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長門・壇ノ浦古戦場 〈碇潜〉


壇ノ浦古戦場界隈地図


 2019年10月19日、和布刈神社に『和布刈』の謡蹟を訪ね、関門トンネルの海底歩道を利用して下関に到着しました。
 人道トンネルのエレベーターを出ると、すぐそこは関門海峡に面した「みもすそ川公園」で、源義経と平知盛の像が旅人を迎えてくれます。公園前の海は関門海峡の一番狭まったところで「早鞆の瀬戸」といわれ、潮の流れが速く、潮流の変化が激しい海の難所です。この海域が「壇ノ浦の古戦場」で、最後の源平合戦の地になるのでしょう。


源義経と平知盛像


 源義経・平知盛二雄の像は、義経が能登守教経と戦った際の“八艘跳び”の姿、知盛が錨を戴き入水する“碇潜(いかりかづき)”の姿で描かれています。
 謡曲でも、この知盛が錨を頭上に担いで入水する最期を描いた作品として『碇潜』があります。謡曲において、義経の“八艘跳び”は前段のシテの〈語り〉で、知盛の“碇潜”は〈キリ〉で、それぞれ描かれています。それでは『碇潜』について。


   謡曲「碇潜」梗概
 作者は不明。『平家物語』『源平盛衰記』に典拠する。観世流、金剛流二流のみの現行曲。


 平家にゆかりのある都の僧が、壇の浦で亡びた平家一門の菩提を弔うため、早鞆の浦に来ると、折からやってきた漁翁の船に乗せてもらう。老人は壇の浦の合戦のありさま、中でも能登守教経が九郎義経を狙って奮戦したが果たせず、源氏の兵を両脇に挟んで入水する最期をを語り、僧の回向を乞うて消え失せた。
 その夜、僧が平家一門の跡を弔っていると、知盛の亡霊が現われ、修羅道に堕ちた今でも、源氏の兵と戦っているとの有様を見せた後、碇を戴いて海底に飛び入る悲愴な最期を再現する。


 本曲には、戦国時代の能作者であった金春禅鳳の筆になる古い台本の転写本が残っている。それによると前半に安芸太郎、次郎とおぼしきツレが2人出る。後半には安徳天皇(子方)二位尼、大納言局(ツレ)が登場し、舞台には大屋形船、碇の作り物が出され、詞章も大幅に変わる。壇ノ浦の悲劇をよりリアルに描く演出で、舞台装置も大がかりで華やかになるため人気が高く、たびたび復活上演されている。小書の「船出之習(ふなだしのならい)」はこの古演出の流れを引く演出で、前ツレや子方は登場しないが、基本的には同内容となっている。
 なお、2010年~19年の10年間で『碇潜』は16回演じられているが、「船出之習」の〈小書〉で6回、「禅鳳本」による演出が7回となっており、派手で大衆受けをする演出が採用されていると思われる。
 後場に知盛の霊が登場する曲としては、他に『船弁慶』があり、後シテの出で立ちはほぼ同装である。


 義経の“八艘跳び”を描いたシテの〈語り〉と、知盛の“碇潜”を描く〈キリ〉を以下に。
 先ず、前段のシテの〈語り〉です。ここでは能登守教経の活躍が描かれています。


シテ 語「さてもこの壇乃浦の合戦かせん。いまはかうよと見えし時。門脇かどわき殿の次男。能登の守教經のりつね小船しやうせんに取り乘り。大長刀を茎長くきながに取り延べ。此處彼處かしこを薙ぎ給ふにぞ。つはもの多く亡びにけり。その時新中納言使者を立て。せんなき能登殿の振舞ふるまひかな。さればとてよきかたきにてもあらばこそとのたまひければ。さてはこの言葉は。大将と組めと云ふことにやあるらんとて。敵の船にまぎれ入り。九郎判官を尋ね給ふ
如何いかがはしたりけん判官の船に乘り移りぬ
シテ「能登殿喜び打つて懸る
f判官これを見て。判官これをみて。かなはじとや思ひけん。長刀なぎなた脇にかい挾んで。二丈にじやうばかりの味方の船に。ゆらりと飛び乘れば。敎經のりつねはせん方もなく。長刀投げ捨て後見送りていかりをなしてぞ立たりける


 続いて〈キリ〉の知盛の最期の場面です。


修羅しゆらの戦ひ始まれば。源氏の軍兵ぐんびやうその數浮かみて.かの御座船ござぶねには目もかけず。たゞ兵船ひやうせんにぞかゝりける

シテ「平家の公達きんだち艫舳ともえにまはり
平家の公達艫舳に立ち渡り矢先を揃へ。切先きつさきを竝べて寄せ來るかたきを待ちかけたり。中にも知盛進み出でゝ。大長刀を茎長くきながに取り延べ.左を薙ぎてはみぎりを拂ひ。多くのかたきを亡ぼしけるが。今はこれまで沈まんとて。鎧二領にりやうに兜ふたはね。なほもその身を重くなさんと。遥かなる沖の。いかりの大綱えいやえいやと引き上げて。兜の上に。碇をいただき兜の上に。碇を戴きて。海底に飛んでぞ。入りにける



 本曲では、知盛が錨を戴いて入水するように描かれています。また『大原御幸』でも、シテ(建礼門院)の〈語リ〉で、

新中納言知盛は。沖なる船の碇を引き上げ。兜とやらんに戴き。傅子の家長が弓と弓とを取り交はし。そのまゝ海に入りにけり。

と本曲同様、碇を戴いて入水する記述になっています。ところが『平家物語』では「内侍所の都入の事」において、

 新中納言知盛の卿は、「見るべき程の事をば見つ。今はたゞ自害せん」とて、乳母子の伊賀平内左衛門家長を召して、「日來の契約をば違ふまじきか」と宣へば、「さる事候とて、中納言殿にも、鎧二領着せ奉り、我が身も二領着て、手に手を取り組み、一所に海にぞ入り給ふ。

と、碇は全く登場していません。ただし「能登殿最期の事」では、

 さる程に、門脇の平中納言敎盛、修理大夫經盛、兄弟手に手を取り組み、鎧の上に碇を負うて、海にぞ沈み給ひける。

と、こちらは碇を頭上に戴いていますので、これを知盛の最期に取り入れたのかも知れません。


 冒頭から謡曲談義になってしまいました。みもすそ川公園を散策いたしましょう。
 謡曲関連の史跡としては、「安徳帝御入水之処」の碑や「壇の浦古戦場址」の碑が建てられています。



安徳帝御入水之処の碑

壇の浦古戦場址の碑


 


 「壇の浦古戦場址」の碑には、赤間神宮所蔵の「安徳天皇縁起絵図」から、「壇の浦合戦」と「安徳天皇御入水」の図が描かれています。
 「安徳帝御入水之処」の碑には、二位の尼の辞世、

  今ぞ知るみもすそ川の御ながれ波の下にもみやこありとは

が刻まれています。
 この歌は、長門本平家物語には登場しているとのことですが、流布本などには記載がありません。
 本曲の小書「船出之習」にはこの歌からの引用はありませんが、『大原御幸』では最期の御製としてこの歌を引用しています。

又。十念の御為に西に向はせえはしまし  シテ今ぞ知る  地御裳濯川の流れには。波の底にも都ありとはと。これを最期の御製にて。千尋の底に入り給ふ

 『平家物語』には見えぬようですが、『源平盛衰記』には以下のように述べられています。

先帝は八にぞ成らせ給ひける。 (中略) 御心迷ひたる御氣色にて、こはいづくへ行くべきぞと仰せられけるこそ悲しけれ。二位殿は兵(つはもの)共が御船に矢を進(まゐ)らせ候へば、別の御舟へ御幸なし進らせ候とて、
  今ぞ知る御裳濯河の流れには浪の下にも都ありとは
と宣ひもはてず海に入り給ひければ、八條殿同じくつゞきて入り給ひにけり。

 みもすそ川は伊勢神宮の傍を流れる五十鈴川の別名で、清盛をはじめ平家は伊勢平氏の流れを汲んでいます。それ故の“みもすぞ川”であり、またこの歌から“みもすぞ川”と命名されたとのことですが、果たして如何なものでしょうか。


御裳川石柱

御裳川


みもすそ川は、この場所で関門海峡に注ぐ小さな川だったようですが、現在の河口は暗渠になって公園と国道の下に隠れているとのことです。公園の真ん中に朱塗りの橋があるのをいぶかしく思ったのですが、この橋の下をみもすそ川が流れているのでしょう。

 謡曲とは関係ありませんが、ここ「みもすそ川公園」には馬関戦争にまつわる記念碑や長州砲のレプリカが展示されています。下関港周辺は、古くは「赤間関(あかまがせき)」と呼ばれており、これを赤馬関とも書いたことから、これを略した「馬関」という別名も用いられていました。
 「馬関開港百年記念」の碑は、昭和39年9月に、馬関開港百年を記念して建立されたもので、以下は碑文です。

一八六三年六月二十五日(文久三・五・一〇)以来、長州藩は、この沿岸一帯に砲台を築き、海峡を通る外国艦船にしばしば砲撃を加えた。
これにより、翌年九月五日(元治元・八・五)十七隻の艦船からなるイギリス・フランス・オランダ・アメリカの四国連合艦隊は前田・壇之浦をはじめ下関一帯を砲撃した。
戦いは八日にいたって終り、十四日「止戦講和」が成立、海峡通行の安全、馬関港出入の自由が約束された。
これは下関が海外に向って港を開くに至る第一歩であった。
流れ来たり、流れ去る早靹の急潮とともに、一世紀の、時が流れた。
今ここに当時を回想し、新たな思い出をもってこのゆかりの地に碑を建て永に記念する

 要は馬関戦争で四国連合に破れて開港させられた、ということですから、「馬関開港記念」というのは如何なものか、とふと余計なことを考えてしまいました。
 ただこの事件を契機に、長州藩は列強に対する武力での攘夷を放棄し、海外から新知識や技術を積極的に導入し、軍備軍制を近代化することになります。さらに薩摩藩と薩長同盟を締結して、共に倒幕への道を進むことになったわけですから、この馬関戦争の歴史的意義は大きかったといえるでしょう。


馬関開港百年記念の碑

長州砲のレプリカ


 「馬関開港百年記念」の碑の左手には、5基の八十斤長州砲が設置されており、そのならびにある四阿の中に小型の天保製長州砲のレプリカが展示されています。以下は「八十斤加農砲(カノン砲)」の説明です。

 文久3年(1863)5月から6月にかけて、長州藩は関門海峡を通る外国船を5回にわたって砲撃しました(攘夷戦)。翌年8月、アメリカ・イギリス・フランス・オランダの四国連合艦隊17隻が報復のため下関にやってきました。海峡の最も狭い所に築かれたこの壇之浦砲台は、前田砲台と共に重要な役割を果たしましたが、連合艦隊に大敗し、すべての砲台が占領・破壊されました。外国の進んだ軍備にめざめた長州藩は、開国・倒幕へと転換し、明治維新を実現する原動力となりました。
 長州藩の主力となった加農砲(カノン砲)は青銅製の大砲で、球形の弾丸を発射し、目標を打ち抜いて損害を与えるものでしたが、連合艦隊の新しい大砲は距離・威力ともにはるかにすぐれたものでした。
 この大砲は、幕末に数多くの大砲を鋳造していた長州藩の安尾家に伝わる20分の1の模型(下関市立長府博物館蔵)を参考に、原寸大に復元したレプリカ(FRP製)です。砲身に刻まれた文字は、パリのアンヴァリッド軍事博物館が所蔵している、これとほぼ同型の長州製青銅砲の砲身を模刻しています。

 幕末に想いを馳せながら公園を散策していますと、一個師団の観光客が出現、中国からのお客さんのようです。近づくとそのかまびすしいこと。そうそうに公園を辞し、安徳帝を祀る赤間神宮へと向かいました。



《赤間神宮》  下関市阿弥陀寺町4-1

赤間神宮境内案内地図



 石段を上ると正面に太鼓楼、右手に鮮やかな朱塗りの竜宮城を思わせる水天門、左手に安徳天皇を祀る御陵が静かにたたずんでいます。
 安徳天皇は第81代の天皇。在位は治承4年(1180)~寿永4年(1185)。高倉天皇の第一皇子で、母は平清盛の娘の徳子(後の建礼門院)。
 寿永2年、源義仲の入京に伴い、平家一門は都を後に西国に逃れます。この後、元暦元年(1184)に後鳥羽天皇が即位し史上初めて同時に二人の天皇が擁立されることになりました。(平家方は“元暦”の年号を用いず、“寿永”を引き続き使用していた。)


赤間神宮全景

安徳天皇陵


 安徳天皇陵は、色鮮やかな(どちらかと言うとけばけばしい)水天門に対し、静謐な感のたたずまいが印象的です。
 建久2年(1191)、時の後鳥羽天皇の命により、壇ノ浦を望むこの地に御影堂が建立されます。当初は阿弥陀寺と称し、安徳天皇の霊を慰めるお寺で、勅願寺でした。明治維新後の神仏分離令により阿弥陀寺を廃し赤間神宮となりました。それ故、この御陵は正式には“安徳天皇阿弥陀寺陵”と呼ぶそうです。


水天門と太鼓楼


 水天門は特異な形式と鮮やかな色調で、関門海峡のシンボルとなっているようです。「水天門記」によれば、明治天皇の皇后・昭憲皇太后より賜った御製、
   今も猶袖こそぬるれわたつ海の龍のみやこのみゆきおもへば
にちなんで、昭和32年(1957)に竜宮城をイメージして造営され、翌年、昭和天皇・皇后両陛下が通り初めをされました。この行幸のおり陛下は「赤間神宮並びに安徳天皇阿弥陀寺陵に詣でて」と題して、
   みなそこにしつみたまひし遠つ祖をかなしとそ思ふ書見るたひに
なる御製を残されています。



拝殿

御朱印


 壇ノ浦の戦いで、幼くして亡くなった安徳天皇をお祀りしています。以下 Wikipedia によれば、
 前身は貞観元年( 859)に開闢の阿弥陀寺で、建久2年(1191)勅命により御影堂が建立され、以後、勅願寺として崇敬を受ける。明治の神仏分離により阿弥陀寺は廃され、神社となって「天皇社」と改称した。歴代天皇陵の治定の終了後、安徳天皇陵は多くの伝承地の中からこの安徳天皇社の境内が明治22年(1889)7月25日、「擬陵」として公式に治定された。天皇社は明治8年(1875)10月7日、赤間宮に改称し、官幣中社に列格した。昭和15年(1940)8月1日、官幣大社に昇格し赤間神宮に改称した。



水天供養塔

桐山漁翁・西尾其桃句碑


 拝殿の左に、2基の大きな十三重の石塔が建てられています。以下はその由来です。

 安徳天皇は御位のまま御入水され、水天皇・水天宮と申し上げます。
 吾が国民は天皇の御守護のもと斯く永らへ安心して冥黙も出来ます。同時に亦国民同胞の中に或は海難に水難にと幾多の水没者の方々は即ち水天皇さまの御膝元に冥りたく、此の石塔の台石下に幾多の小石に名を留めて納められています。
 人は名を留める事に依り安心を得るもので即ち是を水天供養塔と申します。

 供養塔と芳一堂の間に、其桃と漁翁の2基の句碑がありました。其桃は西尾其桃。大正期から昭和初期にかけて、下関で医師としても活躍した山口を代表する俳人です。漁翁については不詳。

   神も跡垂れてちとせに月かなし   其桃
   黄桜に及ぼす神の光かな   漁翁


芳一堂


 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の『怪談(Kwaidan)』の巻頭を飾るのが「耳なし芳一の話」(THE STORY OF MIMI-NASHI-HOICHI)で、赤間ヶ関阿弥陀寺に住む盲目の琵琶法師に、平家の亡霊が取り付くというものです。芳一堂は昭和32年に建立されました。その名の通り、山口県防府市出身の彫刻家、押田政夫氏の芳一像が祀られています。毎年7月15日には、芳一堂と七盛塚を会場にして『耳なし芳一まつり』が催行されています。


七盛塚

高浜虚子句碑


 芳一堂の隣には土塀で囲まれて、平家一門の墓があります。
 平家一門の墓は、関ヶ原合戦の頃(1600年前後)、関門海峡で頻発する海難事故から「平家の怨霊が騒ぎ出した」と世間が騒ぎ、周囲の墓標を集めて建てられたといわれています。平教盛、知盛、経盛、教経、資盛、清経、有盛、盛継、従二位尼など平家一門の霊が祀られています。彦島にある平清盛と合わせて盛の付く武将が7人いるので七盛塚と呼ばれているそうです。
 土塀の前には高浜虚子の句碑が建てられています。

   七盛の墓包み降る椎の露   虚子

 昭和3年に高浜虚子が下関を訪れた際に詠んだもの。「ホトトギス」の下関同人らの手により、昭和30年に10月にこの句の句碑が七盛塚の前に建てられました。



 最後に『碇潜』にちなんだ川柳を少々。

判官これを見て。敵はじとや思ひけん。長刀脇にかい挾んで。二丈ばかりの味方の船に。ゆらりと飛び乘れば。敎經はせんかたもなく。長刀投げ捨て後見送りて怒りをなしてぞ立つたりける

  義経は八艘とんでべかこをし (柳多留拾遺 五・22)
 義経の八艘とびを詠んだもの。八艘とんで「ここまでおいで」と言わんばかりに、義経が教経に“べっかんこ”をしただろう、と源平合戦を子供のけんかのようにあつかったものです。

かかりける處に。安藝の太郎同じき次郎。二艘のふねを押し寄せ.能登の守とぞ戦ひける  シテものものしおのれ等に  地太刀も刀もいるまじや。いざや冥途の供に連れんと左右の腕をさし出し。彼等を掴んで引き寄せて。左右の脇に挾んだ波の底に沈みけり

  教経の入水あぶくが三つ出る (柳多留拾遺 六・5)
 能登守教経の最期を扱ったものです。教経はもはや最期と覚悟して、かかって来た安芸兄弟を両手につかまえたまま「死出の山の供をせよ」と海へとび込みます。海面の波紋の中に三人分の呼吸があぶくとなって浮いて来たはずだ、と教経の悲愴な最期を漫画化した奇抜な句ですね。

新中納言知盛。二位殿に向ひ宣ふやう。今はこれまで候。御傷はしながら行幸を。波の底になし参らせ。一門供奉し申すべしと  クセ涙を抑へて宣へば。

  一門はどぶりどぶりと奏聞し (柳多留 一・17)
 壇の浦の戦いで平家の一門が次々と海へ身を投ずるのを、先に二位の尼に抱かれて海底の都へ赴かれた安徳帝に、敗戦の模様を奏聞する、と表現したものです。




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  (令和元年10月16日・探訪)
(令和2年 1月25日・記述)


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