩のことだし、篝火の周囲には群衆がいくつもの輪を描いていた。境内のすぐ前は、暗い海だった。対岸に灯があるが、これは下関側の壇ノ浦だった。
 海峡は狭い。夜目にも潮の流れの速いことがわかった。海というよりも大きな河と錯覚しそうだった。
 社は和布刈神社といった。

 松本清張の長編推理小説『時間の習俗』の書き出しの一部です。
 神奈川県の相模湖畔での殺人事件の容疑者には、和布刈神社で行われた新年の神事を見物し、カメラに収めていたというアリバイがあった。この完璧すぎるアリバイに逆に不審を持った刑事が、試行錯誤を繰返しながら巧妙なトリックを解明してゆく……、という作品です。


 この日はJR鹿児島本線で門司港に降り立ち、市内の郵便局を数局廻り、国道の関門トンネルの門司入口を横目に見て、和布刈神社への道を急ぎます。道がノーフォーク広場の方に左折する角に和布刈神社の一ノ鳥居がそびえ、背後に関門橋自動車道が望めました。
 ノーフォーク広場で海峡を眺めながら一休み。ここから北上すると、すぐに和布刈神社の門柱が見えてきました。


和布刈神社一ノ鳥居

ノーフォーク広場から門司港方面を眺める


和布刈神社門柱


《和布刈神社》  北九州市門司区門司3492

 以下は和布刈神社社のサイトによる由緒書きです。

 和布刈神社は、九州の最北端に鎮座する神社で、関門海峡に面して社殿が立つ。社伝によると仲哀天皇九年( 200年頃)神功皇后三韓より御凱旋され、御報賽の思召をもって御創建された。古くは「速戸社」や「隼人明神」「早鞆明神」と称され、文化6年(1809年)に和布刈神社となり、足利尊氏、大内義隆などにより社殿が建造されたといわれる。江戸時代に、細川忠興が豊前の大名として入国すると、和布刈神社など五社を祈願所として定めた。その後、小倉藩主となった小笠原氏からの崇拝も篤かった。
 本殿は、三間社流造の銅板葺で、明和四年 (1767)小倉藩四代藩主の小笠原忠総により健立された。
 拝殿は明治中期頃の建造で、装飾が多く、屋根に千鳥破風や唐破風を設けた賑やかな造りとなっている。
 境内には細川忠興、小笠原氏が寄進した石灯籠などが、航海の無事を守るように立っている。
 比賣大神(ひめおおかみ)、日子穂々手見命(ひこほほてみのみこと)、鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)、豊玉日賣命(とよたまひめのみこと)、安曇磯良神(あずみいそらのかみ)の五柱の神を祭神とする。


社殿前の鳥居と磐座

社務所前の巨石、磐座か?


 社の境内は、海際の狭いスペースにぺったりと張り付くように細長い形状になっているようです。見上げると関門橋が真上を走っており、古代と近代が交錯したような感があります。
 社殿の手前に鳥居が立ち、その右手には注連縄が張られた巨岩があります。いわゆる「磐座」です。当社はかつて巨石信仰の場であったのでしょうか。入場した時には見過ごしていましたが、社務所の前にも注連縄が張られた巨石がありました。これも「磐座」なのでしょうか。



社殿

御朱印


 社殿の前には鳥居が建ち、海に降りる石段が続いています。ここで神事が行われるようです。北九州市教育委員会による説明書きが社殿の前に建てられています。以下は、そのうちの“和布刈神事”に関する記述です。

 この神社には古くから和布刈神事が伝えられていますが、李部王記によれば、和銅3年( 710)に和布刈神事のわかめを朝廷に献上したとの記録があり、奈良時代から行われていたものです。
 神事は、毎年旧暦大晦日の深夜から元旦にかけての干潮時に行われます。3人の神職がそれぞれ松明、手桶、鎌を持って海に入り、わかめを刈り採って、神前に供えます。
 わかめは、万物に先んじて、芽をだし自然に繁茂するため、幸福を招くといわれ、新年の与祝行事として昔から重んじられてきたものです。
 神事のうち、わかめを採る行事は、県の無形文化財に、また、当神社に伝存する中世文書9通は、市の有形文化財に指定されています。


社殿前の鳥居の先には海中に続く石段が…


ここで和布刈神事が行われる

和布刈神事
(平成10.1.28 毎日新聞夕刊)



 ここで和布刈神事をテーマとした謡曲『和布刈』について眺めてみましょう。


   謡曲「和布刈」梗概
 作者は金春禅竹。和布刈伝説や『古事記』『日本書紀』による。
 和布刈神事については、後世の書ではあるが、江戸時代中期の寛保年間に出版された『諸国里人談』(作者は菊岡米山)に「豊前国門司関早鞆明神の宮前は海なり。これに石の階あり。(中略)毎年十二月晦日の子過ぎ丑の刻の間に、社人宮殿の宝剣を胸に当てて石階を下りて海中に入る。その時潮左右へ颯と開けり。海底の和布を一鎌刈りて帰るなり。(中略)その刻限の前半時ばかり浪大に立ちて海荒し。海底に入らむずると思ふ頃暫く浪静まりて、また前のごとく半時が程は海荒るるなり。云々」とある。(大成版前附より)
 また火々出見尊(ほほでみのみこと)と豊玉姫(とよたまひめ)については『古事記』『日本書紀』などに所見があるから、本曲は和布刈の神事とこれらの神話を素材として作られたものであろう。
 以下は「謡曲『和布刈』と和布神事」と題した、謡曲史蹟保存会の駒札による。

 ここ和布刈神社では、毎年十二月晦日寅の刻(午前4時)に神官が海中に入って水底の和布を刈り、神前に供える神事がある。
 今日はその当日なので、神職の者がその用意をしていると、漁翁(竜神)と海士女(天女)とが神前に参り「海底の波風の荒い時でも、和布刈の御神事の時には龍神が平坦な海路をお作りなさるから出来るのである」と、新徳をたたえて立ち去った。
 やがて竜女が現れて舞い、沖から竜神も現れて波を退け、海底は平穏になった。神主が海に入って和布を刈り終わると波は元の如くになり、竜神は竜宮に飛んで入る。
 神前へ御供えの後、最も早い方法で朝廷へ奉じられた。史実に現れたのが元明天皇和銅3年ですので、それ以前神社創建時より御供えとして用うる為、神事が行われていたと思われます。

 大小前に置いた一畳台の上に小宮の作り物を出し、早鞆神社の神殿を表わす。最後の場面で、狩衣の両袖を上げ左手に松明、右手に鎌を持ったワキの神主が、和布を刈る型が入る。こうした演出は脇能としては珍しい例である。
 和布刈神事に合わせて、クリ・サシ・クセで火々出見尊と豊玉姫の神話を挿入しているが、この両者を扱った作品には『玉井』がある。


 以下は、謡曲の最後・キリの部分、竜神が登場し、ワキの神主が和布を刈り採る場面です。


「龍神すなはち現れて。龍神乃ち現れて
後シテ「和布刈の所の。水底みなそこ穿うが  地「拂ふや潮瀬しほせに。こゆるぎの磯菜いそなつむ  シテ「めざしらすな。沖にれ波  地「沖に居れ波と夕汐いふしお退しりぞけ.屏風を立てたる如くに別れて。海底のいさごは。平々へいへいたり 〈舞働〉
ワキ「神主松明たいまつ。振り立てゝ
「神主松明振り立てて。御鎌みかまを持つて。岩間をつたひ。傳ひ下つて。半町ばかりの和布を刈り。歸り給へば程なく跡に。しほさし満ちて。もとの如く。荒海となつて。波白妙の。渡津海わたづみわだの原。天のひたし。雲のなみ煙の。波風海上に収まれば。波風海上に収まれば。蛇體じやたいは。竜宮に飛んでぞ。入りにける



 謡曲の世界から現実に戻り、境内を探索いたします。

 境内には多くの文学碑が見受けられました。
 社殿の左手には、高浜虚子の句碑、松本清張の文学碑が建てられています。
 虚子句碑、
   夏潮の今退く平家亡ぶ時も
 昭和16年(1941)に門司を訪れた際に詠んだ句碑で、昭和31年に建立されたもの。

 清張文學碑、
   神官の着ている
   白い装束だけが火を受けて、
   こよなく清浄に見えた。
   この俊寛、時間も、空間も
   古代に帰ったように思われた。
      「時間の習俗」


虚子句碑、松本清張文学碑

宗祇、久保晴句碑


 赤い鳥居の建ち並ぶ早鞆稲荷社の左手に、宗祇の句碑がありました。
   舟みえて霜も追門(せと)こすあらしかな
 室町時代の連歌師飯尾宗祇は、文明12年(1480)9月、滞在中の周防の大名大内政弘のところから太宰府天満宮の参詣へ旅立ちました。この旅の途中で平家一門の菩提を弔っている阿弥陀寺(現在の赤間神宮―下関市)に立ち寄り、連歌の会で詠んだ句を詠んだ句です。句碑は大正4年(1915)の建立。

 宗祇の句碑の手前に、久保晴の句碑があります。
   和布刈火や転(うた)た傾く峡(かい)の海
 久保晴は本名久恒定吉。明治31年(1898)現在の豊前市に生まれる。この句碑は昭和25年(1950)に建立されたもの。


海葬の遥拝所

関門トンネル入口前の鳥居


 当社では海に散骨する、いわゆる「海葬」を執り行うようです。門司港より出港し、巌流島付近で散骨し帰港します。境内には海葬の遥拝所も設けられていました。

 社を後にして少し坂を上ると、関門トンネルの人道入口があります。その前方に、関門橋を背にした鳥居がそびえ立って下りました。


関門トンネル人道入口(門司側)

下関側から和布刈神社を眺める


 関門トンネルはおよそ800メートルほど。上部が車道、下部が人道の二重構造になっています。エレベーターで60メートルほど下降して、海底の県境を越えれば山口県は下関市のみもすそ川公園に到着します。下関側から海峡越しに和布刈神社を眺めながら、赤間神社に参拝いたしました。




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  (令和元年10月16日・探訪)
(令和2年 1月17日・記述)


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