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和州・當麻寺 〈当麻〉


 2020年11月5日および17日の両日、奈良県葛城市の當麻寺と石光寺に中将姫伝説の地を訪れました。

 近鉄南大阪線の当麻寺駅で下車、西に向って歩きますと、国道 165号線の交差点の手前に、相撲の始祖として知られる當麻蹶速(たいまのけはや)の塚と伝えられている五輪塔がありました。
 「相撲開祖當麻蹶速の塚」と題する銘版があり、その記述によれば、当麻蹴速は大和国の当麻に住み、強力を誇って生死を問わない勝負をする者を欲していたため、これを聞いた垂仁天皇が出雲国から勇士であると評判の野見宿禰(のみのすくね)を召し寄せて対戦させたところ、互いに蹴り合った後に、あばら骨を折られて死んだといわれています。「蹴速」という名前は、蹴り技の名手であったことを示すために名付けられたそうです。


當麻蹶速の塚

當麻蹶速の像


 国道を渡り10分ほど歩き當麻寺に到着しました。



當麻寺周辺地図



《當麻寺》  奈良県葛城市當麻1263

 両側に民家が立ち並ぶ参道の突き当りにそびえ立つような仁王門をくぐると、當麻寺の広大な境内が拡がっています。


仁王門(東大門)


當麻寺境内案内図


 案内板に葛城市観光協会による当寺の由緒書きがありましたので、以下に転載します。

 當麻の名を知らせる名刹で、二上山のこんもりとした樹影を背景に静かなたたずまいを見せています。用明天皇の皇子麻呂子王が、推古天皇二十年(612)に河内に建てた万宝蔵院に始まり、その後天武天皇白鳳十一年(681)に、麻呂子王の孫當麻国見が現在地に移して、この地方の豪族當麻氏の氏寺として整備したと伝えられています。
 金堂、講堂が南北一直線に並び、金堂の南方両側に東西二つの三重塔が建ち、さらに本堂、薬師堂、仁王門などが独特の伽藍配置で建ちならんでいます。とくに古代に建立された東西両塔が完備している姿は、全国でも當麻寺だけとして有名です。
 宗旨としては、初め三論宗を奉じていましたが、弘法大師が参籠してから真言宗にかわり、鎌倉時代には浄土宗の霊場ともなり、囲碁現在まで真言浄土の二宗を併立し、八ヶ寺の塔頭(寺院)よりなる珍しいかたちになっています。
 また本堂にある弥勒仏坐像や日本最古の梵鐘をはじめ数多くの貴重な寺宝を今に伝えており、国宝・重要文化財に指定されているものも少なくありません。
 ボタンの名所としても有名で、四月中旬より境内にはボタンの花が咲き誇り、落ち着いた雰囲気に色を添えています。
 四月十四日には中将姫ゆかりの“練供養”が行われ、全国から集まった参詣者たちで境内は大変なにぎわいとなります。

 以下に境内の主な構築物を拾ってみました。

 仁王門を入った正面左、中之坊の手前の鐘楼に保管されている梵鐘は国宝に指定されています。
 制作年代や作られた背景などは不明ですが、奈良時代前半の白鳳期に作られたもので、當麻寺の創建当初のものと考えられています。


鐘楼

金堂


 金堂は重要文化財に指定されており、本尊の塑造弥勒仏坐像(国宝、白鳳時代)、乾漆四天王立像(重文、白鳳・鎌倉時代)などを安置しています。
 平安末期の治承4年(1180)平重衡の南都焼討の兵火で破損したため、寿永3年(1184)に再興し、正中3年(1326)に修理されています。
 通常、金堂といえば寺院創建当初の本尊仏を祀った建物を指しますが、当寺の場合は、創建当初の本尊仏である弥勒菩薩を安置する仏堂を「金堂」と称するのに対し、後に建造された、當麻曼荼羅のある曼荼羅堂を「本堂」と呼称しています。これは時代の変遷のなかで信仰対象の中心が変化し、のちに当該寺院の中心的な施設となった建物を「本堂」と称して、両者を使い分けるようになったもので、室生寺でも「金堂」と「本堂」が別個に存在しています。


講堂

中将姫の像


 金堂の北側に建つ講堂は、治承4年(1180)の南都焼討の兵火で焼失し、鎌倉時代の乾元2年(1303)に再建されています。内陣には、本尊阿弥陀如来像(重文、藤原時代)を中心に、妙幢菩薩(重文、弘仁時代)などの諸仏が安置されています。
 本堂前の広場にある池には、中将姫の像が建てられています。


弘法大師堂

北門(黒門)


 本堂の北側には弘法大師を祀る大師堂が、また講堂の北には奥之院への参拝入口である北門(黒門)があります。


 金堂と講堂の奥(西側)に、東を正面にして本堂が建っています。曼荼羅堂とも呼ばれる本堂は、曼荼羅信仰の中心となっている堂宇で、内陣には須弥壇上に高さ約5メートルの厨子(国宝)を置き、本尊の當麻曼荼羅(国宝、天平時代)が安置されています。


本堂(曼荼羅堂)

ご朱印


 當麻寺はもともと弥勒仏の寺として創建されたのですが、中世以降は當麻曼荼羅の寺として親しまれるようになりました。この當麻曼荼羅は奈良時代に成立したもので、その謂われとして中将姫伝説が伝わっています。

 さて“曼荼羅”ですが、私は四国八十八ヶ所を巡拝し、この言葉を耳がタコになるほど聞いたり、また見たりしましたが、未だにそれが何なのか理解できておりません。付け焼刃的ではありますが、当寺のサイトでは以下のように述べられています。

 曼荼羅とはサンスクリット語の音写で、仏法の境地や世界観を視覚的・象徴的に表したもので、主に仏画でそれを表した「金剛界曼荼羅」「胎蔵曼荼羅」が“両部の曼荼羅”として知られています。仏教は唯一神や絶対仏を説きません。「真言宗は大日如来が絶対仏」と誤解される方もありますがそうではありません。「金剛界曼荼羅」「胎蔵曼荼羅」では、たくさんの仏菩薩たちが大日如来さまを中心にそれぞれの役割・はたらきをもってお互いに支え合い、補い合っています。これを「相互礼拝」「相互供養」といい、それが完成された調和の世界を「密厳浄土」とお呼びします。そしてその「密厳浄土」をこの世で実現しようというのが「マンダラの教え」なのです。

ということのようなのですが、どうもよく解りません。解らぬままに解ったような顔をすれば、「曼荼羅とは仏様の世界における大相撲の番付のようなもの」と申せば…、仏罰が当たること必定でしょうね。
 ただ、当寺のいわゆる“當麻曼荼羅”は、密教でいう曼荼羅とは若干異なるようです。中将姫伝説にある蓮糸曼荼羅と言われる根本曼荼羅の図像に基づいて作られた浄土曼荼羅の総称であって、学術的には「阿弥陀浄土変相図」または「観経変相図」と称するもので(「変相」とは浄土のありさまを絵画や彫刻として視覚化したもの)、阿弥陀如来の住する西方極楽浄土のありさまを描いたものであり、密教の胎蔵界・金剛界の両界曼荼羅とは関係がないようです。
 當麻曼荼羅の原本については、中将姫が蓮の糸を用い一夜で織り上げたという伝説があります。それでは、當麻曼荼羅と中将姫伝説、および中将姫と謡曲の関わりについて考察したいと思います。



《中将姫伝説》

 中将姫は伝説上の人物で、その生涯については鎌倉時代の『當麻寺縁起絵巻』の詞書に記されています。後の世になって芝居や浄瑠璃、謡曲(『当麻』『雲雀山』)などの題材となり、徳川時代になると非常にもてはやされるようになりました。
 伝承の内容は、中将姫が継母から虐げられても、これを恨んだり憎んだりすることなく、ただ一筋に仏の道に精進し、弥陀と観世音の加護を得て一夜にして當麻曼荼羅を五色の蓮糸で織りあげるというものです。以下 Wikipedia および當麻寺のサイトにより、中将姫の生涯を眺めてみます。

 藤原鎌足の曾孫、右大臣藤原豊成とその妻の紫の前の間には長い間子どもが出来ず、桜井の長谷寺の観音に祈願し、中将姫を授かる。しかし、母親は姫が5歳の時に世を去り、6歳の時に豊成は、照夜の前を後妻とした。中将姫は美貌と才能に恵まれ、9歳の時には孝謙天皇に召し出され、百官の前で琴を演奏し、賞賛を受ける。しかし、当初は問題がなかった継母と姫の関係であるが、とあるきっかけで照夜の前は中将姫を恨むようになった。
 姫が14歳の頃、照夜の前は中将姫に対する恨みを一層強くして、豊成卿の留守に嘉藤太という配下に命じて姫の殺害を企てた。嘉藤太は姫を屋敷から連れ出し、一行は宇陀の雲雀山に向かい、そこで姫を殺害しようとする。けれども命乞いをせず、極楽浄土へ召されることをのみを祈り、読経を続ける中将姫を殺める事が出来ず、密かに雲雀山の青蓮寺へと隠す。
 翌年、狩りに出かけた豊成卿と中将姫は雲雀山で再会を果たし、密かに姫を屋敷に戻した。
 天平宝字7年(763年)、16歳の時、淳仁天皇より後宮へ入るように望まれるがこれを辞し、その後、二上山の山麓にある當麻寺へ入り尼となり、法如という戒名を授かる。仏行に励んで、徳によって仏の助力を得て、一夜で蓮糸で『當麻曼荼羅』を織ったとされている。宝亀6年(775年)春、29歳で入滅。阿弥陀如来を始めとする二十五菩薩が来迎され、生きたまま西方極楽浄土へ向かったとされる。

 中将姫伝説は謡曲の題材となっています。伝説のの前半、継子いじめを扱った作品が『雲雀山』で、後半の當麻曼荼羅に関わる作品が『当麻』です。
 当寺は後半の當麻曼荼羅をテーマとした『当麻』関連の地ですが、『雲雀山』についても簡単に触れてみたいと思います。



   謡曲「雲雀山」梗概
 世阿弥作とも言われるが作者は未詳。本曲あるいは『当麻』のいづれかを、古く『中将姫』と称した可能性がある。

 横佩(よこはぎ)右大臣豊成(ワキ)はある人の讒言を信じて、息女の中将姫(子方)を大和と紀伊との境にある雲雀山にやり、殺させようとした。しかし命を受けた家来は殺すに忍びず、山中に廬を作って密かに姫を匿い、乳母(シテ)が草花を売って姫を養っていた。
 ある日、豊成が鷹狩りに雲雀山に赴くと、里に下る乳母と遭遇する。乳母は豊成に花を勧め、舞を舞ってみせる。豊成はこの女が姫の乳母であることを知り、呼びとめて姫のことを尋ね、親子は再会し、豊成は姫を奈良の都に伴い帰るのである。

 この曲は世阿弥時代にすでに演じられていました。『申楽談儀』に、「『くわんどう誤って』(クセ前、シテのサシ謡「款冬誤って暮春の風に綻び」)のところを訛らせてはならぬ。喜阿などは達者にまかせ時々訛ったところだが、真似をするものではない」(水野聡訳『現代語訳・申楽談義』檜書店、2015)と語っています。喜阿弥は世阿弥の父の観阿弥にとっても好敵手と言われるほどの人物で、世阿弥にとっても大先輩であったようです。



 中将姫伝説の前半、いわゆる継子いじめを扱ったものが『雲雀山』ですが、後半の當麻曼荼羅をテーマとした作品が『当麻』です。
 以下に『当麻』について考察したいと思います。


   謡曲「当麻」梗概
 世阿弥作。『當麻寺曼荼羅縁起』『古今著聞集』などに拠る。中将姫伝説の後半・當麻曼荼羅をテーマとした作品である。

 念仏の行者が當麻寺に参拝すると、杖をついた老尼が若い女を伴って現れる。行者の問いに答え、老尼は付近の名所を教え、當麻の曼荼羅にまつわる物語を詳しく語り、自らは古の化尼(けに)と化女(けじょ)であると名のり、紫雲に乗って昇天した。

 夜に入り、経巻を手にした中将姫の精魂が現れ、浄土信仰によって極楽に生まれたことを告げ、舞を舞い、後夜の励行をなすと見て、僧の夢は醒めた。
 本曲の前シテは、信心深い中将姫の目前に表れた化尼ですが、実は阿弥陀如来の化身で、曼荼羅製作の由来を物語ります。本曲と同じく阿弥陀信仰をテーマにした女能に『誓願寺』があります。シテは和泉式部の霊で、舞事は“太鼓序之舞”ですが、『当麻』は“早舞”を舞います。“早舞”は切能物の舞事で、面白く舞うことを主眼としています。『当麻』の前シテは老尼なので、老女物に準じて重く扱われますので、“早舞”は少し不自然なようにも思われます。

 観世流には「乏佐之走(ぼさのかけり)」という小書があります。これは後シテに“早舞”を舞わせる無理を避けて“立廻リ”とするものです。「乏佐」は菩薩の当て字で、法要の中の声明では「菩薩」を「ボサ」と唱える例が多い(『般若心経』で「観世音菩薩」を「カンゼオンボサ」と唱える、など)のでこう名付けたものでしょう。また「走」は「カケリ」で、舞事のすべてを内容の区別なしに「カケリ」と呼ぶ習慣があったために、こう名付けられたのです。
 実は『誓願寺』にも同名の小書があり、囃子も所作も含めて全く同じ内容です。三番目物と切能物に同名同内容の小書があるという、ごく珍しい例です。(「横道万里雄『能にも演出がある』2007、檜書店」より)


 上記「梗概」で本曲と『誓願寺』に同名の小書「乏佐之走」があることを述べましたが、もう一つワキに関して共通点があります。
 本曲のワキは〈名ノリ〉で単に「念仏の行者」とのみ名のっていますが、三熊野に参詣したのち大和路の當麻寺を訪れます。『誓願寺』のワキは「念仏の行者一遍」と一遍上人であることを明らかにし、やはり三熊野に参籠したのち上洛しています。このことから判断して、本曲『当麻』のワキは“一遍上人”であると断じてもよいのではないでしょうか。

 『当麻』のクリ、サシ、クセは、當麻曼荼羅の縁起を説き、中将姫の大願が叶って阿弥陀如来の尊容を目の当たりにした次第が謡われています。以下にクリ~クセの詞章を掲載します。


クリ 地「そもそもこの當麻たえま曼荼羅まんだらと申すは。人皇にんわう四十七代のみかど廢帝はいたい天皇の御宇ぎようかとよ。横佩よこはぎの右大臣豊成とよなりと申しゝ人
サシ シテ「その御息女おんそくじよ中将姫。この山にこもり給ひつゝ
稱讃しやうさん浄土經じやうどきやう。毎日讀誦どくじゆし給ひしが。心中しんぢうに誓ひ給ふやう。願はくは生身しやうじんの弥陀来迎らいかうあつて。我に拜まれおはしませと。一心不乱に観念くわんねんし給ふ


シテ「然らずは畢命ひつみやうとして
「この草庵を出でじと誓って。一向いつかうに念佛三昧さんまいじやうに入り給ふ
クセ「所は山陰やまかげの。松吹く風もすずしくて。さながら夏を忘れ水の。音もたえだえに。心耳しんにを澄ます夜もすがら。称名しようみやう。観念の床の上。坐禅ざぜん圓月ゑんげつの窓の内。寥々れうれうとある折節に。一人の老尼らうに忽然こつぜんと来たりたたずめり。これは如何なる人やらんと。尋ねさせ給ひしに。老尼答へてのたまはく。誰とはなどや愚かなり。呼べばこそ来りたれと。仰せせれける程に。中将姫はあきれつゝ
シテ「我は誰をか呼子鳥よぶこどり
「たづきも知らぬ山中に。聲立つる事とては。南無阿弥陀の称へならで又他事たじもなきものをと。答させ給ひしに。それこそ我が名なれ聲をしるべに来たれりと。のたまへば姫君もさてはこのぐわん成就して。生身しやうじんの弥陀如来。来迎の時節よと。感涙かんるい肝に銘じつゝ。綺羅衣きらえの御袖も。しほるばかりに.見え給ふ


 戦時中に軍部より横槍が入って、謡曲の〈天皇〉に係わる不適切な詞章の変更を余儀なくされたことは、別項にも述べておりますが、本曲にもそれに該当する部分があります。
 現行本にある「廃帝天皇」が、戦前の大成版では削除されています。廃帝天皇は47代の淳仁天皇のことで、藤原仲麻呂の乱に連座して廃され、淡路に流されその地で崩御されました。諡号は明治時代になってから付けられたもので、長らく天皇の一人と認められず、廃帝(はいたい)または淡路廃帝と呼ばれていました。陵墓は兵庫県南あわじ市賀集の淡路陵ですが、明治になって京都の白峯宮に崇徳上皇とともに合祀されました。


現行の大成版一番本

戦前の大成版五番綴本

 謡曲の世界から現実に立ち返り、再び境内を散策いたしましょう。


《中之坊》

 先ず、當麻寺を代表する塔頭の一つである“中之坊”の拝観です。以下は当寺パンフレットに記された中之坊の略縁起です。

 當麻寺が開創された際、役行者は金堂前にて熊野権現を勧請し、その出現した場所に自身の道場を開いた。奈良時代には、當麻寺別当・実雅がその道場を住房とし「中院」を開創。以来、中院は代々當麻寺別当(住職)の住房として受け継がれ、その後「中院御坊」と尊称された。これが現在の「中之坊」である。弘仁年間には、弘法大師が中之坊実弁を弟子として真言密教を伝え、以後、當麻寺は真言宗の霊場となった。
 當麻寺には平安時代に40余房、江戸時代にも31房の僧坊があったと記録されるが、中之坊はこれらの筆頭寺院として、當麻寺内で最も古い祈願所と高い寺格を伝えている。
 庭園、書院、霊宝殿など数々の寺宝を残すほか、「導き観音」の信仰が篤い祈願所として、また、写仏によって中将姫の教えを体感する霊場としても親しまれている。


中之坊拝観略図

中之坊拝観入口

 中之坊の山門をくぐって、右手にあるのが本堂で、中将姫が剃髪した授戒堂と伝えられています。桃山時代の再建で、中将姫の守り本尊である十一面観音を刻み本尊としており、「導き観音」と呼ばれています。
 中将姫剃髪堂の左手には稲荷社が鎮座しています。中之坊の鎮守社で豊穣の神である豊受大神が祀られています。


本堂・中将姫剃髪堂

稲荷社


 稲荷社の奥には、茶の湯に欠かせない茶筌を供養するための茶筌塚が建てられています。昭和11年に建立されたもので、「茶筌塚」の碑文は東京美術学校(現・東京芸大)校長の正木直彦氏の揮毫になります。
 裏には、裏千家元千宗室宗匠が茶筌塚のために詠まれた「愛でられて末ははかなく散る桜」の句が刻まれています。
 さらにその奥には、宇都野研の歌碑が建てられています。
   ゆきもよひに大和はくれれて西あかり ふたかみ山のまつのさびしき
 宇都野研は、愛知県出身、大正~昭和時代前期の歌人。東京帝国大学卒。はじめ佐佐木信綱に、のち窪田空穂に師事する。


茶筌塚

宇都野研歌碑


 書院の裏手には庭園が拡がっています。香藕園(こうぐうえん)と名づけられたこの庭園は、後西天皇(在位1654~63年)をお迎えするために、片桐石州侯によって整備・造営されたもので、借景として三重塔が見事に映え、「心」字を象った池にその影を落としています。


東塔

香藕園


中将姫誓願桜


 香藕園の入口近くに「中将姫誓願桜」が植えられていました。岐阜市大洞にある願成寺に咲く、天然記念物「中将姫誓願桜」の二世とのことです。以下、駒札の説明書きによります。

 奈良時代、中将姫さまが美濃国に旅された時、病にかかって苦しまれたが、観音さまに祈願したところたちまたに平癒した。それを喜んだ中将姫さまが、願成寺境内に桜の木を植え、後世の女性の守護を祈願されたのが「中将姫誓願桜」であるという。
 平成29年2月、癌成寺および中将姫誓願桜保存会により、当園内に植樹された。全国に藻同種の桜は確認されていない、大変珍しい貴重な桜である。


香藕園kの紅葉

折口信夫歌碑


 右手に東塔を見上げながら、香藕園を抜けると牡丹園ですが、牡丹の季節は4月から5月にかけて。この時期は花の気配もありませんが、歌碑や句碑が拝観者を迎えてくれます。
 釈迢空歌碑。
   ねりくやうすぎてしづまる寺のには はたとせまへをかくしつゝゐし
 歌人釈迢空こと折口信夫は、俗に「折口学」と称される、他に比類なき民俗学で知られる。
 氏は明治38年から翌年にかけての中学校を卒業する頃に、中之坊に滞在していたが、その20年前を回想して、昭和5年5月16日に詠んだものである。


佐藤佐太郎歌碑

阿波野青畝句碑


 佐藤佐太郎歌碑。
   白藤の花に群がる蜂の音 歩みさかりてその音はなし
 佐藤佐太郎は昭和期の歌人。斎藤茂吉に師事。アララギ派の写実主義を受け継ぎながらも、純粋短歌論に基づく抒情性に富んだ新しい歌風をきりひらく。作家活動のかたわら多くの優れた歌人を育成した。
 阿波野青畝句碑
   朝ぼらけ双つの塔と牡丹かな
 阿波野青畝は奈良県出身の俳人。高浜虚子に師事。昭和初期に山口誓子、高野素十、水原秋桜子ととも「ホトトギスの四S」と称された。



 中之坊を出てその北側にある“西南院”に参拝しました。当院は関西花の寺の第二十一番札所となっており、4月から5月にかけて、シャクナゲやボタンが参詣者の眼を楽しませてくれるようです。


《西南院》

 以下は当寺パンフレットに記された西南院の略縁起です。

 西南院は、當麻真人国見が、麻呂子親王によって草創された万法蔵院を、白鳳12年、百済の恵灌僧正を導師に迎え、當麻寺として遷造した時、坤(裏鬼門)の守り寺院として創建されたのが始まりである。その後、弘仁14年に弘法大師が当院に留錫し曼荼羅堂において「いろは歌」を御想念された。この時より真言宗となり、法灯は守り続けられ、人々の篤い信仰を集めている。



西南院拝観略図

西南院山門

 西南院の山門を入ると、一面の牡丹園が広がっていますが、残念ながらこの時節は、切り込まれて春を待つわびしい姿でありました。
 書院に沿った西側の突き当りに本堂があり、本尊の十一面観音や聖観音、千手観音が祀られています。朱印は、かつて「関西花の寺」巡りの際に頂戴したものです。


本堂

花の寺ご朱印

 書院西はずれの狭い通路を抜けると、庭園が拡がり水琴窟があります。みはらし台に上ると庭園越しに西塔と東塔が眺められます。さらに上ると小祠があり脳天仏を祀られています。脳天仏は首より上の願いが成就するとのこと。


みはらし台から西塔と東塔を望む

庭園


脳天仏

 東西両塔は奥之院からも見渡すことが出来ます。東西2基の塔が創建当時から現存するのは當麻寺だけとのこと。以下は、当寺パンフレットからの抜粋です。
 東西両塔は、金堂より南東の東塔と、南西の西塔の2基が、山にせまった小高い丘陵に対照的に建てられ、村はずれからも望むことができる美しい三重塔である。
 白鳳~天平時代の伽藍配置で、金堂より塔が高いところにあるのは異例である。様式上、東塔は天平、西塔は平安初期とみられる。建立年代に諸説はあるが、東西両塔が揃って残る唯一の古代伽藍で、その貴重さは多言を要しない。
 東塔は、初重のみ3間とし、二重、三重は2間にしている。相輪は、通常の9輪が8輪しかない変わった形式で、魚骨形のような特異の水煙の意匠で知られている。


国宝・當麻寺の東塔と
西塔に牡丹と二上山に
葛城市マスコットキャ
ラクター蓮花ちゃんを
描く長尾郵便局風景印

 西塔は、三重まで3間で、東塔に比べずんぐりしているが、量感を感じる。相輪は東塔と同様8輪で、華麗な唐草模様の水煙の意匠は優秀であり、古さも薬師寺東塔の水煙に次ぐ古い遺品である。

 長尾郵便局の風景印に、當麻寺の東塔と西塔が描かれています。



水琴窟

水琴窟のあたりから庭園を眺める


 小高い通路をたどり、庭園を一周し書院の反対側に到着、ここにも水琴窟があります。以下、パンフレットより庭園の説明です。

 西南院庭園は池泉回遊式庭園で、江戸初期に造られたものを、中期ごろ一音法師によって改造された。山すそを利用し、樹木を植え込み心字の池水を設け、中央に出島(亀島)、その東側に鶴島の石組を配す。西周は飛び石で回遊し、直線と曲線に打ち、庭全体の景観に役立てている。山すそより種々の樹木を植え、小・丸・段刈りなどを用いて自然的な景観を調え、その作風は、天平建築の粋たる斉藤を借敬とし、女性的な和らか味のある感覚を見せている。
 水琴窟は、江戸の庭師によって、文化文政のころ考案されたという。



 西南院を出て、最西端にある奥之院に参拝いたしました。


《奥之院》

 以下はパンフレットに記された奥之院の略縁起です。

 當麻寺境内最大規模の塔頭が奥之院である。奥之院は浄土宗総本山知恩院の奥之院として建立された。知恩院第12世誓阿普歡上人が知恩院の本尊として安置されていた法然上人像(重文)を、応安3年(1370)戦乱続く京都から後光厳天皇の勅許を得て当地に遷座し建立したことを始まりとする。爾来浄土宗の大和本山として多くの人々の信仰を集め、念仏流通の道場として護持継承されてきた。奥院は法然上人二十五霊場第9番札所となっている。


奥之院入口

奥之院ご朱印

 朱塗りの手摺りに導かれて、奥之院に入場します。階段を上りつめた正面には本堂が、その左手には阿弥陀堂が並んで建てられています。
 本堂は桃山時代の造立で重要文化財に指定されています。奥院創建の際、京都の知恩院からもたらされた円光大師法然上人坐像を本尊としており、祖師の姿を本尊としているので御影堂とも呼ばれます。「智恩教院、最福本尊」の扁額が掲げられています。


奥之院境内


 奥之院からも東西両塔を眺めることができます。
 朱塗りの楼門は江戸時代の建立で重要文化財に指定されています。奥之院の正門と思われますが、現在は通行できません。


奥之院からの2塔の眺望

楼門


 阿弥陀堂の裏手に、壮大な浄土庭園が拡がっています。以下は当寺パンフレット等による浄土庭園の説明です。

 楼門から西へ進みますと、石彫“くりから龍”を中心に現世を表現した渓流を右手に眺め、スロープをゆっくり上がっていくと浄土の世界が目前に広がります。阿弥陀如来像を中心に数多くの仏をあらわした石が並び、阿弥陀仏の姿を写す極楽の池"宝池"があり、ニ上山を背景に當麻の自然を存分に取り入れた年中楽しんでいただける浄土庭園です。
 浄土庭園の巨石は「太閤石」という石です。昔、豊臣秀吉公が大阪城を築城するにあたり、西国から巨石を集めました。浄土庭園の石はその産地の一つ、湯布院から運ばれたもので、由布岳(現在では湯布院では採石不可となっている)の溶岩が固まってできる特異な色・形を庭園に利用されています。

 浄土庭園の景色をカメラに収めましたので、以下に掲載します。


 

 

 

 

 

 

浄土庭園(パンフレットより)

 浄土庭園の風景を満喫し、當麻寺に別れを告げ、もう一カ所の中将姫伝説の地である石光寺に向かいました。
 當麻寺の北門(黒門)を出て、道なりに少し進むと、當麻寺北墓地があります。墓地のかかりに「中将姫の墓塔」が祀られています。


《當麻寺北墓地》

 「中将姫の墓塔」は花崗岩で造られた十三重塔で、高さが約3m、初重の四方仏は、軸部に縁をとった中に舟形を造って、そこに厚肉に彫出し、屋根は軒反りが強く、鎌倉時代末期の様式です。


 

 


二上山を背にした中将姫の墓塔


 また中将姫を祀った宝篋印塔は、「ならまち」の徳融寺(奈良市鳴川町)の境内にも、藤原豊成の塔と並んで建てられています。
 徳融寺のある辺りはもとは元興寺の境内、門前でした。また同時に藤原家ゆかりの興福寺からも近く、右大臣藤原豊成の邸宅があったとされることから、歴史が下るにつれて中将姫が生まれ育った地として知られるようになってきたのだと思われます。


 當麻寺から北に歩くこと十数分で、中将姫ゆかりの石光寺に到着します。


《石光寺》  奈良県葛城市染野387

 石光寺の縁起について、以下 Wikipedia によります。

 浄土宗の寺院。出土遺物等から飛鳥時代後期(白鳳期)の創建とみられる古寺で、中将姫伝説ゆかりの寺院である。
 役小角の開山と伝えられる。『元亨釈書』等に記載される縁起によれば、天智天皇(在位668〜671年)の時代、霊光を放つ大石が見つかり、天皇の勅命を受けてこの石に弥勒如来を彫らせ、堂宇を建立したのが始まりとされる。平成3年には弥勒堂改築に伴う発掘調査の結果、飛鳥時代後期(白鳳期)の石造如来坐像、瓦、塼仏が出土した。この時の発掘調査で、平面五間×四間の堂跡が検出され、前述の石仏はこの堂に安置されていたものとみられる。また、境内に飛鳥時代後期といわれる塔の心礎がある。


石光寺山門


 本堂に参拝し境内を見渡すと、牡丹などの切り株が一面に広がっています。作務衣姿の方が花木の手入れをなさっているので伺うと、ご住職でした。今は時季外れなので、寺務所も閉めているとのことであったが、納経をお願いすると、こころよく応じてくださいました。
 幾とおりかの朱印がありましたが、中将姫に関わるものを頂戴しました。また以前に「花の寺」のツアーで頂戴したものもあり、併せて掲載しておきます。


「中将姫」の御朱印

「花の寺」の御朱印

 山門をくぐった本堂の正面に、竹で囲われた砂山がありました。「想観の沙」というそうです。

 砂を「沙」と書くのは、お釈迦様が沐浴されたガンジス河の砂に例えているからです。阿弥陀経にはガンジスの沙の数ほどの教えきれない諸仏が、弥陀を信じ極楽往生を願う念仏の衆生を護念し給うくだりがあります。形は手前(山門より見て)が方形、後方が円形になっております。手前の方形は私たちの姿、世界をあらわしています。すなわち相対の世界、優劣の比較によって成る世界、執着の世界を意味します。そこには励み喜びがありますし反面、苦悩もあります。諸行無常、栄枯盛衰、どうにも「超えられない世界」であります。
 「方形」すなわち四角の物体は、一見強く、安定した形に見えますが、崩れやすく角も欠けやすいものです。私たちの姿をあらわします。
 「円形」すなわち球体は「超えた世界」覚りの世界及びを意味します。絶対の世界、壊れない世界です。柔軟に全てのことに対応できる智慧の姿です。
 残念ながら覚りを開こうという「菩提心」もなく能力もない凡夫は「弥陀の他力」を頼みに極楽浄土に「往生」させていただき、そこで覚らせていただくしか道はないのです。「想観の沙」は凡夫が「仏助けたまえ」とお念仏を申す姿です。また極楽で覚りを得て仏となった後、人の世に帰って苦しむ者を導く姿です。


本堂

想観の砂


 山門の右手に、中将姫の染の井と糸掛け桜を祀る小祠があり、中には姫の石像と、ガラスケースに入れられた桜の古木が祀られています。以下は同所に掲載されている「中将姫伝説」の説明書きです。従前の説明と若干重複しますが転載します。

 聖武天皇の御代に右大臣藤原豊成(藤原鎌足の曽々孫)の娘に中将姫という方がおられました。五歳にして母を亡くされ継母に育てられ、世にいう継子いじめにあわれ、ついに世をはかなんで十七歳の身で出家、當麻寺にこもられました。そして生身の弥陀を拝みたいと毎日毎夜念じておられるうちに、ある時霊感を得られ、蓮を集めてその茎から糸を撚りだし、ここの井戸水で洗い清め、傍らの桜の木(役行者が仏教興隆を願って植えられた木)に掛けて干されたところ、乾くに從って五色に染まりました。この糸で二人の化尼(観音・勢至両菩薩の化身)の助けで、一夜のうちに阿弥陀浄土図を織り上げられました。これが世にいう當麻曼荼羅です。それでこの井戸を「染の井」桜の木を「糸掛け桜」(ガラスケースの古木)と伝えられ、この寺を「染め寺」ともよばれるようになりました。


中将姫染の井

 謡曲では、當麻寺を訪れた僧が、そこに現れた老尼に寺の謂れを訊ねます。以下はその問答ですが、この詞章では當麻寺と石光寺との位置関係がはっきりしません。


ワキ「いかにこれなる方々かたがたに尋ね申すべき事の候
シテ何事なにごとにて候ぞ
ワキ「これはの當麻たえま御寺おんてらにて候か
シテ「さん候當麻たえまの御寺とも申し。また當麻寺たうまじとも申し候
ツレ「又これなる池ははすの糸を。すすぎて清めしその故に。染殿そめどのの井とも申すとかや
シテ「あれは當麻寺たうまじ
ツレ「これは染寺そめどでら
シテ「又この池は染殿そめどの
シテ・ツレ「色々様々所々ところどころの。のり見佛けんぶつ聞法もんぱうありとも。それをもいさや白糸しらいとの。たゞ一筋ひとすぢぞ一心不乱に南無阿弥陀佛
ワキ「げにありがたき人の言葉。すなはちこれこそ弥陀一教いちけうなれ。さて又これなる花桜。常の色には變りつゝ。これも故ある寶樹はうじゆと見えたり
ツレ「げによく御覧じけられたり。あれこそはすの糸を染めて
ツレけてされし桜木さくらぎの。華も心のある故に。はちすの色に咲くとも言へり
ワキ「なかなかなるべしもとよりも。草木さうもく國土成佛の。色香いろかに染める花心の
シテのりうるほたね添へて
ワキ「濁りにまぬはすの糸を
シテすすぎて清めし人の心の
ワキ「迷ひをすは
ワキ緋桜ひざくら
上歌 地「色はえて。懸けしはちす糸桜いとざくら。懸けし蓮の糸桜。花の錦の經緯たてぬきに。雲の絶間たえまに.晴れ曇る雪も碧も.くれなゐも。たゞ一聲ひとこゑに誘はんや西吹く秋の.風ならん西吹く秋の風ならん


 上記の詞章には「染寺」や「染殿の井」などが登場しているのですが、當麻寺と石光寺の関連がよく分かりません。辞解では「染殿の井・染寺」について「當麻寺より四町余の所に染寺(石光寺)があり、染殿の井はその門前にある」とされています。ところがワキの旅僧が到着したのは當麻寺で、そこに登場した老尼たちと問答をしています。したがって謡曲の詞章では、染寺は當麻寺内にある一つの塔頭のように描かれています。現在の地理を念頭に考えれは、謡曲に謡われている當麻寺と石光寺の位置関係はおかしいと思われますが、石光寺を取り上げると複雑になるので、謡曲では敢えて「染殿の井」や「染寺」が當麻寺の内にあるように描いたのかもしれません。

 境内の片隅に「石光寺染寺塔跡地の碑」が建てられていました。以下はその説明書きです。

わが国では他に例を見ないもので、三段のくりこみの既定部に、一直線に三つの穴が並ぶ。穴は舎利をおさめるためのもの。
天武九年(681)発願の本薬師寺東塔や養老二年(718)遷造の薬師寺西塔の心柱の礎石と同じ手法ではないかといわれるが、基底部の穴のあたりが画然として異なる。白鳳時代のもの。


石光寺染寺塔跡地の碑

釈迢空歌碑


 石光寺は「関西花の寺霊場」の第二十番札所となっており、境内はボタンやシャクヤクなどの花園となっていますが、この時期は切株ばかりで残念です。せめてもうひと月も遅ければ、寒牡丹にお目にかかれたかもしれません。
 ただ、境内のところどころには数多くの歌碑や句碑などを散見しました。けれども碑面の文字が読み取れなかったものが多く、残念なことをいたしました。内容の明確なものを以下に拾ってみました。

 本堂の前面にある、釈迢空歌碑。
   牡丹のつぼみいろたち来たる染井寺 にはもそともゝたゞみどりなる


与謝野晶子歌碑

与謝野鉄幹歌碑


 与謝野鉄幹、晶子夫妻の歌碑。
 先ず鉄幹の「時雨」。
   時雨ふる日はおもひいづ 当麻の里の染寺に
   ひともと枯れし柳の木 京の禁裏の広前に
   ぬれて踏みける 銀杏の葉
 続いて晶子の歌。
   初春や当麻の寺へ文かけば 奈良の都に住むここちする


皆吉爽雨句碑

別天楼句碑


 皆吉爽雨句碑。
   背山よりいまかも飛雪寒牡丹
 皆吉爽雨(みなよし そうう)は福井県出身の俳人、高浜虚子に師事。「山茶花」選者、「雪解」を創刊、主宰する。
 野田別天楼句碑。
   天平の盛りを見する牡丹かな
 野田別天楼(のだべってんろう)は岡山県出身。正岡子規の指導を受け『ホトトギス』などに投句。「倦鳥」同人として活躍しながら、川西和露などと古俳書の研究に取り組み、『芭蕉珍種百種』などを世に残した。

 前述しましたが、当寺の境内一面に展開される花園は、花の季節に訪れたならばただただ感嘆の一語に尽きるのではないかと思われます。また今回の参拝では果たせませんでしたが、花々の間にちりばめられた歌碑や句碑を観賞することも、充分に価値のあることと思われます。いつかまた再訪したいとの思いを胸に、当寺を後にいたしました。
 左手にたたずむ二上山に送られて、石光寺から最寄りの二上神社口駅までの20分ほどのハイキングを楽しんだ秋のひとときでした。




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  (令和 2年11月 5日、11月17日・探訪)
(令和 3年 1月17日・記述)


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